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井伊家を訪ねて

南渓和尚の正体は? なんだか複雑そうな佐名との関係は? おんな城主直虎ロケ地巡り&レビュー

 

おとわが人質に指名されて駿府(静岡県静岡市)へ向かった道。
井伊直親が弁明のために駿府へ向かった道。
そのロケ地へ行ったら………木が………伐られてる………諸行無常。

3/15には松林が消える

※TOP画像 おんな城主直虎のロケ地・伐採作業中で立入禁止

【今日の仏教用語】 「諸行無常(しょぎょうむじょう)」

「諸行無常」とは、「この世のものには、永遠・不変のものはない」ということです。
重要なのは、この言葉は単に「この世に不変なものはない」と真理を語っているだけであって、「不変は善で、変化は悪」、あるいは「不変は悪で、変化は善」という評価を含んだ言葉ではないということです。
世の中には、変わらない方がいいものもあれば、変わった方がいいものもあります。現状がよくない状態であれば、永遠に続いてもらっては困る、変わって欲しいのです。

数ヶ月前のロケの時、東海道の松並木に見立てた保安林が伐られて無くなっています。
美観が損ねられて残念だと思いますし、ドラマが終わるまで残しておいて欲しかったですが、東海地方は今すぐ大地震が起きてもおかしくない状態だそうです。
地震後の津波は、保安林の木々の間をすり抜け、あるいは、木々を押し倒して街を襲うわけで、早急に防潮提を築かないと、安心して暮らせないのです。

【第3話 「おとわ危機一髪」 あらすじ】

おとわが鶴丸(小野政次)との結婚を避ける方法として、「家出」の次に考えたのは「出家」であった。髪を切ったことにより、鶴丸との結婚は避けられた。
しかし、「亀之丞を殺せ」「おとわを鶴松と結婚させよ」という下知(命令)に立て続けに従わなかった井伊家のおかげで面子を潰された主家の今川家は、「おとわを人質に出せ」と下知してきた。

──この御下知に従わなければ、井伊家は成敗される。
おとわは、「策はある」という南渓瑞聞和尚を信じ、駿府(今川氏の本拠地である静岡県静岡市)へ。策とは「おとわを出家させることで許してもらう」ということで、今川義元への直訴は出来ないため、義元の軍師・雪斎禅師(太原雪斎)と、義元の母・寿桂尼から今川義元へ進言してもらおうとする。

ところが、「井伊に恨みを抱かせるのは得策ではない」と言う南渓和尚に対し、雪斎禅師は「歯向かう気概は今の井伊にはあるまい」と受け入れなかった。更に佐名も、南渓和尚からの手紙を破いて寿桂尼への取り成しを拒否した。
南渓和尚の策はどちらも失敗し、おとわはピンチに!

「龍王丸(後の今川氏真)に蹴鞠で勝てば、願いをきいてもらえる」
そう聞いたおとわは、何度も挑戦して、勝利すると、
「井伊にお返しいただきたく存じます」
と願ったのだった。

雪斎禅師は「よい戦いをした者には褒美をとらせるのが武門の習い」と言い、寿桂尼も「龍王丸にも見本を示さねばなりませぬしね」と支持。今川義元は、おとわの願いをきく。
井伊直平が鶴丸を拉致したことを知った雪斎禅師が、「歯向かう気概が今の井伊にはまだあるから、井伊に恨みを抱かせるのは得策ではない」と考えたのであり、佐名は、寿桂尼に手紙を出して出家の承認を頼んでいてくれたのである。

小野政直は、息子をおとわと結婚させることに失敗。
「息子が拉致された」と雪斎禅師に報告したのが裏目に出てしまったが、今川義元は小野政直を利用価値の高い人間だと評価していた。

妙雲寺(井伊直虎の菩提寺)の案内板

出家

人生のポイントは「生・就職・結婚・死」だと言われます。
井伊直虎の場合は、「生・就職(地頭就任)・出家・死」だったようです。
地頭(当時の「地頭」は「領主」の意)の家に生まれ、男兄弟がいなかったので地頭となり、生涯未婚のまま亡くなるという人生でした。

井伊直虎の人生を語る上で欠かせない「出家」でありますが、その時期も理由も分かっていません。

《出家の時期:理由》
①8歳(1544年):井伊直満の謀反の連座
②9歳(1545年):亀之丞の逃亡(死亡?)
③13歳(1549年):縁談を断るため
④18歳(1554年):南渓和尚、龍潭寺二世住職に就任
⑤24歳(1560年):桶狭間の戦い(伝承)
⑥不明:夫の死亡時(野田説)
※年齢は、井伊直虎の年齢を、井伊直親(1535年生まれ)の1歳下と仮定した場合。

最も早く出家したとするのは、「井伊直満の謀反の連座で処刑されそうになったので、出家して命乞いをした」とする説です。
井伊直満の子・亀之丞の連座は、当時としたらよくある話ですが、その妻ならともかく、婚約者にまで罪が及ぶという話は聞いていませんし、宗主・井伊直盛は無罪ですから、今川氏としては、おとわを生かしておいて利用する、すなわち、今川寄りの家老・小野政直の息子・鶴丸と結婚させる方がよいと考えたはずです。
「おとわを井伊直満の謀反の連座で処刑せよ」という下知(命令)をしたとは考えにくいです。

『井伊家伝記』には、「亀之丞が信州へ落ち行き候故、御菩提の心、深く思し召して、南渓和尚の弟子に御成りに成られ、剃髪成され候」とあります。
「菩提心」とは、「出家したいと思う気持ち」であり、「死者の冥福を弔いたい気持ち」ではありません。

ただ、『井伊家遠州渋川村古跡事』という古文書に、「亀之丞は急病で亡くなり、傅役(井伊直満家老)・今村藤七郎は切腹したとデマを流して逃げた」とありますから、井伊直虎は、このデマを信じて亀之丞が死んだと思ったのかもしれません。
あるいは「もし生きていても、井伊谷に戻ったら殺されるので、一生、戻ってくることはない。つまり、死んだも同然」と考えて、亀之丞の冥福、あるいは、無事を祈るために出家したのかもしれません。

当時、男性は15歳くらいで元服して結婚します。結婚相手は同じ歳か少し下がいいというので、女性の結婚適齢期は13歳くらいになり、初潮を迎えると、縁談が届いたようです。

亀之丞への愛を貫きたいおとわとしては「家出」に失敗して、「出家」以外に縁談を断る方法を見つけられなかったのでしょう。江戸幕府の公式文書『寛政重修諸家譜』には、
「女子 直親に婚を約すといへども、直満害せられ、直親信濃国にはしり、数年にしてかへらざりしかば尼となり、次郎法師と号す」
とあります。これは「婚約者の直親が逃亡し、数年(5年ほど?)たって、結婚適齢期になっても帰国しなかったので(縁談を断るために?)尼になり、『次郎法師』と称した」という意味にとれます。

『系図纂要』には「十八歳為尼」とあります。「18歳の時」というのは、南渓和尚が龍潭寺の住職になった1554年のことかな?
※南渓和尚は天文20年(1551年)、龍潭寺開山黙宗和尚から「南渓」の号を授かり、天文23年(1554年)4月6日に黙宗和尚が示寂されると、龍潭寺二世となっています。「南渓」と名付けられるまでの経歴は不明です。

※『系図纂要』は、直虎の戒名「月舩祐圓」を「貞松祐圓」としていることもあり、ちょっと信用できません。「18歳」も「8歳」の誤りと思ってしまいます。

おとわの出家の時期と理由については、以上のように諸説あります。

地元では「桶狭間の戦い」で殉死した父・直盛の首を見て愕然とし、父の菩提を弔うために母と共に出家した(写真:妙雲寺の案内板)とも言われています。

また、野田浩子氏(彦根城博物館学芸員)は、出家は夫が死んだ時にするものであるから、おとわは井伊直親以外の人物と結婚し、その夫が死んだ時に出家したとする新説を発表されています。(『彦根城博物館研究紀要』26号所収。下記「資料」参照。)

ドラマでは、今川家から「おとわを人質に出せ」と行ってきたので、南渓和尚が、おとわが鶴丸の結婚を避けるために出家しようと思って髪を切ったことをヒントに、「いっその事、おとわを出家させれば、人質に出さなくてもよい」と考えたのが出家の理由だとしています。

臨済寺(龍潭寺と同じ臨済宗妙心寺派の寺)

 

駿府今川館の人々

綺羅の駿府は「第二の都」と呼ぶにふさわしい華やかな場所でした。井伊直満が、娘婿(予定)のおとわに、「駿府土産」として買った鼓は、井伊谷では手に入りにくくても、駿府では容易に手に入ったことでしょう。

・今川義元(今川家の宗主)
・雪斎禅師(今川家の軍師)
・寿桂尼(今川義元の母)
・佐名(井伊直平の娘で、関口親永の妻)
・瀬名(佐名の娘)
・龍王丸(今川義元の子。後の今川氏真)

この時期の今川家の政治は、「雪斎禅師が助言して、今川義元が最終決定をする」というパターンで、寿桂尼は、政治をこの2人に任せていたようですが、彼女の影響力もそれなりに大きかったと考えられます。
南渓和尚は、そういう今川家の実情を佐名から聞いていたのか、よく知っていたようで、「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」とばかりに、自ら雪斎禅師にアプローチ、寿桂尼へのお取り成しは佐名に頼みました。

井伊直平の時、龍潭寺(当時は龍泰寺)は臨済宗に改宗し、龍潭寺も臨済寺と同じく臨済宗妙心寺派の寺となりましたので、「南渓和尚と雪斎禅師が一緒に妙心寺で学んた期間があるかも?」と調べてみました。
すると、雪斎禅師が妙心寺にいた期間は分かりました。しかし、南渓和尚がいた期間は分かりません。南渓和尚については、上に書いたように、「南渓」と名付けられるまでの経歴が不明なのです。

※一緒に学んでいた期間があれば、南渓和尚は雪斎禅師を「兄弟子」と呼ぶでしょうけど、ドラマでは「同じ宗門の先達(せんだち)」と呼んでいました。ドラマでは、「『兄弟子』では馴れ馴れしいから『先達』とした」のかもしれません。年齢的に「雪斎禅師が妙心寺を出てから、南渓和尚が妙心寺に入った」という設定なのでしょう。※ちなみに、南渓和尚も雪斎禅師も臨済宗妙心寺派で、共に妙心寺で学んではいますが、厳密には南渓和尚は東海派で、雪斎禅師は霊雲派で異なります。

井伊家の軍師的存在の南渓和尚頂相

 

南渓和尚の正体

今川家にとって軍師・雪斎禅師の存在が大きかったように、井伊家にとっては、南渓和尚の存在が大きかったようです。
特に今川家のように、敵を倒すだけの「武力」を持つ戦国大名ではなく、地方の国衆に過ぎない井伊家では、生き残るための「知力(知恵)」が重視されたことでしょう。

南渓和尚の正体については、
①「井伊直平の実子」
とされていますが、
②「井伊直平の養子」説
もあります。

井伊家系図には、直平の子として掲載されているので、「井伊直平の実子」とされてきましたが、龍潭寺に残された過去帳に、父親の戒名が「実田秀公居士」と書かれており、井伊直平の戒名と異なることから、「井伊直平の養子」説が生まれました。

南渓和尚の正体については、「武芸に長けた武士であったので、井伊直平に見込まれ、佐名と結婚して井伊直平の娘婿となったが、佐名が今川家に人質に出されると、武士をやめて出家した」となるかな。
このように結論づけた理由は、今回の佐名とのぎこちないやりとりや、井伊家では佐名の事を触れないようにしているといった状況、「南渓」と名付けられるまでの経歴が不明なことや、地元の「南渓は武芸に優れ、井伊直平は僧侶ではなく、武士にしたかった」という伝承があることです。

さらに言えば、瀬名は南渓和尚の子で、今川義元が佐名に手を出した時に身籠っていることが分かったので、関口親永に下げ渡したとも考えられます。
いずれにせよ、南渓和尚の正体は、第20話で明かされるそうです。

資料:野田浩子『「井伊家伝記」の史料的性格』(一部抜粋)

(前略)直親が信州に遁れたのは天文十三年(一五四四)のことであるが、直盛は大永六年(一五二六)生まれと考えられるため、直盛白身がこの時十九歳で、その娘がみすがらの意思をもつほどの年齢であるとは考えにくい。直盛がもう少し年長で、その娘が判断力のある年齢であったとしても、井伊家の跡継ぎと考えていた直親が井伊谷を離れた以上、直盛の跡継ぎは当主の娘に婿をとる以外に方法はない。家の継承を考えれば、彼女の私的な感情により出家が認められるはずがない。実際のところは、彼女に婿を迎えて直盛の跡継ぎとしが、婿が死去したため彼女は出家したというものであったのではないだろうか。
この時代、当主に娘しかいない場合、娘に婿を迎えて跡継ぎとする例が見られる。戦国武将では、立花闇千代の例がある。彼女は豊後の大名大友氏の重臣であった戸沢鑑連(立花道雪)の娘で、鑑連には男子がいなかったことから、一旦は娘に家督を譲り、その後同じ大友氏重臣の息子である宗茂を闇千代の婿に迎えて跡継ぎとした。
「井伊家伝記」では、別人である婿と直親が混同されて話られた可能性があると考える。もちろろん単なる誤認の可能性もあるが、直政の家督継承に対する龍潭寺の功績を述べるためには、直親のために次郎法師が出家し、その出家は南渓によるもので命名もしているという逸話が仕立てられたのではないだろうか。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

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