徳川家康は、遠江侵攻時、本坂越えを避け、陣座峠(当時は「神座峠」)を越えて遠江国に入り、奥山方広寺に泊まり、未明に井伊谷城を落とし、一時(いっとき。2時間)で刑部城を落として、普済寺に入って本陣とし、築山殿を西来院に入れたという。
戦に正室を連れてきたのは、「侵略戦ではなく、今川の姫の戦」であることのアピールであり、西来院には次々と今川諸将がやって来て、築山殿に挨拶すると、徳川方への寝返りを決めたという。
(以後、徳川家康は、戦に側室を連れて行くようになった。特にお気に入りは阿茶局とお梶(お勝)で、阿茶局については「大方御陣中にも召具せらるる」(『以貴小伝』)のであるが、「小牧・長久手の戦い」の陣中で流産し、その後、子を授からなかったという。)
別説では、徳川家康は、遠江侵攻時、本坂越えをしたが、気賀衆が待ち構えていると聞いたので、南下して新所へ行き、そこから船で宇布見、佐鳴湖(小籔)と乗り継いで引馬入りしたという。
これは、築山殿の死出の旅のコースと重なる。『三方原戦記』には、「気賀、刑部、在所在所の悪い者共言い合わせ、『家康公、若し此街道を通りなば、何卒して御首を賜り、信玄へ差し上げ、大名にも相成り申したし』と面々、竹鑓なんぞを用意し、本坂に集まり、今や、今やと待ち居たり」(気賀村の堀川城も、刑部村の刑部城も、今川方だと思われるが、武田方だとする古文書が多い。)とあり、徳川家康が、無事、引馬城に入城したと聞いた時の描写は、「気賀、刑部の悪者共、『御入城』と聞き、後悔の眼(まなこ)、血に染、身の置き所無く、庄内堀江という所へ引き籠りたり。(中略)引き籠もる所の者共、都合壱百八拾人打ち取り」(気賀村の堀川城の城兵も、刑部村の刑部城の城兵も、籠城して180人が討ち取られたとあるが、「庄内堀江」は、「気賀堀川」の誤りである。)
《略年表》
永禄12年(1569)2月5日 第一次 堀江城の戦い
永禄12年(1569)3月25日 第二次 堀江城の戦い
永禄12年(1569)3月27日 第二次 堀川城の戦い
永禄12年(1569)4月7日 小野政次、処刑
永禄12年(1569)4月12日 堀江城主・大澤基胤、降伏
永禄12年(1569)4月24日 武田信玄、駿河国より撤退(樽峠越)
永禄12年(1569)5月6日 今川氏真、掛川城、開城
永禄12年(1569)5月7日 小野政次の2人の息子、処刑
永禄12年(1569)5月15日 今川氏真、掛塚湊から出港
永禄12年(1569)5月17日 今川氏真、蒲原城に到着
永禄12年(1569)5月23日(閏5月3日?) 今川氏真、大平城に到着
永禄12年(1569)9月9日 「堀川城の戦い」の残兵700人を処刑
元亀元年(1570)9月3日、今川氏真、小田原早川の屋敷へ疎開
※屋敷の所在地の地名が「早川」だったので、春は「早川殿」と呼ばれた。
第35話 「蘇えりし者たち」 あらすじ
──殲滅(せんめつ)
「堀川城の戦い」はまさにこの表現がぴったりの戦いであった。
そもそも武士対庶民であるから、「戦い」とはならなかった。「撫で切り」である。
井伊直虎たちが駆けつけると、「戦争直後」の状態であった。実際の戦の後は、換金できる鎧や武具は盗まれ、立派な鎧を着た武将の首は無いはず。
「舟がなくても行けたの?」「徳川の兵がいて、中に入れないんじゃないの?」とも思う。
史実は、「徳川家康に井伊谷城を小野政次から取り返してもらい、城主・井伊直虎は、井伊衆を率いて、徳川方として堀川城を襲った」のだそうだが、伝承では、井伊直虎は、城主を解任されると、身の危険を感じ、龍潭寺に逃げ込み、尼・祐圓尼になり、(気賀の寺は焼かれ、住職も亡くなったので)気賀へ葬式のために向かう南渓和尚の補助で、祐圓尼も気賀に来たという。
また、「堀川城の戦い」は、伝承と古文書の記述(史実?)は大きく異る。古文書は、徳川家康の黒歴史を消すために書かれたのか?
《「堀川城の戦い」の伝承と古文書の記述の違い》
・伝承:堀川城で農民を含む男女1000人が討ち取られる。→古文書:武士のみ108人(一説に180人)討ち取られる。
・伝承:9月9日にさらに700人が打ち首→古文書:捕らえた700人を徳川家康が赦免
龍雲丸を助けようと、次郎法師(井伊直虎)は必死だった。
冷えた体を「温石(おんじゃく)」で温めた。民放ならば、裸になって抱く(体温で温める)んだろうな。
NHKでも「忠臣蔵の恋」で、先週、EXILEのTAKAHIROさんと電撃デキ婚された武井咲さんの全裸シーンがあったから、「おんな城主 直虎」でもと期待したけど、残念ながら、「片口では流し込めない」としての口移しまでだった。(オイオイ、どこに期待してんだよ (^_^;))
龍雲丸を介抱する井伊直虎は、看護師(ナイチンゲール)に見えた。衣装(法衣)は白衣ではなく、修道女風だけど。
──恩は売れる余裕がある時に売っておけ。
小野政次の処刑の原因を作った憎き「井伊谷三人衆」に対してであっても恩は売っておく方が良い。
鈴木重時の供養をしたら、龍雲丸が蘇った(黄泉帰った)し、近藤康用の治療も、後々、いいことがあるかも?
※アンリー・デュナン(サインを見るとHenri Dunantで、「ヘンリー」だけど。仏語読みでは、先頭のhは発音しないけど、hugeはyugeじゃないぞ!)が設立した赤十字の七原則は、人道(戦場において、差別なく負傷者に救護を与える)・公平(国籍、人種、宗教、社会的地位または政治上の意見によるいかなる差別をもしない)・中立・独立・奉仕・単一・世界性。このドラマでは人道・公平よりも、前後際断に重きが置かれてるのかな? 過去の恩讐に捕らわれず、未来の恩返しを期待せず、目の前に怪我人がいたら、とにかく助ける。
さて、今川氏真。
掛川城からは「塩の道」を通って相良湊へ行くのが常識だ。ただ、「塩の道」は、塩買坂で今川義忠(今川氏真の曽祖父)が討たれてるからなぁ。
掛川開城は、今川氏真を殺す大チャンスだったけど、徳川家康は、松平定家を護衛に付けて掛塚湊まで送らせ、礼を尽くした。
開城の条件は、「いずれは北条氏と共に武田信玄を追い出して、今川氏真に駿河国を与える」だったという。それを知って、武田信玄は激怒したという。(そりゃそうだ。)
──こうして、戦国大名としての今川氏は滅亡した。
武田信玄は駿府から追い出され、徳川家康は遠江国をGet!
この違いの怒りを、武田信玄は竹にぶつけた。竹を切ったのは、「次はお前(徳川家康)の首を切る」ということであろう。
後に武田信玄と徳川家康が戦った「三方ヶ原の戦い」は年末のことで、終戦後、武田信玄は気賀の東の刑部村の「刑部砦」で年を越した。
お正月の門松を見て、武田信玄は、徳川家康に、
松枯れて 竹たぐひなき あした(朝)かな
(松(松平=徳川)は枯れ、竹(武田)は類無き繁栄の元旦)
と送ると、
松枯れで 竹だくびなき あした(明日)かな
(松は枯れで(枯れず)、武田は首無き未来)
と、濁点の位置を変えて返信したという。
門松に使われる竹の切り口には、斜めに切る「削(そぎ)」と、真横に切る「寸胴(ずんどう)」の2種類がある。
徳川家康は、斜めに切ることで、「三方ヶ原では大敗したが、次はお前を斬る」と意志表明をした。(「削」は、江戸で使われて全国に広まったが、甲斐国では「寸胴」である。)
※一般的には、「斜めに切ると、切り口が笑った口のように見えるから、「笑う門には福来たる」で縁起がいいから「削」にする」と考えられている。今、「三方ヶ原の戦い」に関する本を書いているので、どうしても「三方ヶ原の戦い」の話に結びつけがちだけど、個人的には、竹の繊維が縦方向なので、横に竹挽き鋸で切るよりも、斜めに刃物で切った方が楽で早いから、製作者の便宜で「削」にしていると考えている。
奥山しの(ひよ)が再婚のため、虎松と別れる時の藤も綺麗でしたが、今回、次郎法師(井伊直虎)と龍雲丸のツーショットの背景の藤も綺麗でした。藤の花言葉は2つあります。前者は「決して離れない」で、後者は「恋に酔う」があてはまるかな?
「色あひ深く花房長く咲きたる藤の花、松にかかりたる。」(『枕草子』84段「めでたきもの」)
はたして藤(藤原氏=井伊氏)は、松(松平氏=徳川氏)に掛かって蘇るのか? 次回は「井伊家最後の日」。
(つづく)
今回の言葉 「前後際断」
【意味】 「前」(過去のこと)も「後」(未来のこと)も「際を断って」(考えずに)、今(現在)を精一杯生きよう。
【出典】 「前後際断」と申す事の候。前の心をすてず、又、今の心を跡へ残すが悪敷候なり。前と今との間をば、きってのけよと云う心なり。是を前後の際を切りて放せという義なり。心をとどめぬ義なり。(沢庵禅師『不動智神妙録』)
「堀川城の戦い」の死体の群れを見て、「ここに城を建てろ」と進言しなければ、このような惨事は起きなかったと過去を嘆いても仕方がない。もう起きてしまったのであるから。そして、「この先どうなるんだろう?」と未来に不安を感じていても仕方がない。とにかく、今出来ることを考え、ベストを尽くすしかない。(今出来ることは、怪我人を探して治療することだ。)
── Why don't you do your best?
「なぜベストを尽くせないのか?」──それは、過去や未来にとらわれているからである。
横浜ベイスターズのスローガンみたいだけど、
Your time is now.
個人的には「因果応報」で、過去の出来事が現状を生んでいると思うし、今やっていることは未来に繋がると思うのですが・・・そこは「方便」ってことで。
キーワード:堀川城の戦い
「堀川城の戦い」には、2000人が参加し、1日で1000人が討たれたという。
当時の気賀村の人口は2000人、刑部村の人口は1000人で、この3000人中2000人が参加したとする説もあるが、刑部村の刑部城は3ヶ月前に落城して、徳川方の菅沼氏が入り、刑部村は徳川領になっていたので、「堀川城の戦い」に参加したとは考えにくい。
ということは、気賀村の住民全てが参加したことになる!
「堀川城の戦い」において、徳川家康は、寺も含め、気賀村の全家屋を焼き払ったというから、気賀村は廃村状態となった。
堀川城から抜け出した住民1000人は、刑部村やさらに奥の祝田村、瀬戸村、都田村に逃れたと思われるが、徳川家康は、執拗に探索し、半年後に、捕虜700人の首を「呉石」(大字名)の「塔ノ下」(小字名)の処刑場で刎ね、その首を畷(なわて。「真っ直ぐな道」のこと。ここでは、「都田川の堤防」)に並べたという。
「この時、徳川勢に降る者凡そ一千余人、捕えられる者七百余人、之を牢獄に投じ九月九日に至って引出し、気賀村呉石塔ノ下に於て、悉く之を斬首し、近傍なる堤上に梟首せり、後世獄門畷と云う、即ち其所なり」(鈴木覚馬『嶽南史』)
塔ノ下を掘っていた時、数多くの頭蓋骨が出土し、これは「堀川城の戦い」の捕虜の頭蓋骨であろうと考えられ、その地に「堀川城将士最期之地」碑が建てられた。
《表面》
新田喜斎以下七百有余人首塚
堀川城将士最期之地
堀川城址是ヨリ南へ五丁
《裏面》
永禄十一年三月十日落城同年九月九日最期
慶長十一年八月十五日喜斎公最期
昭和十一年三月十日建之
※「永禄11年3月10日」は、「永禄12年3月27日」の誤り
堀川城代・尾藤主膳は、落城の様子を堀江城の大沢基胤に報告するため、部下9名と共に(隠し港から?)小舟で密かに堀川城を脱出して堀江城へ行き、報告後、人質として大沢氏に差し出していた妻と共に堀江城で過ごしました。が、4月12日、大沢基胤が徳川家康に降伏することを決めたため、城内で切腹すると、大沢基胤は、彼等の首を徳川家康に差し出して降伏したそうです。
伝承では、3月27日に、尾藤主膳ら10人は、堀江城の城門前(大字「大木戸」)で自害したので、その場に塚を築いて首を埋め、塚の上に十頭八幡宮の祠を建てたので、「十頭(とうず)」という小字が生まれたと言いいますが、「十頭」は「ととう」であって、以前から「トトウ神」が祀られていたと思われます。
──気賀、刑部辺、今に九月節句無し。末代の能き見せしめなり。
と『三方原戦記』にあります。「九月節句」とは、9月9日の「菊の節句」(重陽)のことで、徳川家康が「気賀の住民には楽しいことをさせない」と言って禁止したというのですが、9月9日に「堀川城の戦い」の残党700人が徳川家康の命で斬首になったので、「村民700人の命日に楽しいことは出来ない」と気賀村(現・細江町気賀)や刑部村(現・細江町中川)の住民が自主的に「九月節句を祝わない」と決めたとする説が有力です。
後の話ですが、武田信玄は徳川家康を三方原で破りました。これを「三方ヶ原の戦い」といいます。この時の武田軍の進軍ルートは、「合代島(本陣)→三方原→刑部(本陣)」ですが、そう単純ではありません。合代島(本陣)から三方原への進軍ルートは、軍隊を分散したのか複数報告されていますし、戦後、本陣の設置を平口原(平口村)、権現谷で断られ、本陣とする場所が見つからずに迷走後、刑部村に落ち着いています。刑部村が武田信玄を大歓迎したのは、同地で大虐殺を行った侵略者・徳川家康を負かしたからでしょう。このため、同地では、今でも徳川家康を「家康」と呼び捨て、武田信玄を「信玄様」と呼んでいます。(「徳川三都」(岡崎市・浜松市・静岡市)における徳川家康の呼称ですが、岡崎市と静岡市では「家康公」、浜松市では気賀に限らず「家康」と呼び捨てです。)
キーワード:堀江城の戦い
永禄12年(1569)2月5日、徳川家康は、堀江城を「井伊谷三人衆」(近藤康用・鈴木重時・菅沼忠久)に攻めさせました。
堀江城の城兵300人が打って出ると、総大将・近藤康用は、堀江城士・新村善左衛門と一騎討ちし、槍で「ももた」(遠州弁。太腿のこと)を刺されました。(一説に、一騎討ち中に流れ矢が太腿に刺さったとも。これにより近藤康用は歩行不自由となり、その後の戦には子・近藤秀用が近藤隊を率いるようになった。)
打って出た堀江城の城兵が城内に逃げ込んだので、鈴木重時と近藤秀用は、我先にと競い合って城門に迫ったが、城門には鉄砲を持った2人の城兵がいました。近藤秀用を狙った鉄砲は不発でしたが、鈴木重時は鉄砲に撃たれて絶命しました。鈴木重時を撃ったのは、この数日前、他国から武者修行に来ていた者で、生国も名前も残されていません。
鈴木重時の墓は、龍潭寺の墓所と、満光寺の開基堂(現在立入禁止)にあります。
龍潭寺の案内板には「永禄十二年二月五日堀江城合戦で戦死 享年四十二歳」とあります。
4月4日、「基胤」(堀江城主・大沢基胤)と「種豊」(中安彦次郎種豊)は、「朝備」(掛川城主・朝比奈備中守泰朝)・「同下」(朝比奈下総守親孝)・「同金」(朝比奈金遊芳線)へ書状「中安種豊・大沢基胤連署状」(大沢文書)を送り、近況や心境を伝えています。
「懸川へ四月四日」(端裏書)
久不申上候条、其地御無心元存候。当城之儀、今迄ハ堅固候。涯分ニ存候へ共、駿之儀和、一篇于今無御座候由候。左候ヘハ、当国之事重而家康罷立、方々手置仕候て、当城取懸、当中不成候者、取出重而仕、麦を可苅取之由候。兵糧之儀ハ、配当仕候ハ、二、三ヶ月計之事ハ所持候。配当仕候■■果而ハ一円罷成間敷、城下知行分も欠所ニ罷成候。来作ハ少も有間敷候。何方より兵粮可入方無之候之条、諸人数相拘候。可開運便無之候。■■■■悉■相果候ても、御国之御為ニも罷成間敷候。先、家康前を敵方より種々扱を申候条、先たるめ可申ため、種々難題を申懸候。■定落着ハ、有間敷候。若相調候て少も今迄無沙汰不申候之間、若時宜相調候共、■非疎意候。雖如此候。御調略も御座候ハゝ、依御下知、可成其覚悟候。至今如此次第、無念至極候。将又堀河随分申調、手を合候之処、普請大方ニ付て、則時被乗取候。悉、給人、百姓打死。此方加勢仕候者、廿計討死仕候。口惜存計候。■此等之趣御取合奉頼候。恐々。
「山村、尾藤、竹田人質此方拘置候。末々ハ可被加御下知候。
卯月四日 基胤
種豊
朝備
同下
同金
此分らるへく候。但なをなをこまこまにも可被仰候哉。自余ハ金遊へ可被仰候哉。御分別次第、尚々可被書加候歟。
【大意】 久しく御無沙汰しており、「其地」(掛川)が心配です。「当城」(堀江城)は、これまでは堅固でした。兵糧はまだ2~3ヶ月分はありますが、来作は期待できません。敵(徳川)方から「種々難題を申懸候」(難題(降伏の催促とその条件)を申し掛けられています)。「至于今如此次第、無念至極候」(今に至り、このような次第で無念至極です)。「堀河随分申調、手を合候之処、普請大方ニ付て、則時被乗取候」(早期完成を何度も催促されていた堀川城は、ほぼ完成していましたが、未完成でしたので、1日で乗っ取られました)。「悉、給人、百姓打死」(給人、百姓、ことごとく討死しました)。「此方加勢仕候者廿計討死仕候。口惜存計候」(堀江城から送った20人の援軍も討ち取られて悔しいです)。「山!
村、尾藤、竹田人質此方拘置候。末々ハ可被加御下知候」(堀川城の守将・山村、尾藤、竹田の人質をとってあるのですが、山村、尾藤、竹田が死んでしまった以上、どうしたらいいか、御下知(おげち)=指示をして頂きたいです)。
「朝備泰朝」(朝比奈備中守泰朝)・「金遊芳線」(朝比奈金遊芳線)・「朝下親孝」(朝比奈下総守親孝)から「大左」(大沢左衛門佐基胤)・「中彦」(中安彦次郎種豊)への返書「朝比奈泰朝等連署状」は、「今迄之御忠節無比類被思召候」(今までの忠節は、比類なきものであった)というものでした。
急度預御飛脚候。其趣則披露申候。仍只今迄之御忠節無比類被思召候。然者其地扱之儀申候哉。此上之儀者、何様ニも時宜可然様落著尤被思召候。自当地御差図之儀者、御分別不行之旨候間、是非不申入候。猶、以御忠節之儀者、無是非次第候。恐々謹言。
卯月十一日
朝備
泰朝(花押)
金遊
芳線(花押)
朝下
親孝(花押)
大左
中彦
参御報
大沢基胤が徳川家康に降伏することを決めると、德川家康は、大沢基胤の首を落とさず、家臣とし、次の起請文に血判を押して、大沢基胤に与えました。(以後、大沢基胤は、徳川家臣として、「長篠の戦い」や「小牧・長久手の戦い」などに参戦し、江戸時代、大沢家は高家になりました。)
敬白起請文之事
一 当城居成之事。
一 諸事抜公事有間敷事。
一 本知何も如前々。為新居替地、呉松相違有間敷事。
一 当知行分諸不入、当城下諸成敗、山海共、可為如前之事。
一 於万事虚説等於有之者、訴人を為先可遂糺明事。
右条々於偽者、
上者、梵天、帝釈、四大天王、惣而日本国中大小神祇、別而者、弓矢八幡、麻利支天、富士、白山、愛宕山、秋葉、天満大自在天神蒙御罰、於今生者、弓矢冥加尽、得黒白病。来世ニ而者、可堕在無間者也。仍起請文如件。
永禄拾弐年己巳四月十二日 家康(御居御判、御血付)
大沢左衛門佐殿
中安兵部少輔殿
権太織部佐殿
※同年同月同日、同文で、酒井左衛門尉忠次と石川伯耆守数正連署の起請文と、同年同月同日、異文で、渡辺図書助盛(徳川方の使者)の起請文も出されている。
大沢基胤に与えられた領知は、次の場所です。
今度宛行本知行、領家方三ヶ分事
一 崎村櫛 一 和田
一 無木 一 上田
一 石丸参ヶ壱 一 呉松之内
一 和地之内 一 伊佐地
一 佐浜 一 内山
一 尾奈郷米銭員数有之
右、如前々諸役不入幷棟別、寺庵方、山浦、野、村切起等増分雖為出来、永不可有相違。殊為城従前々。大沢、中安両人相踏候間、以其由緒、向後も申付畢。守此旨、弥可抽忠節者也。仍如件。
拾弐己巳年 四月十二日 家康(御居判)
大沢左衛門佐殿
「気賀」が入っていません。
『菅沼家譜』に、
「石川伯耆守弟半三郎、剛毅勇士ナレハ、此所ヲ令領知玉フ。多誅百姓云々」(石川数正の弟・石川半三郎を気賀の領主とした。彼は多くの農民を誅殺した。)
とあります。
「堀川城の戦い」の後、気賀は、石川半三郎(石川氏系図によれば、弟ではなく三男)に与えられたそうですけど、遠江侵攻に際しての井伊谷三人衆への血判状(宛行状)には、気賀は井伊谷三人衆に与えるとあったよ!? 徳川家康は、天罰受けるよ!?
ドラマでは、酒井忠次が、「大沢基胤がようやく降伏して参りましたが、本領の堀江は安堵と、気賀は近藤康用に任すという形でよろしゅうございますか?」と徳川家康に確認してます。このドラマ、史実と違うことが多いけど、史実よりも辻褄が合っています。
「事実は小説よりも奇なり」(Truth is stranger than fiction.)ということでしょうか。
著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。
主要キャラの史実解説&キャスト!
①井伊直虎(柴咲コウさん)
②井伊直盛(杉本哲太さん)
③新野千賀(財前直見さん)
④井伊直平(前田吟さん)
⑤南渓和尚(小林薫さん)
⑥井伊直親(三浦春馬さん)
⑦小野政次(高橋一生さん)
⑧しの(貫地谷しほりさん)
⑨瀬戸方久(ムロツヨシさん)
⑩井伊直満(宇梶剛士さん)
⑪小野政直(吹越満さん)
⑫新野左馬助(苅谷俊介さん)
⑬奥山朝利(でんでんさん)
⑭中野直由(筧利夫さん)
⑮龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
⑯今川義元(春風亭昇太さん)
⑰今川氏真(尾上松也さん)
◆織田信長(市川海老蔵さん)
⑱寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
⑲竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
⑳築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
㉑井伊直政(菅田将暉さん)
㉒傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
㉓昊天宗建(小松和重さん)
㉔佐名と関口親永(花總まりさん)
㉕高瀬姫(高橋ひかるさん)
㉖松下常慶(和田正人さん)
㉗松下清景
㉘今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源