大河ドラマの世界を史実で深堀り!

大河マニアックス

鈴木氏の居城・柿本城(愛知県新城市)

井伊家を訪ねて

徳政令と瀬戸方久 ナゾの商人を巡って井伊家ドタバタに

井伊家で行われた直虎の就任式。
左右にいた家臣たちは以下のような配列だった。

左側:小野政次(家老)・鈴木重時(目付)・近藤康用(目付)・菅沼忠久(目付)
右側:南渓和尚(井伊直平の子)・奥山朝忠(庶子家)・中野直之(庶子家)

計7人。後に徳川方に寝返り、「井伊谷三人衆」と呼ばれることとなる鈴木重時・近藤康用・菅沼忠久の3人は「与力」で、城持ちである。
奥山朝忠は、小野政次に討たれた奥山朝利の孫、「桶狭間の戦い」で討死した奥山朝宗の子。中野直之は、宗主・井伊直親の後見人・中野直由の子である。今後は、南渓和尚の代わりに末席に松井方久(瀬戸方久)が入って「井伊谷七人衆」となる。

そこへ「夫婦約束の時に作っておいた着物」を着た井伊直虎が登場。「夫婦約束の時」は20年前の9歳の時だとして、この20年間、背が伸びてないのだろうか? つんつるてんにならないのだろうか? という心 配をよそに、ばっちり着こなして、歩き方も子供期の逆ハの字のままで、井伊直虎(29歳?)が登場!

お坊さんが城主になると、どういう城主になるのだろう?
今川や織田のような「恐怖政治」ではく、仏教の「慈悲」に基づく「徳政」を敷く「名君」になるのだろうか?
中野直由のように実務から逃げて家老任せの城主になっていまうのか?
小野政次が駿府にいた約2年間(井伊直親誅殺~中野直由討死)、中野直由は実務をどうやってこなしたのだろう?

疑問は尽きないが、まずは、直虎様のお手並み拝見といきましょう。

第13話 「城主はつらいよ」 あらすじ

大河ドラマのタイトルが「おんな城主 直虎」と発表された時、地元浜松の住民は戸惑った。
「直虎って、誰?」
地元では、「女地頭・次郎法師」(還俗しないで領主になった女性)と知られていたので、「井伊直虎」と言われても、それが次郎法師が還俗して名乗った名前だと気づかなかったのである。そもそも、「還俗したか、しないか」は学者でも未だに意見が分かれており、ドラマでは「おとわの出家は井伊の本領安堵と引き換え」と設定され、還俗は出来ない。ゆえに南渓和尚は次のように説明した。

「次郎は、還俗はせぬ。領主としての名前を『直虎』とし、虎松が元服するまでの間、それを後見するだけの話じゃ。そう目くじらを立てることもあるまいと思うがのぉ」

「詭弁」に近い「方便」を使い、「但馬守はどうじゃ?」と家老に振った。
小野但馬守は、「次郎法師様にはどこまでの覚悟がおありか、それがいささか」と言い、覚悟の程を聞くと、「直虎様にお仕え致します」と就任を認めた。

女ではあったが、「地頭(領主)にして、宗主・虎松の後見人」と一応認めてはもらえたものの、寺育ちの世間知らずである。何から手を付けたらいいのか分からない。

「さて、まずは、何からすればよいのであったかのぉ」
と重臣に尋ねても、
奥山朝忠「恥ずかしながら、某、余り政事の事は、明るう無く」
中野直之「指し図されるのは殿の役目で御座る。指し図が出来ずして、何の殿」
と頼りにならない。

◆奥山朝忠:ドラマでは「しのの兄」(奥山因幡守朝利の子)となっている。奥山朝利の息子は、奥山六郎次郎朝宗(長男)、奥山六郎五郎朝重(次男)、奥山源太郎朝家(三男)であり、奥山六左衛門朝忠は、宗主・朝宗が桶狭間で討死後、奥山家宗主となっていた人物で、奥山朝利(演じたのは67歳のでんでんさん)の孫であって、演じる田中美央さんは42歳であるが、史実の朝忠はかなり若いと思われる。(生年不明。没年月日は寛永6年(1629)4月19日。)

◆中野直之:井伊23代直親の後見人にして地頭、井伊直親の死後は第24代宗主・虎松の後見人になったと思われる中野直由(演じたのは54歳の筧利夫さん)が引馬城攻めで亡くなると、長男の中野直之が中野家宗主となった。生年不明。没年月日は慶長10年(1605)6月14日。演じるのは26歳の矢本悠馬さん。

井伊直虎の欠点。それは重臣「井伊谷七人衆」の中で最も頼りのなるのが、奥山朝忠でも、中野直之でもなく、小野政次であることに気づいていない点である。いや、気づいてはいるが、まだ、最愛の井伊直親の死の原因は小野政次にあると思っているのであろうか、小野政次を嫌っているのである。
上の場面でも、「まずはこれらに目を通す事から」と小野政次は安堵状、検地控え、証文類を手際よく用意したが、「お主の助けは借りぬ」とばかりに、書類を戻してから持ってくるように「指し図」した。

悩んだ井伊直虎は、「初代様出生の井戸」へ行き、「どうしたもんじゃろのぉ。亀よ、お前ならどうする?」とつぶやく。
と、亀に輪廻転生した井伊直親が現れて・・・では、さすがに大河ドラマではなく、大河ファンタジーになってまずいと思ったのか、井伊直親も亀も残念ながら登場しなかった。井伊直虎すら来ません。
「きっとこの井戸に来るだろう」と待っていた小野政次は、いつまでたっても井伊直虎が来ないので、剣を振って雑念を断ち、決心した。演出家の方にお願いしたい。ここは上半身裸で・・・それくらいの視聴者サービスは・・・と思うのは、私だけ? (裸が某誌に載る前なら視聴率が上がったでしょうけど、今さら感があるのかな?)

さて、「徳政令」である。「徳政令」とは「銭主」(瀬戸方久)から借りた借金の棒引き命令の事であり、井伊直虎は、瀬戸村の惨状を見て、「出す」と安請け合いしたところ、隣の祝田村の農民も「祝田村にも出して下さい」と陳情に来た。そりゃ当然でしょ。誰もが借金を無くしたいと思っているのだから。

ところが、井伊家も瀬戸方久から多額の借金をしていることが分かり、
──徳政令を出したら、井伊家が潰れる
ことが判明!

ここで、井伊直虎は、思い切った策に出た。瀬戸方久に瀬戸村と祝田村を与え、「井伊谷七人衆」に加えるという策である。
「井伊直虎と同じ年に生まれて、同じ年に死んだ」可能性があるという織田信長は、農業重視から商工業重視に変えた人であるが、直虎も信長と同じ考えだったことになる。
ただ、織田のバックには、津島と熱田の商人がいた。井伊の場合、気賀の商人はいいとしても、銭主・瀬戸方久って・・・見るからに怪しい。そして、軽い。今は井伊家を使って儲けようと企んでいるが、もっと大きな「金のなる木」(たとえば、今川とか、徳川とか)とコネが出来たら、井伊を捨てて、さっさとそちらに移りそうで怖い。
(つづく)

今回の法話 「自灯明、法灯明」(じとうみょう、ほうとうみょう)

「自灯明、法灯明」は、
釈迦の入滅前、十大弟子の一人・阿難(アーナンダ)の
「師が亡くなったら、何に頼ればよいのか?」
という問に対する答えであり、釈迦が示した最後の教えとなった。

──他者(師)に頼らず、自分を、法を拠り処として生きなさい。
という意味だという。
先々代の父という拠り処も、先代の最愛の元婚約者という拠り処も亡くし、残された自分が宗主にならざるを得なくなった井伊直虎にかける言葉にふさわしい。
※原典の「dipa」(ディーパ)には、①灯明、②島、③助け、の3つの意味がある。

「師を亡くしたら、取り付く島が無くなるのではないか?」
「まずは自分が島、次に、法が島」
と訳した方が分かりやすい?

禅宗では、答えが1つとは限らず、禅語としての「自灯明・法灯明」の解釈にも種々あり、「どれもが正しい」ようであるので、ここでは、「まずは、自己の内奥に潜む仏性を認識し、それに従え。それが出来なかったら、絶対真理=釈迦の教え=仏典(経典)に従え」と解釈しておく。
井伊直虎向けに言い換えれば、「自灯明」とは、「まずは己の信念で行動しろ。(結果は後からついてくる。)」という事であり、「法灯明」とは、「迷ったら先人の知恵、『今川仮名目録』で学べ」といったところか。

「斯様な事に正解など無いしのぉ。結果が良ければ正解とされ、そうでなければ間違いとされる。上手くいくか、いかぬかは、誰も請け合ってはくれぬ。己の信じたものを明かりとし、進んで行くいかないのぉ」(by 南渓和尚)
「井伊の横紙破りはいつものことじゃ」(by 寿桂尼)
※「横紙破り」:和紙は縦に漉き目が通っているため、縦方向には破れやすいが、横方向には破れにくい。「横紙破り」とは、破りにくいのに、無理に破ろうとする事。我を通す事の例え。

寿桂尼には、「私が夫と2人で苦労して作った『今川仮名目録』を、自由奔放な井伊家の人々はちゃんと読んでいるのだろうか?」という思いがあるのであろう。
確かに「法」(他人が決めた掟)を学び、法に従うことは重要であるが、法に従うことにのみに忠実な「法の奴隷」になってしまうことも避けたいものである。そのためには、まずは自分、信念を持つことである。

「Aについてどう思いますか?」
と聞かれた時に、領主(政治家)としては、自分の考えを答えられるようにしたいものである。たとえ、その答えが間違っていたとしても、信念から発せられた言葉には重みがあるからである。人を動かす力があるからである。※次の文の「大人の男」は、「アラサーの領主・井伊直虎」に置き換えられると思う。

大人の男にとって、
──わからないでは済まない。
ことが多くあるのは事実だ。
大人の男が少なくとも三十歳を過ぎたなら、自分を取り巻く世界に対して確固たる見解を持っておくべきである。
イデオロギー、歴史館、宗教観、政治、経済、哲学、芸術……。
あらゆる分野において、自分なりの考えを持っておくのが大人というものである。
その見解、考え方が間違っていようが、それは別の問題である。
伊集院静『旅人よ どの街で死ぬか。男の美眺』(集英社)

井伊直虎の信念とは、農民の節くれだった指を見て悟った
「我らは百姓たちの年貢に支えられておる。百姓たちが疲れ切り、力を無くしては、良い事など見込めぬと我は思う」
ということであろう。井伊直虎は、寺育ちの世間知らずではあるが、物事の本質を見抜く目は持っているらしい。
そして、この信念は、瀬戸方久を動かし、「協力したい」と思わせるに至ったのである。

一方の瀬戸方久の信念は、「銭は千騎の武者にも値する」「銭は力じゃ」である。
それが正しいかどうかは、今は問題ではない。井伊直虎には到底受け入れられない信念ではあるが、信念ではある。

キーワード:井伊直虎の地頭就任の時期

・井伊22代直盛殉死(永禄3年5月19日(1560年6月12日))
・井伊23代直親誅殺(3月説と12月説があるが、通説は永禄5年12月14日(1563年1月8日))
・井伊20代直平死亡(毒殺? 永禄6年9月18日(1563年10月5日))
・年貢割付(永禄7年7月6日(1564年8月22日))
・中野直由・新野親矩討死(永禄7年9月15日(1564年10月29日))
・次郎法師、南渓宛寄進状(永禄8年9月15日(1565年10月18日))

井伊直盛は不可解な遺言を残しました。
──井伊直親を23代宗主とするが、地頭職は中野直由とする。
これには、井伊直親も中野直由も含め、皆が驚きました。
この遺言は文書ではなく、奥山孫市郎の口伝であったのですが、なぜか皆、信じて従いました。つまり、「井伊直親には地頭を任せるべきではない」と皆が思っていたことになりますね。井伊直親は、ドラマでは「プリンス」でしたが、実は「チャラ男」だった?

祝田御年貢納所之事
八貫五百文 井料引物
此内
弐貫五百文 大明神修理田
合百廿貫文者
廿五貫文 こい田けんミ所(鯉田の検見所)
九百文 殿田御代官免(年貢免除分)
九百文 太藤寺(井伊直親の菩提寺)
十五貫文 小野源一郎殿
参貫文 小野但馬殿(政次)
廿五貫文 御一家中(井伊家御一門)
参貫文 祢宜免(年貢免除分)
永禄七年甲子七月六日

「井伊次郎法師(直虎)年貢割付」(蜂前神社)

年貢割付の文書(上の画像)が蜂前神社にあり、その文書の裏に「永禄七年甲子七月六日割付 万千世様御証文」と書かれた端裏貼紙があったため、「井伊直政年貢割付」と 呼ばれてきました。
しかし、「当時4歳の井伊万千代が発給できるはずがないし、『万千代』は徳川家康に与えられた名で、この時は『虎松』である」として、現在、学者たちは「井伊次郎法師年貢割付」とか「井伊直虎年貢割付」と呼んでいます。
ただ、地頭の中野直由はまだ生きているのですから、「中野直由年貢割付」でしょう。貼紙を信じれば、「宗主・井伊万千代(後見・中野直由)年貢割付」であり、中野直由が書いて井伊万千代が承認した文書ということになります。

※地頭である井伊氏が書いた文書であれば、小野氏には「殿」を付けない。もし、井伊氏が書いたのであれば、小野氏の身分(今川氏の目付?)は井伊氏とは独立した、かなり高い身分であることになる。それに合計が120貫文にならないし、井伊氏以外(祝田禰宜?)の覚書(年貢割付の文書から祝田に関する部分を抜き出した文書)のようにも思われる。
※江戸時代の古文書には、井伊直政の幼名を「万千代」として、「虎松」という名が載っていない物もある。この文書の端裏貼紙も江戸時代に書かれた物であろう。

「井伊直虎(次郎法師)置文」

中野直由の討死後、次郎法師が地頭職となり、南渓宛に「龍潭寺寄進状」を永禄8年9月15日(中野直由&新野親矩討死の1年後)に発行しています。
「次郎法師」と署名し、四文字(判読不明)の黒印(女性は花押を使えないので、印を使う)が捺されています。龍潭寺では「黒印状」、学者は「次郎法師置文」「井伊直虎置文」と呼んでいるこの文書には、次のような疑問点があります。

①なぜ署名が「井伊直虎」ではなく、「次郎法師」なのか?(まだ還俗して「井伊直虎」と名乗っていないのか?)
②なぜ龍潭寺宛ではなく、南渓和尚宛なのか?
③なぜ「龍潭寺領を井伊直盛寄進状の通りとする」なのか?(寄進状は、地頭の代替わりに出すものである。中野直由は寄進状を出していないのか?)

そして、これらの疑問は、井伊直虎に関する
①「次郎法師」が還俗して「井伊次郎直虎」と名乗ったのはいつ?
②「虎松が24代宗主で、井伊直虎は後見人で宗主になっていないので、宗主の系図に井伊直虎は載せられなかった」のか、「虎松はいなかった(鳳来寺にいた)ので、井伊直虎が24代宗主になったが、女なので宗主の系図には載せられなかった」のか?
という疑問とも重なります。

井伊万千代(虎松)には、父・井伊直親の誅殺後、今川氏真から殺害命令が出されましたが、「もう少し大きくなったら出家させる」という約束で、虎松は「新野親矩預け」となっていました。新野親矩の討死後、再び今川氏真から虎松殺害命令が出されました。
今川氏真は井伊直親が大嫌いであったので、「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」で、その子・虎松も嫌いなのでしょう。そこで、虎松を鳳来寺に逃したとされますが、ドラマでは、虎松は、新野屋敷で平和裏に暮らしています。

キーワード:分国法

「戦国大名」の定義は、「中央権力(室町幕府)と一線を画し、国内を独自に統治する権力を有する大名」でいいのかな?
個人的には、「独自の法律(分国法、戦国法)を持つ大名」と 定義したいところですが、独自の法律を持たない戦国大名の方が多いので、そう単純には定義できません。実際、「戦国大名」の定義は難しく、学会でもまだ規定されていないようです。

──(前略)自旧規、守護使不入と云事ハ、将軍家天下一同御下知を以、諸国守護職被仰付時之事也。守護使不入とありとて、可背御下知哉。只今ハをしなへて、自分の以力量、国の法度を申付、静謐(せいひつ)する事なれば、しゆこ(守護)の手、入間敷事、かつてあるへからす。(後略)(自分の力で国の法律を制定し、国内が治まっている)『今川仮名目録追加』(第20条)

今川氏の分国法には、
・『今川仮名目録(33条)』大永6年(1526年)4月(今川氏親)
・『今川仮名目録追加(21条)』天文22年(1553年)2月(今川義元)
・『今川訴訟条目(13条)』天文年間末年頃(今川義元)
の3つがあります。

『今川仮名目録』は、病床にあった今川氏親が、妻・寿桂尼の手を借りて、子・氏輝のために書き残したもので、南渓和尚は、井伊直虎に「仮名目録」「仮名目録追加」と書かれた巻物を渡す時に、次のように説明しています。

「その昔、今川の先々々代・氏親殿が、子に代を譲る際に、無用な乱れが起こらぬようにと、国を治めるために作った掟じゃ。寿桂尼様がお作りになったとも言われているが…」

また、竜宮小僧は、
「年貢や商いの取り決め、訴訟の仕組みなどをまとめた法令集じゃ」
とナレーションしています。

祝田・奥の山のようなのが三方ヶ原(台地)

キーワード:徳政令

「徳政令」とは、「売買・貸借関係の破棄・軽減令」であり、早い話が「債務破棄(借金の棒引き)の命令」です。「徳政令」が出れば、お金を借りていた人は、その時は助かります。
一方で、徳政令が出された以後は、「銭主」(せんしゅ)がお金を貸してくれなくなるので、生活は更に苦しくなります。
※銭主:自ら在村し、土地、名職等の集積を積極的に行う地主的性格を有する新興の高利貸し。

「徳政令」を「出された理由」から分類すると、
①自然災害による徳政令
②戦乱による徳政令
③代替わりの徳政令
になります。
今回のドラマでは、新領主誕生による③型の「徳政令」としています。しかしながら、上述のように、南渓宛寄進状を出した永禄8年(1565)には、既に代替わりしていたと思われ、「井伊谷徳政令」が出されたのは永禄9年(1566)のことですので、③型とは考えにくいです。
永禄8年(1565)の3・4・10月に、信濃・甲斐での天災が記録にあることや、翌・永禄9年(1566)の閏8月に湖西市で徳政令が発布されていることから、最新の研究では、井伊谷徳政令は、①型だとされています。

「井伊谷徳政令」の通説は、祝田村の百姓が、「新興高利貸し(瀬戸方久)にお金を返せなくて困っている」と、祝田禰宜(蜂前神社の宮司)に訴え、祝田禰宜が小野政次に相談すると、「これは使える!」と思い、井伊家を飛び越え、今川家に徳政令の発布を願い出させたであり、これが駿府今川館で寿桂尼に話していた「策」なのでしょう。
最新の研究では、「井伊谷徳政令」は2度出されたとされ、「永禄8年(1565)の天災により、永禄9年(1566)に、今川氏が、井伊領在住の家来の借金の棒引きを求める徳政令を要求したが、井伊家はこれを拒否した。次に農民が徳政令を求めると、断りきれずに承知した」としています。

キーワード:瀬戸方久

銭主・瀬戸方久には、
①無一文から豪商になった人(伝承)
②二俣城主・松井氏の一族(下記『瀬戸家家譜』)
の2説があり、ドラマでは①説を採用しています。

この人物は、出家して「方久」と名乗り、瀬戸村の方久屋敷(宝林寺の横)に住んでいました。
ドラマでは、井伊直虎は、「方久」という名を初めて聞いたとか、会うのは20年ぶりという設定ですが、父親が借金していた領内に住む豪商ですから、名前くらいは聞いたことはあったでしょう。好奇心旺盛なおとわでしたら、「どれほど豪勢なお屋敷なのか見たい」と思い、托鉢を兼ねて見に行ったかもしれません。
また、瀬戸方久の正体は、井伊直盛時代の「井伊谷七人衆」の1人である松井平兵衛だとも言われています。もしそうであれば、名前も顔も知っていたことでしょう。

徳川家康に宝刀を献上する瀬戸方久/国立国会図書館蔵『遠江古蹟図絵』より

《地名の話 「祝田(ほうだ)」「瀬戸(せと)」》

蜂前神社・直親屋敷・大藤寺周辺が祝田村、近藤氏の菩提寺・宝林寺(寛文4年(1664)開山の寺で、戦国時代には無かった寺)周辺が瀬戸村です。

「遠江小図」/嘉永5年(1852)に黄文字で書込

※三方原の台地から祝田村へ下る「祝田の坂」は三方ヶ原古戦場として有名。
※「せと」は「迫戸」とも書く。山と三方原(台地)に挟まれて、都田川(瀬戸谷川)の川幅が狭くなった部分をいい、都田川の渡河点(浅瀬)で、徳川家康の遠江侵攻時には、瀬戸で都田川を渡り、対岸の蜂前神社、あるいは、祝田城(直親屋敷)で休息したという。

瀬戸方久宛の今川氏真の安堵状

ドラマでは、「瀬戸村と祝田村を瀬戸方久に渡す」という証文を、井伊直虎が書いて、瀬戸方久に渡していましたが、永禄11年(1568)9月14日付、瀬戸方久宛の今川氏真の安堵状(上記画像)には以下のように記されており、井伊領の土地を瀬戸方久が買い取っていたことが分かります。

「去丙寅年、惣谷徳政之義雖有訴訟、方久買得分者、次郎法師年寄誓句并主水佑一筆明鏡之上者、年来買得之名職同永地、任証文永不可有相違」
【現代語訳】永禄9年(1566)に井伊谷徳政令を求める訴訟があったが、瀬戸方久が土地を買い取ったことは、次郎法師と年寄(井伊家家老衆)の誓句、並びに、主水助の一筆で明らかであるから、それらの土地についは保証する

二俣城主・松井宗信の墓(磐田市上野部の天龍院)

史料:瀬戸家家譜(瀬戸文書)
松井平五郎(松井宗信之三男。天文七年生)
神君家康公賜瀬戸氏。即号瀬戸方久入道也。
上野部村天龍院境内于實父宗信郷之墓所石碑存焉

松井宗信は、井伊直盛と共に先鋒を勤め、桶狭間で討死した。宗信の首は、次男・助近が持ち帰り、菩提寺(天龍院)に埋めた。首を織田軍に取られずに持ち帰られたということは、井伊直盛同様、討死ではなく、殉死したのかもしれない。
松井平五郎が瀬戸方久だとすると、天文7年(1538)生まれというから、井伊直虎とは年が近いと思われる。
この家譜にしろ、他の古文書にしろ、江戸時代に書かれたものは、「浜松城へ行って、徳川家康に宝刀『千寿丸』を献上し、『瀬戸』姓を頂戴した」とある。しかし、徳川家康の遠江侵攻以前の今川氏真の判物(瀬戸方久宛の今川氏真の安堵状。上に画像添付)にすでに「瀬戸方久」とある。(ただし「瀬戸」は後から書き加えたようにも見える。)

それにしても、方久屋敷・・・骨董品店のようでした。
青磁の壷は高そう・・・。
井伊直虎にプレゼントした硯も素敵! 贈答用の硯と言えば、歙州か端渓ですね。端渓は紫っぽいと思うから、歙州かな?

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

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