「直虎の花」モチーフの1つである椿

井伊家を訪ねて

井伊谷城から駿府今川館までカーナビ100.2km 井伊直親の死路を辿ってみる

更新日:

今回は、いよいよ井伊直虎の登場です。
「直虎の花」の開花と言ってもいいでしょう。
※OPの兜に絡まるツル植物の「直虎の花」は、祐椿尼が好きなツバキ、「砂漠の薔薇」と呼ばれるアデニウム、ツル植物のノウゼンカズラを合成した架空の植物だそうです。

さて、前回(第11話)の感想で多かったのが、
──井伊直親は、なぜ偽元康を本物だと信じたか?
です。
史実では「二人は旧知の仲」でしょうから、この質問は成り立ちません。

史実ではなく、ドラマに即して答えれば、
──手紙の花押が本物に見えたから
でしょう。別の解答は「着ていた衣装が、去年の『真田丸』の松平元康の衣装の使い回しで、同じ衣装だったから」とか(笑)。

花押は身分証明に使われます。
ただ、このタイプの花押の現存する手紙は、ほとんどが親戚衆宛の物ですので、この花押を井伊直親が知っていたかどうか。
また、署名が「元康」になっていますが、この花押が使われていた時期の署名は「蔵人 元康」です。

知恵者の小野政次も、今川から松平に乗り換えた方がいいと考えていたので、
──選ぶ余地など無いではないか
と井伊直親の意見に同意しました。
井伊氏の本拠地が駿河国にあれば、いくら落ち目とは言え、今川氏に従うのですが、井伊氏の本拠地は遠江国と三河国の境界で、西隣は既に松平領になっていたので、乗り換えを決意したのでしょう。

さて、駿府で小野政次は騙されたことに気づきました。
「井伊谷では一番頭がいい俺だが、その俺が騙されるとは」と悔しがり、さらに偽元康に選ばれた人間が、元カノの尾野さんと関係したほっしゃんだったので、歯ぎしりする思いでした。

──選ばれよ。(by 寿桂尼)
ここで去年の『真田丸』のパッパでしたら、
「今川のために松平内部に忍び込んで、今川に有利な情報を探ろうと思っていたのに、偽者でしたか。今川のためのスパイ活動(潜入捜査)が出来なくなって残念でござる。スパイする気、満々でしたのに、いや残念(大笑)」
なんでしょうけど、奥山朝利の怨霊を怖がるなど、小心者の小野政次には、選ぶ道は2つしかありませんでした。

①井伊を裏切り、今川に付く。
②今川に付いたと見せかけ、今川内部で情報収集活動をする。

生への執着心はまだまだあるので、「③腹を切る」は無いです。
本心が②であっても、「敵を欺くには、まずは味方から」と申しますから、当分、小野政次は悪役ですね。

さてさて、今回は盛りだくさんの内容でした。

(1)井伊直親の死
(2)三河一向一揆
(3)井伊直平の死
(4)新野親矩&中野直由の死
(5)井伊谷七人衆の誕生
(6)井伊直虎の誕生
一言で言えば、「旧体制から新体制への転換」でしょうか。では、こうした状況を踏まえてあらすじへ。

第12話「おんな城主 直虎」あらすじ

19基の首塚は、井伊直親一行の塚?(静岡県掛川市十九首)

(1)井伊直親の死
「今川氏真、大驚き、「早々出馬、直親公を糾明、相攻可申」由にて、遠州掛川城主・朝比奈備中守ニ先手被申付候。依之、直親、陳謝之為に新野左馬之助を駿府江被遣候。跡ゟ直親公御越被成候所、掛川御通之節、朝比奈備中守取圍、一戦ニ及。直親主従共雖盡粉骨、無勢故、終ニ傷害被成候。直親公死骸、一國之中故、南溪和尚僧衆被遣、引取、於龍潭寺燒香被成候。永禄五年壬戌十二月十四日也。」(『井伊家伝記』)
【現代語訳】 今川氏真は、大変驚き、「早々に出馬し、井伊直親公の反逆を糾明し、攻めるべし」と申されて、遠江国の掛川城主である朝比泰朝(当時の掛川城は、現在の掛川古城)に先陣を申し付けた。これにより、井伊直親は、陳謝するため、新野親矩を駿府へ遣わされた。(新野親矩の)後から井伊直親公も駿府へ向かわれたところ、掛川を通過中に、掛川城主・朝比奈泰朝が 井伊直親一行を 取り囲んで戦いとなり、井伊直親主従の一行は、粉骨砕身、力の限り戦ったが、少数であったので、遂に討ち取られた。井伊直親公のご遺体は、(掛川も井伊谷も)遠江国にあり、(遠いわけではないので、)南渓和尚が寺僧を派遣して、遺体を引き取り、龍潭寺で葬儀を行った。これは 永禄5年(1562)12月14日のことである。

 

現・掛川城の天守閣から見た掛川古城(静岡県掛川市)

※当時の掛川城は、現・掛川城から少し離れた場所にあった。
井伊直勝(井伊直政の長男)は、彦根を井伊直孝(井伊直政の次男)に譲ることになった時、移封先に「祖父の供養のため、祖父が討たれた掛川」を望んだが、叶えられず、子の井伊直好の代に叶えられて、井伊直好が掛川藩主になると、井伊直勝は掛川に転居し、掛川で亡くなった。
墓は可睡齋(静岡県袋井市久能)にある。その後、直勝流の井伊氏(直勝系井伊氏)は、掛川藩から与板藩に移封され、「与板井伊氏」となった。与板井伊氏の当主(「現在の宗主」のこと)は、井伊美術館長・井伊達夫氏である。

◆参考:掛川城 歴代城主
①朝比奈備中守泰煕 ②朝比奈備中守泰能 ③朝比奈備中守泰朝
④石川日向守家成 ⑤石川長門守康通 ⑥山内対馬守一豊
⑦松平隠岐守定勝 ⑧松平河内守定行 ⑨安藤帯刀直次
⑩松平越中守定綱 ⑪朝倉筑後守宣正 ⑫青山大蔵少輔幸成
⑬松平大膳亮忠重 ⑭松平遠江守忠倶 ⑮本多能登守忠義
⑯松平伊賀守忠晴 ⑰北条出羽守氏重 ⑱井伊兵部少輔直好
⑲井伊伯耆守直武 ⑳井伊兵部少輔直朝 ㉑井伊兵部少輔直矩
㉒松平遠江守忠喬 ㉓小笠原壱岐守長煕 ㉔小笠原山城守長庸
㉓小笠原能登守長恭 ㉖太田摂津守資俊 ㉗太田備中守資愛
㉘太田備中守資順 ㉙太田備中守資言 ㉚太田備中守資始
㉛太田備中守資功 ㉜太田備中守資美

(2)三河一向一揆
──悪い奴じゃのう、そなたは。(【訳】お主も悪よのう。)
永禄6年(1563)、上宮寺(愛知県岡崎市上佐々木町)から穀物を奪ったことに端を発して「三河一向一揆」が起こったようです(異説あり)。

この一揆では、松平家康の家臣が門徒方と家康方に分裂する戦いが約半年間続き、松平家康の躍進に待ったをかけ、遠江侵攻を遅らせることになりました。
これが、「悪い奴」・小野政次の入れ知恵で、今川氏真があおったのだとしたら、援軍を求めたのに断った松平家康への仕返しであり、「今川を使って家康の遠江侵攻を遅らせる」という小野政次の策であったことになります。
※人質交換の一手をうつ家康、井伊を助けようか迷う家康、そして、怯える家康と、囲碁で家康の感情を表現するという演出が面白い。それにしても、家康が登場する時は、いつも具足を身に着けている。家康は、戦いの日々を送っているようである。

 

城ガールに人気の杜山城(静岡県磐田市社山)

(3)井伊直平の死

「氏真ゟ右之過役ニ、遠州八城山城主・天野左衛門尉(氏真ニ不随候)直平ニ可相攻旨、被申候故、不遁請負被申候間、出陣之支度被成候所ニ、直平公之家老飯尾豊前守妻、天野左衛門と縁者、豊前江相春ゝめ、夫婦同心ニて直平公へ逆心。直平公出陣之節、豊前ヵ妻、直平公江茶を進申候所ニ、其茶、毒ニて、直平公先勢は、遠州国領蔵中瀬迄参候所ニ、直平公、有玉旗屋之宿にて、惣身春くミ落馬、毒死被成候。」(『井伊家伝記』)

【現代語訳】  今川氏真は、この過失(井伊直平の陣からの出火)の埋め合わせに、井伊直平公に遠江国の社山(やしろやま)城の城主・天野左衛門尉(今川氏から離反して武田方につき、今川氏真に従っていなかった)を攻めるよう申し渡した。逃げることなく承知した井伊直平公が、出陣の支度をされていると、井伊直平公の家老である飯尾豊前守連龍(いのおつらたつ)の妻(天野左衛門と縁者)が、夫・飯尾豊前守連龍に反逆を薦め、夫婦共に井伊直平公を裏切った。井伊直平公の出陣の時に、飯尾豊前守連龍の妻が、井伊直平公へお茶を出したが、そのお茶には毒が入っており、天野討伐軍の先鋒が遠江国領の倉中瀬村(現在の静岡県浜松市東区豊町。天竜川の渡船場)まで達した時、井伊直平公は、有玉旗屋村(有玉畑村。現在の静岡県浜松市東区有玉南町畑屋)の陣宿で、体全体が竦んで(震えて)落馬し、服毒死(毒殺)された。

※飯尾氏のご子孫は中学校の英語の先生で、天野氏のご子孫はノーベル賞受賞?

 

左馬武神社が建つ間蔵山(静岡県御前崎市新野)

(4)新野親矩&中野直由の死
「直平公之家老飯尾豊前守、直平公毒死之後、押領、引馬城主ニ罷成申候故、今川氏真ニも不随、却て反逆之支度、陰謀相巧申候。因茲、氏真ゟ新野左馬助、中墅信濃守両人ニて可相攻旨申来、両人「直平公之怨敵可相攻事候得共、只今威勢強く、両人之無勢にて難攻候間、加勢被下候」様ニ願被申候故、氏真ゟ二千人之加勢、手勢井伊谷之人数相催、引馬之城江取掛、一戦ニ及候得共、豊前ハ引馬之城、相固め申候故、終ニハ新野左馬助、中野信濃守、引馬之城東、天間橋にて敗軍。両人共ニ討死。右両人討死之後ハ、井伊家之御一門と申候ハ(無之候)」(『井伊家伝記』)
【現代語訳】  井伊直平公の家老である飯尾豊前守連龍は、井伊直平公を毒殺すると、引馬城を乗っ取って引馬城主となり、今川氏真にも従わないばかりか、むしろ反逆の準備をし、陰謀を企てていた。これにより、今川氏真に、新野左馬助親矩と中野信濃守直由の2人で(飯尾連龍を)攻めるようにと命令されたが、2人は、「井伊直平公の仇であるから攻めたいと思うが、今は敵の威勢が強く、(その反面、)我ら2人には軍勢が無く、攻めるのが難しいので、加勢をお願いしたい」と願ったところ、今川氏真から2000人の援軍が来たので、手勢の井伊谷の軍勢を率いて出陣し、(今川氏の援軍と合流して)引馬城へ攻めかかり、一戦交えた。飯尾豊前守連龍は、引馬城の守りを固めていたので、遂に新野左は引馬城の東の天間橋で負け、2人とも討死してしまった。この2人の討死の後は、井伊家のご一門は誰もいなくなった。

中野直由は、引馬城攻めで亡くなりました。
新野親矩については、
①引馬城(城主・飯尾連龍)攻めで亡くなった。
②駿府今川館に飯尾連龍を呼んで斬ろうとした時、逆に斬られて亡くなった。
の2説あります。

通説は①で、新野親矩は今川軍2000人の大将であり、安間(静岡県浜松市東区安間町)の本陣付近で討たれたとのことです。
新野親矩の墓は、出身地(静岡県御前崎市新野)の間蔵山(語源は「馬鞍」か?)にあります。後に左馬武神社(宮司は二俣氏)が建てられました。
この神社では、新野親矩は、引馬城攻めで流れ矢に当たって亡くなったとされ、「参拝すれば、流れ矢に当たらない」(ご祭神は、流れ矢に当たって死んだので、参拝者が自分と同じ運命を辿らないよう守って下さる)とされ、日清戦争の時は「流れ玉に当たって死なないように」と多くの出兵者やその家族が訪れたそうです。

 

都田城址(静岡県浜松市北区都田町)

(5)井伊谷七人衆
井伊直平、新野親矩、中野直由が死ぬと、小野政次が与力(助っ人。ドラマでは「目付」)を連れて、井伊谷へ帰ってきました。
井伊直虎の重臣「井伊谷七人衆」の誕生です(と、ドラマでは設定されています)。
※ドラマでは、祐椿尼(井伊直虎の実母)に挨拶する場面で、「鈴木重時と申します」と初対面のような挨拶しているが、「鈴木重時の正室は奥山朝利の娘」「井伊直親の実母は鈴木重時の妹」であり、祐椿尼とは顔見知りである。
菅沼忠久の正室は、鈴木重時の長女である。井伊氏の移封後に井伊谷藩主となった近藤氏とは血縁関係がない。このため、「井伊谷七人衆」の中では近藤氏が溶け込めずに浮いている。

《「井伊谷七人衆」のメンバー》
・「小野、松下、松井、中野等七人」(『貞享菅沼主水書上』)
・「井伊谷七人衆ト申候は、今川家の与力にて罷居候。(中略)中野五良太夫、小野但馬、中井七良三良、鈴木三良太夫、近藤平右衛門、菅沼次良右衛門、松井某。」(中井直恕『礎石伝』)
・『井伊家伝記』(乾坤本。中井直恕による写本)の「井伊谷三人衆」の注に
「井伊谷七人衆古記ニ中野・小野・鈴木・近藤・菅沼・中井・伊平等之七人也。(中略)尹良親王以来、酒井・新田・大舘・鈴木・朝倉・小野・飯尾・近藤・菅沼等ハ、井伊氏幕下也。井伊氏御一門ハ、赤佐・奥山・貫名・田中・岡・伊平・中野・上野・中井・石野・谷津・石岡等也。累代の家臣ハ松下・今村・小野・内山・西尾・岩井・堀川(気賀)氏也。」
とある。

「井伊谷七人衆」のメンバーは時期により異なります。

伊直虎城主時代の「井伊谷七人衆」は、
①小野氏(井伊家筆頭家老):小野政次
②中野氏(井伊家の庶子家):中野直之(直由の子)
③松下氏:松下清景(井伊直親家老)
④今村氏(勝間田氏):今村正実(井伊直親家老)
⑤近藤氏:近藤康用(宇利城主)
⑥鈴木氏:鈴木重時(柿本城主)
⑦菅沼氏:菅沼忠久(都田城主)
かな?
『貞享菅沼主水書上』の「松井」、『礎石伝』の「松井某」は、二俣城主の松井氏かな? それとも、瀬戸方久(瀬戸村に住む松井氏)のことかな?

※『今村家伝記』によれば、松下氏と勝間田氏(後に「今村」と改姓し、後に「勝間田」に戻した)は、慕う新野親矩が井伊谷に転居したので、彼の後を追って、井伊谷に転居したという。
※今村藤七郎正実は、ドラマでは井伊直親と共に討死しているが、殉死もせず、天正元年(1573年)12月23日まで生きた。
※後に徳川方に寝返って「井伊谷三人衆」と呼ばれるようになる近藤・鈴木・菅沼氏は、今川氏が付けた与力だという。

(6)井伊直虎誕生
上述の『井伊家伝記』には、井伊直平・新野親矩・中野直由の死後、「井伊家之御一門と申候ハ(無之候)」(井伊家のご一門は誰もいなくなった)とありますが、南渓和尚(井伊20代直平の子)、次郎法師(井伊22代直盛の子)、虎松(井伊23代直親の子)の3人がいました。
次郎法師は、その名の通り、尼ではなく、僧であったので、還俗できたのですが、髪型は、「尼削ぎ(あまそぎ)」という尼のものでした。いわゆる「お河童(かっぱ)」です。龍宮小僧は河童であるから、これでいいのか?

坊主頭ではなく、お河童頭であるならば、井伊直虎役には「この世に男は35億」のブルゾン・・・、いや、静岡県静岡市清水区出身の広瀬すずさんがよさそうですが、柴崎コウさんもいいですね。

(つづく)

【今回の法話 「怨親平等」(おんしんびょうどう)】

「怨親招魂」碑(愛知県新城市) ※「○」は「無」「空」を表す。

「怨親平等」とは、「怨(敵)も親(味方)も平等」である(禅宗では、敵であろうが味方であろうが、戦死者であろうがなかろうが、全員、死ねば等しく仏弟子になる)という立場に立ち、恩讐を越えて、敵味方の区別なく、同じように極楽往生させること(戦死者の供養をすること)である。

元亀2年(1571)、菅沼定盈の大野田城を武田信玄が攻めた。
この戦いでの戦死者は、6基の塚に埋められた(古戦場の塚は「怨親平等」で、敵味方関係無く戦死者が埋められている)が、均して畑にすると、村に疫病が流行した。「これは戦死者の祟だ」と考えられて、「怨親招魂」碑を建て、敵味方無く、戦死者の魂を供養したという。

「禅宗においては本来は霊魂の存在は否定され、ましてや怨霊は「幻妄」であったが、室町時代には禅宗が鎮魂の主流であった。そして、怨霊という思想よりも、怨親平等という考え方に則って鎮魂を行うというあり方が次第に大勢を占めるようになっていった。」(山田雄司『怨霊とは何か』(中公新書)p.178)

井伊直親一行の遺体も、人通りの多い東海道に、ドラマのように「そのまま」「放置された」ということはあり得ない。
謀反人扱いで、墓を築けなくても、通行の邪魔であるから、すぐに片付けられた(穴を掘って埋められた)と思われる。刀など、売れそうなものはすぐに盗まれたであろう。

※井伊直親一行は20人で、井伊直親の首は駿府今川館へ送られ、従者19人の首を埋めたのが19基の首塚で、それが地名「十九首」の由来だという。異説では、井伊直親の首は掛川城下に晒されたが、夜に祝田禰宜(長男)の弟(次男)が盗んで井伊谷に持ち帰ったという。
※武士が儒教を学んだのは「教養」としてであり、儒教文化は、仏教文化のように根付いていない。儒教国では、墓は親族しか築けないが、日本では、戦死者の墓(義塚)を戦場(戦死した場所)に、その場の住民が築くことができた。

──ちゃんと葬らないと怨霊になる?
仏教では、人は死ぬと「輪廻転生」と言って、生き物に転生する(善行を積み重ねた者だけがまた人間に生まれ変われる)ので、「天国」も「地獄」も無い。
日本では、遺体のことを、戦死者であれ、病死者であれ、等しく「仏様(ほとけさま)」と呼んでいるが、解脱(げだつ。輪廻転生の輪から外れること)しないと仏にはなれず、「浄土」(仏が住む世界)へは行けない。

臨済宗等の禅宗では、人は死ぬと「仏弟子」になるという。その時に使う名前が「戒名」(かいみょう。仏門に入った者に授ける名。臨済宗では位号の前の2文字)である。
井伊直親(大藤寺殿剣峯宗慧大居士)は、臨済宗の信者であるから、仏弟子「宗慧」になったと思われるが、もしかしたら、輪廻転生で亀に生まれ変わり、(南渓和尚の虎猫のように)井伊直虎のペットになったりする?

 

キーワード:井伊直親誅殺

地名「懸河」の由来となった場所に建てられた「懸河旧址」碑。「かけがわ」の語源は「欠け川」だという。

ドラマでは、井伊直親が家老・小野政次に相談すると、「現状を分析すると、(「家臣」ではなく、主家(上級権力者)を変えることが可能であった)国衆(国人領主)・井伊家としては、主家を、落ち目の今川家から勢いのある松平家に鞍替えすべきである」と意見が一致したので、松平元康とコンタクトをとったとしています。

実際は、井伊直親と松平元康は仲の良い友人であったようです。
井伊直親は、幼い頃に母を亡くしており、9歳の時に父が今川氏に誅殺されて、逃亡生活を余儀なくされました。
松平元康は、幼い頃に母と離別し、8歳の時に父が家臣に殺され、自身は今川氏の本拠地で人質生活をおくりました。
井伊直親と松平元康の境遇は似ていたので、理解し合えることが多かったのでしょう。

・小野政直の讒言で今川義元が井伊直満を誅殺
・小野政次の讒言で今川氏真が井伊直親を誅殺
と聞くと、
「小野親子も今川親子も同じ事をしてるなぁ。井伊親子は同じ事をされてるなぁ」
「井伊氏って学習能力が無いの?」
と思います。

井伊直親が駿府へ向かった理由は、学者でも分からないそうです。
ドラマでは、「自分が死ぬことで(罪を背負うことで)、井伊家を生かす」と描かれていますが、次郎法師にした「ずっと好きだった。駿府から帰ったら結婚しよう」という告白&プロポーズは、「本心」であるばかりでなく、「本気」だったと思われます。
宗主の結婚には、主家の承諾が必要ですので、弁明後に、今川氏真に結婚の許可を得ようとして、駿府へ向かったのでしょう。

通説は、「新野親矩が駿府へ行き、「家老が『城主が松平元康に内通した』と言っているようだが、城主は、『養父・井伊直盛は、織田信長に桶狭間で殺された。織田信長は敵である。したがって、その織田信長と清洲同盟を結んだ松平元康も敵である。敵とは内通しない』と言っている」と言うと、今川氏真は納得して、井伊直親の誅殺を取り消したので、井伊直親は、安心して、駿府へ挨拶に向かった」です。それなのに、掛川城主・朝比奈泰朝によって討たれたのは、①朝比奈泰朝が、「井伊直親一行は、今川氏真を討つために駿府へ行こうとしている」と勘違いして討ったとも、②今川氏真は、井伊直親を殺したかったが、誅殺を取り消した以上、新野親矩の手前、駿府で切腹させられないので、駿府に着く前に忠臣・朝比奈泰朝に暗殺させたとも。

※「井伊氏って学習能力が無いの?」と思う。井伊直満の誅殺後、亀之丞の命も狙われた。当然、今回もその可能性があるので、井伊直親は、駿府へ行く前にしのと虎松をどこかへ隠すべきだったと思う。誅殺されずに帰れたら、隠れ家から戻せばいいし、戻さずに離縁して約束通り次郎法師と結婚してもいい。

さて、井伊直親の死に様には諸説あります。
①20人で駿府に向かい、掛川城下の西端「十九首」で、12月14日、掛川の城兵に討たれた。
②50人で駿府に向かい、3月2日、掛川の城兵500人に討たれた。その500人は、続けて井伊谷城を攻めた。

「19」という数字は、平将門ら19名の首を洗って埋めたという19の塚がある「十九首」(地名)によるものと思われます。
ちなみに、洗った首を川に架かる橋の欄干に掛けて干したので「掛川」とする俗説がありますが、「かけがわ」の語源は「欠け(崖)川」(写真「懸河旧址」)のようです。「川が山にぶつかって山を崩して崖が出来た場所」のようです。

井伊谷城から駿府今川館まで、カーナビで検索したら、「100.2km 1時間44分」と表示されました。
井伊谷城から掛川市十九首までは「48.4km 57分」でした。
人間の歩行速度を4km/hとすると、48km歩くには12時間必要で、夜明け前に出れば、夕方には掛川に着くことでしょう。所要時間から考察すると、「掛川を歩いている時に襲われた」ではなく、「掛川の宿で寝ている時に襲われた」のかもしれません。

『直政公御一代記』(末尾に原文掲載)には次のようにあります。
【『直政公御一代記』(史料2)現代語訳】 小野政次が、「井伊直親が寝返って松平元康についた」と今川氏真に訴えると、「井伊直親は、駿府(今川館)に弁明に来るように」と今川氏真が使者を遣わして言ってきたので、井伊直親は、「そのような事はありません。駿府に行って弁明します」と使者に返事をして、旅支度をしていたところ、今川氏真と「好身」(よしみ。身近の親しい人)の新野親矩は、日頃から井伊直親とは「入魂」(じっこん。親しくつきあう間柄。懇意)であったので、「細心の注意を怠り、ほんの少しでも言い方を間違えると、身に危険が及ぶので、まずは私が駿府へ行って、そのような事(徳川氏への寝返り)をしていないことを説明しておくので、その後に駿府へ行けば安全です」と言って、駿府へ行き、「有増」(あらまし、概要)を伝えた。しかし、今川氏真は、掛川城主・朝比奈泰朝に「井伊直親を掛川に策を弄して呼んで討つように」と言ったので、朝比奈泰朝は、井伊直親へ使者を送り、「今回の件について、それ以前に出されている問題の裁決が終わるまで(あなたの裁判の日が来るまで)は、(駿府まで1日で行ける)我が城下町(掛川)で待機されるがよい」と伝えた。それで、井伊直親は、早速、掛川へ行くと、朝比奈泰朝は2人の道案内を遣って、「まずは「在郷」(都会(掛川)から離れた田舎)でゆっくりされるがよろしかろう」と伝えた。掛川城下から約1里(4km)離れた原川村(静岡県掛川市原川)に宿が用意されていたので、井伊直親はそこに泊まることにしたのであるが、夜になって、朝比奈泰朝が、掛川から「人数」(軍勢)を出し、「御報(返事、判決)であるが、今回の件は、駿府において、新野親矩が承り、今川氏真へ申し入れた結果、「成らず」であった」と告げ、井伊直親を殺害した。

井伊直親が殺害されると、虎松が宗主、井伊直虎が後見人となりました。

今回は、演出もカメラワークも抜群でした!
今川氏真が新野親矩の鼻に豆を詰める演出、最後の井伊直虎と小野政次の視線のカメラワーク、ゾクゾクしました。
鳥肌立ちました。
その他、小野政次にアイキャッチ(キャッチライト)を入れずに、死んだ目にするとか、照明さんも見事でした!

残念だったのは次の2点です。
①小野政次が、井伊家始祖出生の井戸近くの大木の根元に次郎法師が倒したままの達磨(臨済宗の始祖・達磨を象った人形)型の徳利を「何度も同じことを繰り返し、井伊は終わるべくして終わったのだ」と言いながら、立てるシーン。小野政次は、心の中では「達磨は七転八起。儂が井伊を立て直す。お前のために」と言っているのでしょうが、岩が邪魔で手元(徳利)がよく見えません。邪魔な岩は、小野による井伊家立て直しを阻んで小野政次と次郎法師の間に横たわる井伊家の先祖(あるいは今川家)を表していると理解は出来るのですが。

②今回、唯一の笑う場面の、次郎法師が、昊天の槍を折るシーン。昊天は「長刀昊天」と呼ばれる長刀(なぎなた)の達人ですから、「そこは槍ではなく、長刀だろ」と思いました。演出家は、「やり場の無い怒りをぶつけるヤリがあった」とシャレたのでしょうけど、もしかしたら、「ヤリを次郎法師に折られたので、仕方なく長刀を使うようにしたら、これがハマって達人となり、『長刀昊天』という名が世に広まった」とする伏線なのかもしれません。(「僧兵」のイメージは、弁慶にしても、槍より長刀ですけどね。)
※昊天和尚が実際に使った長刀が龍潭寺に展示されています。

史料1:『井伊家伝記』第19段「小野但馬讒言委細之事付井伊肥後守傷害之事」

一 小野但馬父小野和泉守、肥後守直親公実父彦次郎直満を傷害為致候宿意にて、主従共、父と父と之遺恨相残リ、平日、君臣之間、不宜。因茲、直盛傷害之後、井伊谷を押領可致、陰謀兼巧ミ申候得共、中野信濃守、井伊谷を預居被申候故、見合申候折柄、直親、折々三州岡崎権現様江往来、内通被成、其上、井伊谷山中江鹿狩ニ加古徒け、御人数被遣、直親領分之中、山中、村々共、鹿狩之案内被成候故、永禄五年壬戌之極月、小野但馬、急ニ駿府江罷下、今川氏真江讒言申候ハ、「肥後守直親ハ、家康公・信長両人江内通、一味同心仕候。近日遠州発向之為に先勢之人数被遣候。追々大勢參り候風説夥敷候。遠州ハ、信長・家康公両人之手に入リ可申」と委細ニ訴申候故、今川氏真、大驚き、「早々出馬、直親公を糾明、相攻可」由にて、遠州掛川城主朝比奈備中守ニ先手被申付候。依之、直親、陳謝之為に新野左馬之助を駿府江被遣候。跡ゟ直親公御越被成候所、掛川御通之節、朝比奈備中守取圍、一戦ニ及。直親主従共雖盡粉骨、無勢故、終ニ傷害被成候。直親公死骸、一國之中故、南溪和尚僧衆被遣、引取、於龍潭寺燒香被成候。永禄五年壬戌十二月十四日也。法名「大藤寺殿前肥州太守剣峯宗慧大居士」。右大藤寺と申候ハ、龍潭寺末寺ニて、御朱印四石五斗御朱印一本也。

【現代語訳】 一 小野政次の父である小野政直は、井伊直親公の実父・井伊直満を(今川義元に讒言して)殺したので、「宿意」(兼ねてから抱いていた恨み。宿怨)で、主従(宗主・井伊直親と家老・小野政次)にはそれぞれの父のによる遺恨が残っていて、普段から主従関係が好ましい状態ではなかった。それで、井伊直盛が亡くなった後、(小野政次は、)井伊谷を横領しようと兼ねてから密かに企んでいて(実行しようと思ったが)、(井伊直盛が危険を察し、遺言で)中野直由に井伊領をお預けになられたので横領を見合わせていたのであるが、そういう時に井伊直親は、時々三河国の岡崎の徳川家康公の元へ行き来して内通なされ、その上、井伊谷の山中へ「鹿狩(ししがり)に行く」と言っては軍勢を連れて行かれていた。井伊直親は、(三河衆に)井伊領の山や村を「鹿狩」と称して案内されていたので、(横領のチャンス到来とばかりに) 永禄5年(1562)12月、小野政 次は、急いで駿府へ行き、今川氏真に讒言した内容は、「井伊直親は、徳川家康公と織田信長の2人に内通し、「一味同心」(心を同じくする仲間)になっている。近日中の遠江国侵攻のために先発隊を送り込んでいる。そのうち、大軍が遠江国に侵攻してくるという噂でもちきりである。このままでは、遠江国は、信長・家康公の2人の手に入ってしまう」という詳細なものであったので、今川氏真は、大変驚き、「早々に出馬し、井伊直親公の反逆を糾明し、攻めるべし」と申されて、遠江国の掛川城主である朝比泰朝に先陣を申し付けた。これにより、井伊直親は、陳謝するため、新野親矩を駿府へ遣わされた。(新野親矩の)後から井伊直親公も駿府に向かわれたところ、掛川を通過中に、掛川城主の朝比奈泰朝は、 井伊直親一行を取り囲んで戦いとなり、井伊直親主従の一行は、粉骨砕身、力の限り戦ったが、少数であったので、遂に討ち取られた。井伊直親公の ご遺体は、(掛川も井伊谷も)遠江国にあり、(遠いわけ ではないので、)南渓和尚が寺僧を派遣して、遺体を引き取り、龍潭寺で葬儀を行った。これは 永禄5年(1562)12月14日のことである。(井伊直親公の)戒名は、大藤寺殿 前肥州太守剣峯宗慧大居士である。「大藤寺」とは、龍潭寺の末寺である。御朱印地(朱印状により安堵された寺領)は、4石5斗で、この御朱印地のみである。

史料2:『直政公御一代記』「直親公」(全文)
※『直政公御一代記』は、中島家伝来の古文書で、彦根市に寄贈され、現在は彦根市立図書館が保管しています。原本の著者、成立年は不明ですが、写本には「文政12丑年6月写 忠敬」という奥付があります。
直親公
直満公御傷害之御時分直親公九歳御家来今村藤七奉抱信州伊奈江立退其後奥山因幡頼持之致計策弘治元乙卯直親公二十歳之時井伊谷江御皈則奥山因幡始而一所仕聟ニイタス然処家来小野但馬ト云者権現様江直親公返シ申由今河氏眞二訴申二付肥後守駿州江罷越申分ケ可仕之由仰氏眞被申越候二付直親公全左様之儀無御座候追付罷下り可申分ト御支度被遊候処新野左馬助今河氏眞ト好身二而日頃直親公御入魂故左馬助被申者貴殿之不細法二而一言半句ソコナイ有テハ身之大事二可成二我等罷下リ貴殿全左様之事無之返り可申分先貴殿下リ被申候儀ハ無用二被申左馬助駿州江下り氏眞江二有増被申入候然処従氏眞懸川之城主朝比奈備中守二被申付肥後守ヲ懸川江謀り寄テ討被申由被申付依之備中守方ゟ直親公江貴殿ハ在所二罷有候左馬前駿州江下シ被申分ケ段之対尾形江応外之仕分候間我等城下迄披参申分ケ可然ト申遣ス直親公早速懸川江御越之備中守道中二人ヲ附置城下江被参候儀遠慮可然と在郷江落付可被申由二而懸川之城下ゟ一里斗二隔原河村ト云所二旅宿申付置直親公御宿之夜懸川ゟ人数ヲ出シ被召御報ハ右之趣於駿州佐馬助承り氏眞江申入候肥後守儀申上候処返答不被成備中守二被仰付候儀御恨至極奉存候此上者出家仕候ゟ外者無御座候ト被申候左馬助事小身者二有之候へ共日頃人々用ヒ申仁二而左馬助否ヲ申候ハバ遠州半国ハ左馬助手ニ付申程之きこへ有仁二而候故氏眞も後悔二相見江扱を入レ而被申候ハ肥後守二歳之子有之由二候此子ヲ左馬肋江給候間可致堪思之由二而漸相添二歳之御子出佐馬肋所二養育仕候五歳之御時浜松之城主飯尾豊前 権現様江通仕二者氏眞ゟ好押之天龍川近所二小林村と所二取出之城を構 存之城主二左馬助被申付城出来兵糧を詰申儀豊前承之 権現様江申上候則従権現様御人数ヲ被出天龍川二おゐて一日二三度駈合之合戦有之三度目之合戦二左馬助討死筧助太夫討死之由左馬助討死以後氏眞より万千代君ヲ出シ申様ニと左馬助後家所江申来ル出家致由申而終ニ出シ不申候左馬助伯父出家浄土寺江本内ニ落シ申候永禄十丁卯氏眞甲州信玄駿州を押シ遠州懸川之城主朝比奈備中守所江被落依之遠州騒動夥敷其節浄土寺之住寺并珠源ト申小僧おく殿と申乳母万千代君ヲ奉抱三州鳳来寺江落行被申候遠州事静り候以後万千代君之御母儀様二者松下源太郎江嫁申候依之万千代君二者鳳来寺ゟ源太郎所江御越御十四歳迄松下源太郎養育仕候

【現代語訳】 井伊直親 父・井伊直満が(今川義元の命で)誅殺された時、井伊直親は9歳で、家来の今村藤七郎に抱かれて、信濃国伊那(現・長野県下伊那郡高森町)へ落ちた。その後、奥山因幡守頼持(朝利?)の計らいで、弘治元年(1555年)、井伊直親が20歳の時、井伊谷(現・静岡県浜松市北区引佐町井伊谷)へ帰り、奥山因幡守頼持の娘と結婚したが、家来の小野但馬守政次という者が、「井伊直親が寝返って徳川家康についた」と今川氏真に訴えると、「肥後守(井伊直親)は、駿府(今川氏の本拠地。現・静岡県静岡市)に弁明に来るように」と今川氏真が言ってきたので、井伊直親は、「そのような事はありません。駿府に行って弁明します」と使者に返事をして、旅支度をしていたところ、今川氏真と「好身」(よしみ。身近の親しい人)の新野左馬助親矩は、日頃から井伊直親とは「入魂」(じっこん。親しくつきあう間柄。懇意)であったので、新野親矩は、「貴殿が細心の注意を怠り、ほんの少しでも言い方を間違えると、身に危険が及ぶので、まずは私が駿府へ行って、貴殿がそのような事(徳川氏への寝返り)をしていないことを説明しておくので、貴殿はその後で駿府へ行けば安全である」と言って、駿府へ行き、「有増」(あらまし、概要)を伝えた。しかし、今川氏真は、掛川城主・朝比奈備中守泰朝に「肥後守(井伊直親)を掛川(現・静岡県掛川市掛川)に策を弄して呼んで討つように」と言ったので、備中守(朝比奈泰朝)は、井伊直親へ使者を送り、「貴殿が井伊谷に居て、新野親矩を駿府へ行かせて弁明させている件についてであるが、すでに屋形(今川氏真)が応じている他の裁判があるので、それらの裁決が済むまでは、我が城下町(掛川)へ参られて、弁明されるべきである」と伝えた。それで、井伊直親は、早速、掛川へ行くと、備中守(朝比奈泰朝)は2人の道案内を遣って、「城下町へ参られる件は遠慮していただき、まずは「在郷」(都会から離れた田舎)でゆっくりされるがよい」と伝えてた。掛川城下から約1里(4km)離れた原川村(現・静岡県掛川市原川)に宿が用意されていたので、井伊直親はそこに泊まることにしたのであるが、夜になって、掛川から「人数」(軍隊)を出し、「「御報」(お返事)であるが、問題の件は、駿府において、新野親矩が承り、今川氏真へ申し入れた。その結果の御返答は「成らず」であった」と告げ、指示通り、井伊直親を殺害した。このことを知った新野親矩は、「残念な結果になった。井伊直親殿へは出家してお詫びする以外に方法は無い」と後悔された。新野親矩は、「小身者」(禄が少ない人)ではあるが、日頃から多くの人々に慕われており、新野親矩が「否(いな)」と拒否すれば、遠江国の半数が新野親矩側に付く程、影響力がある人なので、今川氏真も、井伊直親の殺害については後悔されたようで、「扱い」(調停、仲裁)を入れると、「肥後守(井伊直親)に2歳の子(後の井伊直政)がいるという。この子を新野親矩へ与え、保護観察期間中は、その子の死刑執行を猶予する」という追加事項を渋々受け入れたので、井伊直親の2歳の遺子(後の井伊直政)は、新野親矩の井伊谷の屋敷で養育されることになった。そして、その遺子が5歳になった時浜松城主・飯尾豊前守連龍が、徳川家康に内通したので、今川軍は出兵して、天竜川に近い小林村(現・静岡県浜松市浜北区小林)に「砦の城」(陣城)を築き、その城主を新野親矩に命じた。城が完成し、兵糧を入れると、豊前守(飯尾連竜)はこの事を知り、徳川家康に報告すると、徳川家康は、援軍を送り(飯尾軍と合流して)、天竜川で1日の内に2度、3度と戦った。3度目の戦いの時、新野親矩が討死した。筧助太夫も討死した。新野親矩が討死したので、「万千代(井伊直政の幼名)を差し出すように」と今川氏真が新野親矩の後家(奥山朝利の妹)に言ってきたが、「万千代は出家しましたから」と言って、ついに差し出すことはなかった。そして、万千代は、新野親矩の伯父が出家して住職となっていた浄土寺へ逃げた。永禄10年(1567年)、今川氏真は、甲斐国(現・山梨県)の武田信玄が、駿河国(現・静岡県中部地方)に侵攻してきたので、掛川城主・朝比奈泰朝を頼って掛川城に入った。これにより、今川氏は滅び、「遠州忩劇(遠州騒動)」と呼ばれる混乱状態が終わった。浄土寺の住職と珠源という小僧、おく殿という乳母が、万千代を抱いて、三河国の鳳来寺(愛知県新城市)へ落ちていたが、「遠州忩劇」が終わって静かになったので、万千代の母(奥山朝利の娘)は、松下源太郎清景と再婚し、万千代は、鳳来寺から松下清景のところへ来て、14歳まで松下清景が養育した。

-井伊家を訪ねて

Copyright© 井伊家マニアックス , 2017 AllRights Reserved.