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明智軍記

『明智軍記』現代語訳と原文 第3話「明智光秀鉄砲誉事付諸国勘合事」

明智軍記第3話【現代語訳】

こうして朝倉義景は、日を追って、威勢が盛んになっていったので、加賀国については言うまでもなく、能登国、越中国までも、協力に応じるようになった。そして、若狭国の武田大膳大夫義統も、縁者であったので、「朝倉氏の家臣になることを懇望する」と、敦賀郡代・朝倉景恒を通して伝えてきた。西近江、北近江の国衆も、越前国の朝倉義景へ従属すると言ってきたので、ますます朝倉家の本拠地・一乗谷は栄えた。

この朝倉家の先祖をたどると、人皇第37代孝徳天皇(596-654)の孫・表米親王(日下部表米)の子・日下部荒島は、但馬国の国造として、但馬国朝来郡(現在の兵庫県朝来市)に移り、日下部氏の祖となった。(【補足】平安末期に第14代・日下部宗高は、但馬国養父郡朝倉(現在の兵庫県養父市八鹿町朝倉)に住して「朝倉」と称したという。)

第22代朝倉広景は、斯波尾張守高経に仕え、斯波高経が建武元年(1334年)に越前国守護に任ぜられると、朝倉広景は、但馬国養父郡朝倉庄の代官であったが、越前国に移住した。延元3年(1338年)閏7月2日、「藤島の戦い」で斯波高経と共に新田義貞討伐で戦功を立てたため、その恩賞として黒丸城を与えられて、越前国坂南郡本郷黒丸(現在の福井県福井市黒丸町)に居住した。

第22代朝倉広景から第27代朝倉家景までの6代は、斯波武衛家の陪臣(家臣の家臣)であったが、第26代朝倉教景の孫・第27代・朝倉家景の子・第28代(越前朝倉氏7代)朝倉孝景(教景→敏景→教景→孝景の順で改名。入道して英林)は、多くの戦功をあげ、将軍・足利義政から越前国を頂戴し、越前国守護となると、越前国足羽郡一乗谷村に一乗谷城(福井県福井市城戸ノ内町)を築き、文明3年(1471年)5月21日、黒丸城から初めて一乗谷に移り、朝倉孝景、氏景、貞景、孝景、義景の5代、年数にして100年以上、法律を守り(治安良く)、武威は盛んで、隣国までも治めていたので、領民は、安心して暮らしていた。

去る永禄6年(1563年)の夏、朝倉義景は、明智光秀を呼んで、次のように言った。

「その方は、去年(永禄5年)の「永禄の一揆」(加賀一戦)の時、鉄砲で多くの敵を倒して、軍功をあげた。鉄砲は、昔は無く、永正の頃(1504年~1521年)、外国から初めて日本に渡来したと聞いているが、(それから数十年たったにもかかわらず)最近までほとんど使われなかった武器であり、その方のように、その鉄砲を使って名をあげるとは、珍しい。ついては、近日中に、その方が鉄砲を撃ってるところを見物したい」

明智光秀は、畏まって承ると、諸役奉行・印牧弥六左衛門と相談致し、安養寺の下の西の馬場の辺に射垜(あづち。弓や鉄砲の練習場で、的を置くために土を盛った的山)を築き、北に向けて25間(約45.5m)離れて撃つようにした。用意ができたので、朝倉義景が出てくると、御内衆の侍は1人残らず扈従(主君に付き従うこと)し、見物しようと貴賤(身分の高い者も低い者も)、群がり集まった。そこで、1尺四方(1辺が約30cmの正方形)の的を(射垜に)立て、4月19日の午前10時頃に撃ち始めて、正午(12時)の時刻を知らす法螺貝が吹かれる頃までには、100発の鉛玉を撃っていた。中央の黒星に当たったのは68発で、残りの32発も的に当たっていたので、見物していた者は、皆、感心した。

その後、朝倉義景は、明智光秀の鉄砲の腕前に感じ入ったのだろうか、諸将の子から100人選んで「鉄砲寄子」として、明智光秀に預けたので、明智光秀は、秘術を残らず教えた。

さて、明智光秀に朝倉義景はこう言った。

「その方、武者修行のため、諸国を巡り、各武家の軍事(戦闘方式)、式法(軍法)を調べたと聞いている。今、日本は、戦国時代であるので、当然のことである。軍法(軍事&式法)に関して修行したことを細かく教えなさい」

明智光秀は、承知して、

「愚か者なので、語るには畏れ多いが、命令とあらば、話しましょう」

と言って、側近の鳥居兵庫助景近に向かって次のように言った。

「私は、弘治2年(1556年)の秋、美濃国より当・越前国へ来て、長崎の称念寺の住職とは既知の仲であったので、寺領内に妻子を預け置いて、(諸国武者修行の旅に出て)、弘治3年(1557年)の春頃、加賀国、越中国を過ぎ、越後国の春日山に伺候し、上杉謙信の勇健の有様を見聞し、そこから陸奥国会津の葦名盛高の城下を経て、陸奥国大崎の伊達輝宗、陸奥国三戸、盛岡の南部高信、下野国に宇都宮広綱、下野国結城晴朝、常陸国に佐竹義照、下総国酒々井の千葉介親胤、安房国館山の里見義頼、相模国小田原の北条氏康の関東を従える智謀を察し、ここから甲斐国に行って、武田信玄の武略の次第を勘弁し、駿河国府中(駿府)に今川義元、尾張国清洲に織田信長、近江国観音寺に佐々木義賢、それより京都へ上り、足利義輝将軍の御治世を伺い、和泉国堺の三好義長、播磨国三木の別所友治、備前国岡山の宇喜多直家、美作国高田の三浦元兼、出雲国富田の尼子晴久、安芸国広島の毛利隆元の数国を治めている猛威の行跡を見て、さて、伊予灘を渡って豊後国へ行き、豊後国府内の大友義鎮、肥前国に龍造寺隆信、その旗下の鍋島、諫早、神代などの城下を過ぎ、肥後国宇土の菊池義武、薩摩国鹿児島の島津義久の弓矢の程を察し、これより船で土佐国の岡豊へ渡り、長宗我部元親の武勇の様子を聞き、さて、阿波国を越え、岡崎から紀伊国の港へ渡り、それより高野山、吉野を過ぎ、泊瀬路を経て、伊勢神宮へ参宮し、伊勢国司北畠具教、伊勢国長野祐則、伊勢国亀山の関盛信が屋形の周辺を通り、帰路に、日吉大社(滋賀県大津市坂本)で祈願し、西近江を経て、御当地・越前国へ6年後に帰ると、早速、朝倉家への仕官が叶い、さらに数人の家臣を付けていただけたのには大変感謝しています」

そして、感謝の証(あかし)にと、調査した諸家の法式(軍法)、所領を治め、敵国を討ち従えた武勇、智謀の兵術の次第、諸家の老臣、武頭(弓組・鉄砲組などを統率する長。物頭)、武功の兵士等の仮名、実名まで一家につき30~50人書き記した日記帳を見せると、朝倉義景は、大喜びして、日記を暫くの間、借り受け、その後、明智光秀に返した。

 

明智軍記第3話【原文】

斯くて朝倉義景、日を逐(おつ)て、威勢、盛んに成り給ひければ、加州儀は申すに及ばず、能登、越中迄も、其の意にぞ応じける。扨又、若狭の武田大膳大夫義統も縁者たるに依て、朝倉家の幕下に属すべき由、敦賀の郡代・朝倉中務大輔景恒を以て懇望申されけり。西近江、北近江の輩も越前へ随順申すにより、弥、一乗繁昌せり。

此の朝倉家の昔を聞くに、人王三十七代孝徳天皇の皇孫表米宮の御子荒島と申すは但馬国の太守として、朝来郡に御座し、日下部氏の大祖也。彼の荒島より二十二代の苗裔・朝倉右衛門尉広景は、斯波尾張守高経に差し副(そ)へられ、延元の頃、越前に来り、坂南郡本郷黒丸の城に居住す。広景より家景迄六代の間は、斯波武衛家の陪臣たりしに、教景が孫・家景が嫡子・弾正左衛門敏景入道英林、戦功の子細有りて、公方義政将軍より越前を給はり、足羽郡一乗と云ふ所に城郭を築き、文明三年五月二十一日、黒丸の城より初めて此の所に移り、敏景、氏景、貞景、孝景、義景迄五代、年歴、既に百余歳、掟正しく、武威盛んにして、隣国迄も治められしかば、諸人、安栄にぞ住しける。

去る程に、永禄六年の夏、義景、明智十兵衛を召され、汝が儀は、去年の加賀一戦の時分、鉄炮にて余多(あまた)の敵を打ち落とし、高名せしむる処なり。鉄炮の事、昔はこれ無く、永正の頃、異国より初めて吾朝に渡りける由、聞き伝ふると雖も、近年迄は世上に稀(まれ)なる処に、其の方、名誉を顕す事、奇特の至り也。然れば、近日、汝が鉄炮の様子、見物すべしとぞ宣ひける。光秀、畏まつて承り、諸役奉行の印牧弥六左衛門と相談致し、安養寺の下なる西の馬場の辺に射垜(あづち)を築き、北に向けて二十五間にぞ構へける。斯くて義景、出させ給へば、御内の侍、数を尽くして扈従(こじゅう)し、見物の貴賤、群集せり。則ち、一尺四方の的立て、四月十九日巳の中剋に放し始めて、午の貝吹く黎(ころあひ)には、一百の鉛玉を打ち納(い)れたり。黒星に中(あた)る数六十八、残る三十二も的角にぞ当たりける。諸人、これを感歎してけり。

其の後、義景、明智が才芸の程を感じ給ひけるにや、諸士の本子を百人撰(ゑら)み出し、鉄炮寄子とし、明智に預け給ひける故、秘術を尽くし、指南せり。

扨、光秀に大守、宣ひけるは、汝、軍鑑鍛錬の為、天下を廻国し、家々の軍事、式法を窺ひける由、聞き及ぶ処也。只今は日本、戦国の時分なれば、然るべき事ぞかし。軍法修行せし所々を遠慮なく具(つぶさ)に語るべしとぞ仰せける。明智、承り、愚案の身として恐れ多く存じ奉り候へども、御意に背き難く候へば、憚りながら申し上ぐべしとて、寵臣の鳥居兵庫助に向かひて申しけるは、某(それが)し儀、弘治二年の秋、美濃国より当国へ罷り越し、長崎の称念寺は所縁のある僧にて御座候故、彼の領内に妻子を預け置き、同三年の春の頃、加賀、越中を過ぎ、越後春日山に伺候いたし、上杉輝虎入道謙信の勇健の形勢(ありさま)を見聞仕り、其れより奥州会津の葦名平四郎盛高の城下を経て、同国大崎の伊達兵部大輔輝宗、同三閉森岡の南部左衛門尉高信、下野に宇都宮右馬頭広綱、同国結城七郎左衛門晴朝、常陸に佐竹右京大夫義照、下総酒々井(すすゐ)の千葉介親胤、安房館山の里見左馬助義頼、相州小田原の北条左京大夫氏康の坂東を隨(したが)へらる智謀を察し、此こより甲州に至り、武田晴信入道信玄の武略の次第を勘弁致し、駿河府中に今川治部大輔義元、尾張清洲に織田上総介信長、江州観音寺に佐々木左京大夫義賢、其れより京都へ上り、公方義輝将軍の御治世を窺ひ奉り、和泉堺の三好筑前守義長、播磨三木の別所豊後守友治、備前岡山の宇喜多和泉守直家、美作高田三浦出羽守元兼、出雲富田の尼子伊予守晴久、安芸広島毛利大膳大夫隆元の数国を治めし猛威の行跡を一見、偖(さて)、硫黄灘を豊後国へ渡海して、府内の大友豊後守義鎮、肥前に龍造寺隆信、その旗下なる鍋島、諫早、神代などが城下を過ぎ、肥後宇土の菊池左兵衛佐義武、薩摩鹿子島の島津修理大夫義久の弓矢の程を察し、これより船にて土佐の岡豊へ著岸し、長宗我部土佐守元親の武勇の様子を聞き、扨(さて)、阿波国に越へ、岡崎から紀伊の湊へ渡り、其れより高野、吉野を過ぎ、泊瀬路をへ、伊勢へ参宮仕り、国司北畠中納言具教、同国長野左衛門尉祐則、同亀山の関安芸守盛信が館(たち)の辺を通り、則、帰りには、日吉社に祈願の事候に依て、西近江を歴て、御当地へ六年に及んで罷り帰り候処に、早速、御家に召し出され、殊に数輩の寄子を預けさせられ候事、莫大の御厚恩にて候とて、則、家々の法式、自地を治め、敵国を討ち隨へし武勇、智謀の兵術の次第、並びに、諸家の老臣、武頭(ものがしら)、同武功の兵士等が仮名(けみょう)、実名(じつみょう)迄、一家にて五十人、三十人づゝ書き付けたる微細の日記を進覧仕りければ、朝倉殿、大悦(えつ)、御座(おはしまし)て、暫(しばら)く留め置かれ、其の後、明智が方へぞ返し遣られける。

 

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