ロケ地(方広寺修行道場)での記念撮影

井伊家を訪ねて

興味深き僧侶の生活「一日作さざれば、一日食らわず」 おんな城主直虎ロケ地巡り&レビュー

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井伊直虎がいた時の龍潭寺は、武田軍(山縣隊)によって焼かれました。
現在の龍潭寺の建物は江戸時代に再建されたものであり、同寺には観光客も多く、ロケは方広寺で行われたようです。

おとわ、傑山、南渓のサイン

南北朝時代、井伊氏は、後醍醐天皇の御子・宗良親王を匿いました。

この宗良親王の弟・無文元選禅師(後醍醐天皇崩御の翌年出家)のために、奥山朝藤(井伊家庶子家)が建てたのが、「奥山半僧坊」の通称で知られる「深奥山方広萬寿禅寺」(臨済宗方広寺派の大本山。静岡県浜松市北区引佐町奥山)です。

方広寺には、開山・無文元選禅師の墓、開基・奥山朝藤の墓、歴代近藤氏の墓がありますが、現在は拝観禁止。また、裏山には、奥山氏の居城である奥山城がありました。

 

【第4話 「女子にこそあれ次郎法師」 あらすじ】

「以一女とわ出家可為本領安堵者也」(一女とわの出家を以て本領安堵)

この今川義元の書状に従い、おとわは井伊家を守るために出家し、「次郎法師」となった。
しかしながら「出家すること」がどういうことであるか理解できておらず、腹が減っての托鉢に失敗し、「もうこんな生活はもう嫌じゃ!」「出家したら亀之丞(井伊直親)と夫婦(めおと)になれない!」と悩む。

次郎法師の父・井伊直盛が慰めようと、次郎法師がいる初代様(井伊初代共保公)出生の井戸へ向かう。
と、そこにはすでに鶴丸(小野政次)がいて、
「妻としてよりも、僧としての方が亀を助けられる事は多いくらいではないのか?」
と言われ、自身の歩む道を見い出した次郎法師。
「我は亀の龍宮小僧になる」と南渓和尚(南渓瑞聞)に宣言し、和尚のヒントで、龍宮小僧のように振る舞って托鉢に成功する。

この次郎法師の姿を見ていた直盛も、
「(自分も)変わらねば」
と決意して拳を強く握ると、小野政直の命を助けることにした。

「何故にお助けになったのでございますか?」
と問う新野左馬助に対し、
「(次郎法師を助けてくれている)鶴から父を奪いたくなかった」
と答えた。
新野左馬助は、今川庶子家の人間ではあるが、戦国時代にあってはマイナスに働くと思われる「優しさ」の持ち主にますます惹かれ、「これからも井伊家を助けていこう」と思うのであった。

 

『観音経』

今回は「子供のおとわから、大人の次郎法師へどう切り替えるのか?」という演出が楽しみでした。

寺の生活にも慣れ、『観音経』も覚え、道を歩いて行く次郎法師。

「汝聴観音行 善応諸方所 弘誓深如海 歴劫不思議 侍多千億仏 発大清浄願(にょちょうかんのんぎょう ぜんのうしょほうしょ ぐぜいじんにょかい りゃくごうふしぎ じたせん おくぶつ ほつだいしょうじょうがん)」
すると、同じ道の向こうから歌うように『観音経』の続きを唱えながら、大人の次郎法師がやって来る。

「心念不空過 能滅諸有苦 仮使興害意 推落大火抗 念彼観音力 火抗変成池 或漂流巨海 龍魚諸鬼難 念彼観音力(しんねんふくうか のうめつしょうく けしこうがいい すいらくだいかきょう ねんぴかんのんりき かきょうへんじょう ち わくひょうるうこかい りゅうぎょしょきなん ねんぴかんのんりき)」

なるほど、こういう演出でしたか。
『観音経』は『法華経』の「観世音菩薩普門品 第二十五」という一章です。
『法華経』といえば日蓮宗ですが、この第25章は禅宗でもよく読まれ、『観音経』と呼ばれています。仏教の知識があると、今回の話は理解しやすかったかもです。

天竜浜名湖線・気賀駅(大河ドラマ館の最寄り駅)の自動販売機の側面には、『井伊家伝記』の一節「女にこそあれ次郎法師」が書かれている。

 

次郎法師

「髪を切ったら出家した」というわけではありません。
それならば、髪の無い爺もカエルも僧になってしまいます。また、貧乏で、髪を売った女性は、頭を見せると尼だと思われてしまうので、出家前のおとわのように、頭に布を巻いていたそうです。

現在、尼僧になるには、師(臨済宗の僧籍を有し、一定の資格を持った僧侶)に弟子入りし、一定期間(最低1年間)、その師がいる臨済宗の寺での生活を経た後、師の許可を得て、専門道場(岐阜市の天衣寺専門道場)へ入門して修行するのだそうです。
※得度式(とくどしき):出家する(仏門に入る)儀式。この式の中で、剃髪し、戒を守ることを誓約すると、師から漢字ニ文字の戒名(法諱)が授けられます。

おとわの場合、師は南渓和尚です。
剃髪後、南渓和尚に戒名を付けていただくのですが、『井伊家伝記』(下記「資料」参照)では、
おとわの両親「戒名を付けるな」
おとわ「出家したのだから戒名を付けて下さい」
おとわの両親「いや、まだ髪を切っただけで出家してはいない。戒名を付けたら出家したことになるから、戒名を付けるな」
と親子の言い争いが描かれています。

悩んだ南渓和尚が付けた戒名は、
──次郎法師
「次郎」は、井伊家の宗主が名乗る通称(注)で、「法師」は「僧侶」、あるいは、「幼い男の子」の意ですから、合わせて「井伊宗家の嫡男の男の子」の意で、単純に考えれば、虎松(後の井伊直政)の事だと思われます。
「次郎法師」は、後に虎松の後見人となった井伊直盛の娘の出家後の名とするのが通説です。
(注)通称:仮名(けみょう)ともいう。

ドラマでは南渓和尚は、
「これよりそなたの名を次郎法師とする。次郎は井伊の家督を継ぐ者の幼名じゃ。そなたの父上も次郎であったしの」
と間違えています。

「次郎」は、「幼名」ではなく、「通称」「仮名」です。
ドラマ終了後の「直虎紀行」では「通称」と言っています。

また、井伊直盛の幼名は『寛政重修諸家譜』に「虎松」、通称は『井伊直平公一代記』に「太郎」とあります。祖父・直宗の幼名も「虎松」と伝わっています。

女性なのに「次郎」(宗主の通称)というのも、「法師」(尼ではなく僧)というのはおかしな気がしますが、『井伊家伝記』には、「備中次郎と申名ハ井伊家惣領之名次郎法師ハ女に古そあれ井伊家惣領ニ生候間僧侶之名を兼て次郎法師とハ無是非南渓和尚御付被成候名也」(受領名「備中守」や通称「次郎」は、井伊家の宗主が名乗る名であり、女性であっても、宗主・直盛の子であるから、僧侶の名を兼ねて、是非もなく、「次郎法師」と南渓和尚が名付けた)とあります。

実際、「備中」「次郎」という名は、井伊家の宗主が名乗る名であるか、江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』で調べてみると、
・直平(直虎の曽祖父):修理亮、信濃守。後、兵部少輔。
・直宗(直虎の祖父):宮内少輔。
・直盛(直虎の父):虎松、内匠助、信濃守。
となっていて、「備中」「次郎」という名は出てきません。

そこで、『寛政重修諸家譜』で、初代に遡って「備中」「次郎」を探すと、初代・共保が「備中大夫」、2代共家が「備中次郎」、泰直が「次郎」でした。たったの3人・・・少ない・・・。「備中次郎と申名ハ井伊家惣領之名」ではなく、「備中次郎と申名ハ井伊家黎明期(初代・二代)之惣領之名」で、南渓和尚が、初代様に匹敵する「ただならぬ子」と感じたので「次郎法師」と名付けたと考えるのが自然かな。

百歩譲って「次郎」が宗主の嫡男が代々名乗る名であるとしても、直虎は長男(嫡男)ではなく、長女であり、今後、長男が生まれる可能性もあるのですから、その長男に付けるために取って置かなければならない「次郎」と名付けてしまう事は、おかしな話でます。

さらにドラマでは、南渓和尚が、
「そなたはかつて井伊の惣領娘じゃった」
と過去形を使っています。出家すれば、俗世間とは縁が切れるので、過去形なのです。惣領娘「おとわ」から仏弟子「次郎法師」に変わったのです。惣領娘に「次郎」と付けるのはいいのですが、仏弟子に「次郎」という俗名のような戒名を付けるのは解せません。

集合の合図の喚鐘(行事鐘)を撞木で打ち鳴らす僧侶(方広寺にて)

 

僧侶の日常

「禅宗では、食事、掃除、畑仕事など、日常の作務の全てを修行と見なします」
「施餓鬼(せがき)。餓鬼道に堕ちた衆生に施すのは、僧の務めです」
「托鉢(たくはつ)」
知られざる僧侶の日常生活が次々と明らかに・・・。

「(出家とは)寺に住んで、手習いをするようなものだと(思っていた)」(by 次郎法師)

食事のシーンでは、「さば」(生飯、散飯、三把、三飯)と「食事五観」(五観の偈)が紹介されました。
「さば」は、自分の食べ物から飯粒を取り分け、屋根などに置いて、餓鬼に供え、鳥獣に施すことです。そして、食事の前に全員で唱和するのが「食事五観」(五観の偈)です(書き下し文は宗派によって異なります)。

一つには、功の多少を計り、彼(か)の来処(らいしょ)を量(はか)る。
二つには、己が徳行の全欠(ぜんけつ)を計って供(く)に応ず。
三つには、瞋(しん)を防ぎ、過貪等(とがとんとう)を離るるを宗とす。
四つには、正に良薬を事とするは、形枯(ぎょうこ)を療ぜんが為なり。
五つには、道業を成ぜんが為に当にこの食(じき)を受くべし。
「一日不作、一日不食」(by 大智禅師)

これは、大智禅師こと百丈懐海(唐の禅僧)の言葉です。
「作」は「作務(さむ)」、すなわち、労働のことです。自給自足生活は、「晴耕雨読」(晴れた日は畑に出て耕作し、雨の日はお経を読んで勉強する)のイメージでいいのでしょうか。

大智禅師は、高齢になっても自ら畑を耕し、日々の食物を得ていたそうで、その姿を見た弟子たちが「高齢なのに・・・たまには、休んでもらおう」と思って農具を隠すと、その日、大智禅師は農作業が出来ず、食事をとらなかったそうです。
弟子たちは不思議に思い、「なぜ食事をとらないのですか」と聞くと、「一日作(な)さざれば、一日食らわず」と答えたそうです。この言葉は、おとわが最も身にしみた言葉であったらしく、晩年に住んだという庵(現在は菩提寺)の名を「自耕庵」(現在の妙雲寺)としています。

「開山黙宗大和尚行実」(赤線は南渓和尚に関する部分)

 

爆弾発言三題

(1)井伊直虎男性説

昨年の12月、京都井伊美術館の井伊館長が、「新史料『守安公書記』が見つかった」として、記者会見されました。
その新史料には、今川家が、庶子家の関口家の関口氏経の息子に「井之次郎」と名付けて、井伊谷に領主として送り込んだとあるそうです。

「井の谷は免んゝ持尓て志つまりか年候に付て、其後関口越後守子を井之次郎尓被成、井の谷を被下也。然共、井之次郎若年故、御陣之時ハ井之谷衆新野左馬助旗本ニ被仰付候也」(井伊谷(ここでは「井伊保」「井伊領」の意)は、面々(複数の人々)が領して鎮まりかねていたので、その後、関口越後守氏経の子を「井之次郎」として井伊谷を下された。しかし、この井之次郎は若かったので、出陣の際には井伊谷衆の新野左馬助親矩を旗本として補佐させた。)

井伊館長はこの井之次郎が井伊直虎だとする「井之次郎=井伊直虎」説を提唱されました。
「井之次郎=井伊直虎」説については、①なぜ軍隊の指揮がまともに出来ないような若い子を混乱中の井伊谷領主としたのか、②新野親矩がまだ生きている時代から井伊谷に領主として居たということは、井伊谷には次郎法師(新野親矩の死後に龍潭寺に黒印状を出した井伊直盛の娘)と井之次郎(関口氏経の子)の2人の領主が同時にいた時期があったということなのか、という疑問が残ります。

「井之次郎=井伊直虎」説よりも、「次郎法師=井之次郎=井伊直虎」説の方が以下のような状況からスッキリします。

①井伊直盛には娘がいて出家して「月舩祐圓」と名乗ったが、「次郎法師」とも「井伊直虎」とも名乗らなず、地頭にも領主にもなっていない。
②関口氏経の子・次郎法師(「太郎」は関口家を継ぐ長男、「次郎」は井伊谷に送る次男の意で、「法師」は「吉法師」などと同様に「男の子」の意)を井伊谷に送り、後に「井之次郎」と改名させ、元服後は「井伊直虎」と名乗らせた

ただし、これでは、井伊谷徳政令を領主(関口氏経の子)が2年間も凍結し続けた理由が分からなくなります。

(2)小野政次の子孫の存在

小野政次(小野政直の長男)と、その2人の息子は、徳川家康によって処刑され、小野政次の家は断絶しました。
ところが、今年に入って、小野正親(小野政直の五男)の子孫の家で小野家系図が見つかり、小野政次の子孫の名も載っていると、「井伊ね!直虎ジオ ~戦国なでしこ直虎を知る~」(2017年1月22日NHKラジオ第1)という公開生放送で発表されました。
その場にいなかったので家系図を見ていませんが、出家させたり、他家に養子に出されたりして死を免れた子がいたのでしょうか。それとも、井伊直弼が新野家や川手家を再興させたように、小野家も再興されたのでしょうか。

(3)龍潭寺二世南渓和尚

南渓和尚については、前回書いたように、「南渓」と呼ばれるまでの経歴が不明ですが、南渓の師の黙宗和尚(黙宗瑞淵)の経歴は「開山黙宗大和尚行実」(龍潭寺文書)から分かっています。この「開山黙宗大和尚行実」(上記写真)には、南渓和尚について、
「天文念稔辛亥秋頌南溪號」(天文二十年辛亥秋、南渓の号に頌して)
と記されています。
ドラマでは、「9年の月日が過ぎていったのじゃ」とナレーター(龍宮小僧)が言い、画面に「天文二十三年」と表示されました。これでおとわの出家は天文14年という設定だと分かりました。
天文14年の段階では、
①「龍潭寺」ではなく、「龍泰寺」(井伊直盛の死後、「龍潭寺」と改名)
②住職は南渓和尚ではなく、黙宗和尚
③「南渓瑞聞」ではなく「瑞聞」(天文20年、師・黙宗より道号「南渓」が瑞聞に与えられた。ちなみに、南渓瑞聞は宗俊に道号「傑山」を弘治2年(1556年)1月18日に与えている。昊天宗建はまだ生まれていない。おとわに学問を教えたのは「黙宗三哲」と呼ばれた黙宗和尚の優秀な3人の弟子だと思われる。)
という状況でした。

※出家(得度式)で師から与えられる漢字二文字の僧名が「戒名」「法諱(ほうき)」で、一定の法階に達すると、師や高僧から漢字二文字の「道号(どうごう)」が与えられ、四字連称される。南渓和尚の場合、道号「南渓」と法諱「瑞聞」を四字連称した「南渓瑞聞」が正式な呼称である。名には長いほど高貴なイメージがあり、最初から「次郎法師」という四文字が与えられることはあり得ない。

※「おとわの命を守るために、男子に変装させ、寺の小僧として龍潭寺が匿ったのであって、出家はしていないので、戒名はなく、「次郎法師」と呼ばれた」とか、「南渓和尚が天文20年以降に直盛の娘に「祐圓」という尼の名を付けた」という話は理解できる。

余談

道号とともに号頌(ごうじゅ。道号の頌。道号の字義を詩の形で表したもの)が与えられます。
「開山黙宗大和尚行実」(上記写真)によれば、黙宗和尚が南渓和尚に与えた号頌(七言絶句)は、
案山當戸轉分明(案山戸に当って転(うた)た分明)
决々寒流到處清(决々として寒流到る処清し)
瞻部洲中廣長舌(瞻部洲(せんぶしゅう)中広長舌)
潺湲日夜發希聲(潺湲(せんかん)として日夜希声を発す)
です。

「山も渓流も心を持たない「無情」の存在ではあるが、「無情である山の山容にお釈迦様を見、無情である渓流の音にお釈迦様の教えを聞くことができる」という能力を人間は持っている。この能力に気づき、修行によって開発し、さらには、見聞きしたものを他者に伝えられるようになれば、一人前の僧侶と言える。瑞聞は、南山(悟りの境地)に近づき、その発言は、渓流の流水音(お釈迦様の声)に近づいてきたので、ここに『南渓』と名付ける」という意味でしょう。

参照:『戦国未来の戦国紀行』「「南渓」号頌」

以上、爆弾発言三題でした。

「史実が判明してからドラマ化して欲しい」
という声もありますが、史実と異なるからこそ、『水戸黄門漫遊記』(水戸黄門が諸国を回って悪人を懲らしめる物語)のように、ドラマとして楽しめる、気楽に見られるのではないかとも思います。
「大河ドラマは歴史番組だ」と思って見ると、「あれも、これも史実とは違う」と、「あらさがし」のために見るはめになり、気楽に見られず、ドラマを楽しめません。

たとえば、井伊直満の所有地については、ドラマでは、今川義元の下知で、全て小野政直に下されたとしていますが、前々回で示したように、『井伊家伝記』には全て圓通寺 (龍潭寺末寺)に寄進されたとあります。

「どちらが史実だろう?」
と、そこで考え始めてしまったら、ドラマのその先が楽しめません。井伊直盛と井伊直親の領地を別々に記した古文書があり、井伊直満の所有地は、井伊直親が引き継いだようにも思われます。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

資料1:『井伊家伝記』「井伊信濃守直盛公息女次郎法師遁世之事并次郎法師と申名之事」
一 井伊信濃守直盛公息女壱人有之両親御心入ニハ時節を以亀之丞を養子ニ被成次郎法師と夫婦ニ可被成御約束之所ニ亀之丞信州江落行候故御菩提之心深思召南渓和尚之弟子ニ御成被成剃髪被成候両親御なげきにて一度ハ亀之丞と夫婦ニ可被成に様を替候とて尼之名をば付申間敷旨南渓和尚江被仰渡候故次郎法師ハ最早出家ニ成申候上ハ是非ニ尼之名付申度と親子之間難黙止備中次郎と申名ハ井伊家惣領之名次郎法師ハ女に古そあれ井伊家惣領ニ生候間僧侶之名を兼て次郎法師とハ無是非南渓和尚御付被成候名也右次郎法師ハ井伊肥後守直親傷害之後直政公未幼年故井伊家領地地頭職御勤被成候(井伊保近所瀬戸村保久ニ被下候権現様御判物ニ地頭次郎法師并主水之助一筆明鏡之上と申御文言有之)永禄八年乙丑直政五歳之節寄進状御南渓和尚江御渡被成候其節地頭御勤故寄進状ニ次郎法師名判有之次郎法師ハ直政公実之叔母シテ養母故直政公御幼年之中ゟ御世話被成候殊更天正三年権現様江御出勤之節御衣裳等迄御仕立被遣候龍潭寺中松岳院と申庵ニ御老母祐椿尼公一所被成御座候天正十年午之八月廿六日ニ御遠行法名妙雲院殿月舩祐圓大姉
【現代語訳】
井伊信濃守直盛公には一人の娘がいた。両親の「心入り」(計らい)は、時をみて亀之丞を養子に迎え、次郎法師と夫婦にしようというもので、その約束もしていたが、亀之丞が信濃国へ落ち延びたので、「菩提心」(仏道に入る心、発心)が深まり、南渓和尚の弟子になられ、髪を切られたので、両親は嘆いて、「一度は亀之丞と夫婦にしようとしたのに、このような姿に変わってしまったが、尼の名は付けないように」と南渓和尚に仰せつけられた。これに対し、次郎法師は、「もう出家したのだから、ぜひとも尼の名を付けて下さい」と申し出た。この親子の希望の相違を「黙止」(黙視。黙って傍観する事)することが出来なかったので、(困った南渓和尚は、両者の希望の折衷案として、)「次郎法師」と名付けた。「備中守」という受領名や、「次郎」という仮名(けみょう、通称)は、井伊家の惣領(宗主)が使う名であり、次郎法師は女ではあったが、井伊家の惣領家に生まれたので、惣領が使う仮名の「次郎」と「法師」を組み合わせ、僧俗兼ねて(俗名と僧侶としての名を兼ねて)、「次郎法師」と是非も無く(いいも悪いも無く、やむを得ず、親子双方が納得する苦肉の策として)南渓和尚が付けた名である。
この次郎法師は、井伊肥後守直親(亀之丞の元服後の名)が誅殺された時、(直親の嫡男で、次期宗主の)井伊直政公がまだ幼かったので、井伊領の地頭(領主)となられた。(井伊領の近くの瀬戸村(現在の静岡県浜松市北区細江町瀬戸)の瀬戸方久に下された徳川家康公の判物(安堵状)に「(瀬戸村が瀬戸方休の土地であることは、)地頭の次郎法師、並びに、井伊主水佑が瀬戸方休に出した安堵状から明白である」という文言がある(から、次郎法師が地頭であったことは間違いない)。)永禄8年(1565)9月15日、井伊直政が5歳の時、(次郎法師は)龍潭寺に寄進状を発給し、南渓和尚に渡している。その時は(次郎法師が)地頭職にあったので、寄進状には(井伊直政ではなく、)「次郎法師」という署名と黒印がある。
この次郎法師は、井伊直政公の(父・直親が、次郎法師の父・直盛の養子になったので)実の叔母であり、養母でもあったので、井伊直政公が幼い頃から世話をされてきた。特に、天正3年(1582)、徳川家康公とご対面する時には、その時の着物などをお仕立てになられた。
龍潭寺の境内にある(祐椿尼の戒名「松岳院殿壽窓祐椿大姉」による)松岳院という庵(塔頭、寺院内寺院)に老母・祐椿尼公と一緒に住んでおられたが、天正10年(1582)8月26日に亡くなられた。戒名は「妙雲院殿月舩祐圓大姉」である。

資料2:『井伊家粗覧』
女子 直盛息女也。次郎法師両親欲配直親。直親久在信州。因之、次郎法師従南溪剃髪雖然兩親不許之。因之南溪「次郎法師雖女子、井伊家惣領也。因取備中次郎之名而、僧俗之名而、名・次郎法師」。右、次郎法師者、龍潭寺寄進狀、名判有之。
【現代語訳】
娘 井伊直盛の息女である。次郎法師の両親は、井伊直親と結婚させたいと思っていた。その井伊直親は、長い間、信濃国に居た。これにより、次郎法師は、南渓和尚に従って(南渓を師として)剃髪(出家)したが、両親は許さなかった。これにより南溪は、「次郎法師は女子(おなご)ではあるが、井伊家の惣領(宗主)である。よって、「備中次郎」の名を取って、僧俗合わせた名である「次郎法師」と名付ける」とした。この「次郎法師」については、「龍潭寺寄進状」に名(署名)と判(黒印)がある。

 

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