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気賀の地籍図

井伊家を訪ねて

ナゾ多き堀川城の戦い 城の歴史と共に新説を考察してみる

堀川城について語る前に、まずは気賀の地籍図で地名を確認しておきましょう。

井伊谷を流れてきた「井伊谷川」と「都田川」の合流点を「落合」といい、合流して「落合川」(新川、都田川)となり、細江湖(引佐細江、浜名湖)に注ぎ込みます。

・井通(いどおり):この井伊谷川の左岸にある「井通遺跡」が、古代の引佐郡衙跡です。船を使って税を集めたり、国府に送ったりできます。また、姫街道(見付宿と御油宿を結ぶ東海道の脇街道。江戸時代の正式名称は「本坂越」で、写真3の絵図には「本坂秋葉筋」とある)は、古代では東海道(奈良官道)であり、見付(遠江国府)と、御油の手前の国府(三河国府)を結んでいました。水上交通、陸上交通の要であったので、郡衙(郡役所)の建設場所に選ばれたのでしょう。

・井領(いりょう):気賀は井伊領ではありませんでしたが、この井伊谷川の右岸(井通の対岸)だけは井伊領だったといいます。ここを抑えていたということは、井伊氏の財源は、陸上交通と水上交通を押さえた貿易にあったと考えられます。古代とは異なり、井伊直虎の時代には、細江湖は、太平洋と今切で繋がっていましたので、古代よりも水上交通の重要度が増していたことでしょう。

・八劔(やつるぎ):熱田神宮別宮・八剣宮(ご祭神は熱田神宮と全く同じ)の分社・八剣大明神があるので、「八劔」なのでしょうが、後述の俗説では異なります。

・油田(あぶらでん):「油っぽい土質(粘土質)の田んぼ」であって、「油田(ゆでん)」ではありません。太平洋岸の油田は相良油田(静岡県牧之原市)のみです。落合川岸の小字「東岩崎」(水神山の山麓)に水神社があり、堀川城(新城)築城時に「大鳥居」の屯倉神社が合祀されて屯倉水神社となりました。

・松崎(まつざき、松﨑):堀川城主・新田友作の屋敷(小字「御殿」)がありました。堀川城攻めでは、徳川家康が本陣を敷きました。

・西(之)江(にし(の)え):堀川城の守将・竹田高正の屋敷があったそうです。

・堀川(ほりかわ):戦国前期、今川氏親(今川氏真の祖父)と斯波義達の遠江守護職を巡る戦いの時、今川氏親は、刑部城と、その出城(出丸)・堀川城(古城、堀川古城、堀川砦、気賀砦)をここに築きました。

・大鳥居(おおとりい):井伊直虎の時代、「大鳥居」にあった屯倉神社(「大鳥居」の南端に鳥居、北端に社殿で、社殿裏が「首塚」)を「油田(東岩崎)」の水神社に合祀し、「大鳥居」に新城「堀川城」(新城、堀川新城、気賀城)が築かれました。この新城は、「鵜ノ毛城」とも呼ばれていることから、大鳥居だけではなく、全ての洲(大鳥居、上鵜ノ毛、下鵜ノ毛、大坪)を城域とする説もあり、位置(城域、規模)が不明だとして、現地案内板には「伝堀川城跡」と「伝」が付けられています。

・呉石(くれいし):「堀川城の戦い」後、戦いに参加した住民700人を呉石で斬首し、「獄門畷(ごくもんなわて)」に首を並べたそうです。呉石の語源には、①くれてやるほど石がたくさんある(「くれてやる」は遠州弁で「あげる」の意)、②ここの岩に楊(柳)の巨木の影がかかると夕暮れ、③『万葉集』「吾跡川楊」の「吾跡(あと)」を「ごせき」と音読みして「呉石」の字を当て、「くれいし」と読まれて広まった、の3説があります。

八劔神社の切り絵看板

「この地、落合は都田川と井伊谷川が出会う所で、出会いと呼ばれていた時もある。この出会った川が八つの剱のように分れて引佐細江湖(浜名湖)へと注いでいたため、この地には現在でも八剱と言う字名が残っている。(後略)」(八劔神社の切り絵看板)

切り絵看板 天保2年(1831)の絵図(個人蔵)

──大川(都田川)、新川(落合川)と支流6本で、確かに8本!

6本の支流は、平行に流れていて、大川(都田川)の水を南へ逃して、大川右岸(北側)の集落へ向かわないようにしたもの、要するに、大川(都田川)の氾濫による洪水被害を防ぐための「人工の堀」とも、水上輸送のための「人工の運河」とも考えられます。新田友作が着手し、中村与太夫が引き継いで整備したのでしょう。

 

さて、地名を頭に入れたので、いよいよ本論です。本論は、

PART1.堀川城 ~堀川古城(永正)と堀川新城(永禄)~
PART2.堀川城周辺の戦国史 ~永正から永禄へ~
PART3.「堀川城の戦い」
(1)第一次 堀川城の戦い(永禄11年3月7日)
(2)第二次 堀川城の戦い(永禄12年3月27日)
PART4.「堀川城の戦い」の真実
PART5.「堀川城の戦い」関連の墓所巡り

から成ります。

 

PART1.堀川城

堀川城址碑(浜松市北区細江町気賀字沖通り)

■堀川古城の位置

「四月六日 武衛衆・引間衆・井伊衆千五百計にて、三手ニ分、ほり河へ一手打詰、せめ入候を、形部より出合、おいこミ、ていたく仕候」(『伊達忠宗軍忠状』永正9年(1512)4月6日)

「斯波方は1500名の武士を3手に分け、1手を堀川城(堀川砦)に向けたが、刑部城から援軍を出して痛手を負わせた(負かした)」ようです。この永正年間の堀川城(堀川古城、古城)は、写真1の地籍図の「堀川」に築かれていました。

絵図のアップ

 

■堀川新城の位置

この永正年間の「堀川」の堀川城(堀川古城、古城)に対し、永禄年間の堀川城(堀川新城、新城)は、「大鳥居」に新しく築かれました。「大鳥居」の北端の高台には式内・屯倉(みやけ)神社の社殿(「堀川城の戦い」後、社殿裏に「首塚」が設けられた)があり、南端には巨大な鳥居がありました。堀川新城は、この屯倉神社を本丸として、周囲に柵を設けた城です。

※写真3の絵図では、「大鳥居」が「大通」になってます。「おおとおり」は「おおとりい」の転訛でしょう。そして、「大通江」の下に描かれた高台が屯倉神社跡、「新城」本丸があった高台になります。

この高台に城を築くというアイディアを思いついたのは、『竹田家系譜』によれば、竹田高正だそうです。

「高正案地利考屯倉神社々地土地高而西北控大河東南面江要害枢要司防守築一城号堀川城主将新田友作過房竹田左兵衛督高正助将山村修理介尾藤主膳等居之」(高正、地の利を案じ、屯倉神社の社地は土地が高くして西・北に大河を控へ、東・南は江に面し、要害枢要、防守を司ると考へ、一城を築き、「堀川城」と号す。主将・新田友作、過房(家老?)・竹田左兵衛督高正、助将・山村修理介と尾藤主膳等、之に居る。)(『竹田家系譜』)

 

■堀川新城の様子

「気賀ノ東、卯ノ毛ノ郷、松崎ノ郷、北は呉石郷ト云フ。大河ヲ要害トシ、涅ヲ掘テ川ヲセキ入レ、四方ニ柵ヲ設ケ、堀川城ト称シ、男女千五、六百楯籠ル」(木村高敦『武徳編年集成』)

この永禄年間の堀川城(堀川新城、新城)は、「鵜ノ毛城」とも呼ばれ、「大鳥居」だけではなく、洲全体(大川と細江湖の間)が城域の超巨大な城であったという説もありますが、「大鳥居」だけで2000人以上入れますから、そこまで大きくはなかったと思います。

<写真6:「荒所起き返り絵図」(津波の被害と復興の様子)>

「此城、海浜ニテ、潮満ル時ハ、船ニ棹シテ出入スルノミナレバ、攻ルニ便ナク、潮涸ル時ハ、城門松ツノ通路ナレ共、攻ルニ便アリ。」(木村高敦『武徳編年集成』)

「堀河ハ、シホ乃指タル時ハ、舟ニ而寄外行ベキカタモ無、シホヒ之時モ一方口ナシ」(大久保彦左衛門『三河物語』)

「此かきあげ城は、塩のさしたる時は、船にて自由に出入、塩ひきには、只一方口にて出入叶わず。」(『松平記』)

「満潮の時は湖上に浮かぶ城となった」という説もありますが、「荒所起き返り絵図」(写真6)を見ると、津波で浸水被害を受けた部分(水色に塗られている部分)は「大鳥居」の南1/3であり、満潮になると「大鳥居」全体が水に浸かって、城だけが浮いているという状態になったとは考えられません。

しかし、『武徳編年集成』や『三河物語』や『松平記』にあるように、満潮時には攻めにくくなる城であったことは確かなようです。北と西は大川なので、東から干潮時に攻めるか、南から船で攻めるかになりますが、徳川家康は、名倉常閑(新田友作の次男)の案内で東から攻めました。三方ヶ原で柴刈をし、その柴で堀を埋めて渡ったそうです。

 

PART2.堀川城周辺の戦国史

永正5年(1508) 7月13日 今川氏親が遠江国守護となる。

永正年間 今川氏親は、斯波方の井伊衆(三岳城の井伊直平)と引間衆(引間城の大河内貞綱)を分断するため、刑部城と、その出城(出丸)の堀川城(堀川古城、古城、堀川砦、気賀砦)を築いた。

永正9年(1512) 4月6日 斯波方が堀川城を攻めたので、刑部城から出撃して逆襲する。(「伊達忠宗軍忠状」)

弘治5年(1555) 新田友作、気賀の松崎(一説に祝田村に入って寺子屋を営む)に来る。

弘治5年(1555)2月 亀之丞、市田郷より帰り、元服して「井伊直親」と名乗り、結婚して祝田村の直親屋敷に住む。

永禄3年(1560)5月19日 「桶狭間の戦い」で今川家宗主・今川義元、井伊家宗主・井伊直盛、死す。

永禄7年(1564) 気賀氏らが逆心したので、今川氏真が捕縛する。今川氏真が兵を募ると、竹田高正らが応募する。

永禄8年(1565)12月26日 気賀氏らが匂坂長能の懇願で釈放される。

永禄9年(1566)5月13日 今川氏真、「遠州伊那佐郡気賀庄宝渚寺并末寺・智海庵・受楽寺・祇園寺領、永代買地等事」を出して宝渚寺の寺領を安堵する。

永禄10年(1567) 新田友作、竹田高正、尾藤主膳、山村修理らが堀川城(堀川新城、新城)を築き、新田友作が城主となる。(「斎藤家文書」では、堀川城を築いたのは斎藤為吉だとする。)

永禄11年(1568)2月28日 今川氏真、竹田高正の忠節を褒める感状を出し、今後の尽力を促す。

永禄11年(1568)3月1日 小原鎮実、今川氏真の竹田高正宛の感状のフォローをし、尾藤主膳、山村修理の助力も求める。

永禄11年(1568)3月7日 徳川家康が堀川城を攻めると、城兵は「御鷲山」(現在の「尉ヶ峰」)に逃げ込む。(「第一次 堀川城の戦い」)

永禄11年(1568)12月6日 気賀衆、引佐峠(浜名郡と引佐郡の境界)で酒井隊を迎え撃つ。酒井忠次、岡崎に戻り、徳川家康に「本坂越(姫街道)は危険だ」と報告する。

永禄11年(1568)12月12日 徳川家康は、井伊谷三人衆(近藤、菅沼、鈴木)に道案内を頼み、井伊領、気賀郷などを成功報酬として与える旨の誓詞を書く。翌13日、「本坂越」(姫街道)を避けて、神座峠(後に「陣座峠」と表記変更)を越えて遠江国へ侵攻する。(異説あり)

永禄11年(1568)12月14日 未明に城山城(井伊谷城)、続けて刑部城が菅沼隊に落とされる。

永禄12年(1569)2月 日比沢城(静岡県浜松市北区三ヶ日町日比沢。城主・後藤氏)、佐久城(静岡県浜松市北区三ヶ日町都筑。城主・浜名氏)が徳川家康の軍門に下る。これを知って新田友作は逃亡する。(異説あり)

永禄12年(1569)2月5日 堀江城攻めで、井伊谷三人衆・鈴木重時が討ち死にする。(「第一次 堀江城の戦い」)

永禄12年(1569)3月12日 徳川家康、「気賀は井伊谷三人衆に与えた領地であるから安心」と思い込み、17騎(『松平記』では7騎)で通過する。「堀川城」を築いた斎藤為吉が「鵜ノ毛城」外で討ち死にする。(「斎藤家文書」)

永禄12年(1569)3月25日 堀江城攻め。(「第二次 堀江城の戦い」)

永禄12年(1569)3月27日 徳川家康、堀川城を攻める。竹田高正は2人の子と共に堀川城で、尾藤主膳は堀江城で、山村修理は小引佐付近で切腹した。(「第二次 堀川城の戦い」)

永禄12年(1569)4月4日 大澤基胤は、掛川城主・朝比奈泰朝へ書状を送って、状況を伝える。(「大澤家文書」)

永禄12年(1569)4月12日 堀江城において徳川方の石川数正・酒井忠次、大澤方の中安定安・権田泰長の4名によって、和議が成立し、堀江城主・大澤基胤、徳川家康の軍門に下る。(「大澤家文書」)

永禄12年(1569)5月17日 掛川城、開城。戦国大名としての今川氏は滅亡する。

永禄12年(1569)9月9日、呉石(塔ノ下)で堀川城の捕虜700人を惨殺し、その首を獄門畷に並べる。

慶長11年(1606)8月15日 新田友作が見つかったので、捕らえて呉石(塔ノ下)で処刑する。

 

PART3.「堀川城の戦い」

■「第一次 堀川城の戦い」(永禄11年(1568)3月7日)

永禄11年(1568)、徳川家康が遠江国に侵攻し、見付(遠江国府、守護所所在地。現在の静岡県磐田市見付)に入ると、各所を攻めさせたそうです。3月7日には、榊原康政、松平信一を先鋒として堀川城を攻め落とすと、徳川軍は見付に戻ったと木村高敦『武徳編年集成』にあります。これを「第一次 堀川城の戦い」といいます。

満潮だったので、上手く攻められず、城兵は「御鷲山」(現在の「尉ヶ峰」)に逃げ込んで助かりましたが、堀川城は破壊されました。また、この戦いで、榊原康政は2ヶ所に傷を負ったそうです。

ただ、学者は、徳川家康の遠江侵攻は同年12月だとして、この戦いの存在を否定しています。

永禄11年(1568)12月、「今月中に駿河国へ侵攻する」という武田信玄からの密書を受け取り、6日、酒井隊が「本坂越」(姫街道)の偵察に行くと、引佐峠で襲われたので、酒井忠次は岡崎へ行き、この事を徳川家康に報告しました。徳川家康が野田城主・菅沼定盈に今川方への諜略を命じると、菅沼定盈は、一族の菅沼忠久を徳川方へ寝返らせました。菅沼忠久は、井伊家重臣「井伊谷七人衆」のうちの1人で、同じく「井伊谷七人衆」の近藤康用、鈴木重時も徳川方に寝返り、「井伊谷三人衆」と呼ばれました。徳川家康は、この「井伊谷三人衆」に道案内を頼み、井伊領、気賀郷などを成功報酬として与える旨の誓詞「徳川家康起請文案」を12日に書きました。13日の徳川家康の遠江侵攻は成功し、契約通り、「井伊谷三人衆」に!
井伊領、気賀郷が与えられました。(これが井伊直政と「井伊谷三人衆」の確執の始りです。「井伊谷三人衆」は、後に、徳川家康によって、井伊直政の家臣にさせられますが、いずれも離れています。)

「徳川家康起請文案」

今度就遠州入、最前両三人以忠節井伊谷筋令案内、可引出之由、感悦至也、其上彼忠節付而出置知行事
一井伊谷跡職、新地・本地一円出置事(但、是ハ五百貫文之事)
一二俣左衛門跡職一円之事 一高園曽子方之事
一高梨 一気賀之郷 一かんま之郷
一まんこく橋つめ共 一山田 一川合
一かやは 一国領 一野辺 一かんさう
一あんま之郷 一人見之郷并新橋・小沢渡
右、彼書立之分、何も為不入無相違永為私領出置所也、并於此地田原参百貫文可出置也、井伊谷領之外、此書立之内、以弐千貫文、任望候地可出置也、若従甲州如何様之被申事候共、以起請文申定上者、進退かけ候而申理、無相違可出置也、其上縦何方へ成共、何様忠節以先判形出置共、於此上者相違有間敷者也、委細者菅沼新八郎方可申者也、仍如件、
十二月十二日
家康
菅沼二郎衛門殿
近藤石見守殿
鈴木三郎太夫殿

■「第二次 堀川城の戦い」(永禄12年(1569)3月27日)

永禄11年(1568)12月13日、徳川家康は遠江国へ侵攻し、14日未明、城山城(井伊谷城)を落とし、続けて刑部城が菅沼隊に落とされました。2月になって、本坂峠と気賀の間にある日比沢城と佐久城が徳川家康によって落とされたことを知った堀川城主・新田友作は、軍議において「城ライン」の崩れを指摘し、

──徳川方に寝返ろう。

と主張したところ、竹田高正らに殺されかかったので、新田友作は金地院(静岡県浜松市北区細江町気賀)に逃げ込んで出家し、「喜斎」と名乗ったそうです。このため、竹田高正が城主(正確には「城代」で、城主は堀江城主・大澤基胤)になったそうです。

《三河国境の城ライン(城の壁)》

第一ライン(湖西):柿本城(鈴木氏)─宇利城(近藤氏)─千頭峯城─日比沢城(後藤氏)─佐久城(浜名氏)─本城山城─宇津山城(朝比奈→小原氏)─境目城─白須賀城・引間城(飯尾氏)

第二ライン(湖東):井伊谷城(井伊氏)─刑部城─松崎城・堀川城(新田氏)─堀江城(大澤氏)─志津城

──徳川家康を殺すビッグチャンスがありました。

永禄12年(1569)3月12日、徳川家康、掛川城攻めを一時中断し、岡崎へ帰ろうとして、気賀を通過しました。この時、徳川家康は、堀川城は既に3月7日の「第一次 堀川城の戦い」で落ち、新田友作は逃げ、 気賀も「井伊谷三人衆」領になっていると勘違いし、新城を見て驚きながらも、たった17騎で堀川城を通過しました。

・「家康は夢にも知らずして、七騎にて御通成され候」(『松平記』)

・「家康公十七騎ニテ堀川ヲ立通ケルヲ」(『当代記』)

・「大神君之帰駕欲討之大神君是議曽不知給十七騎ニテ是ヲ過給」(『享菅沼主水書上』)

堀川城の城兵は、数の少なさに「雑兵」だと思い込み、その後から来る200人の軍勢(石川数正、渡辺図書ら)の中に徳川家康がいると思い込み、徳川家康を殺す最大のチャンスを失いました。

・「神君ヲバ十七騎ニテ先へ通シ奉り、石川数正トトモニ図書ナド多勢、御跡ヨリ通りケレバ、一揆大ニ悔ケル也。」(木村高敦『武徳編年集成』)

・「兎角、家康の御運つよく有し故也。」(『松平記』)

永禄12年(1569)3月27日、難を逃れた徳川家康は、堀川城を攻めました。(「第ニ次 堀川城の戦い」)

新田友作は、刑部城と山を挟んで反対側に建てた自身の松崎居館を屋敷城「松崎城」(本城)とし、「堀川城」は、いざという時に逃げ込んで(刑部城や堀江城からの)援軍を待つ「詰の城」(避難所)とする構想を持っていたようです。

※詰の城: 複数の城をセットにして、最終拠点となる城。

新田友作の「堀川城」は、戦国前期の「堀川城」(堀川古城、古城)を改修したもので、規模が小さく、「第一次 堀川城の戦い」で破壊されていたので、竹田高正は、式内・屯倉神 社の社殿を本丸とする巨大な「新城」(「堀川新城」「堀川城」)を新たに築きました。

この竹田高正の「新城」(「堀川新城」「堀川城」)は、「大鳥居」という広大な敷地にある城です。「城兵が入る城」というよりは、「地域住民が全員入る避難所」にも見えます。城は防衛施設であり、攻撃施設であり、避難施設でもありました。(後の織豊系城郭は、城主の権力の大きさを誇示する施設です。)

「堀川城の戦い」現地案内板

「堀川城の戦い
永禄三年(一五六〇)、今川義元が織田信長に敗れ、今川氏真が家督を継いだころから、今川家の支配していた遠江は動揺します。今川家の弱体化を見越した甲斐の武田信玄、尾張の織田信長、さらには今川氏に反旗をひるがえして信長と同盟をした三河の徳川家康らが、駿河・遠江への進出をねらって動き出しました。
信長・家康同盟の本拠、尾張・三河に近く、また北遠を通じて信玄の領地であった信濃にも近い浜名湖北岸の地域は、湖北をめぐる街道(後の姫街道)や水上交通の要衝として、双方から重要視されました。この地の武将や住民たちは、これまで通り今川家につくか、信玄あるいは信長・家康につくか選択を迫られていきました。
永禄十一年(一五六八)十二月、井伊谷周辺を味方に付けた家康が遠江へ侵攻します。気賀周辺の住民は氏真に付いて家康に抵抗しました。駿府から敗走した氏真がたてこもった掛川城攻めが長引き、武田軍の遠江侵入の動きが伝わる中、気賀周辺の反徳川の動きも活発でした。こうした状況の中、家康は堀川城の兵の目を避けて、いったん三河に戻っています。体制を立て直して再度遠江へ侵攻した家康は、堀川城を徹底的に攻め、たてこもった城兵や住民を全滅させ、落城の後も敗残兵を探し出して処罰しています。さらに捕虜の首を獄門畷にさらしたと伝わります。
家康の生涯における戦さの中でも、もっとも残酷な戦場となりました。」(浜松市教育委員会による現地案内板)

さて、堀川城に立て籠もった人数は記録によって異なりますが、2000人といわれています。当時の気賀の人口は2000人、刑部の人口は1000人でしたから、この3000人のうちの2000人が立て籠もったということは、武士だけではなく庶民も、そして、男だけではなく女も立て籠もったことになります。徳川家康はここを3000人で攻め、

──男女供ニナデ切リニゾシタリケル。(大久保彦左衛門『三河物語』)

※撫で斬り:多くの人々を、片っ端から斬り捨てること。

武士、庶民の区別無く、男、女の区別無く、たった1日で1000人を殺したそうです。さらに家康は、生き残った1000人の探索・詮議を半年間行い、700人を捕まえ、9月9日には呉石「塔ノ下」で斬殺し、700の首を畷に並べたそうです。

──この畷を「獄門畷」という。

※畷(なわて):真っ直ぐな長い道。田んぼの畦道。

700の首が並べられたという獄門畷

円頓寺跡

また、この首を埋めた場所(前山「寺屋敷」)には円頓寺が建てられましたが、明治に入って廃寺となりました。

 

PART4.「堀川城の戦い」の真実

──本当に大虐殺(徳川家康の黒歴史)なのか?

人口3000人で、立て籠もった人は2000人。
当日1000人殺し、後に700人、合計1700人を殺した。
とにかく数の多さが目立ちます。

立て籠もった2000人のうち、武士は何人いたのでしょうか?
武士だけ討ち取れば、1700なんて数にはならないと思います。武士は、

・堀川城の城兵(竹田、尾藤、山村ら)
・刑部城の城兵の生き残り(内山党ら)
・堀江城からの援軍20人

などで、1割(200人)程度でしょうか。

木村高敦『武徳編年集成』には「去年引佐峠ニテ蜂起シケル気賀ノ賊徒等ガ残党、西光院・宝渚寺・桂昌院、併ニ郷士ノ尾藤主膳、山村修理、斎藤、竹田、瀬戸、余古、加茂、又、刑部ニテハ給人百姓ト称する内山党、其外、寺社人、地下人、又、蜂起シ」(「瀬戸」は瀬戸方久?)とあります。箇条書すれば、

・昨年末に引佐峠で酒井隊を襲った気賀衆の残党
・寺院:西光院・宝渚寺・桂昌院
・郷士:尾藤・山村・竹田など
・刑部城の城兵の生き残り:内山党
・寺社人:西光院などの僧侶・僧兵、屯倉神社などの神職。
・地下人:官職・位階など公的な地位を持たない人。庶民。

であり、今川氏真に寺領を安堵された寺が関与していますから、徳川家康は「三河一向一揆」を思い出したかもね。

また、死者数について、

・1000人殺した→殺したのは、108人の城兵(武士)だけ
・戦後に700人を捕らえて処刑→捕らえたが、全員釈放
とする古文書もあります。

・「城中百八の首級を山田平右衛門に命じ、気賀にて獄門にさらさる」(『武徳編年集成』)
・「城兵百八が首を討、其餘烏合の一揆七百人は寛仁の御沙汰にて悉く赦し給ふ」(『校正三河後風土記』)

現代の研究者も、
①当時の気賀の人口は2000人、刑部の人口は1000人で、刑部は徳川領になっていたので、住民は参加しないはずである。2000人が立て籠もったということは、気賀の住民の全員が立て籠もったことになる。
②気賀の人口2000人のうち、当日1000人、後日700人の合計1700人を殺せば、田畑の耕作者が不足し、田畑が荒れ、年貢が激減するので、そこまではしないであろう。
③3月27日から処刑日の9月9日まで閉じ込めておく牢屋や、食事などの世話はどうしたのだろうか?

と、参加者や死者数、捕虜の多さについては懐疑的です。

「ある程度は信用できる」とされる『濱松御在城記』には、

「氣家ノ一揆トモ堀川之城ニ楯籠ニツイテ、御馬ヲ被寄、御退治被為成候。此處、満潮ニハ船ニテ自由ニ出入、引潮ニハ唯一方口ニ成、出入難成候。然ニ、彼等運蓋大潮、乾ナレハ、壹人モ不残、辰ノ三月七日(永禄十二巳三月廿七日ト云ハ誤ノ説ナリ)、御討取、百八十四人ノ首(為七百ハ非也。但上下男女共數歟)、鵜毛ト申所ニ御掛サセ、其所ヲ山本半三郎ニ御仕置被仰付候。」

とあります。「獄門畷に700の首を晒したというのは誤りで、「堀川城の戦い」で討ち取った184人の武士の首を鵜ノ毛に晒したのである」という話は、「このあたりが真相かな」と納得できますが、その一方で、「堀川城の戦い」は、永禄11年3月7日の出来事であって、永禄12年3月27日の出来事ではないとする話は、永禄11年3月7日の「第一次 堀川城の戦い」と永禄12年3月27日の「第二次 堀川城の戦い」とで混乱しているようで、『濱松御在城記』が100%信用できる古文書とは思えません。

■「堀川城の戦い」の真実 (戦国未来説)

「当時気賀地方一帯は新田四郎(友信)、竹田右京、山村修理、尾藤主膳をはじめとして、今川氏のために徳川氏に敵す。気賀松崎に陣を構え、総勢二千五百という。家康すなわち戸田三郎平、本多平八郎忠勝をして凡そ二万人をひきいて新田勢を打たしむ。当時新田勢は気賀松崎に陣を構えたるに、衆寡敵せず、退いて堀川城を死守す。」

これは、『引佐郡誌』上巻「堀川城記」(大正10年)の記述です。大正時代の認識です。徳川軍を約2万人としていますが、「三方ヶ原の戦い」の時ですら8千人ですから、こんなに多いはずがありません。このように、この記述には誤りがあると思われますが、「松崎に陣を構え、堀川城に退いた」という記述は、私が考える「堀川城の戦い」の真実と一致します。

※以下は、私が考える「堀川城の戦い」の真実です。

新田友作は、「松崎」の屋敷を屋敷城「松崎城」とし、「堀川」の堀川城(古城)を「詰の城」とした。新田友作が退くと、竹田高正は、松崎城を本城とし、「大鳥居」の屯倉神社の屯倉神を水神社に移して、屯倉神社を中心とする「新城」を「詰の城」とした。

徳川家康が3000人を率いて松崎城を攻めると、竹田軍は松崎城を捨てて、「詰の城」である「大鳥居」の堀川城(新城)に退いたので、徳川家康は松崎城を本陣とした。

城とは、単独で存在するものではなく、諸城でネットワーク(網目)やライン(壁)を構成する。

井伊谷城─刑部城─松崎城(本城)・堀川城(詰の城)─堀江城

詰の城・堀川城に籠城すれば、援軍が徳川軍を取り巻いて、挟み撃ちにするのであるが、井伊谷城と刑部城は既に落とされ、堀江城は交戦中(休戦中)で、援軍を期待できない状態であった。というか、徳川家康は待ってくれなかった。堀川城攻めは3月27日である。新月の日(毎月1日)と満月の日(毎月15日)の前後3日間が干満差の激しい「大潮」である。27日も大潮に近く、引き潮になった時、3000の徳川軍は、一気に2000の人達を襲った。徳川軍の3人中2人が1人を殺せば(撫で斬りにすれば)全滅であり、1000人しか殺せなかった(3人で1人殺した)というのは、相手のほとんどが農民であることを考えると、少ないようにも思われる。(多分、殺されなかった1000人は、徳川軍が攻めてくるのを見てすぐに逃げた=その場(堀川城)にいなかったのであろう。)

※詰の城: 複数の城をセットにして、最終拠点となる城。
※撫で斬り:多くの人々を、片っ端から斬り捨てること。

以上

──なぜ多くの地域住民が立て籠ったのか?

①「立て籠って抵抗した」のではなく、「避難所に逃げ込んだ」。
②徳川氏の遠江侵攻を防ごうと、鍬や鋤を持って立て籠もった。
③「人間の盾」として利用するために強制的に連れ込んだ。
④西光寺、宝渚寺(臨済宗妙心寺派)などの扇動で集まった。

②や④の意味では「堀川城の戦い」「堀川合戦」と言うよりは、「堀川一揆」「気賀一揆」ですね。私としては、西光寺や宝渚寺が果たした役割が大きいと思うのですが、両寺とも戦い(一揆?)後に寺領を没収されたようで、西光寺は廃寺となり、宝渚寺は現存するものの「明治時代に全焼し、当時の記録は残っていない」とのことです。

 

宝渚寺(静岡県浜松市北区細江町気賀)

※西光寺:里村紹巴『富士見道記』(永禄10年)に「廿七日、伊那佐細江見るべしとて、皆々誘ひ行きけるに、本坂越は道止まれるとて、気賀西光寺に宿し」(27日、『万葉集』の歌枕「引佐細江」を見ようとして皆を誘って気賀へ行った。「本坂越」が通行禁止であったので、西光寺に泊まった。28日、山村修理の要請でもう1泊して、湖南に向かい、白須賀郊外の境川を越えて三河国入りし、吉田(現在の豊橋市)に入った)とある。この西光寺は廃寺となり、所在地すら不明(一説に葭本)である。

※宝渚寺:「堀川城の戦い」では住職(祥叔和尚)が亡くなり、同じ臨済宗妙心寺派の南渓和尚が祐圓尼(井伊直虎)を連れて、気賀へ来て、葬儀を執り行った。なお、堀川城址の「首塚」の供養は、毎年旧暦3月27日に近い日曜日に、宝渚寺ら臨済宗妙心寺派4ヶ寺で交替で行っている。

「宝渚寺(ほうしょうじ)

山号は龍遊山。宗派は臨済宗妙心寺派。
往古、湖岸に満願寺と称する地蔵の霊場があったが、応安二年(一三六九)、開山の東漸健易和尚が現在地に移し寺名を改め、禅宗になったと伝える。本尊は由来により地蔵菩薩。
天文九年(一五四〇)の今川義元の判物と永禄九年(一五六六)の今川氏真の判物が伝わり、末寺の智海庵、祇園寺、受楽寺の名が記されているが、どこに所在したか明らかではない。
永禄十二年(一五六九)堀川城の戦いで、殿堂傾敗し、寺領が没収されたが、慶長六年(一六〇一)に再興された。江戸時代の朱印高は二石。
明治十九年(一八八六)火災により諸堂宇を焼失したが、同二十三年、二十三世法仙和尚が住職となり、本堂、庫裡、観音堂を再建。
昭和四十三年、鐘楼を整備し、梵鐘を再鋳。以後、庫裡、客殿を新築、境内の西から北の庭は巨大な自然石からなり、雄勁である。
平成二年三月二十日 細江町教育委員会」(宝渚寺現地案内板)

 

PART5.「堀川城の戦い」関連の墓所巡り

「新田喜斎公之碑」

・新田友作 出家し、剃髪して「喜斎」と号していたが、見つけ出され、慶長11年(1606)8月15日、呉石「塔ノ下」で処刑された。葬儀は龍潭寺四世・悦岫和尚が行った。法名「知足院殿歓屋宗喜居士」。

竹田高正親子の墓(油田)

・竹田高正 「堀川城の戦い」の3月27日、堀川城内で切腹。介錯人は金子五郎八である。(金子五郎八の弟・庄兵衛は、竹田高正の四男・高治を連れて信州へ逃げたという。)葬儀は龍潭寺二世・南渓和尚が執り行った。

・竹田高正 法名:賀田長悦沙弥
・竹田雅楽之介高直 法名:長恕禅定門
・竹田酒造之介高道 法名:長雲禅定門

山村修理の墓

・山村修理 「堀川城の戦い」の3月27日、加藤嘉右衛門が漕ぐ小舟で堀川城を抜け出し、「小引佐」(引佐峠の東の峠)付近まで逃げたが、燃え落ちる城を見て、後に「修理殿の松」(細江町跡川)と呼ばれることになる松の木(現在は枯死)の下で切腹した。葬儀は龍潭寺二世・南渓和尚が執り行った。法名「浦雲宗珠禅定門」。

尾藤夫妻供養塔(横の祠内に五輪塔)

・尾藤主膳 「堀川城の戦い」の3月27日、落城の様子を堀江城の大澤基胤に報告するため、小舟に乗って脱出して報告すると、人質として堀江城にいた妻と共に切腹した。

・尾藤主膳 法名 秀徳院元海宗真居士
・尾藤主膳室 法名 順定院懿山宗徳大姉

※「堀川城の戦い」は謎多き戦いですので、引き続き調査・研究をしたいと考えています。史料など御座いましたら、編集部までお寄せ下さい。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

-井伊家を訪ねて

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