松岡城址に再建された松源寺/亀之丞(後の井伊直親)が隠れていた寺であり、当時は「寺」というより「庵」だったという

井伊家を訪ねて

高瀬姫は井伊直親の子 では南渓和尚は誰の子なの?

更新日:

おんな城主直虎の第20回放送はサブタイトルが「第三の女」であった。
では、「第一」「第二」も含めて「第三の女」とは誰になろうか?

「第一の女」=次郎法師(ドラマでの幼名は「おとわ」)
「第二の女」=塩沢氏の娘(井伊吉直の母)
「第三の女」=笛の師匠・お千代(ドラマでは「ゆき」)
「第四の女」=奥山氏の娘・おひよ(ドラマでは「しの」)
なのか?
単純に考えれば、
「第一の女」=次郎法師(許婚者)
「第二の女」=奥山氏の娘・おひよ(正室。虎松の母)
「第三の女」=高瀬姫(お千代の子)
かな。

今回は「南渓和尚の正体」が発表されるということで、注目していたのですが……、私の予想はハズレでした (^_^;)

 

第20話 「第三の女」 あらすじ

井伊直親の娘と名乗る高瀬が井伊谷へやってきた。母が死んで身寄りがなくなったので、父・亀之丞に会いに来たという。

当の高瀬は、事の大きさに気づいておらず、井伊家や龍潭寺の面々の動揺をどこ吹く風と、のほほ~ん (-^□^-) 登場シーンのBGMには亀之丞の笛よりも映画「第三の男」のテー マ曲が似合いそうだ♪

しかし、高瀬の父・井伊直親は死んでいる。母も死んだということで、娘の身元を確かめようがない。常に亀之丞に付き添っていた今村藤七郎(史実は天正元年(1573年)12月23日没)も、ドラマでは井伊直親と共にドラマチックに死んでいる。事情を知るのは、松岡氏くらいである。

問い合わせた松岡氏からの返事はこうだ。
「ゆき」は実在の人物で、亀之丞と一緒に歩いているところを見た人物はいる。子がいたかどうかは分からない――。

しかし、おかしな話ではある。ゆきは笛の師匠なので、一緒にいることは当然あったし、生まれた高瀬はずっと市田郷に住んでいたので、「誰の子か分からないが、ゆきには高瀬という女の子がいた」と報告してくるはずである。

なお、この時、市田郷は武田信玄の支配下にあり、松岡氏は、結成されたばかりの山県隊(永禄8年(1565)10月15日に飯冨虎昌成敗)に属し、山県昌景と行動を共にしていた。井伊直虎が松岡氏に手紙を出せば、武田への内通であると疑われかねない。
亀之丞が住んでいた松源寺は、天正10年(1582)、織田信長によって焼かれたが、まだこの永禄8年(1565)の段階では存在した。南渓和尚が松源寺の住職に頼んで松岡氏に連絡してもらったのであろうが、松岡氏より、松源寺の住職の方が亀之丞については詳しいと思うぞ。

《松岡氏系図》
⑫貞正(松源寺を創建。文叔和尚の兄)─⑬貞長─⑭則晴─⑮貞利(貞俊。亀之丞を保護した。)─⑯貞行─⑰頼貞─⑱貞利(井伊直政に救われた。)
※ドラマの手紙の差出人名は、17代「頼貞」になっている。

※松源寺は、安永9年(1781)に松岡城址に再建された。松源寺にある井伊直親の位牌は江戸時代の作で、『井伊家伝記』(1730年)の著者として知られる祖山和尚(龍潭寺9世)が送ったものであるというが、祖山和尚は1740年に遷化している。『井伊家伝記』(松源寺本)は、天明5年(1785)に松源寺の泰運和尚が寺僧・棟嶺を龍潭寺に派遣して原本から写させた写本で、泰運和尚は、その『井伊家伝記』を読んで、「そんなことがあったのか。おいたわしや」と泣いたという。市田郷の井伊直親伝承は既に消えていたのである。そればかりか、なぜか松岡氏の痕跡や遺物が少ない。

 

大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、「ここで笑っていいの?」と思う時がある。
井戸端の「井伊直親被害者の会」の決起集会の場面は笑っていいの?

──別の敵が現れて、敵同士、手を結んだのかも知れません。(by 奥山なつ)
──死せる直親、生ける二人を結ばせる・・・か。(by 小野政次)

「敵の敵は味方」(利害関係が一致すれば味方) φ(..)メモメモ
小野政次の言葉の出典は『三国志』の「死せる孔明、生ける仲達を走らす」だね。井伊直親は、諸葛亮レベルの策士だった!

さて、時は永禄9年(1566)へと。
舞台は気賀!

※今回は史実と思われる伝承「亀之丞は高瀬姫を連れて井伊谷に帰ってきた」とは大きく異る。時代考証としては、「すけこまし」(明治時代から使われた言葉)、気賀(直虎時代の読み方は「けが」)が気になった。
その気賀を井伊直虎が知らなかったというのは驚きである。
井伊谷から近いし、次郎法師が托鉢に行った市は気賀の市だと思ってたよ (ノ゚ο゚)ノ

(つづく)

今回の言葉 「娘、遠方より来(きた)る。」(by 戦国未来)

【原文】 子曰。學而時習之。不亦説乎。有朋自遠方來。不亦樂乎。人不知而不慍。不亦君子乎。
【書き下し文】 子曰く、学びて時に之を習う。亦た説ばしからずや。朋有り。遠方より来たる。亦た楽しからずや。人知らずして慍おらず、亦た君子ならずや。

※「朋有り、遠方より来たる」(後藤芝山)
※「朋、遠方より来たる有り」(林羅山)
※「有朋(とも)遠方より来る」(武内義雄)

【意味】 「先師がいわれた。聖賢の道を学び、あらゆる機会に思索体験をつんで、それを自分の血肉とする。なんと生き甲斐のある生活だろう。こうして道に精進しているうちには、求道の同志が自分のことを伝えきいて、はるばると訪ねて来てくれることもあるだろうが、そうなったら、なんと人生は楽しいことだろう。だが、むろん、名聞が大事なのではない。ひたすらに道を求める人なら、かりに自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、それほどに心が道そのものに落ちついてこそ、真に君子の名に値するのではあるまいか」(下村湖人『現代訳 論語』)

【出典】 『論語』(学而第一)

高森町の「石割の松」

下村湖人というと、道徳のテキスト「岩割の松」(『次郎物語』)を思い出しがちだけど、・・・いい訳するなぁ。名声が大事なのではない。ひたすらに井伊氏の研究をすすめる。仮に自分の存在が全然社会に認められなくとも、それは少しも不安の種になることではない。そして、同じように井伊氏を研究する友ができ、遠方(彦根や高崎)から来てくれれば、これほど嬉しいことはない。

小野政次が『三国志』の言葉を使ったので、私も負けじと『論語』を使ってみたぞ。「娘、遠方より来る」。どうじゃ!?

高森町へ行ってみた。
井伊谷からは・・・すっごく遠い。

「ここから、井伊谷まで、少女(高瀬)一人で・・・」
と考えるとぞっとした。母が死んで孤独を感じ、よほど父親に会いたかったのであろう。はいつくばってでも、父に会いに行きたかったであろう。

大河ドラマ「おんな城主 直虎」は、直虎が城主になるまでは、人がどんどん死んで消えていったが、城主になってからはどんどん人が増えている!
賑やかで良い。私も子供を11人は欲しいな (☆。☆)

──あれは井伊のために直親がよこしてくれた忘れ形見じゃ。(by 井伊直虎)

 

キーワード:高瀬姫

高瀬姫は架空の人物(オリキャラ)ではなく、実在の人物です。
系図にも井伊直政の姉として記載されており、彦根藩家老・川手良則と結婚しています。

ただし、井伊直政の姉ではありますが、異母姉であり、高瀬姫の実母は奥山ひよ(ドラマでは「しの」)ではありません。
江戸幕府の公式文書である『寛政重修諸家譜』では、井伊直政の姉については「女子 母は某氏(後略)」、井伊直政については、「直政 (中略)母は奥山因幡守親朝が女(後略)」と母親を区別しています。

高瀬姫の母親は、亀之丞(後の井伊直親)の笛の師匠であるお千代だとされています。(お千代の顔や雰囲気が井伊直虎に似ていたかどうかまでは伝わっていません。)

亀之丞は、
・井伊谷へ戻れば、必ず殺される。
・逃亡先で、いつ見つかって殺されるか分からない。
・逃亡先(旧北朝勢力圏)には、今村藤七郎以外に知人はいない。
という不安で、寂しい状態に置かれ、さらには、年に数回、南渓和尚の使いが生活費を届けに来る時、婚約者が尼になったと聞いたようです。
尼は還俗できませんから、亀之丞とは結婚できません。実際は、「尼」ではなく「次郎法師」という「僧」になっていて、還俗は出来たのですが、南渓和尚の意図が使いの僧には伝わっていなかったのでしょう。

こういう状況では、亀之丞が「逃亡先(信濃国市田郷。現在の長野県下伊那郡高森町)で一生暮らそう、骨を埋めよう」という考えに至ったとしても不思議ではありません。いつ殺されるか分からない状況で、「結婚して妻子を儲ける」ということは考えにくいのですが、井伊家の伝統に従って15歳で元服し、塩沢氏の娘と正式に結婚したとする説もあります。
※「元服」や「結婚」を示す記録はありませんが、塩沢氏の娘との間に儲けた「井伊吉直」は飯田井伊氏の祖となっています。

思いがけなく、奇跡的に「井伊谷帰還」が許されると、亀之丞は、井伊吉直は残し、高瀬姫を連れて遠江国に帰国したそうです。
市田郷を出たのは、1554年の年末のようですが、井伊谷入りしたのは、翌・1555年2月とされています。高瀬姫の存在が、井伊谷を混乱させ、亀之丞は1ヶ月間、井伊谷へ入れてもらえませんでした。その1ヶ月間、渋川(東光院?)にいたとする説と、帰国を支援した奥山朝利の奥山館(奥山)にいたとする説があります。

井伊谷入りしたものの、次郎法師との婚約は破棄され、亀之丞は井伊谷から離れた祝田に用意された屋敷に、高瀬姫、今村藤七郎と共に入りました。
そして、亀之丞は元服し、井伊直盛の養子となって井伊直親と名乗り、奥山朝利の娘・ひよと結婚したそうです。その後、5年間、井伊直親に関する史料は全く残されていません。そして帰国から5年後、井伊直親は「虎松(後の井伊直政)の父」として史料に再登場します。

井伊直親の誅殺後、虎松も殺されることになりましたが、新野親矩の「それなりの年令になったら出家させるから、それまで虎松を預からせて欲しい」という必死の助命嘆願が受け入れられ、虎松は母・ひよと共に新野屋敷へ移されます。このとき高瀬姫と今村藤七郎は、祝田の直親屋敷に残ったのか、井伊谷の新野屋敷に移ったのかは、不明です。

ただ、三方ヶ原合戦直後の武田軍(山県隊)の井伊谷蹂躙の時、高瀬姫は、人質として武田軍に奪われたそうですので、武田信玄の遠江侵攻の時は、井伊谷城に避難していたと思われます。

 

キーワード:南渓和尚の正体

系図によれば、南渓和尚は井伊直平の子なのですが、何人目の子であるかは系図によって異なります。

・『井伊家系譜略図』 ①直宗公②女③直満④僧南渓⑤直義⑥直元
・『井伊家譜史略』 ①直宗②女③直満④僧(南渓)⑤直義⑥直元
・『井伊年譜』 ①直宗公②女③南渓④直満⑤直義⑥直元
・『新訂井家系図』 ①直宗②女③南渓④直満⑤直義⑥直元⑦直方
・『訂正井家御系図案』 ①直宗②直元③女(築山御前母)
・『井伊家譜』 ①直宗②直元③女(築山御前母)
・『系図纂要』 ①直宗②直満③直義④直元⑤南渓⑥女
・『井家粗覧』 ①直宗②女③南渓④直満⑤直義⑥直元⑦直方
・『寛政重修諸家譜』 ①直宗②女子③直満④南渓⑤直義⑥直元

戦国時代の武家では、長男に家督を継がせ、次男を出家させて菩提寺の住職にすることが多かったようです。この例に従えば、南渓は次男でしょうけど、系図によっては三男だったり、五男だったりします。
直宗→直満→直義→直元という順番はどの系図でも同じなのですが、南渓が入る位置が系図によって異なっているのです。

南渓和尚頂相

井伊直平には複数の側室がいました。また、子の男女のバランスが非常に悪いので、「男子の中には養子がいる」「女子の中には書かれていない子がいる」と考えられます。
実際、伝承では「正室が産んだ男子は直宗だけ」です。

南渓和尚については、『南渓過去帳』に
・二月二十三日 善室賢修大姉(南渓母)
・二月 実田秀公居士(南渓父)
とあるそうです。(筆者未見)

実の両親の名を書き間違えるはずがありません。井伊直平夫妻であれば、その戒名は「~院殿~大居士/大姉」でしょうから、少なくとも「大居士」ではなく、「居士」である父親は井伊直平ではありません。また、位号は「居士」「大姉」であり、庶民の位号「信士」「信女」ではないので、武家かなとは思います。

南渓和尚の前半生、言い換えれば「僧になるまで」の記録がありません。前半生も僧であれば、何年にどこどこの寺で修行した等の記録が残っているはずですが、残っていません。

多分、前半生は武士だったのでしょう。南渓は武術に優れ、井伊直平が「本当は南渓を武士にしたかった」と言ったという伝承が残されています。

南渓和尚の正体について、私の予想は、第3話のレビューに書いた通りですので、繰り返しになりますが、「南渓は井伊直平の婿養子」でした。

「武術に優れていた南渓を、井伊直平は娘(ドラマでは佐名)の婿にした。しかし、その娘が人質に出されることになり、離婚させられ、南渓は世を儚み、刀を捨てて、出家した。実はその時、娘のお腹には子(瀬名姫)がいた」と予想したのですが、見事外れました。ドラマの南渓と佐名は、「兄妹」というより、「元夫婦」って感じに見えたのですが・・・残念です (≧∇≦)

※妊娠した娘を家臣に下げ渡すことはよくありました。佐名は、関口親永と結婚した時には妊娠していたようです。瀬名姫は、今川義元にレイプされた時に出来た子で、妊娠を知った今川義元は、佐名を妹にして関口親永に下げ渡したという時代小説があります。

・松平康重の母は、徳川家康の侍女で、松平康親に嫁いだ時は、お腹の中に徳川家康の子(松平康重)がいたようです。

・井伊直政の跡を継いだ井伊直孝も、実は徳川家康が鷹狩に行った時に地元の庄屋の娘との間に生まれた子で、井伊直政が引き取って匿ったという伝承があります。

・井伊直政も、鈴木家に伝わる他言無用の極秘伝には「実は徳川家康の子」とあります。「井伊直親、空白の五年間」に何があった?

──わしは誰の子じゃと思う? わしは母の不義の子じゃ。大爺様は最期までご存知なかったがの。あまりにも申し訳がないゆえ、「まかり間違っても井伊を継ぐことだけはあってはならぬ」と母がの、様々な理由を付けて、わしを寺に放り込んでしもうたのじゃ。(by 南渓和尚)

ということで、「南渓和尚の正体」の正解は、井伊直平の正室(善室賢修大姉)と、どこかの男性(実田秀公居士)との子でした。ということは、「養子」でも「猶子」でも無いということになります。

相棒の『日本史広辞典』(山川出版社)には、「養子」「猶子」について、次のようにありました。

ようし【養子】 嫡出でない者に実子と同じ地位を与える慣行、またはその人をいう。ふつうは他人の幼子を貰いうける養い子を想起するが、日本の場合、養子は必ずしも年少者に限らず、婿養子のような婚齢期の縁組も含める。その形態は多様だが、欧米の捨子や私生児に家庭を与えるという養子本位のものでなく、あくまで家筋の継承・存続と家内労働力の確保を主とした収養側本位という点に特徴があり、東アジア一般に共通する。中国・朝鮮・沖縄などでは、娘がいても嫁にだし、同じ父系出自内の成員の男子を迎えるのに対し、日本では女子も許容されるほか、女子を先に養子にし婿を迎える例も多く、先の婿養子とも関連し、大きな特徴の一つといえる。

ゆうし【猶子】 読み下せば「なお子のごとし」となる。他人の子をみずからの子のように遇するもの。養子と違い、実親との関係や家名の名乗などには変更のないことが多く、家格意識の強い中世公家社会で、家格からくる制約を回避するため親子関係を擬制して後見を与えたものである。婚姻や寺院への入室などの際に、出身家格の低い者を貴顕者の猶子にして格を整えることがしばしば行われた。

「猶子」は公家の世界の話のように思われがちですが、あまりにも身分が低いと住職にはふさわしくないので、身分の高い人の猶子となって住職を務めたようです。これは、「龍潭寺開山・黙宗和尚が、弟子の中から優秀な南渓和尚を次の住職に選んだ時に、井伊直平が南渓和尚を猶子にした」とする説なのですが、それでしたら、三世傑山和尚も、五世昊天和尚も井伊氏の猶子にしているかと。(ちなみに、四世悦岫 和尚は織田信長の子だとか。)

 

キーワード:2人の松岡貞利

松岡氏は、平安時代の「前九年の役」(源頼義の奥州赴任(1051年)から安倍氏滅亡(1062年)までの「奥州十二年合戦」)で敗れた安倍貞任の次男・仙千代は、羽生・中村・上沼に守られ、乳母と共に市田郷の牛牧村姥ヶ里へ逃れました。

ある日、いつものように近くの湯ヶ洞温泉に浸かっていると、市田郷主・橋都が来て同じ湯に入り、市田郷の将来について語り合いました。意見が一致したので、仙千代は、橋都に推されて地頭となり、「松岡平六郎安倍貞則」と名乗って、松岡古城(上市田の城原)に入ったそうです。

仙千代が落ち着いたという姥ヶ里。背後の山には磐座がある。仙千代が登って遊んだので「松岡岩」と呼ばれている。(高森町牛牧)

松岡古城

松岡氏(松岡時家)と井伊氏(井伊介)の共通点と言えば、鎌倉時代、共に御家人として、鶴岡八幡宮の弓始(流鏑馬)の射手を勤めたことがあるという事くらいでしょうか。

松岡城案内板

南北朝時代、松岡氏は、北朝方の信濃国守護・小笠原氏の配下となり、南朝方の知久氏・香坂氏などと対立し、松岡城を築いたようです。
※大雑把に言って、伊那谷(天竜川)の西岸は北朝方、東岸は南朝方で、西岸の市田郷の松岡氏は北朝方であり、対岸の大鹿村には、宗良親王が住む信濃宮がありました。

安養寺の宝篋印塔

1338年には安養寺が建てられました。
南北朝時代のもので、松岡伊豫守貞景の墓と考えられています。
戦国時代、井伊氏の亀之丞が市田郷に逃げてくると、松岡氏は保護し、息子や家臣の子と共に学ばせたり、武術を身につけさせたりしたとされています。

その一方で、「旧・北朝方の一族が、旧・南朝方の一族を保護するはずがない」とし、「亀之丞は身分を隠していた」とか「城主・松岡氏の娘とは結婚できず、代官の娘と結婚した」等の意見もありますが、後の井伊直政の行動をみると、亀之丞は松岡氏に保護された(井伊直政は、保護してくれたと思って感謝していた)ようです。

松源寺開山・文叔和尚の墓(左の無縫塔)と、松源寺創建・松岡貞正(文叔和尚の実兄)の墓(右奥の自然石)(松源寺)

天文13年(1544)、甲斐国の武田信玄は、伊那への侵攻を開始し、諸城が落城していくと、天文23年(1554)、松岡氏は武田氏の軍門に下り、亀之丞(井伊直親)も追い出されるかのように井伊谷へ戻りました。
天正10年(1582)、織田信長が信濃国へ侵攻すると、間もなく武田氏は滅亡、亀之丞を匿っていた松源寺も戦火で焼失しました。
これにより、松岡氏は、織田軍の毛利秀頼(飯田城主)の下につきました。

「本能寺の変」で織田信長が討たれると、信濃国は徳川家康が支配することになりました。
松岡氏は、井伊直政(兵部)につけられ、天正13年(1585)の第一次上田合戦では、
「兵部一心の覚悟にて、塩尻へ働く。伊奈の松岡衆、甲州一条衆を差し添え、木曽、小笠原衆三十六人討ち取る」(『甲陽軍鑑抜書(後集)』)
と活躍したようです。

小笠原貞慶が徳川方の高遠城を攻める時、松岡貞利に合力を求めました。
軍議の結果、出陣しましたが、途中で小笠原貞慶の敗退を聞き、何もせぬまま、城に戻ります。この出陣を、座光寺為時が密告したため、松岡貞利は捕らえられ、知久平城に幽閉されました。
天正16年(1588)8月、駿府の徳川家康の御前裁判により改易・家名断絶となり、約550年間続いた松岡氏は事実上、滅亡しました(小笠原貞慶は、豊臣秀吉の忖度で「隠居」で済まされました)。
このとき松岡貞利の命を「松岡氏は父を保護してくれたから」と救ったのは井伊直政で、松岡貞利は磔を免れたばかりか、500石と屋敷を与えられて直政の家臣となります。
※小田原征伐で登場する井伊直政の家臣・松岡形部は、松岡貞利のことだとされています。

松岡霊社(高森町)

松岡貞利は、井伊直政と行動を共にし、佐和山へ移りましたが、それ以降の松岡氏の消息は不明です。
ただ、改易206年後の寛政6年(1794)、松岡氏の旧・重臣たちが高森町に松岡霊社を建てたことだけは分かっています。

《松岡氏系図》

安倍貞任─松岡①貞則─■─■─■─■─⑥貞景─⑦貞政─⑧次郎■─⑨新左衛門尉■─⑩秀貞─⑪頼貞─⑫貞正─⑬貞長─⑭則晴─⑮貞利─⑯貞行─⑰頼貞─⑱貞利

①松岡平六郎安倍貞則:安倍貞任の次男・仙千代

②~⑤の4代不明。「時家」という人物がいたようだ。

※『松岡山安養禅寺記』に「(貞景は)貞任六世の令孫」とある。

・嘉禎3年(1237)、四郎時家、鶴岡八幡宮の弓始の射手
・嘉禎4年(1238)、四郎時家、鶴岡八幡宮の弓始の射手
・嘉禎4年(1238)、四郎時家、将軍上洛の随兵
・建長6年(1255)、小三郎、鶴岡八幡宮の弓始の射手
・弘長3年(1263)、左衛門四郎、鶴岡八幡宮の弓始の射手
・文永2年(1265)、左衛門次郎時家、鶴岡八幡宮の弓始の射手

⑥貞景(伊豫守。?-1354):安養寺を創建。松岡城築城。
⑦貞政:至徳3年(1387)の貞景33回忌に安養寺に経典を寄贈
⑧?(次郎):信濃国守護・小笠原長秀に従い、応永7年(1400)の 大塔合戦に参戦
⑨?(新左衛門尉):永享12年(1440)からの結城合戦に参戦
⑩秀貞(兵部少輔):諏訪上社の頭役を5回勤仕
⑪頼貞(左衛門尉):長享2年(1488)に家督継承
⑫貞正(松源寺殿):永正10年(1512)松源寺を創建。弟が文叔和尚(1468-1535)。
⑬貞長
⑭則晴(刑部少輔)
⑮貞利(貞俊。右衛門大夫):天文23年(1554)武田信玄に帰順
⑯貞行(左衛門尉)
⑰頼貞(兵部大輔):天正10年(1582)織田信長に帰順
⑱貞利(右衛門佐、形部):徳川家康に帰順。天正16年(1588)改易

※最盛期は、⑪頼貞・⑫貞正親子の時
※⑮貞利(貞俊)が亀之丞を保護した。
※井伊直政が⑱貞利(右衛門佐)を助ける。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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