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明智軍記

『明智軍記』現代語訳と原文 第2話「従越前鎮加州之一揆事」

明智軍記第2話【現代語訳】

そうしているうち、永禄5年(1562年)の秋、加賀国(現在の石川県南部)の領民らが一揆を起こし(正しくは「結び」)、越前国のお屋形様(武家の当主)・朝倉左衛門督義景(越前朝倉氏第11代宗主。越前朝倉氏の最後の宗主。越前国守護。後に戦国大名)の命令に背くことがあった。

加賀国、能登国(現在の石川県北部)、越中国(現在の富山県)では、以前から(文明13年(1481年)の「越中一向一揆」以降、加賀国守護・富樫泰高を追い出して「百姓の持ちたる国」となる長享元年(1487年)の「長享の一揆」、永正3年(1506年)の一向一揆「九頭竜川の戦い」など)、一揆が蜂起し、民衆は、一向宗(浄土真宗)の本山・石山本願寺(摂津国東成郡生玉荘大坂、現在の大阪府大阪市中央区大阪城)に従い、ご政道が乱れていたので、去る弘治元年(1555年)に、越前国から朝倉宗滴(朝倉義景の参謀)を大将として、数万人の軍兵を送り、数ヶ月にわたって合戦が繰り広げられた。

朝倉軍は、手取川(石川県白山市を流れて日本海へ注ぐ一級河川。通称は「石川」で、「石川県」の県名の由来)まで、加賀国の半分を平定した。

この越前国と加賀国の戦乱のために、米が京都へ入ってこなくなったので、王城(御所。ここでは天皇)は大変嘆き悲しんだ。それで、天皇の叡慮(お考え、お気持ち)を公家衆が聞くと、将軍・足利義輝の命で、大館晴光、武田義統が、御教書(室町幕府の執権や管領が将軍の意を奉じて出した文書)を持って越前国に行き、「朝倉氏と本願寺の争いを鎮め、ついては、朝倉義景の娘・四葩(よひら)を本願寺教如と結婚させたらどうか」と問い立てると、「上意(天皇や将軍の命令)ならば」と、和談した。

将軍・足利義輝の斡旋による和議が成立したので、朝倉軍は加賀国から兵を引き、加賀国の守護的立場にあった本願寺へ返した。

これから、暫く、戦いもなく、平和であったが、加賀国の悪党たちが、納米(年貢米)を大坂の本願寺へ運ばず、我が物とするようになった。

本願寺教如の父・顕如上人が、この状況を朝倉家へ連絡してきたので、朝倉家は加賀国へ連絡し、改善を求めたが、承諾されなかった。そればかりか、柏野(石川県加賀市柏野町)、杉山、倉橋、千代に城砦を築いて、諸国から集まる交易品を理不尽に奪い取った。

それで、領民は、朝倉義景へ訴えた。
朝倉義景は、領民の嘆きを聞き、「差し置く(放っておく)問題ではない」として、北庄城(福井県福井市中央1丁目)の城主・朝倉景行を大将として、青蓮華景基(坂井郡正蓮華村在地領主)、野尻主馬助、黒坂景久、溝江長逸(金津城主)、武曽采女(坂井郡坪江郷)、深町図書(坂井郡坪江郷後山)、細呂木薩摩守(福井県あわら市細呂木)等、合計3800余人で、加賀国へ出陣し、月津(石川県小松市月津町)、御幸塚(石川県小松市今江町6丁目。加賀国守護・富樫泰高の居館跡)、庄、安宅(石川県小松市安宅町)、敷地に陣を張り、一揆方へ使者を送り、「先年の約束を破り、年貢米を大坂本願寺へ送らない上に、街道を往来する商人から商品を奪うなど、悪逆の限りを尽くしているので、掟(先年の約束)を守らせようと、越前国から出陣してきた。領民の訴えにより、急ぎ征伐にやって来た」と伝えた。

尾山御坊(金沢御堂。石川県金沢市丸の内)の一揆大将(頭領)・坪坂包明という者から「要件は承知しました。どの件も諸民等と相談し、昔の約束通り、そちらの意に沿います。それまで、暫くお待ち下さい」と返事が来たので、覚束無く(不安に)思いながらも、各陣所を堅固にして、暫く待っていた。

そんな時、青蓮華景基の陣所である御幸塚城の東から一つの気(大地に充満するエネルギー)が立って、南へ流れていった。

誰もこれに気づかなかったが、青蓮華景基に付けられた明智光秀は、この軍気を見て、急いで青蓮華景基に「東に気が立って南に流れていった。これは戦いが起こる予兆である。ご油断めされるな」と言うと、青蓮華景基は、明智光秀を連れて高い山に登り、気を見て確認し、諸隊へ「ますます備えを堅固に」と連絡した。

そうしたところに、永禄5年(1562年)9月20日の夕方、一揆の悪党どもが雲霞の如く押し寄せてきた。

青蓮華景基は、かねてから御幸塚城の外に堀や柵を設けていたので、少しも騒がず、心静かに敵を待ち構えていると、先手(先陣)の一揆大将・金剛寺三郎右衛門という者が、2000余人を率いて、太鼓を打ちながら、南の方から攻めてきた。

味方の兵(朝倉軍青蓮華隊)は、敵(一揆衆)を近くまで引き付け、明智光秀、明智光満、明智光忠を先頭に、究極の鉄砲の名手、50余人が櫓や井楼櫓に上り、鉄砲を列(つらねて)撃った。一揆衆(宗徒)は、「鉄砲」という名は聞いていたが、初めて見て、稲麻竹葦のよう群がって立っていたので、たまらず、一揆衆(宗徒)の300余人が将棋倒しのように犇々(ひしひし)と倒され、皆、怯えて頺(くず)れて御幸塚城の東の陣へ雪崩込むように押し寄せた。

そこを守っていた至剛の兵に真柄直隆・隆基父子、隨伝坊という力自慢の者、3人がいて、城門の横の小門から打って出た。

この真柄父子は、当時の日本では、肩を並べるものがいない力持ちで、常に好んで使っていた太刀は、千代鶴国安(越前国の刀工集団・千代鶴派の開祖)という刀鍛冶が、有国、兼則(三阿弥派)などの刀鍛冶と相談して、長さ7尺8寸(約236cm)に作り出した「太郎太刀」という太刀で、本来は従者4人で担ぐ大太刀であるが、真柄直隆は1人で、軽々と振り回したという。

子・真柄隆基も、「次郎太刀」といって、長さ6尺5寸(約197cm)もある大太刀を、弓手(ゆんで。左手)の肩に打ち懸けて続いた。隨伝坊は、1丈2尺(約364cm)もある樫の棒を六角に削って筋金(補強のための細長い金属)を貼り、手元は持ちやすいように丸くして、妻手(めて。右手)の脇に抱え、それぞれ名乗りをあげ、従者もなく、3人だけで大勢の中に割って入り、縦横無尽に斬って回り、蜘蛛手、輪違に(戦場で四方八方に駆け巡ること)に駆け巡って斬り、八方へ追いかけと、四方八方すき間なく戦ったので、向かってくる一揆衆を短時間で80余人も斬り倒した。

この勢いに押されて、尻込みした残党が、あちこちに群がって気が緩んでいる様子を見て、明智光秀は、「決戦の時になりました」と大将・青蓮華景基へ言うと、青蓮華景基は、ならば、「者ども、打って出よ」と言って、赤塚、安原、野坂、立田、河崎、礒部を先陣として、逞兵(精鋭)500余人、城門を開き、槍を揃へ、雄叫びを上げて出陣したので、もとより退こうとしていた一揆衆は、一戦も交えずに、我れ先にと逃げ散った。

追い討ちをかけようと、5、7町(約545~763m)追っていくと、明智光秀は、青蓮華景基に向かって、「『逃げる者を追うのは100歩まで』と兵書に書いてあり(『司馬法』(仁本第一)に曰く「奔(はし)るを逐(お)うも百歩を過ぎず」)、深追いは無用である。2、3の軍(いくさ)が肝要です」と言うと、青蓮華景基は、「その通りだ」と思ったのか、退却の法螺貝を吹かせたので、それぞれ追うのをやめて城砦へ引き返した。今日の一戦で討ち取った首の数は、750余と記録した。

こうして加賀国の一揆衆、「御幸塚の戦い」に敗北の後、全てが予想と反したのか、総大将・朝倉景行のいる月津の陣へ行って降参し、「今後は何があっても、仰せに背くことはありません」と証人(人質)を差し出し、色々と謝罪したので、お屋形様・朝倉義景に伺って、人質たちを取り決め、その後、諸勢を越前国に撤退させた。

さて、越前国に戻ると、加賀国で戦功をあげた者に勲功賞が与えられた。

まずは真柄父子に、「今回の働きは、古今無双の働きであった」として、今北東郡(今立郡は、今北東郡、今北西郡、今南東郡、今南西郡の4郡に分割されていた)において1000貫の所領を加えられた。(真柄氏の本貫地・真柄荘(武生市上真柄町~真柄町)は今南西郡である。)明智光秀には、敵が攻めてくる気を察知し、殊に鉄砲で数多くの一揆衆を討ち、その上、軍配のアドバイスをしたこと、どれも誠に殊勝であるとして、朝倉義景から御感状が出され、褒美として鴾毛(つきげ。鴾(ツキ。鳥のトキの古名)の羽の裏の色のような赤みを帯びた白い毛色)の馬に鞍を置いて渡された。その他の武功を挙げた者にも、褒賞として禄が与えられた。

 

明智軍記第1話【原文】

去る程に、永禄五年の秋、加州の郷民等、一揆を起こし、越前の屋形・朝倉左衛門督(かみ)義景の下知を背く事有りけり。

加賀、能登、越中は、先年より、一揆、蜂起し、一向宗の本寺・摂州大坂の本願寺に隨(したが)ひ靡(なび)いて、政法を用いざるにより、去る弘治元年に越前より、朝倉金吾教景入道宗滴を大将として、数万騎の兵を遣はし、数月合戦有りて、手取川を境、半国に及んで越前へ受納(じゅのう)せられけり。斯くの如く、北国兵乱の故、米穀、京都へ上らざるにより、王城の愁傷、斜めならず。これに因りて、天子の叡慮を伺ひ給ひて、公(くげ)方、義輝公より、大館左衛門佐、武田治部少輔、御教書(きょうしょ)を帯(たい)し、越前に下向有りて、朝倉と本願寺の闘諍(とうじょう)を鎮め、朝倉義景の息女を本願寺の総領・教如(きょうにょ)に妻(めあは)すべき由、詰問せられしかば、上意に応じ、和談す。この故に、加州を則(すなは)ち、本願寺へ返し遣わす。これより、暫く、静謐(せいひつ)しける処に、又、加賀の悪党等、納米を大坂へ運送せず、恣(ほしいまま)に振る舞うの間、教如の父・顕如(けんにょ)上人より朝倉家へこの由を申し越されける故に、その趣(おもむき)を加州へ云ひ遣わしけれども、承引せず。剰(あまつさ)へ柏野、杉山、倉橋、千代など云ふ所に要害を拵(こしら)へ、国々より通りける往還の荷物を理不尽に奪ひ取る。これに依りて、諸人、屋形へ訴へ来たり、嘆き申すの間、閣(さしおく)べきに非ずとて、北庄の城主・朝倉土佐守景行を大将にて、青蓮華近江守、野尻主馬助、黒坂備中守、溝江大炊介、武曽(ぶそう)采女、深町図書、細呂木(ほそろぎ)薩摩守、以下、都合三千八百余騎、加州へ進発して、月津、御幸塚、庄、安宅(あたか)、敷地に陣を取り、一揆方へ使者を立て、先年の約束に違ひ、納米を大坂へ上さず、剰へ、往来を悩ます条、悪逆の次第なれば、その掟(おきて)を定めんとて、出張する処なり。郷民等が旨趣(ししゅ)に依って、急度、征伐せしむ者也と云ひ遣ひければ、石川郡尾山の一揆大将・坪坂伯耆と云ふ者の方より返事申しけるは、御使いの赴(おもむき)、畏り存じ奉り候。何れも諸民等と相談致し、昔年(そのかみ)の通り、御意に隨ふべきにて候。その間は、少時(しばらく)御延引成さるべき由、申すに付きおぼつか無く思ひながら各(おのおの)陣所を堅ふして、暫く猶予しける処に、青蓮華近江守景基が陣所、御幸塚の東に当たり、一つの気、立て、南へ靉(たなび)きけり。諸人、これを知らざりけるに、青蓮華に指し添へられける明智十兵衛光秀、この軍気を見て、急ぎ景基に申しけるは、東に一気立つて南を犯し候。これ、闘戦を催す処の気に候う。御油断有る間敷旨申しければ、近江守、即ち、明智を具して高岳(こうがく)に登り、軍気を見分(けんぶん)有つて弥(いよいよ)諸手へ備へを堅固にぞ触れられける。係る処に、九月廿日の晩景に及んで、一揆の悪党、雲霞(うんか)の如く寄せ来たれり。青蓮華、初めより宿城の外に堀柵を構へければ、少しも騒がず、静まり還つて扣(ひか)へけるに、先駈(さきがけ)の一揆大将・金剛寺三郎右衛門と云ふ者、健民二千余人を催し、太鼓を打ち、南の方よりぞ攻め懸かりける。味方の兵、近々と引き請け、明智十兵衛、同弥平次、同次右衛門を先として、究竟の鉄炮の上手五十余人、櫓、井楼に上り、鉄炮を列(つるべ)放し懸けたりければ、一揆の輩(ともがら)、鉄炮と云ふ名のみ計(ばかり)は聞けれども、始めて斯(かか)る物には逢ひつ、稲麻竹葦(とうまちくい)の如く立ち並びたる事なれば、争(いかで)か溜まるべき宗徒の郷民三百余人、将碁(しょうぎ)倒しの如くに犇々(ほんほん)と打ち倒され、悉くおびえ、頺(なだ)れて東の陣へ押し寄する処に、その手を固めたる至剛(しごう)の兵に真柄十郎左衛門直隆、同息十郎太郎隆基、並びに、隨伝坊とて大力の強の者、以上三騎、城戸の小門より打ち出たり。この真柄父子は、当時、日本無双の大力なりければ、常に好みける太刀は、越府の千代鶴と云ひける鍛冶、有国、兼則など云ふ者と相議して、七尺八寸に作り出せしを太郎太刀と号(なづけ)、僕従四人して擔(にな)ひける大太刀成りしを、直隆、軽々と提(ひつさ)げたり。子息・隆基も次郎太刀とて、六尺五寸有りけるを、弓手の肩に打ち懸け、二陣にぞ続きける。隨伝は、樫(かしのき)の棒の一丈二尺有りけるを六角に筋金渡し、手許(てもと)は丸く調(こしら)へたるを妻手(めて)の脇に携へ、声々に名乗り、人交(ま)ぜもなく、唯(ただ)三騎、大勢の中に破(わ)って入り、縦横無尽に切つて廻り、蜘手(くもで)、輪違に駈け破り、八方へ追ひ靡け透き間をあらせず戦ひければ、表に進む一揆原を暫時の間に八十余人、同枕に薙ぎ伏せたり。

この勢ひに辟易(へきえき)して、残党ども、此彼(ここかしこ)に村立ちて吻(いきつ)き居ける有様を、明智十兵衛、一見して、一戦の時刻、能く成り候と大将へ申しければ、近江守、左有らば、打ち立て者どもとて、赤塚、安原、野坂、立田、河崎、礒部(いそべ)を先として、逞兵(ていへい)五百余騎、城戸を開き、槍を揃へ、喚(おめい)て駈け出たりければ、従来(もとより)引心付きたる一揆ども、一支へも支へずして、我先にと逃散(にげちり)けり。追ひ討ちに六、七町進みけるを、明智、又、青蓮華へ向かひ、奔(にぐる)を逐(おふふ)、百歩に過ぎざると兵書にもこれ有れば、長追ひは無益に候。二、三の軍、肝要たるべしと申しければ、景基、実(げ)にもとや思はれけん、揚げ螺(あげがい)を立てられしかば、各、敵を追ひ捨てて、要害へぞ引き返しける。今日討ち取りし処の首数七百五十余とぞ記(しる)しける。

斯くて加州の一揆原、御幸塚の一戦に敗北の後、万(よろ)づ相違やしたりけん、総大将・北庄土佐守景行の月津の陣へ降参して向後(きょうこう)何様にも仰せを背き申しし事、御座有る間敷と証人を捧げ、色々侘び言申すにより、屋形・義景へ窺うて、人質どもを取り極め、その後、諸勢を越前にぞ打ち入りける。扨、加州にて軍忠有りし輩に勲功の賞を行はる。真柄十郎左衛門父子は、今度の勇力、古今無双の挙動(ふるまい)とて、今北東郡に於ひて千貫の所領を加へられけり。明智十兵衛には、敵、寄せ来るべき気を察し、殊に鉄炮を以て数多(すた)の一揆を打ち亡ぼし、その上、軍配の諫言を申しし条、何れも神妙の至りに思し召す由にて、義景より御感状を賜はり、褒美として鴾毛(つきげ)の馬に鞍置いてぞ引かれける。その外の勇士にも、賞禄ども有りけり。

 

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