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明智軍記

『明智軍記』現代語訳と原文 第9話「信長公妹被嫁浅井事付斎藤龍興落居事」

「信長公の妹、浅井へ嫁(かせ)らるる事。付けたり、斉藤竜興、落居の事」

【現代語訳】

そうしているうちに、美濃衆の過半数(東美濃)は織田信長に従うようになったが、以前として斉藤竜興は、稲葉山城にいて立ち去ろうとしなかったので、どうやって滅ぼしたらよいかと軍議を開くと、丹羽長秀が「近江国の佐々木六角氏と昵懇(じっこん)の仲になれば、その威光で、敵・美濃国から、次第に織田方へ帰服(帰順、服従)する者が多く出るでしょう」と言った。織田信長は、「その通りだ」と思ったのか、近江国から参った浅井政貞を観音寺城主・佐々木義秀と、彼の後見の箕作義賢(入道承禎)のもとへ遣わし、万事、手ぬかりないよう、穏やかな言葉で提案させると、佐々木義秀は、「後見の承禎次第だ」と言って、箕作承禎に聞いてみると、箕作承禎は熟慮した上で、「最近の織田信長の様子を聞くに、鬼神をも欺く程の大将のようなので、昵懇の仲になりたいと思う。そうとなれば、織田信長と婚姻関係を結び、根を深くし、帯を固くするのが良い。ところが、当家には、結婚適齢期の未婚の男子がいない。ただ、縁者である浅井久政の子・浅井長政には、妻がいないので、彼を織田信長の縁者になさればよい。佐々木義秀殿、兎にも角にも(そうされよ)」と言った。箕作承禎が浅井政貞に伝えると、浅井政貞は、浅井久政と同族なので(話は早いと)観音寺城から直に浅井久政の居城・小谷城へ伺候して、浅井久政に伝えると、浅井久政は歓喜して、「全て浅井政貞に任せる」と言った。数日後、浅井政貞は、清洲城に帰り、近江国の様子を詳細に織田信長公へ申し上げ、和睦し(同盟を結び)、結婚となった。

殊に浅井氏の先祖を聞くと、藤原北家閑院流正親町三条家(嵯峨家)の一門の正親町三条実政公の孫・公綱卿の子・重政は、永正年中(1504年から1521年まで)に、近江国浅井郡小谷庄(現在の滋賀県長浜市)に初めて住み、土着して公家を離れ、武士になった。浅井久政は、浅井重政の四代孫で、浅井賢政の孫・浅井亮政の子である。(浅井亮政、久政、長政を「浅井三代」といい、浅井久政は弱かったが)今の宗主・浅井長政は、強い武将である。

織田信長は、佐々木六角氏と浅井氏は近い縁者であることを聞き、「両家共に頼もしいことだ。私の妹・市姫をあげよう」と言って、折返し浅井政貞を近江国へ遣わすと、浅井久政は、大喜びして、市姫を迎えるために、一族の浅井福寿庵惟安(これやす)、(この結婚の仲介者とする説もある)家臣の安養寺氏種、「浅井三将」の一人・赤尾清綱の3人を尾張国へ送った。織田信長は、市姫に丁寧に化粧を施すと、佐々成政と福富秀勝を伴わせ、4月中旬に、市姫を乗せた御輿は、小谷城に入った。こうして、尾張国、三河国、近江国が同盟を組んだという噂が広まると、美濃衆は弱まって織田信長の矛先の鋭さに恐れをなし、「主君・竜興(通説では義竜)は主君ではあるが、親を殺した不孝者だ」「織田信長は、先君・義竜(通説では道三)の娘聟だ」として、「味方になります」と、清洲へ降参してきた武将には、「美濃三人衆」(「西美濃三人衆」とも)の稲葉良通(一鉄)、氏家直元(卜全)、安藤守就(道足)の他、蜂屋頼隆、不破光治、丸尾三郎兵衛、遠藤慶隆、遠山友政、原師親、金森長近、西尾五右衛門、加藤左衛門、竹中采女、伊藤彦兵衛らを大将として、それぞれ100人から200人を引き連れて降参した。

その後、織田信長は策を考え、「三河国へ侵攻する」と嘘の陣触れをして、尾張国小牧で軍勢を揃えると、東(三河国)へは向かわず、北(美濃国)に向かい、北方の渡しを越えて美濃国へ入り、永禄8年(1565年)8月1日、諸将に「美濃国井ノロを攻め取れ。進め、勇士たちよ!」と命令すると、柴田勝家隊、佐久間信盛隊、森可成隊、滝川一益隊、丹羽長秀隊、毛利秀高隊の兵士は、先を争って、瑞竜寺から背後の瑞竜山に登り、峰継きに因幡(稲葉)大菩薩(美濃国三宮・伊奈波神社)を経て、その後方の金華山(標高328.8m)の山頂にある稲葉山城へ攻めかかった。また、加納大宝寺(岐阜県岐阜市大宝町)や「鏡島(岐阜県岐阜市鏡島)口」から稲葉山城へ攻めかかる軍隊もあった。蜂屋頼隆、遠山友政、原師親、金森長近は、東の山に陣を張った。「西美濃三人衆」である大垣の氏家直元、曽祢の稲葉良通、河戸の安藤守就は、西美濃から馳せ参じた。総て強兵の10000余人が、鬨(とき)の声を発して、昼夜を問わず攻め、戦った。斉藤竜興の方にも、揖斐、船木、池田、国枝、長井、日比野、岩田、加々井、山田、大桑といった1000余人は忠義心は強かったが、敵・織田軍が突然攻めてきたので、慌て、騒いで、なんとか稲葉山城に立て篭もり、身命を顧みず、「ここが勝敗の分かれ目」だとして防戦した。稲葉山城は、名城ではあるが、食料の備蓄が乏しく、水も少なかったので、長期間の篭城戦は難しく、8月15日、斉藤竜興は降参して城を開け、長良川を越えて、どこともなく退散した。織田信長は、稲葉山城を請け取り、弟・織田信包、柴田勝家、丹羽長秀を入れ置き、尾張国へ帰った。

その後、残党を退治して、以上6年をかけて、美濃国を悉く平定した。美濃国稲葉山城は、舅・斉藤義竜(通説の道三)の居城であった城であるので、ここを居城にすることにして、尾張国清洲には、子・織田信忠を置いたが、まだ12歳で若かったので、林秀貞、平手汎秀、長谷川宗兵衛を付け、那古野城と小牧山城などは城割(破壊)し、翌・永禄9年(1566年)3月15日、清洲から美濃厚見郡井ノ口に移り、地名を「岐阜」と改めた。織田信長、33歳の時の話である。

【原文】

去る程に、濃州過半、織田信長に隨(したが)ふと雖も、猶、斉藤竜興、井ノロの城に在りて、退去、之れ無き故、如何して亡ぼすべき由、群議の処に、丹羽五郎左衛門長秀申しけるは、江州の佐々木と御入魂(ごじっこん)御座(おはしま)し候はば、御威光、宜しくして、敵国より次第に帰服の者多く御座有るべきと存じ候とぞ申しける。現(げに)もとや思はれけん、江州より参りける浅井新八郎を使節として、観音寺の城主・佐々木修理太夫義秀、並びに、其の後見の箕作(みつくり)左京太夫義賢(よしかた)入道承禎(じょうてい)が許(もと)へ万端互いに如在(じょさい)有る間敷旨、詞(ことば)を和(やはら)げ申し越されければ、佐々木義秀は、何様にも承禎次第と申されけり。因て茲(これ)に承禎入道、推し量つて申しけるは、近年、信長の挙動(ふるまひ)を聞き候に、鬼神(をにかみ)をも欺く程の大将と承り候ヘば、御悃意(ごこんい)の儀、然るべく承り存じ候。左候はば、信長と縁を組み、根を深くし、帯(ほぞ)を固ふする行(てだて)有るべき事に候。然れ共、当家に於ひて、存寄(ぞんじより)仁なし。但し、御縁者にて候、浅井下野守久政の子息・備前守長政は、妻女(さいじょ)之れ無く、是を信長の縁者に成さられ然るべき旨申しければ、佐々木殿、兎(と)も角(かく)もとぞ宣(たま)ひける。抜関斉(ばっかんさい)承禎、則ち、新八郎に此の旨、申し含めしかば、新八は久政と一族の故に、観音寺より直に浅井が居城・小谷へ伺候(しこう)し、下野守に此の由、申し聞かせけり。久政、喜悦して、万(よろ)づ新八を頼み入るとぞ申されける。日を経て、清洲に罷り帰り、江州の様子、委細に信長公へ申し上げければ、和睦、相調(あひととの)ひ、御祝着成されける。

就中(なかんずく)、浅井が先祖を聞くに、藤氏閑院の三条内大臣実政公の孫・大納言公綱卿の息・新左衛門尉重政は、永正年中に、江州浅井郡小谷庄に始めて居住し、公家を離れ、弓箭(きゅうせん)を帯(たい)せらる。久政は、重政に四代、兵庫頭賢政の孫・備前守亮政(すけまさ)の子息也。今、備前守長政は、勇健なる弓取りと云ふ。佐々木と浅井は近き縁者の由、聞なれば、互ひに頼母敷事ぞかし。然らば某が妹を遣はすべしとて、押し返へし浅井新八を近江へ遣はされければ、下野守久政、大悦斜めならず。則ち、迎いとして、一族・浅井福寿庵、家臣・安養寺三郎左衛門、赤尾美作守、三人を尾州へ指し越しけり。上総介、懇志に粧(よそをひ)を刷(かいつくろ)ひ、佐々内蔵肋、福富平左衛門を差し副(そ)へ給ひて、卯月中旬に、御輿、小谷へぞ入りにける。斯くて、尾州、参州、江州一致に成,りぬと聞こへしかば、濃州の士卒等(ら)是に弱り、殊には信長の鋒(ほこさき)尖(するど)なる形勢に臆して、俄に竜興の不義を悪(にく)み、愚意を誹(そし)って、上総介殿は先君・義竜の好(よしみ)なれば、御味方に参るべしとて清洲へ降参しける輩には、稲葉伊予守、氏家常陸介、安藤伊賀守、蜂屋兵庫頭、不破河内守、丸尾三郎兵衛、遠藤左馬助、遠山久兵衛、原彦次郎、金森五郎八、西尾五右衛門、加藤左衛門、竹中采女、伊藤彦兵衛、是等を宗徒士(むねとのさむらひ)として、百騎、二百騎引き連れ、引き連れ、各々畏服申しけり。其の後、信長の計略に、三河表へ働く事有りと陣触れして、尾州小牧にて勢を汰(そろ)へ、東へは向かはずして、北方を打ち越へ、永禄八年八月朔日、諸卒に下知して、濃州井ノロを攻め取るべし。進めや勇士共と宣ひければ、柴田、佐久間、森、滝川、丹羽、毛利の兵、先を諍(あらそ)ひ、瑞竜山に取り上り、峯継きに因幡大菩薩の社壇の後なる高嶺(こうれい)を凌(しの)ぎて、本城に責め近く、又、加納大宝寺、鏡島ロより向もあり。蜂屋、遠山、原、金森は、東の山に陣を張る。大垣の氏家、曽祢の稲葉、河戸の安藤は、西美濃より馳せ参る。総て堅甲(けんきょう)の逞兵(ていへい)、一万余騎、鯨波(ときのこえ)を発して、昼夜を分けず攻め戦ふ。竜興の方にも、揖斐、船木、池田、国枝、長井、日比野、岩田、加々井、山田、大桑の者共、一千余人、忠を抽(ぬきんず)べき志(こころざし)は有り乍(なが)ら、敵、俄に寄り来るの間、周章(あはて)騒(さはい)で、漸々(やうやう)本城に楯篭もり、身命を軽(かろん)じ、爰を専度(せんど)と防ぎけり。因幡山、名城たりと雖も、粮(かて)乏(とぼし)く、水少なければ、始終抱(かか)へ難きにより、同月十五日、斉藤右兵衛太夫竜興、降を乞ひ、城を開きて奈賀良川を超へて、何地(いづち)ともなく退散也。即ち、城を請け取り、舎弟・上野介信包、柴田修理亮勝家、丹羽五郎左衛門長秀を入れ置き、尾州へ御馬をぞ納(いれ)られける。其の後、余党を退治有りて、以上六年にして、濃州悉く平均。然れば、舅・義竜の跡なれば、美濃国を居城に成さるべしとて、尾州清洲には、嫡子・三郎信忠の十二歳に成り給ひけるに、林佐渡守、平手監物、長谷川宗兵衛を付けて留め置かれ、那古野城、小牧杯(など)をば割り捨て、翌年丙寅三月十五日、清洲より美濃厚見郡井ノ口に移り給ひ、所の名を改め、岐阜と号(なづけ)、信長三十三歳にて居城にこそ定(さだめ)られける。

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