「井伊谷徳政令」のポイントは、以下の2つ。
・農民が井伊家を飛ばして、今川氏真に発布要請
・銭主が井伊家を飛ばして、今川氏真に安堵要請
つまり、
──井伊家飛ばし
であり、第三者が見たら、次のような違和感を覚えるだろう。
「井伊家の存在理由はあるの?」
「井伊領って、今川家の直轄領だっけ?」
ちなみに今回は、銭主が井伊家を飛ばして、今川氏真に安堵を要請した話はパス。2度めの徳政令の話のためにとっておいたと思われる。
井伊直虎の重臣「井伊谷七人衆」にしても、
奥山朝忠(井伊家庶子家)・中野直之(井伊家庶子家)・瀬戸方久(豪商)
小野政次(目付家老)・鈴木重時(目付)・近藤康用(目付)・菅沼忠久(目付)
であって、メンバーに井伊家一門がいない。
「井伊氏は、存在はするが『死に体』(瀕死の状態)」
「家臣も今川からの与力(寄騎、井伊谷駐留軍)」
もはやボロボロであったことが想像できる。
この状態を井伊直虎はどう捉え、どう立て直すのか?
※ドラマでは、井伊直親誅殺後、井伊直平・中野直由・新野親矩がナレ死して、「他に人がいないから」と井伊直虎が地頭(領主)に(今川氏の承認も無く)就任している。
が、井伊直親誅殺後に、今川軍が攻めてきて、井伊谷城は落城し、井伊領は、今川家の直轄領になったとする説もある。そして、この今川氏との戦いで、井伊家の家臣は帰農したり、山中に隠れ住んだり、井嶋氏(井伊道政の娘と宗良親王の娘である桜子姫の子孫)のように井伊谷を離れて改姓した人も多かったという。
※後日譚:『井伊家伝記』によれば、井伊直政の所領が2万石に加増された時、どこからともなく旧臣たちが集まって来て、「井伊谷譜代」の家臣団を形成したという。井伊直政の死後、彦根藩は武田遺臣や関東浪人などを家臣とする次男・直孝が治め、長男・直継は、直勝と名を変え、井伊谷譜代の家臣と共に安中藩、掛川藩と移り、最終的には与板藩を幕末まで治めた。
第14話 「徳政令の行方」 あらすじ
小野政次が祝田禰宜を使って瀬戸・祝田の農民を煽動し、井伊家を飛ばして今川家に徳政令の発布を要望させたのがコトの発端。
農民たちの徳政令発布の要望を利用し、今川家は井伊領を直轄地とし、小野政次に管理させようというのか?
※瀬戸村:新野左馬助→新野三人娘の領地
※祝田村:井伊直親→しの&虎松の領地
前回、農民からの徳政令発布要請の対策として、井伊直虎が考えたのは、「自灯明」(自分で考え、瀬戸・祝田両村を瀬戸方久に与える)であった。
そして、今回、主家である今川家から出された徳政令発布要請の対策として、井伊直虎が考えたのは、「法灯明」(今川家の『今川仮名目録』を利用して、瀬戸方久に土地を龍潭寺に寄進させる)であった。これには、小野政次も一時休戦とばかりに、「なるほど。では、駿府へはその事情を申し上げ、お返事といたしましょう」と言って去るばかりである。
「直虎を駿府へ申し開きに来させよ」(by 寿桂尼)
この仰せを聞く時の小野政次の表情は、「これで直虎が誅殺されれば、井伊は我がもの」とにやけるのではなく、「困ったぞ」という困惑の表情であったことを私は見逃さなかった。
──二度ある事は三度ある。
と言う。
井伊直満は駿府に呼ばれて誅殺され、その子・井伊直親は、駿府へ行く途中に殺害された。
井伊直虎は大丈夫なのか?
来週、第15話で死んだら、第16話以降は無いだろうから、 「生き延びる」と想像できるけど(笑)、どうやって生き延びるのだろう? 寿桂尼との対決が楽しみだ。公案が解けるかどうか、禅問答で対決とか?(ハイ、冗談です;)
ところで、井伊直虎は、今後、どんなタイプの領主(リーダー)になるのであろう?
──「率先垂範」タイプであり、「師弟同行」タイプ
「率先垂範」タイプは、まずは自分がやって、お手本を示すタイプのリーダーである。
「やってみせ、 言って聞かせて、させて見せ、ほめてやらねば、人は動かじ」とい う東郷平八郎の言葉に通じる。井伊直虎が井伊領の竜宮小僧的存在だった時代、農家の手伝いをよくしていたから、田植えの仕方もよく知っていて、自分で行うことも、奥山朝忠に教えることも出来た。
「師弟同行」タイプは、一緒にやるタイプ。
「田植えをしろ」と部下に命令して、自分はやらないというリーダーが多い中で、このタイプのリーダーは、自分も部下と一緒に行う。リーダーがやってるのであるから、部下もやらないわけにはいかなくなるから、部下を動かす一つの方法ではあるが、部下に混じると、木が見えても、森が見えないことがある。
井伊直政はその典型例で、家臣と共に戦うので、「大将(リーダー)は戦わず、全体(戦況)を見て、適切な指示をするように」と家臣に言われている。
今回、井伊直虎の行動を目の当たりにして、井伊直虎を「領主」「殿」と認めたのは、瀬戸・祝田村の農民と奥山朝忠であった。
残るはあと二人(中野直之としの)。
そして、この悪役の二人。
祝田禰宜「捉えたのは『村の心』にございましたか…。やっかいでごぜぇますぞ。ああいう手合いは」
小野政次「知っておる…昔から」
《ドラマあれこれ》
・見事な演技をした亀は日本固有種の「イシガメ」。これがミドリガメだと、「当時の日本には存在しなかった」と時代考証の先生が怒られる。ただ、残念ことに、本州に住んでいる「ニホンイシガメ」ではなく、住んでいない「ミナミイシガメ」らしい。
余談だが、ネットでは、あの亀の正体で話題になっている。
①井伊直親の化身
②竜宮小僧が遣わした竜宮城の亀
③「竜宮小僧が遣わしたのでは?」ととぼけた南渓和尚が置いた亀
一体どれが正しいのか……。
後ろ姿のみの登場となった竜宮小僧。「見てないで田植えを手伝ってやれよ」と言いたくなった。
演じているのは新井美羽ちゃん。容姿は新井美羽ちゃんで、声が中村梅雀さんって・・・竜宮小僧って、ちょっと怖い。
奥山朝利(でんでんさん)と新野親矩(苅谷俊介さん)の子供たちについては、史実を曲げて、簡略化されているので、ドラマでの設定を書いて、確認しておく。
《奥山朝利の子供たち》
・長男:孫一郎(平山祐介さん。掛川で討死)
・次男:六左衛門(田中美央さん)
・長女:しの(井伊直親室。貫地谷しほりさん)
・次女:なつ(小野玄蕃室。山口紗弥加さん)
《新野親矩の子供たち》
・長女:あやめ(光浦靖子さん)
・次女:桔梗(吉倉あおいさん)
・三女:桜(庵原助右衛門朝昌室。真凛さん)
今回の法話 「清風払明月、明月払清風」
「清風」も「明月」も、悟りの世界の清らかさを表現するのによく使われるモチーフです。では、この2つの主役が同時に在るダブルメインの世界とは、どういう世界なのでしょう?
清風払明月(清風(主)は、明月(客)を払う。)
明月払清風(明月(主)は、清風(客)を払う。)
主客争いをしているように見えますが・・・。
清風がなければ、雲が明月を隠し、
明月がなければ、死後の世界のような深い闇が広がる。
禅語としての意味は、「持ちつ、持たれつで、2つ揃って清浄な世界を作っている」といったところでしょう。
満月の夜。
月明かりで田植えをしていると、タイミングよく風が吹いて、井伊直虎がその場で思いついたように語った言葉。
──領主と領民は清風と明月の関係である。
「清風、明月を払い、明月、清風を払う。風と月は、諍うのでは無く、一体であるという。我も、皆とそうありたいと思うておる。我は皆と、そんな風に井伊を作って行きたいと思うておる。皆も、我とそんな風にやって行きたいと、思うてはくれぬだろうか?」
「清風払明月、明月払清風」は、ここでは井伊直虎のリーダー観を表す句として使われていますが、禅宗では「悟りの世界」を表す句だそうです。私の「悟りの世界」イメージは、「無」「空」であり、「清風」も「明月」も無い真っ白な世界なんですけどね。
※この句は、安国寺恵瓊の辞世としても有名である。清々しさを感じるこの句を辞世に選んだ理由は、「死ぬというのに心は穏やか。『我が人生に悔い無し』という心境を表す句である」と考えたからか。
瀬戸方久に瀬戸・祝田両村を与え、家臣としたのは、ドラマでは永禄8年4月21日としている。
ということは、田植えをしたのは5月15日(4月21日以降の最初の満月の日)の晩になる。永禄8年5月15日は、西暦1565年6月23日であるから、田植えには遅すぎるというか、田植えは終わって、稲の草丈も高くなっているはずである。
ちなみに、浜松市の梅雨は、平年では6月7日から7月21日である。
6月23日の空は、「五月晴れ(さつきばれ)」ではなく、「梅雨空(つゆぞら)」であったと思われる。(実際、雨が降った。水を張った田に落ちる雨粒の描写が綺麗だった。)その雲を夜になって清風が吹き飛ばし、田植えが十分に出来る光を放つ満月が顔を出した。これも竜宮小僧の力なのか?
キーワード:『今川仮名目録』
今川氏親が作った分国法「今川仮名目録」の第22条に、次のようにあります。
【原文】「不入之地の事、改るに不及、但其領主令無沙汰成敗に不能、職より聞立るにおゐてハ、其一とをりハ、成敗をなすべき也、先年、此定を置と云共、猶領主無沙汰ある間、重而載之歟」
【大意】 守護不入地については、これを改廃することはしない。
勉強中の井伊直虎は知らないのでしょう。
今川義元が作った分国法「今川仮名目録追加」の第20条を。
「不入之地之事、代々判形を載し、各露顕之在所の事ハ沙汰に不及、新儀之不入、自今以後停止之、惣別不入之事ハ、時に至て申付諸役免許、又悪党に付ての儀也、諸役之判形申かすめ、棟別段銭さたせさるハ私曲也、棟別たんせん等の事、前々より子細有て、相定所の役也、雖然載判形、別而以忠節扶助するにをいてハ、是非に不及也、不入とあるとて、分国中守護使不入なと申事、甚曲事也、当職の綺、其外内々の役等こそ、不入之判形出す上ハ、免許する所なれ、他国のことく、国の制法にかゝらす、うへなしの申事、不及沙汰曲事也、自旧規、守護使不入と云事ハ、将軍家天下一同御下知を以、諸国守護職被仰付時之事也、守護使不入とありとて、可背御下知哉、只今ハをしなへて、自分の以力量、国の法度を申付、静謐(せいひつ)する事なれば、しゆこ(守護)の手、入間敷事、かつてあるへからす、兎角之儀あるにをいてハ、かたく可申付也」
【大意】 現在、今川領内の治安維持を 行っているのは足利将軍では無く、わし(今川義元)じゃ。わしの力量で国を統治しているのじゃ。わしは、分国法を制定できる戦国大名なのじゃ。よって、不入特権は成立しないのじゃ~!
「守護不入」を否定し、守護大名から戦国大名への転換を表明したこの第20条は、テストによく出るので、現在の日本人は誰でも知っているけど、井伊直虎は知らなかった。南渓和尚と小野政次は知ってるはずですが・・・。
これを知らずに井伊直虎が駿府へ行ったら、「勉強不足!」と怒られて殺されるぞ!?
キーワード:化粧料・化粧田
このドラマでは、「検地」「徳政令」「逃散」「守護不入」といった、教科書に出てくる言葉が丁寧に説明されていますね。
さて、「化粧料」「化粧田」とは?
『日本史広辞典』(山川出版)で調べてみました。
けわいりょう【化粧料】 「けしょうりょう」とも。中世~近世の女性が嫁入りの際、化粧代の名目で実家から持参する財産。中世の地頭・領主など武家の女性が、親から相続し婚家に持参する田地を化粧田というが、それに対して金銭を持参するものをさす。近世にもこの習慣は引き継がれた。
けわいでん【化粧田】 「けしょうでん・けしょうだ」とも。中世~近世初期に、地頭・領主・大名ら武家社会の女性が結婚するとき、嫁入り先に親から譲られて化粧料として持参する田地。夫の管理下におかれていたが、ふつう女性の死後は実家に返された。江戸時代には一般に夫の所有となった。
「化粧料」はお金ですので、貸すことが出来ます。
ルイス・フロイス『日欧文化比較』(岩波書店)に、
「ヨーロッパでは、夫婦間において財産は共有である。日本では、各々が自分の分け前を所有しており、ときには妻が夫に高利で貸し付ける。」
とあります。
出家して尼になったら「本来無一物」ですから、「化粧田はいらないでしょ」と、さらっと言ってしまう井伊直虎ですが、結婚したことが無いので知らないのでしょう。
祐椿尼の化粧田は基本的には新野氏の土地で、祐椿尼の死後に新野氏に返す土地ですので、代替地に使ったらまずいと思いますよ?
※新野三人娘の領地:瀬戸村→祐椿尼の化粧田
※しの&虎松の領地:祝田村→川名の一部
キーワード:蜂前神社
蜂前神社の由来
祭神
本社 熯速日命(ひはやひのみこと)
左脇宮 甕速日命(みかはやひのみこと)
右脇宮 武甕槌命(たけみかづちのみこと)
由緒
十五代應神天皇十一年庚子三月八日(西暦二八〇年)に八田毛止恵と云う人が勅命によって遠江國に下向して
八田(祝田村の古名)四十五町
広田(刑部村の古名)七十町
岩瀬(瀬戸村の古名)八町三反
合計百二十三町歩余りを開墾して本社を八ケ前(さき)に觀請して蜂前神社と斎き奉り子孫代々祝部として奉仕しました。
脇宮二社は十九代允恭天皇の御代に觀請されその頃から社号は鳥飼神社、羽鳥大明神と称へられ延長五年(西暦九二七年)蜂前神社と改め古名に復しました。
延喜式神名帳に記載されている式内社であり旧社格は郷社であります。
昭和五拾五年拾月 之建
伊邪那美(いざなみ)が火の神(秋葉神社のご祭神)・迦具土神を生んだ際、焼かれて死んでしまったので、夫・伊邪那岐(いざなぎ)は、十拳剣で迦具土神を斬り殺しました。
この時、鍔に付いた血から生まれたのが、蜂前神社のご祭神の「熯速日命・甕速日命・武甕槌」命で、蜂前神社では、この3柱の神々を(火の神の真っ赤な鮮血から生まれた神々ですので)「火の神」とし、「火」をデザイン化して、「三つ葉葵」のように「3つの『火』」(熯速日命・甕速日命・武甕槌命の3柱の神々の象徴)を組み合わせてご神紋としました。
応神天皇11年に下向した八田毛止恵(はったもとえ)がこのあたりを開拓し、「八田」「八ヶ前」(はちがさき)と呼ばれました。彼は「蜂ヶ前(はちがさき)神社」を創建し、祖神・熯之速日命を祀ると、自ら初代宮司となりました。後に宮司家は萩原・荻原両家となり、社号も井伊直虎の時代には「羽鳥(はとり)大明神」と変えていましたが、現在は、『延喜式』に掲載されている社号「蜂前」に戻されています。
※ご神職の「職階」は、
宮司(ぐうじ)>権宮司(ごんぐうじ)>禰宜(ねぎ)>権禰宜(ごんねぎ)
である。宮司は神社の代表者、権宮司は副代表、禰宜は宮司の補佐役、権禰宜は一般職員である。「祝田禰宜(ほうだねぎ)」は、「祝田村の羽鳥大明神の禰宜」である。
八田(はった)氏も服部(はっとり)氏も熯之速日命の子孫です。服部氏については、『新撰姓氏録』(摂津国・神別)に次のようにあります。
「服部連。熯之速日命十二世孫。麻羅宿禰之後也。允恭天皇御世。任織部司。惣領諸国織部。因號服部連。」(服部連は、熯之速日命の十二世孫の麻羅宿禰の後なり。允恭天皇の御世、織部の司(つかさ)に任ぜられ、諸国の織部を惣領(つかさど)れり。因りて、服部連と號す。)
熯之速日命の後裔・八田氏が15代応神天皇の頃、この地を開拓し、祖神・熯之速日命を祀りました。19代允恭天皇の時、熯之速日命の後裔・服部氏が、全国の織部の長となり、「服部連」と号すと、全国を巡り、養蚕職工の指導をしたそうです。八田(後の祝田)に指導に来た時、ご祭神・熯之速日命の両脇に甕速日命と武甕槌命を祀ったとのことです。
古代の祝田は、絹織物の産地だったようです。
著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。