大河ドラマの世界を史実で深堀り!

大河マニアックス

テーマ展「浜松の林業の道具」開催中(浜松市博物館)

井伊家を訪ねて

材木盗めば当人死罪 遠州林業は「天竜杉&檜」で立つ

罪と罰──犯罪者を逮捕したら罰を与える。
──して、どのような罰を与えたら、被害者が納得する?

最も単純明快な解答は「目には目を、歯には歯を」(『ハンムラビ法典』 )であろう。人殺しには死刑。木を伐った者には、伐った木を返させて、苗を植えさせる、といったところであろうか。

──しかし、世の中、そう単純ではない。

木曽の檜(ヒノキ)の場合は、「目には目を」ではなく、「木には人を」であり、「木一本、首一つ。枝一本、腕一つ」とされていた。つまり、檜の盗伐は死罪であった。
小野政次は人を斬ったが、「正当防衛だ」と井伊直親が主張して助かった。「検地の時に助けてもらったお返し」だという。

その井伊直親も、彼の父の井伊直満も、弁明の余地無く、今川氏に誅殺された。井伊直虎の身近には、人を殺しても死刑にならなかった人もいれば、人を殺していないのに死刑になった人もいて、井伊直虎は、世の中というものは「目には目を」という単純な世界ではないこと、不合理がまかり通る世界であることを感じ取っていたはずである。

以上は、戦場での大量殺人が罪に問われないどころか賞賛さえされた狂乱の戦国時代での話である。

現在の日本はどうか。

判例により、「1人殺せば無期懲役、2人以上殺せば死刑」だという。そして、「無期懲役」といっても、模範囚であれば20年弱で釈放されるとのこと。「殺人経験者を釈放すれば、今度は愛する人が殺される可能性が生まれるから」と「1人でも殺したら死刑を」と主張する人がいる反面、「多くの人を殺した殺人犯であっても、死刑はよくない」と主張する人もいる。

人を裁けるのは神のみであり、人が人を裁く事は、昔も今も難しい。

──あの男が虎松(井伊直政)をさらったりすればどうする? 瀬戸村に押入ればどうする? 殿が今、守らねばならぬものは何だ? (by 小野政次)

「旅の男」(龍雲丸)は、「南朝の宗良親王の埋蔵金」を探しに来て、「井伊直虎」という埋蔵金以上のお宝を見つけてしまった。用心しないといけないのは、盗賊に逆恨みされかねないのが、虎松でも、瀬戸村の人でもなく、直虎だぞ! そこに気づけ! 小野政次にしても「次に狙われるのはお前だから心配なんだ」とはっきり言わないと、鈍感な井伊直虎には伝わらないぞ!

※元亀3年の「三方ヶ原の戦い」後、死期を悟った武田信玄が、東林寺の裏山とか、駿河姫(宗良親王の妻)のお墓がある金地院に軍資金を埋めたという話はよく聞くが、南朝の宗良親王の埋蔵金の話は聞いたことがない。

宗良親王は、井伊谷へ延元元/建武3年(1336)と延元3/暦応元年(1338)の2回来られたが、「財宝を持って来た」という話は聞いたことがない。

1回目は支援の要請が目的で、2回目は井伊谷へ来る予定ではなく、船が台風で難破して白羽(しろわ)に漂着したので、井伊谷へ向かったのである。井伊谷にたどり着いた時には、財宝は勿論、食料すら持っておられなかった。

宗良親王漂着地(静岡県浜松市南区白羽町)

 

【第19話 「罪と罰」 あらすじ 】 

近藤領や井伊領の木が無断で伐採された。原生林ではない。苗を植え、間引きし、節が出来ぬように枝打ちをして育てられた人工林の木である。売るための盗木であろう。

祖先が守ってきた山の、我が子のように手塩にかけて育てた木が、数多く盗まれたのである。関係者の怒りや悲しみは相当なものであろう。「犯人は(盗んだのが建築資材だけに)死罪だぁ!」と、必死に捜索すると・・・捕らえられたのは、「旅の男」(後に龍雲丸という名の「盗賊の頭」であることが判明)であった。

※ロケ地は、井伊領(浜松市)と近藤領(新城市)の境の宇利峠ではなく、茨城県笠間市の佐白山の笠間城址石倉周辺である。

井伊直虎にとって「旅の男、盗人」(龍雲丸)は、人探しの時に「買えばいい」とか、虎松が自信を失った時に「何か1つ得意なものを作ればいい」と的確なアドバイスしてくれた人なので、悪い人には思えず、殺す気にはなれない。それで、「苦役を科す」ことにしたが、家老・小野政次は、断固として「死罪」を主張した。

──殿は単に知り合いの血を見るのがお嫌いなだけだ。(by 小野政次)

リーダーが最もやってはいけない事は「依怙贔屓」である。そして、1度依怙贔屓をすると、「あの人は助けたのに、なぜ同じことした私は助けてくれないのか?」と次々と主張されて秩序が乱れ、収拾がつかなくなる。

蟻の穴から堤も崩れるという。蟻(「ちっぽけな盗人一人の命」)を奪っておかないと、堤(社会の秩序)が崩れるのである。

小野政次が言う「知り合いの血を見る」というのは、最愛の父・井伊直盛や、最愛の人・井伊直親の首や死体を見たことを指すのであろうが、「旅の男、盗人」(龍雲丸)はそれほどの「知り合い」ではない。(もしかして政次は井伊直虎の恋人だと思ってる?)

井伊直虎は、名前すら知らない盗人について、罰を与える必要はあるが、悪い人には思えず、判決が「死罪」では重すぎると思っているだけである。小野政次がムキになるって、らしくない。やはり小野政次は嫉妬してるのか?

私が井伊直虎であれば、小野政次を連れて「旅の男、盗賊」(龍雲丸)に面会し、「なぜ盗賊になったのか」とか、「なぜ木を盗んだのか」と聞くよ。その理由が井伊家の政治の欠陥であるならば、政治改革のヒントになる。その欠陥に気づかずに今の政治を続けたら、第二、第三の「盗賊」(龍雲丸)を生み出すことになる。

犯罪者の処分は楽だ。ただ、犯罪を犯した動機を知り、同じ犯罪の出現を抑止する手立てを考えることも領主としては重要だよ。(再び木を盗まれないように、中野直之と絵図を見ながら見張りの配置を考えていたのは領主らしい。)

──木を盗むのは、木が高く売れるからであり、木の需要が増えて木材価格が上がっているのは戦争のせいなのか?

さて、井伊直虎は「死刑反対」の根拠として、座右の銘の「戦わずして勝つ」を、

──裏を返せば、命のやり取りしでしか物事を収められぬというのは、決して上等ではないということじゃ。(by 井伊直虎)

と超々拡大解釈して適用し、小野政次を説き伏せようとした。

小野政次はといえば、井伊直虎の「殺さず、苦役を科す」に賛同してその場を収め、近藤康用に「旅の男、盗人」(龍雲丸)を渡そうとした。これは、兵法の「敵を欺くには、まず味方から」の適用ということか。兵法の使い方は、小野政次の方が一枚も二枚も上手である。

いずれにせよ、科人を逃したことは「危険」である。

さて、今後、井伊直虎と「旅の男、盗人」(龍雲丸)の仲は、どうなることやら。「旅の男、盗人」(龍雲丸)がオリジナルキャラであるだけに、史書を読んでも先は見えない。

(つづく)

 

今回の禅語 「行雲流水(こううんりゅうすい)」

「行雲流水」とは、空を行く雲や、川を流れる水のように、何事にも執着することなく行動することをいう。
──まこと、斯様な私に、果たして井伊を守りきり、虎松に渡すことが出来るものかと(by 井伊直虎)

井伊直虎の法名を「月船祐円(げっせんゆうえん)」という。

臨済宗では、「月船」を「道号」、「祐円」を「戒名」と言い、「道号」には、その人の生前の徳や業績などを表すのに最も適した言葉が使われたり、故人の悟りの内容や願いを表す言葉(二文字目を山・岳・雲にするのは、徳や覚りが高いことの表現)が使われたりする。

──「道号」とは、故人の生き様、あるいは、願いである。

井伊直虎の場合、「月」は「航路を仄かに照らしてくれる満月の優しさ」であり、「船」は「港(井伊直親)と港(井伊直政)を繋ぐ船」の意と解され、このドラマは、「井伊直親からバトンを受け取った井伊直虎が、井伊直政へどうやってバトンを繋いだか」という「バトンタッチ」がテーマになっている。(ちなみに、私は「月船」で「月」であり、「女性宗主」(「日」は男性宗主)の意と考えている。)

流れる雲を追いかけ、川の流れに身を任す旅をしたい。

さて、井伊直虎は、井伊直親の現身(うつしみ)として、「井伊を守りきり、虎松に渡すこと」に執着している。簡単に言えば、「家」に執着している。そこに自分を「銭の犬」と言うほど「銭」に執着する瀬戸方久が家臣に加わった。この二人には似たところがある。ところが、新たに登場した「旅の男、盗人」(龍雲丸)は、「行雲流水」の人である。

──今はその許婚の息子に井伊を無事引き継ぐべく、走り回っておられるということじゃ。(by 傑山宗俊

──「家」なんざ、そこまでして守るものなんですかねぇ。(by 「盗人」(龍雲丸))

何事にも囚われない自由人と接触して、井伊直虎にどのような化学変化が起こるのか、今後の展開が楽しみである。

ちなみに、「龍雲丸」の「龍雲」は、「龍の形をした瑞雲」で、目出度い事が起こる前兆とされる。また、「雲水(うんすい)」とは、行く雲や流れる水のように、一箇所に留まらず、諸国を行脚(あんぎゃ)する修行僧のことで、この呼び名は、この「行雲流水」に由来する。

──「旅の男」(龍雲丸)のように、自由に旅をしたい。

「宛のない旅」の気分で「羨ましい、私もやりたい」と思った次の瞬間、「食事はどうするんだろう?」「餓死しないだろうか?」と思ってしまう私は、「食」や「生」に執着しているのであろう。(「衣食住」のうち、「住」に執着している人は「今晩、どこで寝るんだろう?」、「衣」に執着している人は「汗臭くなった服をどこで洗うんだろう? 着替えは?」と思うであろ う。)「旅をする」という行動に移す前に、まずは「執着心」を消し去る必要がありそうである。

 

その後の綿花栽培と鉄砲製作

『遠州往来』に「諸国え知れし国の珍物(全国的に有名な遠江国の特産物)・・・金指木綿布・・・井伊谷半紙・・・笠井・宮・金指・森・山梨等の市場に出物其品珍物奉棒当将軍当国御城下御繁栄目出度申納候」とあります。金指は瀬戸村の近くであり、どうやら瀬戸村の綿花栽培は隆盛したようです。

紡績の道具と織機(浜松市博物館)

井伊谷の半紙の紙漉が始まった時期は分かっていませんが、戦国時代からであれば、農民が「手習いをしたい」と言い出した時、半紙であれば用意できたのかなと思います。(ドラマでも、今川氏に送った井伊直虎の助命嘆願書は、半紙を貼り合わせたような巻物でしたね。)

種子島(鉄砲)製作については、今川家に鍛冶職を付けて売り渡した(丸投げした)ので、あとは、今川任せかと思ったら、なぜか瀬戸方久が急かされています。

近藤康用は、流れ者は犯罪者のようなことを言っていましたが、綿花栽培の成功は、三河国から経験者の又吉が流れてきたからです。

又吉は、国を離れ(リセットし)、瀬戸での再スタートに意欲を見せています。鉄砲製作についても、根来や国友から尾栓ネジの製作の経験者をひっぱってこれないものでしょうかか? 労働条件に不満を感じている者に、好条件を突きつけて。

──駿府の商いは、友野や松木が仕切っておるのだな。(by 小野政次)

瀬戸方久は、駿府でも商いを展開したいようですが、「座」の存在がそれを阻んでいるようです。

駿府の豪商と言えば、友野家、松木家ですね。相棒の『日本史広辞典』(山川出版社)に「座」「友野家」「松木家」について、次のようにあります。

ざ【座】 中世、商人・職人・芸能民らが結成した同業者組織。平安後期に出現し、中世を通じて存在した。起源は荘園公領制成立期に供御人(くごにん)・神人(じにん)・寄人(よりうど)などの称号を獲得して朝廷や寺社の保護下に入った職能民の組織にあるとみられる。一〇九二年(寛治六)頃山門青蓮院を本所とする山城の八瀬(やせ)座が初見。座には兄部(このこうべ)・座頭などとよばれる指導者が存在し、入座に制限を設けるなど対外的にはきびしい閉鎖性を示したが、構成員相互の関係は概して平等であった。貴族や寺社を本所とし、一定の奉仕や貢納の代償として課税の免除や営業独占権を認められたが、戦国期に入ると特定の本所をもたない、近世の仲間に似た自立的なものも出現した。独占権をもつ座の存在は価格の高騰や流通の停滞を招いたため、豊臣政権によって多くが撤廃された。京都の三条釜座など江戸時代まで続いたものもある。

とものけ【友野家】 戦国期~江戸時代の豪商。戦国期には駿府今宿で友野座の棟梁と商人頭、江戸時代には駿府町年寄を勤めた。その活動は戦国大名今川義元時代から認められ、駿河国内の木綿商人から木綿役を徴収する権利などが与えられた。今川氏に対しては今宿から京都に向けて搬出される荷物に駄別三貫文の路銭の徴収、許可証の交付などの奉公を行った。徳川家康の駿府入りの際、友野次郎右衛門宗善は町割を助け、以降駿府町年寄として町政を担当した。

まつきけ【松木家】 戦国期の駿府(現、静岡市)の有力商人。友野家と並ぶ御用商人として今川氏、武田氏に相次いで仕えた。今川氏のもとでは京都との通信・輸送業務に従事して功があり、諸役免除・徳政免除などさまざまな特権を与えられた。商業をはじめ酒造業や金融業など多角的な経営を行い、集積した土地もかなりの広さに及んだ。近世には駿府の町年寄として町政にたずさわり、鉱山開発にも意欲を示した。

犬(瀬戸方久)が猿(木下藤吉郎)と共に「楽市令」を出した織田信長に仕えたら、瀬戸方久はどうなったでしょうか?
教科書に載るような豪商になったか?
あるいは、油売りからスタートしたという斎藤道三や、針売りからスタートしたという木下藤吉郎(豊臣秀吉)のような戦国大名になって、

豊臣秀吉と天下人争いをしたか?

そういう「たら」「れば」の歴史も見てみたいものです。

 

キーワード:遠州林業

現在、「遠州林業」といえば「天竜材」です。浜松市天竜区でとれる木材で「赤身」(心材・幹の中心の赤い部分)が多く、堅く、腐りにくいのが特徴。中でも「天竜杉」と「天竜ヒノキ」はブランド品です。

どちらも粘り強さが特徴で、油分が多いため、鉋がけするだけで、艶が出る逸品(「逸材」と言いたいところだが、それでは違う意味になってしまう)です。

「浜松の林業の歴史」(浜松市博物館テーマ展「浜松の林業の道具」)

天竜川中流域では、林業は江戸時代以来の主要産業である。

江戸時代初期の慶長13年(1608)には、木材を流し送るために信州諏訪から河口の掛塚まで、天竜川の河床が整備された。当時、南信州から流されていた本材は榑木(クレキ)と言って、丸太をミカンのように割って芯を抜き、断面台形に成形したもので、永さ(ママ。「長さ」でしょう)は五尺から三尺と定められていた 幕府へ納める年貢として流されていたもの で、榑木の管流し(クダナガシ)といった。

流された榑木は岸辺に引っかかってしまうものもある。これを押し流す役を川狩(カワカリ)といい、信州から佐久間さらに下流の村々に命じられていた。

もしこれを盗み取るようなことがあれば、当人は死罪、五人組は牢屋申し付けると高札が出されていた。

元禄9年(1696)、山住神社(天竜区水窪町)の社有林の植林が行なわれ、この頃から天竜川水系の山々の植林が行々われていたことがわかる。さらに享保10年(1725)、榑木の管流しは廃止され、イカダに土ろ木材の流送が始まった。
18世紀半ばには、中泉代官所が天竜川筋の材々に植林を奨励する御用書を下した。天明5年(1785)の文書こよると、川合村(天竜区佐久間町)にイカダを組むドバがあり、木材の売買が行なわれていたこともうかがえる。

天竜川中流域の本格的な育成林業の始まりは、明治19年(1887(ママ。1886))から行なわれた金原明善による瀬尻(天竜区龍山町)の官有林の植林事業だ。そしてそれと並行して、金原明善自身の資金で買い入れた山林、金原林での植林も進められた。植林の目的は、暴れ天竜の治水のための治山であった。そして林業家に対し植林の思想を啓蒙し、大規模な人工造林の可能性と、効率的な経営を示そうとしたのだといわれる。

明治28年(1895)、「浦川村山林組合」と「山香村山林組合」の設立(天竜区佐久間町)に始まり、明治30年前後、村々に山林組合が結成された.
明治32年(1899)、佐久間村(天竜区佐久間町)に、天竜川中流域の木材を原料とする「王子製紙中部工場」が設立される。
明治33年(1900)、「重要物産同業組合法」が制定される。
明治34年(1901)、「天竜川材木商同業組合」が木材流通の円滑を目的として設立された。
明治40年(1907)までに天竜川中下流域で開業された製材工場は21を数えた。

(浜松市博物館テーマ展「浜松の林業の道具」掲示物)

以上、杉と檜が主体の「天竜美林」(「吉野美林」(奈良県)、「尾鷲美林」(三重県)と共に「日本三大美林」)と呼ばれる現在の姿は、「暴れ天竜」と呼ばれた天竜川の洪水被害を防ぐために、明治19年(1886)から、金原明善が植林(いわゆる「緑のダム」の建設)を始めた結果であり、戦国時代や江戸時代の姿ではありません。

林業が発達したのは江戸時代のことであり、戦国時代の林業の様子はよく分かりませんが、江戸時代に出された「山法度」には、松、杉、檜、楠、樅、栃、欅、山桃などは「御制木」であって、無闇矢鱈に伐ってはならないとか、山に入るには「山札」(許可証)が必要で、「山廻り」が見張っていたとあります。

また、伐った木の売却先は、領主・近藤氏(金指の近藤宗家)で、近藤氏は、気賀の港から船で木を消費地へ運んで売って儲けていたそうです。

 

キーワード:山論

──お婆さんは川へ洗濯に、お爺さんは山へ柴刈りに

生活に川と山は欠かせません。もちろん、どの川で洗濯するか、どの山で柴を刈るかは決められていて、他の川を使ったら「水論」、他の山を使ったら「山論」という訴訟問題に発展します。

これまでの「水田中心史観」のドラマで「水論」(すいろん。「用水相論」とも。水(川、井戸)の利用や管理を巡る紛争・訴訟問題)が取り上げられることはありましたが、「山論」(さんろん。「野論」とも。山の利用や管理を巡る紛争・訴訟問題)はあまり取り上げられなかったようです。

「水田中心史観批判」 では、山論を水論と同程度に重要な問題だとし ます。

相棒の『日本史広辞典』(山川出版社)には「山論」について、次のようにあります。

さんろん【山論】 野論とも。山野の境界や利用をめぐる訴訟。古代~中世に、荘園領主は杣(そま)・立山を設定し、他領民の立入りを禁じたり、山野利用のための山手納入を強制したため、荘園の間などでおきた。中世後期、惣村が惣持(そうもち)山や入会(いりあい)山の利用規定を定めているが、これは村落内部で山野用益利用に対立が生じていたことを示す。近世、上層農民の山野独占に対し、下層農民が用益権を求めて訴訟をおこした。山野の境界などを村落間で争い、数多くの裁許絵図も作られた。

《井伊谷村と三岳村の山論 ~近藤秀用と昊天和尚~》

元和5年(1619)1月22日、井伊谷村と三岳村の間に三岳山の使用を巡る「山論」が起き、同年2月7日、三岳村の代表3名が駿府に訴え、井伊谷村の代表13人が駿府へ呼び出されました。

裁決は論所の見分後ということになり、同年4月7日、浜松居住の遠州代官・戸塚半弥、小林長左衛門、小浦次左衛門の3人がやって来て、山を検分し、絵図を作成して戻ります。

その後、三岳・井伊谷両村の代表が駿府に呼ばれ、
「双方より情を入れよ」(互いに監視し合え。)
「端山(はやま。ここでは、三岳山の麓にある低山)は入会とする」
と裁決が下されました。

※なお「入会」について、相棒の『日本史広辞典』(山川出版社)には次のようにあります。

いりあい【入会】 入相・入合とも。一定の場所を複数の家や村が共同で利用し、利益を得ること。山野や海面の利用、また用水路の利用などに入会関係が生じた。近世では山野の入会は、農民が刈敷・秣(まぐさ)・薪や建築用材・萱などを採取したもので、村の農民全員が入り会う村中入会と複数の村が入り会う村々入会があった。農業生産の拡大にともない入会をめぐる争論が頻発した。一方、商業的農業の発達によって金肥が導入され、薪が商品化されるなどによって、入会地の利用形態が変化し、分割所持される場合も生じた。入会地は、地租改正によって官有地とされた場合が多かった、入会関係は現在でも残存している。

※【閑話】 徳川家康と武田信玄の「三方ヶ原の戦い」で有名な「三方ヶ原」は、和地村、祝田村、都田村の3村の入会地であったため、「三方が村の原」が転じて「三方ヶ原」となったという。敗戦後、徳川家康は、「味方(織田信長の援軍)が多ければ勝てたのに」と「味方原」と表記を変えさせたが、定着しなかった。

山論の判決直後の元和5年(1619)9月27日、井伊谷は近藤秀用の領地となりました。

「寛永元年子ノ二月、石見様、いのやへ御越披成候。其砌、金指兵蔵様九郎兵衛取持を以、三竹村の百姓ニ、先年之いのやとの山公事之儀ヲ発立、石見様へ三竹之ものニ目安を上ケさせ申候ニ付而、いのやへ御せんさくつよく有之上、いのやノもの申様ニ御地頭をあい手に致公事仕候事ハ成かたく、先年三竹と山公事致候上、石見様、いのやノものヲ御にくみ披成、其上、去年亥年、石見様御意ニ而候と申、三竹よりいのやへ山境之証文なと書渡し申候。それニもいのやノものハ少もかまいなく、其分ニ致置候処ニ、又々哉石見様御前ニ而三竹と先年之山公事致候事ハ中々良罷成間敷候と申、子ノ二月十四日ニ与三左衛門、与三兵衛、惣兵衛、六郎三、藤八、清次郎、此等六人龍潭寺へ山林仕候処ニ、右之面々ノ実子ヲとらへ、篭舎仰付候。其上、龍潭寺色々詫言被成候へ共、公事ノ埒ハ明不申候。弥々いのやノもの御にくみ申候て、八年龍潭寺へ在寺仕候。
其間ニ、先年、三竹とかま取相論なと致候ものを一々書立を以、三竹之ものあるとあらゆる事共、片ロニて石見様へ申上候ニ付、寛永弐年丑ノ年、惣兵衛内ノもの・左門六、又、与三左衛門内者・彦市郎、此二人ノ者共、小田原へ御よひ下候て、二人なから成敗被成、それニ而も御不足ニ候哉覧。
寛永五年辰十月廿七日ニいのやニおゐで与三左衛門内もの・五肋ヲせいはい被成候。か様ニ赦免無之候ておしこめられ申候。
寛永八年未二月六日ニ石見様、御遠行以後近藤御一紋中御談合を以、其年之夏中ニ山林之もの、御免被成候事。」(中井直頼『中井家日記』)

【現代語訳】寛永元年(1624)2月24日、三岳村は、近藤秀用家臣・小野兵蔵(小野政次(長男)の弟(六男))を通して近藤秀用に三岳山の扱いで井伊谷村を非難する書状を提出しました。近藤秀用が井伊谷村の村人の代表6人(与三左衛門、与三兵衛、惣兵衛、六郎三、藤八、清次郎)を呼び出して厳しく当たると、代表者は反論しました。これに対し、「領主に口答えするな」と逆ギレされ、逮捕されそうになったので、6人は龍潭寺へ「山林仕り候」(逃げ込みました)。近藤秀用は、この時から、「いのやノもの御にくみ申候」(井伊谷村の村民を憎み続けました)。

◆「山林=走入、駆入=逃げ込む」ということ

井伊直政に井伊領が戻された時、井伊直政は、徳川家康にお願いして「龍潭寺の寺領を井伊直盛時代の寺領に戻して安堵する」という寄進状形式の安堵状「遠州井伊谷龍潭寺之事」を書いてもらいましたが、そこには、
「悪黨以下号山林走入之處、住持尓無其届、於寺中不可成敗事」(犯罪者が「龍潭寺は山林(アジール、聖域、避難所)だ」と称して龍潭寺に駆け込んだ場合、住職にその届無しに、寺中で成敗してはならない。)
とあります。

※「遠州井伊谷龍潭寺之事」:藤原家康名義で出された寄進状形式の安堵状。『井伊家伝記』にその全文が掲載されている。現存しないが、写しが龍潭寺に保管されている。

※この安堵状の「山林」は、「アジール」と同義である。第14話に登場した「逃散」(ちょうさん・農民が耕作地を捨てて逃げるという抗議行動)の逃亡先は、アジールである山林が多かったため、「逃散する」を「山林に交わる」「山野に入る」とも表現した。また、「逃散」にあたっては、家や耕作地の周囲、さらには村の入口を篠や柴で覆い、その場所を「山林不入地」と号する「篠を引く」「柴を引く」という抗議活動も同時に行われた。

※「走入」「駆入」とは、「或る所領内の犯科人及び下人が領主の権力から逃れて寺院(又は地頭)に保護を求めて走入り、寺院(又は地頭)がそれを保護すること」(田中久夫氏「戰國時代に於ける科人及び下人の社寺への走入」(『歴史地理』第76巻第2号)による定義)である。

井伊直虎は地頭として龍雲丸を保護(判決が下されるまでの入牢)し、龍潭寺(当時の住職は昊天和尚)はアジール(無縁所)として駆け込んだ中井与三左衛門ら6人を保護したともいえる。
ただし、戦国時代、龍潭寺へ逃げ込むと、住職は、今川氏に届け出た上で成敗したので、完全なアジール(聖域、避難所)とは言えなかった。江戸時代であっても、傷害と過失致死の犯罪者のみが駆け込め、龍潭寺では賠償についての話し合いがされたという。

龍潭寺住職の「長刀昊天」こと昊天宗建和尚は、近藤秀用とは共に井伊家家臣として戦ったことのある戦友でしたので、近藤秀用は、昊天和尚に免じて6人を捕らえるのは断念しましたが、腹いせに彼らの妻子を捕らえて「篭舎仰せ付けられ候」(牢に入れました)。
昊天和尚が6人を連れて、2度、陣屋の近藤秀用へ詫びに行きましたが許されませんでした。しかし、妻子は釈放されました。

寛永2年(1625)、小田原城番として小田原城に在番していた近藤秀用は、「かま取相論」(鎌を取られた)という「片ロにて」(三岳村の主張だけ聞いて)、左門六(惣兵衛家の下人)と彦市郎(中井与三左衛門家の下人)の2人を小田原へ呼び出して成敗しました。

寛永5年(1628)10月27日、近藤秀用の家来が、五助(中井与三左衛門家の下人)を井伊谷(江戸時代、処刑場は「蟹淵」から「首切田」へ移っていた)で成敗しました。これは近藤秀用の赦免を伝える使者の「待った、待った」の叫び声を、刑吏が「まだか、まだか」と聞き誤っての処刑であり、「待った、待った」と馬を走らせ、坂を下りながら叫んだ坂は、「待った坂」(馬坂)と名付けられました。五助を供養する祠が「首切田」にたてられたそうですが、現在、工場となり、確認できていません。(工場の敷地内にあるそうです。)

旧・鳳来寺道の「待った坂」(馬坂)

近藤秀用の墓(寛永8年)。「妙心昊天」とある。

寛永8年(1631)2月6日、近藤秀用が亡くなると、戦友の昊天宗建と和解出来なかったことを悔いていた近藤秀用の遺言により、昊天和尚が葬儀を行いました。

※上の写真は近藤秀用の墓の写真である。なお、現在、近藤秀用の墓がある近藤家墓所は写真撮影どころか立入禁止になっている。

寛永8年(1631)9月、近藤秀用の遺族(三岳村知行主の金指近藤一門と、井伊谷知行主の井伊谷近藤一門)の協議の結果、「近藤秀用の死による恩赦」として、龍潭寺に8年間も匿われていた村人は許され、帰宅したそうです。

《井伊谷と花平の山論》

寛文10年(1670)3月、井伊谷村(領主は井伊谷近藤の近藤用将)の北岡の人たちが草刈りをしていると、突然、花平村(領主は花平近藤の近藤用久)の作兵衛という人がやってきて、

「ここは花平だ」

と言い、鎌を取り上げ、

「ここが村境だ」

と「近藤用久領分」という立て札をたてて帰っていったそうです。

訴訟問題となり、勿論、作兵衛が敗訴し、都田村に追放されたそうです。この時、約50年前の元和5年(1619)の山論の時に描いておいた絵図が役に立ったそうです。

しかし、延宝8年(1680)に山論が再発しました。それで、絵図を描き直し、翌・延宝9年(1681)、11年かかった山論は決着し、その記念に秋葉神社が三岳山の端山である「ぞろ石山」に建てられましたが、明治の一村一社により、秋葉神社は二宮神社に合祀されました。

《川名と滝沢の山論(山中の村境)》

三岳山の東の谷川が川名と滝沢の境です。川が境というのは分かり易いのですが、やっかいなことに川筋が変わって山論となり、川名が負けました。

「負けたけど、この不動尊は川名で祀っているものだから」

と不動尊像を背負って川名へ持ち帰ったそうです。これを「負け不動」といい、「川名のひよんどり」で有名な福満寺に奉納されました。

修復したばかりで綺麗な川名の「負け不動」(福満寺)

さて、次回(第20回)、いよいよ南渓和尚と高瀬の正体が明かされます。

なお、「旅の男」(龍雲丸)の正体については、ネットでは「石川五右衛門説」が有力ですが、その正体が明かされるのは、まだまだ先の第26回のようです。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

テーマ展「浜松の林業の道具」開催中(浜松市博物館)
開催期間:平成29年4月22日(土曜日)~平成29年5月28日(日曜日)

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

-井伊家を訪ねて

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