大河ドラマの世界を史実で深堀り!

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虎松がいたという日輪院の跡(鳳来寺)

井伊家を訪ねて

直虎だけの物語なら今回で終わり? 南渓和尚も虎松(井伊直政)に興味を示し始めた!?

最近、女性政治家の不倫が相次いで暴露されていますね。
大事な会を抜け出して密会とか……。

──「女は、仕事より、家よりも、男が大事」なのか?

今回、井伊の殿(今だと市長?)が、殿を辞職して、還俗して、農民になって、まさかの恋愛結婚!?
(不倫よりはいいが、井伊直親小野政次がかわいそうだ。)

──所詮、女子(おなご)じゃな。(by 中野直之)
と嫌味の1つも言いたくなるね。
私なら小一時間説教だな。
まぁ、相手は不良っぽいけど、純な人でよかったけどね。
当時って、家柄なんてどうでも良かった? 井伊直虎って、600年弱続いた名家の嫡流ですけど…龍雲丸は盗賊の頭ですが…新田友作ならいいかもですが…。

と、まぁ、頭が混乱して、何が何だか分からないです……(@_@)
感想のようで感想じゃない感想になっていますが…。

今回、生き生きしていたのは南渓和尚と虎松(井伊直政)。
密談して、何か約束した模様。
それは、第39話「虎松の野望」で明かされる!?

 

第36話 「井伊家最後の日」 あらすじ

まずは、混乱した頭の整理に通説(史実?)をまとめておきます。

永禄13年/4月23日から元亀元年(1570年)6月 徳川家康、岡崎城から浜松城へ(9月説あり)
元亀2年(1571年)10月3日 北条氏康、没
12月27日 甲相一和(北条と武田和睦→再同盟)
12月末 今川氏真、小田原(北条)を離れ、浜松(徳川)へ。
※第36話はここまで

元亀3年(1572年)
12月22日 三方ヶ原の戦い

元亀4年/7月28日から天正元年(1573年)
1月3日 武田軍(山県隊)井伊谷蹂躙(龍潭寺焼失)
3月9日 武田信玄、鳳来寺で延命祈願後、出立
4月12日 武田信玄、駒場で没(他説あり)
7月6日 井伊谷、小笠原信嶺領となる。

天正2年(1574年)
12月14日 井伊直親13回忌に虎松、鳳来寺から帰る。

天正3年(1575年)
2月15日 虎松、小野亥之助と共に徳川家康に出仕

天正10年(1582年)
8月26日 井伊直虎、没(病死)
※井伊直虎の命はあと10年。ドラマは残り14回。

・元亀元年、徳川家康は、居城を浜松城とし、遠江国を支配した。一方、駿河国は、武田信玄が支配した。
・元亀2年、今川氏真を保護していた北条氏康が死ぬと、家督を継いでいた北条氏政は、外交方針を転換し、武田信玄と同盟を結んだ。武田信玄が刺客を小田原に送ってきたので、今川氏真は、徳川家康を頼って浜松へ逃げた。
・元亀3年10月3日、武田信玄は、西上作戦を開始し、遠江国へ侵攻し、徳川家康(8000人)・織田信長(3000人)連合軍と三方ヶ原で戦い、武田信玄(25000人)・北条氏政(2000人)連合軍が勝利し、刑部砦で越年した。
・元亀4年、武田信玄は、刑部砦から野田城へ向けて進軍するが、この時、山県隊が「露払い」とばかりに先導して井伊谷を蹂躙し、龍潭寺は、松岳院を残して焼け落ち、高瀬は人質として奪われた。井伊谷は武田領となり、小笠原信嶺が領主に任命された。
・天正2年、虎松が鳳来寺から龍潭寺へ来た。武田信玄が鳳来寺の本尊・峯之薬師に抱きついて命乞いをするのを見ていたはずであるが、「いつ鳳来寺へ行ったのか」は不明。説①保護者の新野親矩の討死直後(『直政公御一代記』)、説②井伊谷城を小野政次が乗っ取った時(奥山13代六郎左衛門朝忠が連れて)、説③浜松を武田信玄が襲う直前(浄土寺から守源が連れて)の3説がある。鳳来寺では、どの塔頭に居たのかは不明で、説①鳳来寺松下氏が保護して日輪院(鳳来寺ではなく医徳寺?)、説②黒屋氏が保護して医王院(源頼朝も匿ったと言うが建立は1658年?)、説③失念(取材メモ紛失)の3説がある。

「左馬助討死以後氏眞より万千代君ヲ出シ申様ニと左馬助後家所江申来ル出家致由申而終ニ出シ不申候左馬助伯父出家浄土寺江本内ニ落シ申候永禄十丁卯氏眞甲州信玄駿州を押シ遠州懸川之城主朝比奈備中守所江被落依之遠州騒動夥敷其節浄土寺之住寺并珠源ト申小僧おく殿と申乳母万千代君ヲ奉抱三州鳳来寺江落行被申候遠州事静り候以後万千代君之御母儀様二者松下源太郎江嫁申候依之万千代君二者鳳来寺ゟ源太郎所江御越御十四歳迄松下源太郎養育仕候」(『直政公御一代記』)

【大意】 新野親矩が討死したので、「万千代(井伊直政の幼名)を差し出すように」と今川氏真が新野親矩の後家(奥山朝利の妹)に言ってきたが、「万千代は出家しました」と言って、差し出さなかった。そして、万千代は、新野親矩の伯父が出家して住職となっていた浄土寺へ逃げた。永禄10年(1567)、今川氏真は、甲斐国の武田信玄が、駿河国に侵攻してきたので、掛川城主・朝比奈泰朝を頼って掛川城に入った。これにより、「遠州騒動」と呼ばれる混乱状態が終わった。浄土寺の住職、珠源(守源)という小僧、おく殿という乳母が、万千代を抱いて、三河国の鳳来寺へ落ちていたが、「遠州騒動」が終わって静かになったので、万千代の母(奥山朝利の娘・ひよ)は、松下清景と再婚し、万千代は、鳳来寺から松下清景のところへ来て、14歳になるまで松下清景が養育した。

井伊直虎にとって、小野政次の存在は大きかったようです。
奸臣・小野政次に井伊谷を渡してなるものかと立ち上がり、忠臣・小野政次とは、碁を打ちながら策を練った。
ライバルも協力者もいない、ひとりぼっちの状態では、残された碁石を見て、次の一手(策)を考えようとしても思い浮かばない。そして、「もう十分だ。終わりにしよう。よくここまで頑張った」と、南渓和尚に碁石を取り上げられた。

──井伊家最後の日

どうも南渓和尚は、「面白く無いのぉ」と、井伊直虎を諦め、虎松に興味を示し始めた模様。今回が最終回であってもおかしくはないけど、ドラマはこの先、14回も続くのであった。

(つづく)

 

今回の言葉 「二者択一」

人生、大小の差はあれ、「選択」を求められることが多い。「生きるとは、選択することだ」とすら思われる。

選ぶ道は多いこともあるが、数の上では、圧倒的に、YesかNoか、右か左かという「二者択一」が多い。そして、「二兎を追う者は一兎をも得ず」であって、どちらかを選ばなければならない。
今回、井伊直虎の選択は、「隠れ里の殿として井伊家再興を目指すか、庶民になって女の(自分の)幸せを得るか」であり、井伊直虎は後者を選んだ。
井伊直虎が虎松に示したのは、「僧侶になるか、松下家の養子になるか」であったが、「答えは1つとは限らない」が口癖の南渓和尚には、別の道も見えていたようである。

中3の時、「部活を取るか、受験勉強を取るか」「今の自分にとって何が重要か? 部活か? 受験勉強か?」と悩んだ方が多いと思う。凡人ゆえの悩み、悲しみである。虎松のように優秀であれば、
──文武両道
部活も受験勉強も難なくこなし、「井伊家中興」を成し遂げられる。

ただし、「凡人だから」と諦めるのは良くない。「日本人みたいな胴長・短足では100mを9秒台で走ることは不可能だ」と諦めてはならない。努力すればなんとなると、9月9日、桐生選手が教えてくれた。見習いたい。
──為せば成る。為さねば成らぬ、何事も。成らぬは人の為さぬなりけり。(by 上杉鷹山)

夢を捨てたくない。
夢を持っているうちは頑張れると思う。
欲を言えば、ひとりぼっちじゃなく、ライバルや応援者や支援者がいた方が頑張りやすいのだが。

 

キーワード:松下清景

今回の新登場は、北条氏康(鶴田忍さん)、松下清景(古舘寛治さん)、於大の方(栗原小巻さん)と侍女・房(佐藤玲さん)です。北条氏康は死んじゃいました。

──死におった♪ 死におった♪(by 武田信玄)

※雑誌のインタビュー記事に、阿波踊り風オリジナルダンスが撮影スタッフに喜ばれたと書いてあったので、どんな踊りかと思って楽しみにしていたら、これですかぁ! ミュージカル調で秘書を馬鹿にする女性政治家並みですな。「ミュージカル調で」とは言わないが、ちょっと軽すぎるかな。もっと格調高く、当世風(幸若舞風)に演出して欲しかったな。(史実では、武田信玄は享年53で、余生は残り1年半。武田信玄が死んだ時、「死におった~♪ 信玄坊主が死におった~♪」と小躍りするのは誰か? 織田信長が「人間53年」と幸若舞「敦盛」を踊りそう♪)

松下清景は松下常慶の兄です。虎松の生母・奥山ひよ(ドラマではしの)と再婚するも、前妻との間にも、ひよとの間にも男子は生まれなかったようですね。(井伊直親の家老だったというから、高齢だった?)

松下屋敷付近の浜松城下垂口

松下清景が住んでいた松下屋敷は、「下垂(霜垂)」(地名)の侍屋敷群の中の1軒のようです。浜松城公園の案内板「徳川家康在城時の浜松城と城下町」(下の写真)の下垂には、「松下清景」屋敷ではなく、「松下之綱」屋敷となっています。松下之綱は、松下清景の親戚で、「頭陀寺」(地名)に住んでいたと思うのですが…。

「徳川家康在城時の浜松城と城下町」(浜松城公園)

 

キーワード:於大の方

「於大の方」は、徳川家康の生母です。
徳川家康の実父・松平広忠が今川義元と手を組んだので、離縁され、実家・水野氏の居城・刈谷城(愛知県刈谷市城町)に返され、刈谷城近くの「椎の木屋敷」(刈谷市銀座)に住んだそうです。(異説あり)

於大の方の像と肖像画(刈谷市郷土資料館)

※椎の木屋敷跡の「於大の方」像は、浜松の方を向くように設置されています。
※「於大の方」の肖像画「絹本著色伝通院画像」(愛知県指定文化財)は、永禄3年(1560)に、母・華陽院の死を悼み、母(徳川家康の祖母)の像と共に描かせたもので、於大の方縁の楞厳寺(刈谷市天王町)に納められました。

さて、岡崎城は伏魔殿でした。
天正6年(1578)の段階で、
・於大の方(51歳)=徳川家康の実母。水野氏。
・築山殿(37歳)=今川の姫(今川義元の姪)
・信康(20歳)=築山殿の子。徳川家康の長男。
・徳姫(20歳)=信康の妻。織田信長の娘。
※徳川家康は36歳、織田信長は44歳。
がいました。築山殿にとって、息子の嫁・徳姫は、憎き織田信長の娘だから好きになれないし、於大の方は息子・松平康俊(注)の件もあって、築山殿をよく思っていない。

(注)松平康俊(於大の方の子・徳川家康の異父弟):徳川家康は、駿府に残した妻(瀬名姫。後の築山殿)、長男(竹千代。後の信康)、長女(亀姫)と鵜殿氏長・氏次兄弟との人質交換をしたかったが、1人足りなかったので、於大の方に頼んで、松平康俊を交換要員に加えたという。松平康俊は駿府に居たが、駿府が武田信玄に奪われると、松平康俊は人質として甲斐に連行された。元亀元年(1570年)冬、徳川家康の手配で脱出したが、雪道を歩いたので、両足の指を凍傷で失ってしまったという。この事を知って、於大の方は「松平康俊が可愛そう」と言い、これ以降、実子を人質に出すことを拒み続けた(ので、結城秀康が人質要員になった)。於大の方の論理は、人質交換の時、鵜殿兄弟と長男・長女の交換をし、今川の瀬名姫は(自分がされたように)離縁して、駿府に置いておけば、松平康俊は足の指を失わずに済んだというものであって、瀬名姫が憎いのである。ちなみに、松平康俊の墓は、西来院の築山殿の横にあるが、「墓石には松平康俊の墓と刻んだが、埋められているのは松平康俊ではなく、築山殿の子・信康(信康は反逆者であり、立派な墓を建てられなかったので、松平康俊の名を借りた)」とする伝承もある。墓に埋められてるのはダリ? いや、ダレ?

徳川家康としては、伏魔殿(岡崎城)にいたら仕事に専念出来ないから、家族とは別居し、仕事場(浜松城)へ移動した。最愛の女性・築山殿よりも仕事優先ってことかな? (家族と離れての単身赴任は避けたいものだけど…。)

──「男は、女より、仕事が大事」なのか?

「時代劇は、その時代の人を使った現代劇」ということで、今回は最近のニュース(女性政治家の不倫とか、ダリの娘と名乗る人物が現れてのDNA鑑定とか)を取り入れてみました。「人の噂も75日」と申します。75日後にこの記事を読み返したら、元ネタを忘れていそう。

でも、世の中、忘れちゃいけないものがある。たとえば、忠臣・小野政次の死とか。虎松は、父の死を12年間忘れていなかったので、井伊谷へ帰り、そこから大逆転のストーリーが始まることになった。

さて、次回、とわ(井伊直虎)は、男と共に堺へ行ってしまうのか?
燃える井伊谷を見て、とわ(井伊直虎)は何思う?
井伊谷を焼き尽くした火は復活の火となるのか?
神は、とわ(井伊直虎)を再び戦場へと誘うのか?

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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