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久留女木の棚田

井伊家を訪ねて

戦国時代の検地と井伊家の領土は? おんな城主直虎ロケ地巡り&レビュー

 

今回のロケ地である「日本の棚田百選・久留女木(くるめき)の棚田」は、観音山の南西斜面の約800枚の水田で、静岡県浜松市北区引佐町東久留女木・西久留女木に位置しております。
その開墾は、平安末期に始まったとされており、井伊直平・直宗親子の時に本格的に進み、井伊直盛の代に完成したとも。

如意院(東久留女木)

井伊直宗の妻(井伊直盛の母)・浄心院(井平右京助直郷の娘)は、久留女木に如意院(静岡県浜松市北区引佐町東久留女木)を建てて、天文11年(1542)の田原城(愛知県田原市)攻めで討死した夫・井伊直宗の菩提を弔いました。
井伊直盛は「隠居免」と称して、母・浄心院の世話をした村人の年貢を免除しております。年貢がかからないのであれば、広い土地を有して、たくさんの米を収穫しないと損! というわけで、久留女木の新田開発が一気に進んだそうで。

井伊直盛の代には、今川氏の三河国への侵攻が盛んで、父・井伊直宗も三河国で命を落としました。
井伊直宗が宗主の時、井伊直盛が文書を発給していることから、「井伊直宗架空人物説」が生まれましたが、井伊直宗は三河国で戦っていたので、井伊谷では、まだ若い井伊直盛が宗主代行として、文書を発給していたようです。

相次ぐ出兵で、井伊家はどんどん貧しくなっていったはずです。
が、なんと、なんと、井伊直盛は裕福でした。
『井伊家伝記』に、「井伊信濃守直盛公善根之事」という段があり、そこには、
「右之外、末寺報恩寺・大藤寺・圓通寺、神宮寺村八幡宮・澁川村八幡宮・同村万福寺・都田村八幡宮・小野村大寶寺、領内神社佛閣、数多御建立・御寄進之地有之候。」
とあります。
井伊直盛は、右(龍潭寺の整備)以外に、
・龍潭寺末寺・報恩寺(浜松市浜北区宮口)
・龍潭寺末寺・大藤寺(浜松市北区細江町中川重長。廃寺)
・龍潭寺末寺・円通寺(浜松市北区引佐町井伊谷。明円寺と合併して晋光寺)
・神宮寺村・八幡宮(現・渭伊神社。浜松市北区引佐町井伊谷)
・渋川村・八幡宮(浜松市北区引佐町渋川。廃絶社)
・渋川村・万福寺(廃寺。薬師堂は東光院にある。)
・都田村・八幡宮(浜松市北区都田町)
・小野村・大宝寺(浜松市浜北区尾野。可睡斎末寺となり曹洞宗に改宗)
などの寺社の建立や、寺社への寄進をしたそうです。
善根を積みたくても、財力がなければ、これだけ多くの寺社の建立や、寺社への寄進は無理です。
さて、井伊家の財源は如何に?

 

第7話 「検地がやってきた」 あらすじ

井伊家の財源。
その1つと考えられるのが「隠田(おんでん、いんでん、かくしだ)」(「忍田」とも)であろう。
「隠田」とは、農民が年貢の徴収を免れるために密かに耕作している水田のことで、その多くが山中にあって、地図にも、検地帳にも載っていない。
そして、ここでいう「隠田」は、井伊氏はその存在を知っているが、今川氏は知らない水田を指している。

今川氏との戦い(浜松市地域遺産センター)

永正7年(1510)に始まった斯波・井伊連合軍と今川氏の戦いは、永正10年(1513)、今川氏が勝利して終わった。
井伊氏は居城・三岳城を追われ、三岳城は、今川氏親の属城となり、三河国作手から奥平貞昌が呼ばれて城代(城番)として入った。この戦いで、川名の福満寺と玉泉院が全焼。奥平貞昌は、天文4年(1535)に三岳城で亡くなっているので、少なくても22年間、井伊領は今川氏に占拠されていたことが分かる。
今川氏から三岳城(井伊領)が返されたのは、天文5年(1536)に今川氏親を継いだ今川氏輝が亡くなり、今川義元が継いでからだという。このとき井伊直平は、今川義元に一人娘の佐名を人質に出して許しを請うたという。また、「国衆」から「今川家臣」に変わったとも伝わる。

今川氏と和解するまで20年以上の間、井伊直平は、龍泰寺(後の龍潭寺)を建てたり、方広寺を再興したりしている。
また、井伊直虎が井伊谷の井伊氏居館で生まれたというから、今川氏に井伊領を乗っ取られたというわけでもなさそうである。井伊領の今川軍は進駐軍で、奥山貞昌はマッカーサーといったところか。

しかし、ある研究者は「井伊直平は川名に隠れ住んでいた。井伊直虎は川名生まれかもしれない」と主張されている。
ドラマはこの説を採用したのであろうか。ドラマでの井伊直平に次のように言わせていた。
「ここは、もしもの時に、井伊の民が逃げ込むところでな。かつて、今川に追い込まれた時、わしらはここに隠れ住み、時を稼ぎ、命脈を保ったのじゃ。ここがなければ、井伊は滅んでおったかもしれぬ。ここは文字通り、最後の砦なのじゃ」

戦いのとき、戦場となる場所の領民は戦火を避けて一時的に山中に避難する。
たとえば、長篠の戦い(長篠・設楽ヶ原の戦い)の時、付近の領民は、草鹿山(浅間山・千人塚)の裏の「小屋久保」に逃げている。しかし、ここは20年以上も隠れ住んだ場所であり、「避難所」のレベルはもちろん、「隠れ家」「隠田」のレベルをも超えた「隠れ里」なのであった。

前回、次郎法師を死んだことにして川名に隠すと言っていたのは、この隠し里に隠すつもりであったのであろう。ちなみに、ロケ地は上述のように川名ではなく久留女木である。
「竜ヶ岩洞」という観光客必見の洞窟があることで有名な竜ヶ岩山の山頂の「竜ヶ石砦」は、井伊家の「隠し砦」であり、いざという時に逃げ込む場所であった。狼煙台もあったという。

隠れ里の出入り口(実は龍宮小僧の墓の出入り口)

さて、検地は国衆の仕事であり、上級権力者の今川氏の仕事ではない。
が、今回、今川氏から検地奉行(役人)が来て、井伊領の「指出(さしだし)」を提出させた。昊天宗建は次郎法師に「持っている田畑の広さや取れ高、村の人数などを記したものを指し出すのです。それを元に今川は賦役や軍役を課すのですよ」と説明しており、それを元に今川の役人が検地をする。

その理由、ドラマでは井伊直盛が
「今川はいま一度検地をやり直し、国衆たちへの賦役を見直すそうじゃ」
と言っていた。
井伊直平や中野直由は「最後の砦」だから発見される事自体がダメだと言い、井伊直盛は、今川義元は新田の開発を奨励しているので「隠田」は「新田」だと報告すれば問題ないが、耕作面積が広まれば、当然、石高が増えるわけで、次の合戦から召集人数が増えることを危惧していた。

「隠れ里は井伊家にとって今後も重要な場所であり、隠し通すべきだ」と考えた井伊直親は、隠れ里から帰宅すると、踵を返して龍潭寺へ行った。軍師・南渓和尚に策を授けていただくためかと思いきや、目的は次郎法師であった。
井伊直親は、川名の隠し里を隠し通すために考えられる方策はざっと2つ。
①役人を丸め込もう。
②①が無理なら、案内時にごまかそう。
そんな考えのもと、次郎法師に、瀬名姫(築山殿)に検地奉行の名と、好みの物、困ってる事、弱みなどを調べてもらうように頼んだ。次郎法師が渋々了解すると、井伊直親は言い放った。

「恩にきるぞ、龍宮小僧
これは言ってはいけない言葉だ。
「我は『龍宮小僧』だ」「我は『かびた饅頭』だ」「我は馬鹿だ」と自分で言うのであればよいが、他人に「お前は『龍宮小僧』だから」「お前は『かびた饅頭』だから」「お前は馬鹿だから」とは言われたくない。
とはいえ、愛する人のため、次郎法師は瀬名姫に手紙を書いた。

──検地奉行がやってきた。

※「おんな城主 直虎」の各話のタイトルには、元ネタがある。
第1話「井伊谷の少女」はアニメ『風の谷のナウシカ』
第2話「崖っぷちの少女」はアニメ『崖の上のポニョ』
第3話「おとわ危機一髪」はスパイ映画『007危機一発』
第4話「女子にこそあれ次郎法師」は『井伊家伝記』の一節
第5話「亀之丞帰る」は菊池寛の戯曲『父帰る』
第6話「初恋の別れ道」は中国映画『初恋の来た道』
今回の「検地がやってきた」はTBSの音楽番組『オーケストラがやってきた』が元ネタだという。

さて、やって来た検地奉行の岩松は堅物で、お酒をすすめても飲まない。飲みにケーションに持ち込めない。取り付く島もない。
瀬名姫からの連絡も無く、まるめ込めそうにないので、もし隠れ里が見つかったら、その場でごまかすしかない。

──隠し里が見つかってしまった。

この時、駿府から帰った南渓和尚が、瀬名姫から手紙を預かっていた。その手紙には、「取り付く島」が書かれていた。次郎法師は、馬を走らせ、隠し里の井伊直親の元へと急ぐ。間に合うのか?

岩松「ここの里はどこのものじゃ?」
井伊直親「何分、帰参いたしましたばかりでございまして・・・但馬!」
小野政次「ここはかつて、南朝の御子様が隠れてお住まいになられていた里でございます。故に、井伊の領地にありながら、井伊の領地にあらずという扱いでございます」
岩松「心得申した」

小野政次レベルの頭脳であったら、瀬名姫に調べさせなくても、「岩松」と聞いただけで、上野国新田荘岩松郷を本貫地とする南朝遺臣で、今川氏に拾われた人物であることは容易に想像がつく。
井伊氏が南朝方で、後醍醐天皇の御子・宗良親王を匿った一族であることを岩松氏が知らないわけがないので、そこ(「取り付く島」)を突けば良いのである。
一件落着。次郎法師の唱える『観音経』が皆の心を鎮ませた。

小野政次の弟・小野玄蕃は、
「竹馬の友とは、良きものに御座いますな」
と脳天気にも羨ましがっていたが、その絆に入った割れ目は、すでに修復できないほど広がっている。

今回の心理学 「好意の互恵性」

人は、知らない相手に対しては、批判的・攻撃的になる。
人は、相手との共通点を見つけた時、打ち解け合える。
人は、相手の人間性を知った時、好意的になれる。
人は、自分を好きになってくれる人を好きになる。

役人が来た。
名を「岩松」という。
岩・・・名前からして融通の効かない頑固者に思われる。こちら側に引き入れたいのであるが・・・。

こういう時は、いろいろ質問する。
「趣味はなんですか?」
「お生まれはどちらですか?」
質問していくうちに、「自分と同じ趣味だ」「同郷だ」と共通点(「取り付く島」)が見つかり、そこから話が広がって、打ち解け合えるものである。
このように、その場でいろいろ質問して会話を進めていけば良いのであるが、あらかじめ調べておけば、質問責めをしなくとも、最初から順調に会話が進められる。それに、

「今日は愛する妻の月命日です」
だなんて、会ったばかりの人には言わないだろうから、会う前に調べておくと良い。ただし、事前にあまりにも詳しく調べると、
「ス、ストーカーですか (((;゚ρ゚))) ガクブル」
と怖がられてマイナスだ。

良好な人間関係は、まずは相手を知ることから始まる。その中で、相手のいい点、いい性格(たとえば「愛妻家」)を知ればその人に好意が持てる。
そして、好意を持って接すれば、相手も好意を返してくれるものである。これを心理学では「好意の互恵性」と言っている。
──好意には好意を。恋には恋を。愛には愛を。
人は自分のことを信じてくれる人を、信じる。
──信用には信用を
である。

今回、小野政次が、次郎法師に「俺の思うように事が進むように(初代様に祈っていた)」というと、次郎法師は、夜中に小野政次の家に押しかけ、「この度の検地は、亀の味方をしてやって欲しい」と土下座した。
これを小野政次は「疑心暗鬼」(疑いの心があると、疑わしく感じて、いてもたってもいられない状態になること)と捉えた。井伊家の初代様に祈るのであるから、その内容は「井伊家が安泰でありますように」以外には考えられないというのに。

小野政次は、井伊直親に「隠田の存在ををバラすか、隠し通すことに協力するかは任せる」と言われた時点で、「試すってことは、信じてないってことか」と悟り、「信じているふりをしていただけだったんだな」と言うと、「(信じきってはいないが)おとわのために井伊家を守ってくれ」と次郎法師をだしに使って協力させようとしてきた。
「そういうところが好かん」
井伊家の問題児は、暴れまわる井伊直平だと思われがちだが、実は次郎法師に「死んでくれ」と頼んで次郎法師を困らせたり、「隠田を隠し通そう」として小野政次を困らせている井伊直親である。

戦国時代の井伊領(推定)

 

キーワード:検地

「検地(けんち)」について『日本史広辞典』(山川出版社)で調べてみました。

けんち【検地】 縄入(なわいれ)・縄打(なわうち)・竿入・竿打・地押(じおし)とも。
戦国期以後、とくに近世の領主が所領を把握するために行った土地の基本調査。江戸時代の検地は、村単位に実施され、一筆ごとに所在地や地種・面積・等級・名請人を確定し、さらに村の生産性を米の収穫量(石高)に換算するもので、検地によって確定された検地帳は年貢や請役賦課の基礎台帳として重要であった。
戦国期には後北条氏や今川氏をはじめ多くの大名が検地を実施しているが、その過半は指出(さしだし)が中心である。豊臣秀吉による太閤検地は全国をほぼ同一の検地基準で把握しようと試みたもので、一段=三〇〇歩、一間=六尺三寸という新たな基準値が設定され、三〇歩=一畝とする畝歩制がとられた。江戸幕府の検地は、おおむね太閤検地の基本方式を踏襲したが、その基準値は一間=六尺とされた。幕府の検地としては慶長検地、寛永・慶安検地、寛文・延宝検地、元禄検地などが重要であるが、一八世紀に入ると、新田(しんでん)検地を除き大規模な幕領検地は実施されなくなった。

さしだしけんち【指出検地】 戦国期~近世初頭に行われた検地方法の一つ。領主が直接奉行を派遣して土地面積、その収量などを調査する丈量(じょうりょう)検地ではなく、家臣や寺社・村落などに土地の面積・収量・作人などの明細を報告させる検地方式。各耕地を一筆ごとに記録したものから、面積や収納高の合計だけのものまである。基準も不統一で、細部までの正確な把握は困難であった。戦国大名の検地はほとんどこの方式で、太閤検地も指出方式によるものが少なくない。

けんちちょう【検地帳】 水帳・縄打帳・竿入帳・地詰帳などとも。検地の結果を一村ごとに記録した土地の基本台帳。検地帳の形式は太閤検地段階でほぼ整えられ、江戸時代に整備された。通常は村内の田畑・屋敷地について一筆ごとの地字(ちあざ)・地種・等級、縦横の間数、面積および名請人(なうけにん)などが記載され、末尾には地種・等級別の面積集計と石盛(こくもり)・石高、および一村全体の面積総計と石高総計が記され、最後に検地奉行をはじめとする諸役人と村方の代表者の署名・押印がなされた。検地本帳は二通作成され、領主と村で一冊ずつ保管するのを原則とした。江戸時代を通じ、宗門人別帳と並んで、農政・民政上の最も重要な基礎台帳であった。

けんちぶぎょう【検地奉行】 縄奉行とも。検地を執行する責任者。竿入(さおいれ)をし、田畑の上下の品等を定めた。封建制下の検地は土地・人民の支配を明確にするもので、執行にあたってば公正・敵正を要求された。また豊臣政権期には在地給人や農民らの抵抗があり、反抗する者は「なで斬り」にせよと指示された。複数任命される場合が多く、その上に全体を統轄する惣奉行がおかれた。江戸幕府では勘定奉行が惣奉行的役割をはたした。

現在知られている今川検地の初見は、永正15年(1518)3月9日付の遠江国相良荘般若寺(旧・榛原郡相良町大沢、現・牧之原市大沢)宛の今川氏親判物(写)の「検地」で、この年以前に実施されていた検地について言及している。当時は仲が良かった北条氏は、永正3年(1506)から検地を始めているので、今川氏も文書が現存していないだけで、駿河国ではもっと早くから検地が始められていたことであろう。

永正15年以降、今川氏滅亡までの駿遠三の検地事例は81件あるが、その多くは「公事検地」(百姓の起こした訴訟(公事)の解決手段として、訴訟の対象となる限定された地域で、紛争解決の裁定資料の制作のために行われる検地)であり、その中には隠田摘発を契機として訴人が現れての公事検地もあるという。(参考:有光友学『戦国大名今川氏の研究』「今川氏公事検地論」参照

今回の検地について、井伊氏には、検地の目的を「国衆たちへの賦役の見直しのため」と伝えておいて(噂を流しておいて)、実は誰かが「井伊領には隠田がある」と内部告発したので、「公事検地」が行われたのかもしれない。

ところで、井伊領は、「井伊保」とか、「井伊荘」とか呼ばれてた。
その範囲は、「井伊直盛が創建・寄進した寺社がある範囲」と考えていいであろう。

※ドラマの地図には「黒田、川名、花平、井伊谷、奥山、小野、刑部、金指、祝田、瀬戸、都田、赤佐」とあり、井伊領の南半分に該当する。

『荘園志料』に「井伊荘」は、次の39村とある。

上都田、下都田
上刑部、中刑部、下刑部
前山、祝田、石岡、瀬戸、鷲沢、三嶽、花平、兎荷、滝沢、川名、久留女木、澁河、別所、四方浄、田沢、梅箇平、的場、狩宿、矢沢、黒田、井平、田畑、奥山、杼窪、黒淵、白岩、東牧、横尾、神宮寺、井伊谷、金指、五日市場、広岡、井小野

『礎石伝』には、「井伊之荘」は、井伊初代共保の頃から次の41村。

遠江国引佐郡四拾壱村之内者、不残井伊之荘也。郷四。
伊福郷 気賀宿(呉石村、葭本村、下村)、小森村、油田村、伊目村
都田郷 上、下
刑部郷 上、中、下
井伊谷郷(三十一村) 祝田村、瀬戸村、石岡村、金指村、五日市場村、廣岡村、井小野村、神宮寺村、井伊谷村、鷲沢村、滝沢村、久留女鬼村、川名村、兎荷村、伊平村、青砥村、四方浄村、別所村、梅平村、田沢村、渋川村、的場村、黒田村、谷沢村、狩宿村、奥山村、田畑村、栃久保村、白岩村、黒淵村、横尾村
右四郷〆四拾村外ニ大谷村を入候而、都合四十一村也。
右井伊荘四十壱村者、井伊遠江介共保、勅許拝領の庄薗ニシテ萬代不易之地也。

この2つを比べて分かることは、
①『荘園志料』には伊福郷(気賀など)が含まれていない。
②どちらにも麁玉郡(浜松市浜北区)が含まれていない。
ということである。

気賀は井伊領ではないであろう。徳川家康の遠江侵攻時に、徳川家康が井伊谷三人衆に示した成功報酬は、

一井伊谷跡職新地・本地一圓出置事
一二俣左衛門跡職一圓之事
一高園曾子方之事
一高梨
一気賀之郷
一かんま之郷
一まんこく橋つめまて
一山田
一川合
一かやは
一國領
一野邊
一かんさう
一あんま之郷
一人見之郷并新橋・小沢渡

であり、「井伊谷跡職」(旧・井伊領)と「気賀之郷」が分けて書かれていた。三宅郷や、赤佐郷が載っていないのは、それらが「井伊谷跡職」に含まれているからであろう。
麁玉郡(三宅・碧田・覇田・赤佐郷)の赤佐郷は、井伊家庶子家の赤佐氏(後に奥山に移って奥山氏)の本貫地であり、上述の『井伊家伝記』に三宅(宮口)の報恩寺や、赤佐(尾野)の大宝寺が出てくるので、井伊領ということでよろしいのではなかろうか。碧田・覇田両郷は飯尾氏領のようである。

地図を見れば分かるが、井伊領のほとんどが山間部である。水田は、井伊谷、都田川流域、麁玉郡内ぐらい。山間部の特産物は、久留女木の鮎とか、祝田の松茸とか・・・隠田の収穫を入れても、寺社を創建するような大金持ちにはなれそうにない。

さて、井伊氏の財源は何? この件については、次第に明らかにされていくもよう。

竹千代元服の地・静岡浅間神社

 

キーワード:政略結婚

「桶狭間の戦い」で織田信長を相手にしたとき、今川義元が、松平元信(後の松平元康、徳川家康)と井伊直盛に先鋒を命じている。松平家と井伊家には特別な思いがあるのだろうか?

──松平元信の妻は、今川庶子家の関口氏の娘。
──井伊直盛の妻は、今川庶子家の新野氏の娘。

結婚により、松平家も、井伊家も、今川家とは親戚になった。いわゆる「政略結婚」である。
「政略結婚」の妻は、夫の身辺を探るスパイでもあったので、この2つの政略結婚は、今川家が、松平家や井伊家の動向を気にしていたことの表れなのだろう。

「政略結婚って・・・好きでない人と結婚なんて悲しいね」

という人もいるけれど、一緒に過ごして相手の良さを「知る」と好きになっていくケースもあるし、政略結婚の相手はお金持ちだから生活費で不自由することはないだろう。そう考えれば悪い面ばかりじゃないかもしれない。

瀬名姫にしたら、結婚しても松平元信は人質のままで、駿府にいるから、いい条件かと。親と離れ、「第二の京」と呼ばれた駿府を離れて岡崎のような田舎(失礼m(_ _)m)に住むのであれば、不安であるし、またプライドも傷つくかもしれないが。

『今川仮名目録』に「一 駿遠両国之輩(ともがら)、或(あるいは)わたくしとして他国よりよめを取、或ハむこに取、むすめをつかハす事、自今(じこん)以後これを停止之畢(ちようじしおわんぬ)」とあるから、駿河国の今川庶子家の関口氏の娘と、三河国の松平氏の息子の結婚はまずいのではなかろうか。それ以前に、次期宗主・今川氏真が相模国の北条氏の娘と結婚するのは、法律違反のはずだが、よく見ると「わたくしとして」という条件がある。政略結婚は、私事ではないので、他国の人であっても結婚は可能なのだろう。

※井伊直盛と新野親矩と結婚の場合は、新野親矩の妻は、井伊庶子家の奥山氏の娘(奥山朝利の妹)であるから、「政略結婚」というより「人質交換」に近い。

小野政次の実弟である小野玄蕃と奥山なつ(井伊直親の妻・奥山ひよ(ドラマでは「しの」)の妹)を結婚させたのは、今回、小野政次が井伊の味方をしてくれたので、ここで一気に小野家と血縁関係を築いておこうという井伊直盛の政略のようである。

小野玄蕃は、井伊直親の事を聖人君子だとして気に入っているので、将来、井伊直親の忠臣になりそう……と思ったらネタバレで申し訳ないけど「桶狭間の戦い」で討死しちゃうんだよなぁ (ノ _-。)

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

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