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井伊家を訪ねて

小野政次と虎松の気になる行く末 / 花押の意味を再確認しておこう!

関口氏経「太守様よりのお下知を達しに参った。『かねて、井伊領内の百姓らの願い出たる徳政令、井伊に速やかに行うことを命ずるものなり』」
井伊直虎「あの時の『徳政令』を、何故、今、再び?」

2年前に出された「徳政令」の話を蒸し返されても、ただただ驚くばかりですが、井伊直虎は、「徳政令」の施行を決意し、調印しました。
これが「関口氏経・井伊直虎連署状」と呼ばれる判物で、「直虎」の署名がある唯一の文書です。

【原文】
祝田郷徳政之事。去寅年以 御判形雖被仰付候、銭主方令難渋、于今就無落着、本百性令許詔之条、任先 御判形旨、申付処也。以前々筋目名職等可請取之、縦銭主方重而雖企訴訟、不可許容者也。仍如件。
関口
永禄十一辰   氏経(花押)
十一月九日
次郎
直虎(花押)
祝田郷
禰宜
其外百姓等

【現代語訳】
祝田郷の徳政の事。
去る寅年(2年前の永禄9年)に今川氏真が「御判形」(判物)を発給してご命令されたが、銭主方(瀬戸方久)が「難渋」(渋ってなかなか承諾しないこと)し、(あれから2年経った)今も落着していない。此の度(銭主・瀬戸方久には「安堵状」を出したこともあって、「徳政令」の施行に反対していない上に)、本百姓が(「徳政令」の施行を求めて)訴えてきたので、先(2年前)の「御判形」の内容通りに徳政を行いなさい。従来からの由緒によって、(失った)名職(名田とそこから得られる諸権利)を受け取ってよい。たとえ銭主方が重ねて(徳政免除の)訴訟を企てても、それは受け入れられない。以上の通り。

※判物:室町幕府、足利将軍の出す文書には、公的な文書と私的な文書があった。公的文書は「御判御教書(ごはんのみきょうじょ)」と呼ばれ、「状如件」(じょうくだんのごとし)で終わり、発行年月日が記されている。私的文書は「御内書(ごないしょ)」と呼ばれ、手紙形式で書かれ、「恐々謹言」等で終わり、発行月日が書かれるが、年号は書かれない。
戦国武将もこれに準じた。
そして、これらの文書には、「花押(かおう)」というサインが書かれた。
「花押」は「印判」(印鑑)に対して「書判」(かきはん)と呼ばれ、「書判のある文書」を略して「判物」と言い、「印判」のある文書を「黒印状」「朱印状」と言う。
改めて「関口氏経・井伊直虎連署状」を見ると、この判物は、「仍如件」(仍(よ)って件(くだん)の如(ごと)し)で終わり、発行年月日、署名と花押があることから、「御判御教書」に準じた「公式文書」であることが分かる。

※残念なことに、永禄9年に今川氏真が出した「惣谷徳政令」(井伊谷徳政令)の文書は現存していない。

さて、この公式文書に署名した「次郎直虎」という名は、どの井伊家系図にも載っていないので、その正体は不明でした。
その研究史は、次の3期に分かれます。

第Ⅰ期 南渓和尚、虎松、小野政次
第Ⅱ期 次郎法師説
第Ⅲ期 関口氏経の息子説

第Ⅰ期 「次郎」は井伊宗家の通称で、「直」は井伊氏の通字であることから、「次郎直虎」は「井伊次郎直虎」であり、永禄11年当時に「徳政令」を施行出来る立場の人間=領主であると考えられました。そのような人物が、系図に載っていないわけがないのに、載っていないのが不思議です。それはさておき、系図に載っているのは、南渓和尚(井伊直平の子。還俗して直虎?)、虎松(井伊直親の子・元服して直虎?)です。また、小野家も井伊家庶子家と考えられ、「井伊(あるいは小野)次郎直虎」と名乗ったのではと、選択肢が広げられました。

第Ⅱ期 静岡大学の若林淳之氏が、昭和30年(1955年)に「今川氏真の苦悶 ―今川政権の終焉―」という学術論文とは思えないタイトルの学術論文を公表し、「次郎直虎」は領主であり、当時の領主である次郎法師であるとしか考えられないとしました。「直虎」という名から男性だと考えられていたのですが、井伊家系図の井伊直盛の子である「次郎法師」は女性であり、「次郎法師」という男性名を名乗るような女性であるから、「直虎」という男性名を名乗ってもおかしくはないとされました。ここから派生した説に「次郎法師が還俗して直虎と名乗った」「普段は次郎法師と名乗り、公式文書に署名する時のみ直虎と名乗った」があります。

第Ⅲ期 2017年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」の放映に合わせるかのように、京都井伊美術館で、『守安公書記』(全12巻)「雑秘説写記」と『河手家家譜』が発見され、そこには、井伊直虎は、関口氏経の息子だと書かれていました。

※『守安公書記』に「井の谷ハ免ん免ん持尓て志つまり可年候ニ付而、其後、関口越後守子を井之次郎尓被成、井の谷を被下也」(井伊谷は、(奥山氏が奥山、中野氏が中野など)面々が、面々の土地を持っていて鎮まりかねていた(バラバラで、宗主のもと、一つにまとまっていなかった)ので、その後、(今川氏真は、)関口越後守氏経の子を「井の次郎」と名付け、井伊谷を与えた。)

※『河手家家譜』の「井ノ直虎」(良恭追記)の横に「次郎也」、「景隆、井伊次郎に属す。此次郎は御家に非ず、今川の物也。此時、次郎法師を後見す」(良恭追記)とあり、欄外に「次郎法師は直盛公御女也」と朱で追記。(古道一以庵主(河手良栄の三男・東寺沙門。寛文7年(1667)2月没)著『一以庵主古記』に基づいて河手良恭が追記。)

発表された当時は、「1つ場所(井伊谷)に2人の領主(女性の次郎法師と男性の井伊直虎)がいるわけがない」と批判されました。
現在は、「(関口氏が「井伊」と名乗れるわけがないので)関口氏経の息子・次郎法師は、井伊直盛の娘の婿養子になり、井伊直虎と名乗った」と考えられています。

ドラマで、不思議なのは、「徳政令」が出ると、
「なぜ井伊家がつぶれるのか」
「なぜ井伊領が今川直轄領になるのか」
です。

祝田郷を失ったとしても、井伊領は広いので、問題ないはずです。
そもそも徳政令は領主が出すものであり、今川氏が出したということは、
「永禄9年の時点で井伊領は今川直轄地であったから徳政令を出せた」
「井伊領は今川直轄地であったから、関口氏経の子に与えることが出来た」
と考えられます。

★井伊谷略年表
・永禄3年 井伊直盛が、「桶狭間の戦い」で殉死
・永禄5年 井伊直親が、徳川氏と内通して誅殺さる。
・永禄6年 井伊直平が、武田方に寝返った天野氏討伐で討死
・永禄7年 中野直由と新野親矩が、徳川方に寝返った飯尾氏討伐で討死
・永禄8年 次郎法師が地頭就任
・永禄9年 今川氏真「井伊谷徳政令」(惣谷徳政)公布
・永禄11年11月9日 「祝田郷徳政令」施行
・永禄11年12月15日 井伊谷城、落城

 

第31話 「虎松の首」 あらすじ

井伊直虎は、祝田郷徳政令に調印した。
これにより、井伊領は、今川直轄領となった。

──井伊は死んだ。
あとは、徳川家康に蘇らせてもらうだけである。

──井伊一族は、川名の隠し里でその時を待った。
もちろん、ただ黙って、じっとしていた訳ではない。
奥山朝忠が同伴して、鳳来寺(愛知県新城市)へ虎松を逃した。

※川名の隠し里の井伊直平屋敷の位置については不明であるが、
・井伊直平墓所がある場所に城があった。
・渓雲寺(井伊直平の菩提寺)は直平屋敷跡に建てられた。
という伝承がある。

※アジール(龍潭寺)に隠れれば良いと思うが、今回のドラマでは、小野や今川の家臣が虎松を探して入り込んでいて、龍潭寺は、「アジール(避難所)」の役目を果たせていない。

※虎松と鳳来寺に向かう奥山朝忠は武蔵坊弁慶に似てる?
武蔵坊弁慶なら、僧兵姿で、七つ道具を持ち、源義経(牛若丸)を連れ・・・ちなみに、鳳来寺は源義経の兄・源頼朝が隠れた場所で、鳳来寺に向かう石段の半分は源頼朝の寄進という。

──井伊を断絶せよ!(by 今川氏真)
この命令に対し、関口氏経が、「刃向かいもせず、徳政令を受け入れた者をですか? 井伊の尼城主は、殊の外、民に慕われておったようですし、いらぬ火種になりましょうかと」と意見したので、てっきり「井伊直虎の首」をとるのかと思っていたら、「虎松の首」であった。
いずれにせよ、この殺害命令の理不尽さ、非情さが、関口氏経が武田方に寝返るキッカケになった?

小野政次は、虎松の身代わりに疱瘡の子の首を関口氏経に差し出した。
疱瘡の致死率が100%であれば、安楽死とも言えるが、そうではない。
井伊家存続のために殺したのである。

──案ずるな。地獄へは俺が行く。(by 小野政次)
無事、首検分が終了すると、井伊直虎は、井伊を救った子の首を、自らの手で埋めた。
本来ならば駿府へ送る首であろうが、今川家臣は「疱瘡」と聞いて、皆、腕で鼻と口を押さえていた。誰も持ちたがらないので、井伊に置くことにしたのであろう。

「地獄へは俺が行く」(by 小野政次)
高橋ファンは「カコイイ!」とうっとりし、歴史ファンは「ここで使ったか!」と唸る台詞です。
遠江小野家の氏祖・小野篁は、昼間は朝廷で官吏を、夜間は冥府(地獄の閻魔庁)で閻魔大王の裁判の補佐をしていたという。
冥府との往還には井戸を使い、その井戸は、京都東山の六道珍皇寺の現「黄泉がえりの井戸」(「死の六道」と呼ばれる入口)と京都嵯峨の福正寺(廃寺)の井戸(「生の六道」と呼ばれる出口)にあったという。

このドラマでは、さすがに冥府へ行くシーンは無いが、小野政次が「井伊共保出生の井戸」を通して冥府の井伊直親に語りかけ、井伊直親が井戸端の橘を揺らして答えるというシーンは度々ある。

 

今回の言葉 「痘痕も靨(あばたもえくぼ)」

【意味】 好きな人の「あばた」が「えくぼ」に見える。ひいき目で見れば、どんな欠点も長所に見えるということ。

「恋は盲目」である。
好きな人がやることは全て「好き」。でも、同じ事を嫌いな人がやると「嫌い」。
嫌いな人については、全てが嫌い(「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」)で、中野直之は小野政次の全てが嫌いみたい。

いい人間関係を築くには「好かれること」が必要。
そのためには・・・ワタシ的には見た目と言葉。「清潔」を保ち(服や顔や髪を綺麗にし)、美しく、上品な日本語を話すことが肝要かと思う。

疱瘡(天然痘)は、非常に強い感染力を持ち、感染すると、全身に膿疱を生ずる。
致死率は、20%~50%と高いが、100%ではなく、治癒する場合もある。
しかし、治癒しても「瘢痕(あばた)」が残る。

1796年、ジェンナー は、我が子に牛痘の膿を接種させた後、疱瘡の膿を接種すると、発病しないことを突き止めた。
これによって人類初のワクチンである「天然痘ワクチン」が開発される。
この種痘の実施は全世界に広まり、1980年5月8日、WHOは、「天然痘根絶宣言」を出した。

天然痘は、人類が根絶できた唯一の感染症である。
※ジェンナー が我が子を使った生体実験は「美談」とされたが、後に、「我が子」ではなく、「使用人の子」であることがバレて非難された。

「疱瘡の原因である「疱瘡神」は赤が嫌いなので、疱瘡にかかったら、神社へ赤石を1個もらいに行き、治癒したら赤石を2個奉納する」という「赤石倍返し」の風習が各所にあったが、「天然痘根絶宣言」後は廃れた。
「遠州七不思議」の「晴明塚」もこの類であろう。
ただ、「晴明塚」の場合は、「不思議」だけあって、返却する石の色は、何色であっても、一晩で赤く変わるという。

社前に多くの赤石が置かれている。(雷三社)

遠江国の名神大社は、西端の角避比古神社と東端の敬満神社の2社のみである。
「角避比古神」は、その名に「角」を有することから、「牛頭天王」と考えられた。
古代人には「牛痘にかかれば、疱瘡にかからない」という知識は無いと思うが、牛頭天王は、「疱瘡除け」の神である。

残念ながら、角避比古神社は大地震で倒壊したが、その後身社である湊神社は、疱瘡治癒祈願の参拝客で賑わったという。

角避比古神社のご祭神の漂着を示す地図(細江神社)

「湊神社」案内板(静岡県湖西市新居町)

角避比古神社は大地震で社殿が倒壊しただけではなく、神体像が流され、最終的には赤池(浜松市北区細江町気賀)に漂着したという。
その池の北に「牛頭天王社」が建てられたが、明治の神仏分離令により、社名は「牛頭天王社」から「細江神社」に、ご祭神名は「牛頭天王」からスサノオ尊に変えられた。

 

キーワード:小野政次の動向

永禄11年11月9日、井伊直虎が「祝田郷徳政令」に署名すると、ドラマでは、関口氏経が、
──では、本日を以って、井伊はこの地の地を失い、井伊谷は今川の直轄となる。(by 関口氏経)
と言いました。

伝承では、さらに「旧井伊領の(領主を今川氏真で)代官を小野政次とし、井伊谷城の(城主を今川氏真で)城代を小野政次とする」と言ったそうです。
ネタバレになりますが、井伊谷城は、遠江国に侵攻してきた徳川家康によって12月15日未明に落とされますので、小野政次が領主(井伊谷城主)であったのは、11月9日~12月15日の約1ヶ月間(但馬神社の案内板(以下の写真)では34日間)になります。

小野政次を祀る但馬神社の案内板(二宮神社)

※井伊谷城の落城は12月13日と考えられていたが、現在は、12月13日は徳川家康が岡崎城から出陣した日であり、井伊谷城の落城は12月15日未明とされる。

通説では、「武田信玄の駿河侵攻を知った小野政次が、駿府に指示を聞きに行くと、①駿府に向けて出陣せよ(駿府に集合後、駿府から出陣して武田軍と戦え)、②虎松を殺して領主(城主)となれと言われた」としています。
武田信玄の出陣は12月6日ですから、それを小野政次が8日に知り、10日に駿府に着き、12日に井伊谷へ戻り、「虎松はどこだ?」と探している内に15日(落城)ですから、小野政次が領主(井伊谷城主)になれたかどうかは疑問です。

通説のように、
①「虎松を殺せば領主(城主)にしてやる」と言われた。
②領主(城主)になった。
では、①と②の間に「虎松の殺害」が入るはずですが、実際は生きていて井伊直政となるので、「虎松は、三河国の鳳来寺で出家しましたので死んだも同じ」と言って認められて領主(城主)になったのか、ドラマのように身代わりを仕立てて領主(城主)になったのか。

■史料『井伊家伝記』
【原文】「永禄十一年之秋、甲州武田信玄、駿府今川氏真を相攻、依之、右軍用故、但馬駿府江罷、帰國之上、則、申候ハ、「氏真下辞二て直政公を奉失、井伊保人数召連、駿府発向可致」旨。」
【訳】永禄11年の秋、甲斐国の武田信玄が、駿河国駿府の今川氏真を攻めたので、「軍の用事だ」と言って小野但馬守は駿府へ向かい、駿府から帰国すると、「今川氏真公から井伊直政を殺すように。そして、井伊谷から兵を出して駿府によこすように」という御下知が下ったと言った。

「但馬神社」は、小野屋敷(井伊谷城三之丸)の塚の上に建てられましたが、現在は二宮神社の境内にある「天王社」に合祀されています。

「天王社」のご祭神は、牛頭天王(スサノオ尊)であり、疱瘡除けの神で、もとは北岡にありました。現在、北岡の旧社地には瑠璃山北岡院(廃寺)から移転した北岡薬師堂が建っています。ご本尊の瑠璃光薬師如来像は、「井伊谷三人衆」の御持仏だそうです。

北岡薬師堂

 

キーワード:虎松の動向

虎松には、父・井伊直親が誅殺された時、殺害命令が出されました。
このとき新野左馬助親矩が、「私が預かる。それなりの年令になったら出家させる」と助命嘆願したので助かったそうです。
その後見人・新野親矩が引間城攻めでの討死後の虎松の動向には、次の2説があります。

説① 再び虎松に殺害命令が出たので、虎松は鳳来寺へ逃げた。
説② 井伊直虎は、虎松を引き取り、後見人(養母)となって井伊氏居館で育てた。井伊直虎が永禄11年11月9日に失脚すると、後見人を無くした虎松に再び殺害命令が出たので、虎松は鳳来寺へ逃げた。

ようするに、虎松が鳳来寺へ逃げたのは、説①では新野親矩の討死後(永禄7年)、説②では、井伊直虎の失脚後(永禄11年)であり、ドラマでは、説②を採用しています。

鳳来寺(鳳来寺のご本尊・薬師如来(通称「峯之薬師」)に祈願する際は、「衆生の願い事を映し叶える」とされている鏡を奉納する風習があり、鏡堂には数万枚の古鏡が奉納されていたという。現在は鏡がついた「鏡絵馬」を奉納する。)

また、虎松を鳳来寺へ連れて行ったのは、説①龍潭寺から奥山六左衛門(『井伊家伝記』)と、説②浄土寺から守源(『礎石伝』など)があり、ドラマでは説①を採用したようです。

・「南渓和尚出家二可被成候由二て、衣を御きせ奉り、其場を御のが連御忍被遊候事ハ、直政公八歳之節也。龍潭寺二御忍被成候得共、南渓和尚、出家二ハ被成間敷御心入にて、三州鳳来寺江奥山六左衛門、相添被遣候て、剃髪ハ不被成候。」(『井伊家伝記』)
・「新野左馬介親矩の弟・式部少輔(親道と系譜に在之。元規在之候)引馬浄土寺住持は号守源也。弟子は珍源と云。右、浄土寺と云ふは、高町西裏に在之。往古の寺屋敷は、東鴨江村、今の快専寺の場所に在之候。表門は北向、通用門は東向也と申し伝へ候也」(『礎石伝』)

■参考ページ

僧・守源の謎多き功績 滅びかけた井伊家と直政を救ったのは誰だ? 【おんな城主直虎】人物事典㉙

「駿州花澤城責図」(井伊は唐沢口を守った。)

 

キーワード:井伊直虎の動向

永禄11年11月9日の文書以降、井伊直虎の名が全く出ません。
こうした動向が不明な理由を、女性説では、身の危険を感じ、龍潭寺に入って出家して「祐圓尼」(ゆうえんに)という名の尼になったから(井伊直虎という名が消えた)とし、男性説では永禄13年1月の「花沢合戦」(花沢城における今川方(城主:小原鎮実)と武田信玄の戦いとその追撃戦)で討死したから(井伊直虎という名が消えた)としています。
武家の妻は、夫が亡くなると出家しましたから、男性説が史実であれば、井伊直盛の娘が出家して「祐圓尼」と名乗ったのは、永禄13年1月のことでしょう。

「花沢合戦」についての古文書の記述は、全て『甲陽軍鑑』品三十六「花沢城攻の事 付藤枝之城あけのく事」の記述がネタだそうです。
そこで、『甲陽軍鑑』を読んでみましたが、「井伊直虎」の名は出てきませんでした。

不思議に思ったのは、
①花沢城の城主は小原鎮実
②井伊弥五郎が登場
ということです。

①花沢城の城主って関口氏経のはず。関口氏経は武田に寝返った?
②井伊家は男性がいなくなったので、女性が地頭になったのでは? 男性(井伊弥五郎)がいるって・・・? 井伊弥五郎って・・・もしかして、井伊次郎直虎?

関口氏経と井伊直虎の花押(蜂前神社)

 

キーワード:井伊直虎の花押

花押は、サインであり、初期の花押は、草書体で書いた名前なので、「草名」(そうみょう)と呼ばれていました。
それが花模様に見えることから「花押(華押)」と呼ばれるようになりました。

戦国大名の花押にはユニークなものが多いです。
たとえば、織田信長は、初めは父の花押と似たものを使っていましたが、ある時から「麒麟」の「麒」の字を使うようになりました。
『礼記』によれば、麒麟は仁政が行なわれると現れる聖獣であり、「天下布武」の印同様、「我が(足利将軍に代わって)仁政を行なう」という意志の現れだと考えられています。

井伊直親が偽文書(ぎもんじょ)と見破れなかった徳川家康の書状について、このときの花押は「松平蔵人」と署名していた時期の花押です。
徳川家康の花押は全部で14種類(研究者によっては15種類)あります。
次々に変えていった理由は、皮肉なことに、「偽文書の回避」だそうです。

──新しい、見たこともない花押の文書は信じられない。
その通りですが、文書は郵便局員ではなく、奏者(そうじゃ)と呼ばれた松平家家臣が届けます。
ゆえに、その奏者が信じられる人であれば、たとえば松下常慶であれば、新型の花押であっても、徳川家康の花押だと信じてよいのです。

ちなみに、よく見る徳川家康の花押は、明の朱元璋(洪武帝)が初めて用いたという「明朝体」です。
横に2本の平行線を引き、その間に書き込みます。(上の線を「天」、下の線を「地」と言います。)印は「徳福」の印が有名ですね。

花押は一族で統一したり、家臣が主君の花押に合わせたりします。
それで、江戸時代の花押は「明朝体」ばかりです。
※「明朝体花押」の別名を「徳川判」「徳川風花押」と言うほどです。

※井伊直虎の花押は「今川風花押」と呼ばれる花押です。
※「花押は、身分の高い男性のみが使用可能」というルールは、井伊直虎男性説の1つの根拠になっています。

花押には、印鑑同様、運が開ける「良い花押」と凶運を呼ぶ「悪い花押」があり、現在は花押制作会社(制作費は、5~20万円と業者によって大きく異る)に注文します。
戦国時代は陰陽師が考えていたようです。
寿桂尼はお公家さんですので、幸運を呼ぶ花押のルール(現在のルールは、「陰陽五行説」と「花押七点」(命運点・身魂点・福徳点・敬愛点・眷属点・住所点・降魔点))に詳しい京都の陰陽師を御存知だったことでしょう。

花押制作会社が複数あるということは、制作依頼をする人は今でも多いということなのでしょう。
しかし昨年(2016年6月3日)、最高裁で「押印の代わりに花押を使用する慣行や法意識はない」として、花押を使用した遺言書を無効とする判決が出されたこともあり、歴史研究者、時代小説家といった特殊な職業の人を除き、制作依頼をする方はいなくなったようですね。

ちなみに、押印は、「金印」で知られるように古代から一般的な習慣でしたが廃れ、戦国時代の禅画への押印から再興したようです。
公文書への押印は、今川氏輝(今川義元の兄。14歳で家督を継ぎ、初めは花押が書けなかった)が最初だとか。(花押を書くのは難しいです。直虎の花押がある文書は1通しか発見されていませんが、その線の勢いを見ると、花押を書くために、かなり練習したことは確かです。)

──「おんな城主 直虎」は史実と違うから見ない。
と言っておられる方々がおられますが、今回、「おんな城主」ではなくなり、次回からは諸説あれど大差なしの徳川家康の時代、史料がたくさんある時代に入りますので、史実に基づくドラマとなります(?)。
「史実と違うから見ない」と離れていった方々が戻ってこられて、人気も視聴率もアップするのではと期待しております。

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

 

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