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明智軍記第6話【現代語訳】
明智光秀は、約10日間、山代温泉の湯に浸かっていたので、小瘡(汗疹。皮膚病の1種)は完治した。
この湯治中に、敷地天神(菅生石部神社)、山中薬師(医王寺)、那多観音(那谷寺)へ参詣した。この時、薗阿上人のもとへ、長崎称念寺から、越前国名物の「豊原そうめん」が送られてきたので、温泉宿の主人をはじめ、近所の人、近隣の輩、明智光秀の従者など10余人、その他、下人に至るまでに振る舞われ、茶を飲み、語らっていた。
そこへ、越前国から飛脚が来て「今月19日、京都二条御所にて、足利将軍義輝公が、三好三人衆と松永久通(松永久秀の嫡男。この時、松永久秀は大和国にいた)に殺された」と告げた。
「遠国は静謐」(京都から遠く離れた国は静か)であった。
温泉宿の主人は、そう聞くと、明智光秀に
「上方は大変だろうけど、遠国は穏やかで何よりです。さて、公方様が天下の主君であることは知っていますが、私のような下賤の者にでもよろしければ、公方様の歴史を教えてきた頂きたい」
と望むと、薗阿上人も
「愚僧も足利将軍の先祖については詳しく知らないので、出家の身であるが、同じ太陽の下で暮らす者であるから、聞きたい。屋根を打つ五月雨もそれほどうるさくないので、徹夜してお話下さい。温泉宿の主人と共に、後学の為にお聞きしたい」
と言い、その場に居た全員が「聞きたい」と何度も願うのです。
明智光秀は、
「私もはっきりとは分からない長い物語ですが、皆さんが望むのであれば、ざっとお話しましょう。但し、元弘年中(1331年~1334年)から応安(1368年~1375年)までの話は、『太平記』という本の概略になります」
と断った上で話し始めた。
「抑々、公方の始祖・足利尊氏公は、強敵・新田義貞を、暦応元年(1338年)閏7月2日に、越前国吉田郡藤島(現在の福井県福井市)での「藤島の戦い」で破って、天下を手にし、征夷大将軍に在職すること22年間。延文3年(1358年)4月29日、54歳で亡くなりました。
足利尊氏公の子・足利義詮公は、跡を継ぎ、第2代将軍として在職すること10年間。貞治6年(1367年)12月7日、38歳で亡くなりました。
足利尊氏公の弟・足利基氏は、鎌倉に住み、鎌倉府の長官(鎌倉公方)となり、関八州、並びに、伊豆、越後、佐渡、出羽、陸奥国、合計13ヶ国の主君となりましたが、足利義詮公と同じ貞治6年(1367年)の4月26日に、28歳で亡くなりました。足利基氏の子・氏満、孫・満兼、ひ孫・持氏の4代を世に「鎌倉公方」と申します。
さて、第2代将軍・足利義詮の子・足利義満公は、応安元年(1368年)に11歳にして第3代将軍となり、(まだ幼かったので)細川頼之を執事として天下を治めていたところ、応安3年(1370年)の秋、後醍醐天皇の皇子・後村上天皇を擁して、南朝軍が台頭してきたので、細川頼之、斯波義将、畠山基国、山名氏清、赤松光範等、大軍勢で、楠木正成(まさしげ)の子・楠木正儀(まさなり)と合戦し、楠木正儀を河内国南部へ追い込みました。そして、この南朝軍へ押さえとして、山名氏清を和泉国堺に留め置いて、他の軍勢は帰陣しました。
また、九州では、菊池武光等の南朝軍が、日本国王良懐・懐良親王を吉野殿(吉野朝皇居)から九州へ来ていただき、「征西将軍宮」(せいせいしょうぐんのみや)と称し、「九州を制圧する」と企てたのを「無視できない」として、応安7年(1374年)の春の頃、第3代将軍・足利義満は、京都から九州へ向けて出陣しました。大隅の島津氏久を除く「九州三人衆」の2人、すなわち、豊後の大友親世、筑前の少弐冬資に伊東、大内義弘を先陣とし、細川、斯波、畠山、土岐、佐々木、京極、一色、赤松、今川、荒川等、合計10万余騎、九州に至り、菊池武光と合戦しました。菊池武光は負けて降参しました。それで、九州探題に今川了俊を置き、同年応安7年(1374年)9月には、九州から足利義満公は京都に帰られました。
こうして「一天平安」、天下泰平の世になると、永徳元年(1381年)の春、後円融天皇は、初めて足利将軍の「花の御所」(北小路室町)へ行幸(みゆき)して、足利義満を太上大臣に任じました。これより、「公方」と号し、いよいよ足利将軍家のご威光が示されました。
その後、山名氏清は、南朝軍の楠木正勝と数回戦って、「平尾合戦」をはじめ、毎回、山名氏清が勝ちました。この勝因は、楠木正勝の父・楠木正儀(死亡年と死因は不明)が数年前に病死してから、南朝軍の勢いが衰えたからだといわれています。
こうした時、山名氏は、全国66ヶ国(正確には68ヶ国)の内、11ヵ国の守護を兼ね、「六分一殿」(日本の1/6を領する殿)と呼ばれた威勢を誇り、足利将軍に叛逆し、明徳2年(1391年)12月下旬、和泉国堺(大阪府堺市)から攻め上って「明徳の乱」となりました。山名軍の総大将は山名氏清で、以下、嫡男(長男)・時清、次男・満氏、三男・熈氏、甥(兄の子)・満幸、弟・義数(高義)、兄・氏冬、兄・義理、弟・氏重、丹波守護代・小林義繁(山名氏清は丹波守護)、小林上野介等で、「内野合戦」(大内裏跡。京都府京都市中京区)、さらに、洛中(京域内)へ攻め入りました。足利将軍義満の味方は、細川頼之、細川頼元、斯波義重、畠山基国、大内義弘、今川泰範、一色詮範、一色満範、佐々木満高、京極高詮、赤松義則、山名時熈、山名氏幸(氏之)等、防戦して、悉く敵・山名軍を追い散らしました。大晦日(明徳2年12月30日)、山名氏清は、内野で自害しました。山名一族は、討死、あるいは、敗北して、「明徳の乱」は終わりました。(この結果、支配地が11ヶ国から3ヶ国に減りました。)
明徳3年(1392年)の夏、畠山義深(1379年没。畠山義深の嫡男・畠山基国の誤り)は、和泉国堺から出陣して、楠木正勝と合戦し、楠木正勝が篭もる「楠木七城」の1つ千早城(大阪府南河内郡千早赤阪村大字千早)を攻め落としました。楠木正勝は、吉野の十津川城(奈良県吉野郡十津川村)に引き篭もりました。
その後、楠木正勝の弟・楠木正元は、密かに京都に入り、将軍・足利義満の命を狙いましたが、露見して殺されました。楠木氏の一味である菊池貞頼(少弐貞頼の誤り?)や少弐忠資(直資)、千葉、大村、日田、星野、赤星等は、九州で陰謀を企てましたが、大内義弘が平定しました。
既に足利将軍・義満公は、38歳で入道し、「鹿苑院道義」と号していました。
応永5年(1398年)、足利一族の斯波義将、細川頼之、畠山義深(畠山基国の誤り)を「三管領」とし、山名時熈、京極高詮、赤松義則、一色詮範を「四職」と定めました。特に斯波氏は、「武衛」と号して、天下の政治を行いました。
大内義弘は、「三管領」「四職」に漏れた事を恨んで、和泉国堺(大阪府堺市)に引き篭もり、謀叛「応永の乱」を起こしました。これに依り、公方・足利義満公は、馬廻り2000余人を率いて東寺、さらに石清水八幡宮(京都府八幡市)まで進んで幕府軍本陣を置き、管領職の面々(細川頼元、赤松義則、畠山基国、畠山満家、斯波義将、斯波義重等、3万余人)を和泉国に派遣し、堺を攻めさせました。大内義弘は、応永6年(1400年)12月21日、戦死しました。大内義弘の子・大内持世は、降参しました。
応永15年(1408年)5月6日、公方・足利義満、51歳にして亡くなりました。第3代将軍として在職すること40年間でした。
第3代・足利義満公の御子・足利義持公が第4代将軍となると、天下泰平で、庶民は「万歳」と叫びました。
応永30年(1423年)の春、足利義持公の御子・足利義量公が将軍になりますが、応永32年(1425年)2月27日、足利義量公は、19歳で亡くなられました。正長元年(1428年)まで、第3代将軍として在職すること6年間でした。
第4代将軍・足利義持公は、43歳で亡くなりました。第4代将軍として在職すること15年間でした。
お世継ぎがいなかったので、鎌倉公方・足利持氏の子・賢王丸(後の足利義久)を養子にして継がせる案が出ましたが、三管領と四職の7人で相談して(一説に籤引きして)、足利義持公の弟で、出家している青蓮院(京都府京都市東山区粟田口三条坊町)の僧・義円(ぎえん)を還俗させて、「義教」と名乗らせ、第6代将軍としました。
永享10年(1438年)、鎌倉に住む賢王丸は、鶴岡八幡宮(神奈川県鎌倉市雪ノ下)で元服し、「義久」と名乗りました。この時、関東管領(鎌倉府の執事)・上杉憲実は、主君である鎌倉公方(鎌倉府の長官)・足利持氏公に対し、「賢王丸殿の元服式における命名は、先例通り、足利宗家の宗主である公方に一字賜り、臣従を示すべきである」(足利義持から「持」を頂戴して「持氏」と名乗ったように、「義久」ではなく、足利義教から「教」を頂いて「教久」と名乗るべきである)と忠告したのですが、受け入れられなかったので、上杉憲実は、憤慨して、公方に訴えた。足利義教公は怒り、「永享の乱」となりました。駿河国守護・今川範忠、甲斐国守護・武田信重、信濃国守護・小笠原政康、並びに、越前国守護・武衛(斯波氏)の名代・朝倉教景等、数万騎を率いて鎌倉を攻めました。関東管領・上杉憲実は、この時に、主君である鎌倉公方・足利持氏に叛き、幕府軍と共に戦ったこともあり、永享11年(1439年)2月10日、足利持氏、義久父子は自害しました。
足利義久の弟である春王丸と安王丸は、家臣の結城氏朝、持朝父子が迎え、結城城(茨城県結城市結城)に立て篭もったので「結城合戦」となりました。幕府軍は、上杉清方を総大将として大いに攻め、戦い、嘉吉元年(1441年)4月16日、結城氏朝、持朝父子、悉く討死し、春王丸、安王丸は、生け捕られ、後に美濃国で殺されました。
それから数年後、足利持氏公の四男・成氏を関東の武将たちは、主君として、再び鎌倉に置いたのですが、事情があって下総国古河(茨城県古河市)に移りました。足利成氏、政氏、高基、晴氏、義氏、以上の5代を「古河公方」といいます。
ここに赤松則祐の孫で、赤松義則の子・赤松満祐は、生まれつき小柄で「三尺入道」(身長120cm)と呼ばれていたのを、公方・足利義教公は、常々戯弄(きろう)していました。その上、公方・足利義教公は、赤松満祐の娘を給仕のために召し寄せて殺害しました。さらに公方・足利義教公は、(永享12年(1440年)3月17日には、赤松満祐の弟・赤松義雅の領土を没収して、一部を遠縁(またいとこ)の赤松貞村に与えていましたが、)嘉吉元年(1441年)の夏の頃、赤松満祐の支配地である備前、播磨、美作国も没収して赤松貞村に与えようと思いました。赤松満祐、教康父子は、これを聞いて、深く恨んだものの、顔には出さず、何気なく公方・足利義教公を、自宅に招くと、6月24日に来られたので、遊宴、猿楽でもてなしました。当時、鎌倉公方・足利持氏の従弟(いとこ)の福井貞国が、公方・足利義教公の近習になっていて、足利持氏が殺されたこと怒っていることを知り、赤松満祐は誘い、頃合いを見定めて、赤松満祐は太刀を抜き、即時に公方・足利義教公を殺しました。足利義教公は48歳、第6代将軍として在職すること12年間でした。
さて、赤松満祐、教康父子は、白幡城(兵庫県赤穂郡上郡町赤松)に引き篭もりました。京都では、大騒ぎになっていました。将軍の嫡子・足利義勝(8歳)を主君として白幡城の赤松満祐を攻めました。追手(大手、正面)は細川持之、細川持常、大内持世、赤松貞村、武田信賢が、搦手(裏手)には山名持豊(宗全)、山名教清、山名教之等、各々(おのおの)赤松と激しく戦いました。山名一族が大仙口から乱入すると、嘉吉元年(1441年)9月10日、赤松満祐は自害し、嫡子・教康は、その後(9月28日)、伊勢国の北畠教具のもとへ逃亡しましたが、結局は自害しました。
嘉吉3年(1443年)7月21日、将軍・足利義勝、落馬して10歳にして亡くなりました。第7代将軍として在職すること3年間でした。
足利義勝の弟・足利義政は、8歳にて第8代将軍となりました。
そして、享徳3年(1454年)の夏頃から畠山政長と畠山義就は、従兄弟(いとこ)でしたが、仲が悪くなりました。その理由は、畠山政長は、室町幕府管領・畠山持国の甥(家督を継ぐ予定であった弟・持豊の子)でしたが、養子となりました。一方、畠山義就は、畠山持国の実子ですので、家督相続が問題となりました。細川勝元は、畠山政長に味方し、山名持豊は畠山義就に味方しました。
この後、河内国、大和国の周辺で争いが絶えませんでした。
また、その頃、斯波義健が亡くなって、子がいなかったので、斯波義敏を養子としたのですが、それはよくないと、斯波義廉を宗主にしました。こうして、確執が生まれました。
また、富樫家の相続を、富樫政親と大叔父・富樫泰高で争いました。細川勝元は富樫政親に味方し、畠山持国は富樫泰高に味方して、言い争いました。
こうして、公方・足利義政公は、30歳になるまで子がいなかったので、弟の僧・義尋(ぎじん)に天下を譲ろうとしました。義尋、辞退しましたが、たっての仰せであったので引き受け、寛正5年(1464年)の冬、還俗して、義視(通称「今出川殿」)と名乗り、細川勝元を補佐役にしましたが、足利義政公が天下を譲る気配はありませんでした。
そうしたなか、寛正6年(1465年)、足利義政公の御台所・日野富子が、男子を生むと、義尚と名付け、山名持豊(宗全)を補佐役としました。こうして2人の補佐役(細川勝元と山名持豊(宗全))の仲が悪くなりました。
応仁元年(1467年)の春、畠山義就と畠山政長との確執に依って、遂に天下の大乱「応仁の乱」が起こり、京都で合戦が繰り広げられました。畠山政長方(東軍)は、細川勝元を大将として、京極持清、赤松政則、斯波義敏、富樫政親、武田国信以下、その軍勢16万騎で、内裏から東山に陣を置きました。畠山義就方(西軍)には、山名持豊(宗全)を大将として、斯波義廉、一色義直、土岐成頼、佐々木高頼、大内政弘以下、その軍勢12万騎、都の西野に陣を置き、昼夜、朝夕、両軍の戦いが止む時は無く。文明9年(1477年)までの前6年、以後5年、合計11年間、戦い、その後は、各領国の各所で戦いが行われたといいます。
足利(今出川)義視公は、大乱を避け、伊勢国司北畠教具のもとへ亡命しましたが、公方・足利義政公から迎えが来て応仁2年(1468年)9月22日に上洛したものの、その後、文明9年(1477年)11月11日、美濃国土岐成頼のもとへ亡命しました。応仁(1467-1468)以後、兵乱のため、禁裏も焼失し、御所で保管していた旧記は紛失し、公家が保管していた伝記は悉く分散してしまいました。後花園上皇も、文明2年(1471年)12月27日、足利将軍の屋敷である室町殿で(中風で)崩御されました。
文明9年(1477年)の冬、足利義尚公は、征夷大将軍になられました。
文明12年(1480年)、足利義政公は、東山慈照院に隠居されました。それ以後、茶の湯(茶道)を好み、数奇道具(茶道具)を集めて鑑賞し、名香を炷(た)き、生花を愛し、盆石を求め、絵画を楽しみ、古筆(平安時代から鎌倉時代にかけて書かれた和様の名筆)を集め、彫刻を集め、刀を選び、珍味を味わい、風流を尽くされました。このような趣味の将軍は今までにいませんでした(将軍は武人であって、公家のような文化人ではなかった)。第8代将軍として在職すること30年間でした。
長享元年(1487年)の秋、六角高頼の反逆(公家領、寺社領、奉公衆の領地を横領して配下の国人衆に分け与えた)により、足利義尚公は、近江国(滋賀県)へ出陣しました(「長享・延徳の乱」「六角征伐」「鈎の陣」)。六角高頼は、甲賀山の山中に逃げ込みました。将軍・足利義尚は、近江国栗太郡鈎(まがり。滋賀県栗東市下鈎町)の安養寺に陣(鈎陣屋、真宝館、永正寺館)を置きました。
延徳元年(1489年)2月26日、鈎の陣中で、公方・足利義尚公は、(飲酒による脳溢血で)25歳にして亡くなりました。第9代将軍として在職すること15年間でした。
足利義尚公には跡継ぎがいなかったので、足利義視公の子・足利義材(足利義政公の甥)を征夷大将軍としました。この足利義材は、後に、足利義稙と名を改め、2度、将軍になった人です。また、足利義政公の弟である伊豆堀越(静岡県伊豆の国市)の堀越公方・足利政知公の子・足利義澄も足利義政公の甥であるので、猶子に成りました。
延徳2年(1490年)1月7日、足利義政公は、56歳で亡くなりました。
こうしているうちに、明応2年(1493年)の春、畠山政長は、将軍・足利義材公と共に、河内国へ出陣し、畠山義就の子・畠山義豊(基家)の誉田城(大阪府羽曳野市)を攻めました(「河内征伐」)。足利義材公と畠山政長は、正覚寺城(大阪府大阪市平野区加美正覚寺1丁目)に陣を置きました。こうしたところ、管領・細川政元は、将軍・足利義材に恨みがあって、畠山義豊と結託し、4月23日、「明応の政変」を起こし、正覚寺城を攻めて、畠山政長を討ち取りました。畠山政長の子・畠山尚順は、紀伊国へ落ちました。公方・足利義材も敗けて、周防国山口の大内義興を頼んで落ちました。第10代将軍として在職すること4年間でした。
明応3年(1494年)に、細川政元、畠山義豊等は、伊豆から足利義澄を迎へ、主君と仰ぎ、征夷大将軍に任命しました。
こうしたところ、永正4年(1507年)の夏(6月23日)、細川政元、細川澄之等は、家臣・香西元長等に湯殿で行水をしていたところを襲われ、暗殺された(「永正の錯乱」)ので、京都は大騒ぎとなりました。大内義興は、これを聞いてチャンスだと思い、永正5年(1508年)の春、九州、四国の軍勢を率い、前公方・足利義材公を伴って上方へ攻め上りました。こうして、永正5年(1508年)4月16日、将軍・足利義澄公、並びに、細川澄元、細川政賢等は近江国の六角高頼を頼って、近江国朽木谷(滋賀県高島市朽木野尻)、さらに近江国蒲生郡の水茎岡山城(滋賀県近江八幡市牧町)に落ちました。
永正5年(1508年)6月8日、足利義材公は、入洛し、名を足利義稙に改めて、再び征夷大将軍になり、大内義興を管領に任じました。
永正5年(1508年)の冬、足利義澄公に味方して、三好長秀が出陣し、阿波国(徳島県)から京都へ攻め上りました。これに合わせて、近江国から六角高頼が京都に入りました。とはいえ、負け戦で、三好長秀、弟・三好長光、三好長則等は、百万遍知恩寺(京都市左京区田中門前町)で自害しました。(この三好は、小笠原長清の後胤ですが、阿波国で一宮城(徳島県徳島市一宮町)を居城として「一宮」と称し、その後、阿波国三好郡を本拠地として「三好」と改めました。)
永正8年(1511年)8月14日、公方・足利義澄、32歳にして、近江国蒲生郡の水茎岡山城で病死しました。第11代将軍として在職すること15年間でした。
足利義澄公の家臣・細川政賢と六角高頼は、深く嘆き悲しみ、主君・足利義澄公が亡くなったことを隠して出陣し、突然。京都を攻めたので、永正8年(1511年)8月17日、将軍・足利義稙公、並びに、管領・大内義興等は、丹波国へ落ちました。
こうしたところ、足利義澄公の病死が露見したので、足利義稙公は、丹波国から京都へ戻り、永正8年(1511年)8月24日、船岡山で合戦となりました(「永正の船岡山合戦」)。この合戦で、細川政賢が討ち取られて、近江国勢は、敗けました。
永正9年(1512年)の春、足利義稙公は、近江国へ出陣そ、六角高頼を攻めました。戦に負け、公方・足利義稙公は、甲賀山に入られて、敵・六角高頼の攻撃を防いでいると聞いた越前国の朝倉孝景は、出陣して、近江国の観音寺城に向かうと、六角高頼は、甲賀表を引き払い、居城・観音寺に篭城しました。こうして、漸く将軍・足利義稙公は、甲賀山からの帰京が叶いました。
永正15年(1518年)8月2日、大内義興は、足利義稙公に恨みがあって、管領代を辞して堺を出て、10月5日に周防国の山口城(高嶺城。山口県山口市滝町)に帰りました。
大永元年(1521年)の春(3月7日)、細川高国、三好長慶、六角高頼等、前の公方・足利義澄の御子・足利義晴を擁して京都を攻めようとしました。この時、足利義稙公は、京都を去って淡路島(正確には淡路島の南4.6kmに浮かぶ沼島(ぬしま))へ落ちたので、世に「島公方」と申します。大永3年(1523年)4月9日、公方・足利義稙、58歳にして亡くなりました。将軍として在職すること足利義材として4年間、足利義稙として13年間、合計17年間でした。
さて、足利義晴公は、征夷大将軍になり、細川高国を管領として右京大夫に任じました。(この細川高国は、前の管領・細川政元の養子です。)その後、何があったのか、細川高国は、足利義晴公を恨んで、大永6年(1526年)の頃、四国へ赴き、大永7年(1527年)の冬、細川高国と三好長慶は、阿波国より京都へ攻め上りました。それで、公方・足利義晴公は、京都の西の桂川へ出陣し、細川晴元や朝倉孝景の活躍で、阿波勢を破りました(「桂川原の戦い」)が、細川高国は、まだ天王寺辺に留まり、京都を伺っていたので、享禄4年(1531年)の夏、細川晴元は、摂津国に向かい、細川高国とは従弟(細川晴元は細川政元の甥(養子)・澄元の子)ではあったが戦い、遂に細川高国は負けて(「中嶋の戦い」「大物崩れ」)、享禄4年6月8日、尼崎の広徳寺(兵庫県尼崎市寺町)で自害しました。
ところが、この細川晴元は、天文8年(1539年)頃から、公方・足利義晴公と敵対し、争いが絶えなくなりました。将軍・足利義晴公は、京都を去り、近江国朽木谷の朽木稙綱の居館に入り、後にまた、帰京されました。
天文15年(1546年)の冬12月20日、足利義晴公は、将軍職を子・足利義輝公に譲り、天文16年(1547年)の春、公方・足利義輝、義晴父子は、北白川に瓜生山城(京都市左京区北白川清沢口町)を築きましたが、天文16年(1547年)7月13日、細川晴元と六角定頼は、北白川の瓜生山城を焼き払いました。将軍・足利義輝、義晴父子は、近江国坂本に逃げました。その後、和睦し、細川晴元と六角定頼は、坂本に行き、公方・足利義輝、義晴父子は、帰京しました。
天文18年(1549年)の春、三好長慶は、細川高国の子・細川氏綱を擁して、摂津国の中島城(大阪府大阪市淀川区)に入城しました。これを聞いた細川晴元は、摂津国に出陣し、三宅城(大阪府茨木市大正町)に入城しました。三好長秀(宗三)は、細川晴元の味方として、江口城(大阪市東淀川区)にいて、細川氏綱や三好長慶と何度も戦いました。
天文18年(1549年)6月11日、江口の渡り(大阪市東淀川区)で、三好政長(宗三)と三好長慶という、伯父と甥が激しく戦い、将軍・足利義輝、義晴父子は敗け、三好政長(宗三)は、天文18年(1549年)6月24日に戦死しました(「江口の戦い」)。この敗戦で、公方・足利義輝、義晴父子、並びに、細川晴元、弟・細川晴賢、細川元常、六角義賢等は、京都を去って近江国東坂本の常在寺(園城寺五別所。滋賀県大津市)に留まりました。
天文18年(1549年)7月9日、三好長慶は、京都に入りましたが、滞留すること無く、摂津国へ帰りました。(三好長慶は、三好長秀の孫であり、三好長基(元長)の子で、細川氏綱の家臣でした。)
天文19年(1550年)の春、将軍・足利義輝公、如意ヶ岳(京都市左京区粟田口如意ヶ嶽町)に城を築き、「穴太山中」と号して、公方・足利義輝公は移られました。
天文19年(1550年)5月4日、前の将軍・足利義晴公は、病気に依り、穴太山(滋賀県大津市穴太)で40歳で病死しました。第12代将軍として在職すること26年間でした。
天文19年(1550年)の冬、三好長慶は、摂津国から上京し、東山、並びに、相国寺(京都府京都市上京区)、近江国大津などに立て篭もる将軍方の兵を追い払い(「中尾城の戦い」等)、城や民家を悉く焼き捨てて、摂津国へ帰りました。
その後、公方・足利義輝公は、細川氏綱、三好長慶と和解して、天文21年(1552年)1月28日、将軍・足利義輝公は、上洛しました。この日、細川晴元は、落髪して出奔しました。
永禄の初め頃(1558年頃)、足利義輝公は、毛利元就、朝倉義景、長尾輝虎を御相伴衆に加えられ、永禄4年(1561年)1月24日、三好長慶の子・三好義長(義興)は、上洛して、公方・足利義輝公の妹の聟になり、3月末日、将軍・足利義輝公を三好屋敷へ呼びました。御相伴衆は、細川氏綱、弟・細川藤賢、三好長慶、子・三好義長、松永久秀です。
三好義長は、永禄4年(1561年)7月ではなく、永禄6年(1563年)6月に病(黄疸?)に倒れ、8月25日、芥川山城(大阪府高槻市)で急死しました。これは、家臣・松永久秀に毒殺されたという噂です。三好義長に子が無いので、弟・三好義継を嫡男として、三好長慶の跡を嗣がさせました。その後、三好長慶は、永禄7年(1564年)7月4日、43歳で亡くなりました。今(永禄8年(1565年)5月19日)、天文18年(1549年)生まれの三好義継は、まだ17歳と若く、松永久秀は悪賢く、勢いがあり、将軍・足利義輝公は、勢いが衰えていますから、今回、三好三人衆(三好長逸・三好宗渭・岩成友通)と松永久秀の長男・久通が足利義輝公を暗殺したということは、十分ありえることです。足利義輝公は、柔和(優しく穏やかな性格)で、武将としては物足りないお方であったと聞いています。気の毒で、おかわいそうです。」
と言って、明智光秀が涙を流したので、薗阿上人をはじめ、一同、念仏を唱えて、悲しんだ。
こうして五更(午前4時頃)となり、夜が明けたので、明智光秀は、温泉宿の主人に別れを告げて、越前国一乗谷(正しくは長崎)へ帰った。
【原文】
然るに、明智十兵衛は、十日計り山代の温泉に入湯しければ、小瘡、悉く平癒す。逗留中に、敷地の天神、山中の薬師、那多の観音へ参詣しけり。其の折節、称念寺の許へ越前豊原の索麺を長崎より送りければ、国の名物とて、宿の主を始め、近隣の輩、並びに明智が若党十余人、其の外、下部に至る迄、饗応せられ、茶の湯など過ぎて物語有りし処に、越前より飛脚到来して「今月十九日、京都に於ひて、公方義輝公、三好、松永が為に弑せられ給ふ由をぞ告げたりける。
然れども、遠国は静謐の旨、申しけり。湯屋の亭主、此の由を承り、明智殿へ申しけるは、上方は何様にも候へ、国々穏やかに候こそ何より以て安堵仕り候。偖、公方と申そ奉るは、天下の主君とは承り候へども、下賤の我等は曾て其の由来を存ぜず候。憚りながら、御物語、承り度候とぞ望みける。其の時、園阿上人、宣ひけるは、愚僧も将軍御先祖の様子、委(くはしく)は知らざる候。縦(たと)ひ出家成りとも、日域に住む身なれば、聞き申し度き事に候。五月雨も示(しめ)やかなれば、終夜御咄候へ。亭主と共に承り、後学にすべし仰せられければ、満座、頻(しきり)に希(こひねが)ふ。即、十兵衛、申されけるは、某も分明ならざる長物語には候へども、当座の興に候へば、略増(あらまし)申すべし。但し、元弘年中より応安迄の儀は、 太平記と云ふ書に見へ候故、之を略すとて語られけるは、
抑々(そもそも)公方の先祖・足利将軍源尊氏公は、剛敵・新田左中将義貞を、暦応元年閏七月二日に、越前吉田郡藤嶋郷にして討ち捕り、天下を掌(たなごころ)に握り給ひ、治世廿二年、延文三年四月廿九日、五十四歳にて薨じ給ふ。御子・権大納言義詮卿、代を嗣ぎ給ひて、治世十年、貞治六年十二月七日、三十八歳にて他界也。
御舎弟・左馬頭基氏を鎌倉に居て、関東八州、並びに、伊豆、越後、佐渡、出羽、陸奥、以上十三箇国の主君と成りしに、是も貞治六年四月廿六日、廿八歳にて卒去せらる。
基氏の御子・氏満、其の子・満兼、其の子・持氏迄相続で四代、鎌倉の公方と世上には申也。
扨、将軍・義詮の御子・義満公は、応安元年に十一歳にて将軍を嗣せ給ひて、細川右馬頭頼之を執事として天下を治め給ふ処に、同三年の秋、後醍醐天皇の皇子・後村上の御方(みかた)と為し、南方の敵、泮(はびこ)るにより、細川頼之、斯波越中守義将、畠山播磨守基国、山名陸奥守氏清、赤松筑前守光範等、大勢を卒し、発向せしめ、楠左馬頭正儀と合戦して、楠を河内の南へ追ひ込みぬ。南方の敵、押さへとして、山名氏清を和泉の堺に留め置き、則、諸軍勢は帰陣す。
又、九州にて、菊池肥後守武光、始めより南方の御方と為し、良懐親王を吉野殿より申し下し、征西将軍宮と号し、筑紫を討ち取るべしと企てるに依て、閣(さしをき)難くして、応安七年の春の頃、征夷将軍・義満、都より九州へ発向。少弐、大友、伊東、大内を先陣とし、細川、斯波、畠山、土岐、佐々木、京極、一色、赤松、今川、荒川、以下、都合十万余騎、鎮西に至り、菊池と合戦あり。武光、討ち負け、降参を乞ふ。これに依て、筑紫の目代には、駿河蒲原の主・今川伊予貞世入道了俊を指し置かせられ、同年九月に西国より義満公、帰洛し給ふ。
則ち、天下泰平に依て、永徳元年の春、後円融院、初めて将軍の亭へ行幸成りて、義満を大政大臣に任ず。これより、公方と号し、弥(いよいよ)将軍家の威光とぞ見へにける。其の後、山名陸奥守氏清、南方にて、楠次郎左衛門正勝と数箇度戦つて、毎度、山名、勝利を得(う)。これは、正勝が父・正儀、去んぬる頃、病死に依て、南方の勢ひ、これ無き故と云々。
然る処に、山名、威勢に誇り、将軍に対し奉り、謀逆を起こし、明徳二年十二月下旬、和泉の堺より攻め上る。大将には山名氏清、嫡子・左馬助時清、次男・民部少輔満氏、三男・小次郎熈氏、山名播磨守満幸、同上総介義数、同中務大輔氏冬、山名弾正少弼義理、同駿河守氏重、小林修理亮、同上野介、以下、内野、並びに、洛中へ攻め入る。将軍の味方には、細川武蔵守頼之、同頼元、斯波義重、畠山基国、大内義弘、今川泰範、一色詮範、同満範、佐々木満高、京極高詮、赤松義則、山名時熈、同氏幸等、防戦して、悉く敵を追散す。大晦日に、山名陸奥守氏清、内野にして自害す。山名の一族、或は討死、又は敗北し畢んぬ。
同三年の夏、畠山尾張守義深、堺を発し、楠左馬頭正勝と合戦し、楠が篭もる千剣破(ちはや)の城を攻め落とす。正勝、十津河の城に引き篭もる。其の後、正勝が舎弟・兵衛尉正元、潜に京都に来り、将軍を躵(ねら)ふと云へども、顕れて殺さる。楠が一味・菊池肥後守貞頼、並びに、太宰少弐忠資、千葉、大村、日田、星野、赤星等、筑紫にて陰謀す。則、大内介義弘、これを平ぐ。既に将軍・義満公、三十八歳にて入道そ給ひ、鹿苑院道義と号す。応永五年に、斯波義将、細川頼之、畠山義深を三管領と為し、山名時熈、京極高詮、赤松義則を四職(注:一色詮範が抜けている)と定められ、殊に斯波を武衛と号し、天下の政道を行ふ。大内介義弘、三管領、四職に洩れぬる事を恨みて、和泉の堺に引き篭もり、謀叛す。これに依て、公方・義満公、八幡に屯(たむろ)成され、管領職の面々を泉州に遣はされ、堺を攻むる。大内介左京大夫多々良義弘、戦死す。其の子・持世は、降参す。
応永十五年五月六日、公方・義満入道道義、五十一歳にて薨御。治世四十年。
御子・義持公、代を嗣ぎ給ひ、天下、悉く治り、四海、波、静かにして、諸人、万歳をぞ唱へける。
応永三十年の春、御子・義量卿へ代を譲り御座す処に、同三十二年二月二十七日、義量卿、十九歳にて他界。正長元年迄、治世の分、六年。
前の将軍・義持公、四十三歳にて薨じ給ふ。治世、十五年也。
御世を嗣ぎ給ふべき御子、これ無き故、鎌倉左馬頭持氏の御息・賢王丸を御猶子に成らさるべき由、思し召されけるを、三管領、四職の輩、相議して、義持公の御舎弟の僧、青蓮院の儀円を還俗成し進(まいら)せ、義教と号し、六代目の将軍とぞ仰ぎける。
去る程に永享十年に鎌倉の賢王丸、鶴岡八幡宮に於ひて元服。左兵衛督義久と号す。其の節、執事・上杉安房守憲実、主君・持氏卿へ諌諍しけるは、賢王殿、御元服の儀、先例に任せ、京都の公方にて然るべしと達て申しけれども、承引無し。去るに依て、憲実、憤り、将軍へ訴ふ。義教公、則、今川上総介範忠、武田太郎信重、小笠原信濃守政康、並びに、武衛の名代・朝倉右衛門尉教景等、数万騎を卒し、鎌倉に攻め入る。上杉憲実、此の時に、叛逆し、上方勢と同意に合戦しける間、鎌倉方、討ち負け、同十一年二月十日、持氏、義久父子、自害せらる。義久の舎弟・春王丸、安王丸をば、其の臣・結城弾正氏朝、同七郎持朝、迎へ奉り、結城に楯篭もる。上方勢、並びに、上杉の一族等、大に攻め戦ひ、嘉吉元年四月十六日、結城氏朝、持朝父子、悉く討死、春王、安王は、虜(いけどら)れて、終に誅せら畢んぬ。
其れより数箇年を経て、持氏卿の四男・左馬頭成氏を関東の士卒共、主君として、再び鎌倉に居(す)へ申しけり。其の後、故有りて、下野国古河に移り給ふ。成氏、政氏、高基、晴氏、義氏、以上五代、相続きて、坂東には古河の公方と云ふ也。
爰に赤松則祐が孫、義則が子・播磨守満祐は、天性、小兵成りけるを、将軍、常に毀戯(きろう)せられ、其の上、満祐が息女を給仕の為、召し寄せ、剰え殺害し、扨又、嘉吉元年の夏の頃、赤松が所領・備前、播磨、美作を没収して、彼が三従兄弟(またいとこ)の赤松伊豆守貞村に宛行ふべき由、将軍・義教公、思し召しけり。満祐、同教康父子、此の旨を聞きて、深く恨むと雖も、色には顕さずして、小大(なに)となく公方・義教公を、赤松が亭ヘ御成りを願ひ奉りければ、則、六月二十四日、入御有りて、遊宴、猿楽の興を尽くす。其の頃、鎌倉の持氏の従弟(いとこ)・福井四郎左衛門貞国とて将軍の近習あり。持氏を亡(ほろぼ)されし事を心中に憤り思ふ。これを赤松、誘(かたらひ)ていて、能(よ)き時節を窺(うかが)ひ、満祐、太刀を抜き、即時に公方を弑し奉る。義教公は四十八歳、治世十二年也。
扨、赤松父子、播磨白幡の城に引き篭もる。京都の騒動、斜めならず。将軍の御嫡子・義勝、八歳に成り給ひけるを、主君として播磨を攻むる。追手は細川右京大夫持之、同讃岐守持常、大内介持世、赤松伊豆守貞村、武田大膳大夫信賢、搦手には山名右衛門佐持豊、同修理亮教清、同相模守教之等、各々(おのおの)赤松と大に合戦あり。山名の一族、大仙口より乱入に依りて、同九月十日、赤松満祐自害し、嫡子・彦次郎教康は、其の後、伊勢にて死亡す。
嘉吉三年七月廿一日、将軍・左中将義勝、落馬に依て他界。年十歳。治世三年也。御舎弟・義政、八歳にて代を嗣ぎ給ふ。
斯くて享徳三年の夏の頃より、畠山尾張守政長と畠山伊子守義就と従弟(いとこ)ながら不会(ふかい)也。其の故は、政長は、管領・左衛門督持国入道徳本が甥なるを猶子にす。義就は徳本が実子たり。これに依て、互ひに家督を論ず。細川勝元は、政長を贔屓(ひいき)し、山名持豊は義就を荷担す。此の後、河内、大和の辺にして、闘諍止む時なし。又、其の頃、武衛治部大輔義健、卒去して子、無き故、左兵衛佐義敏を猶子とせしが後、然るべからずとて、治部大輔義廉を又、武衛とす。茲に因て、確執あり。又、富樫介跡識を次郎政親と叔父の安高と諍ふ。細川勝元は、政親を取り持ち、畠山徳本は安高を救ひ、云ひ分あり。
去る程に、公方・義政公、三十歳に成り給ふ迄、御子、御座(おはしま)さざりければ、御舎弟の僧・義尋に天下を譲り給ふべき由なり。義尋、御辞退に及びしかども、達ての仰せの故、寛正五年の冬、還俗有りて、今出川大納言義視と号し、則、細川右京大夫勝元を老臣と定めらる。然れども、義政公、天下の就行、休意なし。
係る処に、同六年、義政公御台所、男子御誕生。義尚と号す。山名右衛門佐持豊入道宗全を老臣とせらる。これに依て、細川、山名の両臣、内心、不和なり。応仁元年の春、畠山義就と畠山政長と確執に依て、遂に天下の大乱となり、京都に於ひて合戦あり。政長方には細川右京大夫勝元を大将として、京極持清、赤松政則、斯波義敏、富樫政親、武田国信、已下、其の勢十六万騎、内裏より東山に陣す。義就方には、山名持豊入道宗全を大将とし、武衛義廉、一色義直、土岐成頼、佐々木高頼、大内政弘、以下、都合十二万騎、帝闕の西野に陣し、日夜、旦暮、軍、迫り合ひ止む時なし。文明九年に及ぶ前六年、後五年、以上十一年の間、軍戦有りて、其の後、国々へ帰り、猶、所々にて闘諍止まずと云々。
今出川義視卿、大乱を苦しみ給ひ、伊勢国司北畠教具が許へ趣き給ふと雖も、公方・義政公より御迎ひ至り、帰洛御坐(をはしまし)けるが、其の後、又、濃州土岐へ御下向也。応仁以後、兵乱の故、禁裏も焼亡し、本朝の旧記、紛失し、公家の伝記、悉く分散せり。後花園上皇も、将軍の亭・室町殿にて崩御成り給ひぬ。
文明九年の冬、義尚公、征夷大将軍を補す。同十二年、義政公、東山慈照院に隠居。其れより茶の湯を好み、数奇道具を翫(もてあそ)び、名香を炷し、立花を愛し、盆盞石を求め、画図を楽しみ、古筆を集め、雕物を寄せ、打物、銘作を撰み、珍膳を味(あぢは)ひ、風流を尽くし、係る奇物を弄び給ふ事、前代未聞也と云々。治世三十年也。
長享元年の秋、佐々木六角高頼、叛逆に依て、義尚公、江州へ発向あり。佐々木、甲賀山に引き入る。将軍は、則、鉤(まかり)の里に陣し給ふ。翌・延徳元年二月二十六日、江州鉤の陣中にして、公方・義尚公、二十五歳にて病死。治世十五年也。
代(よ)を嗣がらるべき方、これ無き故、義視卿の御息・義材は、義政公の御甥也。是を御猶子として、大将軍に補す。此の義材を後、義稙と改められ、両度の将軍也。又、義政公の御舎弟・伊豆堀越の政知卿の御子・義澄も慈照院殿の御甥なれば、是も御猶子に成さらるべき旨也。
延徳二年正月七日、慈照院義政公、五十六歳にて薨せらる。
去る程に、明応二年の春、畠山尾張守は、将軍・義材公を伴へ奉り、河内国へ発向し、畠山伊予守義就の子・弾正少弼義豊が誉田の城を攻る。義材公、並びに、政長は、正覚寺に陣す。然る処に、管領・細川政元、将軍に恨み有りて、義豊と同意し、四月廿三日、却つて正覚寺を攻て、政長を討ち取る。政長が子・尚順は、紀州へ落去す。公方・義材も敗北。周防国山口へ牢浪、大内介義興を憑み給ふ。治世四年也。
同明応三年に、細川右京大夫政元、畠山義豊等、伊豆より義澄を迎へ奉り、主君とし、大将軍に補す。
斯(かか)る処に、永正四年の夏、細川政元、同九郎澄之等、家人の為に殺され、洛中、騒動す。大内介義興、是を聞きて、同五年の春、九州、四国の勢を催し、前の公方・義材公を伴ひ奉り、上方へ攻め上る。茲に因て、同四月十六日、将軍・義澄公、並びに、細川澄元、同政賢、以下、江州へ没落也。
同六月八日、義材公、入洛。御名乗りを義稙に改められ、再び大将軍に補し、大内介多々良義興を管領に任ぜらる。同年の冬、義澄公の味方と為し、三好筑前守長輝、兵を卒し、阿波国より攻め上る。是に牒して、江州より佐々木高頼、京都に入る。然れども、軍に利、無くして、三好長輝、弟・長光、同長則等、都の百万遍知恩寺に於ひて自殺す。此の三好は、小笠原長清が後胤なりしが、阿波国にて一宮と号し、其の後、三好と改むる也。
永正八年八月十四日、公方・義澄公、近江国岡山にて病死。三十二歳。治世十五年也。
義澄公の臣・細川右馬助政賢、佐々木大膳大夫高頼、深く歎き、主君の薨逝を密(かく)して、兵を起こし、俄に都を攻るに付、同八月十七日、将軍・義稙公、並びに、管領・大内介義興等、丹波国へ落去す。
然る処に、義澄公病死の漏顕(ろけん)せしかば、義稙公、丹州より帰洛し、同八月二十四日、舟岡山に於ひて合戦す。細川政賢、戦死せしめ、江州勢、敗北也。
同九年の春、義稙公、江州へ発向し給ひて、佐々木高頼を攻めらる。軍(いくさ)却つて利無くして、公方、甲賀山に入り、敵を防がせらるるの由、越前の主・朝倉弾正左衛門孝景、聞きて、兵を卒し、江州観音寺の城に向ふに付き、佐々木、甲賀表を引き払い、居城・観音寺に篭城す。これに依て、漸く将軍、甲賀山より帰京也。
同十五年の秋、大内介義興、義稙公に恨み有りて、京都より住国・周防山口城に帰る。
大永元年の春、細川武蔵守高国、三好筑前守長慶、佐々木大膳大夫高頼等、前の公方・義澄の御子・義晴を取り立て進(まい)らせ、都を攻めんと欲す。茲に因て、義稙公、帝都を去て淡路島へ落ち給ふ。是を世間に島公方と申す也。同三年四月九日、五十八歳にて他界。治世十三年。始めの四年と都合十七年の将軍也。
扨、義晴公、征夷大将軍に補し、細川高国を管領とし、右京大夫に任ず。是は前の管領・政元が子也。其の後、如何成る事は有りけん、高国、義晴公に恨み有りて、大永六年の頃、四国へ趣き、同七年の冬、細川高国、三好長慶、阿波国より攻め上る。則、公方・義晴公、都の西、桂川へ出張、細川晴元、朝倉孝景を以て防戦し、各々、武功に依て、阿波勢を追い崩し、御勝利有りと雖も、高国、猶、天王寺辺に留まり、京都を闖(うかが)ふ。これに依て、同四年の夏、細川右京大夫晴元、摂州に下向し、細川武蔵守高国と従弟(いとこ)ながら、相戦ひ、終に高国、打ち負け、尼个崎にて自害す。晴元は政元が甥・澄元の子也。
然るに、天文八年の頃より、公方へ晴元、敵して、闘諍止む時なし。将軍、京を去り、江州、朽木民部少輔稙綱が館に入り、後、又、帰京し給ふ。天文十五年の冬、義晴公、御代を御子・義輝公に譲り、同十六年の春、公方御父子、北白河に要害を構へらるる処に、同七月十三日、細川晴元、佐々木定頼、北白河の城を焼き払ふ。将軍は江州坂本に篭居。其の後、和睦御座し、晴元、定頼、坂本に参向す。茲に因て、公方御父子、帰京也。
同十八年の春、三好筑前守長慶は、細川高国が子・次郎氏綱を取り立て、摂州中島の城に居陣す。これを聞きて、細川右京大夫晴元、摂州に出勢し、三宅城に陣す。三好下総守長秀入道宗三は、晴元一味として、江波城に在りて、氏綱、長慶と合戦、度々也。
同六月十一日、江口の渡りにて、宗三と長慶と、伯父、甥、大に相戦ひ、将軍、敗北し、三好宗三入道、戦死す。これに依て、公方御父子、並びに、細川晴元、弟・晴賢、同元常、佐々木義賢、以下、京を去て東坂本を旅館とす。
同七月九日、三好筑前守長慶、入洛し、滞留無く摂州へ帰る。長慶は、長輝が孫、薩摩守長基が子也。細川の陪臣たり。
天文十九年の春、将軍、如意嶽に要害を拵へ、穴太山中と号し、公方、移り給ふ。
同五月四日、前の将軍・義晴公、病気に依り、穴太山に於ひて、薨し給ふ。御年四十歳。治世二十六年。
同年の冬、三好長慶、摂州より上京し、東山、並びに、相国寺、同大津などに楯篭もる将軍方の士卒を追ひ払ひ、要害、並びに、人屋迄、悉く焼き捨て、摂州に帰る。
其の後、公方・義輝公と細川氏綱、三好長慶と和解有りて、天文二十一年正月廿八日、将軍、御上洛。此の日、細川晴元、落髪して出奔す。
永禄始め黎(ころを)ひ、毛利右馬頭元就、朝倉左衛門義景、長尾弾正少弼輝虎を御相伴衆に召し加へられ、同四年正月二十四日、三好義長、上洛し、公方の御妹聟に成り、三月晦日、将軍を三好が亭へ御成りを申し請ける。御相伴衆に、細川右京大夫氏綱、舎弟・右馬頭藤賢、三好修理大夫長慶、子息・筑前守義長、松永弾正久秀也。
同七月に、三好義長、頓死す。是は、家臣・松永弾正に毒害せ為せらると云々。義長に子なき故、弟の左京大夫義継を家督として、長慶が跡を嗣がしむ。其の後、長慶、老死す。今、義継は若輩也。松永は奸佞(かんねい)の者にて威勢あり。将軍は自(をのずか)ら衰微なれば、今度、三好、松永が謀叛の事、是非に及ばざる次第也。義輝公、柔和に御座して、武将には不足の君と承りき。最も愛しき御事なりと、光秀、涙を流しければ、園阿上人を始め、皆々、念仏申し、悲歎しけり。
斯くて五更も明ければ、明智十兵衛光秀は、湯屋の亭主に暇乞ひして、越前一乗へとてぞ帰りける。