大河ドラマの世界を史実で深堀り!

大河マニアックス

山岡荘八書「長篠設楽原決戦場」碑(愛知県新城市)

井伊家を訪ねて

長篠の戦い「鉄砲三段撃ち」と「馬防柵」に注目

いよいよ、「長篠の戦い」(天正3年(1575)5月21日)です!

「長篠の戦い」は、
・長篠城攻め
・鳶ヶ巣山砦の戦い
・設楽原の戦い
の3つの戦いの総称で、地元では「長篠・設楽原の戦い」という新名称への改称を提唱しています。

「長篠の戦い」といえば、

──三重の馬防柵と、3000丁の鉄砲の三段撃ち!!!

「馬防柵」は、「武田軍の騎馬隊を防ぐ策」ですが、古文書で「馬防柵」を築いた理由を調べた牧野文斉によれば、
①甲軍は騎馬に長ぜるをもってその突撃を防ぐこと
②怯弱を示して敵を誘致すること
の2つにまとめられるとのことです。

観光用に復元された馬防柵(愛知県新城市)

つまり、古文書によれば、この柵は、
①武田軍の騎馬隊を防ぐための馬防柵
②「弱いから、臆病だから、武田軍が怖いから、柵を築いた」と思わせて、武田軍の突進を誘うための柵
なのだそうです。

いずれにせよ、武田軍が向かってこなければ、鉄砲の三段撃ちは役に立ちませんから、なんとかして突進させねば。

実際に火縄銃を撃った経験のある方によれば、
「弾を込めている間に襲われるのは怖いが、柵があれば安心」
「撃ってると腕が疲れるが、横木の支えがあれば楽」
「横木に銃をしっかりと固定できて命中する確率が上がる」
から、馬防柵は欲しいのだそうです。

さらに、
「連続射撃をすると、銃身が加熱され、熱くて持てなくなるし、火薬を入れた時点で暴発しそう」(連続射撃は不可能!)
とも。
また、大正時代の古老への聞き取り調査では、
「伝承では、長さ2間の丸太木を2間おき位に並べて、これに「縄」を3段に架した「三段柵」である」(横木は無かった!)
とも。

長篠城の駐車場に掲示されている「長篠合戦屏風」(愛知県新城市)

「長篠合戦屏風」では、柵の前で鉄砲を撃っていたり、柵の横木に鉄砲を乗せないで、柵の後方から撃っていたりします。
また、「武田軍には騎馬隊がなかった」(注1)という話を聞いたりすると、柵を築いた目的が分からなくなります。

実際の「騎馬隊」とは、多くの騎馬武者が、単騎で突進してくるのではなく、武将が馬に乗り、その周囲を盾や槍や鉄砲を持った歩兵が取り巻き、歩く速度で近づいてくるとか。現在の戦争で言えば、戦車が攻めてくるイメージに近いとのこと。

しかし、その一方で武田家には騎馬隊があり、その騎馬隊で鉄砲隊へ突撃することは、通常の作戦範疇にあるという指摘もあります(長篠合戦と武田勝頼 (敗者の日本史))。

確かに東海以西の大名は騎馬隊で突撃する戦い方に慣れておらず(騎馬武者も下馬して戦う)、織田信長も同様で、武田勝頼と直接対決するのに慎重になって馬防柵を作らせた可能性が考えられます。そうなると、やはり騎馬隊はあったと考えた方が自然かもしれません。『信長公記』にも、武田の騎馬に対して信長が警戒していた様子が描かれております。

 

第42話「長篠に立てる柵」あらすじ

武田軍(15000人)は、徳川方の長篠城(500人)を包囲した。
徳川軍(8000人)が出陣しても全滅するであろうから、徳川家康は、小栗重常を使者として、織田信長に援軍の要請をしたが、2度も断られた。

3度めに、
「では、清洲同盟を破棄し、武田と結んで、織田を攻める」
と言うと、織田信長は、3万人を率いて自ら出陣したという。(「命を惜しんで武田に寝返ることもありうる」って言っちゃったのはまずかったかな。以後、織田信長に警戒される!)

さて、徳川・織田連合軍は、徳川軍8000人+織田援軍3万=38000人で、15000人の武田軍を「逆包囲」(味方の城を包囲した敵を包囲する作戦)すると思いきや、長篠城から離れた弾正山(注2)に陣城を築き、織田信長に至っては、さらに遠く離れた極楽寺山(注3)に本陣を置いた。

徳川家康本陣跡(八剱神社)

(注2)弾正山:竹広の断上山から大宮の南貝津一帯の台地。「だんじょう」の表記に、織田信長の官位「弾正少忠」「弾正大弼」の「弾正」をあてたと考えられる。徳川家康の本陣は、八剱神社(新城市大宮字南貝津)に置かれた。
(注3)極楽寺山:極楽寺跡(新城市上平井字タイカ)。旗本の本陣は、平井神社に置かれた。

武田勝頼の本陣は、長篠山医王寺(新城市長篠字弥陀の前)とその裏山の医王寺山砦に置かれた。

「武田勝頼公本陣地」碑(長篠山医王寺)

医王寺の裏山にある「医王寺山砦」縄張り図

──賽は投げられた。滝川を渡れ!

長篠城を取り巻く武田軍の選択は、遠くの徳川・織田連合軍を無視して長篠城を攻め続けるか、退却するかであるが、なんと、なんと、滝川(寒狭川、豊川)を渡って、清井田(永観寺跡)に着陣し、軍議(陣地検分の報告を聞いたり、作戦を練ったりする会議)を行った。

山県昌景、内藤昌秀、馬場信春、原昌胤、小山田信茂といった重臣が撤退を進言したが、長坂光堅(釣閑斎)と跡部勝資が決戦を主張し、武田勝頼は決戦を決断したという。その決断の理由を、ドラマでは、別働隊(酒井隊)の鳶ヶ巣山砦襲撃の報告を聞き、

──若かったので、設楽原へと突撃した。

としている。

ここで、本陣の移動を現地に掲示されている地図(斜め左上が北)で確認しておこう。

現地の地図(上半分)

武田勝頼は、本陣を医王寺山砦から清井田に移して作戦を伝えると、本陣を信玄原(信玄台地)の才ノ神(新城市八束穂字才ノ神)に移した。

徳川家康と織田信長は、極楽寺山(極楽寺跡)の織田信長本陣で軍議を行うと、本陣を、織田信長は茶臼山に移し、徳川家康は弾正山の八剱神社に置いた。

現地の地図(上半分)

激戦地は、連吾川沿いの北端(丸山)、中央(柳田前)、南端(竹広)の3ヶ所である。武田軍は、「馬防柵の両端を攻め、徳川・織田軍を両端に寄せた上で、手薄になった中央部を突く」という作戦だったようである。

戦いが始まる時、徳川家康は、弾正山(弾正山にある八剱山。『信長公記』では高松山)の山頂にいたが、戦いが始まると、山頂から山麓付近の「家康物見塚」に降りた。

織田信長本陣跡(茶臼山)

徳川家康は、「物見のために(もっとよく戦場を見たいので)最前線付近へ行く」と言ったそうであるが、山頂の方が戦場全体が見渡せるわけで、これは自ら「餌」「囮」「誘い水」「武田ホイホイ」となって、武田軍を引き寄せるための行動と考えられる。

「家康物見塚」

織田信長も、弾正山の徳川本陣の北側(武田勝頼の正面)まで出てきて、千丁(後に加筆して「三千丁」)の鉄砲隊を指揮する5人の鉄砲奉行の采配を見物したという。

──信長は、家康陣所に高松山とて小高き山御座侯に取り上げられ、敵の働きを御覧じ、御下知次第働くべきの旨、兼ねてより仰せ含められ、鉄炮(三)千挺ばかり、佐々蔵介、前田又左衛門、野々村三十郎、福富平左衛門、塙九郎左衛門を御奉行として、近貼と足軽を懸けられ、御覧じ侯。(『信長公記』)

とにかく、この戦い、武田軍が馬防柵に向かって突進してこなければ話にならない。武田勝頼としたら、目の前に徳川家康と織田信長が並んでいるので、「こんな好機は2度と無い」と戦いたくなったのであろう。武田勝頼が才ノ神ではなく、長篠城や設楽原を見下ろせる遠くの鳶ヶ巣山砦にいたら、戦況は変わっていたことであろう。

『信長公記』にも、
──武田四郎、鳶の巣山に取り上り、居陣侯はゞ、何れともなすべからず侯(武田勝頼が鳶ヶ巣山砦にいたら何もできなかった)
とある。

武田軍は、徳川・織田連合軍の馬防柵めがけて突進した。

──「待ってました!」と火を噴く(三)千丁の鉄砲!
戦いは短時間で終わったと言いたいところであるが、そこは戦国最強と言われた武田軍だけに、朝6時に始まった戦いは8時間、14時まで続いた。武田軍の死者数は1万人(設楽原と鳶ヶ巣山砦はほぼ全滅で、生き残った兵のほとんどは、長篠城を包囲していた兵)とされている。

徳川・織田連合軍は圧勝し、長篠城主・奥平貞昌へは、織田信長から「信」を与えられ、「信昌」と改名した。

また、「大般若長光」(備前長船派の刀工・長光の代表作で、国宝に指定されている。銭六百貫(6000石)という代付がなされ、『大般若経』が全600巻であることから「大般若長光」と呼ばれた)が与えた。その後、この「大般若長光」は、奥平松平家の祖・松平忠明が所持し、以後、彼の子孫が所蔵した。

長篠城は解体され、その木材を使い、同じ縄張りで郷ヶ原に新城城が建てられ、奥平信昌は、徳川家康の長女・亀姫を迎え入れ、4男1女を儲けた。

※テレビ時代劇『長七郎江戸日記』では、「大般若長光」は、松平長七郎長頼(第3代将軍・徳川家光の弟・徳川忠長の子。徳川忠長の正室は、織田信長の孫・織田信良の娘)の所持刀とされているが、創作であり、徳川忠長には子はいなかったとされる。

さて、ドラマでは、戦いの前、織田信長は松平信康(徳川家康の長男で、ドラマでは徳川信康)をよび、義父(松平信康の正室は、織田信長の娘・徳姫)として、天目茶碗をプレゼントしようとしたが、
──かような高価な物を頂かずとも、親子は親子にございます。これは、しかるべき功を立てた者にお授け願えればと。(by 松平信康)
と断った。

織田信長は、
──徳川の行末は安泰じゃのぉ。
と言った。

この言葉は、単純に「徳川家康の嫡男は素晴らしい(徳姫も幸せ者だ)」という意味であろうが、歴史に詳しい視聴者であれば、「自分の息子より出来が良い。息子の代では織田と徳川の立場が逆転するであろう。手を打たねば」と受け止めたであろう。
この天目茶碗は、奥平六左衛門朝忠と中野直之に与えられたが、威圧されて断れない状況だったとはいえ、徳川家康や近藤康用を通り越しての拝領であるので、龍潭寺に寄付された。

龍潭寺には、織田信長所持の天目茶碗など、織田信長の遺品(交趾盆、陣中茶碗、南京焼茶入、黄西湖茶碗)が残されている。(これらは寺宝展(特別展)で見られるが、常設展示品とは異なり、撮影禁止であるので、この記事ではお見せ出来ない。毎年、春と秋に開かれる寺宝展の会場か、龍潭寺の公式HPで御覧くだされ。)

※龍潭寺に織田信長の遺品があるのは、龍潭寺四世・悦岫和尚が織田信長の子(伝承では三男)だからという。
ちなみに、龍潭寺の天目茶碗は、建盞(けんさん)の「禾目天目」(のぎめてんもく)である。残念ながら「曜変天目」(ようへんてんもく。全世界に3点のみ現存。全て中国ではなく、日本にあり、全て国宝に指定されている)ではない。

一方、井伊万千代であるが、『岩渕夜話』などでは「長篠の戦い」に参加したとある。小姓として、徳川家康の横で、武田軍の山県隊(赤備え)の猛攻を、間近で見ていたかもしれないが、通説では芝原合戦が井伊万千代の初陣であり、「長篠の戦い」には参加していないとされる。

このドラマでも、徳川家康に、
「日本一の留守居。励むが良いぞ」
と置いてけぼりを食らっている。

──「日本一の留守居」とは?
城兵がいる時には出来ないが、城兵がいない時なら出来る事は何かと考え、草履棚に改良を加えた。改良が加えられた草履棚は、絵を習っていただけあって、使いやすいばかりでは無く、機能美を持った作品であった。
手先が器用で、凝り性なこともあり、武具の手入れも完ぺきにこなした。まさに「日本一の留守居」であった。徳川家康は「伯楽」であり、その仕事ぶりを的確に把握し、評価した。井伊万千代は、本多正信の「あの方は、頼りのう見えますが、信じてよいお方ですよ」という言葉もあり、「一生、徳川家康に付いていこう」と思ったに違いない。

さて、「長篠の戦い」が行われた5月21日は、前日までの雨が当日にやんで鉄砲を使えるようになったという奇跡の日であった。(武田軍にも鉄砲はあり、武田軍も、鉄砲が使える日を待っていたのかもしれない。)その5月21日に梅雨が明けたとも、天正3年は空梅雨だったともいう。

「長篠の戦い」が終わって大雨が降ると、馬防柵用の木の伐採により「緑のダム」が無くなった都田川が氾濫した。

そこで「早く避難せよ」と竜宮小僧が知らせに来たのだった。

(つづく)

 

今回の言葉 「賽は投げられた。」

【原文(ラテン語)】 Alea jacta est.(アーレア・ヤクタ・エスト)
【英訳】 The die is cast.
【意味】 「賽(賭博に使うさいころ)は、既に投げられてしまった(賭けが始まってしまった)ので、もう、やるしかない」の意。

「賽は投げられた」は、ユリウス・カエサル(英語読みでジュリアス・シーザー)が、紀元前49年1月10日、イタリアのルビコン川(ローマとガリアの境界)を渡り、ローマに入る際に言った言葉である。

──Cross the Rubicon!(ルビコン川を渡れ!)

共和政ローマは、知のカエサル、富のクラッスス、力のポンペイウスの均衡「三頭政治」で成り立っていたが、カエサルは、裕福なポンペイアと結婚して富を得、ガリアを鎮圧して力を得て、独裁者となった。
彼の人生の転機となたのが、ルビコン渡河である。(ルビコン渡河以前のガリア鎮圧を記したのが『ガリア戦記』で、ルビコン渡河以後のローマ内戦を記した続篇が『内乱記』である。)

※ポンペイウスの妻・ユリア(カエサルの娘)は、紀元前54年に死亡。
※クラッススは、紀元前53年、「カルラエの戦い」で討死。

ガリアからの凱旋であっても、ルビコン川を武装したまま渡ること(武装解除しないでローマに入ること)は法で禁じられていたため、これを犯すことは、ポンペイウスへの宣戦布告を意味した。ルビコン川を渡るカエサルの心境は、滝川を渡る武田勝頼の心境に通じるものがあったろう。人生には「決断の時」がある。

──やるしかないのだ。

ローマ内戦で、ポンペイウスは味方であるはずのエジプトへ逃れたが、エジプト軍の刺客によって殺害された。これは、武田勝頼が田峯城へ入城できなかったようなものか。
カエサルがエジプトへ到着すると、ファラオ・プトレマイオス13世は、従者にポンペイウスの首をカエサルに届けさせるたが、カエサルは怒り狂ってその従者を殺し、ポンペイウスの首を抱いて、大声で泣いたという。その涙の理由は、武田信玄の訃報を聞いた時の徳川家康の涙に通じるものがあろう。

なお、カエサルは、紀元前44年3月15日、ポンペイウスが建てた「ポンペイウス劇場」のポンペイウス像の下でブルトゥスに刺され、
「ブルトゥス、お前もか (Et tu, Brute?)」
と「本能寺の変」の織田信長の「是非に及ばず」に匹敵する名言を吐き、ポンペイウス像に見守られながら息を引き取ったという。

 

キーワード:三重の馬防柵

「馬防柵」は『中興源記』に「こなたは柵を三重にゆひけるに、勝頼、何の思慮もなく攻かゝりしゆへ敗北せしなり」とあるなど、「三重」に築かれたようですが、多くの合戦図では「一重」で、どこに馬防柵があったのか分かっていません。連吾川沿い(弾正山麓)、大宮川沿い、極楽寺山麓で三重なのでしょうか?

山碕多比良「三千挺能鉄炮とゞろく天正三年五月二十一日 こゝ設楽原」

『三州長篠合戦記』(『四戦紀聞』「参州長篠戦記」を底本に、さらに詳細に書き著した江戸末期の本)には、「小川を隔て、廿四町の間に、二重、三重の乾堀(かわきぼり)を掘って土居を築き、五十間、三十間を置いて虎口(こぐち)を設け、目通り一尺廻りの木を以て柵を付け」とあります。この記述ですと、連吾川と弾正山の間に「二重」「三重」に空堀を掘り、出てきた土で「土塁」を築き、土塁の上に馬防柵を築いた結果、土塁が「二重」「三重」なので、馬防柵も「二重」「三重」になったということになるでしょう。

徳川家康の本陣に突撃してきたのは、武田の赤備え(山県隊)で、ドラマでは、馬防柵を破って切り込んできたので、酒井忠勝が山県昌景を討ち取って首を刎ねたことになっていました。

実際の山県昌景は、馬防柵に達する前に鉄砲に撃たれ、その首は徳川方に取られないようにと、武田方で刎ねて陣地に持ちかえったようです。(上の「長篠合戦屏風」では、志村光家が持っている。)

『忠勝公御武功其外聞書』「参州長篠御合戦之節忠勝様御鑓御入しほ之御武功之事」では、馬防柵は、連吾川の両岸と徳川・織田本陣前の三重で、破られないと思っていたが、武田軍(内藤隊)が第一、第二の柵を簡単に破り、20人程が第三の柵を乗り越えて攻めてきたので、本多忠勝が槍を持って応戦したとしています。

史料:『忠勝公御武功其外聞書』
「参州長篠御合戦之節忠勝様御鑓御入しほ之御武功之事」
一 天正三年乙亥四月、武田勝頼公、参州出張、奥平九八郎殿居城長篠の城を取かこみ、責られ候ニ付、後詰の義を権現様江鳥居強右衛門を以て被申上候。依之、信長公江被仰入、御両将、後詰として御出馬被遊候処、勝頼公剛将、其上信玄公より伝り候武功の士、大将余多御座候故、信長公にも御用心被成、権現様御家来衆を被召寄、各此度の一戦に存知寄有之候者不浅可申上候よし被仰出候得ハ、本多百助殿末座より被罷出左候者、「於長篠、柵を御つけ御合戦被成候てハいかゝ可有御座」と被申上候得は、信長公、聞もあへす、「それは百助、よはき申合なり。柵なとを付申に可及か」と諸人承り候処前にてハ御しかり被成其夜密ニ権現様江御使者にて百助を可被召連のよし被仰遣候、則百助御供ニ被召れ御越被成候得は、信長公、被仰候は、「人前にては敵方へ□□(漏伝?) へ可申哉と思召、わさと御しかり被成、柵を付、たゝかい可申」と の分別扨々能出申候、最早此度の合戦ハ、必定勝利を被得候間、安堵可被成候よし権現様江御挨拶にて百助殿を御誉被成、信長公御盃を被下候由。其後、長篠戦場にて五町宛明置候て柵を三重迄御付被成候。「信長公と権現様との御陳所は、一段高き所。其前に柵一重。此外、敵付の方中くぼなる所、川の前後に柵二重付候様に」と被仰付候、此時の御陳場奉行にも忠勝様を被仰付候よし、然処勝頼公方よりハ手前の中くほなる所に有之候二重の柵は見へ不申、むかふの信長公と権現様御陳所高みに御座候柵一重計と勝頼公には御見及被成候由。其上、御両将御出馬大軍にて御座候得ハ、勝頼公御難儀の一戦にて御座候故高場美濃守・内藤修理・山縣三郎兵衛其外信玄公より伝り候武田の侍、勝頼公江御申上候は、「先、此節ハ、軍御やめ被成、是より脇道江御人数御廻引あけられ重而、御一戦被成可然」のよし達而諌候得共、跡部大炊・長坂長閑なとは、「御合戦被遊可然」とすゝめ申に付、勝頼公被仰候は、「柵一重也。是非合戦に及踏散さん」と思召候よしにて、御旗・楯なしの御誓言を被立、「此一戦やめましき」と被仰出候付、美濃守を初いさめ申つる。侍大将各、「討死可仕」と覚悟つかまつり、或妻子之方江文を遣候志も御座候由。扨亦御合戦前の夜、酒井左衛門尉殿、信長公江被申上候ハ、「今夜、鳶巣を責破候て、明日の御合戦弥御勝利可有御座奉存候」よし被申上候得者、信長公、聞召、「それは左衛門悪敷了間にて候。鳶巣江ハかまわぬか能」と諸人承候前にてハ被仰、又密成所へ左衛門尉殿を被召寄、「其方申通、鳶巣ハ勝頼、長篠を責候付城にて候得は、今夜、鳶巣を責取候者、勝頼必定気を失ひ、明日の合戦、味方可得勝利候。其方、大義なから早々馳むかい候得。此方よりも金森五郎八、佐藤六左衛門、青木新七郎、加藤市左衛門を可被指添之」由被仰渡、左衛門尉殿を初、右四人の衆、一同ニ鳶巣へ被馳向候、此外権現様より本多豊後守殿、松平左近殿を被遣候。各長篠南海道筋山手より押よセ、夜明方、鳶巣江着陳。即時に責破被申候。大将・武田兵庫、其外、三枝勘解由、名和無理之助、飯尾孫四郎衛門、五味与兵衛を初、二千余人ことごとく討死仕候。明れは五月廿二日、勝頼公の人数、信長公・権現様の御陣所を目然無二無三に攻かゝり、柵二重迄は何のくもなくふみ破候。然所に権現様御備より鉄砲きひしく御打セ被成候節、北の方に備罷有候内藤修理千五百の人数にて三重めの柵を乗こし既に二十人余押込来候所を忠勝様、御覧被成、鑓を御取被成、御味方いきおい付候様に御下知を被加、しほ合を被見合候時、修理先備色々と仕候処を忠勝様大音声を揚られ、「あの敵、討取れかゝれ、かゝれ」と御進出、御身をもふて御下知被成候故、権現様御人数いきおひかゝり勝頼方尽々敗軍仕り。それより追まくり、瀧川の葉柴の橋迄おい候得者、橋の上せまく御座候故、甲州勢、逃かさなり、押合候て、大半川中へ落、水におほれ死申候。吉田川江流れ来り候死骸夥布事に御座候よし。此外、長篠の城を押へ罷有候、高坂源五郎、諸賀入道以下味方敗軍を承り、長篠を引払候を、追討に仕候故、両人共に討死仕候事。
右之物語ハ、新城に菅沼主水殿御座候節、布施源兵衛御見舞申候得ハ、長篠御合戦見物仕候、百姓の子を案内者に御申付被成、古戦場見物仕、其上御勝利の様子具に承候由ニ而、布施源兵衛物語仕候。
右之御合戦元禄八乙亥年迄百二十二年
右忠勝様御下知を以、内藤修理千五百の人数備、先いろいろと仕候。しほ合を御覧被成、大音声を揚られ、真先江御進出、御下知被成候付、御味方勢ひ懸り、修理備敗軍仕候。御武功天下に流布仕、於に今戦法鑓の入しほの伝授に仕候よし、先師布施源兵衛為申聞候。

 

キーワード:3000丁の鉄砲の三段撃ち

徳川・織田連合軍の鉄砲は1000丁であり、「3000丁の3段撃ち」は創作だそうです。
徳川・織田連合軍の鉄砲は1000丁だったそうですが、当時の戦国大名は、鉄砲を500丁は持っていて、設楽原へは、徳川家康は500丁、武田勝頼は1500丁の鉄砲を持ち込んでいたようです。

織田信長も500丁持ち込んで、徳川・織田連合軍で1000丁となり、武田軍より500丁少ないというのは考えにくいです。

斎藤道三と会う時、既に鉄砲500丁を持って行進した織田信長ですから、「長篠の戦い」の時にはもっと用意できたはずです。しかも、前日の5月20日、長岡藤孝(細川藤孝)から鉄砲、玉薬と鉄砲放が送られて来るなどの支援もあったわけですので。鳶ヶ巣山砦攻めには、鉄砲500丁(鉄砲隊2隊)が使われています。設楽原の鉄砲隊は5隊ですから、1隊250丁として、5隊で1250丁。

つまり、徳川軍500丁、織田軍1250丁の合計1750丁はあったと思います。

学者は「3000丁用意し、3000人の足軽が1列に並べば、1m間隔でも3km必要」としていますが、3人1組であれば、1m間隔で1kmです。馬防柵の長さは2kmですので、2m間隔に配置できます。

「長篠の戦い」の再現(設楽原)

「鉄砲の三段撃ち」については、
説①:交代射撃法(人が移動):松平信康が考案
説②:交換射撃法(鉄砲を移動):織田信長が考案
説③:3段の高低差
説④:当時の「段」とは「団」の意。
説⑤:創作。実際は無かった。
があります。

説①批判:3人一組で、移動しながら次々と撃つ。場所的に狭いし、前日までの雨で地面はぬかるんでおり、重い装備(30kg?)を身につけての頻繁な移動は疲れるとのこと。

説②批判:3人一組で、先頭の1人が撃つ専門で、残りの2人は、撃てるように準備した鉄砲を先頭の狙撃手に渡す。『信長公記』の村木砦攻めの記述に「鉄炮取かへ取かへ放されられ」(撃てるように準備した鉄砲を織田信長に次から次へと渡し、織田信長は次々と撃った)とある。実際に火縄銃を使っている方にお聞きすると、「火縄銃には1丁1丁個性があり、自分の火縄銃なら良いけれど、他人の火縄銃を使うのは避けたい」とのこと。

説③批判:三重に空堀を掘り、出てきた土で土手(身隠し)を築き、その土手に馬防柵を築いた(その結果、柵も三重になった)というが、三重の柵は、川岸、山麓、山腹に築かれ、高低差を付けてそれぞれの柵の後方から撃ったとするのが説④である。理論的には前にいる味方に当たらないのであるが、実際に撃ってみると、後方から発砲音が聞こえる、頭上を弾が飛ぶというのは耐え難い恐怖であるし、焔硝の残骸が前に飛び散るので危険だという。

説④批判:当時の古文書で、「段」とは「団」の意だとして、「三段」は「三団」であって、それは「激戦地の丸山・柳田前・竹広で撃ったということ」だとするが、実際は「三団」ではなく、「五団」(鉄砲奉行は5人)であった。

説⑤:古文書にそんな記述は無いと「鉄砲の三段撃ち」を否定する。小瀬甫庵『信長記』の「千挺宛(ずつ)放ち懸け、一段宛立ち替わり、立ち替わり打たすべし」(3000丁の鉄砲を1000丁ずつ撃った)という記述を、明治時代の陸軍参謀本部編『日本戦史 長篠役』が「鉄砲の三段撃ち」として広めたという。

「三段撃ち」により「次々に撃つ」「絶え間なく撃つ」事が可能になったというのですが、弾がなくなったら終りです。1人10弾持っていて、30秒毎に撃ったら、300秒=5分で弾切れで、8時間も撃ち続けられません。また、実際に連続射撃をすると、銃身が加熱され、熱くて持てなくなったり、火薬を詰める時に暴発したりするとのことです。

私が考える史実は、「5団に分かれて一番柵の前で撃ち、武田軍が近づいてきたら一番柵の後方で撃つ。一番柵が破られ、二番柵の後方に移動して撃ってるうちに弾が切れ、弓や槍での攻撃に切替。二番柵が破られたら、三番柵の後方に移動して、弓や槍で攻撃」かな。

鉄砲の数以上に、バラバラに撃つのではなく、5つの鉄砲隊に分かれ、鉄砲奉行によって統制された集団射撃であったので、武田勝頼は、この鉄砲の使い方に驚いたと思うし、武田軍の敗因の1つになったと思っています。

 

キーワード:2つのなぜ

(1)なぜ奥平貞昌は降伏しなかったのか?

高天神城を城主・小笠原氏助(信興)が武田勝頼に渡した理由は、
・「討死するよりまし」と考えたから
・開城の条件がよかったから
・徳川家康からの援軍が来なかったから
かな。

小笠原氏の本貫地は甲斐国巨摩郡小笠原(現在の山梨県南アルプス市小笠原)ですから、
──徳川より強い武田に付きたい。同郷だし。
と心の底で思っていたからかもね。

では、なぜ、長篠城を城主・奥平貞昌(貞能の子)が武田勝頼に渡さなかったかといえば、次の3つの理由が考えられます。
①徳川家康の長女・亀姫と婚約していたから
②武田家を裏切っているので、開城したら、自分や奥平一族は皆殺しになるに決まっているから
③横に軍監の松平親俊と松平景忠がいたから
「徳川家康からの援軍が来ると信じていたから」もあるかな。

①この奥平貞昌と亀姫の結婚には、実母・築山殿が、「徳川と同レベルの戦国大名と結婚させるべきで、田舎の山城の城主と結婚させるべきではない」と大反対し、松平信康も、この妹の結婚には大反対で、ドラマでは、仲良く碁を打っていたけど、実際は、徳川家康と松平信康の関係は悪化していた。しかしながら、奥平貞昌と亀姫との婚約は、織田信長の命令であり、徳川家康は反対できず、奥平貞昌は妻・於粟(おふう)と離婚した。
なお、奥平貞昌は、荒れ果てた長篠城は新婚生活にふさわしくないとして、「新城市」の市の名の由来「新城城」を建てた。そして、必死に守った長篠城は、あっけなく廃城となった。

「新城」地名発祥地・新城城跡

②高天神城の開城により、武田勝頼は、城主・小笠原氏助には駿河国富士郡に1万貫(10万石)を与えて移り、高天神城は武田直属の城として、城番として岡部元信が入れられた。開城の条件は、城主だけではなく、城兵にも良いもので、本領を安堵され、武田に付いても、徳川に付いても良しとされた。(この時、武田に付いた城兵を「東退」、徳川に付いた城兵を「西退」という。)
一方、奥平貞昌の父・奥平貞能は、武田方であったが、徳川方に寝返った。(徳川家康に、最も早く、武田信玄の死を報告したのは奥平貞能だという。)怒った武田勝頼は、3人の人質(仙千代(仙丸)、於粟、虎之助)を鳳来寺山麓で処刑した。仙千代については、お供の黒屋重吉がまず「作法を教える。見本を見せる」と言って切腹し、続いて仙千代が切腹したと伝わるが、実際は磔だったという。
・仙千代:武田氏は、奥平貞能の妻を人質に出すよう要請したが、病気で寝たきりであったので、奥平貞能の次男・仙千代(長男は奥平貞昌)が自ら人質を買って出た。享年13。墓は門谷の鳳来寺参道脇。
・於粟:奥平定置の娘で、奥平貞昌の元妻。享年16。墓は舞々坂。
・奥平虎之助:奥平勝次の次男。享年16。墓は万寿坂。

③長篠城の城兵は、250人。これに徳川家康から送られた援将(軍監)・松平親俊(五井松平)と松平景忠(福釜松平)の兵250人を合わせた500人であった。松平親俊と松平景忠は、奥平貞昌の様子を伺う軍監である。「三方ヶ原の戦い」の時も、織田軍の軍監・平手汎秀、佐久間信盛、水野信元がいたので、徳川家康は、武田信玄と戦わざるを得なかった。

(2)なぜ武田軍は馬防柵に向かって突進したのか?

この「設楽原の戦い」は、武田軍が遠くにいる徳川・織田連合軍を無視して長篠城を攻め続けていたら、武田軍が馬防柵に向かって突進していなかったら、武田軍が、徳川・織田連合軍との兵数の差を考えて撤退していたら、歴史は変わっていた。
武田軍の突進の理由としては、次の4点が考えられる。
①跡部勝資と長坂光堅が勧めたから
②「三方ヶ原の戦い」の時の徳川家康同様、若気の至り
③徳川・織田連合軍は弱く、勝てると思っていたから
④武田勝頼はいつ死んでもいいと思っていたから

①『甲陽軍鑑』には、跡部勝資と長坂光堅が勧めたからとあるが、そもそも、武田勝頼は、『甲陽軍鑑』によれば、「強過ぎる大将」(勇猛過ぎる大将。我が強くて他人の助言を取り入れず、武功に走るタイプ)であったので、家臣の勧めではなく、自分で決めたのであろう。(『甲陽軍鑑』「品第十四 強過たる大将之事 長篠合戦の次第付信長公家康公智謀深き事、同味方原合戦物語之事」参照)

②「強過ぎる大将」である武田勝頼は、織田信長の陽動作戦にまんまと乗ってしまい、突撃したと言う。ドラマでは、この説を採用している。

③武田勝頼は、甲斐府中での留守居役・長坂長閑斎への5月20日付の手紙で、織田信長と徳川家康は追い詰められており、「信長・家康両敵共、此度、本意を達す」(織田信長と徳川家康の両方を、今回の戦いで、念願どおり、倒すことが出来る)と自信満々である。

──長篠の地取り詰め候のところ、信長・家康、後詰めとして出張(でばり)候といえども、指(さしたる)儀なく、対陣に及び候。敵、行之術(てだてのすべ)を失い、一段逼迫(ひっぱく)の躰(てい)に候之条、無二(に)彼(かの)陣へ乗り懸け、信長・家康両敵共、此度、本意を達すべき儀、案之内に候。

一方、織田信長は、長岡藤孝(細川藤孝)への5月20日付の手紙に次のように書いている。

──この節、根切り、眼前に候。

「今回の戦いで、武田軍を「ねぎり」(根元から断つ。皆殺し)にする。それは目前である」と、こちらも自信満々である。

とにかく、織田信長は、「武田軍が怖い」ということを態度で示した。
・岡崎まで来ると、足がすくんで進軍スピードが落ちた。
・武田軍が怖くて近づけないので、数キロ離れて陣を敷いた。
・武田軍の騎馬隊が怖いので、2kmに渡る馬防柵を築いた。
・「武田軍が怖い」と、寝返る者が出てきた。
※佐久間信盛が(「関ヶ原の戦い」の小早川秀秋のように)寝返ることが分かっていたので、武田勝頼は勝つと思っていたというが、佐久間信盛に「寝返りたい」と書状を書かせたのは、織田信長であり、嘘であって、佐久間信盛が寝返ることはなかった。

④武田信玄は、遺言として、武田勝頼に「甲斐武田家第21代宗主・武田信勝が成長するまで陣代(後見人)を務めよ」と言ったという。つまり、武田勝頼は、宗主ではなく、陣代に過ぎず、「自分が死んでも、若き宗主・武田信勝がいるから武田家は安泰」と考え、思い切った作戦をとる「強過ぎる大将」だったという。

長篠城が包囲された時、徳川家康だけが助けに行っていたら、「三方ヶ原の戦い」の二の舞であった(惨敗していた)。
織田信長が出陣したので、徳川家康も出陣した。こうなると、今度は武田勝頼が「逃げるか、戦うか」という「三方ヶ原の戦い」の時の徳川家康の心境になった。(「三方ヶ原の戦い」の時、徳川家康は、戦わずに、岡崎へ逃げても良かった。)
若さ故、浜松城を飛び出して三方ヶ原で武田信玄に打ち負かされた徳川家康は、若さ故、設楽原に攻め入った武田勝頼を打ち負かした。「長篠の戦い」とは、「逆三方ヶ原の戦い」「三方ヶ原の戦いの倍返し」である。
「長篠の戦い」の後、徳川・織田連合軍が、武田勝頼を追わなかったのは、武田信玄が「三方ヶ原の戦い」後に浜松城に帰城した徳川家康を攻めなかったことへの恩返しなのか?(深追いしての山間部での戦いを避けたのであろう。)
長篠での大敗で、武田軍の力は衰えたが、(三方ヶ原での大敗後の徳川家康のように)武田勝頼は、体制の立て直しに成功している。武田家滅亡は、1575年の「長篠の戦い」から、7年後の1582年のことである。その1582年は、おとわ(井伊直虎)が亡くなった年でもある。おとわの死まであと7年、ドラマ終了まで70日!!!!!!!

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

-井伊家を訪ねて

Copyright© 大河マニアックス , 2024 All Rights Reserved.