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「堀川城の戦い」(浜松市地域遺産センター)

井伊家を訪ねて

堀川城の戦いで敗れた3名の守将たち 尾藤&竹田&山村の行く末は……

「堀川城」(堀川古城)は、井伊氏が今川氏と戦っていた時代(永正年間)、井伊城(城主・井伊直平)と引馬城(城主・大河内貞綱)を分断するために、今川氏親(今川義元の父)が築いた刑部城の支城です。

永禄年間、徳川家康の遠江侵攻に備えて、城代・新田友作(龍雲丸のモデル? 瀬戸方久と同一人物?)が改修しましたが、その最中に襲われて破壊されたので、新たに「大鳥居」の高台に堀川新城が築かれました。

德川家康は、遠江国に侵攻すると、すぐに気賀の北の井伊谷城と東の刑部城を落とし、さらに気賀の西の日比沢城や佐久城を落としました。東西北を徳川軍に囲まれた気賀の堀川城の城兵は、南にしか逃げ場がなくなりました。南は細江湖(浜名湖の一部)です。(さらに南には、大沢氏の居城・堀江城があります。)

城代・新田友作は、「(囲まれたからには)徳川に与するべき」と主張したので、今川方(一説に武田方)の守将(国境が緊張状態の時、国境付近の城砦に配置される武将)たちに城を追い出され、身の危険を感じたので、金地院に逃げ込んで剃髪し、「喜斎」と名乗ったそうです。

新たな城代には尾藤主膳(竹田家では、城代は竹田高正であると主張)が就任しました。

※古地図や古文書を見ると、
①堀川城には、堀川古城(堀川)と堀川新城(大鳥居)があること
②永禄の「堀川城の戦い」には、堀川古城での「第一次 堀川城の戦い」と堀川新城での「第二次 堀川城の戦い」があること
が分かりますが、以下は堀川新城での「第二次 堀川城の戦い」の話になります。

 

第34話 「隠し港の龍雲丸」 あらすじ

徳川家康は、引馬城(後に拡張して「浜松城」)に入り、東の掛川城(城主・朝比奈泰朝と今川氏真)と西の堀江城(城主:大沢基胤)を攻め続けますが、どちらの城も落ちず、ストレスが溜まっていました。

そんな時、快進撃を続ける大沢氏の家臣・尾藤主膳、竹田高正、山村修理が気賀の堀川城へ乗り込むと、城代・瀬戸方久は、城も城兵も捨てて徳川家康のもとへ逃げ込みました。

「今日よりここは大沢の城になる。これよりは、我等と共に徳川と戦え」

と尾藤主膳が宣言し、気賀の住民は、尾藤らに戦闘要員として捕らえられました。いち早く船で逃げ出していた中村与太夫も徳川家康のもとへ逃げ込みました。瀬戸方久が「何でも教える」、中村与太夫が「船を出す」というので、德川家康は、まずは堀川城に捕らえられた住民を逃し、城兵を討ち、その首を大沢氏に見せて降伏を迫るという作戦を立てました。

「丑の刻に潮が満ちるのはいつじゃ?」(by 徳川家康)

※丑の刻は、午前1時~午前3時頃である。深夜にこっそりと囚われた住民を「隠し港」から逃がすって、可能なのか? 見張りもいるだろうし、囚われた住民は寝てるだろうし。実際の戦いは、3月27日である。旧暦では、毎月1日の前後3日間が大潮であるので、27日は、大型船でも近づけたであろう。しかし、毎月1日は新月であり、27日の夜は暗闇に近く、暗くて、あるいは、押し合って細江湖に落ちる人も、騒ぐ人もいそうだ。逃げる時の基本は「おはし」(おさない・はしらない・しゃべらない)だぞ!

「よし。そのまま攻め落とせ。生ぬるい仕置では、大沢は下りはせね。見せしめがいる」(by 酒井忠次)

堀川城攻めや、堀江城攻めは酒井隊に任されているらしく、本陣に德川家康はいませんでした。「全滅させる」は酒井忠次の一存のようです。瀬戸方久は驚きました。気賀の領主に返り咲いても、領民がいないのでは・・・。

やがて夜が明け、その被害状況が明らかになります。

※堀川城を築いて城代となった新田友作は、「徳川に与するべし」と言ったので、「堀川城の戦い」の前に堀川城を追い出されました。ドラマでは、城代の瀬戸方久は逃げ、堀川城を築いた龍雲丸は、「信用ならねぇって思いますがね。徳川ってなぁ」と言って中村与太夫と共に徳川方へ逃げなかったので、仲間が囚われてしまいました。もちろん、仲間を助け出しますが、ゴクウの「みんなは逃げられないんだなぁ」、力也の「そういやぁ、この城は、みんなを逃がすためにつくったんだよなぁ」のツイートで、「俺ら、逃げてなんぼだろうが」と言っていた龍雲丸は、自分たちだけで逃げるのをやめ、住民を助け出そううとして逃げ遅れました。城に囚われた気賀の住民は、皆、男性でした。実際は女性もいたといいますから、力也ではなく、ゴクウの「彼女が・・・」の一言で、住民を助け出そうとし、ゴクウは、好きな女性をかばって死ぬのかと思ってました。また予想がはずれた (≧д≦)

(つづく)

 

今回の言葉 「では、教えてくれますかのぉ。但馬を生きて返す術を」(by 南渓和尚)

今川義元の葬儀において安骨大導師を務めた大和尚の南渓和尚が知らないのであるから、禅宗(臨済宗)には、死者を蘇らせる秘法は無いのであろう。密教でも、護摩を焚いて延命、呪殺は出来ても、死者を蘇らせることは出来ない。小野篁の後裔の小野政次であれば、陰陽道の「泰山府君法」は知ってるかもしれないが、これも延命の秘法である。

※泰山府君法:泰山府君が持っているデスノート(氏名と死亡年月日が書いてある帳面)の死亡年月日を、泰山府君に頼んで、もっと先に書き換えてもらうという延命術。小野篁は、閻魔大王の補佐官だとされているが、一説に、閻魔大王ではなく、泰山府君の補佐官だという。

さて、次回のタイトルは、「蘇えりし者たち」(「蘇り」では?)である。井伊直虎が槍の達人で、実は急所(心臓)ではなく、急所のすぐ横の仮死状態になる部位を突いていたとしたら、キリストのように復活する!

※前回、「心臓一突きで、楽な方法で殺した」と書いたけど、それでは話すことが出来ないという。歴女医・まり先生の考察はこちら。

◆小野政次の死因:関連記事

槍で胸を突かれた小野政次が最期の会話をできた理由! 直虎が刺したのは心臓ではなく肺だった!?

 

キーワード:徳川 vs 今川&朝比奈 at 掛川城

永禄11年(1568)12月13日、武田信玄は駿府今川館を焼きました。

今川氏真は、掛川城(城主:朝比奈泰朝)に逃げ込みました。

徳川家康は、見付に本陣を置き、12月27日、掛川城を包囲しましたが、掛川城は落ちなかったので、兵を引きました。

翌永禄12年(1569)1月、再攻撃を開始しましたが、やはり掛川城は落ちませんでした。

井戸(深さ45m。城郭井戸としては、丸亀城(65m)、福知山城(50m)に次ぐ全国第3位の深さ)が霧を吹いて、掛川城を隠したそうです。

「霧吹きの井戸」(掛川城)

徳川家康は、「いつか北条氏康と申し合わせて武田信玄を追い出し、駿河国を今川氏真に与える」という条件を出して和議を結びました。(後にこの条件が武田信玄に知れて、「三方ヶ原の戦い」の遠因になったとか。)

永禄12年(1569)5月6日、今川氏真は掛川城を明け渡し、相良湊を避けて、掛塚湊から朝比奈泰朝と共に船で伊豆の戸倉城ではなく、沼津の大平城へ移りました。

 

キーワード:「堀江城の戦い」

永禄12年(1569)2月5日 第一次 堀江城の戦い
永禄12年(1569)3月25日 第二次 堀江城の戦い
永禄12年(1569)3月27日 堀川城の戦い
永禄12年(1569)4月12日 堀江城主・大澤基胤、降伏
永禄12年(1569)4月24日 武田信玄、駿河国より撤退
永禄12年(1569)5月6日 掛川城、開城

堀江城の平和な現在(観覧車がある場所が本丸)

堀江城(想像画)

德川家康は、引馬城ではなく、見付に本陣を置き、上野原(城山)に新城(現在の城山球場)を築きながら、掛川城で戦っており、堀川城攻めや、堀江城攻めは、遠江衆が中心に行ったようです。

井伊衆(旧・井伊家家臣)は堀川城を攻めました。この時、(多分、史実ではないと思われますが、)井伊直虎は、甲冑を身に着け、井伊衆を率いて、堀川城を攻めたとか。

井伊谷三人衆は、堀江城を攻め、城門前で、小野政次の祟りなのか、鈴木重時が鉄砲で撃たれて死に、近藤康用は槍で太もも(遠州弁では「ももた」)を刺されて歩行不自由になりました。(史実では、この時、小野政次はまだ生きていますので、「殺された祟り」ではなく、「井伊を取られた恨み」でしょう。)

「これより、堀江の大沢攻めに向かいます。また、参ります」(by 鈴木重時)

いや、あなたに未来は無いから。南渓和尚には死相が見えたようで、別れに際し、必要以上に深々とお辞儀をしました。

 

キーワード:「堀川城の戦い」

「堀川城の戦い」昭和の案内板

「日本中が戦乱に明け暮れていた室町時代の終わりころ、この地方は今川氏の勢力下にあった。永禄三年(一五六〇)の桶狭間の戦いで、義元が戦死した後、土地の人々はここに城砦を築き地名にちなんで堀川城と名づけ、刑部(細江町中川)にも刑部城を築き、徳川家康の遠州侵攻に備えた。永禄十一年(一五六八)刑部城を落とした家康は、翌十二年三月二十七日に三千の軍を率いて堀川城に攻め入った。男も女も戦える者およそ二千人は、すべて城に立て籠って抵抗したが、みるまに落城した。この戦いに加わった大久保彦左衛門が書いた三河物語には「男女ともになで切りにぞしたりける。」とある。残った人々も徹底的に捕えられ九月九日ことごとく首を打たれた。三月二十七日の戦いでおよそ千人、九月九日に七百人余で当時の住民の半数以上の犠牲者を出したと伝えられる。」(細江町教育委員会による現地案内板)

【伝承】 「徳政令」を出してくれた名君・今川氏真を守るため、徳川家康の遠江侵攻を防ごうと、総人口3000人(気賀2000人、刑部1000人)のうちの2000人が、堀川城に武器を持って自主的に立て籠もったが、徳川軍3000人に襲われ、3月27日の戦いで1000人が討たれ、9月9日に捕虜700人が打ち首と、計1700人が殺された。これは、「徳川家康に反抗するとこうなるぞ」という、遠江国全体への見せしめである。(遠江侵攻前の本坂越の偵察の時に、気賀衆に襲われた酒井忠次の逆恨みとも。)

【古文書】 武田信玄が尾藤主膳、竹田高正、山村修理らを調略し、徳川家康を打たせようとした。尾藤らは、堀川城に立て籠もった。3月27日、名倉為高(新田友作こと名倉伊茂の次男)の案内で堀川城を攻め、城兵108人は討たれ、その首は「鵜ノ毛」に並べられた。また、徳川家康が城代として置いた石川康次は、反抗する村民を次々と殺した。

【学者の意見】 「人口3000人中2000人が参陣し、1700人は殺され、残り300人は他村に逃げた」では田畑を耕す農民が激減し、納税額が激減するから、そんな馬鹿なことをするわけがない。また、徳川家康の遠江侵攻を防ぐためというが、徳川家康は、気賀を避けてすでに遠江国に入っており、この戦いが「侵攻阻止」になるとは言えない。また、大沢や尾藤らは今川忠臣であり、武田方ではない。

【大河ドラマ】 気賀の住民は強制的に堀川城に入れられ、尾藤主膳ら大沢家臣の扇動で、戦闘要員にされた。徳川家康は、住民を逃し、城兵のみを殺そうとしたが、酒井忠次は、「最初が肝心」と皆殺しにした。

 

キーワード:堀川城の守将たちの最期と墓

「堀川四将」と呼ばれた4人の武将のうち、堀川城を築いて城代になった新田友作は、「堀川城の戦い」の直前に城を出て出家し、「喜斎」と名乗っています。

新田友作と同一人物説がある瀬戸方久は、永禄年間に亡くなっており、「堀川城の戦い」で亡くなった可能性が高いのですが、はっきりしません。(はっきりしないので、同一人物説が生まれたとも考えられます。)

ここでは、尾藤主膳、竹田高正、山村修理の3人の守将の最期と墓について記しておきます。

 

尾藤主膳の最期と墓

10人で船に乗り、本城である舘山寺の堀江城に逃げ込もうとしたが、大沢氏は既に徳川方に寝返っており、入城を断られたので、大手門前の字名「大木戸」(現在の静岡銀行館山寺支店付近)で自害し、10人の首が埋められると、「十頭」(とうず、とうす。「十頂」とも表記)と呼ばれるようになり、首塚の上に小祠(十頭八幡宮)が建てられたという。(その後、十頭八幡宮は、「亡くなった場所よりも、住んでいた場所の方が良かろう」と気賀の唐頭(とうつ/とうづ)神社に合祀されたという。)

「永禄十二年、於堀川の城、三月十二日、為徳川家康様、敗北堀江・堀川表裏の城に付き、大沢家にかくまわれ、大沢家、東照宮様へ降参に付き、同月二十七日、於堀江城、被遂生害。主膳並び家士、都合十人、同日生害。依りて十頂(とうす)八幡宮と号し、堀江村中に「大木戸」と云ふ所小社、是也。郷中の氏神也。則、首を葬「十頂」と号す。

法名、秀徳院元海宗真居士 永禄十二己巳年三月廿七日

妻法名、順徳院懿山宗徳大姉 右同日也。」(『尾藤家過去帳』「尾藤主膳」 ※大沢家文書には、大沢基胤の降伏は、3月12日ではなく、4月12日とある。)

再建された十頭八幡宮(舘山寺町)

唐頭神社(細江町気賀)

※「トウト神」「トトウ神」は各地に祀られている正体不明の神で、表記も数多くある。気賀の唐頭神社(ご祭神:少彦名命)は、近藤氏が、小森(地名)で鷹狩をする時には必ず寄る神社だという。唐頭神社の由緒書に「住民は、其の鷹狩の姿を後世に残すため、其の姿を子供達にたくし、細江神社の神幸祭の行列の中に入れて、現在に至る」とある。「トウト(トトウ)神」は、井伊谷では、牧(東牧)の「登布土神社」(ご祭神:素戔男命)に祀られていた。(登布土神社は、今は二宮神社に合祀されている。)

史実は・・・堀川城の戦いがあった3月27日、大沢氏はまだ徳川方に降伏しておらず、尾藤主膳らは堀江城に入城し、人質として大沢氏に差し出していた正室と共に城内で自害したようです。大沢氏が徳川氏に降参した4月12日、南渓和尚は、祐圓尼(井伊直虎)を連れて堀江(舘山寺町)へ行き、葬儀を執行したと伝えられていますが、私は、堀江へ行ったのではなく、気賀の屋敷に遺体が戻されて、そこで葬儀を行ったと考えています。

『南渓過去帳』に、南渓和尚が、
──元海宗真居士 堀川大将 尾藤主膳正
と記しています。

なお、『井伊家伝記』を著した祖山和尚(龍潭寺九世)は、尾藤氏(江戸時代には油田村の庄屋)だそうです。

尾藤家墓所の尾藤主膳夫妻の墓(右端の笠塔婆。祠内に五輪塔)

 

竹田高正の最期と墓

「もはやこれまで」と堀川城内で、次男・高直、三男・高道と共に切腹しました。

切腹の介錯人(首をはねる人)は金子五郎八でした。(金子五郎八の弟・金子庄兵衛は、竹田高正の四男・高治を連れて信州へ逃げたそうです。)

菩提寺として、生まれ故郷・栃木県足利市の東光山善徳寺の名を模した全得寺が建てられていましたが、「堀川城の戦い」の時に焼失(元和3年(1617)に再建)したので、3人の葬儀は龍潭寺二世・南渓和尚が執り行いました。『南渓過去帳』に3人の戒名が記されています。

・竹田高正 戒名:賀田長悦沙弥
・長男:竹田西光
・次男:竹田雅楽之介高直 戒名:長恕禅定門
・三男:竹田酒造之介高道 戒名:長雲禅定門
・四男:竹田高治

竹田屋敷は、「間ノ脇」(「堀川」の東の「西江」)にあったそうです。現在の竹田家は油田にあり、裏山に竹田高正親子の墓(首塚。通称「五輪様」「塚」)があります。

竹田高正の墓(首塚。通称「五輪様」「塚」)。(油田)

 

山村修理の最期と墓

堀川城を加茂嘉右衛門が漕ぐ舟で抜け出し、葭本「小引佐」(引佐峠の東の峠)まで逃げたが、燃え落ちる城を見て、後に「修理殿の松」と呼ばれることになる松の木(現在は枯死)の下で切腹しました。

山村修理の墓(左)と「堀川城戦死之碑」(右)

「山村修理の墓」現地案内板

「戦国時代末期、気賀、中川は今川氏と徳川氏の勢力の境界地域でした。気賀の領主で今川方の新田友作(ともさく)は、かつて今川義元の家臣であった尾藤主膳(びとうしゅぜん)、山村修理等とともに 永禄10年から11年 (156 7~68)にかけて堀川城を築きました。しかし遠州攻略を目指す徳川家康の攻撃により永禄11年3月には落城してしまいました。

永禄11年12月、徳川家康は、駿河に進攻しようとする武田信玄に対抗し、ふたたび遠州攻略を企てました。このときの功績により、後に「井伊谷三人衆」と呼ばれたのが菅沼二郎右衛門、鈴木三郎太夫と、後の旗本近藤家を築いた近藤石見守(いわみのかみ)です。

遠州に攻め入った家康に対し、尾藤主膳、山村修理等は一揆を企て、内山党を始め地元民男女1500~1600人とともに堀川城に立てこもりました。しかし、永禄12年(1569年)3月27日、家康軍の攻撃の前に1日で落城。捕虜700人が呉石の塔の下で処刑されたと言い伝えられています。

落城のとき舟で逃れた山村修理は、この場所で燃え落ちる堀川城を見ながら切腹したと伝えられています。かつてここには松の古木があり、「修理殿の松」と呼ばれていました。

細江町教育委員会」(現地案内板)

次回、夜が明けて、被害の実態が分かります。

伝承では、人口の過半数、農民も数多く死んだとしていますが、ドラマでは、気賀の住民=商人であり、商業活動が一時的に後退しても、瀬戸方久や中村与太夫は徳川方について生き延びているし、農業には支障がないという設定かな?

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

 

-井伊家を訪ねて

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