徳川家康、井伊谷へ侵攻(浜松市地域遺産センター)

井伊家を訪ねて

戦国ならではの非情すぎる挟み撃ち! 家康と信玄の氏真潰し始まる

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私にこのドラマの脚本依頼が来たら、「分かっている史実が少ないので、幼少期5話、次郎法師&井伊直親10話、井伊直虎&小野政次10話で25話しか書けません」と断ります。
ここまでに、よく31話も書けるものだと脱帽。中野直由&新野左馬助親矩の死や井伊直平をナレ死にしないで、丁寧に書いていたら、2話増えて34話になったことでしょう。

「どうしても50話」にするとしたら、タイトルを『井伊家伝』にして、「第一部 井伊直虎伝」「第二部 井伊直政伝」の各25話でいいですか?と提案しますね。
全25話にせよ、全50話にせよ、原作は『井伊家伝記』なんですが。

※『井伊家伝記』:龍潭寺の祖山和尚が江戸中期に書いた本。上下2巻で、上巻には井伊共保・直平・直政・直親・次郎法師、下巻には井伊直政と井戸の訴訟について記されている。

小野亥之助「伯父上、かけがえのない友を、かたじけのう存じます」
小野政次「何の話じゃ? 早く休め」

小野亥之助が「伯父上、敵も味方も欺き、虎松様を逃がす作戦、見事で御座いました」と言わなかったのは、将来、小野亥之助が虎松(井伊直政)の忠臣になることを脚本家は知っていて、小野亥之助に虎松の事を「かけがえのない友」と言わせたのでしょうけど、「かけがえのない友」と言う割には、一緒に勉強したり、連珠をしたくらいでは?

虎松と小野亥之助の友情(井伊直政家臣団の幼少期の様子)を丁寧に描いていれば、井伊直虎の失脚はまだ先になり、前回の虎松の「こんな大将でよいのか?」という言葉も重みを持ったことでしょう。前回、「おんな城主直虎」は、城主の座を引きずり降ろされ、「おんな城主じゃない直虎」となりました。今後8・9・10・11・12月の5ヶ月は、「おんな城主じゃない直虎」の話です。

噂では、鳳来寺で坊主になった虎松(寺田心くん)が菅田将暉さんになって帰ってくるのは9月末だそうで。

8・9月の2ヶ月は、「おんな城主じゃなくなった直虎」が、虎松の帰国に向けて、戻ってきた時に井伊家を復興し、井伊谷城主になれるよう、いかに条件整備をしたかという話になりますね。

ちなみに、『井伊家伝記』には、虎松は鳳来寺に保護してもらっただけで、剃髪はしなかったとあります。父・井伊直親も松源寺に逃げ込みましたが、剃髪はしていません。

さて、今回は、井伊氏が井伊領を今川氏から取り戻した「復活の日」ではなく、その前段階の「復活の火」(井伊復活の日に向けての狼煙と戦火)になります。

 

第32話 「復活の火」 あらすじ

11月9日、井伊領を奪われ、城主の座を降ろされた井伊直虎は、「何としても戦が始まる前に知らせねば」と徳川家康に手紙を書きました。

その頃、岡崎城の徳川家康の所へ、武田信玄から手紙が届きます。

──あと10日…10日で戦が始まる。(by 徳川家康)

我が家の小画面TVではよく見えませんでしたが、日付は「11月20日」、宛先は「三河殿」ではなく、「徳川殿」となっていました。

実際の武田信玄の出陣(第一次駿河侵攻)は12月6日ですので、その10日前というと、11月26日くらいに到着したようです。(直虎さん、「何としても戦が始まる前に知らせねば」と言ってる割には、解任されて1ヶ月以上たってから手紙書いたのね。)

この戦いに向けて、武田は次々と今川家臣を調略しているようです。

徳川はと言えば、石川数正によれば「大澤、浜名は難しいが、気賀は何とかなる」とのこと。(気賀って、井伊直虎が預かっていたけど、失脚したから、今は大澤が預かってるはずで、諜略は・・・と思っている時に、気賀の諜略に向かった酒井忠次が早くも帰城。諜略に行く途中、「恐らくは、浜名氏か、大澤氏。湖岸の国衆」(by 酒井 忠次)という武装集団に鉄砲に襲われ、気賀を調略できなかったという。この気賀の諜略の失敗が、後の気賀の大虐殺へと繋がる。

【通説(従来説)】 武田信玄出陣(第一次駿河侵攻)の連絡が、武田家臣・穴山信君(武田方の徳川窓口)から徳川家臣・酒井忠次(徳川方の武田窓口)にもたらされた。酒井忠次は、岡崎城へ行き、徳川家康に武田信玄の出陣を伝えると、徳川家康も出陣した。三河国から遠江国に入るには、本坂越えが一般的である。しかし、本坂峠を越えると、先鋒の酒井隊が気賀衆に襲われたので、北に進路をとり大福寺を焼いて奥山方広寺に入ったとも、南に進路をとり浜名湖を船で渡って名残普済寺に入ったともいう。

【通説(新説)】 武田信玄出陣(第一次駿河侵攻)の連絡が、武田家臣・穴山信君(武田方の徳川窓口)から徳川家臣・酒井忠次(徳川方の武田窓口)にもたらされた。酒井忠次が侵攻ルート(本坂越え)の偵察に行くと竹槍や猟銃を持った気賀衆(ゲリラ部隊)に襲われ、そのことを岡崎城へ行って徳川家康に伝えると、徳川家康は、本坂越えを諦めたという。(この気賀衆に酒井忠次が襲われたことが、後の気賀の大虐殺へと繋がる。)

──徳川家康は、道案内人を探した。

(井伊一族は、川名だの、鳳来寺などに逃げ込まなくても、岡崎城に逃げ込めばよかったと思う。虎松は人質として岡崎城に置き、井伊直虎と家臣(中野・奥山)が道案内をすればいい。)

徳川家康が、徳川方の野田菅沼氏(田峯菅沼氏(田峯城主)の傍流。野田城主)の菅沼定盈に声をかけると、菅沼定盈は、一族の井伊家重臣「井伊谷七人衆」(ドラマでは、今川氏が井伊氏につけた目付)の1人である都田菅沼氏(長篠菅沼氏の傍流。都田城主)の菅沼忠久を調略した。

すると、同じく「井伊谷七人衆」の近藤康用と鈴木重時も同調し、この3人が徳川家康遠江国侵攻の道案内を務め、小野政次に奪われた井伊谷城を落として「井伊谷三人衆」と呼ばれた。(徳川方の文書の「井伊谷三人衆」は、菅沼・近藤・鈴木の順である。家格には大差ない。諜略順=徳川方に下った順か?)

※ドラマでは、「井伊谷三人衆」が直接、陣座峠手前の徳川本陣(冨賀寺)で徳川家康に会っていた。(立っていたけど、正座とか、土下座でなくていいの? 現在の礼儀は、「座って待って、徳川家康が現れたら立ち、『お座り下さい』と言われて座る」かな。)

「我が縁戚であります菅沼忠久」
「上吉田の鈴木重時殿」
「宇利の近藤康用殿」
と菅沼・近藤・鈴木の順ではなく、菅沼・鈴木・近藤の順で菅沼定盈が紹介しました。

徳川家康は、起請文(牛王宝印の裏に書いた誓約書)を渡しました。
(我が家の小画面TVではよく見えませんでしたが、日付は「12月12日」、宛先は、井伊谷三人衆の連名のようでした)。

謎①:出陣は12月13日ですから、昨日、書いておいたのでしょうか?
謎②:「A・B・Cさんに次の土地をあげるから、分けなさい」なんて起請文は見たことないです。不勉強で申し訳ないです。

菅沼忠久「二俣に気賀、萱場…ここまで安堵いただけるのですか?」
石川数正「切り取り次第であるが、不足はござらぬか?」

謎③:多分、全て切り取れる(占領できる)でしょうから、めちゃくちゃ大盤振る舞いです。不足があるわけがない。ただ、「今日から仲間になる」って人に二俣を渡す? あそこは超重要ポイントで、徳川四天王クラスの重臣が入るべき場所だよ?

あと、時代考証担当者の添削漏れを発見! 「安堵」ではなく、「充行」ですよ!

■徳川家康知行充行状「今度…知行事」(鈴木家文書)

今度就遠州入、最前両三人以忠節、井伊谷筋令案内、可引出之由、感悦至也。其上、彼忠節付而出置知行事

一井伊谷跡職、新地・本地一円出置事(但、是ハ五百貫文之事)
一二俣左衛門跡職一円之事    一高園曽子方之事
一高梨          一気賀之郷   一かんま之郷
一まんこく橋つめ共  一山田      一川合
一かやは        一国領      一野辺    一かんさう
一あんま之郷     一人見之郷并新橋・小沢渡
右、彼書立之分、何も為不入無相違永為私領、出置所也。并、於此地、田原参百貫文可出置也。井伊谷領之外、此書立之内、以弐千貫文、任望候地可出置也。若、従甲州、如何様之被申事候共、以起請文申定上者、進退かけ候而申理、無相違可出置也。其上、縦何方へ成共、何様忠節以先判形出置共、於此上者相違有間敷者也。委細者菅沼新八郎方可申者也。仍如件。
十二月十二日   家康
菅沼二郎右衛門殿
近藤石見守殿
鈴木三郎太夫殿

■徳川家康起請文「敬白起請文之事」(鈴木家文書)

敬白起請文之事

今度両三人以馳走、井伊谷筋を遠州口へ可打出之旨、本望也。就其所々出置知行分之事、永無相違、為不入扶助畢。若、自甲州、彼知行分如何様被申様候共、進退引懸、見放間敷候也。其外之儀、不及申候。若、於偽者、

梵天・帝釈・四大天王、別而者、富士・白山、惣者日本国中神義之可蒙御罰者也。仍如件。
永禄十一年十二月十二日  家康(判)
菅沼二郎右衛門殿
近藤石見守殿
鈴木三郎太夫殿

※徳川家康は、井伊家が絶えたと思っていたらしく、判物の中には「井伊谷跡職」(旧・井伊領とそれに伴う権利)や「気賀之郷」が含まれているが、ドラマでは、徳川家康は、井伊直虎や虎松が策を弄して生き延びたことを知り、井伊領を含めない。
ただし、上記の2通の文書は、いずれも写しであって、本物ではない。番組最後の「直虎紀行」で紹介された知行充行状に徳川家康の花押がないのは、近藤康用が待ったをかけたからではなく、写しだからである。
あまりにも大盤振る舞いであり、「二俣左衛門跡職一円之事」が、「桶狭間の戦い」で討死した二俣城主・二俣左衛門宗信の二俣城と所領を指すとしたら、それはありえないことであり、写す時に鈴木氏が盛った可能性が高い。

※「若、従甲州、如何様之被申事候共、以起請文申定上者、進退かけ候而申理、無相違可出置也」「若、自甲州、彼知行分如何様被申様候共、進退引懸、見放間敷候也」(もし、甲斐国の武田信玄から、この知行地について、どのように申され来ても、無視して良い)って・・・武田信玄は、遠江国(大井川以西)にはノータッチなのでは? 後の武田信玄の遠江侵攻を知っている者が書いたように思われる。

※徳川家康は、12月12日に遠江国への侵攻に成功すると、その日の内に井伊谷三人衆に起請文(誓詞)と判物を渡し、翌13日未明に井伊谷城を攻めたとされてきたが、最近では、徳川家康の遠江侵攻は12月13日に岡崎城を出て、12月15日の未明に井伊谷城を攻めたとする。

この新説では、12月12日に井伊谷三人衆に発給した起請文と判物は、「遠江侵攻に成功したので、お礼に…を与える」という文書ではなく、「遠江侵攻に成功すれば…を与えるが、どうだ? 味方にならんか?」と、成功を前提に書いた契約書を馬の鼻先に人参をぶら下げて諜略したことになる。(今川氏真が、瀬戸方久に対して、安堵状を示して徳政令の施行を承認させたような手段をとったということ。)

しかし、実際の文章は「今度両三人以馳走、井伊谷筋を遠州口へ可打出之旨、本望也」(今度の井伊谷三人衆の働きにより、井伊谷道を通って遠州に討ち入る事が出来て満足している」と過去形である。

また、「委細は菅沼新八郎方申す可くものなり」(詳しい事は、奏者(使者)・菅沼定盈が伝える)とあることから、12月12日の時点では、徳川家康は、まだ、井伊谷三人衆に会っていないようだ。

※「起請文」「充行状」「跡」を相棒の『日本史広辞典』(山川出版社)でひいてみた。

きしょうもん【起請文】 誓紙・罰文・告文(こうもん)・神判(しんぱん)とも。契約した内容の遵守を神仏に誓い、違反した場合に神仏の罰をうけることを記した文書様式。平安末期には天判起請文と称し、誓約内容に反した場合には罰をうけることを神仏に誓約する内容が行われた。そのため特定の充所(あてどころ)はつけない例が多い。鎌倉後期からは、神仏の名を手書あるいは木版刷にした牛王(ごおう)宝印の裏を返し、多数の人間が詳細な誓約を記すようになった。誓約内容を記した部分は前書(まえがき)、神仏の罰をうけることを記した部分を神文(しんもん)とよぶ。大寺院の宗徒の意思統一や所職(しょしき)・荘園支配の保持のため広く用いられた。戦国期には大名どうしの盟約の手段として起請文の交付がよく行われ、そのため充所を付加する様式もみられるようになる。

※未来追記①:熊野神社の発行する牛王宝印(他に白山神社発行の料紙)の裏に「敬白」「起請文之事」などと冒頭に書き、文末に「梵天・帝釈・四大天王、総而日本国中大小神祇」以下神仏名を列挙」し、約束を違えば神仏の罰を受けるとし、「仍起請文如件」と結んで、署名、花押(その上に血判)と発給年月日を記す。

※未来追記②:江戸時代は、男女の愛の変わらない事を誓った文書も指した。

あてがき【充書】→充所(あてどころ)

あてどころ【充所】 宛所・当所とも。文書の宛名。上所(あげどころ)・充書(あてがき)も同義。文書をうけとるべき相手の名前や、「謹上」「殿」「御中」などの付随する言葉が書かれる。書状などでは文書の末尾に書かれるのが一般的だが、下文(くだしぶみ)ではふつう冒頭に書かれる。本文中に書きこまれることもあった。

あておこない【充行】 「あてがい」とも。宛行とも。平安時代以降の前近代社会で、所領の支配者が自己の所領の一部を縁者や支配下の人物に与えること。領主や地主が農民に耕作する土地を割りあてたり、荘園領主が荘官に給田・給畠を与える、将軍や大名が御家人や家臣に知行地を恩給するなど。その際、給与者から恩給与者に交付された文書を充行状または充文(あてぶみ)といった。充行の対象はしばしば作職(さくしき)・下司(げし)職・地頭職などと表現され、充行状が補任状の形式をとる場合もあった。武家社会では主人の従者に対する恩恵行為として、既得所領を承認する安堵(あんど)とともに最も重要とされた。

あておこないじょう【充行状】→充文(あてぶみ)

あてぶみ【充文】 充行状(あておこないじょう・あてがいじょう)とも。中世社会で、上位者が下位者に土地・所職(しょしき)を給付する際に発した文書の形式。恩賞や知行充行など新恩給与に用いた。ふつう文中に「充行」の文言がある。鎌倉幕府は、充行に下文(くだしぶみ)を用いた。一三〇三年(嘉元元)に譲与・安堵(あんど)を外題安堵(げだいあんど)で行うようになると、下文は充行・補任のみに使われる様式となった。鎌倉幕府滅亡後、足利尊氏は所領充行に下文を用いた。室町幕府成立後は、尊氏が充行、弟の直義(ただよし)が安堵と分担したが、義詮(よしあきら)以降は将軍が両方を発した。直義の子直冬も充行には下文を用いた。守護大名・戦国大名は所領充行状に書下・判物を用いた。

ちぎょうあてがいじょう【知行充行状】 主君が家臣に対して所領を与える際に作られる文書。室町時代の守護発給文書としてとくに多く作られ、守護が自署した判物(はんもつ)を用いる場合と、下文(くだしぶみ)の様式をとる場合がある。戦国大名は家臣団維持の中核として多量に発給したが、大名によって様式は大きく異なる。江戸時代には、将軍から一〇万石以上の大名へは判物、それ以下の大名へは朱印状(領知朱印状)で発給された。なお諸藩では判物で発給するのが一般的である。

あと【跡】 一般的には物事がおこって経過したしるしのこと。痕跡・前例などの意味から、中世では遺産・遺領、あるいは相続人などの意に用いた。とくに鎌倉幕府のもとでは、御家人制の成立した初期の時点で把握した御家人何某の所領を分割相続した子孫たちを一括して「何某跡」と称し、御家人役をかける単位とした。これは惣領制にもとづき、一族内部で御家人役を分担・奉仕させたためである。また謀反人や敵対者・逃亡者の財産を没収して、新たに給付した場合にも、何々跡と表現した場合がある。

あとしき【跡職】 中世の相続財産。史料上は、跡・跡式・跡目・遺跡(ゆいせき)・名跡とも記された。分割相続では、惣領の家督と財産および庶子の相続する財産、嫡子単独相続では嫡子の相続する家督と財産をさす。子によって継承されるのが望ましいと考えられ、一五世紀には、村落でも跡職を保全しようとする動きがみられるようになった。

 

《井伊谷三人衆》

「井伊谷三人衆関連図」(浜松市地域遺産センター)

・近藤康用:上の関係図にあるように、姻戚関係になく、1人だけ浮いている。

・鈴木重時:井伊氏とは最も縁が深い。上の関係図には載っていないが、鈴木重時の妹は、井伊直満と結婚して、井伊直親を生んでいる。鈴木重時の妹は、井伊直政の祖母ということである。

──上吉田の鈴木重時
という紹介を聞いて、多くの方が「下吉田では?」と思ったと想像されます。

三河鈴木氏の本拠地は、三河国加茂郡矢並郷(愛知県豊田市矢並町)であるが、一族の中に酒呑(豊田市幸海町)、吉田(吉田城がある豊橋市(東海道五十三次・吉田宿)ではなく、八名郡山吉田村(現・新城市))と移り住んだ者がいた。

この時、鈴木重時は上吉田の白倉城(新城市上吉田白倉)に居たのである。徳川家康に「交通の要所に建て直せ」と言われて、下吉田に柿本城(新城市下吉田柿本)を建てて、移ったのである。正確に言えば、武田軍(山県隊)が攻めてきた時は、まだ築城中であった。

・菅沼忠久:菅沼一族は、田峯菅沼氏は武田方、野田菅沼氏は徳川方、都田菅沼氏は今川方と複雑である。

菅沼資長─定成─島田菅沼氏…
│    └田峯菅沼氏…
│             └野田菅沼氏…
└長篠菅沼氏…
└都田菅沼氏…

──復活の火(狼煙)があがった。

※徳川家康の動向は狼煙で知らされましたが、竜ヶ岩山の山頂に狼煙台を作ったのは武田信玄であり、この時は井伊谷城の隠し砦があったとされています。

 

12月13日、駿府今川館が焼けた。
そして、同じ12月13日未明、井伊谷三人衆率いる徳川軍が井伊谷城を攻めた。月の満ち欠けを元に作る旧暦では、15日は満月である。13日といえば、満月の2歩手前。満月(大願成就)は目前であり、知った道であれば月明かりで歩ける夜であったが・・・

井伊直虎「但馬、罠じゃ! 門を閉めよ!」

※井伊直虎は尼僧姿で門前で徳川家康を待ち、酒井忠次が到着すると、小野政次が門を開けた・・・理解できません。

徳川家康との約束は、
「城を明け渡すが、井伊衆は戦いに参加しない」
「井伊領と気賀を安堵して」
「井伊家を再興して」
だったと記憶しています。

私の記憶が正しければ、城兵が門を開け、徳川家康(の使者)を城の奥に通すと、正装した城主・井伊直虎と家老・小野政次がいるって形になるはず。
武装した城主・小野政次がいきなり出てきたら、「こいつ、戦う気満々じゃん」と思われるよ?

※井伊谷城の門は、天正2年(1574)、大藤寺(井伊直親の菩提寺。龍潭寺末寺)の建立(再建とも、大林寺の移築とも)の時に移築されて同寺の南大門となり、昭和30年代まで現存していたという。二層の巨大な門だったそうです。(写真をお持ちの方、見せてください!)

それにしても、井伊直親は偽物の徳川家康に騙され、井伊直虎は本物の徳川家康に裏切られ・・・井伊直政には慎重に立ち回って欲しいものです。
(多くの古文書が、松下虎松は徳川家康に会ったその日に井伊直親の子であることを明かしたとする中で、『直政公御一代記』では、正体を隠し続け、頃合いを見て告白したとあります。)

(つづく)

 

【今回の言葉 「唇歯輔車(しんしほしゃ)」】

【意味】 「唇歯」は「唇」と「歯」で、「輔車」は「頬骨」と「下顎骨」とされる。どちらが欠けても役に立たず両方揃っていなければならない物、緊密に共同して働かなければならない関係にある物の例え。類義語に「鳥の両翼、車の両輪」がある。

【出典】 『春秋左氏伝』

晋の献公が、虢(かく)を滅ぼすため、虞(ぐ)に賄賂を与え、通行許可を求めた。その時、虞の賢臣は、「虢と虞は一体であり、虢が滅びたら虞も滅びましょう。諺にも『輔車相依り、唇亡ぶれば歯寒し』と申します」と虞公を諫めた。

「これより小野は、徳川に城を明け渡す。徳川につき、その下で井伊家を再興する。俄には信じられぬであろうが、井伊と小野は、二つで一つであった。井伊を抑えるために小野があり、小野を犬にするために井伊がなくてはならなかった。故に、憎み合わねばならなかった。そして、生き延びるほかなかったのだ。だが、それも今日で終わりだ。皆、今日までよく、絶え忍んできてくれた」(by 小野政次)

「小野と井伊」を陰と陽、月と太陽、光と影、裏と表に例えてる人もいるけれど、ワタシ的には、小野家も井伊家も名門で、もっと対等に近いイメージです。鳥の右翼と左翼とか、二輪車(大八車)の右輪と左輪とか。

※井伊直虎は、井伊共保公出生の井戸に杯を並べ、酒を注いだ。そこには小野政直の分もあった。これは、小野政直も小野政次同様、ホワイトと認めたということなのか?

※小野政直が小野政次に「お前は必ず儂と同じ道を辿るぞ」と言ったのは、「表面的には井伊家と対立することになる」という意で、その後の「お前は目出度い奴じゃのう」というつぶやきは、「小野家を継げば分かるが、それは茨の道だぞ」という意かなと。

小野家の軌跡(公式サイト

※通説では、「小野政直・政次親子はブラックで、小野玄蕃・亥之助親子はホワイト」と対比される。

 

キーワード:徳川家康の遠江侵攻経路

徳川家康の遠江国侵攻の経路(ルート)は、はっきりしません。次の4説がよく知られています。

①本坂峠→南下して新所。船で宇布見→佐鳴湖(小籔)→普済寺
②本坂峠→引佐峠→気賀→金指→引間城
③宇利峠→奥山(方広寺)→井伊谷→金指→引馬城
④陣座峠→奥山(方広寺)→井伊谷→金指→橋羽

徳川家康の遠江侵攻経路(浜松市地域遺産センター)

【出典】

①『浜松御在城記』『三方原戦記』 道案内:名倉喜八(名倉喜斎(新田友作)の次男)
②『三河後風土記正説大全』 道案内:県形部(あがたぎょうぶ)
③『豊橋市史』
④『浜松市史』、中村孝也『徳川家康公伝』

①は築山殿が浜松城へ行こうとして使ったコースに似ていますね。西来院に築山殿が入ると、徳川方に寝返った今川方の武将が次々と挨拶に来たという伝承と関係あるのでしょうか?

②は大福寺を焼いて浜名氏を慌てさせ、そのドサクサに紛れて通過したということですが、気賀は簡単には通過できないでしょう。

③と④のコースは似ています。「宇利峠」とする根拠は不明で、「陣座峠」には「神座峠であったが、徳川家康が通ったので陣座峠と表記を変えた」という伝承があります。

写真では、陣座峠→奥山→井伊谷→刑部→引馬城(刑部から姫街道を行き、三方原追分で南下して普済寺へ)としています。この説の欠点は、気賀を避けるために本坂峠を通らなかったのであるから、気賀に向かう訳が無いということです。(刑部城を落としたのは菅沼隊であり、徳川本隊ではありません。)この説が生まれた理由は、「当時は、金指と三方原追分を結ぶ「金指街道」が無かったので、金指へ行くはずがない」ですが、金指からは、①半僧坊道、橋羽街道と進み、橋羽妙恩寺から見付へ侵攻した、あるいは、②都田川沿いに二俣へ向かい、途中、右折して二俣街道を南下して引馬城を攻めたとも考えられます。

三河国から遠江国へ入るには、北から、

・黒松峠
・陣座峠
・宇利峠
・本坂峠

とあり、どれかを通ったはずです。徳川家康研究の権威・本多隆成(静岡大学名誉教授)の著書『定本 徳川家康』(2010年。中村孝也『徳川家康公伝』(1965年)と並ぶ徳川家康研究のバイブル)には「本坂峠」とあり、「本坂峠」が定説となっていますが、本多氏の最近の講演会では「陣座峠としておけば良かった」と言っておられるように、現在は「陣座峠」説が優勢ですが、「当時は陣座越えの道はまだ無かったので、黒松峠を通った」という新説も出ています。

『井伊家伝記』には、本坂越えの先発隊が気賀で襲われたので、徳川本隊は本坂峠を避け、豊川→井之瀬(豊川の渡河点)→加茂→下宇利→冨賀寺に宿泊→奥山→井伊谷と、松下常慶を道案内として侵攻したとあります。冨賀寺から宇利峠を越えると三ヶ日に出て、気賀に向かう事になりますから、陣座峠を通ったのでしょうね。

「永禄十一年、松下常慶、早追にて三州岡崎え参り、江間加賀内通の委細、逐一言上申し候所に、家康公、不斜御悦にて、御支度仰せ付けられ、御人数二千人、先勢、本坂越遣はされ候所に、遠州引佐郡気賀の鄕人、尾藤主膳、山村修理、両人大将にて、一揆を相企て、権現様御入国を相拒み、先勢え鉄炮を打ち掛け申し候故、これより本坂越引回し、家康公え注進す。之に依り、三州豊川より井之瀬を渡り、加茂、下宇利通り、冨賀寺本陣、奥山通り、井伊谷へ御出遊ばせられ候。今泉四郎兵衛、菅沼新八郎(只今菅沼織部殿先祖なり)、牧野馬之丞(只今牧野駿河守先祖なり)、戸田丹波(二連木松下丹波守祖なり)、牧野半右衛門、稲垣平右衛門、山下帯刀等、御人數二千人、松下常慶を案内として、山路を踏み分け、昼夜も立て、遠州井伊谷まで御出成され候事。」(『井伊家伝記』)

徳川家康が泊まった場所について、小和田哲男『井伊直虎』(洋泉社)には「中居七良三良の屋敷」(p.177)とありますが、中井氏が書いた古文書は、中井氏に関係ない部分は正確なようですが、関係ある部分は、
・中井氏は「井伊谷七人衆」のメンバーだった。
・徳川家康は、遠江侵攻時に中井家に泊まった。
・松下常慶が旧井伊領(6000石)の代官(刑部城主)になると、中井氏は2000石与えられた。
等、かなり盛ってあります。中井氏を「井伊谷七人衆」のメンバーとするのは、中井氏が書いた古文書だけですし、2000石与えられた小代官は、『井伊家伝記』にあるように中井氏ではなく、山内氏であることは、松下常慶の手紙から明らかです。徳川家康の宿泊場所も、小和田氏が紹介された中井屋敷ではなく、番組最後の「直虎紀行」で紹介された方広寺でしょう。当時、方広寺では、瀬戸方久が三重塔を建てていましたから、この時、徳川家康は、瀬戸方久の名を知ったかもしれませんね。

ルートと共に問題なのが、

──家康はどこまで行ったか?

です。

①引間(引間城)まで
②見付(見付端城)まで

徳川家康にとって、「遠江国をとる」とは、「引間の市」で有名な「経済都市・引間に入ること」ではなく、遠江国府や遠江守護所が置かれた「政治都市・見付に入ること」だったはずで、実際に、見付まで行き、帰りに引間城に入ったようです。

徳川家康は、見付に居城の建設を始めますが、織田信長の「異見」により、浜松に居城を築いて岡崎から移りましたので、後世の人は、「徳川家康は引間に入りたかった」と誤解したのでしょう。

 

キーワード:姫街道沿いの諸城

遠江国の国衆(国人領主)は、今川氏に従属し、彼等の居城(井伊氏の井伊城、浜名氏の浜名城など)は、「駿府今川館の支城」という位置づけになっており、こうした戦国大名・重臣間のネットワークを、専門用語で「第一次支城ネットワーク」と言います。

今川氏家臣団は「寄親・寄子制」を採用しており、国衆の井伊氏や浜名氏が「寄親」であり、彼等の周囲に居住する地侍(土豪。「名字の百姓」と呼ばれる「半士半農」)が「寄子」です。彼等は、国衆の本城の支城(出城)の城代を任されていました。この寄親・寄子間のネットワークを、専門用語で「第二次支城ネットワーク」と言います。

さて、三河国から遠江国へ入るには、「姫街道」(本坂越え、本坂通り)を通るのが一般的ですが、本坂峠を越えると、浜名郡で、本坂後藤氏の「本坂居館」、日比沢後藤氏の「日比沢城」、そして彼等の主家(寄親)である浜名氏の「佐久城」(浜名城とされる)があり、引佐峠を越えて引佐郡に入ると、堀川城と刑部城があります。主要幹線道路だけに、守りは堅いです。酒井忠次は、引佐峠までは行けたのですが、そこで気賀衆に襲われたそうです。

姫街道沿の諸城(二宮神社の案内板に城砦&居館名を加筆)

「本坂関所跡

戦国時代よりこの地に関所が置かれ地頭後藤氏が管掌していた。1600年(慶長5年)幕府は新居関所とともに施設を整備した。後、1619年(元和5年)後藤氏が紀州に移ってからは気賀近藤氏の管掌となり、さらに1624年(寛永元年)気賀関所の設置に伴って廃止された。」(現地案内板)

本坂関所跡から見る本坂峠

 

■本坂後藤氏

…後藤実久─某…

後藤実久は、浜名氏の重臣でしたが、主人・浜名氏が逃げ出すと、徳川方に移り、遠州侵攻の道案内をしました。その功により、300石を与えられ、日比沢城に入りますが、天正18年(1590)、徳川家康の関東移封に伴い、武蔵国へ移住し、日比沢城は廃城となりました。その後、本坂に戻って本坂関番となります。息子に家督を譲ると、息子は、徳川頼宣(南龍院)の国替えに伴い、紀州和歌山藩へ移住することになり、後藤実久もついて行きました。現在、「本坂居館」は、太月寺(静岡県浜松市北区三ヶ日町本坂)となっています。

・「後藤角兵衛(角蔵とも云)実久 代々遠州本坂に罷在。権現様、岡崎御座の節、御目見え。永禄7年9月13日、御証文を賜ひ、遠州表御案内、御手先勤、其後、遠州日比沢城に差置かる。追て江戸に屋敷を賜ひ、武州笠井川越にて300石を食む。後、遠州本坂に帰り、元和5巳年総領兵庫に従ひ、紀州へ移り住む。」(『本坂後藤氏系図』)

・「後藤角兵衛某(初め兵庫) 父・実久家督を相続。遠州本坂大原新田の知行300石を食む。幼年より権現様に近侍し、後、遠州本坂御関所御用を勤む。追て南龍院様に附けられ、元和5巳未年8月、紀州御供仕、300石下置かれ、同6庚申年正月8日、病死。」(『本坂後藤氏系図』)

 

■日比沢後藤氏

後藤亀千代…真泰─直正─某─実勝…

日比沢城は、佐久城の開場後、本多忠勝と戸田忠次が受け取りますが、後藤実久に与えられました。

「本多・戸田、浜名・都筑両城を受取、衛兵を籠置。夫より両将は、後藤佐渡が居城・日比沢に赴き、城を受取。」(『武徳編年集成』)

※日比沢城主・後藤佐渡守直正の妻は、浜名頼広の妹でしたので、浜名氏の手前、後藤実久のように、すぐに徳川方に寝返えれなかったようです。最終的には寝返りましたが、徳川家康の陣所前で下馬しなかったので、山岡半七に鉄砲で撃たれて死亡しました。

・「後藤九郎真泰 永禄3年5月19日、尾州桶狭間にて今川義元と一所に討死」(『日比沢後藤氏系図』) ※遠江後藤氏の祖

・「後藤佐渡守直正 先祖・亀千代以来直正迄代々、遠州・三州の内を領し、今川家に附属」(『日比沢後藤氏系図』) ※永禄12年射殺さる。

・「後藤弥次兵衛某 今川氏真に仕へ、後、東照公、召て禄之」(『日比沢後藤氏系図』)

・「後藤弥次兵衛実勝 南龍院に附けられ、禄500石を賜ふ。大坂の役に従ひ、後、元和5年、御国替の節、紀州へ御供。其後、高1000石に加増。勘定奉行となる。承応元辰年12月29日病死」(『日比沢後藤氏系図』)

 

■浜名氏

佐久城(縄張り図と案内板)

「佐久城跡(三ヶ日町指定文化財)

この背後の高地は室町時代浜名地域(三ヶ日町一帯)を支配した浜名氏の居城、佐久城(別名浜名城)跡である。浜名氏は平安時代鵺代を本拠として興起した猪鼻氏の系統を引き「鵺退治」で有名な源三位頼政の子孫といわれる。室町初期の貞和四年(正平三年、一三四八)その中興祖浜名左近大夫清政がこの地域に築城居住して以来子孫は足利幕府の奉公衆となり常に京都にあって将軍の側近として活躍、又歴代歌人としても著名であった。清政より九代目の肥前守頼広の時永禄十一年(一五六八)十二月徳川家康の遠州進入にあたり守護今川家のため当城にこもって抵抗したが翌十二年(一五六九)二月力つきて降伏没落し、以来家康の武将本多百助信俊が守備したが、天正十一年(一五八三)東北方の野地城構築により廃城とな!
った。
その遺構は見取図の如く半島突端に楕円形の本丸(本曲輪)南側に大きな空堀を隔て、二の丸(南曲輪)が残存するのみで、埋め立てられた現在地周辺は字名御馬(おんま)といい旧厩(うま)舎の所在地と思われ、これより東方二百㍍位に及ぶ範囲が城内と考えられ字本城、南本城等の字名が残り、侍屋敷等があったと思われる。

浜松市教育委員会

H3.12作」(現地案内板)

源仲政─猪鼻早太(養子)…大屋頼氏─浜名清政…頼広

源頼政(源仲政の子)は、鵺退治の報奨として、鵺代(旧「贄代」。猪鼻湖西岸。浜松市北区三ヶ日町)を与えられた。源頼政の鵺退治に同行したのが鵺代出身の猪鼻早太(「井ノ早太」で井伊氏とも)で、この猪鼻早太は、源仲政の養子となったという。猪鼻早太の後裔とも、源頼政七世孫・氏兼の弟とも言われる大屋(大矢)頼氏の子・清政は、伊勢国から鵺代に移住し、猪鼻湖の東岸に佐久城を築いて居城とし、「浜名」と名乗ったそうです。

鵺退治(源頼政が射落とし、猪鼻早太が刀でとどめをさしたという。)

※三ヶ日町の鵺代、胴崎、羽平、尾奈(地名)は、それぞれ鵺の頭、胴、羽、尾が落ちてきた場所とされ、鵺を射た矢は「矢塚」に埋められているという。

・「遠州敷知郡浜名佐久城由来 清和天皇後胤兵庫正源三位頼政、近衛院御宇仁平三歳、鵺を射落し、其為御褒美、勢州・美州の内、本領也。近郷数ヶ村に於遠州敷知郡神戸庄堀之内、不残拝領の地也。源三位頼政四代の孫・大矢頼氏の一男・清政、康永歳中、勢州より鵺代に未、鵺代次郎清政と名のる。彼所に3年住み、自其都築村の地、佐久と云所に城を築き、城主・浜名左近大夫清政と改、子孫相続て拾七代持来之。」(『浜名氏系図』頼氏の項)

浜名肥前守頼広(引間城主・飯尾連龍の叔父。妻は掛川城主・朝比奈泰能の娘)が宗主(城主)の時、徳川家康が遠江国へ侵攻した。浜名頼広は、永禄12年2月、無血開城し、徳川に属したが、妹婿・後藤直正が射殺されると、自分も殺されるのではないかと思い、深夜に数人連れて甲斐国へ武田氏を頼って逃げたそうです。(そもそも、後藤直正は、「桶狭間の戦い」後、武田と内通していたらしい。)しかし、仕官を許されず、流浪の末、近江国手原村(滋賀県栗東市手原)にて病死したという。

※佐久城は「無血開城」ということですが、姫(城主の娘)は、「戦わずに開城とは情けない」と怒り、薙刀を振り回して戦ったそうですが、徳川軍に勝てるわけがなく、結局、浜名湖(正確には猪鼻湖)に飛び込んで入水自殺しました。その後、「城の堀に住む大蛇となった」という伝説もありますが、実際は水死体が流れ着いた岸に埋めて五輪塔を建てたようです。その作業中に徳川軍に見つかり、「何をしている?」と聞かれた村人は、とっさに「シシ神を祀っている」と答えたそうです。「シシ」は、「獅子」と書いていますが、本来は「鹿」「猪」であり、「山ノ神」のことでしょうから、湖畔に祀るはずがないのですが・・・見逃してくれたのかな? 現在は五輪塔ではなく、祠(家形墓。写真)になっています。

獅子神様(佐久城の姫の墓)

佐久城は、「姫街道から遠く離れている」として、徳川家康は、街道近くに「野地城」を築かせました。これにより、佐久城は廃城となりました。

 

■キーワード:武田信玄の第一次駿河侵攻

武田信玄は、

・第一次駿河侵攻
・第二次駿河侵攻
・遠江侵攻(西上作戦)

と3度にわたって、駿河・遠江両国を攻めています。

今回描かれたのは「第一次駿河侵攻」です。

北の「軍神」という上杉謙信を破って日本海に出られない武田信玄は苛立ち、南の「遊興三昧の愚君」という今川氏真を倒して太平洋に出ようと政策転換すると、嫡男・武田義信が「同盟を破るな」と忠告したので廃嫡し、さらに自決に追い込むと、今川氏真は武田信玄の行動に不信感を抱き、上杉謙信に同盟を申し込みました。この申込を口実に、武田信玄は、今川氏真を攻めたのです。

武田信玄と北条氏政は、興津川を挟んで対峙した。

【第一次駿河侵攻】 永禄11年(1568)12月6日、甲斐国から出兵した武田信玄は、身延街道を南下して駿河国に入りました。薩埵山(静岡県静岡市清水区由比)で今川軍(本陣は清見寺。大将は庵原忠胤)15000人と武田軍12000人が衝突する(「薩埵峠の戦い」)も、今川方の重臣(瀬名信輝、葛山氏元、朝比奈信置など21人)が武田信玄に内通しており、戦わずして退却したので、今川義元は、戦わずして負けました。今川義元は、駿府今川館を捨て、建穂寺に入ると、寺僧の道案内で掛川城へ逃げました。12月13日、武田信玄は、鬼門の守り・龍雲寺を焼き払い、寿桂尼の墓を破壊すると、駿府今川館を占拠しました。

臨済寺と賤機山城(臨済寺の裏山)

歴史に「たら・れば」はありませんが、寿桂尼が瀬名信輝、葛山氏元、朝比奈信置など21人の内通に気づいて「死の帳面」(デスノート)に「✕」を付けていれば、北条軍の到着が数日早ければ、武田信玄は「薩埵峠の戦い」で討死していたでしょう。

個人的に残念なのは、武田信玄が駿府今川館を焼いたことです。

駿府今川館には国宝級の古文書、絵画、・・・残っていれば、研究が進んだはずです。実際は、武田信玄は「焼くな」と命令したのに、馬場信春が命令を無視して焼いたのだそうです。

武田信玄が怒ると、馬場信春は、

「こうしないと、後世、財宝欲しさに今川氏を攻めたと思われてしまう」

と答えたそうです。これは、武田信玄が「借りる」と持っていった藤原定家筆『伊勢物語』(藤原定家が天福2年(1234)に書き写した写本(天福本)の真筆本)を今川氏真が何度も返却要求しているのに返さないことが噂になっていたことを払拭しようとした処置でしょうけど、駿河侵攻って、「海(塩、水軍)が欲しくて、同盟を破っての侵攻」であって、後世、褒められるはずがなく、「今川氏の財宝や駿河国の金山目当ての侵攻」と五十歩百歩の気がします。

今回、「徳川家康の遠江侵攻経路」「姫街道沿いの諸城」「武田信玄の第一次駿河侵攻」の3つのキーワードでドラマの解説をさせていただきましたが、どれも私の知識の10%に過ぎず、書き終わった今では、「書き足りない」という気持ちで一杯です。この10倍は書けます。こう書くと自慢のように聞こえるかもしれませんが、通常のライターでしたら、この20~30倍は書けます。それほど今回以降は史料が多いのです。

史料が多くても、全ての史料に同じことが書いてあれば、短くまとめられるのですが、問題は史料によって書いてあることが異なることです。

たとえば、「徳川家康の遠江侵攻」を学者は、「徳川家康の遠江侵攻は、武田信玄と同調しての永禄11年末」としていますが、多くの古文書では、「永禄8年末」としています。永禄8年末、引馬城主・飯尾連龍が駿府今川館で討たれると、引馬城に残された家老は、「すぐに今川軍が攻めてくるであろう」と考え、「駿府より遠い武田では間に合わない」として徳川家康に援軍を要請すると、徳川軍が進軍してきて、今川氏真軍と見付で3日間戦って破ると、今川義元は日坂へ逃げたので、追って行くと、日坂八幡宮(現・事任八幡宮)の鳩が徳川軍の軍旗に止まり、ここでも今川軍を破ったそうです。

また、この戦いは「侵略ではない」として、徳川家康は、今川の姫(正室の築山殿)を連れてきており、彼女の宿泊場所である西来院には、連日、今川方の武将たちが挨拶に訪れ、徳川方に寝返ったとしています。また、築山殿は、引馬城主・飯尾連龍の正室・お田鶴の方の墓に椿を植えたそうで、これにより、お田鶴の方は「椿姫」と呼ばれることになりました。きりがないのでやめますが、学者はこれらの記述は「全てウソ」として無視しています。

──何が史実か分からない。だから面白い!

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

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