大河ドラマの世界を史実で深堀り!

大河マニアックス

狩野宗秀(狩野永徳の弟)画・織田信長像(長興寺所蔵の複製画)

井伊家を訪ねて

織田信長が、徳川家康に殺意を抱く可能性はいかほど?

武田氏が滅ぶと、織田信長が言った。

──帰さに駿河路を経て富士一覽あるべし。

※「かえさ」は、「かえるさ」の音変化「かえっさ」の促音無表記。ようするに、「帰りがけに、駿河路で、富士山を見たい」ということ。一説に「富士山は、甲斐側より、駿河側から見た方が美しい」と言われて、見たくなったのだという。

《 天正10年(1582) 織田信長の凱旋旅行 》

4月10日 甲府発。右左口(甲府市中畑町)泊。
4月11日 右左口発。本栖泊。
4月12日 本栖発。大宮(富士山本宮浅間大社)泊。
4月13日 大宮発。江尻(江尻城)泊。
4月14日 江尻発。田中(田中城)泊。
4月15日 田中発。掛川(掛川城)泊。
4月16日 掛川発。浜松(浜松城)泊。
4月17日 浜松発。吉田(吉田城)泊。(酒井忠次接待)
4月18日 吉田発。知立泊。(水野重忠接待)
4月19日 知立発。清洲(清洲城)着。
4月20日 清洲発。岐阜(岐阜城)着。
4月21日 岐阜発。安土着。(稲葉一鉄(呂久の渡し)、織田勝長(垂井)、不破直光(今洲)、菅屋長頼(柏原)、丹波長秀(佐和山)、山崎秀家(山崎)接待)

──独裁者は常に孤独である。

独裁者は、回りの者が、自分をいつ裏切るか、気が気でない。誰も信用できない。常に安心できない。
さて、徳川家康は、正室や嫡男を殺害してまでも、織田信長と組んだ同盟者である。織田信長にとっては、「幼馴染(竹馬の友)」「共生の盟友」、このドラマでは「弟」的な存在、信用できる存在であった。
『備前老人物語』によれば、織田信長は、次のように語ったという。

──総じて人は、心と気を働かすを以って善しとす。

この凱旋旅行で、織田信長は、徳川家康の心遣い、気遣いに触れ、徳川家康を増々信用したことと思われる。織田信長にとってこの凱旋旅行は、20年ぶりの心安らぐ12日間であった。その感謝の意を表したのが、安土招待である。

 

第48話「信長、浜松来たいってよ」あらすじ

駿河国については、今川氏真が、武田信玄に追われて掛川城に籠城した時、徳川家康は、「いつの日にか武田から駿河国を取り返して、今川氏真に渡す」という条件で、掛川城を開城させたという。

そして、武田氏が滅亡し、武田遺領の配分で、織田信長が徳川家康に「駿河国を与える」と言った時、徳川家康は、「駿河国は今川氏真へ」と辞退すると、織田信長は、「あんな役立たずにやれるわけがない。不要な人間は、生かしておくより、腹を切らせた方がよい。駿河国は儂がもらう」と答えたので、徳川家康は、「仰せの通り、駿河国を頂戴します」と言い、この話を伝え聞いた今川氏真は、驚いて、浜松から京都へ逃げたという。(であるから、今川氏真が、浜松城で、織田信長の前に現れ、相撲を見せられるはずがない)

史料:『徳川実紀』
德川殿、今度、神速に駿州の城々責取給ふ。「その功、輕からず」とて、駿河一國、進らせらる。
(烈祖織田殿に對し、「今川氏眞は、父・義元より好みあり。駿河は、かの家の本領なり。幸に氏眞、いま濵松に寓居すれば、駿河を氏眞にあたへ、かの家、再興せしめんか」と仰けれぱ、信長、きかれ、「何の能も用もなき氏眞にあたへ給はんならば、我にかへしたまへ」とて、氣色以の外なれば、やむ事を得ず、御みづからの御領となされしといふ。)

 

■徳川家康家臣説

織田信長が、徳川家康に駿河国をあげた(『当代記』では「駿河国、家康へ下さる」)ということは、織田信長にとって、徳川家康は、「同盟者」ではなく、「家臣」であったとする説がある。(通説は、従属的ではあったが、「清洲同盟」は破棄されておらず、「家臣」ではなく、「同盟者」だとする。)

織田信長が、徳川家康に駿河国を与えた後、家康は信長に安土へ呼ばれたが、この時、織田信長自ら徳川家康の膳を運んでいる。この扱いを見ると、通説通り、「家臣」ではなく、「同盟者」だったと思われる。

織田信長は、甲府から安土への帰路に、富士を眺めながらの東海道の旅(4月10日甲府発~4月21日安土着の12日間)を楽しむことにした。
接待役は、三河&遠江国の領主、そして、今回、駿河国を与えられた徳川家康であった。

徳川家康は、任命時に、
──長谷川秀一殿をお借りしたい。
と言ったという。

長谷川秀一は、若い時は美少年で、織田信長の小姓(一説に色小姓)だった人物で、織田信長の嗜好を熟知していたのである。

織田信長は、この旅を楽しんだ。この旅の最中は、多分、隙だらけで、徳川家康がその気になれば、いつでも殺せた(築山殿と松平信康の仇を討てた)が、徳川家康は、「織田信長のもとに日本が1つにまとまろうとしている今、織田信長を殺せば、振り出しに戻り、戦いが激化する。それは避けたい」と考えたのか、殺すどころか、超VIP対応でもてなした。

あの、ケチで有名な徳川家康がである。

史料:『徳川実紀』
さて、右府、國中の刑賞悉く沙汰しはてゝ、「かへさに駿河路をへて富士一覽あるべし」との事なり。そのあたりは、君、しろしめす所なるがゆへに、其道すがらの大石をのけ、大木をきりはらひ、道橋をおさめ られ、旅舘茶亭を 營み、所々にあるじ設け、いとこちたく沙汰したまふ。

「大河には、みな、舟橋を架られし」(『徳川実紀』)と言うが、大井川と天竜川では状況が異なったようだ。
大井川では、織田信長は、徳川家の「徒(かち)人」(川越人夫、担ぎ手)が担ぐ連台に乗り、織田家家臣は、徳川家の徒人の肩車で渡ったという。この時、徒人がぐらつくという聊爾(失礼)が無いよう、ドラマにあったように、上流で数千人の徳川家家臣が人垣(堰)を作り、水勢を和らげたという。

──川の面に人、余多(あまた)立ち渡り、かち人、聊爾(りょうじ)無き様に渡し申し侯なり。(『信長公記』)

「国指定 大井川川越遺跡」案内板

一方、天竜川は、池田宿から舟で渡るのが通例(「池田の渡し」)であった。

天竜川は、川幅が広い上に、「暴れ天竜」と称される急流であったので、「舟橋は架けられない」とされてきたが、徳川家康は、舟橋を架けさせた。天竜川史上初だという。

「舟橋」とは、舟を並べて綱で固定し、その上に板を並べた橋である。天竜川に舟橋を架けるには、多くの舟と板材、綱が必要である。しかも急流であるので、両岸では数千人の徳川家家臣が大綱を持って、舟が動かぬよう(下流へ流されぬよう)固定させたという。

──池田の宿より天龍川へ着せられ、爰に舟橋懸けおかれ、(中略)上古よりの初めなり。(『信長公記』)

史料:『徳川実紀』
日をへて富士、安部川をわたり、田中の城に泊られ、また、大井川、天龍川を越て、濵松の城におはしつきぬ。大河には、みな、舟橋を架られしかば、右府、ことに感ぜられ、その橋奉行にも、祿、あまたかづけらる。 濵松には、 こと更、あるじ設け、善、美をつくさせ給ふ。「今度、勍敵を打亡し、甲信まで一統する事、全く年頃、君、辛苦せさせ給ふによれり」とて、右府、あつく謝せらるゝあまり、「今まで吉良へ軍糧八千石つみ置しは、全く東國征伐の備なりしが、今、かく一統せしからには、はや用なし。御家人等、こたびの賞に賜はるべし」とて、ことごとく、その軍糧引渡され、また、酒井忠次が吉田の城にもやどられ、忠次にも眞光の刀に、こがね二百兩そへて賜はりぬ。

さて、これまで、東海道を大軍が通った例には、
・建久元年(1190) 源頼朝の上洛
・永享4年(1432) 足利義教の富士遊覧(富士山見物)
・永禄3年(1560) 今川義元の桶狭間への進軍
などがある。

「池田の渡し年表」(池田の渡し歴史風景館)

足利将軍義教は、突然、「富士山を見物に行こう」と言い出し、永享4年(1432)年9月10日、軍勢を率いて京都を出発した。この「富士遊覧」の行列の長さは、5里(約20km)に及んだという。織田信長は、この足利義教を意識して、帰路に東海道を選んだのかもしれない。

この足利義教の「富士遊覧」には裏があり、実は足利持氏への示威行為だったという。

今回、織田信長が、帰路に東海道を指定したのにも裏があり、徳川領(三河・遠江・駿河国)の検分(徳川を倒した後、どこを誰にあげようかとか考える旅)だとする説もある。この説では、徳川一行(徳川家康と重臣たち)を安土に呼んだのは、徳川一行を殺するためとしている。

「本能寺の変」について、「織田信長は、徳川家康を本能寺に呼んで殺そうと考えた。徳川家康が本能寺に安心して来られるようにと警備兵の数を少なくした。そこを明智光秀に突かれた」とする説があるが、織田信長は、徳川家康を本能寺に呼ぶ前に安土に呼んでいるわけで、徳川家康を殺したいなら、安土城で殺せば良いし、今回の東海道凱旋旅行中、いつでも殺せたはずである。

このドラマでは、今川氏真に対して明智光秀が「織田信長は徳川家康を殺そうと思っている」と嘘を言い、信じ込ませるために実子・自然(『明智軍記』では次男、『鈴木叢書』所収の「明智系図」では五男。明智十次郎光泰の幼名で、ルイス・フロイス『日本史』に、大変上品な子で、ヨーロッパの王子のイメージとある。「本能寺の変」後、6月15日の坂本城落城の際に自害したというが、脱出したとする説もある。)を人質として差し出したとする。

安土に行こうか、行かまいか悩む徳川家康であったが、我らが主人公・井伊直虎が直訴すると、
──そなたに、何故、そこまで言われねばならぬ?!
と怒った。

しかし、井伊直虎に「それは、あなた様に織田信長に代わって天下を統一していただき、戦の無い平和な世を作ってもらいたいからだ」、さらに、「やってみねば、分かりますまい」と言われて心が動いた。
──瀬名も「出る時には、前に出ねば、好機を掴み損ねまする」と言っておったではないか。

徳川家康が安土行きを決心し、家臣に意見を聞こうとすると、

酒井忠次「某は、今、此処で、露と消えようと、悔いは御座いませぬ」
石川数正「お二人の仇を、取りとう御座います」
本多忠勝「え~い、まさかの時は、刺し違えましょう」
そして、最後に、榊原康政がこうまとめた。

──尋ねるまでも、無かったように御座いまするな。

準主役の井伊万千代が何も言ってないが、番組冒頭で、酔って「織田を倒し、天下人に」と言っているので、良しとしよう。(井伊万千代を映した時、背景が三つ葉葵だったのがカッコ良かった (*^.^*))

(つづく)

 

今回の言葉「箱根八里は馬でも越すが、越すに越されぬ大井川」

【出典】「箱根八里は馬でも越が越に越れぬ大井川 馬奴哥」(松葉軒東井編『譬喩盡』1786)

「箱根八里(小田原宿から箱根宿までの4里+箱根宿から三島宿までの4里)は、険しい道ではあるが、馬が歩けないほどの急な坂道ではないので、馬から降りなくても、乗ったままで越せますよ。

しかし、戦略上、橋が架けられなかった大井川は、増水すると川どめとなり、馬も、人も、越えたくても越えられないよ」という意味の「箱根馬子唄」。

 

キーワード:織田信長の道路整備

織田信長は、初めは、「道路を整備したら敵が攻めやすくなるからよくない」と考えていたようですが、後に「大軍の移動には道路整備が必要」と考えを改めました。

ポイントは「街路樹」です。

街路樹には、①遠くからでも「大道」(街道)の位置が分かる、②雨、雪、風を防いでくれるので歩きやすい、③夏は道を木陰にするので、涼しくて歩きやすい、という利点があり、④敵が攻めてきたら、伐り倒して道を塞ぐことも出来ます。

東海道には、塩害に強い松が植えられました。

「東海道の松並木」(浜松市西区)

柳(楊)は、よく張った根を持ち、「刈れどもまたも生(お)ふ」(伐ってもまた生えてくる)生命力の強い木です。浜松市には「柳通り」がありますが、柳は水分の多い土壌を好むので、河岸や池の周囲に、水害対策として植えられることが多いようです。

丸雪降遠江吾跡川楊雖苅亦生云余跡川楊(『万葉集』7-1293番歌)
(霰(あられ)降り遠つ淡海(とほつあふみ)の吾跡川楊(あどかはやなぎ) 刈れどもまたも生ふといふ吾跡川楊)

史料:『信長公記』(巻八)「天正三年乙亥 御分国道作り仰せ付げられし事」
一、去る年月迫りに、「国々、道を作るべき」の旨、坂井文介、高野藤蔵、篠岡八右衛門、山口太郎兵衛四人を御奉行として、仰せ付けられ、御朱印を以て、御分国中御触れこれあり。程なく正月中出来訖んぬ。江川には舟橋を仰せ付けられ、嶮路を平らげ、石を退けて大道とし、道の広さ三間間中、路辺の左右に、松と柳を植え置き、所々の老若罷り出で、水を濺ぎ、微塵を払ひ、掃除を致し侯ぺき。(後略)

【大意】 天正2年(1574)末、織田信長は、「領国内の道路を整備すべし」と、坂井、高野、篠岡、山口の4人を奉行に任じ、朱印状を出して命令した。すると、程なく、天正3年(1575)1月中には道路整備が終了した。具体的には、入江や川には舟橋が架けられ、険しい道は平らに均され、石も除かれて「大道」とし、道幅は三間半(約6.4m)と定められ、道の両側には、街路樹(松、柳)が植えられ、日々の点検・整備として、その土地に住む老いも若きも出てきて、水を撒き、道路の塵(ゴミ)を払う掃除をした。

 

キーワード:織田信長の凱旋旅行

徳川家康は、織田信長のおもてなしに苦労しました。

石を取り除いて道幅を広げ、埃が立たぬよう水を撒き、道の左右には隙間なく警護の兵を配置しました。また、「御陣屋(館、休憩所)は丈夫(立派)に」と命令し、二重、三重に柵を廻らせ、その四方には随兵のための小屋も千軒以上築いたそうです。これには織田信長も「奇特」と感心させられました。

三保の松原

※徳川家康は、ケチ(本人曰く「倹約(節約)家」)で有名であるが、「ここぞ!」という時には、莫大な資金を、惜しむ事なく投じたという。ドラマでは、井伊万千代が「5000貫文使った」と言っていた。1貫文=2石であるから、1万石となる。1石=1俵であり、8千俵(8千石)いただいたので、2千俵(2千石)の赤字となった。

史料:『信長公記』」(巻十五)「信長公甲州より御帰陣の事」

四月十日、信長公、東国の儀仰せつけられ、甲府を御立ちなさる。爰に、笛吹川とて善光寺より流れ出づる川あり。橋を懸げおき、かち人渡し申し、御馬共乗りこさせられ、うば口に至りて御陣取り。家康公御念を入れられ、賂次通り鉄炮長竹木を皆、道ひろびろと作り、左右にひしと透間なく警護をおかれ、石を退かせ、水をそゝぎ、御陣屋丈夫に御普誇申しつけ、二重三重に柵をつけおき、其の上、諸卒の木屋木屋、千間に余り、御先御先、御泊り御泊り、御屋形の四方に作りおき、諸士の間叶朝夕の儀、下々悉く申しつけられ、信長公、奇特と御感なられ候ひキ。
四月十一日、払暁に、うぱ口より女坂高山御上りなされ、谷合ひに、御茶屋、御厩結構に構へて、一献進上申さるゝ。かしは坂、是又、高山にて茂りたる事、大形ならず。左右の大木を伏せられ、道を作り、石を退かさせ、山々嶺々、透間なく御警固を置かる。かしは坂の峠に御茶屋美々しく立ておき、一献進上侯なり。其の日は、もとすに至りて、御陣を移され、もとすにも御座所結構に輝くばかりに相構へ、二重三重に柵つけさせ、其の上、諸士の木屋木屋千間に余り、御殿の四方に作りおき、上下の御まかなひ仰せつけられ、御肝煎、是非なき次第なり。
四月十二日、もとすを、未明に出でさせられ、寒じたる事、冬の最中の如くなり。富士の根かた、かみのが原、井手野にて、御小姓衆、何れもみだりに御馬をせめさせられ、御くるひなされ、富士山御覧じ御ところ、高山に雪積りて白雲の如くなり。誠に希有の名山なり、同、根かたの人穴御見物。爰に御茶屋立ておき、一献進上申さるゝ。大宮の社人、杜僧罷り出で、道の掃除申しつけ、御礼申し上げらる。昔、頼朝かりくらの屋形立てられし、かみ井手の丸山あり、西の山に白糸の滝名所あり。此の表表はしく御尋ねなされ、うき島ケ原にて御馬暫くめさせられ、大宮に至りて御座を移され侯ひキ。今度、北条氏政御手合せとして出勢侯て、高国寺かちやうめんに北条氏政御手合せとして出勢候て、高国寺からやうめんに北条馬立て、後走の人数を出だし、中道を通り、駿河路を相働き、身方地、大宮の諸伽藍を初めとして、もとすまで悉く放火侯。大宮は要害然るべきにつきて、社内に御座所、一夜の御陣宿として、金銀を鏤め、それ転の御普請美々しく仰せつけられ、四方に諸陣の木屋木屋懸けおき、御馳走、斜ならず。爰にて、一、御脇指、作吉光。一、御長刀、作一文字。一、御馬、黒駮。以上、家康卿へ進めらる。何れも御秘蔵の御道具なり。
四月十三日、大宮を払暁に立たせられ、浮島ヶ原より足高山を、左に御覧じ、富士川乗りこさせられ、神原に、御茶屋構へ、一献進上侯なり。暫く御馬を立てられ、知人に吹き上げの松、六本松、和歌の宮の子細、御尋ねなされ、向地は伊豆浦、目羅ケ崎、連々きこしめし及ばれ侯。高国寺、よしわら、三枚橋、かちようめん、天神川、伊豆、相模境目にこれある深沢の城、何れも尋ねさがされ、神原の浜辺を由井て、磯部の浪に袖ぬれて、清見が関、爰に興津の白波や、田子の浦浜、三保が崎、いづれも、三ほの松原や、羽衣の松、久堅の四海納まり、長閑にて、名所名所に御心をつけられ、江尻の南山の打ち越し、久能の城御尋ねなされ、其の日は、江尻の城に御泊り。
四月十四日、江尻を夜の間に立たせられ、駿河府中町口に御茶屋立ておき、一献進上申さるゝ。爰にて、今川の古跡、千本の桜くはしく尋ね聞こしめし、あべ川をこさせられ、彼の川下左の山手に、武田四郎勝頼、此の地に抱へられし取出、持舟と云ふ城あり。又、山中路次通まりこの川端に山城を拵へ、ふせぎの城あり。名にしおふ宇津の山辺の坂口に、御屋形を立て、一献進上侯なり。字津の屋の坂をのぼりにこさせられ、田中漸く程近く、藤枝の宿入り口に、誠に卒渡したる偽の橋とて、名所あり。かい道より左、田中の城より東山の尾崎、浜手へつきて、花沢の古城あり。是れは、昔、小原肥前守楯籠り候ひし時、武田信玄、此の城へ取り懸け、攻め損じ、人余多うたせ、勝利を失ひし所の城なり。同山崎に、とう目の虚空まします。能く尋ねきかされ侯て、其の日は、田中の城に御泊り。
四月十五日、田中を未明に出でさせられ、藤枝の宿より瀬戸の川端に御茶屋立ておき、一献進上申さるゝ。瀬戸川こさせられ、「せ戸の染飯」とて、皆、道に人の知る所あり。島田の町、是れ又音に聞こゆる鍛冶の在所なり。大井川乗りこさせられ、川の面に人余多立ち渡り、かち人聊爾無き様に渡し申し侯なり。真木のゝ城右に見て、諏訪の原を下、きく川を御通りありて、のぼれば、さ夜の中山なり。御茶屋結構に構へて、一献進上侯なり。是れより、につ坂こさせられ、懸川に御泊り。
四月十六日、懸川払暁に立たせられ、みつけの国府の上、鎌田ケ原、みかの坂に、御屋形立ておき、一献進上なり。爰より、まむし塚、高天神、小山、手に取るばかり御覧じ送り、池田の宿より天龍川へ着せられ、爰に舟橋懸けおかれ、奉行人、小栗二右衛門、浅井六介、大橋、以上両三人に申しつけられ侯。抑も、此の天龍は、甲州・信州の大河集まりて、流れ出でたる大河、漲下り、滝鳴りて、川の面寒、渺々として、誠に輙く舟橋懸かるべき所に非ず。上古よりの初めなり。国中の人数を以て、大綱数百筋引きはへて、舟数を寄させられ、御馬を渡さるべきためなれぱ、生便敷丈夫に、殊に結構に懸けられたり。川の面、前後に堅く番を居えおき、奉行人粉骨申すばかりなし。此の橋ばかりの造作なれども、幾何の事に侯。国遠国まで道を作らせ、江川には舟橋を仰せつけられ、路辺に御警護申しつけられ、御泊御泊の御屋形、御屋形立ておかれ、又、路道の辻辻に透間なく、御茶屋、御厩夫御厩夫、生便敷、結構に相構へられ、御膳御進上の御用意、京都境へ人をのぼせられ、諸国にて珍奇を調へ、御崇敬斜ならず。其の外、諸卒の御間叶、是れ又、数日を送りて仰せつけられ、千五百間宛の小屋小屋、御先御先にて立ておかるゝ事、家康卿、万方の御心賦、一方ならぬ御苦労、尽期なき次第なり。併ながら、何れの道にても、諸人の感じ奉る事、御名誉申すに足らず。信長公の御感悦、申すに及ばず。大天龍舟橋御通りなされ、小天龍乗りこさせられ、浜松に至りて御泊り。爰にて、御小姓衆・御馬廻悉く御暇下され、思々、本坂越え、今切越えて、御!
先へ帰陣なり。御弓衆・御鉄炮衆ばかり、相り、御伴なり。去る年、西尾小左衛門に仰せつけられ、黄金五十枚にて御兵粮八千余俵調へおかれ侯。是れは、か様の時節御用に立てらるべき為めに侯。併しながら、此の上は入れざるの旨、御諚侯て、家康卿、御家臣衆へ御支配候て下され、各忝きの趣、御礼にて侯なり。
四月十七日、浜松払暁に出でさせられ、今切の渡り、御座船飾り御舟の内にて、一献進上申さるゝ。其の外、御伴衆の舟数余多寄せさせ、前後に舟奉行つけおかれ、油断なくこさせらる。御舟御上りなされ、七、八町御出で候て、右手に、はまなの橋とて、卒度したる所なれども、名にしおふ名所なり。家康卿御家来、渡辺弥一郎と申す仁、こざかしく、浜名の橋、今切の由来、舟かたの子細の条々、申し上ぐるにつきて、神妙におぽしめされて、黄金下され、手前の才覚、面目なり。しほみ坂に御茶屋、御厩立ておき、夫夫の御普請侯て、一献進上侯なり。晩に及びて雨降り、吉田に御泊り。
四月十八日、吉田川乗りこさせられ、五位にて御茶屋美々しく立ておかれ、西入口に結構に橋を懸けさせ、御風呂新しく立てられ、珍物を調へ、一献進上。大形ならぬ御馳走なり。本坂、長沢、皆道、山中にて、惣別石高なり。今度金棒を持ちて岩をつき砕かせ、石を取り退け、平らに申しつけられ、爰に山中の宝蔵寺、御茶屋、西に結構に構へて、寺僧、喝食、老若罷り出で、御礼申さるる。正田の町より大比良川こさせられ、岡崎域の腰むつ田川・矢はぎ川には、是れ又、造作にて橋を懸けさせ、かち人渡し申され、御馬どもは、乗りこさせられ、矢はぎの宿を打ち遇ぎて、池鯉鮒に至りて御泊り。水野宗兵衛、御屋形を立てて御馳走侯なり。
四月十九日、清洲まで御通。
四月廿日、岐阜へ御座を移さる。
四月廿一日、濃州岐阜より安土へ御帰陣のところに、ろくの渡りにて御座船飾り、稲葉伊予、一献進上なり。捶井に御屋形立ておき、こぼう殿一献御進上侯なり。今洲に御茶屋立てて、不破彦三一献進上侯なり。柏原に御茶屋拵らへ、菅屋九右衛門一献進上なり。佐和山に御茶屋立て、惟住五郎左衛門一献進上。山崎に御茶屋立ておき、山崎源太左衛門一献進上侯なり。今度、京都五畿内、隣国の各はる転罷り下り、御陣御見舞の面々、門前市をなす事に侯。路次申、色々進物、員を知らず上覧に備へ、誠に御威光有りがたき御代なり。

 

《信長紀行(天竜川)》

■天正10年(1582)4月16日

池田宿から天竜川を舟橋を使って渡った。この舟橋の奉行(工事担当者)には、小栗吉忠、浅井道忠、大橋の3人が命ぜられていた。
そもそも、この天竜川は、諏訪湖を水源地とし、甲州(山梨県)や信州(長野県)を流れる支流が集まった大河で、漲(みなぎ)り下り、滝のように激しく鳴り、水は冷たく、川幅は広く、舟橋を架けることが出来ない所である。そこに舟橋が架けられたということは、古来より初めてのことである。遠江国の国中の人々を動員して大綱数百本を引き張り、多くの舟を集め、馬を渡らせる事が出来るように、非常に頑丈で、実に見事な出来栄えであった。

「池田の渡し」跡

橋の途中にも、前後にも見張りの者をしっかりと配置するという奉行の努力は申すまでもない。この舟橋の架設工事だけでも、費用は膨大なものであった。さらに諸国の遠くにまで道路を整備し、入江や川には舟橋を架けさせ、沿道の警備を命じ、宿泊地ごとに館を建て、また道筋には隙間無く御茶屋や厩を数多く立派に造り、食材の用意は京都や堺に人を派遣して、諸国の珍品を調達するとは、徳川家康の織田信長への崇敬の念は半端なものではない。

その他に、多くの兵士の食事も数日間に渡って提供し、織田信長に従う小姓衆、馬廻り衆などのために1500軒に及ぶ小屋(仮設住宅)も先に建てておくなど、全てのことに対する家康の配慮と一方ならぬ苦労は大変なものであった。要するに、何れの道においても、多くの人が感じる事、名誉は言葉に出来なかった。織田信長が感激し、喜んだことは言うまでもない。

大天竜(天竜川)を舟橋で渡り、小天竜(馬込川)を越えて浜松(浜松市)に至り、宿泊した。
織田信長は、ここで、小姓衆と馬廻り衆の全員に帰国の許可を与えたので、思い思いに本坂峠(浜名湖北部)を越え、あるいは、今切(浜名湖南部)を渡って先に帰陣したが、弓衆と鉄砲衆だけは残ってお供した。
去る年、織田信長は、西尾吉次に命じて、兵糧8000俵を調達しておいたが、「もう必要が無くなった」と言って家康とその家臣衆に進呈したので、皆ありがたくお礼を申し述べた。

 

《信長紀行(浜名橋、潮見坂)》

■天正10年4月17日
浜松を明け方に出発した。今切の渡しでは御座船が用意されており、装飾を施した船の中で、織田信長は、酒を召された。その他に供の者達にも多くの船が用意してあり、前後には船奉行が付き添い、無事に渡られた。
7、8町(700~800m)行くと、右手に「浜名橋」という今は無いが、(風光明媚な歌枕として)有名な名所があった。徳川家家臣・渡辺弥一郎が、気を利かせて「浜名橋」や「今切」の由来の説明や船頭たちの紹介をしたので、織田信長は、感心されて、黄金を与えられた。
潮見坂(湖西市白須賀の潮見坂公園)には御茶屋と厩が立派に建てられており、織田信長は、酒を召された。
夜になって雨が降り出し、吉田(愛知県豊橋市)に宿泊した。

浜名橋跡

浜名橋は、この付近を流れていた浜名川に平安時代から架けられていた橋で、このあたりにあった集落を橋本といい、対岸には小松茶屋があった。

長さ約百七十メートル、幅約四メートル、高さ約五メートルほど。貞観四年(八六二)に初めて造られたといわれるがその後の災害などで十回余りも架けかえられた。
浜名湖は、清少納言の枕草子に名を上げられて以来、数多くの歌や紀行文に登場してきた。
平成十六年三月
新居町教育委員会

史料:『三代実録』(巻四十六)元慶八年九月戊午朔条
遠江国浜名橋、長五十六丈、広一丈二尺、高一丈六尺。貞観四年修造。歴廿余年。既以破壊。勅給。彼国、正税稲一万二千六百四十束改作焉。(【大意】 遠江国の「浜名橋」(浜名湖から流れ出して太平洋に注ぐ「浜名川」の河口に架けられた橋の名)は、長さ56丈(167m)、幅1丈2尺(4m)、高さ1丈6尺(5m)の巨大な橋である。貞観4年(862)に、「全国四大橋」の第二橋として、勅命により建造された。建造後20余年、壊れたので、元慶8年(884)9月1日、勅命により、遠江国の正税(しょうぜい)・稲12640束を建造費用にあてて、建て替えた。)
※11回修復されたが、永正7年(1510)、高波で破壊された後は再建されなかった。

「潮見坂公園」跡碑(背景は白須賀中学)

潮見坂公園跡
明治天皇が江戸へ行幸する途中に休まれた潮見坂上は、かつて織田信長が武田勝頼を滅ぼして尾張に帰る時、徳川家康が茶亭を新築して、信長をもてなした所でもあります。
大正十三年四月、町民の勤労奉仕によりこの場所に公園がつくられ、明治天皇御聖跡の碑が建てられました。
現在は、公園敷地跡に中学校が建てられていて、当時の面影をみることができませんが、明治天皇御聖跡の碑だけは残されています。

 

潮見坂について

東海道五十三次・白須賀宿の東端にある潮見坂は、東海道有数の景勝地である。「富士見の松」は、京都(西)から江戸(東)へと向かう旅人が、初めて富士山を見る場所であった。逆に、東から西へ向かう織田信長にとっては、富士山が見えなくなる場所であった。

──二人はここでどのような会話を交わしたのか? 幼少期の話は出たのか?

松平広忠(徳川家康の父)は、織田信秀(織田信長の父)と戦っていた。(水野氏(徳川家康の実母・於大の方の実家)が織田方に移ったので、松平広忠は、於大の方を離縁し、戸田康光の娘・真喜の方と再婚した。)松平広忠が今川義元に支援を求めると、人質を要求されたので、嫡男・竹千代(後の徳川家康)を差し出そうとするが、竹千代が岡崎から駿府へ向かう途中、竹千代を戸田康光に奪われ、竹千代は織田信秀の元(熱田)へ送られ、織田信長と出会った。後に、人質交換により、竹千代は今川義元の元(駿府)で暮した。戦国時代、戦国大名は同盟を結んだが、次々と破棄され、破棄されなかったのは「清洲同盟」(織田信長と徳川家康の同盟)だけだという。清洲同盟が続いた理由は、政治的判断であろうが、幼期の出会いにあったとしたら、その時から織田信長が徳川家康を弟だと思っていたとしたら、竹千代は、戸田康光に奪われて(織田信長に出会えたので)よかったと言えるかもしれない。前置きが長くなったが、竹千代が戸田康光に奪われた場所が潮見坂である。

「潮見坂公園跡」現地案内板

 

キーワード:地名「岐阜」「安土」

織田信長は、沢彦和尚に意見を聞き、「周の文王、岐山より起り、天下を定む」により、天正3年(1575)、「井口(いのくち)」を「岐阜」に変えたそうです。

同様に、「常楽寺」を「安土」に変えたのにも深い理由があるはずで、「安土」は「平安楽土」の略だとか。

資料:岐阜県公式ホームページ「岐阜の由来」

「岐阜」の地名は、稲葉山に居城を移した織田信長が、尾張の政秀寺の禅僧である沢彦宗恩(たくげんそうおん)が進言した「岐山・岐陽・岐阜」の3つのうちから選んだものといわれています。沢彦和尚は、中国の「周の文王、岐山より起り、天下を定む」という故事にならってこれらの地名を考えたといい、天下統一を目指す信長は「岐阜」の名称を選んで、稲葉山城下付近の「井口(いのくち)」を「岐阜」に改めたといいます。(「安土創業録」から) なお、「岐阜」という地名は、信長が名づける以前から禅僧の間で使われていたとも言われ、その由来には諸説があります。

資料:近江八幡市・安土町合併協議会「新市の名称について」(平成21年5月22日提出資料)
【名称の由来】 安土という地名は、いつ頃から使用されていたのか不明だが、従来は『細川家記』の「天正4年正月、信長江州目賀田を安土と改む」という記載から、信長が、中国の古典をもとに名付けたのではないかと考えられてきた。しかし、『信長公記』元亀元年(1570年)5月12日の条には、「安土城に中川八郎右衛門楯籠り」とあり、築城以前に、「安土」と称されていたように記されている。ところが、『信長公記』において、「安土」の呼称が使用されるのは、この元亀元年の条以外は、すべて天正4年の築城以降であり、天正4年正月以前は「常楽寺」と記され、明らかに使い分けている。このことは、「安土」の呼称が天正4年正月中旬に築城を開始するにあたり命名されたことを物語るものと考えられる。そうだとすると一説には佐々木六角氏が、観音寺山に居城を構えていた頃、この山に弓の練習場があったためといわれている。弓の練習をする時に、その標的を置く土盛りを「あずち」といったためである。また、一説にはこの山の形姿が、「あずち」のように3つのコブからなっているためとも言われている。さらにもう一説には、あづちをあずみの転訛と考えるものである。あずみとは安曇・安積などと記し、漁業や航海にすぐれ、時には製塩なども行ったとされる海神族のことで、この安土町も、かつては琵琶湖最大の内湖をかかえ、漁港や貿易港として栄えていたことを考えれば、海神族が居住していたことは十分考えられる。これらの説のどれが妥当なのか明確にしがたいが、現在のところ、あずみ転訛説が有力であるといわれている。しかし、「安土」を、信長以前にもあづちとよ!
んでいたとは限らず、あるいは、「あど」・「あと」と呼んでいたのを「あづち」とよびかえた可能性もある。

※「岐阜」については、僧侶の間では「岐阜陽」(『梅花無尽蔵』)と呼ばれており、「岐阜」や「岐陽」(『仁岫録』)はその略語だという。
※「安土」を「あど」と読み、古くからの地名で、「安曇川」(あどがわ。滋賀県高島市安曇川町)と関連があるとする説もある。「琵琶湖(近江国)と浜名湖(遠江国)の周辺には同じ地名がある」という説があるが、浜名湖畔には「あづち」はないが、「吾跡川」(あどかわ)ならある。
辞書で「あづち(あずち、垜、堋、安土)」をひくと、「弓場の土を土手のように固めた盛り土。南山 (なんざん) 、的山 (まとやま) 、射垜 (あむつち)とも 。」とあるが、「土を安んずる」とは、「土を清め、固める」ことであり、陰陽道の「禹歩」に通じる。「禹歩」は天皇や貴人が外出の時、陰陽師が先頭をきって歩いて大地を清め、踏み固める時の作法(歩き方)で、安倍晴明が考え出したと言われる。その足運びは、能や狂言の役者の足の運び方や、相撲取の四股に採用されている。

気賀を流れる吾跡(あど)川と河岸の楊(柳)(浜松市北区細江町)

さて、ドラマは、49話・織田信長の死(本能寺の変)、50話・井伊直虎の死と、残すところ、あと2話となりました。
この連載もあと2回で終了です (ノω・、)

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

-井伊家を訪ねて

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