パワースポットとして有名な滝

井伊家を訪ねて

「おとわが飛び込んだ滝は浜松にはない?」おんな城主直虎レビュー&ロケ地巡り

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『おんな城主 直虎』のロケ地や史跡へ足を運びつつ、ドラマのレビューをするという当コーナー。
初回「井伊谷の少女」で最も印象的だったのが、「おとわが飛び込んだ滝」だったのではないでしょうか? 浜名湖の近くだけに、あの見事な滝はマジで実在するの?
そんな風に思われた方の疑問にお答えします! まずは第1回放送のあらすじから見て参りましょう。

第1話「井伊谷の少女」あらすじ

江戸幕府の大老を何度も勤めた井伊家(彦根藩35万石)は、戦国時代は、静岡県の西端、浜名湖北東部の井伊谷を本拠地とする3万石にも満たない国衆に過ぎなかった。
主家は今川家で、宗主は、駿河・遠江・三河の三国を領して「海道一の弓取り」と呼ばれた今川義元。物語は、主人公(ヒロイン)の井伊直虎が、まだ幼く、「おとわ」という幼名で呼ばれていた頃からスタートする。
おとわは、嫡流の一人っ子であったため、女ながら家督を継ごうと考え、男の子たち(井伊家傍流の亀之丞や、井伊家家老の息子の鶴丸)と一緒に遊んだり、学んだりしていた。
2つの出来事が起こった。
1つはおとわと亀之丞が婚約したことである。これにより、鶴丸の言葉がタメ口から敬語に変わった。
もう1つは、亀之丞の父である井伊直満が、北条氏に内通したことである。その内通は、家老・小野和泉守政直により、今川義元に報告され、井伊直満は誅殺された。さらに、直満の子・亀之丞にも殺害命令が出された。

おとわたちが遊んでいた巨石(磐座)は「渭伊神社境内遺跡」

ドラマは、薬師山の巨岩で鬼ごっこをする子供達を描くことからスタート!
今はまだ仲の良い3人(「鶴は千年」の鶴、「亀は万年」の亀、「とわ」は永遠)。これから先、3人のこの良好な関係がどう変わっていくことやら・・・。

鬼ごっこのロケ地・薬師山

磐座(巨石)

この巨石は「磐座」(祭祀において、神の依代となる巨岩)だとして、発見した考古学者が地名「天白」を使って、元は「天白磐座遺跡」と名付られておりました。しかし、考古学者などからクレームが寄せられたので、「渭伊神社境内遺跡」と改名。
「遺跡で遊ぶのも、撮影するのも不謹慎」と思われるかもしれませんが、発掘前は子供の遊び場になっていて、男の子は、この巨岩に登って遊んでいたそうです。そもそも「磐座」には祭祀を行っている時には神が宿っていますが、祭祀が終われば神は天に帰り、磐座はただの巨岩になります。

さらに言えば、私は、この巨岩は、磐座と言うよりも、城山にある磐座の遥拝所だと思っています。山頂は神の座であって、磐座は山頂の少し下にあるものですので。

遺跡名は、地名を使って「天白遺跡」とすればいいじゃん。と思われがちですが、「天白遺跡」というと三重県松阪市に国指定の「天白遺跡」があり、混乱してしまいます。そこで浜松市西区舞阪町の遺跡が「舞阪町天白遺跡」と名付けられた経緯もあり、この遺跡の名は「引佐町天白遺跡」とするのがよいと思います。もちろん「~神社境内遺跡」という名の遺跡も多いので、「渭伊神社境内遺跡」でもいいのです。

なお、「天白」とは、「天白神社がある場所」の意の地名です。天白神社は、環伊勢湾文化圏(三重(伊勢国)・愛知(尾張・三河国)両県)に多い神社で、「天白神」の正体は「伊勢国の風水神」だそうですが、実際は、風神=天狗=猿田彦命、あるいは、水神=瀬織津姫命として祀られていることが多いです。
天白神は、井伊領内では、ここ以外に都田の天白山の山頂、瀬戸の三島神社の境内社、石岡の地名の由来となった巨岩の上、落合(井伊谷川と都田川の合流点)、川名の伊豆神社の横に祀られています。
※地名の由来となった天白神社は渭伊神社駐車場、山名の由来となった薬師堂は神仏分離令で妙雲寺境内に遷座。

浜松にも滝はあるが落差が小さく滝壺は浅く

鬼(鶴)に追い詰められたおとわは、岐阜県にワープし、滝壺に飛び込みます。
そうですロケ地は岐阜県だったんですね(落差は21m)。
浜松市にも滝はありますが、落差の大きな滝は滝壺が浅く、落差の小さな滝は滝壷が深くて絵にはならないようです。

パワースポットとして有名な滝

上の滝は、パワースポットとして有名な浜松市の滝です。ここでもロケが行われましたので、いつ、どのように登場するのか、楽しみです(とは言え、既に予告映像に登場していますけどね)。

鬼ごっこは戦国乱世の戦いの象徴であり、今後の展開の伏線ですね。
農民を捕える鶴。
策を弄しておとわを捕えようとする鶴。助ける亀。
断崖から滝壺に飛び込むのは、結婚を迫られて出家したということでしょうか。
──三つ子の魂、百までと言います。この鬼ごっこから3人の性格や未来が見えるようです。

コウモリがバッサバッサの鍾乳洞

井伊領内のあちこちにカルスト地形や鍾乳洞があります。
撮影に使われた鍾乳洞の入口を古墳(東三河~西遠では「火穴」という)にしたのは、磐座と合わせて、「井伊谷は古代からの里」という印象づけで、井戸や滝は「井伊谷は水の古里」という印象づけでしょう。そして、水はどの様な形の器にも対応できるので、知力で問題を打開していく井伊直虎のイメージにも重なります。

コウモリが棲む鍾乳洞

この古墳は、井伊領の南東端にあります。「竜宮小僧」を探して、井伊谷を遠く離れ、領地の端まで来ているのです。中に入るとワープして、飯尾領の鍾乳洞へ。
「鍾乳洞」と称していますが、山の反対側に通じる「天然のトンネル」です。撮影しようとフラッシュを焚くと、コウモリがバサバサバサっと ∧^- ;; -^∧

武士の子弟の「手習い」は「四書」「五経」「武経七書」

龍潭寺山門の撮影には、浜名湖に突き出した庄内半島にある徳川家康ゆかりの寺の山門が使われています。

龍潭寺山門に見立てた山門

さて、戦国時代の武士の子弟の「手習い」は「四書」「五経」「武経七書」でした。

※四書(儒教):『大学』『中庸』『論語』『孟子』
※五経(儒教):『詩』『書』『礼』『春秋』『易』。正確には『楽』を入れて六経(六芸)というが、『楽』は早い時期に失われて、現存しない。
※武経七書(兵法):『孫子』『呉子』『尉繚子』『六韜』『三略』『司馬法』『李衛公問対』

儒教は、「五倫」(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信)を基本的実践徳目としていますので、「主従関係」や「家」を重んじる武家にはピッタリです。

時代劇の学問シーンでは、
「子曰(し、のたまはく)・・・」
と『論語』を読むのが通例ですが、このドラマでは禅語ですね。

「春色無高下、花枝自短長(春色高下無く、花枝自ずから短長)」
「応無所住而生其心(まさに住する所無くして、その心を生ずべし)」
「掬水月在手(水を掬すれば、月、手に在り)」
「百尺竿頭進一歩(百尺竿頭に、一歩を進む)」
※記事末に訳文を掲載

ところで、おとわは、家督を継ごうとして、乗馬の稽古をするなど、衣服にしても、男になりきっていたのでしょう。
『礼』には「男女七歳にして席を同じゅうせず」(7歳になったら、男は男の勉強、女は女の勉強を始めなさい)とあります。3人共9歳なら、一緒に勉強しちゃダメなんですけどね。
ドラマでは、勉強を教えるのは知性派の昊天で、武術を教えるのは武闘派の傑山としていますが、史実では、3人が9歳の頃、昊天はまだ生まれておらず、傑山は、南渓和尚と同じ位の年齢でしょう。
(それにしても、南渓和尚が飼ってる(?)虎猫(=・ω・=)が可愛い♥)

井殿の塚

さて、子供たちの話はこれくらいにして、ここからは大人たちの話です。
通説では、「井伊家家老・小野政直の讒言(ざんげん。嘘の密告)により、井伊直満・直義兄弟が今川義元に討たれた」であり、弟・井伊直元が築いた兄たちの墓が「井殿の塚」です。

井殿の塚

ドラマでは、「井伊直満が、北条氏と内通し、それを井伊家家老・小野政直が主家の今川家に報告したので、井伊直満は、今川義元に誅殺された」としています。「井伊直満の北条氏との内通は事実」(直満は反論しなかった)、「今川寄りの小野政直がしたのは、讒言ではなく報告」として、小野政直を擁護した形になっています。
新野左馬助親矩が同行させられたのは、親矩は、今川家が派遣した目付家老だからです。
「井伊直満の反逆行為に気づかなかったのか?」とおしかりを受けたことでしょう。さらに、親矩の娘の1人は北条家の家臣と結婚しており、嫡男は北条家の家臣となっている関係もあって呼ばれたのでしょう。
古文書によっては、井伊直満に同行したのは奥山朝利であり、朝利も殺されたとありますが、ドラマでは、朝利は鶴に殺されることになりそうです。
また、井伊直盛(井伊直虎の父)が井伊家宗主の時代から始まり、先の宗主・井伊直宗(井伊直虎の祖父)は出てきません。直満・直義兄弟の墓を築いた弟・直元も出てきません。直宗、直義、直元の省略は、「直なんとかって名前が多過ぎて頭が混乱する」という視聴者への対応措置でしょう。

さて、井伊直満の誅殺後に、その遺子・亀之丞にも殺害命令が出ます。「おとわにも殺害命令が出たので、出家した」という説もありますが、宗主・井伊直盛(おとわの父)はお咎め無しですので、あくまでも「直満の単独犯行」という裁定なのでしょう。

亀之丞の殺害命令に対し、井伊家がとった方法は、
──亀之丞を逃がす
でした。亀之丞を捕縛にやって来た今川家臣に、亀之丞の居場所を龍潭寺と教え、龍潭寺の南渓和尚は、床に油を撒いた上で、「どうぞご髄に」と寺に入れています。私なら、「寺へは武士でも入れません」とつっぱねて暇稼ぎをします。亀之丞と着物を交換して囮となったおとわの方が、時間稼ぎの知恵があったようです。
井伊家の軍勢は200~300人と言われています。
武力では主家の今川家に勝てませんが、知力があれば、対等に渡り合えます。 次回が楽しみです。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎の特集を担当している。

 

「春色無高下。華枝自短長」:春の光は木の高い部分にも、低い部分にも平等に降り注いでいるが、その光を受けて成長している枝には短いものも、長いものもある。『禅林句集』では、この『普燈録』の言葉を受けて、「春色雖無高下、花枝自有短長。故長者長法身、短者短法身」(仏教を同じように学んでも、背の高い者は高い者なりの悟りがあり、背の低い者は低い者なりの悟りがある)としている。前句は仏の平等性、後句は学ぶ者の個性をいう。

「応無所住而生其心」: 安住しなければ、喜怒哀楽に支配されない心が生まれる。菩薩の融通無碍なる心を表した言葉。 (『金剛般若経』)

「掬水月在手。弄花香満衣」: 水を掬(きく)すれば、月、手に在り。花を弄(ろう)すれば、香、衣に満つ。(全てを平等に照らす夜空の月は、1つだけであるが、手で水をすくえば、誰もが手にすることができる。花を手に持って楽しめば、1本であっても、その香りが衣服全体に染み込む。同様に、真理はたった1つしかないが、それは誰もが手にすることができるものである。)出典は干良史の『春山夜月』という漢詩であるが、仏教に取り入れられた。(『虚堂録』)

「百尺竿頭進一歩」:長い竿の先端に達しても(辛く厳しい修行を重ねて、この先はない、悟りを開いたと感じても)、さらにその先に一歩進め。(『傳燈録』)
(注)解釈には諸説あります。

 

参考:「龍宮小僧」 (柳田國男『桃太郎の誕生』より)

(前略)近年刊行せられた引佐郡誌に依ると、この郡鎭玉村には久留女木の大淵といふ淵があつて、昔龍宮から小僧が出て來たといふ話が殘つて居るさうである。此小僧は村の家々を巡つて、農業の忙しい頃には田植などの手傳ひをして助け、夏の頃俄雨の降る頃には直ぐに出て來て干し物を片付けてくれる。土地の者の大仕合せであつたので、行く先々でも悦んで御馳走をした。たゞ蓼汁だけは決して食はせてくれるなと、常々固く頼んで居たにも拘らず、或日或家でつい忘れてそれを出した爲に、龍宮小僧はその蓼汁を食べて死んでしまつた。村の中シゲといふ字の奥に、大きな榎木があつてそこに此小僧を埋めたと言ひ傳へて居る。榎の近くからは清水が湧いて、今尚シゲ全體の田を灌漑して居るといふことである。(中略)汁の奇抜なる特徴にも亦類似があつた。爰から山嶺を隔ててさまで遠くない天龍川の右岸、三州市原の田原家では、屋敷のすぐ下が靑淵になつて居て、いつも川童が出て來て農作の手傳ひをしたり、客來の折には必ず鯇魚(あめのうを)を二尾づつ、川から捕つて來て臺所口に置いてくれたりした。此川童は平日は同家の竈の上に住まつて居たと謂ひ、又は釜の蓋の上であつたともいふが、兎に角姿は人間の通りで、圓座に坐つて御器で御飯を食つたさうで、其御器は缺けては居るが今も傳はり、圓座も三十年前までは大事に保存してあつた。いつの頃の事か此家の召使が、誤つて川童に蓼汁を食はせたところが、非常に苦しがつて天龍川に轉がり落ちて、其まゝ還つて來なかつた。其時に屋敷續きの廣々とした前畠を、薙ぎ起して突き崩して行き、それ以來家運も追々衰へた謂つて居る。同じ北設楽郡の振章村小林にも大谷地といふ舊家があつて、屋敷の下を流れる振草川にスミドン淵といふ淵があつたが、此の淵のカハランベ(川童)も毎年田植の手傳ひに來たり、又膳腕を貸してくれたりした。此邊でゴンゲノボウと稱する田植祝の日には、姿こそは見えなかつたが、昔から上座へ一人前の膳をすゑる例になつて居た。後に此家の者がそれを煩はしく思ふやうになつて、或年のゴンゲノボウに馳走の中へ蓼をまぜて置いた。川童はそれを喰つて、おゝ辛おゝ辛と叫びながら、谷を轉がつて振草川に落ちて行つたが、それ以來淵は淺くなり、其舊家も何かにつけて不仕合せが續いて、衰微してしまつたと傳へて居る。それから又天龍川の上流、信州下伊那郡の大下條村にも似た話があつた。此村字川田の大家といふ家の後に、一坪ほどの井戸のやうな池があり、昔は此池に手紙を書いて浮べて置くと、膳椀を貸してくれた。又その池からカハランベが、田植に手傳ひに來たり鋤鍬の類も貸してくれた。田植の忙しい際には竈の火も焚いてくれた。それが或時此家の主人が、田植振舞のオセチの中へ蓼を混ぜて食はせてからは、手傳ひにも來なくなり、又膳椀も貸してくれなかつたといふ。遠州の側でも同じ川の對岸、奥山の草木といふ部落に、オトボウ淵といふ淵があつて、其傳説がこれとよく似ていた。昔この近くに大きな物持があつて、淵の主と懇親を結び、是は膳椀を借りるのでは無くて、金銭の融通を受けて居たさうである。それで家へは度々淵の主からの使者が遣つて來たが、そのたび蓼汁だけは嫌ひだとくり返して居たのは、或時家の者が其事を忘れて、振舞の膳に蓼を附けて出したところ、一口喰つて是はしまつたと叫び、其まゝ淵に向つて轉がり落ちて行つた。さうして落込んだ姿を見ると、今までは人間の通りであつたのが、赤い腹をした大きな魚になつていた。それが段々に水の中を流れながら、頻りにオトボウやオトポウやと連呼した故に、以來この淵の名もオトボウ淵と謂ふやうになつた。此事あつてより、淵の主との縁は切れ、さしもの物持も忽ち家運が傾いてしまつた。土地の人の説ではオトボウは此邊では父といふことである。或は死にがけに父の名を呼んだのでは無からうかと謂つて居る。(後略)

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