大河ドラマの世界を史実で深堀り!

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築山殿も参拝したであろう築山稲荷(愛知県岡崎市)

井伊家を訪ねて

松平元康を知らないハズがない井伊直親であったが……おんな城主直虎ロケ地巡り&レビュー

 

──権謀術数
「権謀術数」とは、人を欺くための情報操作のことである。
噂(デマ)、賄賂、恐喝、嘘、罠……。戦国時代には、どんなに汚い策でも、「生きのびるためだから」と正当化されたようだ。

今回の寿桂尼の罠は、「裏切られてからでは遅いから、その前に裏切る可能性があるかないか試す」というものである。ラスボス感半端ない寿桂尼ではあるが、
──昔はおおらかであられたのに、もう左様な余裕は無くしておられるようであった。
と次郎法師(井伊直虎)は見た。

今川家では、何とかして負の連鎖を断ち切ろうと必死で余裕がなく、松平元康に三河国を奪われそうになった時には、「裏切るとこうなる」という見せしめとして、龍拈寺の門前で人質13人を串刺しにして殺した。
その結果、狙いはハズれ、三河国を取られてしまった。
「このままでは遠江国も取られてしまう。人質を殺す程度の見せしめでは効果がない」
「見せしめに反逆した家を潰そう」
白羽の矢がたった家は、井伊家であった。
※なぜ井伊家かというと「井伊直親今川氏真の仲が悪かったから」だというが、ドラマでは「『井伊家の次郎法師のせいで松平の人質がいなくなった』と怒った寿桂尼が、井伊家に罠を仕掛けて潰そうとした」という設定になっている。

このままでは井伊家が潰されてしまう!
どうする、次郎法師!?
答えは一つとは限らぬぞ!

第11話 「さらば愛しき人よ」 あらすじ

処刑寸前の瀬名母子を救ったのは、馬で駆けつけた石川数正の次の言葉であった。
「松平元康が家臣、石川数正と申す! 鵜殿長照殿の忘れ形見を人質として預かっておりまする! 瀬名殿、竹千代君、亀姫様とお引き換え願いまする!」
伝承では、井伊直親が人質交換の仲介役となったという。
通説では、徳川家康の片腕である石川数正が、今川氏真の片腕である三浦義鎮を騙して人質交換を成立させ、人質(鵜殿長照の子)を駿府今川館へ連れてきて、人質(瀬名、竹千代、亀姫)を岡崎へ連れて帰ったとするが、伝承では、人質交換は吉田湊(現在の愛知県豊橋市の吉田城付近)で行われ、吉田湊へは石川数正が岡崎から迎えに来たという。

人質交換後、瀬名らは岡崎の築山へ。
鵜殿長照の2人の子は二俣城に入り、城主・松井氏の家臣となったが、永禄11年(1568年)12月、徳川家康が二俣城を落とすと、徳川家康の家臣となった。松平勝俊(康俊)は、駿府今川館へ。

──井伊直親は、松平元康とは非常に仲が良かったが、今川氏真との仲は非常に悪かったという。
井伊直親と松平元康の仲が良かったのは、井伊直平と松平広忠(松平元康の実父)が仲が良く、松平元康と井伊直盛も「桶狭間の戦い」では共に先鋒を務めた仲であったことも関係しているという。

井伊直親と今川氏真との仲が悪かった理由は不明である。
『井伊家伝記』には、井伊谷城(城主:井伊直親)と引馬城(城主:井伊直平)の城主交換を今川氏真が認めなかったから仲が悪くなったとあるが、学者は「引馬城主は井伊直平ではなく、飯尾連龍であるから」と、この説明を否定している。
人質交換後、ドラマでは「寿桂尼が助命嘆願をしてきた次郎法師を恨んだ」とするが、史実は「今川氏真が人質交換の仲介者である井伊直親を恨んだ」であり、これが井伊直親と今川氏真との仲が悪くなった理由ではないかとも思う。

さて、ドラマでは、偽の松平元康が、井伊直親に鷹狩に誘ったとしている。
『井伊家伝記』には、井伊直親は松平元康とは仲が良く、「鹿狩」と称して井伊領を案内したり、岡崎へ行ったりしたとある。
「鷹狩」は野原で行う。「鹿狩」は山で行う。井伊領では伊平の鹿狩が有名であるが、山間部では伊平以外でも普通に行われていた。井伊氏(藤原氏)にとって、鹿は氏神である春日神の使いではあるが、鹿肉は臭いので、干し肉にしたという。なお、「鹿」を「しし」と読み、「鹿&猪狩り」だと解釈している学者もいる。

話は飛ぶが、徳川家康が虎松(後の井伊直政)に会って、召し抱えることを決める。その理由には2説ある。
説①は、『井伊家伝記』の「井伊直親は、松平元康(徳川家康)に内通したことが報告されて殺されたので、彼の実の子であるならば、徳川家康としては、召し抱えないわけにはいかない」による説であり、説②は「容姿端麗の『ただならぬ子』であったから」である。
このドラマでは、説①は成立しない。説②は、藤原共資が、井戸から生まれた井伊共保を養子にしたのと同じ理由であり、このドラマでは、説②を採用し、「井伊家中興・虎松(井伊直政)は、井伊家初代・共保の生まれ変わり」として、「虎松が生まれると、『井伊共保出生の井戸』に水が湧く」など、「ただならぬ子」の伏線が敷かれている。
もしかしたら、ドラマでは、「あの時、合力していれば、そなたの父は死なずに済んだかもしれない。すまぬ」と徳川家康が言って、虎松を召し抱えるのかもしれないが。

おそらく脚本家は、井伊直親を、三浦春馬さんを、「主家である今川家を裏切った悪人」ではなく、「今川家の罠にハメられて殺されたかわいそうな人」にしたかったのであろう。
少なくとも井伊直親は宗主であるから、結婚の許可願いや、嫡男誕生の報告など、折に触れて駿府今川館へ行かなければならなかったし、「桶狭間の戦い」の前に今川軍が浜松を通過する時に挨拶しているはずで、松平元康の顔を知らないわけがない。
小野政次も、定期的に駿府今川館へ報告に行っていたというから、松平元康と会っていたはずである。

──都田川の向こうに今川の兵が押し寄せております。
この「今川の兵」とは、掛川城主・朝比奈泰朝の兵であり、一説によれば、朝比奈隊は、井伊直親を討つと、井伊谷城を攻め、中野直由は奥山城に逃げ、その奥山城も攻められて奥山朝利が討死し、中野直由は加茂(西川城か?)に逃げたという。
比較的信用できるとされる史料『濱松御在城記』には、次のようにある。
【原文】「永禄五年三月ハ井伊谷、同年四月ハ引間、同年七月ハ嵩山、此三城へ駿河ヨリ人数ヲ差向、被攻候。井伊谷、嵩山ハ落去。引間ノ城ニテハ、寄手ノ大将・新野左馬助、討死。」
【意訳】永禄5年(1562)、今川氏は謀反の罪で、朝比奈隊に3月に井伊氏の井伊谷城(井伊直親の命日は12月14日ではなく3月2日)、7月に奥山氏の市場城(豊橋市嵩山町)を攻め落とさせた。4月には新野隊に飯尾氏の引馬城を攻めさせたが、落とせず、逆に攻める側の大将・新野親矩が討死した。

井伊直親は、
「此度の事、某の失態。某が申開きに参れば、それで済むことでございます」
と言った。
寿桂尼の目的は、井伊直親を殺すことではなく、井伊家を潰すことだと思われるが、井伊直親は「松平の合力無しで押し寄せている今川軍と戦えば、井伊家は消滅する。松平の合力が得られないのであれば、自分が駿府へ行って誅殺されれば、それで事が収まる。自分がいなくなっても『ただならぬ子』の虎松がいるし、井伊家は残る」と考えたようだ。

──この日、直親は、僅かな伴を連れ、駿府へ向かった。誰もが直親が生きて戻れるとは思ってはいなかった。(by ネット界では「死神」と呼ばれている龍宮小僧のナレーション)

南渓和尚「やると決めたのは直親じゃ。いざという時の覚悟はしておろう」
井伊直平「儂はもう、これ以上、見送るのはごめんじゃ~!」
しの(虎松と共に夜遅くまで起きていて)「お会いになりたいかと」
次郎法師「待っておるからな、亀! 何をしても、どんな卑怯な手を使っても、戻ってくるのじゃ!」

「誰もが直親が生きて戻れるとは思ってはいなかった」というが、次郎法師だけは諦めが悪かったようだ。
明日、太守様が死んで、今川館が焼けるかも……。

さて、井伊直親の運命やいかに? ※「さらば愛しき人よ」 ってタイトルだけど、まだ井伊直親は、死んじゃいないぞ!

(つづく)

今回の法話 「嘘も方便」(うそもほうべん)

「方便」は仏教用語で、「仏が衆生を真実の教えに導くために用いる手段・方法」という意味である。
日常用語としては、「ある目的を達するため便宜的に用いられる手段・方法」という意味で使われる。
したがって、「嘘も方便」で、「嘘をつくことは悪いことだが、時と場合によっては必要なこともある」という意味になる。

先に今回の寿桂尼の罠は、「裏切られてからでは遅いから、その前に裏切る可能性があるかないか試す」というものであると書いたが、実際は、「井伊家を滅ぼす目的で嘘をついた」のである。

井伊直親「戻ったら一緒になってくれ・・・返事は?」
次郎法師「・・・心得た」
この次郎法師の返事は本当? 嘘?
ここは「純愛」「子供の頃からずっと好きだったんだな」と涙する場面である。

井伊直親の言葉は真実であろう。死を覚悟した人間が嘘をつくはずがない。
ここで「妻子がいるのに、こんな事を言うとは、がっかりした」と井伊直親が嫌いになった人が多いと思うが、戦国時代では、宗主に側室がいない方が異常である。

一方、次郎法師にしたら、井伊家庶子家の奥山氏が正室で、井伊氏嫡流の自分が側室になることは考えられないので、普通の状況であれば、断るか、「正室と離婚したら。正室としてなら結婚してもいい」とでも言うのであろうが、井伊直親はずるい。
この状況で、死出の旅に向かう人へ「No」と返事する人はいないであろう。

「待っておるからな、亀! 何をしても、どんな卑怯な手を使っても、戻ってくるのじゃ!」
という言葉からは、「何が何でも結婚したい」という気持ちではなく、「何が何でも生きて帰ってこい」という気持ちが強く感じられる。

井伊直親は、第5話で、信州から井伊に帰り、
「おとわは、縁談を断り、出家し、俺の竜宮小僧になると言った、と。俺はの。おとわ。俺はそれを聞いて、はいつくばっても、井伊に戻ろうと思った。熱を出した時も、おとわの顔が浮かんだ。追手に斬られそうになり、山中を彷徨った時も、『こんな所では終われぬ。もう一度、生きておとわに会うのだ』と。俺が戻ってこられたのは、おとわのお陰じゃ」
と言っている人物であるから、ここは、「嘘も方便」で、「結婚してあげる」と言っておけば、どんな手を使っても、生きて帰ってきそうである。

とはいえ、状況は違った。
信州へ落ちる時は、熱を出してお椀を落としたり、大平右近次郎という一人の弓の名人に狙われたりしただけであったが、今回は、弓を持つ多くの兵士に取り囲まれてしまった。絶体絶命のピンチである。

上ノ郷城(愛知県蒲郡市神ノ郷町城山)

 

キーワード:人質交換

松平元康の悩みの種は、駿府に妻子がいることでした。

話はそれますが、「人質交換」で思い出すのが、竹千代(後の徳川家康)の人質交換です。
三河国の松平広忠(竹千代の父)が、尾張国の織田信秀(信長の父)に攻められ、今川義元に援軍を申し込むと、今川義元は、「人質を出せば援軍を出す」というので、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を差し出したのです。しかし、駿府へ行く途中に立ち寄った田原城で継母・真喜の方(実母は於大の方であるが、兄・水野信元が、今川氏と絶縁して織田信秀に従ったために離縁された)の父・戸田康光の裏切りにより奪われ、尾張国の織田信秀に売られ、織田氏の人質になって、織田信長と知り合い、それが後の清洲同盟に繋がったと言われています。(異説あり。)

今川義元の軍師・太原雪斎は、安祥城(愛知県安城市安城町)を攻めて織田信広(織田信秀の子。織田信長の庶兄)を生け捕りにすると、竹千代と人質交換しました。
人質交換の場所は、相手の領地内で行うのが通例で、尾張国の笠寺(愛知県名古屋市南区笠寺町の笠覆寺)で行われました。この後、竹千代は、「桶狭間の戦い」まで、駿府で人質生活をおくることになったのでした。

※今回、今川軍が攻めてきて、次郎法師は、築山殿を人質にとり、松平氏の合力を得て今川軍と戦おうとして、失敗しました。織田氏に攻められた松平広忠は、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を差し出して今川義元に加勢してもらいました。今回、虎松を松平元康に差し出していたら、違った結果が得られたかもしれません。答えは一つではないのです。生き残るためには、形振り構わず、色々と試してみるのもよろしいかと。(松平元康は「岡崎から井伊まで兵を送る余力がない」と断りましたが、これは「合力する気が無い」ということですね。井伊直親の地図によれば、東三河の城は全て松平方になっています。合力する気があれば、岡崎衆を井伊へ送らずに、味方になった東三河の国衆の兵を井伊へ送ります。)

本陣(名取山)の「家康公の腰掛岩」

松平元康は、妻子の返還に、太原雪斎が自分に対して使った「人質交換」という手法を使おうと考えたのか、鵜殿長照(母は今川義元の妹(寿桂尼の娘)であり、寿桂尼の孫にあたる)が城主である「上ノ郷城」を攻めました( 『三河物語』では 「西之郡之城」。明治11年(1878)に蒲形村と西之郡村が合併して蒲郡村となった。つまり、「蒲郡」は合成地名で、上ノ郷城(「宇土城」「鵜殿城」 とも)は西之郡村にあった)。

堅城である上ノ郷城はなかなか落城しませんでした。(この様子を、松平元康は、本陣(名取山)の「家康公の腰掛岩」に座って見ていたそうです。)夜になって松平元康は、忍者(甲賀衆(津野図書・太郎左衛門など)や忍び上手の坪原放心・三郎など約20人)を忍び込ませ、城内に火を放たせました。その結果、落城。そして、鵜殿長照の2人の子(氏長、氏次)を捕らえました。残念だったのは、鵜殿長照を捕えられなかったことです。人質は2人の子のみでした。

※上ノ郷城主・鵜殿長照は、「桶狭間の戦い」の時、徳川家康が兵糧入れした大高城の城代である。そして、徳川家康の側室の西郡局や初恋の相手のお田鶴の方の兄弟である。(余談:瀬名姫の幼名は「於鶴」、お田鶴の方の幼名は「於亀」で、徳川家康は、生まれた娘に初恋の人の名前を付けたので、瀬名姫が怒り、夫婦仲が悪くなったと伝えられている。また、西郡局と結婚したのは、お田鶴の方と容姿が似ていたからという。)

※ドラマでは、「鵜殿長照は切腹」としていたが、一説に、城から脱出できたものの安楽寺(愛知県蒲郡市清田町。久松俊勝&於大の方の菩提寺の1つ)の横の坂で伴資定に討ち取られたという。この坂は、「鵜殿坂」と呼ばれ、この坂で転ぶと、「その時の怪我は一生治らない」とされている。

※上ノ郷城には鵜殿長照に代わり、上ノ郷城攻めの指揮を執った久松俊勝(於大の方の再婚相手)が入った。久松俊勝は、居城・坂部城(「阿久比城」「英比城,」「阿古屋城」とも。愛知県知多郡阿久比町卯坂)を長男・信俊に譲り、於大の方と共に蒲郡に住んだ。

《徳川家康略年表》
永禄2年(1559)3月6日 竹千代(後の信康)誕生
永禄3年(1560)5月6日 華陽院(源応尼)没
永禄3年(1560)5月8日 今川義元、三河守就任
永禄3年(1560)5月19日 今川義元、桶狭間で討死
永禄3年(1560)6月4日 亀姫(後の加納御前)誕生
永禄4年(1561)1月20日 「當國と岡崎鉾楯之儀」
永禄4年(1561)2月 松平元康、将軍・足利義輝に馬を献上
永禄4年(1561)4月11日 牛久保城の戦い「岡崎逆心之刻」
永禄4年(1561)6月17日 「今度松平蔵人逆心」
永禄4年(1561) 今川氏真、龍拈寺口で松平方の人質を串刺し
永禄5年(1562)1月 織田信長と「清洲同盟」締結
永禄5年(1562)2月4日 上之郷城攻め
永禄5年(1562)3月 関口親永夫妻、駿府関口屋敷にて自刃
永禄5年(1562) 義元からの偏諱「元」を返上し、「家康」に改名
永禄9年(1567)12月29日 松平家康、「徳川」に改姓

さて、駿府には松平元康やその家臣の人質が11人いたそうです。
駿府で松平元康を育てた祖母・華陽院(於富。源応尼。於大の方の実母)は、「桶狭間の戦い」直前の5月6日に亡くなったので、松平元康の人質は、正室・瀬名姫(築山殿)、嫡男・竹千代、長女・亀姫の3人になります。

人質交換を申込んだ時の今川氏真の返答は次のようなものだったそうです。
「そちらが鵜殿長照の2人の子なら、こちらも松平元康の2人の子」

松平元康は、究極の選択に迫られました。
①鵜殿長照の2人の子と松平元康の2人の子を人質交換し、瀬名姫は離縁する。
②もう1人、瀬名姫(今川庶子家の娘)と同格の人質を用意する。

通常は①です。
松平元康は今川氏真と別れて織田信長に付いたのですから、今川庶子家の娘を返してもらう必要はないし、返してもらっても岡崎城に入れたら家臣たちの反感をかい、瀬名姫は疎んじられる事でしょう。
ドラマでは、松下常慶(1558年生まれなので、当時4歳のはず。多分、秋葉修験の叶坊と混同している)が、
「瀬名様達は捨て置かれるはずでございました。三河の者たちは、今川の出の妻子など捨て置けば良い、と。それを殿や石川様があまりに忍びない、と。ああいう苦肉の策に出られたのでございます」
と説明しています。

・「今川の出の妻など捨て置けば良い」には納得
・「子など捨て置けば良い」には疑問

松平元康の父・広忠は、於大の方の実兄・水野信元が今川方から織田方に移った時、於大の方を離縁して、水野家に返しています。そして、於大の方は、久松氏と再婚しました。
しかし、於大の方の子である竹千代は、松平家に残しました。このケースでも「今川の出の瀬名は離縁して今川氏に残し、竹千代と亀姫は取り戻そう」と考えるのが普通です。

松平元康は、実母と離れて暮らす辛さを体験していますので、「自分と同じ苦しみを、自分の子には味あわせたくない」との親心から、瀬名も取り戻そうと、瀬名に匹敵する人質探しをします。選ばれたのが於大の方の子・松平勝俊(康俊。松平元康の異父弟)でした。
松平康俊は、駿府の人質屋敷で暮らしていましたが、武田信玄が駿府に侵攻した時、捕えられて甲斐国に送られました。脱出に成功しますが、凍傷で両足の指を全て失ってしまったそうです。

《久松俊勝の子》
「寛永系圖に、菅家の支族久松麻呂(或は久松丸に作る)尾張國智多郡阿古居に配流せらる。其子孫、「久松」を稱號とすといふ。」(菅原道真の子孫・久松丸が知多郡阿久比町に流されて土着し、その子孫は「久松」と名乗った。『寛政重修諸家譜』)

前妻のと子
・久松信俊(定員):坂部城主
・娘:一色詮勝室

後妻(於大の方)との子
・松平康元:上ノ郷城主
・松平勝俊:康俊。今川氏真の人質→武田信玄の人質
・多劫姫(桜井松平忠正室。後、松平忠吉室、後、保科正直室)
・松平定勝:山内一豊に代わり掛川藩主
・松姫(松平康長室)
・娘:松平家清室
・娘:松平家清室
・娘

「味方、また、今川方西郡の城をせめて、鵜殿藤太郞長照を生どる。長照は、今川氏眞近きゆかりなれば、「氏眞、これを愁る事、甚しき樣なり」と聞て、石川伯耆守數正、謀を設け、かの地にまします若君と長照兄弟をとりかへて、若君をともなひ岡崎にかへりしかば、人みな數正が今度のはからひゆゝしきを感じけり。」(『東照宮御實紀』)

さて、この人質交換で、松平氏の人質がいなくなってしまったことを今川氏真は腹立たしく思い、瀬名姫の実父・関口親永を切腹させ、その妻・佐名も殺害したそうです。ただ、駿府今川館に呼び出されたわけではなく、関口屋敷で切腹していることから、織田信長の傅役・平手政秀が、織田信長を諌めるために切腹したように、関口親永も今川氏真を諌めるために、自ら腹を切ったとも考えられています。
※ドラマには、瀬名の父親である今川庶子家の関口親永(後に井伊谷徳政令で登場する関口氏経の父とする説あり)が登場しないので、松下常慶が「今川の出の妻子(だから捨て置けば良い)」と言った時、意味(瀬名の家は今川庶子家)が理解出来なかった視聴者がおられたようです。
松平元康も憤慨し、今川義元からの偏諱「元」を返上し、「家康」と改名しました。「家」は源義家の「家」、「康」は松平清康(家康の祖父)の「康」だとか。

惣持寺と守護社の築山稲荷(愛知県岡崎市)

 

キーワード:築山殿

徳川家康の正室の名は、分かっていません。(一説に「鶴姫」「於鶴」だという。)
「瀬名氏の娘」であるので、便宜上、「瀬名姫」(結婚前)、「瀬名」(結婚後)と呼んでいます。

※瀬名氏:瀬名(西奈)に移住させられた遠江今川氏(堀越氏)の一派。
※関口氏:関口荘(愛知県豊川市)を本貫地とする今川庶子家。持舟城主。
※瀬名義広:瀬名姫の父親。関口氏の養子になり、関口親永と名乗った。

徳川家康の正室は、岡崎(現在の愛知県岡崎市)に移ってからは、「築山」に住んだので、「築山殿」「築山御前」、あるいは、「駿河御前」と呼ばれました。ただし、築山殿が住んでおられた屋敷の位置は分かっていません。次の3つの説があります。

説①:岡崎場内の築山曲輪の屋敷
説②:築山(地名)にあった惣持尼寺
説③:築山(地名)にあった屋敷

ドラマでは「寺」とされていました。石川数正が入って竹千代に剣術の指南をしていて、従者も男性でした。惣持尼寺は、男子禁制ですので、別の寺ということになります。(何寺だろう?)
なお、現在は、男性が住職になったので、尼寺ではなくなり、「惣持寺」と称しています。
当時の築山殿の屋敷には、次郎法師のように、「岡崎城には入れてもらえないが、松平元康と繋がりたい人物」が数多く出入りしていたと言いますから、説③が正しそうです。

さて、築山殿の気持ちは、ドラマでは、「(今川氏真の妻になって)今川家を乗っ取る」から、「(母・佐名の遺言で、徳川家康と協力して)今川家を乗っ取る」に変わったと設定されています。しかし、伝承の築山殿は、あくまでも今川家の人間であり、「今川義元の敵を討ちたい。どうやって織田信長を殺そうか」とばかり考えていたそうです。

築山殿にとって、夫の徳川家康は、
・仇である織田信長と同盟を結んだ人物
・父親の領地(初代関口氏以来の領地である「関口荘」)を攻めて奪った人物
・両親の自害の原因となった人物
・愛する我が子を奪った人物(竹千代と亀姫は岡崎城内にいた)
であって、夫・徳川家康を愛していたかどうか、今川家を乗っ取る協力者として考えていたかどうか。

今回の第11話には、史実とは異なる話が複数あるように思われます。
「これが史実」というわけではありませんが、最後に「通説」(広く知られている話)を載せておきます。

【井伊家:小野正次の讒言】
井伊直親は、今川忠臣であった。家老の小野政次は、井伊直親に「もうすぐ今川氏は滅びるから、徳川方に移ったほうが良い」と助言すると、井伊直親は、「其事、以の外、不義なり。我、先祖より代々今川家に従ひ、ニ心無き故、今に至り懇ろなり。勿論、勇士として戦場に落命する事は、武門の常にして望む所なり。然るに、御辺不義の心にて我までも不義に入んとの心底はいかが」(主家と共に戦場で戦って死ぬのは武士らしいが、主家を裏切るのは武士らしくない)とたしなめた。小野政次は、「不義」と言われ、恥ずかしくて顔を真赤にして退散したが、「今川を見限っていることが井伊直親にばれてしまったのはまずい」と思い、駿府へ行き、今川氏真の片腕である三浦義鎮に「井伊直親が今川氏真を裏切ろうと考えている」と嘘を言った。三浦義鎮は、井伊直親が嫌いだったので、これ幸いと、掛川城主・朝比奈泰朝に「井伊直親を討つべし。これは今川氏真の命令である」と嘘をついた。これを耳にした新野親矩が、井伊直親に報告すると、井伊直親は「駿府へ行って、今川氏真に申し開きをした上で小野政次を成敗する」と行って駿府に向かったが、途中、掛川において、三浦義鎮に騙された今川忠臣・朝比奈泰朝が、「これは今川氏真の命である」と今川忠臣・井伊直親を討った。井伊直親の大の親友だった奥平定能は悲しみ、引馬城主・飯尾連龍を誘って、今川氏を離れ、松平氏についた。怒った今川氏真は、新野親矩に命じて引馬城主・飯尾連龍を攻めさせるが、新野親矩は、流れ矢が当って絶命した。

【松平家:人質交換】
駿府今川屋敷に早馬が到着した。馬に乗ってきたのは石川数正ではなく、小原鎮実(今川氏真の片腕である三浦義鎮の父親)であった。
「三州上ノ郷城の城主・鵜殿長照殿討死。ご子息達は生捕となったるよし」
怒った今川氏真は、三浦義鎮と相談し、瀬名親子を殺害の上、三河国に攻め入ることを決めた。これを耳にした瀬名の父・関口親永は、驚くが、今川氏真は、三浦義鎮の言う事しか聞かないので、どうしたものかと新野親矩に相談した。新野親矩は、三浦義鎮に会い、「瀬名姫は今川一族である。一族を殺したら今川氏の評判は落ち、離反者が出る。さらに、妻が殺された松平元康は怒って、同盟者の織田信長と一緒に駿府に攻めてくる可能性が高い」と言うと、三浦義鎮は納得し、今川氏真に「考え直した」と、新野親矩の考えを自分の考えとして伝えると、今川氏真も納得して、瀬名親子は殺されなかったという。

瀬名親子について「心配だ」と石川数正が言うと、松平元康は、「捨て置け」と言った。石川数正は、重臣たちに「殿に逆らう。駿府へ行く」と手紙を出して、駿府へ向かった。駿府では、三浦義鎮にお世辞を言って、仲良くなった。十分仲良くなったので、もういいだろうと、「松平元康は、鵜殿長照の子たちを駿府へ戻したいと思っているが、家臣は反対している。困ったものです。そこで、松平の家臣を納得させるために、『人質交換』という形をとったらどうでしょうか」と提案し、「三浦殿の意見として今川氏真へ言えばいい」「人質交換が成立すれば、鵜殿長照の子たちが駿府へ戻って、今川氏真の怒りもおさまり、あなたの株もまた上がる」「松平の家臣は、あなたの情けに涙し、松平を離れて、今川に付くでしょう」と次々とお世辞を言って、人質交換を成功させた。嘘も方便。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

-井伊家を訪ねて

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