「井伊谷徳政令」の解説(浜松市地域遺産センター)より

井伊家を訪ねて

徳政令が出される条件とは? 借金帳消しという中世の荒業はパルプンテ!?

更新日:

「徳政」とは借金の帳消しである「債務破棄」と、土地の売買や貸借関係を無効にしたり軽減したりする「売却地の無償受戻し」を指します。

とりわけ戦国時代の場合は、
①天災による被害を受けた場合
②戦災による被害を受けた場合(「弓矢徳政」)
③領主が交代した場合(「代初めの徳政」)
④合戦に勝った場合(「戦勝祝いの徳政」)
に出されることが分かっております。

「井伊谷徳政令」は、史料が比較的多いことから、今川氏や井伊氏の研究者以外の研究者も早くから注目してきた事例なのですが、にもかかわらず、まだその全容も真相も判明していません。
というのも、従来の研究が「今川氏の権力が井伊領にどう浸透していったか」という権力者目線からの研究であり、「国衆・井伊氏」からの視点が欠けていたからだとされています。
※「井伊谷徳政令」:「永禄10年(1567年)から翌年にかけ、永禄9年に井伊谷一帯に発せられた今川氏「徳政令」の実現を求め、駿府(静岡市葵区)において展開された訴訟、および、それをうけての「徳政令」施行」(糟谷幸裕氏による定義)を指す

以下に「井伊谷徳政令」の「全容」と「真相」を一応書いておきます。
ただし「全容」は「仮説」であり、「真相」には諸説あり、いずれも未だ不明のままです。

【全容(仮説)】 永禄3年、「桶狭間の戦い」での井伊衆は全滅に近く、宗主・直盛をはじめ、兵のほとんどを失ったので、今川氏真は、三河・遠江国境に位置する軍事拠点である井伊領に「今川給人衆」を派遣した。「給人」とは、「知行を与えられた在地軍人」のことで、知行(領知)は、気賀と井伊領南部(刑部~祝田・瀬戸~都田)であった。

遠江国内では、国衆の寝返りが始まった。

・永禄5年 井伊直親が、徳川氏と内通して誅殺さる。
・永禄6年 井伊直平が、武田方に寝返った天野氏を誅殺しようとして討死する。(毒殺さる?)
・永禄7年 中野直由が、徳川方に寝返った飯尾氏を誅殺しようとして討死する。

合戦が続けば兵士(「半士半農」であり、農民でもあった)が死亡し、耕作者がいなくなって荒れ地となった土地は売りに出されると、銭主・瀬戸方久が買い集めた。

永徳8年、井伊家の男達がいなくなったので、女ではあるが次郎法師が井伊家嫡流であるので、地頭(領主)となることになった。
相次ぐ敗戦と戦後補償で、銭主・瀬戸方久に多額の借金をしていた井伊家は、次郎法師が地頭に就任する時、瀬戸方久に瀬戸村を与えることで返済に当てた。

この永徳8年夏、天災が井伊谷を襲う。
翌・永禄9年、井伊領の「今川給人衆」(瀬戸衆、都田衆。瀬戸や都田に居住する在村被官)は、井伊氏(次郎法師)に「徳政」を求める。
しかし、井伊主水佑(川手景隆)や銭主・瀬戸方久が反対したので、「今川給人衆」は、今川氏真に直訴した。

今川氏真は「井伊谷徳政令」を発布したが、「今川給人衆」が多く住む瀬戸方久の領地(瀬戸・祝田と都田の一部)には施行されなかった。
井伊領内で自分んちの村一帯だけに「徳政令」が施行されないことを知った瀬戸方久領の本百姓は、「ぜひ瀬戸方久領でも徳政の施行を」と祝田禰宜(祝田にある蜂前神社の宮司。金を貸したり、神社の門前で「祝田の市」を開いて儲けていた)に相談。
銭主(新興商人)・瀬戸方久の存在を煙たがっていた祝田禰宜は、井伊家家老・小野政次を通して、今川重臣(今川庶子家)・関口氏経に「徳政」の施行を申し込んだ。

関口氏経に「徳政」の施行を催促された領主・井伊直虎は、「百姓衆の直訴であれば致し方なし」と、保留していた瀬戸方久領の徳政令を施行した。

その結果、井伊直虎は地頭職を降ろされ、井伊領は今川直轄地となり、小野政次が領主(代官)にして井伊谷城主となった。瀬戸方久は、事前に今川氏真に安堵状を発給されていたので、事無きをえた。

【真相(諸説あり)】
①天災説:永禄8年の天災の救済を求めたとする説。
②戦災説:相次いだ戦いの救済を求めたとする説。
③領主交代説:過去の「井伊直虎=小野政次説」では、小野政次領主就任祝いの徳政とする。(現在は否定されたと言ってよい説)

他に、ドラマが採用した「井伊家を潰そうとして今川氏が徳政令を発布した」とする説や、「小野政次が領主になろうとして、本百姓の願いを利用したのが徳政令である」とする説(小野政次悪人説)もあります。

ドラマでは、「井伊谷徳政令」は「借金の帳消し」だとして、「井伊谷徳政令」が施行されると井伊家が潰れ、井伊領が今川直轄領になる仕組みを、小野政次が次のように、龍雲丸に説明しています。
博識の龍雲丸が「徳政令」について知らないわけがないのですが、難しい概念を文字で説明する小説と異なり、登場人物AがBに説明する形で解説するというのは、ドラマ特有の方法、お約束ですね☆

龍雲丸「徳政令?」
小野政次「『徳政令』とは、借金を帳消しにするものだ」
龍雲丸「ありがてぇ話じゃないですか?」
小野政次「だが、今川の命令でこやつが、民の借金を帳消しにすれば、こやつは代わりに井伊家に貸している金を取り立てる。返す金の無い井伊家は、銭の形に土地をこやつに差し出さねばならぬ。そうなれば、井伊は潰れたも同じ。今川は一兵も動かさず、井伊を直轄に出来るという筋書きだ」

匂坂直興から祝田禰宜への手紙(部分)蜂前神社文書(18・19コマ)

なお、この「井伊谷徳政令」で、関口氏経と祝田禰宜の連絡を担当したのが、奥山氏の家臣であった匂坂直興。

事を内密に進めたため、祝田禰宜への手紙で「百姓衆は我等精に入れ候事は、さほどは御存じ有るまじく候」(百姓衆は我等の努力など知らないでしょう)と愚痴をこぼしています。まさにその通りで、頑張ったのに、ドラマには登場しませんでした。祝田禰宜もですが。

※今回、関口氏経の寝所は祝田禰宜(創建時は八田氏。後に萩原氏と荻原氏。現在は、近藤家家臣の石埜氏)の屋敷でしょう。井伊氏居館には泊まり辛いでしょうが、小野屋敷に泊まらないということは、小野政次は「尼と同じ穴の狢」と疑われているからでしょう。

──この匂坂直興の祝田禰宜への手紙で気になる事がある。

「徳政の事、済まし候て、関越より御状並びに井次へ一つ、家中衆へ一つ、これを遣し候。(中略)其の地、雑説の由に候間、取り鎮めて候て仰せ付けられ候様に小但へ申されべく候」(徳政の件は決着したので、関口越後守氏経から祝田禰宜へこの書状、同内容の書状を井伊次郎直虎へ1通、井伊家家中衆へ1通、別に送ります。(中略)そちらでは、「雑説が広まっているので、鎮めるように」と関口越後守氏経に言われました。そう小野但馬守政次に伝えて下さい。)

①なぜ、同じ内容の書状を宗主・井伊直虎と家臣・家中衆へ出さないといけないのか? 宗主だけで十分であろう。それでも送るというのは、学者によれば宗主・井伊直虎(親今川)と家臣・家中衆(親徳川)の分裂・対立としか考えられないとのこと。

②鎮めるべき「雑説」(様々な意見)とは何か? 私は、「小野但馬守政次と秘密裏に進めている「井伊谷徳政」の裏側について漏れて、いろいろな噂が飛び交っていること」だと考えていますが、学者は「本文ではなく、追伸として書かれていること」から、「井伊谷徳政令」とは直接関係ない話であって、「宗主・井伊直虎(親今川)と家臣・家中衆(親徳川)との分裂・対立のこと」とか、「井伊家家臣の中に今川を離れ、徳川か武田に寝返った方が良いという意見をする者がいること」だと推測しておられます。

※ドラマでは、親徳川の井伊直親の遺志を継いだ井伊直虎は親徳川であるが、「井伊谷徳政令」を分析すると、井伊直虎は、家臣同様、親徳川ではなく、親今川だったと考えざるを得ないという。なお、この問題の検討には、井伊直虎の正体が、井伊直盛の娘(ドラマでは親徳川)なのか、関口氏経の息子(親今川)なのかという問題が絡んでくるため、すぐには結論を出せない。

 

第30話「潰されざる者」 あらすじ

──太守様、大方様が言い残されました例の井伊の件はいかがいたしましょうか?(by 関口氏経)

──進めよ。(by 今川氏真)

瀬戸方久は、駿府へやって来た。
今川氏真が言うには、新しい蔵を建ててもよいが、それには条件があるという。その条件とは、

──「井伊谷徳政令」の施行に賛成すること

であった。

「徳政令」とは「買い取った土地の返却」のことであるから、買い取った瀬戸方久は不満であるが、今川氏真から「瀬戸方久が買い取った土地については徳政の対象外とする」という「安堵状」をいただけたので承諾した。

この「井伊谷徳政令」の全容や真相については、上述のように、多くの学者が注目しているにも関わらず、未だに解明されていない。ドラマでは「将来、逆心するであろう井伊家を潰せ」という寿桂尼の遺志に基づいた「死の帳面」(デスノート)作戦だという。「死せる寿桂尼、生ける井伊家を滅ぼす」ってか。(井伊直虎と小野政次の二心は見抜けたものの、将来、「井伊谷三人衆」が徳川方へ寝返りることは見抜けなかったようですね。)

さすがに井伊直虎を、井伊直満や水野忠勝のように誅殺することは出来ない。

なぜなら、「私と同じ考えの女性は、主家が傾けば、主家を替える」という寿桂尼の「女の直感」が根拠であり、井伊直満や水野忠勝の誅殺の時のように証拠(他家との内通を示す書状)がないからである。井伊直虎は、庵原朝昌に言わせれば、駿府でも評判の女城主であり、今川忠臣であることを、木材を取り戻し、駿府今川館に積み上げたことで、今川家臣にもアピールしている。しかも、気賀を戦うこと無く手に入れ、井伊谷と堀川の2城の城主となったやり手である。

そんな有名人を証拠も無く誅殺したら、今川からの離反者が一気に増えてしまう。そこで、井伊直虎を排除する方法として考えたのが、「徳政令」であった。

──回りくどい。

私が寿桂尼なら、「そなたが我が娘であればと、ずっと思うておりました」なんて言うだけではなく、今川氏真の側室になるよう命令してるよ。今川家は名門だけど、井伊家は藤原氏。井伊家も名門だよ。

私が今川氏真なら、井伊直虎を新野(御前崎市)へ追いやって、井伊領を今川直轄領にするけどね。井伊衆の多くは戦死しているので、移封(配置換え)に対する反発は少ないと思うよ。新野は新野親矩の若い嫡子が治めているわけで、「いろいろ教えてやれ」とか、「新野親矩に受けた恩の恩返しをせよ」とか言って新野に追いやる。新野は徳川領とも武田領とも接していないから、内通はしにくいよ。

──井伊家は潰されてしまうのか? それとも、タイトル通り、潰されないのか?

「死の帳面」(デスノート)作戦で困るのは、まずは井伊家である。潰れてしまう。

次に困るのは関口氏経でしょう。井伊領が今川直轄地になり、今川の役人が入って帳簿を調べれば、気賀での収益金が今川氏真に内緒で関口氏経に流れていることがバレてしまうから。関口氏経が味方してくれれば・・・という期待があったが・・・その一縷の望みは、消えた。最近、井伊に味方する発言をしていた関口氏経であったが、

──直ちに徳政を行うという誓詞をしたためられよ。長逗留するつもりはない故、明日までにの。(by 関口氏経)

と、今回は冷たかった。(気賀が今川直轄領になっても、瀬戸方久が代官となって、不正はバレないのかな?)

井伊直虎は、小野政次と碁を打ちながら、テレパシーで語り合った。

井伊直虎「もし、井伊が徳政を受け入れれば」
小野政次「井伊は潰され、今川の直轄とされましょう」
井伊直虎「そうなれば?」
小野政次「井伊の民百姓は、今川方の兵として戦うことになりましょう」
井伊直虎「戦う相手は?」
小野政次「武田…いや、徳川。しかし、井伊はその徳川とは既に通じておる。ならば…」
井伊直虎「ならば…あえて井伊を潰した上に、今川の懐に入る」
小野政次「そして…」
井伊直虎「関口の首を挙げ、徳川に差し出せば…井伊は…」
小野政次「井伊は…」
井伊直虎「井伊は…蘇る」
※どうも、タイトルにあるように「潰されない」ではなく、「潰されるが、蘇る」のようである。

関口一族の墓(豊川市長沢町)

※関口氏の本貫地は、関口庄(三河国宝飯郡長沢村関口。現在の愛知県豊川市長沢町関屋)である。関口氏が関口から駿府に移ると、関口には匂坂氏が入った。永禄4年6月20日、今川氏真は、匂坂長能に、長沢城から牛久保城(豊川市牛久保町)に移るよう命じ、領地400貫を与えている。その後、関口は徳川家康に奪われた。

関口には、関口一族の墓(上の写真)がある。なぜ墓が残っているかと言えば、徳川家康が、関口攻めの時に、「妻(正室の築山殿)の実家一族の墓には一切触れるな」ときつく言い渡したからである。関口氏経の首を挙げて徳川に差し出せば、築山殿は激怒し、徳川家康は井伊との縁を切り、井伊は死んだままで蘇らないであろう。

 

今回の言葉 「大死一番。絶後再蘇。」

【書き下し文】 大死一番。絶後再び蘇る。

【出典】 死んで初めて真に生きること。転じて「煩悩を断った時点から真の生が始まる」という意の禅語。日常生活では、「今までの自分の殻を破り、本気で取り組む時、古い自分は死に、新しい自分が生まれる」の意で使う。

──百尺竿頭に一歩を進み、大死一番、絶後再び蘇る、で御座います。(by 井伊直虎)

──全てを捨て、生まれ変わる…か。(by 南渓和尚)

「向上の一路はヴァイオリンなどで開ける者ではない。そんな遊戯三昧で宇宙の真理が知れては大変だ。這裡の消息を知ろうと思えばやはり懸崖に手を撒して、絶後に再び蘇える底の気魄がなければ駄目だ」(夏目漱石『我が輩は猫である』)

・「百尺竿頭(に一歩を進む)」:百尺もある長い竿の先端に達している(煩悩を断った空・無の境地=悟りの境地に達している)が、さらにそこから一歩前へ進め。

※「井伊谷の少女」(第1話)参照

遠江井伊氏物語は、死と再生の物語である。

再生を語るには、その前に、死について語らねばなるまい。

 

キーワード:瀬戸方久

瀬戸方久の正体については、既に「徳政令と瀬戸方久 ナゾの商人を巡って井伊家ドタバタに」(第13話)で書きましたが、補足しておきます。

説①:極貧から大富豪になり、城主になった。(伝承、俗説)
説②:「桶狭間の戦い」後、武士(「井伊谷七人衆」の1人の松井氏)から商人(出家して方久。瀬戸村に住んで瀬戸方久)へ転身した。(古文書)

ドラマでは説①を採用しており、前回(第28話「死の帳面」)、瀬戸方久は、堀川城代になりました。
井伊直虎は井伊谷城主ですので、堀川城は、瀬戸方久が井伊直虎に代わって管理することになったのです。本城(井伊谷城)の支城(堀川城)の管理者ということでしょう。

相棒の『日本史広辞典』(山川出版社)でひいてみました。

じょうだい【城代】 戦国期~近世初期、城主にかわって諸事を統轄した者。主君が本城を離れたときに代理人として城を守るか、支城を主君にかわって守る家臣の長をさす。

説②についてですが、出家前の名前として、『遠江古蹟図絵』「瀬戸の郷士」に「松井平兵衛」、『瀬戸家家譜』に二俣城主・松井宗信の三男「松井平五郎」、「彦根松居家文書」に「二俣城主・松井郷八郎」とあります。
バラバラですが、二俣城主・松井氏の一族で、新野左馬助親矩が呼んだようです。

「松井方休
松井宗信之三男松井平五郎領居地于時
方久無嫡子故幸以為嫡子
永禄年月日方久率
法名清涼院岩光延峯居士
亦改名方久也」(『瀬戸家家譜』)

実は、後述の「瀬戸方久宛 今川氏真「買得地」安堵状」(永禄11年9月14日)の1年前に、今川氏真は、「瀬戸方久宛 今川氏真「永地」安堵状」(永禄10年10月13日)を出しています。これに興味深い言葉があります。

於遠州井伊谷之内永代買之事

一居屋敷壱所之事 (本銭五貫文也。次郎法師有印判。)坂田入道前(伹是者助六郎買得云々。)

一田畠弐段事 (本銭四貫文也。)須部彦二郎前

一都田、瀬戸各半名事 (本銭参拾貫文也。信濃守有袖判。)袴田対馬入道前

已上

右、何茂永代買得証文明鏡之条、縦彼売主等、以如何様之忠節雖企訴訟、一切不可許容。於子孫永不可有相違。信濃守代々令忠節之旨申之条、向後弥可勤奉公者也。仍如件。
永禄十丁卯年十月十三日

上総介(花押)

瀬戸方久

この安堵状のどの言葉が興味深いかと言えば「信濃守代々令忠節之旨申之条、向後弥可勤奉公者也。」(信濃守が、代々忠節のことを申していた(代々の忠節を褒めていた)ので、今後は尚一層の奉公を勤めるように。)です。

「信濃守」を名乗った人物は複数いて、この「信濃守」が誰を指しているのか分かりません。

単純に考えれば、発給当時(永禄10年当時)の井伊家宗主(井伊直虎)だと思いますが、通説では「井伊信濃守直盛」です。井伊直盛は永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」で亡くなりますが、その時、天文7年(1538)生まれの今川氏真は22歳ですので、「桶狭間の戦い」までに何度も井伊直盛と話す機会があり、「井伊谷七人衆」の話になって、瀬戸方久の忠節の話も出たのでしょう。

※「代々忠節」の文法的解釈は、

解釈①瀬戸方久(松井平兵衛)は、井伊家代々(直平・直宗・直盛)に渡って奉公してきた。

解釈②瀬戸家(松井家)は、代々に渡り、井伊家に奉公してきた。

の2つが可能です。また「奉公」の意味の解釈にも「武士(家臣)として」と、「商人(御用商人)として」の2説がありますが、瀬戸方久は、新野親矩が呼んだ人物であり、方久が瀬戸氏初代であって方久の先祖(松井氏)は、井伊家には奉公していないと思われますから、解釈①が正しいでしょう。また、「奉公」内容は、「最初は武士として、今は商人として」でしょう。

 

左馬助&方玖禅門宛の井伊直盛の書状

※瀬戸方久の名が初めて登場する古文書は、弘治2年(1556)12月18日付の左馬助(新野左馬助親矩とも井伊左馬助直泰とも。場所的には岡氏)・方玖禅門(瀬戸方久)宛の井伊直盛の書状(蜂前神社文書)で、井伊直盛は、祝田郷鯉田(現在の静岡県浜松市北区細江町中川上鯉田・中鯉田・下鯉田)の年貢徴収を命じていることから、同地域の代官=武士であったと考えられるが、後述の「瀬戸方久宛 今川氏真安堵状」には「於根小屋蔵取立、商売諸役可令免許者也」(城下町に蔵を建て、市を開いて商売)とあることから、「桶狭間の戦い」後に商人に変わったと考えられる。

瀬戸方久の死

瀬戸方久が亡くなった時期は、『瀬戸家家譜』には「永禄年月日方久率」(方久、年月日不明なれど、永禄年間(1558-1570)に卒す(死す))とあり、『奥山家古代記』には、「三重ノ塔ハ、永禄ノ始、瀬戸方久居士施主、二重迄建立ノ処、死去」(瀬戸方久による方広寺三重塔の建設が、永禄年間初期に始まったが、二重まで完成した時に、瀬戸方久が死去して工事は中止となった)とあり、永禄年間であることには間違いないようです。永禄は13年まです。現在は永禄11年ですから、来年あたり亡くなるでしょう。

──しばし身を隠した方が良いかも知れぬ。(by 関口氏経)

この言葉で失踪、生死不明という結末なのかな? (ちなみに、堀川城を築いた新田友作は、姿を消し、「堀川城の戦い」には参加していません。)

死因ですが、『武徳編年集成』の「堀川城の戦い」の反徳川の参加者に「瀬戸」とあり、瀬戸方久は、この「堀川城の戦い」(永禄12年(1569)3月)で亡くなったと思われるのですが、通説では「松井方久は、徳川家康の永禄11年(1568)12月の遠江侵攻時、徳川家康に寝返り、『瀬戸』姓を拝領して『瀬戸方久』と名乗った」としていますので、その翌年の「堀川城の戦い」には反徳川としては参加していないはずです。(とはいえ、徳川家康に「瀬戸」姓を拝領する前から「瀬戸方久」と名乗っていたようですので、この通説は信用できません。ただ単に「徳川家康といち早く結びついた」と自慢しているように聞こえます。)

なお、瀬戸方久の兄・松井因幡守助近(二俣城主・松井宗信の次男。桶狭間から父・松井宗信の首を持ち帰った人物)について、『瀬戸家家譜』には「居城気賀」とあります。堀川城主、あるいは、城兵だったのでしょうか?

 

キーワード:「瀬戸方久宛 今川氏真安堵状」

「井伊谷徳政令」を施行させて、井伊家を潰し、井伊領を今川直轄領とする前に、今川氏真は、「安堵状」を使って銭の犬・瀬戸方久を調略しました。

今川氏真は、武田信玄に負けず劣らずの「諜略の達人」です。「YDK(やれば出来る子)」です。(通説では、「瀬戸方久は、領主・井伊直虎を飛び越して、上級権力者の今川氏に直訴して安堵状を発給してもらった」です。学界では、「本百姓や銭主がなぜ領主を飛び越えて今川氏に直訴できたか?」が問題になっていますが、これは、既に井伊領が今川直轄領になっていたからなのかもしれません。あるいは目安箱を使っての直訴かと。)

【原文】 於井伊谷所々買徳地之事
一上都田只尾半名 一下都田十郎兵衛半分(永地也)
一赤佐次郎左衛門尉名五分一  一九郎右衛門尉名
一祝田十郎名            一同又三郎名三ケ一分
一右近左近名             一左近七半分
一禰宜敷銭地             一瀬戸平右衛門尉名
已上
右、去丙寅年、惣谷徳政之儀雖有訴訟、方久買得分者、次郎法師年寄誓句并主水佑一筆明鏡之上者、年来買得之名職、同永地、任証文永不可有相違。然者、今度、新城取立之条、於根小屋蔵取立、商売諸役可令免許者也。仍如件。
永禄十一戊辰年 九月十四日
上総介(花押)
瀬戸

方久

【大意】 (前略)右に挙げた井伊谷内10ヶ所の「買得地」(瀬戸方久が買い取った土地)については、永禄九年の「井伊谷徳政」に関する訴訟(徳政令の公布を求める訴え、直訴)があったが、瀬戸方久が買い取った土地については、次郎法師(後の井伊直虎)の「年寄」(家老衆)の起請文と井伊主水介(後の高瀬の義父・川手景隆)の証文により明らかであるので、年来買得の名職、年来買得の永地(永代売買地)については、証文に書いてあることと食い違ってはならない。

さらに、今度、「新城」(「堀川」(地名)の「堀川古城」に対する「大鳥居」(地名)の「堀川新城」)の築城にあたって、刑部城下の「根小屋」(「城下町」のこと。地名でもある)に蔵(食料庫など)を築いて「市場」(地名でもある)を開いての商売も無税で自由(「楽市・楽座」)とする。(後略)

※「次郎法師年寄誓句」の解釈

解釈①「次郎法師の年寄の誓句」:(次郎法師の)年寄の誓句1通
解釈②「次郎法師、年寄の誓句」:次郎法師の誓句1通と年寄の誓句1通
解釈③「次郎法師&年寄誓句」:年寄の誓句に、次郎法師が「本物である」と但し書きした「外題安堵」と呼ばれる誓句1通

領主(次郎法師)の誓句があることが重要なので、解釈①は誤りで、解釈②か解釈③が正しいと思われる。

関口氏経「その方、気賀に新しく蔵を作りたいと申し出ておったな」
瀬戸方久「はい。商いが殊の外上手くいっておりまして。その上、此度命じられました戦備え。もう蔵がいくつあっても足らぬこととなりそうで」

蔵の数を増やせば、「棟別銭」(むねべつせん、むねべちせん、むなべつせん、むなべちせん。「棟役」「棟別役」とも)が増えるので、出来るだけ建て控えるものですが、無税なら、どんどん建てたいですね。
※通説では「蔵」を「今川氏の倉庫」(刑部・堀川両城で使う食料や武器・弾薬の格納庫)だとし、「買得地を安堵する(徳政令でも奪われない土地にする)。あと、今川のために蔵を建てる費用を負担しなさい。そのかわり、商売は無税とする」と交換条件を示したとする。

新説では、
・安堵状は交換条件を示す証文ではない。決定事項を書く。
・今川氏の倉庫であれば、「蔵」ではなく、「御蔵」である。
とし、この「蔵」は、「瀬戸方久の倉庫」(市場で売る食料や木綿布などの倉庫)であり、「蔵を建てても「棟別諸役」(家屋の間数単位で賦課される諸税)を免除する」の意とする。
それで瀬戸方久は喜んで蔵を建てたとする。

さて、瀬戸方久が買い取った土地10ヶ所のうち、7ヶ所が「名(みょう)」です。「名」は、「名田」(中世荘園制の本年貢・公事の徴収単位)のことでしょう。この「名」の消失は太閤検地の時ですから、戦国時代に「名」はまだ存在していたとはいえ、戦国時代に荘園制用語で語られてもしっくりきません。

──今川氏真は、どういう意味で「名」を使ったのでしょうか?

「今川仮名目録」の第1条が「地頭による名田の没収の禁止」ですが、この第1条の「名田」が「名」と考えていいのでしょうか? そして、「名職」は、「名主職」と同義と考えても良いのかな?
何れにせよ、井伊領南部(刑部・祝田・瀬戸・都田)には、「名」を与えられた今川給人衆(在村被官)が多く住んでいたようです。

《「名職」の定義》
・納税請負にともなう権益(糟谷幸裕)
・百姓としての職権と収益権(大石泰史)

《黒田基樹氏による定義》
・「名(みょう)」とは、一般的にはある程度まとまった年貢納入の単位をいうが、戦国時代の今川領国では、戦国大名・国衆に対して軍事奉公することで直臣化した百姓の年貢負担地を指すことが多い。そのように百姓ながら、軍事奉公する存在を、学術的には「在村被官」と呼んでいる。
・「名職」は先の「名」と同じであり、軍事奉公する在村被官の年貢負担地のことである。

※個人的には「名」は「名田」「持ってる田畑」、「名職」は「領主」に対する「名主」(名田の持ち主)程度の理解で良いんじゃないかなと思ってます。「名主」は肩書であり、「所有者として、持ってる名田の収穫物を手にすることも、名田を担保にお金を借りることも、売ることも可能」程度の理解でいいのでは?

井伊家は、「桶狭間の戦い」の敗北で衰退しました。
しかし、三遠国境という軍事拠点でしたので、今川氏は重視して、多くの直臣「今川給人衆」を刑部城を中心に送り込んだと思われます。
刑部村は井伊領ですが、そこにある刑部城の城主は井伊氏ではありません。城兵も井伊衆ではなく、永禄7年(1564)の今川氏真の公募で集まった牢人のようです。

その今川直臣「給人衆」となった牢人たちは、「名」(軍事奉公する在村被官の年貢負担地)を与えられた「半士半農」だったのではないでしょうか。
ですから、徳政令を今川氏真へ直訴することも出来たし、「半士半農」とはいえ武士であり、子もいたので、新田友作が祝田村に寺子屋、近藤秀用が刑部村に剣術道場を開いたのではと思います。

ドラマを見てると、祝田・瀬戸両村の農民は、「半士半農」の「今川給人衆」ではなく、昔からそこに住んでいる農民のようで、遠州弁を聞くたびに「私のイメージとは違うなぁ」と思っています。

──徳政令は望まんに。
なんか「逆徳政一揆」の様相ですね。

さて、 今回の「直虎紀行」は、清水寺と富士山本宮浅間大社の楽市でした。
清水寺の楽市については、 第26話 「誰がために城はある」で取り上げ ていますので、そちらを御覧下さい。

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

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