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明智軍記

『明智軍記』現代語訳と原文 第7話「織田信長公由来事付尾州平均事」

【現代語訳】

抑(そもそも)、尾張国の戦国大名・織田信長公のおおよその出自を聞いてみると、先祖・織田常勝は、越前国の劔神社(「織田明神」とも。福井県丹生郡越前町織田)の神主・常昌の子でしたが、延元(1336-1340)の頃になって、越前守護・足利(斯波)高経の近習になり、後には、侍大将となりました。

足利(斯波)高経の子・足利(斯波)義将が、永和年中(1375-1379)に、越前国に加えて、尾州国の守護にもなった時分、譜代の老臣・甲斐将久、朝倉将景、千福中務大輔、二宮左近将監の4人を越前国警固として所々に残し、尾張国8郡の守護代に織田常勝の子・教信と教広の兄弟に就かせました。織田教信の子・常信は、尾張国岩倉の岩倉城(愛知県岩倉市下本町)を居城としました。織田教広の子・常任は、清洲城(愛知県清須市一場)の本丸に武衛殿(尾張国守護の斯波氏)を入れ、自分は二の丸に住んで、主君・武衛殿に仕えました。

その後、数代を経て、武衛殿(斯波氏)の実子がいなかったので、斯波(大野)持種の子・大野義敏を養子にして、武衛家を継がせました。しかし、越前国や尾張国の家臣たちは反発し、将軍・足利義政公へ訴え出て、堀越公方執事・渋川義鏡の子・渋川義廉を立てました。以後、武衛家の求心力の後退と共に、家臣(越前、尾張両国の国衆)の威勢が上がって「武衛騒動」となり、戦いが絶えませんでした。

その頃、織田常信の6代孫・織田敏信とその子・織田信安は、岩倉から尾張国を窺い、織田常任の5代孫・織田宗信は、清洲にいて、尾張国を統一を目論んでいました。この織田宗信の弟・織田信定は、勝幡城(愛知県愛西市勝幡町)に住んでいて、守護代である兄に奉行として従っていました。この織田信定の子が織田信秀で、孫が織田信長です。

天文15年(1546年)に、那古野城(名古屋城二之丸)を築き(実際に築いたのは今川義元の父・今川氏親)、織田信長(13歳)はその那古野城を居城としました。この時、守役であった平手清秀(後の政秀)が家老になりました。その後、美濃国を領する斉藤義竜(通説では道三)の娘・濃姫を、祖父・斉藤道三の娘として、信長に嫁がせました。

天文18年(1549年)、織田信長の父・織田信秀が亡くなりました。

弘治元年(1555年)、織田信長は、叔父・織田信光と共に謀って、清洲城主・織田宗信の孫・定信の子・広信を討ち滅ぼし、22歳の夏に清洲城に移り、那古野城には、叔父・織田信光を入れました。

こうしたところに、予想外の事件が起きました。織田信光が家来・坂井孫八郎に殺されたのです。それで、織田信長の弟・織田信行(信勝)に林秀貞を付けて、那古野城に入れました。

この織田信行(信勝)は、「兄・織田信長の暗殺企てている」と織田信長に告げる者(柴田勝家)がいました。織田信長は、若気の至で、事の真偽を確かめず、弟・織田信行(信勝)を無残にも殺してしまいました。その後、事実無根であることが判明し、織田信長は後悔して、弟・織田信行(信勝)の幼い子・織田信澄を特別に可愛がりました。

また、弘治2年(1556年)4月中旬、織田信長の舅・斉藤義竜(通説の道三)から使者が来て「息子の斉藤竜興(通説の義竜)が、密かに家臣と相談して、突然、2人の弟を殺し、俄に本城・稲葉山城に登って、父である私に向かって、反逆した。娘婿・織田信長におかれては、出陣して、斉藤竜興(通説の義竜)を討っていただきたい。仮に、私が死んでも、この鬱憤を忘れず、(「親子は一世の契り」と言うが)二世まで(現世だけでなく、来世まで)の厚恩とするように」と伝えてきた(一説に「美濃国を渡す」という書状を持ってきた)ので、織田信長は、大変驚き、取る物も取り敢えず、大急ぎで美濃国大良口(岐阜県羽島市)まで出陣したが、「既に斉藤義竜(通説の道三)は、今朝、(「長良川の戦い」で)斉藤竜興(通説の義竜)に討たれた」と聞き、「これ以上に残念なことはない」と泣き、織田信長が殿(しんがり)を務めて尾張国清洲へ戻ろうとすると、斉藤竜興(通説の義竜)の兵(牧村主水助、林半太夫、加賀井重望、岩田勘解由など)が追いかけてきて「大良河原(岐阜県羽島市正木町大浦新田)の戦い」となり、やっとのことで清洲へ戻りました。

この時、尾張国岩倉の岩倉城主・織田信知は、宗主・織田信安の子であるから、疎意があってはいけないのに、斉藤竜興(通説の義竜)と組んで敵意を示しました。その他、前尾張国守護の斯波氏、並びに、尾張国知多郡の石橋氏、三河国吉良の吉良氏などを誘い、示し合わせて清洲城を攻めようと企てていたのを織田信長が耳にして、「そっちがそうなら、こっちから攻めてやる」として、森可成、坂井重康、滝川一益、佐久間信盛、柴田勝家、飯尾定宗、織田信清を先鋒として、3000余人で、永禄元年(1558年)7月12日、岩倉の近くの浮野(愛知県一宮市千秋町浮野)の「浮野の戦い」で敵(織田伊勢守家)を破って勝利しました。

翌・永禄2年(1559年)年の春、織田信長は、また、岩倉城へ押し寄せ、数ヶ月間合戦して、織田信知を討ち、織田信知に与した者たちを尾張国から追い出して、尾張国をほぼ平定しました。

尾張国守護・斯波家衰退後は、尾張国内の治安が乱れ、国衆たちの戦乱が相次いでいるのを見た三河、遠江、駿河3ヶ国の領主・今川義元は、先年から兵を出して東尾張を手に入れ、笠寺(愛知県名古屋市南区)に笠寺城(「戸部城」とも。愛知県名古屋市南区戸部町)を築き、今川方に寝返った地元の戸部政直を入れました。織田信長は、漢の劉邦に仕えた軍師・陳平の「帝師の術」(皇帝の先生の術)を学んで、ちょっとした策略で、戸部政直を今川義元に殺させる(戸部政直の筆跡を真似して、織田信長に内通する書状を偽造し、それを商人に化けさせた森可成に駿府へ持ち込ませると、その書状を手に入れた今川義元は、戸部政直を処刑した)とは、恐ろしいことです。こうして、笠寺の周辺は、織田信長の手に入りました。

その後、今川義元は、「尾張国を全て手に入れる」として、永禄3年(1560年)の夏、三河、遠江、駿河3ヶ国の兵、25000人を率いて、攻め上り、織田方の城である鳴海城、大高城、沓掛城を落とし、鳴海城には岡部元信、大高城には松平元康(後の徳川家康)、沓掛城には鵜殿長照を入れ、さらに「織田方の丹家(丹下)砦、中島砦、善照寺砦、鷲津砦、丸根砦も落とそう」と言って、本陣を沓掛城から桶狭間に移して屯(たむろ)していたのを織田信長が聞いて、「昔から今に至るまで、大軍に小軍が勝った例(ためし)は無い。この上は、『十死に一生の戦』をし(死物狂いで戦い)、敵の不意を突く意外にはない」と言って、熱田社(現在の熱田神宮)に厚く戦勝祈願をし、「侵攻ルートは知っている」として、熱田社から左の小道を通って、5月19日の巳の刻(午前10時)頃、旗を巻いて持たせ、たった2200人で、東に回り込み、南に出て、桶狭間の今川本陣へ遮二無二に討ってかかり、幕内に入ってすぐに大将・今川義元の首を取りました。今川方の兵は、大勢でしたが、思いもよなぬ方向から攻められたので、慌て騒いで、「馬よ」「武器よ」と、ひしめいているうちに、大将・今川義元が討たれてしまったので、どうしようもなく、それぞれ、三河国を目指して引き退きました。

この「桶狭間の戦い」の勝利という勢いで、織田信長は、尾張国を差し障り無く平定して治めました。

永禄4年(1561年)1月11日、尾張国平定の祝いとして、清洲城において、織田信長は、諸臣に御馳走しました。参加者は次の通りです。織田一族として弟(父・織田信秀の子)の織田信包(4男)、織田信時(6男)、織田長益(11男)、織田信治(5男)、叔父(祖父・織田信定の子)の織田信実(4男)、織田信次、飯尾定宗、飯尾尚清、織田信清、織田広良、織田秀敏、織田信房、津田藤左衛門、津田盛月。家臣として、侍大将の林秀貞、柴田勝家、滝川一益、坂井重康(政尚)、佐久間信盛、森可成、平手清秀(政秀)、足軽大将の簗田政綱、毛利長秀(秀頼)、丹羽長秀、塙直政、池田恒興、長谷川宗兵衛、佐々成政、青山信昌、菅谷長頼、河尻秀隆、福富秀勝。その他の家臣まで、盃(さかずき)をいただいた後、織田信長が「舅・斉藤義竜(通説の道三)が亡くなった時の遺言を、私は、昼夜、朝夕、忘れたことがない。特に『大良河原の戦い』で殿を務めた事や、岩倉の織田一族が敵対した事は、全て美濃国の斉藤竜興(通説の義竜)の仕業である。とはいえ、ここ最近、戦いが続いていたので、斉藤竜興(通説の義竜)を放置しておいた。皆の者が、心を合わせてくれるのであれば、舅・斉藤義興(通説の道三)の恨みを晴らし、我が身の鬱憤も晴らしたいと思う(が、どうだ?)」と怒る目に涙を浮かべて言ったので、柴田勝家、佐久間信盛、滝川一益も一斉に「仰せられた事は尤もです。忠孝の道を誰が背くというのでしょう。(誰も背きません。)忠(主君に尽くすという美徳)と孝(親に孝行を尽くすという美徳)は相反しません。忠を主として孝も尽くし、孝に勤めて忠をも励むべきです。私達も斉藤竜興(通説では義竜)を恨んでいますので、早々に出陣のご決心をなされよ」と言うと、その場に居た全員が賛成しました。

この様子を、織田信長の御内所・濃姫(斎藤道三の娘)が聞いて、五位局、粟田殿、広沢殿の3人の女房を使いとして、折り詰め(調理を詰める箱型の容器)10合(折)、酒樽5荷(個、駄)、打ち鮑(アワビを打ち延ばして干した物)をたくさん盛った台3脚、広間の中へ担ぎ出すと、五位局が皆に向むかって、「北の方(濃姫)は、(父・斎藤道三が殺されて、)曹娥(後漢の孝女。父・曹旰(そうかん)が洪水で溺れ死ぬと、17日間泣き続けた後、その川に身を投げた)以上に心が沈んでいたのですが、皆様が美濃国へ出陣し、鬱憤を晴らしていただけると聞いて、喜びの涙で袖を濡らしております。『最近は、戦いが続き、誰もがご苦労なされている時に、身命を顧みず、怨敵を討っていただけるとのこと、この身の喜び、これに勝るものは無し』として、お祝いに、この旨い酒を差し上げます」と優雅な言葉を選んで話されたので、皆が忝い気持ちになり、それが顔にも表れました。織田信長も満足したようで、それから酒宴が始まり、侍(武将)はもちろん、足軽、小人(「小者」とも。雑用係)に至るまで、打ち鮑が振る舞われました。その後、織田信長は、「美濃国は大国であるから、合戦は何年にも及ぶであろうから、その用意として、この春は、皆、休んでおきなさい」と言いました。

【原文】

抑(そもそも)、尾張の大守・織田上総介信長公の始めを粗(ほぼ)尋ね聞くに、先祖・織田帯刀左衛門常勝は、越前国織田社の神主・常昌が子なりけるが、延元の頃及び、足利尾張守高経の近習に扈従(こじゅう)して、後には、士(さむらい)大将の列に加はりけり。

高経の子息・武衛治部大輔義将、永和年中に、越前に加へて、尾州拝領の時分、譜代の老臣・甲斐美濃守、朝倉弾正左衛門、千福中務大輔、二宮左近将監此の四人、越前警固として所々に残し置かれ、尾州八郡の執権には彼の織田常勝が嫡子・帯刀左衛門教信(のりのぶ)、同次郎左衛門教広(のりひろ)兄弟をぞ申し付けられける。教信が子・伊勢守常信は、尾州岩倉に居城す。教広が子・大和守常任は、清洲二の丸に在住して、主君・武衛殿を尊仰せり。

其の後、数代歴(へ)て、武衛実子、これ無きにより、一族の大野左兵衛佐義敏を猶子にせられる。然れども、越前、尾張の家臣等、是を嫌ひ、将軍・義政公へ訴へて、渋川治部大輔義廉を又、武衛にぞ立てける。これより以後、斯波の武衛家、威勢無く、両国ノ陪臣等々の形勢に任せ、闘諍(とうじょう)止む時なし。

其の頃、織田伊勢守常信に六代左馬助敏信、子・伊勢守信安は、岩倉より起こつて、尾州を闖(うかが)ひ、又、常任に五代大和守宗信ハ、清洲に在りて、国中を従へんと欲す。此の大和守が舎弟・弾正忠信定入道月厳は勝幡と云ふ所に住して、兄の権威に隨(したが)ふ。月厳斉が子・備後守信秀、其の子・織田信長公也。

天文十五年に、那古野(なごや)の城を築き、信長、十三歳にて居住し給ふ。則、平手中務大輔清秀を老臣とす。其の後、美濃の大守・斉藤山城守義竜の息女を、祖父・道三入道の娘として、信長に嫁(か)せられけり。

同十八年、父・備後守信秀、死去せらる。

弘治元年、信長は、叔父の孫三郎信光と相議して、清洲の城主・織田大和守宗信が孫・定信が子・彦五郎広信を討ち亡(ほろぼ)し、信長、二十二歳の夏、清洲の城に移り給ひ、那古野には、叔父・信光を居(す)へられける。

然る処に、不慮の事有りて、孫三郎信光、家来に殺され給ひければ、其の後、信長舎弟・武蔵守信行に林佐渡守を差し添へて、那古野の城にぞ置かれける。

然るに、此の武蔵守信行、舎兄・信長を亡さるるべき企(くはだて)有りと告げ知らする者有り。信長、若気に任せ讒者(ざんしゃ)の実否を糺さず、信行を誅せられけるこそ無慙(むざん)なれ。其の後、咎(とが)無き旨、聞こへければ、上総介、千悔して、武蔵守の子息・七兵衛信澄、幼稚に御座(おはしま)しけるを、取り分け哀憐し給ひけり。

又、弘治二年四月中旬、信長の舅(しゅうと)・斉藤山城守義竜の方より使札(しさつ)を以て申し越さられけるは、愚息・右兵衛太夫竜興、密かに郎等(ろうとう)を語らひ、不意に弟両人を殺し、俄(にわか)に本城・因幡山に取り上(のぼ)り、父に向かひ、叛逆、是非に及ばず候。急ぎ信長、出馬有りて、竜興を誅罰、頼み入候。仮(たと)ひ、某(それがし)生涯、究(きわま)りたり共、此の鬱憤(うっぷん)を忘れ給はずは、二世迄の厚恩(こうおん)為るべき由、申し来たりければ、信長、大きに驚き、取る物も取り敢えずして、濃州大良口迄出陣有りける処に、山城守は、今朝、早、竜興の為に命を落とされける由、聞こへしかば、上総介、残念、これに過ぎずと涕泣(ていきゅう)して、引き返へされける処に、竜興の方より、牧村主水助、林半太夫、加々(かが)井弥八郎、岩田勘解由など云ふ士を指し遣はし、跡を慕ふに依て、尾張勢、殿(おくれ)を取り、漸(ようや)く清洲へ引き入給ふ。

爰に尾州岩倉の城主・織田伊賀守信知は、総領・伊勢守信安の子なれば、疎意(そい)有るまじき事なるに、彼の竜興と同心して、藩屏(はんへい)に起こり、其の外、前の太守・武衛、並びに、知多の石橋、参州の吉良などを催し、諸方、牒し合はせ、清洲を攻めんと計るの間、信長、此の由を聞き給ひ、其の儀ならば、遮(さえぎ)つて、此方、逆(さか)寄せにすべしとて、森三左衛門可成、坂井右近重康、滝川左近一益、佐久間右衛門信盛、柴田権六勝家、飯尾近江守定宗、織田十郎左衛門信清を先として、其の勢三千余騎、永禄元年七月十二日、岩倉の近所・浮野にして相戦ひ、敵を追い崩し、信長、勝利を得給ふ。翌年の春、又、岩倉の城へ押し寄せ、数月合戦して、信知を討ち亡ぼし、同意の輩を追い出さしめ、尾州、大形(おおかた)打ち隨へらる。

既に武衛家衰微の後は、尾張、悉く乱国と成りて、陪臣等、郡国を諍ひけるに付き、参河、遠江、駿河三国の主・今川治部大輔義元、先年より兵を出し、東尾張を討ち取り、笠寺に要害を構へ、駿州の士・戸部新左衛門を入れ置き給ふ処に、信長、漢陳平太元の帝師(ていし)が術に習ふて、尺寸(せきすん)の謀ごとを廻らし、戸部を今川殿に殺させられけるこそ恐ろしけれ。是に依て、笠寺辺、信長の手に入る。其の後、今川義元、尾州を悉く討ち捕るべしとて、永禄三年の夏、参遠駿の兵二万五千を引卒し、攻め上り、織田抱への城々、鳴海、大高、沓懸の要害共を追い落とし、鳴海には岡部、大高には松平蔵人、沓懸には鵜殿太郎左衛門を篭め置き、扨、丹家、中島、善照寺、鷲津、丸根の取手共も責め散らすべしとて、沓懸より桶狭間と云ふ所へ陣替え有りて、屯(たむろ)の所、信長、此の由を聞きて、古へ自(よ)り今于に至る迄、大軍に小勢を以て勝つ事なし。此の上は、十死に一生の軍して、敵の不意を討つより外の儀、有るべからずとて、熱田社に深く祈誓(きせい)し、案内は知りたり。宮より左の径(こみち)を歴て、五月十九日の巳の刻計り、旗をば巻いて持たせ、纔(わず)か二千二百騎、東に廻り、南に出て、今川家の本陣・桶狭間へ無二無三に切て懸り、帷幕(いばく)の中に押し入り、即時に大将・義元の首を取る。駿州の兵、大勢なりと雖も、思ひ寄らざる方より敵に寄せられ、周章(あわて)騒いで、馬よ、物具よと、䦧(ひしめ)きける間に、大将、討たれ給ひければ、為す方無くして、各々(おのおの)参河を差してぞ引き退きける。

此の勢ひを以てと、上総介信長は、尾張八郡を事故(ことゆえ)無く治めらる。

同四年正月十一日、尾張平均の祝礼と為して、清洲の城において、信長、諸臣に饗膳を賜る。一族には、舎弟・上野介、同安房守、同源五、同九郎、叔父・四郎次郎、同孫十郎、飯尾近江守、同隠岐守、織田十郎左衛門、同勘解由左衛門、同玄蕃、同造酒丞、津田藤左衛門、同左馬允。士大将には、林佐渡守、柴田修理亮、滝川左近将監、坂井右近、佐久間右衛門尉、森三左衛門、平手監物。足軽大将には、簗田出羽守、毛利河内守、丹羽五郎左衛門、塙九郎兵衛、池田勝三郎、長谷川宗兵衛、佐々内蔵肋、青山与三、菅谷九右衛門、川尻与兵衛、福富平左衛門、其の外の輩迄、御盃を給はりて後、信長、宣(のたま)ひけるは、舅・斉藤山城守討死の時分、仰せ置かられし事、我、昼夜、旦暮、忘るる折なし。殊に大良表退き口殿を取りし事、並びに、岩倉の一族等、某に敵対せし事、皆、濃州の斉藤右兵衛太夫竜興が悪逆の所為(しわざ)也。然りと雖も、近年は、自国の軍に隙なふして、黙止置き候。又、各々、同心に於ては、舅・義興の遺言を晴らし、身の積鬱(せきうつ)をも遂げばやと思ふ也とて、忿(いか)れる眼に涙湔(そそ)ひで宣ひければ、柴田修理亮、佐久間右衛門尉、滝川左近将監同音に御諚、尤もに候。忠孝の道、誰か背き申すべく候や。忠を專らにして孝を尽くし、孝を勤めて忠をも励み申べけれ。内々某共も、意趣相ひ残り候へば、早々思し召し立たせ給へと申し上げる。満座一同に御請をぞ申しける。此の由を信長ノ御内所、聞こし召し、五位局、粟田(あわた)殿、広沢殿、此の三人の女房達を使ひとして、折十合、樽五荷、打ち鮑夥敷(おびただしく)載せたる台三脚、広間の中へ舁(かつ)ぎ出し、五位局、諸士に向かひて申せられけるは、北の御方、誠に曹娥(そうが)は思ひにも増(まさ)り、思し召し沈ませ給ふ処に、各々、濃州へ働き、御鬱念を休ませらるべきの由、悦(よろこび)の泪、御袖に余る計り也。近年は、兵革打ち続き、何(いず)れも苦労の処に、身命を顧みず、怨敵を亡ぼさるるべき旨、御身の悦、これに過ぎざる御事なれば、祝儀と為して、此の旨酒(ししゅ)を饋(おく)り給ふ処也と言ふを、■(女+迎)娟(たおやか)に演(のべ)られければ、各々、忝(かたじけな)き旨、気色、殊に顕れたり。信長も御満足有りて、其れより酒宴始まり、諸侍は申すに及ばず、足軽、小人(こびと)に至る迄、打ち鮑をぞ下せられける。其の後、仰せ出されけるは、濃州は大国なり。定めて軍(いくさ)、数箇年に及ぶべければ、其の用意と為して、春中は、何れも休足仕るべしとぞ宣ひける。

 

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