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明智軍記

『明智軍記』現代語訳と原文 第8話「秀吉公立身之事」

【現代語訳】

永禄4年(1561年)4月中旬、織田信長公は、弟・織田信包をはじめ、6500人の優れた兵士を率いて、初めて西美濃へ出陣し、敵地・美濃国の様子を窺った。すると、その頃、美濃国岐阜の稲葉山城(後の岐阜城)には、藤原魚名の六世孫・利仁の後胤・斉藤義竜の子・竜興という勇将がいて、美濃国内の所々に砦を築いており、美濃国を攻め落とすことは(舅・斉藤義竜(通説では道三)の敵(かたき)・斉藤竜興(通説では義竜)を討つことは)困難である事が分かった。織田信長公は、この状況を見て、先ず竜興方の城砦を落とし、各所に放火し、付城を新(あらた)に築き、あるいは、

<挿入丁始>

大高城にいる松平元康(後の徳川家康)のもとに「桶狭間で今川義元が討たれた」という情報が入ってきたが、松平元康は、「自分の目で確かめたわけではない。もしかしたら、敵の作戦かもしれないので、大高城を開場後、今川義元が生きていることが分かったら、言い訳できない。今川義元が討ち死にしたことが確実だと分かり、敵(織田軍)が攻めてきたら、この大高城で戦い、討ち死にすることが武士の本望である」と言ったので、皆、その通りだとして、自分の持ち場を固めた。「桶狭間の戦い」から3日間、大高城を守っていたが、今川家の家老・朝比奈信置から「早く(駿府に)帰って来い」という手紙が届いたので、「こうなったら、仕方がない」と三河国岡崎の岡崎城へ戻った。敵(織田軍)も味方(今川軍)も、この松平元康の振る舞いを「神妙なる振る舞い哉」と感心したという。

さて、父・今川義元を討たれた子・今川氏真は、居城・今川駿府館より遠方に住む三河武士を軽んじて見下していた。また、今川義元の戦死の頃は、駿河国の佞奸(悪賢い武将)は、自分が弱いことを隠そうとして、立派な武将を嘲り、讒言し、誹った。元来(もとより)今川氏真は、暗愚であったので、へつらう佞奸の言うことを信じて、「岡崎城は、松平氏に仮りに預けた城である。松平氏は、弱々しい一族で、三河国松平郷(現在の愛知県豊田市松平町)に興り、そこから岩津、安城と本拠地を移した、小集団であり、父・今川義元が、岡崎に城を与えて移してあげたのである。早く岡崎城を没収して、他人に与えるべきである」と言ったので、松平元康は、憤りを感じた。

織田信長は、この話を伝え聞いて、「松平元康は、大高城からの退き方を見るに、若いのによくわきまえた並ぶ者無き武将であるので、どうしても、肌を合わせたい(仲間にしたい)」と思い、永禄5辛酉年(1561年)3月中旬、密かに使者を通して「和睦したい」と告げた。松平元康は、この申し出を聞いて、「織田信長は、元主君・今川義元を討った敵(かたき)であり、その敵と手を組むとはとんでもない話ではあるが、今の主君・今川氏真は、私から岡崎を取り上げると確かに言っている。織田信長は、並ぶ者がいない大将であるし、領国の尾張国は隣国であるから、同盟を結んだ方が良い」と考え、小栗大六という使者を織田方からの使者に同行させて清洲へ送り、「和睦に承知する」と織田信長に伝えた。織田信長の喜びは、大変なもので、「子孫に至るまで、松平家に対し、疎意なきように」などと、詳細に認めた起請文を書き、血判を押して小栗大六に見せた。その後、山口飛騨守を使者として、「今後、あなたと私(織田信長)は骨肉同体の兄弟である」と、(違反すると天罰により死ぬといわれる)七枚起請を書き、さらに、「名を(今川氏から離反し、織田氏と同盟したことを広く知らしめるために)徳川三河守家康に改めらるべきだ」と告げた。(永禄5年(1562年)の清洲同盟により、松平元康は、織田信長の提案からか、今川義元の偏諱「元」を捨てて松平家康と改名した。さらに、永禄9年(1566年)、朝廷から従五位下三河守に叙任され、「徳川」に改姓し、「徳川三河守家康」が誕生した。)

こうして、三河国では、元来、武勇を誇る武将たちが、悉く今川家を背いて、徳川家康に従ったので、三河国内の広瀬、梅ヶ坪、石ヶ瀬、寺部、刈谷、長沢、鳥屋ヶ根、西尾、東条、八方原、御油、八幡、佐脇、牛久保、吉田、下地での合戦で全勝し、三河一向一揆も鎮め、特に、一宮後詰においては、徳川家康軍2000人が、今川氏真軍の10000余人の大軍を蹴散らして、徳川家康軍が勝つという武勇を示すと、松平ー族はもちろん、酒井、水野、大久保、本多、戸田、石川、榊原、奥平、菅沼、長沢、安藤、内藤、鳥居、鈴木など三河国内の国衆たちが次々と帰順して徳川家康に従属したので、三河国は、程無く平定されて静まった。

<挿入丁終>

美濃国の諸将の方へ縁に従い、噯(紛争解決のために行われた仲裁、調停)を入れるなど、様々の手段を講じた。その後、織田信長公は、尾張国の諸将を集め、「美濃国と尾張国の国境は大河であるので、容易に往復できない。これでは美濃国へ侵攻し、帰国する時、敵・美濃衆に追われ、後れをとったり、洪水で大河を渡れずに帰国できなかったりするかもしれない。対岸の敵地(美濃国)に要害(城砦)を築き、それを盾として、その裏から舟で渡河できれば安心である」と言うと、弟・織田信包は、「言っていることは尤もであり、理解できるが、敵地に小勢で置かれても要害を持ち堪えられないし、渡河のためだけに多勢を置くのは無意味である。さて、要害を築いたとして、誰れを置かれるのですか。私の頭では適する人が分かりませんので、大将(織田信長)が決めて下さい」と言った。諸将はこの発言を聞いて、「敵国に一人で置かれるのは辛い」と思ったので、手に汗握り、うつむいていた。織田信長公は、この様子を御覧になられて、「大事な砦であるが、尾張国の名たる大将を入れ置いて討たれたのでは無益である」と思い、その頃、100貫の領知を授けられていた木下藤吉郎秀吉を呼んで、「お前は、北方(愛知県一宮市北方町)の向かいの村木の近くに新城(伏屋城)を築け。その大将には、機転が利くお前が適任だと思われるので、お前を置く。城兵には何人必要だ?」と尋ねられたので、木下藤吉郎は承知し、「300人いれば、敵が何人であっても持ち堪えられます。私は身分が低いので、身分が高い人は、私の下には付きたがらないでしょう。そこで、浪人を召し抱えてお付け下さい」と申し上げた。諸将は、これを聞き、自分が選ばれなかった嬉しさに「木下藤吉郎は小柄だが、タフなので、彼以上の適任者はいない」と一斉に囁いた。1000人居ても危険な篭城を、「300人で持ち堪えられる」と大口をたたき、その上、身分の低い者であるから、たとえ討ち死にしても、大きな痛手にはならないと考え、任すことに決めた。

永禄6年(1563年)9月3日、織田信長は、国境を越えて東美濃へ侵攻し、あちこちに放火して回り、「北方の渡し」の向いの河野円城寺の近くに仮本陣を築いて駐屯し、円城寺裏の川岸に、織田信長公が、御言葉をかけられ、木下藤吉郎の設計で、新城(伏屋城)を築くと、武器、食料、屈強の2人を入れ置いた。そして織田信長は、篠木、柏井、科野、秦川、小幡、守山、根上などに住む浪人から300余人を選んで、木下藤吉郎に預け、木下藤吉郎が築いた伏屋城に篭め置いて、その後、織田信長は、尾張国へ帰った。すると、美濃衆は、木下藤吉郎の身分が低いからと侮り、約4000人で城を取り巻いて攻めた。木下藤吉郎は、生まれつき武勇と智謀を兼備した英傑であったので、「野武士(盗賊)の棟梁」蜂須賀小六正勝、又十郎兄弟(足利(斯波)高経8世孫という)、旧犬山織田家家臣・稲田大炊助貞祐、守山の土豪・加治田景儀、川並衆・松原内匠(木曽川を熟知し、操船術、建築術に長けていた)、秦川の土豪・日比野六太夫、柏井の土豪・青山新七昌起、小肋兄弟、篠木の土豪・河口久助、品野の土豪・長江半之丞などの城兵に命令して、城の橋をはずし、門を閉じ、弓や鉄砲を撃って防戦すると、敵には名だたる武将が多数いたが、城に攻め入る手立てが見つからないので、城中をけしかけて、城から出させて討とうとしたが、けしかけても反応がなく、静かであった。美濃衆は20余日間、厳しく攻めたが、城はびくともしなかったので、却って攻め疲れて、井ノロ(後の岐阜)へ帰っていった。

その後、4、5日過ぎて、夜になると、城中から密かに城兵が出て、近くの村を襲い、食料や家財はもちろん、若くて健康な男女を数十人ずつ人質として捕えて城に戻り、奴隷として使った。村人は迷惑し、「領民と成るので、夜討は辞めていただきたい」と申し込んできたので、夜盗は辞め、奪った人や家財も返し、その村人を案内者として、次の村を襲うと、また、村人が恭順してくるので、この方法で領知(領地と領民)を広げ、既に50余村、6000貫余となった。織田信長公は、この事を聞かれて、今度、討ち取った所を全て木下藤吉郎に与えたので、(取った分だけもらえるなら、取らなきゃ損だとばかりに)増々敵国(美濃国)から領知を奪っていった。また、蜂須賀小六郎は、比類無き働きで、祝着至極と、今度治めることになった領知の内の500貫を与えた。その上、蜂須賀彦右衛門正勝と改名するよう言われ、木下藤吉郎が後見人になった。(蜂須賀彦右衛門正勝は木下藤吉郎の与力となった。)

まことに、木下藤吉郎が多くの年月を経ずして、小者から侍大将にまで出世したには、武士の冥利とはいうものの、不思議な事である。そもそも豊臣秀吉公は、尾張国清洲の近くの中村の弥助という住民の下女が、余りにも貧しい事を嘆いて、甚目寺観音に百日詣して、天文5年(1536年)に生まれた。天文5年は申年なので、幼名は「猿」と付けられた。父は誰であるか分からない。元来、貧しかったので、近くの村の住民の下僕となって、17歳を迎えた。つくづく思うに、「武士に仕えよう」と、清洲の職人・青木重矩の妻である叔母(母の妹)に「武士に仕えたい」と言うと、叔母は喜び、衣を替え、心を込めて旅の準備をすると、猿は青木重矩に連れられて三河国へ行って奉公に励み、数年を経て、生国・尾張国へ帰り、永禄元年(1558年)9月1日、木下藤吉郎、23歳にして、織田信長の小者になり、昼夜を問わず、一生懸命働いた。

永禄4年(1561年)8月20日、清洲城の塀が地震で100間(約182m)にわたって崩れた。20日たっても修復工事が終わらなかったが、猿は「私なら3日間で直せる」と言ったので、任せると、競争原理を導入した「割普請」で、2日間で直してしまったので、足軽に昇進し、生まれた村の名をとって「中村藤吉郎」と改名し、木下雅楽助の寄子となった。

永禄5年(1562年。永禄4年の誤り)5月中旬、美濃国墨俣城で、「織田信長公三十六功臣」の一人である福富平左衛門秀勝(貞次)が金の竜の笄(結髪用具)をなくした時、藤吉郎が疑われたが、色々と智謀を巡らして(津島の質屋に「売りに来る者がいたら連絡するように」と言っておいて、売りに来た)犯人を捕まえたので、織田信長は感心して、すぐに呼んで所領30貫を与え、寄親・木下雅楽助に命じて名字を譲らせ、木下藤吉郎と名乗らせた。

その後、犬山の一戦の時、名だたる武将を討って、禄が加増されて100貫になった。

そして、侍大将となり、永禄7年(1564年)1月の出仕には、数千の輩を越えて上座(かみざ)に座ることになるとは由々しき事態である。

 

【原文】

永禄四年卯月中旬に織田信長公、御舎弟・上野介信包卿を始めとして、六千五百の英士を引卒し、初めて西美濃へ打て出給ひ、敵地の形勢(ありさま)を巡視し玉ふ。其の頃、濃州岐阜の城に藤利仁(とうのとしひと)将軍の後胤・斉藤義竜の息・竜興と云へる勇将、所々に砦を構へ、要害、稠(きびし)くして篭もり居れり。信長公、是を見玉ひて、先ず竜興持ちの要害を攻落し、所々、放火し、付城を新に築き、或は、

<挿入丁始>

慥(たしか)に之を見ず。若し、敵方の計略にもやあらん、然るを只今此の城を開き、後日に義元御存名ならば、如何に申分くべきや。慥(たしか)に聞き定めて後は、如何にもあれ、其の中に敵、寄せ来たらば、当城を枕とし、討死せん事、武士の本意也と仰せられければ、緒軍勢、理に服し、持ち口を堅め、三日逗留の処に今川の家老・朝比奈兵衛太夫が許より、書札を以て、早々帰らるべき旨、申し来たりしかば、此の上は、是非無き事也と打歎て、参州国岡崎へぞ帰陣成りにける。敵も味方も此の趣を聞て、神妙なる振る舞い哉と之を感じける処に、義元の子息・今川五郎氏真は、居城・駿府より遠方成るに依て、参河の士卒は蔑(ないがし)ろに直下(みくだ)し、義元戦死の時分、武勇の志(こころざ)し有りける輩をば、駿河佞奸(ねいかん)の族(やから)は、己(おのれ)が強(きょう)無きを蔵(かく)さんとて、嘲哢(あざけり)掠(かす)め、様々讒し、毀(そし)り申すに付き、元来(もとより)氏実、愚将なれば、阿(おもね)るを信じて、岡崎の城は、松平に仮初(かりそめ)に預け置く所也。尫弱(おうじゃく)の者にて、松平と云ふ所より出、岩津、安城に移り、纔(わず)か成りしを、義元の時分、岡崎に指し置き給ふ者也。今は早、没収して、他人に宛行ふべき由、宣ふに依て、蔵人、憤りを含み給ふ。織田信長、此の由を聞き伝へて、松平蔵人は、大高の城、退きロの様体(ようだい)を鑑(かんが)みるに、若手には無双の仁なれば、如何(いかん)にもして膚(はだへ)を合はせばやと思慮して、酉の三月中旬、竊(ひそか)に使ひを指し越し、和睦有り度き旨、云ひ遣はされけり。蔵人、此の由、聞き給ひ、信長は、今川義元の怨敵なれば、憤り思ほしけれ共、氏真より岡崎を取り上ぐべき旨、慥かに聞く所也。然るに信長は、当時、並び有る間布(まじき)大将と覚へれば、隣国と云ひ、旁(かたく)以て然るべき事也と納得して、則ち、小栗大六と云ふ者を彼の方の使ひに差し添へて、和順申すべき由、通じ給ふ。信長、喜悦、斜めならずして、御子孫に至る迄、松平家に対し、疎意存間敷旨、起請文、委細に認(したため)て、信長公の血判を小栗大六にぞ見せられける。其の後、山口飛騨守を使節として、向後、貴殿と信長は骨肉同体の兄弟の好(よしみ)為すべき旨、厚紙七枚に、又、誓約の言(ことば)を載せ、並びに、御諱(おんいみな)を徳川参河守家康に改めらるべき由、仰せ遣はされけり。

斯(かく)て、参河にて、元来武勇有りし輩、悉く今川家を背いて、東照大君に隨ひければ、参州の内、広瀬、梅个坪、石个瀬、寺辺、苅屋、長沢、戸屋金、西尾、東条、八方原、御油、八幡、左脇、牛窪、吉田、下地、右の所々にて、何(いず)れも合戦に討ち勝ち、並びに、野寺の一揆を鎮め、殊には、当国一宮に於ひて、徳川大祖君の御勢、二千の勢を以て、今川氏真の一万余の大軍を追い崩し、東照君、勝利を得給ひしかば、松平のー族は申すに及ばず、酒井、水野、大久保、本多、戸田、石川、榊原、奥平、菅沼、長沢、安藤、内藤、鳥居、鈴木など各々帰服し、東照大君の御手に属し、参河、程なく静謐せり。

去る程に、永禄四年卯月中旬、信長公、六千五百の勢を卒し、初めて西美濃へ打て出られ、竜興持ちの要害共を攻落し、所々、放火し、付城を構へ、新城を築き、或は

<挿入丁終>

濃州諸士の方へ縁に隨ひ、噯(あつか)ひを入れ、様々の手遣ひあり。其の後、信長公、諸士を集め、濃州、尾州の境は大海を隔てたれば、輙(たやす)く往還成りがたし。美濃より帰陣の刻、敵、付け慕ふの故、殿れを取り、又は、洪水の時分、難儀しむる事なれば、川向ひの敵地に要害を築き、其の裏より舟にて心安く往来すべしと思ふ也と仰せければ、御舎弟・上野介信包、申されけるは、御諚(おきて)尤もに候。但し、敵地に小勢にては、要害、持ち怺(こら)へがたし。又、多勢にては詮無く候。誰れをか指し置かるるべき乎(や)。愚意、辯(わきまへ)難し。偏に大将の心持ち簡要とこそ存じ候へとぞ宣ひけれる。諸士、此の由を承り、敵国に一身居城せん事、難儀為したるべしと思ひければ、手に汗を握り、頭を垂れてぞ居たりける。信長公、此の体を御覧じて、大事の取出(とりで)なれば、尾州にて名ある大将を遣はし、命を失ふては益無き事也と思ひ召し、其の頃、所領百貫受納しける木下藤吉郎秀吉を召して、北方の向かひ、村木の辺に新城を築き、其の大将に黠(こざか)しき者なれば、汝を差し置くべし。勢は何程然るべきやと御尋ね有りければ、秀吉、承り、三百騎候はば、敵、何程多勢に候へ共、持ち怺(こら)へ候べし。某儀は、尫弱の者に候へば、能(よ)き者は下知に属(つき)申し間敷候故、浪人どもを召し抱へられ、御預け御尤もに存じ奉り候と申し上げる。諸士、之を聞き、自身の遁(のが)るる事の嬉しさに、藤吉は小兵乍ら健(すこやか)に見へ候間、彼に増(まさ)る者は候はじと、一同に囁きけり。千騎計りにても危き程の篭城を、三百にて持ち堪(こらゆ)べしと云ひ、其の上、名もなき者の事なれば、縦(たと)ひ討たるる儀有り共、苦しからずと思し召して、同六年九月三日、東美濃へ打ち越へ、此彼(ここかしこ)放火し、北方の渡の向かひ、中野円成寺の辺に屯(たむろ)有りて、其の後の河端に、信長公、御詞(ことば)を添へられ、藤吉郎縄張にて、新城を築き、武具・兵粮、丈夫(じょうぶ)二人、入れ置く。扨(さて)、篠木、柏井、科野、秦川、小幡、守山、根上などに牢々せし者共の中より三百余人撰(え)り出(いだ)し、秀吉に預けられ、彼の要害に篭め置き給て、其の後、尾州へ帰陣せらる。斯くて濃州の軍勢、四千計りにて、藤吉郎が分際を侮り、城を取り巻き、之を攻む。秀吉は天性、武勇、智謀兼備したる英雄の者也しかば、蜂須賀小六、同又十郎、稲田大炊、加治田隼人、松原内匠、日比野六太夫、青山新七、同小肋、川口久助、長江半之丞などと云ふ兵に下知して、構への橋を迦(はず)し、門を閉じ、弓、鉄炮を打ち出し、防ぎ戦う間、寄手、指(さし)もの、大勢なりと雖ども、攻め入るべき行(てだて)なふして、城中を欺き、偽引(おびき)出し、討たんとすれ共、城より敢(あへ)て一言の会釈(あいしらへ)もせず、静(しずま)り還(かへ)つて扣(ひか)へたり。竜興の勢共、二十余日、緊(きびし)く攻めけれども、要害、少も弱(よは)らざるにより、卻(かへ)つて寄手退屈し、井のロへぞ帰りける。其の後、四、五日過ぎ、城中より潜(ひそか)に人数を出し、其の辺の村里へ夜討して、兵粮、家財は申すに及ばず、若く健(すこやか)なる男女を数十人づつ人質として捕へ帰りて、城中の奴(やつこ)にぞ仕(つか)ひける。郷民等、是に迷惑し、御領の百姓に罷り成るべき間、夜討御赦免成され候様にと侘言(わびごと)申すに付き、則ち、之を免(ゆる)し、人質、雑具も返し与へ、此の村人を案内者とし、又、次の郷に至り、何(いつ)迄も斯くの如く民を悩ます故に隨順の村里、既に五十余村也。此の領知、六千貫に余るとかや。信長公、此の旨を聞し召さられ、則ち、今度の討ち取る所を皆々木下藤吉郎に下さるる条、弥(いよいよ)敵国を討ち隨へ申すべき也。又、蜂須賀小六郎、比類無き働きの由、祝着之に過ぎ去るに依て、今度治める処の領地の内、五百貫宛行はるる也。其の上、彦右衛門政勝と改名仰せ付けられ、秀吉が後見にぞ成さられける。誠に藤吉郎、年暦幾程も経ずして、凡下より士大将の列に加はる事、武冥とは云ひ乍(なが)ら、不思議なりし事共也。

抑(そもそも)秀吉公と申すは、尾州清洲の近所中村、弥助と云ふ土民の召し仕へし下女、余りに身の貧しき事を歎きて、甚目寺の観音に百日詣でて祈誓(きせい)して、天文五年に秀吉を産(さん)す。申(さる)の年なるにより、童名(わらはな)猿。父は貞(さだ)かならず。元来貧賤なれば、近里の土民の僮(やつこ)となりて、十七歳になりぬ。猿、熟々(つくづく)思ひけるは、武士に仕へて身の安否を決(さだめ)ばやとて、清洲の工人(こうにん)・青木勘兵衛と云ふ者の妻は姨女(おば)なる故、此の事を語る。姨女、感悦して、一衣を代替(しろがへ)、真成(まめやか)に用意し、則ち、青木に具せられ、参州へ趣き、奉公を励み、数年を歴(へ)て、生国に帰り、永禄元年九月朔日藤吉廿三歳にして、信長の小人に罷り出、昼夜宮仕して、同四年八月廿日、清洲の御館、塀、崩しける。奉行、能く勤むるに依て足軽に成さられ、在名(ざいみょう)なれば、中村藤吉郎と号し、木下雅楽助が組となる。翌年五月中旬、濃州墨股にて、福富平左衛門が金竜の笄(こうがい)を失ふ時分、藤吉郎、無実を蒙り、迷惑致し、色々、智謀を廻らし、其の盗人を捕らえ、信長、之を感じ給ひ、即時、召し上げられ、所領三十貫、下し置かられ、寄親の木下雅楽助に命ぜられ、名字を譲り、木下藤吉郎と名乗らしむ。其の後、犬山にて一戦の刻、能き敵を討ちて、加恩を賜り、百貫に成る。扨、士大将に経上り、永禄七年正月の出仕には、数千の傍輩を越へ、座上せられけるこそ由々敷けれ。

 

 

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