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明智軍記

『明智軍記』現代語訳と原文 第5話「北海舟路事付根挙松事」

明智軍記第5話【現代語訳】

永禄8年(1565年)5月上旬、明智光秀は、小瘡(汗疹)になったので、休暇を申し出て、加賀国(石川県南部)の山代温泉へ湯治に出かけた。
丁度いいついでだとして、長崎(福井県坂井市丸岡町長崎)の称念寺の住職・薗阿上人も明智光秀に同行した。

往路、物見遊山にと、三国港へ立ち寄り、港の風景を眺めていると、堅苔崎(福井県坂井市三国町米ヶ脇?)で、称念寺の伴の僧たちが、名物の堅海苔(かたのり・紅藻類ムカデノリ科の海藻)、黒海苔(くろのり・紅藻類ウシケノリ科の海藻)、若和布(わかめ)などを採っているのを、明智光秀が見て言う。

「お坊さんたちが採っているのはよくない(高級品じゃない)。私なら鯛(たい)、鮑(あわび)、大蟹(越前ガニ)、三国川の鮭(さけ)、鱒(ます)を獲るな」

そんな冗談を言いながら、あちこち遊覧して、舟に乗って、雄島の大湊神社へ参拝した。

神々しい森の様子、朱色の瑞籬に標縄(しめなわ)が架かり、磯の岩は角張ってそびえ立ち、白波は岸を洗い、沖の船への風は優しく、モンゴル人(蒙古)の国は(日本海を挟んで)北向いだと聞いたので、北を見ると、かすかに見えるようだ。

優美な雄島の景色、清水が湧き出して、海に流れ落ち、古松は、枝を垂れ、優れた樹は、葉を連ねる。

真に北陸では一番の風景であり、絵には描けても、言葉には言い表せない。

渤海に浮かぶという仙人が住む三神山(蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛洲(えいしゅう))に来たような心地がして、感涙を浮かべ、明智光秀は、つたない漢詩を詠んだ。

神島の鎮祠(ちんし)、雅興(がきょう)を催す。
(神の島の神社は雅やかであった。)

篇舟(へんしゅう)棹(さお)さす処の瑤台(ようだい)に上(のぼ)る。(船に乗ってその美しい高殿へ行けた。)
蓬瀛(ほうえい)外に向かって尋ね去ることを休め、(これで、蓬莱、瀛洲の島の場所を尋ねる必要はなくなった。)
万里(ばんり)、雲、遙かにして、浪、堆を作(な)す。(聞いたところで遥か遠く、波も高くて行き着けない。)

薗阿上人も「腰折(つたない和歌)を詠んでみよう」と言って、

帰る棹 雄島の海士(あま)も心知れ 是や見る目の限り成るらん(帰路に男が泣くのはおかしいかも知れないが、雄島の船頭よ、分かってくれ。もう再びこの景色を見られないのかも知れないのだよ。)

その夜は、祝部冶部大輔(雄島の大湊神社の宮司の屋敷)に一泊して、連歌の会を開いた。
薗阿上人も明智光秀も、2人共に連歌の達人であったので、2人で程無く百韻を詠み終えてしまった。

「もう1回、やりましょう」と、今度は明智光秀の家臣である三宅や奥田、称念寺の小僧の定阿弥を加へて、徹夜で行った。

こうした所に、この浦の船乗りの刀袮(とね)という者が来て、蝦夷人(北海道人)と干物(魚などの魚介類の身を干した乾物)を商売した話をしたのを明智光秀が聞き、

「その北海道は遠いと聞いていたが、お前は、北海道の人と会ったという。ここから船路でどれくらいの距離なのか、途中の港は何という港か」

と尋ねたので、刀袮が答えた。

「私は、数ヶ年、大きな船に乗って、商売のため、北へ、南へと航海したので、港は全部知っている」

そう言って、懐(ふところ)から帳面(日記、覚書)を取り出す。
「これをご覧下さい、これらの港は、大きな船が400~500艘入港できる港です。ここ、越前国では、大丹生、吉崎、加賀国では安宅、本吉、宮腰、若狭国(福井県南部)では高浜八穴浦などです。港は数多くありますが、多くの船が出入り出来ない港は除いてあります」

その日記には、「越前国から東北東へ漕ぎ出し、海路30里(120km)で能登国(石川県北部)の福浦港、そこから海路18里(71km)で同国輪島港、そこから海路7里(27km)で同国珠洲崎塩津湊、そこから海路45里(177km)で佐渡国小木港、そこから海路25里(98km)で同国鷲崎港、そこから海路18里(71km)で越後国新潟港、そこから海路25里(98km)で出羽国粟島浦、そこから海路30里(118km)で同国飛島港、そこから海路20里(79km)で同国酒田港、そこから海路30里(118km)で同国秋田港、そこから海路18里(71km)で奥州霧山の戸賀港、ここからはどこも奥州で、海路18里(71km)で能代港、そこから海路35里(137km)で津軽深浦港、そこから海路18里(71km)で鯵ヶ沢港、そこから海路8里(31km)で十三湊、そこから海路7里(27km)で小泊。ここから北へ海路8里(31km)で松前に着く。そこから北が北海道。また、小泊から東に外ヶ浜(三厨)、今別、小湊、南部の「田名部七湊(たなぶしちそう)」(川内、安渡、大畑、大間、奥戸、佐井、牛滝)の川内、田名部、佐井、大畑、志加留などという港がある。小泊から志加留港まで、130里(511km)」と書いてあった。

明智光秀が
「松前までは370里(1453km)、奥州志加留港までは、ここから500里(1964m)に及ぶ。船で何日かかる?」
と聞くと、刀袮はこう答えた。

「順風であれば約10日間。毎年3月上旬に三国港を出て商売し、5月には戻っている」

明智光秀は、また、
「上方(近畿地方)へも行けるか?」
と聞いた。

刀袮は、
「中国地方を回って、摂津国大坂、伊勢国大湊(伊勢市)まで、2、3度行ったことがあります。対馬国恵比須鼻(対馬市)、肥前国長崎(長崎市)へも行きました。長門国下関(下関市)までは数度行きました」
と言って、また、下関港までの港を書いたさっきとは別の帳面を取り出した。

そこには、

「越前国三国港から海路25里(98km)で同国敦賀港、ここから西南西へ海路12里(47km)で若狭国小浜港、そこから海路13里(51km)で丹後国伊根港、そこから海路5里(20km)で同国経ヶ岬港、そこから海路18里(71km)で但馬国柴山港、そこから海路7里(27km)で同国諸寄港、そこから海路22里(86km)で出雲美保関港、そこから海路18里(71km)で同国加賀港、そこから海路13里(51km)で同国宇龍の日御碕港、そこから海路18里(71km)で石見温泉津、そこから海路18里(71km)で同国江津、そこから海路20里(79km)で長門の仙崎港、そこから海路7里(27km)で同国通港、そこから海路25里(98km)で同国下関港」

と書いてあった。

明智光秀は、感心して、酒や食事を振る舞い、時服(季節に合わせて着る服)などを贈った。

こうしているうちに夜も既に明けた。天気は、晴れで、ことさら暖かったので、海辺を回り、北潟(福井県あわら市北潟)の御万燈を拝見し、そこから「汐越しの松」(福井県あわら市浜坂の「根上り松」)を見に行くと、遠くから見たのとは違い、近くから見た風情は、どことなく古めかしくて、葉は短く、色は鮮やかであった。

海の近くの砂丘に生えているので、潮風が砂を吹き飛ばして、根が現れたのであろう。
松の木の幹の太さは、6mはあろう。根は、地面から5~5.5mくらい上がっている。

その根の数は10本くらいで、太さは根回り1.2~1.5mあり、四方へ伸びている。

日本は小さな国ではあるが、70ヶ国ある。
明智光秀は、大げさに言って50ヶ国は回って、多くの名木を見たが、このような木は初めてだという。

昔、在原業平や西行法師などが詩歌を詠み、愛(め)でた(感嘆して褒めた)という。
源義経も、奥州下向の時(文治3年(1187年)頃)、ここに立ち寄ったという。

その時から400余年(正しくは400年弱)たった今(永禄8年(1565年))も変わらぬ松の色、何千年もたったであろうにと感嘆し、見て回っていると、松の木の根本に小祠があり、里の人に尋ねると、「出雲の大社を崇めている(出雲大社の御祭神の御分霊を祀っている)」と答えた。
明智光秀はこの返事を聞いて、「出雲大社は素盞嗚尊(スサノオノミコト)を祀っている。素盞嗚尊は和歌に特に優れた神であるから、私もつたない歌を一首詠んでみよう」と言って吟じ、端紙(はがみ。メモ用紙)に書いて、その辺の子供に与えた。

満潮の 越てや洗う あらかねの 地もあらはに 根あがりの松
(満潮が砂丘を越えて砂を洗って根が地表に出てしまった根上りの松。※「荒金(あらかね)」は槌(つち)で鍛えることから、「あらかねの」は「つち(土、地)」にかけて語調を整える枕詞なので訳さない。)

「汐越しの松」から、北潟湖を吉崎で舟で渡って、加賀国に赴き、山代温泉に入った。

 

【原文】

永禄八年五月上旬、明智十兵衛光秀、小瘡を煩ふにより、暇を申し、加州山代の温泉へ湯治しけるに、能き序(ついで)なればとて、長崎の称念寺園阿上人も光秀に同道せらる。路地の程、遊興ながらとて、三国の湊へ立ち寄り、津の風景を眺望せしに、堅苔崎にて、称念寺の伴僧等、堅苔、黒苔、若和布など取りけるを、明智、申されけるは、和僧等が用る類ひ、好ましからず。某は、鯛、鮑、大蟹、三国川の鮭、鱒をこそ求むべけれと戯れつ、此彼遊覧して、それより舟にて、御島へ社参しけるに、神寂たる森の気色、緋の瑞籬、標(にう)繁(かか)り、磯の巌石、峙(そばだ)ちて、白波岸を洗ひ、沖漕船も風淡くて、兀良拾(をらんかい)の国は北の向ひに当たれりと聞くなれば、仄かにや見ゆらん。

優美なる島の粧(よそほ)ひ、精水、湧出して、塩海に流れ落ちて、古松、枝を垂れ、儻樹(とうじゅ)、葉を連ぬ。誠に北国無双の地景、絵に書く共、筆には及び難し。蓬莱(ほうらい)、方丈(ほうじょう)、瀛洲(えいしゅう)の仙島(せんとう)に至りけん心地して、感涙を浮かめ、光秀、愚篇の即興を述ぶ。

神島鎮祠雅興催
篇舟棹処上瑤台
蓬瀛休向外尋去
万里雲遙浪作堆

園阿弥も腰折を綴らんとて、
帰るさを御島の海士も心しれ 是やみるめの限り成るらん

其の夜は、祝部冶部大輔が許に一宿して、連歌興業あり。園阿、明智諸共に達人なれば、両吟にて程無く百韻充(みて)り。今一巡有るべしとて、光秀が郎党、三宅、奥田、称念寺の小僧・定阿弥を加へて、終夜興をぞ催されける。

斯る処に、此の浦の船人・刀禰と云ひける者来て、蝦夷人と干物を商買したる物語申しけるを、光秀聞きて、其の蝦夷松前と云ふは遥かの処と聞きつるに、汝は彼島人と頃逢ひたる物語せしむ。扨、是より、船路、幾程有り哉。湊々の名は如何云ふらんと、尋ねければ、刀禰、承り、拙者は、数箇年、大船にて商買のため、上下の国々渡海仕り、湊共、残る所なく存じ候とて、懐中より書付を取り出し、是れ御覧候へ。此の湊々は、大船四、五百艘拵(かこ)ひても狭からざる泊(とまり)にて候。此の外、当国には、大丹生、吉崎、加賀にて安宅、本吉、宮腰、若狭にては高浜の八穴浦など申す類(たぐ)ひ、数多(あまた)候へ共、舟多く、出入らざる所共にて候へば、これを除き候と申し、其の日記に云わく、越前より寅の方へ舟路三十里過ぎて能登の福浦湊、其れより十八里、同国和嶋湊、七里、同国珠洲崎塩津湊、四十五里、佐渡の小木湊、二十五里、同国鷲崎湊、十八里、越後国新潟湊、二十五里、出羽国の青嶋湊、三十里、同国止嶋湊、二十里、同国酒田湊、三十里、同国秋田湊、十八里、奥州霧山の渡鹿湊、是より、何迄も奥州地にて、十八里、野代湊、 三十五里、津軽の深浦湊、十八里、鯵个沢湊、八里、十三湊、七里、小泊湊、是より北へ八里渡海して松前に著岸仕り候。それより北に当たり、蝦夷にて候。扨、小泊より東に外浜、今別、小湊、南部の川内、田名部、佐井、大畑、志加留などと申す湊々御座候。小泊より志加留湊迄、百三十里とぞ書いたりける。明智、申されけるは、松前迄は都合三百七十里、奥州志加留湊迄は、是より五百里に及ぶと見へたり。舟路、幾日程にて著岸ぞと尋ねければ、順風に候へば、十日計りには参著申し候。毎年三月上旬に当津を出船仕り、商買仕廻、五月には戻る事にて候とぞ答へける。光秀、又、上方へも行けるにやと問ふ。刀禰、承り、中国を廻り、摂州大坂の津、伊勢の大湊迄、二、三度参じ候。対馬の夷崎湊、肥前長崎の津へも罷り越し候。長門の下関迄は数度伺候申すとて、是も湊々の書付を出しけり。越前の三国より二十五里、同国敦賀の津、是より申の方へ十二里、若狭小浜、十三里、丹後の井祢、五里、同国経箇御崎、十八里、但馬の丹生芝山、七里、同国諸磯、二十二里、出雲の三尾関、十八里、同国可賀、十三里、同国宇竜の於御崎、十八里、石見の湯津、十八里、同国絵津、二十里、長門の仙崎、七里、同国蚊宵、二十五里、同国下関とぞ記しける。光秀、是を感じ、酒飯を与へ、時服など褒美しけり。

斯くて夜も既に明けくれば、天、晴れ、殊に暖気成るに依て、海辺を回り、北潟の御万燈を拝見し、それより潮越しの根挙松を見物せられけるに、遠く見しより風情、物故(ものふり)て、葉、短く、色、蒨練(あざやか)なり。海辺近き砂岳に生ひぬれば、潮風、吹き越して、何くとなく根の顕れけるにやと覚ゆ。松の太さ二丈余り。根の挙がりたる事、昔の地際迄は一丈七、八尺の有りぬらんとぞ。向上げたる根の数、十余本。太さ、四、五尺廻りにて、其の辺の四方へ蔓(はびこ)れり。日本、小国なりと雖も、七十州の及べリ。光秀も五十余箇国嘯(うそむ)き行脚して、名木余多見しか共、此の木に似たる色なし。昔、業平中将、西行法師など詩歌を詠じ、愛せらる。判官義経も、奥州下向の砌り、此の所に徘徊給ふと聞き伝へたり。其の時よりは四百余歳の今も替はらぬ松の色、幾千年もや経(ふり)なましと、感嘆遊覧せし所に、其の辺に叢祠(ほこら)あり。里人に尋ねければ、出雲の大社を崇め申すと答ふ。明智聞きて、大社は素盞烏尊也。和歌に妙なる御神なれば、愚詠一首、算(かぞ)へんとて、打ち吟(うそふ)き、端紙に書て、其の辺の童部に与へたり。
満潮の 越てや洗う あらかねの 地もあらはに 根あがりの松
其れより、吉崎の湖水、航(ふなわたり)して、加州に趣き、則、山代に参著す。

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