気賀の城「堀川城」の跡

井伊家を訪ねて

誰がために堀川城はある? 気賀の城と大澤氏

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堀川城跡(「多分、ここにあったのであろう」と、案内板には「伝」が付けられている。)

龍雲丸「俺の親は、『城を守る』って言って死んだんでさぁ。もう先は見えてんのに…城ってなぁ、人を守るためにあるもんじゃねぇですか? それを守るために人が死ぬなんて、どう考えたって おかしい。そんなもんはいらねぇんだ!!」

井伊直虎「田畑や野で狩られる者もおる。城に逃げ込み命拾いした者もあろう。城さえなければ助かるという話ではあるまい」

領主は居館に住んでいるが、攻められると居城に入る。そして城が攻撃対象となり、「籠城戦」が始まる。城は、語源的には防御施設であるが、同時に戦闘施設でもあった。そして、食糧や武器の備蓄施設でもあった。

籠城戦では敵が城を取り囲むが、数日後には援軍がその敵を取り囲んでの挟み撃ちになる。援軍が期待できない場合は、出撃して「野戦」となることもあった。

徳川家康の居城である岡崎城も浜松城も質素であった。天守閣を持つ豪華な織豊系城郭(権力を象徴する施設)は、徳川家康の後に入った城主(岡崎城は田中吉政、浜松城は堀尾吉晴)が築城した別の城と言っても過言ではない。築山殿がいた「築山」は田中吉政が築いた岡崎城の東端であるが、本丸から約1km離れており、「築山」は徳川家康時代の岡崎城では城外であった。

徳川家康が岡崎城や浜松城に必要以上のお金をかけなかった理由は、織田信長のように、居城を変えていく計画(最後には安土城のように立派な江戸城を築いた)だったからとも、武田信玄のように、 躑躅ヶ崎館&要害山城で 戦うのではなく、出撃しての野戦をする計画だったからともいう。松平氏は、松平郷という山間部に興り、南下して岡崎平野に出ようとした。岡崎城主・西郷氏は、東から南下すると考えて山中城を築いたが、松平氏は西から南下して岩津城を居城とした。岩津城は、周囲に「岩津七城」を持つ強固な防衛施設であったが、岩津城を攻めようとすると、松平氏は出撃し、井田野で戦った。松平氏は8代に渡り、城攻めはしたが、籠城戦は1度も行っていない。

そのDNAを引き継いだ徳川家康(松平9代元康)は、「浜松の井田野は三方ヶ原じゃ」と思っていたかもしれない。だとすれば、武田信玄に攻められた時、「松平史上初の籠城戦」は、端から頭になかったことであろう。

徳川家康が三方ヶ原に出陣した理由には、「松平のDNA」以外にも、多くの学者が多くの説を述べている。

その1つが「領民の期待に応えるため」説である。

戦い当日、多くの領民が避難施設である浜松城内に避難していて、皆、「領主様はいつ出撃するのだろう、本当に私達のために戦ってくれるだろうか」と期待と不安の眼差しで、本丸を見上げていた。「ここで出撃しなかったら、『ダメ領主』と思われて、領民の心が自分から離れる」と考えて出撃したというのが「領民の期待に応えるため」説である。三方ヶ原で徳川家康は負けたが、領民の期待には応えたし、浜松城に逃げ込んだ領民の命は守られたので、領民の支持率はアップした。

 

【第26話 「誰がために城はある」 あらすじ 】

気賀湊─今切湊(新居)─掛塚湊(竜洋)─相良湊─江尻湊(清水)
遠州灘や駿河湾沖の海路は、船舶にとってかなりの難所でした。
掛塚湊から天竜の材木を江戸に運んだ船は、帰路、転覆しないように、伊豆で伊豆石を買って積み込みました。それで、掛塚の材木問屋の塀は伊豆石で出来ているのです。

「海の東海道」(江戸時代の航路)

材木を駿府に持ち込んだものの、その材木をどうするのか?
盗んだ船をどうするのか?

空船で気賀湊へ帰るのは危険です。

──船に材木を積み戻して気賀に帰り、その材木で城を建てる。
どうもこれが、今川氏が出した答えらしい。

※浜名湖の航海は、波が穏やかで安全ではあるが、南半分はもともと陸地であった場所なので浅い。「水脈(みを)」を通らないと座礁する。浅い場所には「水脈つ串(みをつくし)」と呼ばれる杭が立てられている。「水脈つ串」は、静岡県浜松市北区細江町の町章や大阪府大阪市の市章になっている。「水脈つ串」はガードレールのようなもので、その間を通れば座礁しないが、ごくたまに座礁することもあり、龍雲党は、その座礁した船をアジトとして使っている。

なぜ、気賀に城が必要なのかと言えば、「武田領に塩を送る商人がいないか見張るため」だという。それなら、村ごとに交番を置けばいい(・ω・)b 城ではなく、役所や関所を建てて、役人を常駐させれば済むことかと。

気賀に城が必要な真の理由は、
──徳川家康の遠江侵攻を防ぐため
でしょう。
しかし、ドラマでは、今川氏はもちろん、徳川氏もそこまでは考えていないようです。

第24話での夫婦の会話。
徳川家康「何故、三河だけではいかんのかのぉ~。三河は地味も良いし、食うには困らぬ。もうよいではないか。駿府など、わざわざ獲らずとも。家中のやつらも、次は遠江じゃ、駿河じゃ、今川の骨までしゃぶれと申すし…」
瀬名「瀬名も殿が駿河の城に入るのを見とうございます。鬼や禿狸ではなく、可愛らしい豆狸が入ることこそが不幸中の幸い。せめてもの御恩返しとも言えることかと」
徳川家康「そうやっってのぉ、そうやって、皆、己の野心のために、儂を使いっ走りにするのじゃ。儂は一生、駈けずり回るだけじゃ」

戦国時代の夫婦の会話って、こんな内容? 艶っぽく無い(^_^;)

瀬名の野心は、母・佐名との誓い「今川を乗っ取る」であって、「豆狸」(「ぼんやり」よりは格がアップしたが、まだ今川の姫よりは下)を上手く使おうとするのですが、徳川家康は、天下統一は勿論、駿河侵攻も、遠江侵攻すら考えていません。この時点では。

しかし、三河国は、織田領と武田領に挟まれており、戦いに巻き込まれずにはいられません。前回(第25話)、徳川家康と清洲同盟を結んでいる織田信長は、養女・龍勝院と武田勝頼を結婚させて武田氏と友好関係を結びました。これで準備は整いました。織田信長による武田信玄と徳川家康の遠隔操作が始まります。もちろん、武田信玄も、得意の諜略を…。

さて、気賀の町は、城の建設に賛成派と反対派に二分していました。

井伊直虎が行って、双方の話を聞くと、「城の建設に反対」なのではなく、
①上納金を納めて「自治」を買っているのに、
②取締が強化されて商いがやりにくくなる。
という事が分かり、
──しめた!
井伊直虎は、そう思ったに違いない。

今川義元の商業政策は、「今川仮名目録」にあるように、新興商人を抑え、既存の商人を保護するというものでした。
永禄3年(1560)5月、桶狭間で今川義元が討死すると、跡を継いだ今川氏真は、永禄3年8月に大石寺、永禄4年6月に清水寺など、寺社の門前市に対して、次々と「楽市令」を出し、「楽市の先駆者」と称されました。この政策を参考にして織田信長が楽市・楽座政策を打ち出したとまで主張する学者もおられます。

この商業政策で、今川氏真は、門前町での市の活発化を図り、織田信長は、新しく建てた城の城下町への商人の誘致を図ったと思われます。
今川氏の研究者たちはさらに踏み込んで、今川氏真の「楽市令」は、
「商人は寺社や座や今川氏に税金を払っていたが、今川氏に払うだけで良いとしたのが楽市令であって、多重払いや中間搾取を廃止して、今川氏が商人を直轄しようとした商業政策である」
「『楽市令』の前に出した寺社への『安堵状』に『修行に励め』などと書いていることから、『寺社は宗教施設であって、商業施設ではない』と今川氏真は思っていた」
と解釈しています。

ドラマの気賀が、「今川氏だけに税金を納めて、自由に商業活動をさせてもらっている自治村」という設定であることは、気賀には今川氏真から「楽市・楽座令」が出されていると思われます。
そして、そこに城を建てて、気賀を城下町にするということは、織田信長型「楽市・楽座」への転換を図った、あるいは、気賀を今川氏の直轄地(城主の大澤氏は代官)にしようとしたのだと思われますが、結果的には、「今川氏(気賀の城主)による商人の直接支配」は叶わず、「商人頭」(中村氏)や、城主と結託する「御用商人」(瀬戸氏)の台頭を許すこととなり、制度の未熟さ故、各地の楽市・楽座は消失していくことになりました。

※「商人頭」について、相棒の『日本史広辞典』(山川出版社)で調べてみた。

しょうにんがしら【商人頭】 商人司・商人おやかたとも。戦国期に一般の諸商人を統率した有力商人。領国内または城下町などの諸商人および領国外からの行商人の取締りや裁判、商業税の徴収、市の開催・興行、座や仲間の支配などを行った。駿河の商人頭友野氏、会津の商人司梁田(やなだ)氏、尾張・美濃の商人司伊藤氏が有名。

音羽山清水寺(静岡県藤枝市原)

【史料】「今川氏真朱印状」(楽市令)
(今川氏真朱印)
於稲葉郷内清水寺、毎年正月十七日、七月十七日両度、新町可相立事
一、商人諸商売不可有役事
一、押買狼藉之事
一、喧嘩口論之事
右条々、於違犯之輩者、急度可加成敗者也。仍如件。
永禄四年
六月朔日
清水寺
衆徒中
【大意】 清水寺の門前で、毎年2回(1/17と7/17)、新町(市場)を開催しても良い。これには税をかけない。また、治安を乱した者は成敗する。

今川氏真は、稲葉郷の音羽山清水寺(静岡県藤枝市原)に対し、永禄4年(1561)6月1日に「今川氏真朱印状」(楽市令)を出しています。

この楽市令で面白いのは、当時の市には、「押し売り」(恫喝して商品を無理矢理買わせる商人)ではなく、「押し買い」(恫喝して商品の値段を無理矢理値切らせる庶民)がいたってことです。
さらに面白いのは、今川氏真は、清水寺の楽市を盛り上げるため、自ら太鼓を叩いたり、女装して「風流踊り」(「田楽踊り」を起源とし、「盆踊り」の原型となった踊り。永禄10年と永禄11年の夏、駿府で大流行した。三浦義鎮がすすめたという。)を身分の上下にこだわらず、家臣と共に舞ったりしたということです。

駿府の清水寺での話と混乱しているようにも思われますが、いずれにせよ、いつか、尾上松也さんの「風流踊り」を見たいものです。映画「のぼうの城」の成田長親(野村萬斎さん)の舟上の「田楽踊り」のようにじっくりと。

※旧暦1月17日は、2月17日に当たる。現在の清水寺の縁日は、2月第3日曜日を中心に、土・日・月の3日間である。

さて、気賀の商人たちは納得し、「城を建てる」でまとまりましたが、龍雲丸は、
「戦ってなぁ、城めがけて攻めてくるもんだろう? そんなもん造ったらここが戦さ場になっちまうじゃねえか! とにかく俺は、城なんかまっぴら御免だ」
と「城を建てる」ことに反対し続け、ちんぷりかえって(遠州弁「ふてくさって」の意)気賀を去った。
二度目の別れである。

(第27話「気賀を我が手に」につづく)

 

【今回の言葉 「一華開五葉、結果自然成」】

【原文】 吾本來茲土、傳法救迷情。一華開五葉、結果自然成。

【書き下し文】 吾(わ)れ本(も)と茲(こ)の土(ど)に来(き)たり、法(ほう)を伝(つた)えて迷情(めいじょう)を救(すく)う。一華(いっか)五葉(ごよう)を開(ひら)き、結果(けっか)自然(じねん)に成(な)る。

【意味】
①達磨の「禅宗は、中国に浸透し、将来、五つの流派に分化して隆盛する」という予言。実際、五家(潙仰・臨済・曹洞・雲門・法眼)に分かれて隆盛した。中国では、後半を家業興隆や子孫繁栄を祝福する開運吉祥の言葉として、めでたい席にこの言葉を書いた掛け軸が掛けられる。
②後半のみを取り上げ、「一つの花が、五弁の花びらを開き、やがては実を結ぶように、修行に励んでいれば、悟ることが出来る」の意の禅語と解釈し、日常用語としては、「努力を続ける人には、必ずそれ相応の結果がある」と、「結果自然成」を前回の「人事天命(努力して結果を待つ)」に似た意味で用いる。

【出典】 中国禅宗の祖・達磨大師の言葉として、多く本に掲載されている。『禅林句集』には、「一華開五葉」ではなく、「一花五葉開」とある。

ドラマでは、「結果自然成」とし、
──目の前のいちいちに、誠を持って取り組んでいけば、結果はおのずと結ばれるということじゃ。(by 南渓和尚)
と②の意味で使われている。

 

キーワード:大澤氏

大澤家は、藤原北家(中御門家流(頼宗流)持明院家)の流れをくむ名家です。

《大澤氏》
持明院通基…基盛…1基秀─2基久…9基胤…

藤原基秀は、貞治年間(1362-1368)、丹波国多紀郡大沢(兵庫県篠山市大沢)から、遠江国敷智郡堀江(静岡県浜松市西区舘山寺町)にやって来ました。
その子・基久は、堀江城を築いて城主となり、土着しました。この時、なぜか「堀江氏」と名乗らずに、旧領地の地名を使って「大澤氏」と名乗りました。

※最初は堀江ではなく、他の場所に城を築いたらしい。その後、舘山に佐田城(「佐田」は「猿田彦命」の事で、「岬」の意の地名)を建てた城主が「堀江氏」と名乗ったので、「堀江氏」とは名乗れなくなったのだという。

一説に、「堀江」という地名は、佐田城主・堀江氏の徳を偲び、その苗字を地名にしたのであり、大澤氏が「庄内」(「庄内地区」のこと。庄内町、舘山寺町、村櫛町など)にやって来た時には、まだ「堀江」という地名がなかったという。
「佐田城の城主が堀江氏で、堀江城の城主が大澤氏」「舘山寺にあるのが堀江城で、気賀にあるのが堀川城」とややこしい。

堀江氏(後に「安間」と改姓し、大澤氏の家老)は、祖を(新田氏の家臣で、南北朝時代には、後醍醐天皇の皇子・尊良親王に従っていたという)藤原時国、本貫地を越前国坂井郡河口郷堀江庄(福井県あわら市番田)とする国衆です。その居城・佐田城は、大澤氏の居城・堀江城より新しく、堀江初代光真が佐田城を築いたのは、応永年間 (1394-1429)であり、その半世紀前に 大澤氏が庄内半島に来ていることから、大澤氏は、佐田(堀江)に居城・堀江城を建てる前に、丸山(宿蘆寺山)に居城を建てて住んでいたので、「佐田氏」とか「堀江氏」と名乗らなかったようです。

中安氏の菩提寺・竜泉寺(永禄3年(1560)に大草山に建てられたが、天正5年(1577)、「上野端城(愛知県豊田市。松下氏の本貫地・松下の近く)の戦い」で有名な紅林甚二郎が中安氏の下屋敷があった現在地(内山)に移転。旧地は「竜泉寺台」と呼ばれている。なお、山門は、創建当時のもの。)

「茂山塚」(中安定安(戒名「勇将院茂山玄栄大居士」)の墓)

なお、中安氏は、5代・堀江為清の次男・堀江豊種を祖としています。氏祖・中安兵部豊種の子が中安彦次郎康勝で、その弟が築山殿の首をはねた野中重政です。

《堀江氏》
藤原時国…堀江左ヱ門景経…堀江備後守景重─1光真…安間

《佐田城主・堀江氏(6代)》
初代 堀江和泉守光真(?-?) 応永年間(1394-1429)に佐田城を築く。
2代 堀江摂津守為治(?-?) 堀江光真の子。
3代 堀江清忠(?-?) 堀江為治の弟。
4代 堀江下野守久実(?-?) 堀江為治の子。宿蘆寺開基(1466)。
5代 堀江為清(?-?) 堀江久実の子。
6代 堀江清康(?-?) 堀江為清の子。佐田城、落城(1522)。

【後裔】安間氏(浜松市在住)、中安氏(神戸市在住)、野中氏(水戸)

佐田城主・堀江氏は、今川氏(今川氏親)と斯波氏(斯波義達)の遠江守護職を巡る戦いでは、吉良氏の家臣の大河内備中守貞綱(吉良氏領浜松庄奉行で、引間城主)と共に斯波方について戦いましたが、永正元年(1504)、今川軍(伊勢宗瑞(後の北条早雲)&朝比奈泰煕を両大将とする大軍)との「黒山城の戦い」で破れ、大河内貞綱は討死(『名古屋合戦記』では、永正11年(1514)8月19日に引間城で討死)し、堀江氏は今川氏の家臣となりました。
この時、今川氏は、村櫛庄を解体して大澤氏に与えて藤原共資(井伊初代共保の父)が築いたという志津城に大澤氏を入れ、堀江城には堀江庶子家の中安氏を入れたようです。また、吉良氏は、討死した大河内氏の代わりに飯尾氏を引間城に入れました。

【史料1】 「遠州河西村櫛に堀江下野守と云者、黒山と云城に楯籠る。吉良の家人・大河内備中守は、其頃、濱松庄は吉良殿賜りて、此所奉行にて有しが、堀江に一味して黒山に籠りしを、伊勢新九郎并朝比奈備中守泰煕両大将にて馳向ひ、三日三夜に攻落し、堀江は降参して、大河内は討死す。其後、吉良殿、濱松の奉行として飯尾善四郎賢連を下し置玉ふ。」(『今川家譜』)

庄内半島の付け根の湊に「佐田城」(拡張して堀江城)、先端の湊(新津)に「志津城」があった。

「黒山城」の所在地は不明ですが、佐田・志津両城の間の山上にあったとされています。庄内半島には「丸山」という地名が2ヶ所(宿蘆寺がある宿蘆寺山と庄内学園の東の山)あり、このどちらかにあった城が「黒山城」なのだそうです。私的には、堀江城と引間城の間にある大山町(下の地図の「東大山・西大山」)にあったような気がしますが、『今川家譜』は「黒山城=志津城」と読める気もします。

いずれにせよ、今川の大軍が攻め落とすのに三日三晩もかかったのですから、黒山城は、小さな砦ではなく、立派な城であったことでしょう。

※村櫛庄(むらくしのしょう):国衙領で、国司・藤原共資が入ったが、最勝光院領(皇室領)となり、後醍醐天皇が東寺に寄付した。最勝光院は、気賀の吾跡川の川岸の楊(柳)を使って建てたという三十三間堂(京都市東山区)の南にあった。

志津城現地案内板の地図に加筆(舘山が陸続きに見えるが、島で、日本三景「天橋立」のように砂州で繋がっていたという。)

浜松人は、「村櫛」と聞くと、藤原共資が入った庄内半島の先端の「村櫛町」(浜名湖花博の開催地)を思い浮かべるが、「村櫛庄」は、庄内湾の湾岸地域、ようするに、上の写真の範囲で、庄内学園と湖東中学校の学区で、中心地は、浜松市西区呉松町、和地町、伊佐地町であった。

呉松町に式内・曾許乃御立神社(祭神:武甕槌命=鹿島神。藤原氏の氏神)があります。

武甕槌命は、常陸国から白鹿に乗って来られて、根本山の山麓で休憩されたので、そこに社殿を建てたとも、鹿島船「曾許乃御立」号でやって来られて、乙君村(現在の協和町の船着神社)に着岸したともいいます。武甕槌命の六伴神は、呉松神明(呉松津嶋に合祀)、伊左地熊野(現在の熊野神社八幡神社)、和地琴宮、佐浜貴船、平松八幡、和田西宮に祀られていて、この曾許乃御立神社六摂社の分布と村櫛庄の範囲が一致していると考えられます。

呉松神明を合祀した呉松津嶋の由緒書(大澤基久お手植えの松や杉は、そのほとんどが天保6年(1835)の暴風で倒れ、最後の1本も昭和50年(1975)に枯死した。)

ちなみに、寿桂尼が生まれて初めて発給した公式文書は、村櫛庄和地村の大山寺(浜松市西区大山町)宛「とをたうミの国むらくしのうち大山寺りやう田地参町四段ならひにやまはやし等之事」(男が書けば「遠江国村櫛之内大山寺領田地参町四段并山林等之事」)です。

永正9年(1512)閏4月2日。斯波軍(武衛衆・井伊衆・引間衆)が大軍で、大澤氏が城主を務める志津城を攻めました。この時、今川方は、援軍約70人を刑部城から船に乗せて送ったとようです。この戦いで志津城の根小屋(寝小屋)が焼かれ、志津城も大破したのか、大澤氏は堀江城に戻されました。

【史料2】 「壬四月二日 武衛衆・井伊衆・引間衆太勢にて、村櫛新津城へ取詰候而、新津の袮小屋焼払候を、形部より村櫛へ七十計、舟にて合力仕候。」(『伊達宗忠軍忠状』。伊達氏は静岡県掛川市伊達方に興った武士)

徳川家康の遠江侵攻時、大澤氏は、今川方から徳川方へ寝返った元・井伊家与力の「井伊谷三人衆」(鈴木・菅沼・近藤)と戦いましたが、大勢に無勢、徳川家康の命を受けた和議の使者・渡辺成忠の降伏勧告に従って徳川家康に従属し、江戸時代は、吉良氏や今川・品川氏などと共に高家職を務めました。

※「高家(こうけ)」は、江戸幕府における儀式や典礼を司る役職で、この職に就くことのできる家格の旗本を「高家旗本」といい、高家職に就いている家を「奥高家」、非役の家を「表高家」という。
大澤家は名家(藤原氏)で、大澤基宿が徳川家康の将軍宣下の儀礼を司った事が高家の実質的な始まりとされる。

《堀江城主・大澤氏(20代)》
初代 藤原基秀(?-?) 貞治年間(1362-1368)に丹波国から堀江へ
2代 大澤基久(?-?) 貞治年間(1362-1368)に堀江城を築城。
3代 大澤基武(?-?)
4代 大澤基利(?-?)
5代 大澤基影(?-?)
6代 大澤基輝(?-?)
7代 大澤基房(?-1533?) 志津城主。斯波家臣から今川家臣。
8代 大澤基相(?-1548?) 堀江城主。斯波家臣から今川家臣。
9代 大澤基胤(1526-1605) 堀江&佐田城主。今川家臣から徳川家臣。
10代 大澤基宿(1567-1642) 大澤基胤の長男。
11代 大澤基重(1602-1650) 大澤基宿の長男。
12代 大澤基将(1619-1678) 大澤基重の長男。 奥高家。
13代 大澤基恒(1656?-1697) 藤堂高次の四男。 奥高家。
14代 大澤基隆(1689-1730) 大澤基恒の養子。
15代 大澤基朝(1718-1791) 大澤基隆の子。奥高家。
16代 大澤定寧(1741-1776) 大澤基朝の次男。奥高家。
17代 大澤基之(1760-1822) 近藤英用の六男。奥高家。
18代 大澤基昭(?-1853) 大澤基之の子。奥高家。
19代 大澤基暢(1823?-1862) 大澤基昭の子。奥高家。
20代 大澤基寿(1847?-1911) 奥高家。万石事件→堀江県消滅。

宿蘆寺(大澤氏の菩提寺。山門は、「龍潭寺の山門」としてドラマで使われている)

歴代大澤氏の墓11基(宿蘆寺)

 

キーワード:堀江城

堀江城は御陣山(「城山」とも。静岡県浜松市西区舘山寺町)にありました。

堀江城(御陣山)遠望(観覧車がある場所が最も高所であるので、本丸跡だという。舘山には舘山寺があり、ロープウェイで繋がっている内浦湾の対岸の大草山の山中には「隠し砦」(女・子供・負傷者の避難所)があったという。)

 

堀江城現地案内板

堀江城現地案内板(写真)の縄張り図

「浜名湖内浦を見下ろす丘の上に築かれた城跡です。現在、遊園地の観覧車がある場所が本丸と考えられます。戦国時代にはこの地域の領主であった大澤氏が拠点としていました。城の西側には舘山寺の門前町がにぎわい、また門前町と城の間には掘割[水路]があって多くの船が停泊しました。湖面を渡る水上交通路を掌握した人物の城跡です。大澤氏は井伊氏と同様、今川氏の家臣として活躍しますが、徳川家康の遠江侵攻時には井伊氏と立場を違え家康に抵抗します。しかし、堀川城(北区細江町気賀)の落城を見て和睦し、配下となって幕末まで旗本としてこの地を支配しました。」(現地案内板)

今回の記事は、「井伊家マニアックス」の記事の中でも指折りのマニアックな内容だったと思います。最後までお読み下さり、感謝、感謝でございます m(_ _)m

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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