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明智軍記

『明智軍記』現代語訳と原文 第4話「朝倉義景永平寺参詣事付城地事」

明智軍記第4話【現代語訳】

朝倉義景の父・朝倉孝景(天文17年3月22日(1548年4月30日)没)の17回忌に当たる16年後の永禄7年3月22日(1564年5月2日)の朝、朝倉儀景は、一乗谷を出て、吉祥山永平寺に参詣した。
17回法要が終わり、境内の諸堂を見て回った後、朝倉義景が、永平寺の始まりについて尋ねてきたので、当時の貫首(第19代貫首・祚玖)が次のように説明した。

「そもそも、開山・道元和尚は、久我通忠の次男である。後堀河天皇が在位中(1221年~1232年)の貞応の末年(1223年)頃、道元は24歳で、中国に渡り、太白山の天童山景徳寺の第31世住職・天童如浄禅師に師事し、「身心脱落」と聞いて悟りを開いた。それで曹洞宗を伝授され、中国に6年間の滞在後、帰国し、肥後国河尻庄(現在の熊本県宇土市)に三日山如来寺を建立した。上洛し、天福元年(1233年)、宇治(現在の京都府宇治市宇治山田)に仏徳山興聖寺を建て、以後、深山に住みたいと思っていたところ、越前国の波多野義重(入道して如是)が頻(しきり)に「ぜひ越前国へ」と誘うので、道元が思うに、「私が中国から帰国する時、『碧巌集』を写す作業を、日本の北陸道の鎮守・白山神が助けてくれたので、恩を感じている。また、我が師・天童如浄禅師は、中国越州の生まれであり、これら諸条件から、越前国は行きたい国である」と言って、寛元2年(1244年)の夏、越前国に下り、波多野義重の所領の吉田郡志比庄(現在の福井県吉田郡永平寺町志比)に寺を建立し、「吉祥山永平寺」と名付けた。山号「吉祥」は、仏法の興隆に最高の吉祥の地ということであり、中国で学んだ太白山の天童山景徳寺を彷彿させた。寺号「永平」は、インドから中国へ仏教が伝来した時の中国の元号であり、今回、その中国から日本に曹洞宗を伝えるにあたり、三国(インド、中国、日本)に通じる理念ということで、異国である中国の年号を使って「永平寺」とした。永平寺は、「永平寺十一景」(①玲瓏岩、②涌泉石、③偃月橋、④承陽春色、⑤西山(後に青山)積雪、⑥竹径秋雨、⑦仮山松風、⑧白石禅居、⑨深林(後に神林)帰鳥、⑩祖壇池月、⑪樵屋茶烟)がある景勝地である。こうして、御嵯峨天皇(在位:1242年~1246年)から紫衣(しえ。宗派を問わず高徳の僧が朝廷から賜った紫色の法衣や袈裟)を頂戴した。道元は、再三断ったが、許されず、ついに受けとると、

永平、谷浅しと雖も、勅命重きこと重々。(谷は浅くても、責任は重い(深い)。)
却って猿鶴に笑わらる紫衣の一老翁。(かえって猿や鶴に笑われる紫衣の老人であることよ。)
と詠んで紫衣を大切に保管し、生涯、着ることはなかった。

さて、道元は、宝治元年(1247年)の秋、北条時頼の度々の要請に応じ、鎌倉へ下られ、最明寺で出家し、最明寺入道と呼ばれた北条時頼に菩薩戒を授けた。北条時頼によって、道元は、特別な人であったが、道元は、霊地・永平寺が好きで、翌年の夏、鎌倉から帰国した。
こうして弟子・懐奘を永平寺二世と決めた。この懐奘は、鳥飼中納言藤原為実の子だという。孤雲懐奘の他、義介、義演、義尹、寂円、詮慧、義準、道荐以下の懐弉の法眷(はっけん。同じ師に学ぶ仲間の僧)を全員、懐弉の弟子として、建長5年(1253年)8月28日、54歳にして遷化した」。

「正法に奇特無し(しょうぼうにきどくなし)」(曹洞宗のような正法には、奇特(不思議な利益)はなく、信じれば奇特があると宣伝するのは邪教である)とは言うが、実は奇特はあるとして、道元(の熱心な求道する姿を見て、白山神が写経を手伝ったとか)、懐弉、義介、義演の行徳(修行によって身に備わる徳)を延々と語ると、朝倉義景、随喜(他人の善行を見て心に歓喜を生ずること)の涙を流した。

次に朝倉義景は、永平寺の末寺について聞くと、祚玖は、次のように答えた。

「永平寺の三世・義介は、太白山の天童寺へ参詣しなければいけない事情があって、中国へ渡り、数ヶ年を経て帰国した。義介は、鎮守府将軍・藤原利仁の嫡孫・斎藤吉信の子孫で、吉原斎藤氏の本拠地・越前国足羽郡で生まれた。(義介は吉原斎藤氏の庶流・富樫氏とも、波多野氏と姻戚関係にある稲津(福井県福井市稲津町)の稲津氏だとも。)

富樫家とは親戚なのか、富樫家尚の要請で、永平寺から加賀国へ下り、徳治2年(1307年)、加賀国石川郡に富樫家尚を開基とする昌樹林大乗寺を建てた(正確には、真言宗の大乗寺を曹洞宗に改宗させた)。

義介の弟子・瑩山は、能登国に移り、洞谷山永光寺(石川県羽咋市酒井町)を建立した。

瑩山の弟子・峨山は、能登国に諸嶽山総持寺を建てて、住んでいると、後宇多天皇(在位:1274年~1287年)の勅命によって、京都と総持寺を行き来し、帝師(天皇の師)となり、紫衣が与えられた。峨山の弟子としては、塔頭を開かせた太源(普蔵院)、通幻(妙高庵)、無端(洞川庵)、大徹(伝法庵)、実峰(如意庵)の5人(総持寺の住職は、この5つの塔頭の住職が輪番で務めた)が有名であるが、行徳が備わっている門弟が多く(特に「峨山二十五哲」と呼ばれる25人)、諸国に末寺が数多く建てられた。峨山の法眷である明峰、無涯、壺菴、孤峰、珍山なども、それぞれ、立派な寺の住職になった。

義尹も、文永(1264-1275)の頃、中国に渡り、霊隠寺の虚堂禅師に謁見し、その後、帰国すると、肥後国河尻庄の地頭・河尻泰明(源泰明)に「是非に」と頼まれて、河尻庄大渡に、大梁山大慈寺(現在の熊本市南区野田)を建立した。義尹の門弟である斯道、鉄山、愚谷、仁叟なども国々に寺を建てた。義尹は、後鳥羽天皇の皇子にて、母は藤原(高倉)重子(修明門院)である(史実は、後鳥羽天皇の子・順徳天皇の子で、母は宰相局)ので、亀山天皇は、「法皇長老」と呼ばせたという。(義尹の流派を法皇派という。)

寂円は、太白山の天童山景徳寺の道元の師・天童如浄禅師の甥で、天童如浄禅師が高齢であったので、道元を頼みを聞き入れて、甥の寂円を日本へ送り、朝夕の法話を担当させた。後に越前国大野郡に大本山永平寺に次ぐ曹洞宗第二道場・薦福山宝慶寺(福井県大野市寶慶寺)を開いた。

永平四寺世・義演の遷化の後、寂円の弟子・義雲が、永平寺五世となった。六世を曇希、七世を以一、八世を義純といい、私(祚玖)は十九世になります」

永平寺での法要を終えた朝倉義景は、山道を歩いて一乗谷へ向かった。
その時、朝倉義景は、明智光秀を呼んでこう言った。

「外国の事は知らないが、日本においては、軍事拠点とするため、昔は、山間部に城を築いたが、最近は鉄砲が出て来たので、昔の場所(山間部)を使うのは不十分だと思われる。当・越前国では、どこが居城を築くのに向いているか、詳しく言いなさい」

明智光秀は、こう答えた。

「仰せの通り、今は高所に登り、大筒を撃ってきますので、要害から20余町(約2km)以上離れた場所に山があっても問題ないでしょう。但し、中国の『黄石公三略』(上略)に、「治国安家、得人也。亡国破家、失人也」(国を治めることも、家を安定させることも、人を得ればこそ出来るものです。国が亡びることも、家が絶えることも、人を失うことにあるのです。)あります。日本でも、故・武田信玄(今日は永禄7年(1564年)3月22日。武田信玄の命日は元亀4年(1573年)4月12日なのでまだ生きています)の軍法の重点を覚える狂歌(くだけた表現の短歌。5・7・5・7・7にはなっているが、内容は風流ではない)に、

〽人は城、人は石垣、人は堀。情(なさけ)は味方、怨(あだ)は大敵(信頼できる人は、強固な城、石垣、堀に匹敵する。人は大切だから、人には情けをかけて味方にするのが良い。恨まれるようなことをすれば敵を作る。)

このような言葉が中国にも日本にもありますから、城の強さは、必ずしも立地や形状には依らないように思われます。ただ、当・越前国で愚案致しますれば、平城を築くならば北ノ庄(福井県福井市大手。後の福井城)、山城を築くならば長泉寺山(標高112m。福井県鯖江市)がよろしいかと思われます」

するとまた、朝倉義景は、
「加賀国では、どこがよいか」
と聞いてきたので、明智光秀が、
「加賀国では、小松寺(石川県小松市)の辺りが、よろしいかと」
と答えると、朝倉義景は、さらに、
「上方(関西地方)では、どこがよいか」
と聞いてきたので、明智光秀が、
「京都付近には、ありません。とはいえ、御縁者(朝倉義景の娘・四葩は、本願寺教如と婚約)である摂津国大坂の石山本願寺(大阪府大阪市中央区大阪城。後の大阪城)の寺内町こそ、比べ物がないほどよい場所かと」
と答えると、朝倉義景は、\
「光秀は、寺ばかりが気になってるようだな」
と言って笑った。

既に終わろうとする春の景色は、春が来たのを忘れていたのか梢に残る遅咲きの桜、季節を知っているとばかりに咲き誇る松に掛かる藤の花、、色濃く清らかに咲き乱れる山吹など、とりどりに趣き深く見ながら、一乗谷へ帰った。

 

明智軍記第4話【原文】

義景の親父・弾正左衛門孝景の十七回忌に当り給ふにより、朝倉殿、永禄七年三月二十二日払暁に一乗谷を出駕ありて、吉祥山永平寺に参詣せらる。仏事、逐(おはつ)て、諸閣、順堂の後、当寺の開基を尋ね問はる。住持・祚玖和尚、答て曰く、「抑々開山・道元和尚、俗姓は、久我右大将源通忠卿の次男也。後堀河院の貞応の末年の頃、道元二十四歳にて、震旦に大白天童山の如浄禅師に見(まみへ)て、悟道見性あり。則、仏心曹洞宗を伝授し、在宋六箇年にして帰朝せられ、肥後国河尻に如来寺を建立し、其れより都へ上り、天福の黎(ころを)ひ、宇治に興聖寺を立てしられ、以後、山居の志(こころざ)し、御座(おはしま)しける処に、越前の前の太守・波多野出雲守義重入道如是、頻(しきり)に請待申されるに付き、和尚、思惟せられけるは、我、宋地に在りし刻に、『碧巌集』を書写の時、日域越路の鎮守・白山権現の助筆を蒙りし事あり。然れば、神恩を報じ、殊に吾師・如浄禅師は震旦越州の降誕なれば、旁々以て望みある国なりとて、寛元二年の夏、越前に下向有りて、吉田郡志比庄に一宇の精舎を建立し、吉祥山永平寺と号す。山号は、仏法興隆に吉祥の位(くらゐ)ありて、太白天童に髣髴(ほうふつ)す。寺号は、天竺より震旦へ仏心宗の渡りけるは、漢の永平年中也。今又、震旦より日本へ曹洞宗を伝ふるに依て、三国通用の理を合(かな)へ、異国の年号を取りて、永平寺と云へり。此の地に玲瓏巌、白石禅居、涌泉石、祖壇の池月、偃月橋なとど云ふ十一景あり。然るに御嵯峨帝より紫の方袍を恩賜し、被(かづけ)させ給ふ。道元、再三辞し奉ると雖も、許されざるに依て、これを受け、謝して曰く、

永平雖谷浅
勅命重重重
却被笑猿鶴
紫衣一老翁

扨又(さてまた)、宝治元年の秋、北条相模守時頼朝臣より、頻(しき)りに請待に依りて、鎌倉へ下向せられ、則、最明寺時頼禅門に菩薩戒を授けらる。禅門、尊崇、他に異なりしかども、当寺の霊地を慕(したひ)て、翌年の夏、帰山し給ふ。斯くて御弟子・懐弉(えしょう)和尚を二代と定む。是は、鳥飼中納言藤原為実の子息と云々。其の外、義介、義演、義尹、寂円、詮慧、義準、道荐以下の懐弉の法眷を、皆々懐弉の弟子となし給て、建長五年八月二十八日、五十四歳、入寂せらる。

総て正法に奇特なき処の奇特など、道元、懐弉、義介、義演の行徳を粗々(つらつら)演説せられければ、義景、随喜の涙をぞ催されける。

大守、又、末寺の品々は如何にと尋ね給ひしかば、住持、答へて云ふ。

当寺の前住三代義介和尚は、天童山へ詣づべき子細有るの故、異国へ渡り、数箇年を経て帰朝せらる。彼俗姓は、利仁将軍の的孫・斎藤吉信が後胤にて、当国足羽郡に出生す。左れば、親族の故にや、富樫介家尚の請待に依て、当寺より加州へ下向し、徳治二年に石川郡に昌樹林大乗寺を建てらる。

義介の弟子・瑩山和尚は、能登に至り、永光寺を建立す。

瑩山の弟子・峨山和尚は、同国の諸嶽山総持寺を取り立て、住する処に、後宇多院の勅定に依て、京都へ往来し、則、帝師と為り、紫衣を頂戴せらる。此の弟子、大源、通幻、無端、大徹、実峰以下、行徳、備はりける門弟、余多候故、諸国に末寺、繁昌せり。峨山の法眷、明峰、無涯、壺菴、孤峰、珍山等も、各々、寺庵広し。

扨、義尹和尚も、文永の頃、大国に渡り、霊隠寺の虚堂禅師に謁し、其の後、帰朝の砌り、肥後国守・源泰明、是非に留め申され、長橋と云ふ所に、大慈寺を建立せらる。彼の門弟、斯道、鉄山、愚谷、仁叟以下、国々に寺院を立つ。義尹は、後鳥羽院の皇子にて、修明門院の御腹なれば、亀山院の仰せには、「法皇長老」と常に勅定有りけるとかや。

偖又、寂円和尚は、太白の如浄禅師の甥にて座(ましまし)しが、禅師、老体の故、道元を頼み給ふに付き、これを承(う)け、寂円を吾朝へ倶足(ぐそく)し、朝暮に法味を授与せらる。則、大野郡宝慶寺の開山なり。

然るに、永平寺の後住三代義演和尚遷化の後、寂円の弟子・義雲和尚を以て、当寺四世とす。五世を曇希、六代を以一、七代を義純といへり。今、愚僧迄は十八世に罷り成り候とぞ申されける。

斯くて朝倉殿、帰宅には、歩行にて山路を過ぎ給ふ。

折節、明智十兵衛を召して、義景、宣ひけるは、異国は知らず、本朝に於ひて、要害のため、昔は山を片取り、城を築きける也。近代は、鉄炮出来ぬれば、古の境地は用ひるに足らずと覚ゆ。当国にては、何れの処、居城に然るべきや。委(くわし)く申すべしとぞ仰せける。十兵衛、承り、御意の通り、嵩(かさ)に登り、大筒を打ち掛くべく候故、要害より二十余町も外の山は苦しからず候はんか。但し、『黄石公三略』に、「国を治め、家を安んずるは、人を得れば也」と候。古人も軍法の狂歌とて、

人は城、人は石垣、人は堀。情(なさけ)は味方、怨(あだ)は大敵

斯かる和漢の言も候へば、強(あなが)ち城郭には因る間敷事に候。但し、当国の儀、愚案を廻らし候に、平城にては北庄、山城ならば長泉寺、然るべき城地と見へ候。と申ししかば、加賀国にては、如何様の所在やと問ひ給ふ。加州にては、小松寺の辺、大形の地と存じ候と申し上げる。義景、又、仰せけるは、上方にては如何なる勝地在りや。明智、承り、京都近辺には、見え及ばず。去りながら、御縁者にて候、摂州大坂の本願寺の寺内こそ、無双の境地と存じ奉り候と申しければ、朝倉殿、聞き給ひて、光秀は、寺跡(じせき)ばかり心に入れたる者也と、一笑し給ひけり。

既に暮れなんとする春の気色、梢に残る遅桜、折り知り顔に藤波の松に懸かりて、色深く山吹のきよげに咲き乱れたるなど、取々興ぜさせ給ひて、一乗の谷へぞ帰城成りにける。

 

 

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