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明智軍記第1話【現代語訳】
よくよく日本や中国の伝記(書き記された記録の総称)から、国の安定と乱れ、人の繁栄と失脚を考えてみると、どれも人の心の善悪の露頭(露見)に始まり、最後は盛衰、吉凶に大きく分かれる。
善を積む人には、天は、善行に応じた福を与え、悪を為す人には、天は、悪行に禍を与える。
これは、必然の道理であり、古今東西、日本でも中国でも同じである。
天道は誠に畏るべしである。
小人(思慮に欠く人)は、善ならざる事をすれば、身に禍が降りかかる事を知らないばかりか、却って、その危険を回避し、避けられた事を喜ぶのであって、人の忠告は聞かないものである。
これは、病気を進行させ、治療を避けるようなもので、それが身を滅ぼすことになると知らないとは、哀れである。
中頃(あまり遠くない昔)、美濃国の国主であった美濃源氏の土岐氏の先祖を探ると、摂津源氏の源頼光7代孫・光基の子・光衡は、文治年中(1185-1189)に、源頼朝の美濃国の守護に任命され、美濃国へ移住して土岐光衡と名乗ったのが土岐氏の始まりである。
土岐光衡の5代孫・頼清は、足利尊氏の時代まで、美濃国を治め、子孫は繁栄して多くの庶子家が生まれた。
長男・頼康、次男・明智下野守頼兼(?)、三男・頼雄、四男・頼忠、いずれの子孫も繁栄した。
後に、頼忠6代孫・土岐芸頼(のりより。「頼芸(よりのり)」の誤り)の代になると、守護がその国を治めるご政道は、かつて経験したことが無いほど乱れた。
当時の日本は戦国時代で、隣国は計策を巡らして、常に美濃国を(奪い取ろうと)伺っていた。
この戦国時代、土岐氏の家臣に、斎藤山城守龍基という者がいた。
常に伊尹(中国の夏末期から殷初期にかけての政治家)や召公(中国の西周の政治家)のような志をもって学び、韓信、張良(中国の漢の武将。韓信、張良、蕭何を「漢の三傑」と呼ぶ)の兵術を熟考して理解し、ご政道を正し、国民をいたわった。
(斎藤龍基が立派なだけに、比較対象である守護の土岐頼芸については、)傍輩(斎藤龍基と同じ主君(ここでは土岐頼芸)に仕えている仲間)をはじめ、土岐一族に至るまでも、土岐頼芸が暗愚なのを嘆き、「このままでは美濃国が他国へ奪われてしまう」と悲しみ、国民は皆、この斎藤龍基に従ったので、美濃国は安泰であった。
その後、斎藤龍基は、入道(出家)して、「道三」と名乗った。
斎藤龍基の息子・斎藤山城守義龍が相続して美濃国を治めると、国民は、「無為の化」(支配者が作為を弄しなくても、自然に人民が教化されて、良く治まること。美濃国では理想の政治が行われている)と誇った。
しかし、美濃国が傾き始める発端となることが起こった。
斎藤義龍は、常に長男・龍興を差し置いて、次男・龍重と三男・龍定を可愛がり、「ゆくゆくはこの2人へ家督を譲る」と言い始めたので、長男・龍興は、立腹し、ややもすれば、父子の確執が広がる状態であった。
そして弘治2年(1556年)の夏、父・斎藤義龍が狩りに出ている隙を伺って、長男・斎藤龍興は、2人の弟たちを騙して、両人を訛(たばか)つて、ちょっと呼び寄せて、家来の日根野弘就と長井道利に申し付け、あっという間に殺害してしまった。
さて、斎藤龍興は、井之口(現在の岐阜市)の因幡山(稲葉山、金華山)にある本城・稲葉山城(後の岐阜城)に登り(稲葉山城を占領し)、父・斎藤義龍に対し、謀叛を表明した。
斎藤義龍は、狩り場で、このこと(長男・斎藤龍興の謀叛)を聞き、大変無念に思った。
突然の事、おまけに、家来の兵士たちは、斎藤龍興の誘いに応じているので(兵の数が少なく)、仕方なく、娘婿(娘の夫)の尾張国の織田信長に加勢を申し込んだが、尾張国までは遠いので、すぐに連絡が届かず、斎藤義龍は、無勢にて、鷺山城へ入り、井之口城(稲葉山城)と差し向かい、父子合戦となって、織田信長の援軍が井之口に達する前の弘治2年(1556年)4月20日、斎藤義龍は48歳にして、長男・龍興に討たれた。
子に討たれるとは、残酷な事である。
その頃、斎藤義龍の家臣・明智兵庫助光安(入道して宗宿と号す)は、土岐氏の土岐明智二郎下野守頼兼に始まる庶流・明智氏の、初代・明智頼兼7代孫・明智光継の次男である。
兄(長男)・光綱が早世したので、東美濃(現在の可児市、多治見市、中津川市、瑞浪市、恵那市、土岐市、御嵩町)の明智という所の明智城に在城していたが、(土岐頼芸が斎藤氏によって国外追放されて、)土岐氏の逼塞(落ちぶれる事)後は、道三(斎藤龍基)に従っていたので、斎藤龍基が亡くなって、悲しく思っていた。
斎藤龍基の子・斎藤義龍も、斎藤龍基と同じ様に懇切(行き届いて親切な事)であったので、明智光安(宗宿)は、斎藤義龍とは、「君臣水魚」(水と魚との関係のように、主君と家臣との間が親密なこと)の仲だと思っていたが、今回、斎藤龍興が、父・斎藤義龍を討った事を怒り、(斎藤龍興に加勢しないで)明智屋形に引き篭もっていた事を、斎藤龍興が聞いて(怒り)、長井道利を大将、二階堂出雲守行俊、遠山主殿助友行、大沢次郎左衛門為泰、揖斐周防守、船木大学頭義久、山田次郎兵衞、岩田茂太夫を先陣として、その軍勢3000余人、弘治2年(1556年)同8月5日(9月25日の誤りと思われる)、明智城へ押し寄せ、昼夜の区別なく攻め続けた。
明智城内では、予想された攻撃であったので、逞兵(逞しい兵士)、鉄騎(強力な騎馬武者)の者たちが、数回にわたって、城外へ討ち出て、「ここを先途」(ここが勝敗の分かれ目である)と防戦した。
しかし、元々、明智光安(宗宿)は、1万貫の知行地があったのであるが、明智城に篭もる兵は、僅かに380余人、「義(道理)」を金石(きんせき。永久不変なもの)として、明智城を守った。
鋭卒(勇敢で強い兵士。精鋭の兵)とはいえ、(数で勝る相手との)度々の合戦で次々と討たれ、残り少なくなったので、宗宿は、武を奮ったが、いよいよ持ちこたえられなくなったとして、弘治2年(1556年)9月26日、申の刻ばかり(午後4時頃)、弟・光久と共に華やかに討死して、名を後代に残した。
その時、明智光安(宗宿)の甥・明智光秀が
「一所(一緒)に討死しましょう」
と進み出る。
と、明智光安(宗宿)は、明智光秀の鎧の袖を控えて(袖をとらえて引きとめて)言うには、
「私は、亡君(斎藤龍基・義龍)の恩のために戦うのです。御辺(あなた様)は、今、ここで、命を捨ててはならない。生を全うして、「明智」の名を再興して下さい。それこそが先祖に対する孝行です。その上、あなた様は、当家の的孫(嫡孫。嫡子の嫡子)であり、特別な文武兼備の人であって、普通の人(凡人)には思えないので、私の息子・光春と甥の光忠を、なにとぞお頼み申します。いか様にも(たとえどんな状態であっても)可愛がって育てて、「明智」家を再興して下さい」
とのこと。
何度も忠告されたので、明智光秀は、理解し、断る理由も見当たらず、明智一族を連れて、泣きながら明智城を出て、郡上郡(現在の岐阜県郡上市)を経て、越前国穴馬(現在の福井県大野市)を過ぎ(過ぎ去って?)、国々を遍歴し、その後、越前国に留まり、太守・朝倉義景の家臣となって、500貫の知行地を与えられた。
明智軍記第1話【原文】
倩(つらつら)和漢の伝記を考へて国家の治乱、人身の存亡を試みるに、只、是(こ)れ、人心善悪の路頭より分かれて、遂に盛衰吉凶を極(きわ)む。
善をする人には、天、これに報ずるに福を以てす。
悪を為する人には、天、これに禍(わざわい)を以てす。
是れ、必然の道理。古今、和漢共に違(たが)う事無し。天道は誠に畏(おそ)るべき哉(かな)。
小人は、不善(ふぜん)を為して、身に禍する事を知らず。却(かえ)って其(そ)の危(あやう)き事を安(やす)んじ、其の亡ぶる由縁(ゆえん)を楽しみて、人の諌(いさ)めを憎む。たとへば、病(やまい)を育て、医を忌(い)むが如し。寧(むし)ろ、其の身を亡ぼせとも知らず。哀(あわれ)むべき哉。
爰(ここ)に中頃、美濃の国主、土岐(とき)の先祖を尋ぬれば、源摂津守頼光(よりみつ)朝臣(あそん)に七代の苗裔(びょうえい)、伊賀守光基(みつもと)の子息・土岐美濃守光衡(みつひら)は、文治年中に、頼朝卿より濃州の守護職を賜(たまわ)り、彼(か)の国に居城す。
光衡より五代、土岐伯耆守(ほうきのもり)頼清(よりきよ)は、尊氏公の時代迄、美濃国を治め、子孫、繁昌し、嫡子・大膳太夫頼康(よりやす)、次男・明智下野守、三男・揖斐(いび)出羽守頼雄(よりお)、四男・土岐美濃守頼忠、何(いず)れも末葉相続せり。後、頼忠に六代の孫・土岐美濃次郎芸頼(のりより)の代に当たつて、分国を治むべき政道、曾(かつ)て無かりけるにや、本朝、戦国の時分なれば、隣国より計策を廻(めぐ)らし、濃州を闖(うかが)ふ事、隙(ひま)無し。
此の時節、土岐の家臣に、斎藤山城守龍基(たつもと)と云ふ者あり。
常に伊尹(いいん)に召公(しょうこう)の志(こころざし)を学び、韓信、張良が兵術を勘弁(かんべん)し、道を正し、民を撫(な)でられしかば、傍輩(ほうばい)を始め、土岐の一族に至る迄、且(かつ)、芸頼の愚昧(ぐまい)を嘆(なげ)き、他国へ奪はれん事を悲しみて、国人(くにたみ)皆、此の龍基に属隨(つきしたがひ)て、濃州、恙(つつが)無かりけり。
其の後、山城守は、入道して、道三とぞ申しける。
息・山城守義龍(よしたつ)、相続(あひつづい)て、美濃国を治めしかば、国民、無為(むい)の化(か)にぞ誇りける。
然(しか)る処に、濃州、傾く端べきにや有りけん、山城守義龍、常に嫡子・右兵衞太夫龍興(たつおき)を閣(さしおい)て、次男・雅楽助(うたのすけ)龍重(たつしげ)、三男・監物(けんもつ)龍定(たつさだ)を愛憐(あいれん)し、後々(ごご)、此の両人へ家を譲るべきなど申さるるにより、龍興、立腹して動(やや)もすれば、父子の確執に及びけるに、弘治二年の夏、義龍、狩に出(いで)られける隙(すき)を窺(うかが)ひ、龍興舎弟両人を訛(たばか)つて、仮初(かりそめ)に呼び寄せ、家来・日根織部(ひねおりべ)、長井助右衞門に申し付け、忽(たちま)ち殺害す。
扨(さて)、井之口因幡山の本城に取り上がり、父に対し、謀叛の色を顕したり。
斎藤城州は、狩り場にて、此の由を聞き、無念至極に思はれけれども、俄(にわか)の事と云ひ、剰(あまつさ)へ、家来の士卒等、右兵衞太夫が語らひに応じければ、為方(せんかた)無く、尾州の織田上総介信長は壻(むこ)なるにより、其の方、加勢の儀、申し越されけれども、遠路なれば、事行(ことゆ)かず、義龍は、無勢にて鷺山と云ふ所に扣(ひか)えて、井之口の城に向かひ、父子合戦有りけれども、遂に叶はずして、同四月廿日、山城守、行年(こうねん)四十八にて子息・龍興が為、討死せられけるこそ無慙(むざん)なれ。
其の頃、義龍の臣・明智兵庫助光安(みつやす)入道宗宿(そうしゅく)は、土岐の庶流・明智下野守頼兼(よりかね)に七代の後胤・十兵衞衞尉光継(みつつぐ)が次男也。
兄・光綱(みつつな)、早世の後、東美濃明智と云ふ所に在城しけるが、土岐殿、逼塞(ひっそく)の後は、斎藤道三に隨(したが)ひければ、別して憐愍(れんみん)をぞ加へられける。
義龍も同事、悃切(こんせつ)なりしかば、君臣水魚の思ひをなす処に、今度(このたび)、龍興、親父・山城守を弑(しい)せられける事を怒つて、明智の館(たち)に引き篭もりければ、右兵衞太夫、此の由を聞き、長井隼人佐を大将として、二階堂出雲守、遠山主殿助(とのものすけ)、大沢次郎左衞門、揖斐周防守、船木大学、山田次郎兵衞、岩田茂太夫を先として、其の勢に三千余騎、同八月五日、明智ガ城へ推し寄せ、昼夜を分(わ)かたず、攻めにけり。
城中にも兼ねて待ち儲けたる事なれば、逞兵(ていへい)、鉄騎の者共、数箇(すか)度、城外へ討ち出て、爰を先途と防ぎ、戦ふ。
然れ共、元来、宗宿入道は、一万貫の地を所領しける者也ければ、城中に篭もる所の兵、僅かに三百八十余騎、義を金石に守りける。
鋭卒(えいそつ)為りと雖(いへど)も、度々(たびたび)の合戦に残り少なに討たれしかば、宗宿、弥(いよいよ)武(たけ)に勇め共、堪(こら)ふべき様無くして、同九月二十六日、申(さる)ノ刻計(ばかり)、舎弟・次右衞門光久と相伴(あひとも)に、艷(はな)やかに討死して、名を後代にぞ残しける。
其の刻み、宗宿入道が甥・明智十兵衞尉光秀も一所に討死せんと進みけるを、入道、十兵衞が鎧の袖を磬(ひか)へて申されけるは、某(それがし)は、亡君の恩の為めに相ひ果てるべし。
御辺は、唯今、身を捨つるべき処に非(あら)ず。命を全(まっと)ふして、名字を起こし給へ。それこそ先祖の孝行なれ。
其の上、光秀は、当家的孫(てきそん)殊に妙絶勇才の仁(ひと)にて、直人(ただびと)共覚へず候へば、某が息男・弥平次光春、甥の次郎光忠をも偏(ひとへ)に頼み候也。
如何様(いかよう)にも撫育(ぶいく)して、家を起こされ候へと頻(しき)りに諫言(かんげん)せられければ、光秀、理に服し、辞するに処なふして、一族を相伴ひ、涙と共に城を出て、郡上郡を経て、越前穴馬(あなま)と云ふ所を過ぎ、偖(さて)、国々を遍歴し、其の後、越前に留まり、太守・朝倉左衞門督(かみ)義景に属(しょく)して五百貫の地をぞ受納(じゅのう)しける。