足切観音堂に奉納された草履(井伊谷)

井伊家を訪ねて

必殺、草履手裏剣は史実か!? たかが草履、されど草履の奥が深い!

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──天正の草履番

「日本一の草履番」の方が相応しいタイトルだい思いますが「天皇の料理番」に合わせたのでしょうね。(「てんのう」をいかせば、「後の徳川四天王による草履番」。長いですね;)

「草履取り」といえば、ドラマで本多忠勝が語っていた「織田信長の草履取り」こと木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)ですね。寒い日に、織田信長の草履を懐で温めたという逸話(『絵本太閤記』「藤吉郎小牧山算樹木」)が有名です。

「藤吉郎小牧山算樹木
扨(さて)も藤吉郎は、御馬飼と成り、昼夜、馬草飼料の手配油断無く、其暇には一向(ひたすら)手をもって馬の惣身を撫ければ、暫(しばらく)の間に其毛色美しく輝(ひかり)けるにぞ、信長卿の御目にとまり、草履取りを仰付られけるに、寒気の時節は御草履を己が懐(ふところ)に入て温め、万(よろず)思召に叶ひける。
信長卿は、いまだ壮年にまし/\誠更強気の大将なれば、厳冬極暑と雖も更に厭ひ給はず、毎朝、卯の尅より馬を責給ひけるが、或朝、雪、最と降積て寒気至て列きに常よりも早く起給ひ、玄関に人蔭の稀なれば、「誰か有」と召けるに、「藤吉郎にて侍ふ」と答。信長、藤吉に問て宣ふ。「いかにしか、汝の外に人はなきぞ」。藤吉郎、謹でさん候「今朝は例日より君の御出、半時斗早く候ふ程に未一人も参らず候」と申。信長、又、問て、「汝一人、何として早く参たるや」。藤吉答て「下郎事、今朝のみに非。毎朝、衆人よりは一時づゝ早く参り、御出立を相待候」と申。爰にをひて信長卿、藤吉が勤労、衆に越たるを感じ、終に重く用ひ給ふ。
程なく台所奉行の役に撰出され、諸事の費(つひへ)を省き、様々工夫を以て、台所の物入、少き様に取極りければ、始めて三十貫の扶持を下し賜りける。
又、ある時、小牧山御狩の時、山中の樹木を数へさせ給けるに、多くの木なれば、混雑して算へがたく、人ゞ甚困りけるを、藤吉郎、工夫以て、細き縄を三尺斗に切て、木の根に結(くく)り付、惣縄数何程と定め置、残りし縄を算みれば、一木も相違なく、いと易く数へ終る。「是又、藤吉郎が時に取ての才智なり」と人ゞ感じける。」

【大意】 江戸中期に書かれた『絵本太閤記』によれば、豊臣秀吉は、「馬飼(うまかい)」(「馬の口取り」のこと?)だったそうです。仕事ぶりが認められて「草履取り」に抜擢されると、寒い日には、織田信長の草履を懐に入れて温めたそうです。「草履を懐で温める」は、『酒井空印言行録』の酒井空印(忠勝)が、徳川家光の草履を懐に入れて暖めていたという話が元ネタではないかとされていますが、後述のように、「草履取り」が主君の草履を懐に入れるのは日常茶飯事でした。
続いて、いつもより早く愛馬に乗ろうとした織田信長が「誰かいるか?」と聞くと、豊臣秀吉が出てきたので、「早起きだな」と言うと、「毎朝、他の人よりも一刻(2時間)早く起きて、待機しております」と答えると、その働きぶりに感心した織田信長は、豊臣秀吉を薪奉行に抜擢したそうです。そして、豊臣秀吉は、節約に励み、薪の費用を今までの3分の1にまで減らしたそうです。それで30貫文(300石)の扶持が与えられたとのことです。
また、小牧山の木の数を数える時には、縄を使い、使った縄の数を数えることにより、重複や数え漏れを避け、正確に数えたそうです。

「与えられた仕事をきっちりこなす」は当然のことであり、「与えられた仕事を嫌がらず、工夫を凝らしてこなし、仕事を与えてくれた上司の想定以上の成果を出して上司を驚かす」というのが出世の方法です。

創意工夫と献身的な奉公、そして「人たらし」と呼ばれた人心の掌握術で、豊臣秀吉は後に天下人となったのでした(このドラマでは、井伊直政は負けん気の強い知恵者、徳川家康は家臣の性格と資質を見抜いて適所に配置する名人として描かれているようです)。

さて、子供の頃から負けず嫌いで、「一番」という言葉に鋭く反応する井伊直政は「日本一の草履番」となって、出世できる(小姓になれる)のでしょうか? (「出世できた」「徳川四天王になった」ことはご存じですから、「出世できた(小姓になれた)か?」ではなく、「どのようにして出世した(小姓になった)か?」、その創意工夫と努力が今回の見どころです。)

 

第40話「天正の草履番」あらすじ

「草履取り」については、歴史の謎を探る会『日本人なら知っておきたい江戸の武士の朝から晩まで』(河出書房新社)に詳しく載っていたので、転記しておく。

「殿中でも役所でも、武士が座敷にあがれば、玄関にはたくさんの草履が並ぶことになる。どれがだれの草履なのかすぐにわからなくなるので、武士は草履取りを従えていた。
主人が座敷にあがっているあいだ、草履取りは主人の草履を二枚裏合わせにして、腰に差すか、懐にしまって控え室で待機している。そして、玄関で「誰々の草履取り」とよばれると、玄関の式台から一メートルほど離れたところから、主人が降りる足もとへ草履を投げそろえた。
草履がうまくそろわなければ、主人に恥をかかせることになる。そのため、草履取りは、日頃から草履投げの練習を欠かさなかった。現代の目からみればバカバカしい光景に思えるが、当時はこれも武家のたしなみだった。」

これを読むと、草履を懐に入れる事は豊臣秀吉オリジナル、草履を投げ揃える「投げ草履」は井伊直政オリジナルではなく、どの草履取りもやっていたようである(雨天の場合は下駄履きなので、投げて揃える訳にはいかず、主君の横に控えて並べたという)。

まだ20代の若造の榊原康政が、
「此度、殿の命により、城内にまとめて草履を預かる草履番を設けることとなった」
と言った。

早い話、草履番制の導入により、「草履取り」は全員、一斉解雇されたわけで、可愛そうである。「労働基準法」(第20条)違反である。(「第20条 使用者は、労働者を解雇しようとする場合においては、少なくとも30日前にその予告をしなければならない。30日前に予告をしない使用者は、30日分以上の平均賃金を支払わなくてはならない。」)

せっかく、「投げ草履」の技を磨いたというのに…木下藤吉郎のようにここから出世しようと思っていたのに…。

史実では、武家社会には「草履取り」がいましたので、どうかご安心を。

武家の奉公人には、平民の「小者(こもの)」、最下級武士の「若党(わかとう)」、両者の中間の「中間(ちゅうげん)」がおり、「草履取り」は「中間」の仕事であった。
庶民の場合、草履は自己管理であった(今でも龍潭寺では自己管理で、観光客は自分の靴を持って見学する)。ただ、銭湯には(草履を持って入るわけには行かないので)「下足番」が管理する下駄箱があったが、玄関に棚(履物入れ)が登場したのは、江戸末期のことである。

ちなみに、「小草履取り(こぞうりとり)」とは、「草履取り」の名目で、召し抱えた少年(寵児、衆道)のことである。

さて、徳川家康が、おとわ(井伊直虎)に対し、「松下虎松」を「井伊万千代」として召し抱えた理由として、次の3点を述べた。

①井伊家を2度も助けられなかったという負い目
②井伊一族を母とする正室・築山殿の意向
③「潰れた家の子でも仕官できる、お家を再興できる、出世も出来る」とアピールする広告塔にしたい。その家風が確立できるかが、徳川家の生き残りを分ける。

③は、私が「井伊直政のスピード出世の理由」として考えていることと同じである。さらに、「小姓ではなく、草履番とした理由」は、
①「松下虎松として小姓」を選択肢の1つとするための別案が必要だったので、「井伊万千代として草履番」を捻出(実は本多正信の案)して、松下虎松に選ばせた。
②虎松は打たれるほど伸びる性格であるから、まずは低い身分から。(適材適所①)
としているが、私は、新参者であるから、
③小姓であれば、徳川家康にお目見えを許される重臣の顔と名前しか覚えられないが、草履番なら全家臣の顔と名前を覚えられる上に、井伊万千代の顔と名前を全家臣に覚えてもらえる。
ということ(適材適所②)もあったのではと想像している。

徳川家康の「草履取り」ではなく、「草履番」という新しい役職を創設したのは、このためかと。

──千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。

1日に千里を走ることができる駿馬(才能のある者)はどの時代にもいるが、それを見付け、認めてくれる伯楽のような人は、常にいるとは限らない。(『韓愈』世有伯楽、然後有千里馬。千里馬常有、而伯楽不常有。(世に伯楽(はくらく)有り。然(しか)る後に千里の馬有り。千里の馬は常に有れども、伯楽は常には有らず。)才能があるのに、伯楽(敏腕プロデューサー)に会えず、世に出れないまま死んでいった人は多い。(現在ならSNSを使って、セルフプロデュースという手もあるが。)

井伊直政という井伊谷の先人達の良いとこ取りをした宝石の原石は、徳川家康という伯楽に見出され、磨かれ、「徳川四天王」へと成長していく。このドラマは、その成長の記録である。

(つづく)

 

今回の言葉「人は宝なり」

【出典1】 秀吉、嘗て家康に向ひ、「我所持の道具、粟田口吉光の銘の物より始め、天下の寳と言ふものは集めたり」とて、指を屈し算(かぞ)へ立られ、「偖(さて)、御所持の道具、秘蔵の寳物は、何にて候哉」と尋ねられしに、「爾ゝ(しかじか)の物之なく候。但し、我等を至極大切に思入り、火の中、水の中へも飛入り、命を塵芥とも存ぜぬ士、五百騎所持致したり。此士、五百騎を召連るれば、日本六十餘州に恐敷敵は、之なき故、此士共を至極の寳物と存じ、平生、秘蔵に致たす」由、答られければ、秀吉、赤面にて返答なかりけり。(『名将言行録』)

【出典2】 關白、あるとき、君をはじめ毛利、宇喜多等の諸大名を會集せし時、「わが寳とする所のものは、虛堂の墨蹟、粟田口の太刀」などはじめ種々かぞへ立て、「さて、各にも 大切に思はるゝ寳は何何ぞ」と とはれしかば、毛利、宇喜多等所持の品々を申けるに、君ひとり默しておはしければ、「德川殿には何の寳をか持せらるゝ」と いへば、君、「それがしは、しらせらるゝ如く、三河の片田 舍に生立ぬれば、何もめづらかなる書畵、調度を蓄へし事も候はず。さりながら某がためには水火の中に入ても。命をおしまざるもの五百騎ばかりも侍らん。これをこそ家康が身に於て第一の寳とは存ずるなり」と宣へば、關白いささか恥らふさまにて、「かゝる寳は、われもほしきものなり」といはれしとぞ。(『徳川実紀』)

【大意】 豊臣秀吉は、ある時、徳川家康に向かって、「儂は、天下の名品を集めた。徳川殿はどんな宝をお持ちか?」と言うので、徳川家康は、「儂の為に命を捧げてくれる武士が500騎ほどおり、これが宝でござる」と答えると、豊臣秀吉は返す言葉がなかったという。

──人は宝じゃ。(by 徳川家康)

※徳川家康が「人は宝なり」と言ったと読んだ覚えがありますが、その古文書を思い出せないので、代わりに「五百騎の家臣が第一の宝」という逸話を掲載しておきます。

 

キーワード:虎松の出世

徳川四天王
井伊直政

徳川四天王とうたわれた井伊直政は、永禄四年(一五六一)二月九日井伊の庄祝田で、名門井伊氏の嫡男(あととり)として生まれました。二歳の時に父直親が今川氏真の手により殺され、井伊家は滅亡の危機に立ちます。八歳の時、直政は龍潭寺南渓和尚の計らいで、三河鳳来寺に預けられ成長します。

「井伊直政出世之地」碑(龍潭寺境内。「出世」を「出生」と読み間違える観光客が多い。井伊直政が生まれたのは井伊谷ではなく祝田である)

十五歳になった直政は、浜松城主徳川家康の家臣となり数々の武勲を立てます。

天正十年武田勝頼を攻め滅ぼした家康は旧武田軍の「赤備(あかぞなえ)」の軍を直政に付けます。天正十二年(一五八四)小牧・長久手の戦いで、この赤備部隊が活躍し、井伊の赤鬼と恐れられました。この功で直政は六万石に出世、井伊家再興を果たしました。

慶長五年、関ヶ原合戦では東軍の軍監(監督)を勤め徳川軍を勝利に導き、彦根十八万石城主となり、徳川軍団の筆頭に出世しました。
慶長七年(一六〇二)二月一日、直政は四十二歳の生涯を閉じました。

「井伊直政出世之地」碑案内板(龍潭寺)

「井伊直政 加増推移表」(奥浜名湖観光協会主催「直虎セミナー」)

天正3(15歳) 300石(同心16人)
天正4(16歳) 芝原で間者を討取、3000石に
天正6(18歳) 田中城攻めの武功で1万石に
天正8(20歳) 2万石に
天正10(22歳) 北条との講和の使者となり4万石に
天正13(25歳) 前年の長久手での戦いの武功で6万石に
天正18(30歳) 豊臣秀吉の意向もあり、箕輪12万石に
慶長6(41歳) 「関ヶ原の戦い」後、佐和山18万石に
慶長7(42歳) 井伊直政、没

元和元(1615) 彦根藩20万石に
元和3(1617) 彦根藩25万石に
寛永10(1633) 彦根藩30万石に

 

キーワード:井伊万千代の住居

・松下家の養子・松下虎松の住居=引馬(下垂)の松下屋敷
・徳川家康の小姓・井伊万千代の住居=浜松城
・元服した井伊直政の住居=浜松城榎門付近

ドラマ最後の「直虎紀行」で、頭陀寺の松下屋敷が紹介された。
松下屋敷について、私は、
・頭陀寺の松下屋敷(豊臣秀吉が奉公した屋敷):松下之綱の屋敷
・引馬の松下屋敷(松下虎松の住居):松下清景の屋敷
と理解しているのですが、「引馬の松下屋敷」跡(旧・下垂町)には、次の写真のように「松下之綱屋敷推定地」という標柱が建っています。

「引馬の松下屋敷」跡

この根拠は、『浜松御在城記』に「松下加兵衛之綱、下垂に住居」と書いてあることです。浜松城やその城下町は、徳川家康が関東移封になり、堀尾吉晴が浜松城主になって一変しました。『浜松御在城記』が書かれた時代には既に徳川家康の家臣(御家人衆)がどこに住んでいたか分からない状態になっており、著者は、子孫に尋ねて明らかになったものだけを書いた(「浜松其御時代、御家人衆の屋敷構も知れ候分は、書記し度儀に奉存候。(中略)子孫御座候間所に聞覚居申候哉。相尋可申候。」)としています。松下之綱の屋敷の位置については、旧・本多忠勝屋敷に住んでいた松下五左衛門に聞いたのでしょう。

「浜松御城下絵図略図」(宝暦年間の絵図の模写)

・松下一族は、引馬と頭陀寺に分かれて住んでいた。
・「引馬の松下屋敷」は広大で、敷地内に家が何軒もあり、松下之綱だけではなく、松下之綱の親戚の松下清景・常慶兄弟も住んでいた、あるいは、松下五左衛門の記憶違いで、「引馬の松下屋敷」に住んでいたのは松下清景・常慶兄弟である。
ということなのかな?

「遠州浜松城下絵図」(江戸時代)

元服し、結婚して「井伊万千代直政」と名乗ると、屋敷が欲しくなる訳ですが、もう松下家の人間ではないので、松下屋敷には住めません。井伊直政の屋敷については、『礎石伝』に「浜松御城に榎御門と申御座候。夫より御家中屋敷二、三軒西へ寄申候て、「高屋敷」と申御座候。是は昔し井伊万千代丸直政の御住居の屋敷と申伝候也」とあります。出丸(現在の浜松市中央図書館)あたりでしょうか?

 

キーワード:今川氏真の野望

 戦国大名から文化人となった今川氏真が詠んだ和歌は1700首と言われていますが、正確な数は分かりません。今年に入っても、島田市博物館に寄付された古文書(島田宿下本陣・置塩家文書)から、今川氏真の未発見の和歌6首が見つかりました。

「深雪」
遠里と見しも一へになりにけり 昨日は山の木ゝのしら雪
けふことにたはむ梢やわたすらん 雲より出る雪のかけはし
「佛名」
となへ聞仏御名は身につみし つみのやとりにすゝやなるらん
法の師の聲うちそへてあつさ弓 おなし雲井にすめる夜半哉
「祝言」
あきらけきめくみあらなん天てらす ひかりを君になそらふる代は
水上の清き世なれやなかれての 末の身まてもすみよかるらん

 これは、牧野城(諏訪原城)にいた時の歌で、武将としての罪を悔いて仏にすがるという武将(戦国大名)から文化人へ、その姿を変えつつあった今川氏真の心の内が読み取れる歌だそうです。

今川氏真像

さて、赤木駿介氏というと、競馬評論家のイメージが強いのですが、作家でもあり、『天下を汝に』や『石川五右衛門』を書いておられます。
『天下を汝に』 (1991年。新潮社)のサブタイトルは「戦国外交の雄・今川氏真」であり、帯のキャッチコピーは「家康を天下に導いた知られざるフィクサー」です。
今川氏真の研究が進めば、「本能寺の変」の黒幕=今川氏真説が学説となるかもしれません。

【余談】2019年に「今川義元 生誕500年祭」が行われるが、準備が遅れている。2017年には藤枝市と島田市の博物館で今川氏展が開かれたが、静岡市は、駿府城公園隣(旧青葉小学校跡地)に2021年にオープンする「市歴史文化施設 徳川家康と駿府」(仮称)の建設準備や駿府城の天守の発掘作業とその後の天守閣の再建構想に追われていて、今川氏までは手が回らない。大河ドラマで今川氏が注目されている今からアクションを起こして盛り上げていかないと、2019年の「今川義元 生誕500年祭」がしょぼくなりそうだ。

◆太田牛一『信長公記』より

【原文】
二月廿七日、御上洛、捶井まで御出で、翌日、雨降り、御滞留。
廿九日、佐和山丹羽五郎左衛門の所に御座なさる。
三月三日、永原御泊り。次の日、御出京、相国寺に御寄宿。
三月十六日、今川氏真御出仕、百瑞帆を御進上す。以前も千鳥の香爐・宗祗香爐を御進献のところ、宗祗香爐は御返シなされ、千鳥の香爐は止め置かせられ候へき。今川殿鞠を遊ばさるるの由、聞こしめし及ばれ、三月廿日・相国寺において御所望。御人数、三条殿父子、藤宰相殿父子、飛鳥井殿父子、弘橋殿、五辻殿、鷹司殿、烏丸殿。信長は御見物。
【大意】
天正3年(1575)1月13日、38歳になった今川氏真は、上洛のため、浜松城を出た。そして同年3月16日、驚くべきことに、父・今川義元の仇である織田信長と京都・相国寺で会見した。今川氏真は、織田信長が2年前に建造した大船用の「百反帆」(木綿百反を繋いで作った大きな帆)を進上すると、織田信長は、返礼として、以前、今川氏真が進上した今川家伝来の「千鳥の香炉」「宗祗の香炉」のうちの「宗祗の香炉」を返した。さらに織田信長は、今川氏真が蹴鞠が得意だという話を聞くと、「相国寺で蹴鞠が4日後(3月20日)に行われるから、その場で披露して欲しい」と所望すると、今川氏真は、公家達に混じって蹴鞠を披露した。

「百反帆」はどこで作ったんだろう? まさか、瀬戸村じゃないよね?

栗を手に持つ「浜松時代の少年豊臣秀吉公像 十六才」(元城町東照宮)

 

おまけ:浜松時代の豊臣秀吉

「一五五一年(天文二十年)
初めて武家奉公がかなったときの少年秀吉公のお姿
武士になろうとして、尾張の国より針の行商をしながら主君を捜す旅に出た。浜松の馬込川ほとりで、浜松の豪族松下嘉兵衛に出会い、ここ引間城(元城町東照宮)までつれてこられた。引間城主飯尾家の宴会で、猿そっくりの口元で猿の物真似をして栗を食べて気に入られ、松下家へ初めての武家奉公の夢がかなった。『太閤素生記』
浜松市南区頭陀寺の松下屋敷で、武家修行を積み、良く働き、良く学んだ秀吉公は十六才~十八才の三年間、この浜松で過ごし成長していった。その後、松下家から退職金をもらい尾張へ帰った。そして織田信長公と出会い織田家中で出世をはたし、ついには天下人となった。
史学博士 磯田道史」(現地案内板)

【『太閤素生記』原文】 太閤十六歳、天文二十年辛亥春中々村を出られ、父死去の節、猿に永樂一貫遺物として置く此銭を少し分けて清洲え行、下々の木綿布子を縫ふ大き成る針を調へ、懐に入、先、鳴海迄來て此針を與て食に代る。又、針を以て草鞋に代る。此如く、針を路次の便となして、遠州濱松へ來らる。
濱松の町外れ、牽馬の川と云邊に、白き木綿の垢附きたるを著(き)て、立廻らる。其比、遠州濱松の城守は、飯尾豐前と云て、今川家の幕下の者なり。又、近所、久能と云所あり。松下加兵衞と云者、小城の主なり。是も今川の幕下なり故に久能より、濱松え至る道に猿を見付、異形成る者也。猿かと思へば人、人かと思へば猿なり。「何國より來る、何者ぞ」と聞けと、人を以て問。猿が云。「吾は尾張より來れり」と。又、問。「幼少の者の遠路、何事にて是迄來れる」と。云。「奉公望にて來れる」と云。立皈て、加兵衛に此旨を告る。加兵衛、笑て、「吾に奉公すへきか」と又聞く。畏る由申。
夫より濱松へ連行、豐前に對し、加兵衛が云。「道にて異形成る者を見付たり。猿かと見れば人、人かと見れば猿なり。御覧あれ」とて召出す。豐前が子共、幼き娘など出て、是を見る。又、かたはらの者など是を見て笑。皮の付たる栗を取出して與。之口にて皮をむき、喰。口本、猿に均(ひと)し。
夫より此方、彼方と愛せられ、或は古き小袖を得、絹袖の衣装を得、沐浴などさせ、袴などを著(き)する。然ば、其形ち、清らかにして、始の形に異なり、初は、加兵衞、草履取など一所に置く。後は引上げ、加兵衞手本にて使に、彼是一つとして、加兵衞が心に不叶と云事なし。後は、加兵衞、納戸の取入・取出しを申し付る。先より居たる小姓共、是を子(ね)たみ、香芥(かうがい。笄)が失(うせ)れば、『猿が盜みたるらん』と云、小刀(こづか)が失れば、『猿が取たる』と云。印籠、巾著、鼻紙など失れば、猿を疑ふ。加兵衞、慈悲なる者にて、遠國(おんごく)行衞(ゆくゑ)も不知者故(しれざるものゆゑ)、如此(かくのごとく)無實を云懸ると不便に思ひ、其品々を云聞せ、本國へ歸れと云て、永樂三十年を與へ、暇(いとま)をくるゝ。是を路錢として、猿、清洲に至。猿、奉公に出し中一年有て、十八歳の時也。此事を『太閤記』に「加兵衛、猿に『尾張に「桶革胴」にかはりて「胴丸」と云ありと聞く。調(とゝの)來(きた)れ』と云て、黄金五兩を預ると。夫を取て尾張へ行、其金にて支度して信長へ奉具足、公に出る」とあり、不信。太閤、生れ付堅く、理知儀にして、左樣の心に非(あら)ず。又、行衞もなき幼猿に加兵衞、黄金五兩預くべき義に非ず。又、具足を調來れと其世忰に云べき理にも非ず。猶不信。
右の豐前が娘、幼名キサ。朝比奈駿河守に嫁。我祖母也。常に是を語るを聞くに、豐前女房キサが母は名誉の強女、豐前をば氏真、謀て被討の後、駿州江尻の屋敷に籠る豐前が士ども三十騎計楯籠るに依て、氏真より三浦右衛門に百騎ばかりを指添、雑兵千四百、五百にて江尻の屋敷へ押寄、討之。」(『太閤素生記』)

【大意】 天文20年(1551)、豊臣秀吉(16歳。織田信長に仕えて「木下藤吉郎」と名乗ったが、幼名は不明(「日吉丸」は『絵本太閤記』の創作)であるが、『太閤素生記』には「猿」、『明良洪範』には「猿之助」とある)は、父の遺産の永楽銭一貫文(千枚)の一部を貰い、尾張清州で木綿着を縫う大きな針を仕入れ、それを売りながら浜松まで来て、奉公先を探していたという。
ある日、今川家臣である引馬城主・飯尾豊前守連龍(寄親)の寄子・松下加兵衛が、浜松の引馬城へ行く途中、浜松の町はずれ(東端)の「牽馬の川と云邊」(「牽馬(引馬、曳馬)を流れる川」(現在の馬込川)の川辺)で、垢だらけの白い木綿の着物を着て、「猿かと思えば人、人かと思えば猿」といった感じの「異形の者」を見つけた。引馬城へ連れて行き、猿に皮の付いた栗を取り出し与えると、口で皮を剥いて喰う口元が猿にそっくりだったので、皆(飯尾連龍、キサなど)、大笑いした。
風呂に入れ、きれいな着物を着せると、「馬子にも衣装」とはよく言ったもので、綺麗になった。松下加兵衛は猿を、初め草履取りと一緒に置いたが、次に小姓(側近)に抜擢すると、何一つ心に叶わぬことが無い完璧な仕事ぶりであったので、納戸(普段使用しない衣類や家具・調度品などを収納する部屋)の管理者に大抜擢すると、以前から奉公していた小姓達が妬み、物が無くなると猿のせいにしたので、慈悲深い松下加兵衛は、「お前は、得体の知れぬよそ者だから無実の罪を負わされるのだ。本国に帰れ」と旅費(退職金)に永楽銭30疋(300枚)を与えて解雇した。豊臣秀吉は、16・17・18歳の3年間(「3年間」といっても、実際は「中(うち)一年有(あり)」(17歳(天正21年)の丸々1年)で、16歳(天正20年)と18歳(天正22年)の時は丸々1年ではないので、実際は「丸々3年」ではなく、「足掛け3年」であり、「実質2年間」か?)、浜松にいた。
以上が史実、真実であり、『太閤記』に書いてあることは信じがたい。

※『太閤素生記』:引馬城主・飯尾豊前守連龍の娘・キサが語った話を、キサの孫・土屋知貞が書き留めた本。学者は「語った人は当事者で、記録した人も信用の置ける人物であるから第一級の史料」だと言うが、全てが史実だとは思えない。たとえば、松下加兵衛は、この時、頭陀寺城主、あるいは、頭陀寺の寺侍であって、久能城主になったのは後(徳川家康の関東移封時)の事だとされているからである。キサの記憶違いであろう。

※松下加兵衛:誰であるか不明。松下加兵衛之綱(天文6年生まれ)は豊臣秀吉(天文20年に16歳であれば、天文5年生まれ)と同世代であるので、松下加兵衛之綱の父・松下源太左衛門長則ではないかと考えられているが、『明良洪範』には「松下嘉平元綱」とある。(『明良洪範』は活字本で読みました。長則=元綱とも言われますが、草書体の「元」と「之」は似ているので、原本では「之綱」かもですね。古文書の何が難しいかというと、第一に草書体、癖字で読めないこと、第二に当て字、誤字、脱字があることです。)
ちなみに、ドラマで「鈴木(すずき)」と間違えられた都築(つづき)秀綱は、松下為雲の子です。松下国長の子には国綱、連長、長範の3人がいて、国綱の子孫が頭陀寺松下氏(長則、之綱)、連長の子孫が引馬松下氏(清景、常慶)で、長範の子孫が為雲、秀綱で、為雲は、「堀川城の戦い」に深く関係していると思われます。

※徳富蘇峰は、『近世日本國民史 豊臣氏時代(甲篇)』において、豊臣秀吉を次のように評している。

惟(おも)ふに秀吉や、才氣煥發。目にて聞き、顏にて讀み、言はずして知り、命ぜずして行ふ。されば其の儕輩(せいはい)が、半は妬み、半は疑うたのも、無理からぬ事だ。而(しか)して其の事情を洞察したる松下が、秀吉に同情して、小許の旅費を與(あた)へ、之を歸國せしめたのも、有り得べき事ではない乎(か)。豐鑑(ほうかん)には、只だ「思定めざるにや、又もとの里に歸りぬ。」とあり。何れにせよ、彼は其志(そのこゝろざし)を得ずして、遠州より尾張に還つた。

天文の草履取り・豊臣秀吉は、織田信長の草履を懐で温め、
天正の草履番・井伊直政は、多くの草履の管理法を考えた。

私が平成の靴番になったら、①番号札を使う、②朝夕の忙しい時間帯の靴番の増員を上司に懇願、ってところですかね。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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