大河ドラマの世界を史実で深堀り!

大河マニアックス

諏訪原城(静岡県島田市金谷)

井伊家を訪ねて

難しい浜松と岡崎の関係をまとめた井伊直政の外交力

<国指定史跡 諏訪原城跡 現地案内板>
諏訪原城は、武田勝頼・徳川家康時代の堀、丸馬出が良好な形で現存し、戦国時代史の過程を理解する上で見逃すことのできない重要な遺跡として国の史跡に指定されています。
当城は、天正元年(1573)、武田勝頼が、東海道沿いの牧ノ原台地上に普請奉行馬場美濃守信房(信春)、その補佐を武田信豊に命じ築いたと『甲陽軍鑑』等に記されています。城内に諏訪大明神を祀ったことから、『諏訪原城』の名がついたと言われています。諏訪原城は、大井川を境として駿河から遠江に入る交通・軍事上で重要な場所にあり、当時徳川方だった高天神城(静岡県掛川市)攻略のための陣城(攻めの城)として、攻略後は兵站基地(軍事作戦に必要な物資や人員の移動を支援する城)としての役割を担いました。
天正3年(1575)に、徳川家康によって攻め落とされたのち、『牧野城(牧野原城)』と改名され、武田方となった高天神城を攻略するための城として活用されました。牧野城には、今川氏真や松平家忠らが在城し、『家忠日記』には、堀普請(堀を造る土木工事)や塀普請などの度重なる改修が行われたことが記されています。
天正9年(1581)に、高天神城が落城し、翌年、武田氏が滅亡するとこの城の必要性は無くなりました。その後、徳川家康が関東に移ったことから、天正18年(1590)頃廃城になったと考えられています。
島田市教育委員会

最近、カモシカが出没するという諏訪原城(牧野城)へ行ってきました。

諏訪原城の三日月堀と門(復元)

上掲の案内板には今川氏真が在城、番組最後の「直虎紀行」でも「城番」を務めたとありました。これが通説です。(私は、そんな大盤振る舞いをするわけがなく、今川氏真が城番となった牧野城は、諏訪原城(牧野城)ではなく、今川義元胴塚(一色城)や牛久保城に近い牧野城(愛知県豊川市牧野町)だと考えています。)

 

豊川市の牧野城の近くに牛久保城があります。「長篠の戦い」の時、後詰として今川氏真が在城し、その恩賞として牧野城が与えられたと伝えられています。(前々回のレビュー記事に掲載したように、『信長公記』には、牛久保城には、丸毛長照と福田三河守が城番として置かれたとあります。)

牧野城(愛知県豊川市牧野町丁畑)現地案内板

牛久保城(愛知県豊川市牛久保町城跡)現地案内板

──「武田四名臣」の1人として名高い、あの内藤昌秀、武田の四天王・内藤修理亮昌秀を討取りましてございます。(中略)今川の働き、何卒お認め下さりますよう、お頼み申し上げます。(by 朝比奈泰勝)

同じ事をくどくどと、汗塗れで四半時(約30分間)は述べ立てる。──「戦の手柄改め」のプレゼンは必死です。それにより、新しく得た領地の岡崎衆、浜松衆、旧今川衆、国衆への配分が、さらには自分への配分が決まるのですから。

「武田四名臣」(「武田四天王」とも)は、馬場信房(信春)、内藤昌豊(昌秀)、山県昌景、高坂昌信(春日虎綱)の4名で、高坂昌信以外は「長篠の戦い」で討死しています。
前回のレビュー記事に全文を掲載した『忠勝公御武功其外聞書』「参州長篠御合戦之節忠勝様御鑓御入しほ之御武功之事」には、内藤隊が徳川本陣に侵入したので、本多忠勝が応戦したとありますが、はっきりと「本多忠勝が箕輪城代・内藤昌秀を討ち取った」とは書いてありません。(ドラマの本多忠勝は、山県昌景を討ち取っています。)

■史料:『忠勝公御武功其外聞書』「参州長篠御合戦之節忠勝様御鑓御入しほ之御武功之事」(部分)
北の方に備罷有候内藤修理千五百の人数にて三重めの柵を乗こし既に二十人余押込来候所を忠勝様、御覧被成、鑓を御取被成、御味方いきおい付候様に御下知を被加、しほ合を被見合候時、修理先備色々と仕候処を忠勝様大音声を揚られ、「あの敵、討取れかゝれ、かゝれ」と御進出、御身をもふて御下知被成候故、権現様御人数いきおひかゝり勝頼方尽々敗軍仕り。それより追まくり、瀧川の葉柴の橋迄おい候得者、橋の上せまく御座候故、甲州勢、逃かさなり、押合候て、大半川中へ落、水におほれ死申候。吉田川江流れ来り候死骸夥布事に御座候よし。
【大意】 内藤隊1500人で、徳川本隊を攻め、20人以上が三重の馬防柵を突破して徳川本陣に入ったので、本多忠勝は、槍を手にして蹴散らした。内藤隊が退いたので、滝川の橋まで追っていった。橋の幅が狭かったので、大半は滝川に落ちて溺れ死に、豊川に浮かんだ。

内藤昌秀は、天王山の陣地(新城市八束穂字天王。「内藤修理亮昌豐陣地」碑がある)にいましたが、激戦地「柳田前」に6度出向いて戦ったそうです。戦況不利と見ると、才ノ神の本陣へ行って武田勝頼を逃し、自陣に戻って戦い、徳川家臣(旧今川衆)・朝比奈泰勝に討ち取られたようです。お墓(「内藤修理亮昌豐之碑」)があります。享年54。

「設楽郡富永荘柳田郷天王山の西南に偏したる処に塚二有之候。(中略)下手のものは『内藤修理亮昌豐之墓』と野面石に記し(後略)」(金子諸山『戦場考』)

 

第43話 「恩賞の彼方に」 あらすじ

井伊直政はスピード出世しているが、その理由として「寵童(色小性、衆道、若衆道、若道、若色)説」があり、このドラマでは、これを上手く取り入れている。「寵童では無かったが、嫌がらせを受けないために寵童を装った」というのは、「寵童説」の新解釈と言って良いであろう。

※寵童説:『徳川実紀』に「直にめして、あつくはごくませられける。後、次第に寵任ありし」、『甲陽軍鑑』に「万千代、近年家康の御座を直す」(「御座を直す」とは、「主君の夜伽役を務める」の意の隠語)とある。

※井伊直政のスピード出世の理由を、「徳川家康の正室・築山殿の母親が、井伊直平の娘だったから」とする説があるが、母親が、井伊直平の娘だとする史料は井伊家側にあっても、今川家側にはない。また、築山殿は今川の人間であり、武田と結んで謀反を起こそうとした人物とされている。そのような徳川に仇なす人物が後ろ盾となっての出世は不可能であろう。実際、築山殿が亡くなってからも、井伊直政は出世している。

──あの者は、我等とは違う道で、殿のお心を掴んでいくのかもしれぬの。(by 榊原康政)

「我等とは違う道」とは、「寵童として」では無く、徳川家康に「上手くまとめたのぉ」と褒められた言葉の選択、交渉能力、つまり、「外交官として」であろう。「薬剤師として」では無いと思う。(「遠志(おんじ)」は、ヒメハギ科のイトヒメハギの根を乾燥した漢方薬で、効用は滋養強壮、疲労回復、病後の回復であり、「3グラムに対し水0.4リットルで、約半量まで煎じて、朝夕に服用する」という。あれでは入れ過ぎだし、半量になるまで煮ていない。薬は量を間違えたら毒になるぞ! そもそも、漢方薬(生薬)は、単独ではなく、君臣佐使調合して飲むものかと。)

浜松と岡崎の関係

ドラマの中の徳川家康(遠江国浜松城)と嫡男・岡崎信康(三河国岡崎城で松平信康とも。ドラマでは徳川信康)は仲が良いが、実際はといえば、この頃には、かなり悪化していた。

三河国は、東は徳川領(遠江国)、西は織田領(尾張国)、南は海(三河湾)、北は武田領(東美濃・信濃国)である。岡崎信康の役目は、西の織田信長と仲良くすること(そのために、織田信長の娘・徳姫と結婚)で、岡崎信康の家臣(岡崎衆)の役目は、北からの武田軍の侵入を防ぐことであり、これにより、徳川家康は、安心して東(武田領)へ侵攻できたのである。

徳川家康の家臣(浜松衆)は、どんどん戦って、どんどん武功をあげ、どんどん恩賞・宛行(新たに手に入れた東の土地)を手に入れることが出来たが、岡崎信康の家臣(岡崎衆)は、援軍要請が無ければ出陣しないし、普段は武田軍を追い返して三河の領地を確保しているだけで、武田領を奪い取っていたわけではなかった。

「恩賞の彼方に」起きそうだったのは、岡崎衆の不平・不満の爆発であったが、「諏訪原城を旧今川家臣に与える」という徳川家康の仕置(配慮)と井伊万千代の交渉力で鎮めた。(石川数正の要求を断固として断るあたり、井伊万千代は大物だ。)岡崎信康も大物だ。

──徳川の先行きのため、岡崎は耐えます。しかしながら、後々には、地味な働きをしておる岡崎の衆にも直に報いて下さいませと、そう、お伝えしてくれ。(by 岡崎信康)

「恩賞の彼方に」起きたこと。
木を伐って恩賞(天目茶碗)を下賜されたユキロックであったが、その彼方にあったものは、「緑のダム」破壊による山崩れであった。

「甚兵衛の松」…う~ん、不可解。「臨済栽松」に合わせたのか? (「近藤の松」と名付けるという条件で、近藤康用に費用を負担させたのでは?)江戸時代、祝田の特産物は松茸であったが、その松は甚兵衛が植えたとでも?

「植樹によって土砂崩れや洪水を防ごう」と考えた場合、
・早く成長する木
・成長後、木材として売れる木(まっすぐに伸び、製材しやすい木)
を植えようとするはずで、それは「スギ」である。私ならスギを植えて、「甚兵衛の杉林」とか「甚兵衛の森」とか名付けるよ。

※天竜川流域では、「暴れ天龍」と呼ばれた天竜川の氾濫を防ぐため、良かれと思ってスギを植え、「天竜美林」(日本三大人工美林)、「天竜杉」というブランド材にまでなったが、結果、花粉で苦しめられている。

※城に松を植えるのは、松ヤニ採取用、松明用。また、籠城戦で、食料が無くなった時に食べるため。東海道の街路樹に松が選ばれたのは、塩に強いため。

(つづく)

 

今回の言葉 「厳谷に松を栽える」

【原文】 巖谷栽松。後人標榜。
【書き下し文】 巌谷(がんこく)に松を栽(う)う。後人(こうじん)の標榜(ひょうぼう)。
【出典】 中国禅宗の臨済宗開祖・臨済義玄禅師(?-867)語録『臨済録』(『鎮州臨済慧照禅師語録』)の序文
【意味】 「岩の谷に松を植える。『臨済録』の序に見える語。臨済禅師が山奥の険しい谷に松を植えたという、禅林では『臨済栽松』として知られる故事に基づく。臨済禅師が松を植えているのを見て師の黄檗禅師がその理由を尋ねたところ、臨済は『一つは寺の境内に自然の趣を添えるため、もう一つは後世の人の目印にするため』と答えて、鍬で地面を三回打ったという。臨済の悟りの境地と自信が示されている。」(有馬頼底監修『茶席の禅語大辞典』淡交社)

「臨済栽松」の故事 (『臨済録』本文)

師栽松次、黄檗問。深山裏栽許多作什麼。
師云、一與山門作境致、二與後人作標榜。道了將钁頭打地三下。
黄檗云、雖然如是、子已喫吾三十棒了也。
師又以钁頭打地三下、作嘘嘘聲。
黄檗云、吾宗到汝大興於世。

師、松を栽ゆる次で、黄檗問ふ。深山裏に許多(そこばく)を栽えて什麼(なに)をか作(な)さん。
師云く、一には山門の与(た)めに境致と作(な)し、二に後人の与めに標榜(ひょうぼう)と作(な)さんと。道(い)ひ了(おわ)って钁頭(かくとう)を将(も)って地を打つこと三下(げ)。
黄檗云く、然(しか)も是(か)くの如くと雖(いえど)も、子(なんじ)已(すで)に吾が三十棒を喫(きっ)し了(おわ)れり。
師、又、鐸頭を以つて地を打つこと三下、噱噱(きょきょ)の声を作す。
黄檗云く、吾が宗、汝に至って大いに世に興らんと。

臨済禅師が松の苗を裁えていると、黄檗禅師(臨済禅師の師)は、「こんな(松がたくさん生い茂る)山寺(中国江西省高安県鷲峰山の黄檗山黄檗寺)に松など植えて、どうするんじゃ?」と尋ねた。
臨済禅師は、「1つは寺の景観を良くするためで、もう1つは、後の人の道しるべとするためです」と答え、鍬で地面を3回打った。
黄檗禅師は、「そういえば、以前、お前を棒で3度叩いたよなぁ」と言った。
臨済禅師は、また、鍬で地面を3回打つと、フーと息を吐いた。
黄檗禅師は、「我が禅宗は、汝の時代には大変盛んになるであろう」と言った。

禅語は短く、奥が深い。解説を読んでも意味が分からなかったり、解説者によって言うことが違っていたりする。
今回の説話は、「臨済が寺に松の木を植えた」というだけの話である。(この話は有名で、臨済宗の寺に「何々和尚お手植えの松」があるのはこの説話によるという。ちなみに、龍潭寺の山号は「万松山」。松に囲まれた寺である。)

岩上の松(鳳来寺)

私の理解は、
黄檗が「なぜ松を植えているのか?」と聞くと、臨済は、「100年もすればこの寺にふさわしい巨木になるし、黄檗寺の目印にもなる(「黄檗寺はどこ?」と聞かれたら、「あの松の巨木がある場所」と指差して教えれば良い)」と答えて。苗が倒れないよう、地固めに地面を3回、鍬で打った(日本では足で踏み固める)ので、黄檗が「(鍬の柄を見て棒を思い出し)3回打つと言えば、『黄蘗三打』(弟子の臨済が、師である黄檗に『仏法の根本義は何か?』と3回聞いたが、3回とも棒で打たれただけだった。しかし、そのことにより、悟りを開いたという故事)を覚えておるか? あの生意気な坊主が100年先のことを考えるようになるとはのぉ」と言うと、「そんなことがありましたっけ?」と言って、臨済は、また、地面を3回打った。黄檗は、「立派になったのぉ。中国禅宗の行末は安泰じゃのぉ」と喜んだ。
です。師と弟子の日常会話です。ここに深い意味(教訓)を探るとしたら、「無意味な行動に見えても、やってる本人にはそれなりの意味があるものだ」「人間の行動には必ず動機があるものだ」「本人に理由を聞かないで、邪推してはならない」といったところでしょうか。(これ以上の深読みは、私の能力では無理です。)「あれは『臨済の松』じゃと子々孫々、代々、語り継がれるように」植えた、「黄檗寺に学んだという記念植樹」では無いでしょう。

 

キーワード:山ノ神

「山ノ神」は、山に宿る神の総称です。平地に住む農民も、山に住む山の民も、「女神である」と言っています(木地師は、男女一対の夫婦神とする)が、「山ノ神」の捉え方は違います。

農民にとっての「山ノ神」と「田ノ神」は異名同神で、12月8日~2月8日の農閑期には山にいる「山ノ神」で、それ以外は、田んぼの横の桜(注1)にいる「田ノ神」です。「山の講」(「山ノ神」の祭り)は、「山ノ神」と「田ノ神」とが切り替わる「事八日」(12/8と2/8(西日本は12/8のみ))に行われます。

(注1)サクラ:語源は「サ(美称。早乙女、早苗の「早」)」+「クラ(神の座所。磐座の「座」)」で、「田の神」が依る木だという。これは、サクラの開花が、稲作開始の目安、指標であったからで、田んぼの横の桜は、「種まき桜」「種あげ桜」「種つけ桜」「田うち桜」「代掻き桜」などの名で呼ばれている。(サクラの語源については、「さ」は「農耕」の意の古語であるとか、「木花咲耶姫」の「さくや」が「さくら」になったなど、異説あり。)

山ノ神(山中の水源地の巨岩(依代))

山の民にとっての「山ノ神」は、山を支配し、守る神であり、常に山にいる産育の神(年に12人の子を産む生殖能力の強い神)であり、醜女だそうです。(醜女ということは、木花咲耶姫の姉の磐長姫なのか?)
「山ノ神」の斎日は、「山ノ神」が木の数を数えている日で、この日に山に入ると、醜い顔を見られたと思い、殺される(木の下敷きになって死ぬ)と言われています。こういう怖い女神であるので、口うるさい女房を「山ノ神」と言うようになったそうです。
また、嫉妬深い女神であり、トンネル工事の最中、トンネル内に女性が入ると落盤事故が起きるのは、「山ノ神」の嫉妬に触れたからだそうです。
国民の祝日「山の日」を決める時に、「(8/13からお盆休みなので)8/12」という案が出たそうですが、8/12は、昭和60年(1985)に日本航空123便が山に墜落した日であることや、「山ノ神」の斎日である(注2)ことから、8/11に変更したそうです。

(注2)「山ノ神」の斎日は、毎月7日、8日、12日、17日など、地方によって異なる。毎月12日とするのは、東北地方や北海道である。

川名観光マップ(「上組山ノ神」「中組山ノ神」「大橈山ノ神」「東橈山ノ神」の位置が記されている。話変わって、「渓雲寺は井伊直平居館跡で、直平公廟所は城跡」と聞いていたが、このマップでは、「井伊直平居館跡」は渓雲寺の北西にあったとする。)

「山ノ神」の霊場は、山の数だけあるのではなく、集落の数だけあります。上の川名観光マップには4ヶ所の「山ノ神」の位置が記されています。
祀り方の様式は、
・山中の巨岩(磐座)に依る「山ノ神」を祀る。
・山中の洞窟の中や巨岩の割れ目に「山ノ神」を祀る。
・他の神のように、祠を建てて「山ノ神」を祀る。
・「山ノ神」の横に秋葉社(地域によっては愛宕社)を祀る。
など様々ですが、地域内の祀り方は統一されています。

今でも行われている静岡県の「山ノ神」の祭りは、東部・伊豆地方(旧・駿河国河東、伊豆国)では少なく、中部地方(旧・駿河国河西)では山民にとっての「山ノ神」の祭り、西部地方(旧・遠江国)では「山ノ神の祭り」と「事八日行事」が習合しています。

※東部・伊豆地方で「山ノ神」の祭りが減った原因は不明だが、私は、駿河国一宮・富士山本宮浅間大社と伊豆国一宮・三嶋大社の影響だと考えている。

※「山ノ神」については、祀り方だけではなく、祭りの様式も地域色豊かである。一例をあげると、「まずは水神前の水で潔斎し、次に「山ノ神」へ行き、集落内に祀られている全神社の全祭神の名を含む祝詞を唱え、シシ(鹿やイノシシ)を象った物を矢で射て、腹から餅を取り出して「直会」(なおらい。餅を松で焼きながら、来年も薪や燈用の松を山ノ神に乞い、餅はその場で食す。餅を家に持って帰って食べると、一年間、シシが暴れるという。)をする」となる。

「山ノ神の祭り」(2/8)と「事八日行事」(12/8・2/8)の習合(ここでは、2/8に矢を四方に放って厄を祓う。神道の根本義は「厄払い」である。)

「事八日行事」と結びついた「山ノ神・田ノ神信仰」の祭りのやり方には、「2月8日に山中の磐座(山ノ神の依代)から里に向かって矢を放つ。「山ノ神」は、その矢に乗って里に降り、12月8日まで、里の「田ノ神」となる」という例もあります。

植木の神・久久能智大神を祀る植木神社(浜松市浜北区)

大和政権は、記紀(『日本書紀』と『古事記』を合わせてこう言う。「日本神話」と言い換え可能)を編纂し、木花咲耶姫命の父・大山祇神(大山津見神。偉大なる山ッ霊)を「山の神」と規定しました。男神です。

※記紀以外では、富士山のような火山の神が木花咲耶姫(女神)とされたり、富士山と背比べをした白山の神が白山比咩神(女神)とされたりと、特定の山に結びついた「山の神」もみられる。
駿河国一宮・富士山本宮浅間大社のご祭神は、木花咲耶姫命であり、伊豆国一宮・三嶋大社のご祭神の「三嶋大明神」とは、大山祇命と積羽八重事代主神の総称である。東部・伊豆地方では、「山ノ神」信仰よりも、浅間信仰(富士信仰)や三嶋大社(大山祇命)へ信仰の方が強いようである。(古代からの「山ノ神」も、大和政権が持ち込んだ大山祇命・木花咲耶姫命親子も「山の神」であることには変わりがない。)

林業関係者にとっての「山の神」は、大山祇神となりましたが、植林・植樹の神は、木の神・久久能智神(山の神・大山祇神の兄神)、あるいは、素盞鳴尊の子の五十猛神・大屋津姫神・抓津姫神です。
熊野本宮大社のご祭神である「家都御子神(けつみこのかみ)」は、「木ッ御子の神」という樹木神で、「木の国」(後の紀伊国、現在の和歌山県)の神でしたが、記紀が編纂されると、家都御子神は素盞鳴尊の別名とされ、素盞鳴尊が全国の山々に木種を播くよう息子の五十猛神と娘の大屋津姫神・抓津姫神(共に樹木の女神)に命じ、全国に木種を蒔いた後に住んだ国が「木の国」と呼ばれたと、由緒が書き換えられました。
この熊野本宮大社は、熊野川の中洲「大斎原」にありました。古代から一度も大洪水が起きなかったので、中洲に建ち続けられたのですが、明治以後、熊野の山林の伐採が急激に行われたことにより、山林の保水力が失われ、明治22年(1889)の大洪水で、社殿も社宝も失われ、現在地に遷座しました。
「緑のダム」(森林)の水源涵養機能(洪水緩和機能など)がどの程度有効なのか分かりませんが、森林には、他に土砂災害防止機能などもありますので、その存在は重要です。

■林野庁「森林の有する多面的機能」
■名古屋市上下水道局「緑のダム」

 

キーワード:志やぼん

徳川家康の遺品の中に「志やぼん 47貫」(約176kg)があったそうです。

「志やぼん」(シャボン、石鹸)は、室町末期にポルトガル人が日本に持ち込んだとされています(異説あり)。
固形石鹸は発明されていましたが、輸入されたのはクリーム状の石鹸で、固形石鹸が輸入されたのは江戸時代に入ってからとされています。

史料上の初見である石田三成書状(石田三成が神谷宗湛(博多津(博多港)の貿易商(豪商)、茶人)に宛てた礼状。「筑前神谷文書」)に「志やぼん二」とあり、クリーム状であれば2壺、2樽、固形石鹸であれば2個になります。

昔の人の日常生活(どんなお風呂に入り、どんな石鹸を使っていたかなど)に興味あります。

見舞の為、書状並びに志やぼん二贈られ候。遠路墾志のいたり満足に候。今度の地震故、ここもと普請半ばに候。委細後音に期ち候。
八月二十日     石治少  三成 (花押)
博多津 宗旦返事

※「今度の地震」とは、慶長元年(1596)の慶長伏見大地震のことだと考えられている。

徳川家康時代の御朱印船の船主は、三浦按針(ウィリアム・アダムス)、ヤーン・ヨーステン、林五官(りんごかん)、角倉了以、茶屋四郎次郎、末次平蔵、荒木宗太郎などでした。浜松在城時代のキーパーソンは、(ドラマでは、史実では既に亡くなっていると思われる瀬戸方久ですが、)林五官であったと思われます。西来院の案内板には、林五官について、次のようにあります。

林五官の墓
五官は中国の貿易商で、天正二年(一五七四)航海中大暴風雨に遭遇、遠州灘に漂着。以後浜松に永住し、家康公の知遇を受け、日本で始めて銅活字を鋳造した(重要文化財)ほか、医療・運送等にも天分を発揮した。

林五官の墓(西来院)

 

キーワード:酒井氏

井伊万千代をいじめる小姓頭の小五郎は、徳川四天王・酒井忠次の嫡男で、後の酒井家次(天正16年(1588)、父・酒井忠次の隠居に伴い家督相続)のことです。

父親が徳川四天王の1人故に「親の七光り」ということもありますが、そもそも、酒井家と徳川家は親戚ですから、威張っていても不思議ではありません。

酒井広親石宝塔(信光明寺)

時宗の僧、長阿弥(得川有親)・徳阿弥(得川親氏)親子が三河国の寺に滞在中、徳阿弥は、地元の土豪・酒井氏の娘とできちゃった婚をしました。その娘が死んだので、婿養子・徳阿弥は、息子(酒井広親)を酒井家の跡取りとして酒井郷に残し、自分は三河国加茂郡松平郷の土豪・松平信重の婿養子(次女・水姫の夫)となり、(三河松平氏初代)松平親氏と名乗りました。(酒井広親は、酒井氏と松平信重の長女・海姫の子とも。)

松平1親氏─2泰親─3信光…9元康(徳川1家康)

松平2代泰親は、岩津城に進出し、松平3代信光(菩提寺は信光明寺)は岩津城を居城とし、周辺に「岩津七城」を築いて守りを固めました。酒井氏は「岩津譜代」(松平宗家が岩津城を居城として以降の家臣)ということになりますが、『柳営秘鑑』では、次のように、安祥七譜代の筆頭としています。

「一、三河安祥之七御普代、酒井左衛門尉(元来御普代上座)、大久保、本多(元来「田」ニ作。中興ニ至テ美濃守故有之「多」ニ改)、阿部、石川、青山、植村、右七家を云。又ハ或ハ酒井、大久保、本多、大須賀(家筋無)、榊原、平岩、植村共イエリ。」(『柳営秘鑑』)

三河守護代・西郷頼嗣(本貫地は九州)は、康正元年(1455)、三河守護所とは菅生川を挟んで対岸(岩津城寄り)の龍頭山に岡崎城を築いて松平氏の南下(岡崎平野への進出)を阻みました。(しかし、岡崎城は、大永4年(1542)、西郷氏から松平清康(徳川家康の祖父)に譲られ、以降、松平氏の居城となった。)

             ┌【左衛門尉家】氏忠─忠勝…忠次─家次
松平親氏─酒井広親─【松平郷六所神社宮司家】親清─親重…
             └【雅楽頭家】家忠─信親…

徳阿弥(松平親氏)が滞在した寺と酒井郷については、次の2説があります。

説①稱名寺(大浜)、幡豆郡坂井郷(現在の西尾市吉良町酒井)
説②光明寺(矢作)、碧海郡酒井郷(現在の刈谷市東境町・西境町)

■稱名寺と幡豆郡坂井郷

得川(世良田、松平)有親の墓(稱名寺)

酒井氏居館(西尾市吉良町酒井)

酒井氏先祖(長阿弥、酒井五郎左衛門とその娘、酒井広親)の墓(西尾市吉良町荻原小野)

■光明寺と碧海郡酒井郷

光明寺は、矢作川の氾濫で、堂宇も寺宝も流されたが、雲珠形松平親氏位牌は難を逃れた。(光明寺)

酒井与右衛門の居城「丸山城」(刈谷市東境町丸山)

徳阿弥(後の松平親氏)が酒井広親と別れた場所・「兒塚」(刈谷市東境町)

■井田城

「井田城址」碑(城山公園)

「井田城の伝記
往昔 此処に井田城あり 岡﨑城防衛に重要なる拠点の砦なりき 応仁の乱後の城主は名君の誉高き 酒井左衛門尉忠勝公 康親公 忠親公 忠善公 忠次公の酒井家五代なり
此のあたりは井田野と称し 応仁元年 明応二年 天文四年 永禄三年 等百有余年の永きに亘り凄惨なる死闘の繰返されし合戦の地なり(後略)」(現地碑文)

【左衛門尉家】 氏忠─忠勝─康忠─忠親─忠次─家次…

井田城は、酒井氏忠から、酒井忠次まで5代の居城で、松平8代広忠(徳川家康の父)の妹・碓井姫と結婚し、徳川家康の先手大将として武勇を轟かせた「徳川四天王」の酒井忠次は、大永7年(1527)、井田城内で生まれたそうです。(井田城がある城山の南麓に居館跡、西麓に井田野古戦場があります。)

徳川家の家紋である「三つ葉葵」の起源については、
説①「元々松平郷松平家の家紋」説
説②「伊奈本多家の家紋」説
説③「酒井家の家紋」説
説④「徳川家康の考案」説
があります。
「酒井家の家紋」説とは、文明11年(1479)7月15日の安祥城攻めの時、酒井氏忠(親清?)が丸盆の上に葵の葉を3枚敷き、その上に熨斗、栗、昆布を盛り、松平3代信光に献上すると、合戦に勝利したので、「三つ葉葵」を酒井家の家紋として下賜したが、松平5代長親の時の文亀元年(1501)9月、井田野合戦で勝利(今川方の伊勢新九郎(後の北条早雲)を撃退)すると、先陣を務めた酒井家の家紋「三つ葉葵」を松平家の家紋として定め、酒井家には図案が似た酢漿草(片喰、かたばみ)紋が下賜されたとする説です。(『柳営秘鑑』「葵之御紋来由」、『改正三河後風土記』「三葵御紋御治定並酒井家酢漿紋付戸田宗光帰順の事」など。)

さて、次回は、井伊万千代の初陣!!!

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

-井伊家を訪ねて

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