──お家が再興できるかもしれませんぜ。(by モグラ)
龍雲丸の正体が、次第に明らかになってきた。
どこかの城主の若君で、落城時に逃げ、盗賊になったらしい。
ところで、私の正体を、編集長は「浜松在住の歴史研究家」と言っておられますが、自身のブログでは、「時代小説家志望のライター」と自称しています。「時代小説家志望」と名乗るからには、時代小説家の真似事もしていて、「おんな城主 直 虎」のスピンオフも書き始めてみました。
①『黒衣の尼僧』:次郎法師が、昼は龍潭寺で悪事の情報収集に努め、夜は黒衣+黒頭巾+般若の面で、傑山・昊天を従えて、井伊谷を害する悪を絶つという話。夜に悪人宅へ押し入って、悪事を指摘すると、「お前は誰だ?」と悪人が言うので、般若の面を取ると、「ご領主様でしたか。次郎法師様~。はは~」と土下座するものの、「ばれたからには仕方がない」と襲ってくるので、傑山・昊天に「成敗!」と命じる。誅殺後に、お経を唱えながら去っていく。
②『井伊の尼小僧』:松岡城が武田に下った時、城主の子の1人が、城を抜け出した。逃亡先のあてはないが、共に学問を学び、剣を習った亀之丞が話していた井伊谷や婚約者・おとわの事が気になっていたので、井伊谷へ。そこで会ったのは1人の尼形の僧「尼小僧」であった、という龍雲丸視点の井伊直虎物語。
①については、傑山は南渓和尚と、昊天は虎松と同じ世代であるようなので、断念。②については、龍雲丸の正体が松岡氏ではなさそうなので、断念。時代小説(スピンオフ)を書くなら、「市田郷時代の井伊直親の話」とか、「龍雲丸の活躍の話」がいいかな。
──「侍に」という話を安々と蹴る事が出来るのは、あの者達が何にも頼らず生きていけるからであろろう。一人ひとりの身の内に生きる術を持っておれば、好きなように生きていけるのではないかの?(by 井伊直虎)
龍雲党が武士にならなくても生きていけるのは、手に職を持っているからだと井伊直虎は言う。私も「ペン1本あれば、どこに住んでも生きられる時代小説家になりたい」とは思うが、龍雲党が生きられるのは「仲間がいるから」であり、時代小説家が生きられるのは「ファン(本の購入者)がいるから」であって、手に職をつけても、一人で生きるのは難しいと思う。人に囲まれて、はじめてヒトは人間として生きられるものである。
第24話 「さよならだけが人生か?」 あらすじ
「勧酒」(作:于武陵/訳:井伏鱒二)
勧君金屈巵 コノサカヅキヲ受ケテクレ
満酌不須辞 ドウゾナミナミツガシテオクレ
花発多風雨 ハナニアラシノタトヘモアルゾ
人生足別離 「サヨナラ」ダケガ人生ダ
※「人生足別離」:人生、別離足る。人生、別れの数は足りている、不足していない。人生に別れはつきものである。
──出会いと別れを繰り返し、人は大人になっていく。
龍雲丸との別れで、井伊直虎が学んだことは何か?
第一に、風来坊と領主という立場の違いであろう。この別れを経験して、井伊直虎は、「領主」という立場を再確認し、大人に、いや、精神的にも領主になった。(井伊直親との別れを経験して、形だけは領主・井伊直虎になったが、精神的にはまだ子供・おとわであった。)
井伊直虎の成長は、周囲の人間にとって、頼もしいはずである。しかし、南渓和尚は、
──もう、おとわはおらぬのじゃの。(by 南渓和尚)
と寂しそうである。「大人になる」とは、「子供の自分を消し去ること」なのであろう。
井伊直虎が龍雲丸と別れ、精神的にも領主(城主)になって気づいた第二は、「人は城、人は石垣、人は堀」(by 武田信玄)ということであろう。
──我は果報者じゃ。あの者達のように思うがままには生きられぬが、井伊のためにその身を捧げてくれる者に囲まれておる。もっと心せねばならぬの。(by 井伊直虎)
──驚きにございます。今までお分かりでなかったとは。(by 小野政次)
私的には、井伊直虎が小野政次の恋心に気づいていないのが「驚きにございます」。井伊直虎は、いつも小野政次に、「井伊の事を一番思っているのはそなた」と言ってるけど、「私(井伊直虎)の事を一番思っているのはそなた」であることに早く気付け。そうすれば、小野政次は救われ、皮肉っぽい言い方もしなくなるであろう。
さて、井伊直虎の領主ぶりは、駿府でも話題になっているようで、出た杭を打つために、今川氏がうった手は、今川氏との関係を強めるための「婚姻」であった。
《新野左馬助親矩(苅谷俊介さん)の三人娘》
・長女:あやめ(光浦靖子さん)
・次女:桔梗(吉倉あおいさん)
・三女:桜(真凛さん)
今川氏真の要請は、今川家家臣・庵原助右衛門朝昌(後に彦根藩次席家老)と桜(新野親矩の三女)との婚姻であった。桜は井伊家の人間ではなく、今川庶子家の新野家の人間であるから、この政略結婚は、「井伊家が今川家から離れないように」というよりも、「(重臣の庵原家が今川家から離れたら、今川家はガタガタなので)庵原家が今川家から離れないように」という意味が強いと思われるが、庵原朝昌は気づいていないようだ。
そもそも今川氏は、井伊家を潰して、井伊領を小野政次に渡したいのである。「三遠国境」という井伊領の位置を重視しているのであって、井伊家は人がいない「死に体」であり、宗主は女であるから、いつでも潰せる気でいる。もし、井伊家を重視しているのであれば、「虎松を人質に出すように」と要求すると思われる。(桜ではなく、しのとの婚姻を望めば、虎松も付いてくる?)
井伊直虎が打った手は、桜(新野親矩の三女)と庵原朝昌との婚姻の承認と、桔梗(新野親矩の次女)と北条家家臣・狩野主膳照宗との婚姻であった。この北条氏との婚姻は、領主らしい、小野政次ですら思いつかない名案だと思う。(小野政次は「なかなか宜しきお考えかと」と高く評価したが、碁をうっているのであるから、碁にかけて「なかなか宜しき手かと」と言って欲しかった。)
さて、今日(2017/06/18)は父の日であるが、井伊直虎の父・井伊直盛は既にいない。祐椿尼が思い出を語るシーンはあったが。
そして前回(第23話)、龍雲丸が去り、今回(第24話)、乳母のたけが去り、桜が嫁に行き、桔梗の嫁ぎ先も決まりと、「サヨナラ」ダケガ人生のように思われるが、本当に「さよならだけが人生か?」。私には、井伊直虎体制の次の井伊直政体制の基盤が着々と築かれているように見えた。
(つづく)
今回の言葉 「敵に塩を送る」
【解説】 永禄11年(1568)、武田信玄は今川・北条氏との「甲相駿三国同盟」を破棄した。怒った今川氏真は、武田領内への太平洋産の塩の販売を塩商人に中止させた。いわゆる「塩留(しおどめ)」である。(今川氏と同盟関係にあった北条氏による塩留も行われたはずであるが、それを示す史料はない。)
武田領=甲斐&信濃国(現在の長野&山梨県)は、海に面していなかったため、塩の生産は出来ず、塩がないと食物の保存が出来ないので領民は苦しんだ。
この武田信玄の窮地を救ったのが、「義」を重んじる上杉謙信で、「戦は弓矢をもってするべきもの。塩留して領民を苦しめること でするものではない」として日本海産の塩を送り、武田 信玄とその領民を助けた。
このことから、「敵対関係にある相手でも、相手が苦しい立場にある時には助けてあげること」を「敵に塩を送る」と表現するようになり、頼山陽がこの行動を高く評価したことから、「美談」として広 く知られるようになっ た。
上杉領(新潟県糸魚川市)と武田領(長野県松本市)を結ぶ「塩の道・千国街道」を通って「義塩」が糸魚川から松本に運び込まれたのは1月11日とされ、松本では、この1月11日に「塩市」(現在は飴市) が立つようになり、1月 11日は「塩の日」に制定された。
■「1月11日 塩の日」(総務省統計局)
【史実】 永禄9年(1566)に入り、龍雲党の伐採作業(3ヶ月契約)が終わったので、今(第24話)は永禄9年4月なのかと思ったら、「永禄10年」と表示された。塩留は、史実では永禄11年前半~永禄12年1月とのことだと思っていたが、永禄10年説があるという。永禄10年6月25日、今川氏真は、21日夜、甲州向けの塩商人(密輸業者)を討取った相模国の秦野城主・大藤氏(北条家家臣)に感状を出しているので、今川家と北条家は共同歩調で永禄10年に塩留を行ったのだという。永禄10年は、今川氏真が30歳になった年であり、「何かアクションを起こさねば」と一念発起して、塩留などを行ったのか?
また、上杉謙信は、塩を無償で送ったのではなく、塩商人を送り込み、日本海産の塩を高額で売って儲けたという。上杉謙信には商才もあったのである。
気賀で扱っていたのは、吉良などの三河塩であったので、その気になれば、(今川家は吉良家の分家ではあるが、)今川氏にばれずに武田氏に塩を売れたと思われる。
井伊直虎「で、そなたもひと儲けしたという訳か?」
瀬戸方久「私はもはや、井伊の家臣でもあります。お家に迷惑をかける左様な、左様な事は…」
奥山六左衛門「やっておりますな」
吉良(饗庭郷)の塩は、苦汁(にがり)分が少なく、「饗庭塩(あいばじお)」として有名で、将軍家御用達の塩であり、岡崎の八丁味噌などにも使われた。また、足助に運ばれてブレンドされ、「足助塩」として信州各地で売られていた。
※「忠臣蔵」(元禄14年(1701)3月14日、江戸城内「松の廊下」で、赤穂藩主・浅野内匠頭長矩が、高家旗本・吉良上野介義央に斬りつけたので、浅野長矩は切腹させられ、赤穂藩はお取り潰しになった。一方、吉良義央は無罪であったので、元赤穂藩家老・大石内蔵助ら47人の赤穂浪士は、これを不服とし、元禄15年(1702)12月14日、吉良邸に討ち入り、吉良義央を討取って主君の仇討を果たしたという話)の発端は、塩戦争にあったという。
吉良の饗庭塩は良質で、徳川家や江戸の高級料亭などで使われていた。徳川家康自身は吉良の饗庭塩を使ったが、江戸庶民用の塩の需要に応えるため、狩野重光の働きかけもあり、行徳(ぎょうとく)の塩田を拡張させて供給させた。この結果、「行徳」が塩を指す隠語になるほど、行徳塩は普及した。行徳塩など関東の塩を扱う塩問屋を「地廻り塩問屋」と言う。
江戸の人口が増加すると塩が不足し、十州塩田など西国からの塩を扱う「下り塩問屋」が誕生した。「十州塩」(播磨、備前、備中、備後、安芸、周防、長門、阿波、讃岐、伊予国産の塩)のうち、播磨赤穂の塩が上物とされ、徳川五代将軍綱吉に献上されるに及んで江戸でも有名なブランド塩となった。そして、赤穂塩は、吉良の饗庭塩と競合して対立し、それが松の廊下の事件に繋がったという。
※行徳(Wikipedia):行徳(ぎょうとく)は千葉県市川市の南部、江戸川放水路以南の地域名である。昭和中期までは市川市南部に加えて浦安市の元町地区(当代島・北栄・猫実・堀江・富士見)と船橋市沿岸部及び東京都江戸川区東篠崎を指す本行徳を中心とした広域地名でもあった。現在では、一般的に旧東葛飾郡行徳町の江戸川放水路以南、旧南行徳町の全域を指して使われる。江戸時代には行徳塩田が設置され、水上交通の要所でもあった。
※行徳塩田(『日本史広辞典』山川出版社):江戸川河口の幕領である下総国行徳領(現、千葉県市川市)を中心に展開した塩田。江戸近郊という立地条件にも恵まれ、近世・近代を通じて、江戸内湾最大の塩田として知られる。津波・地震などによる塩浜の破損時には幕府の普請が行われた。行徳塩は、江戸川・利根川を通じて北関東へ送られただけでなく、江戸の地廻塩問屋へも送られた。また、御用塩として、穀物を精製する江戸城御春屋(おつきや)へも送られた。一九〇三年(明治三六)の行徳町の塩田面積・生産高は、一〇〇町歩・三万八〇〇〇石。
吉良の問屋といえば、第16話の直虎紀行に登場した糟谷縫右衛門である。現地案内板に「糟谷家は代々縫右衛門を名乗り、当地きっての大地主として、三河木綿問屋、金融業、肥料・日用雑貨の卸小売などで財をなした豪農豪商である」とある。
糟谷縫右衛門は基本的には木綿問屋で、綿花栽培に必要な肥料である「干鰯(ほしか)」の販売もしていたが、塩は扱っていない。(江戸時代には塩を扱っていなかったが、明治38年(1905)の専売制の導入時に吉田塩業株式会社が設立されると、糟谷縫右衛門が初代社長に就任した。)塩問屋は、吉良屋判治家、大岡屋鈴木家、颯田甚平などであった。
※吉良では、海(三河湾)を埋め立てては、「塩田」ではなく「新田」としたことからも分かるように、赤穂や行徳のように、大規模な塩の製造は行なわれておらず、昭和47年(1972)発行の『赤穂義士事典』で提唱され、1982年NHK大河ドラマ『峠の群像』で採用されて広く知れ渡った「忠臣蔵塩田原因説」には、生産量の比較からは、疑問を呈さざるを得ない。しかし、伝統を重んじる高家の吉良家にとっては、徳川将軍が使う塩が、饗庭塩から赤穂塩に代わることは、生産量の大小に関わらす、耐え難い屈辱であったに違いない。
キーワード:井伊家家臣団
井伊直政は、身一つで徳川家康に仕官しましたので、領地も家臣も徳川家康から与えられました。井伊直政は、与えられた家臣のトップと姉(高瀬)や、幼少期に家族のように過ごした新野親矩の娘(桔梗・桜)を結婚させ、新たな親族、新たな「井伊家」を創造しました。
井伊直政が出世すると、武田軍の井伊谷蹂躙で離散した遠江井伊氏の家臣たちが次々と集まってきたので、徳川家康から与えられた家臣と井伊谷譜代の2つの家臣団が出来ました。
井伊直政の死後、家督を継いだ井伊直継は、この2つの家臣団をまとめられず、徳川家康が直々に井伊直継を「病弱」として廃嫡し、井伊直孝に家督を譲らせたことにより、井伊家は与板井伊氏と彦根井伊氏の2つに分裂しました。
■与板井伊氏:新潟県長岡市
・宗主:井伊直継(後に直勝。井伊直政の長男)の子孫
・当主:井伊達夫(井伊修の娘婿(婿養子)。旧姓:中村)
・家老:松下、小野、中野など
・家臣:井伊谷譜代
■彦根井伊氏(近江井伊氏):滋賀県彦根市
・宗主:井伊直孝(井伊直政の次男)の子孫
・当主:井伊直岳(井伊直豪の娘婿(婿養子)。旧姓:羽中田)
・家老:木俣、庵原、川手など
・筆頭家老・木俣守勝の妻:新野親矩の娘(ドラマでは桔梗)
・次席家老・庵原朝昌の妻:新野親矩の娘(ドラマでは桜)
・川手良則の妻:井伊直親の娘・高瀬 ※無嫡で絶家
・家臣:徳川家康から与えられた家臣(徳川家康の直臣、武田遺臣、北条遺臣、今川遺臣)
※2人の当主(現在の宗主)は、両家共に婿養子である。父系(父親が井伊家嫡流)が望ましいが、嫡男がいない場合は、母系(母親が井伊家嫡流)で絶家を避けるのである。戦国時代でも、井伊直親(傍流)を次郎法師(嫡流の娘)の婿養子にして井伊家を母系で継がせようとしたが、失敗し、井伊直親(傍流)を井伊直盛(嫡流)の養子にして井伊家を継がせた。
井伊直親の誅殺後、井伊直親の子・井伊直政が成長するまで、井伊直虎が中継ぎしようとしたが失敗し、事実上、井伊家は絶家、家臣も散り散りになったが、徳川家康が松下虎松を「井伊万千代直政」として井伊家を継がせ、井伊家を再興した。
──あの・・・井伊は、井伊の事は、どうぞお忘れございませぬよう。(by 築山殿)
正室のこの言葉が効いたのかな。
キーワード:庵原氏
「庵原川流域は古代には廬原(いほはら)の国と呼ばれ、その政治的中心となったのが、庵原古墳群の立地する丘陵に囲まれたこの平野であります。
当社は人皇第十二代景行天皇の時代(西暦一一〇年、約一八八四年前)に詔勅により皇子日本武尊が東征の途中この地に本宮を設けたとされる旧蹟の地にあります。
創立年代は古くして不詳ですが、東征の副将軍として活躍した、吉備武彦命が後に其の功績により廬原の国を賜り、尊の縁り深いこの地に社殿を造営し日本武尊を祀ったのが創祀とされ、其の後お供として東征に随行した姫、弟橘媛命を初め諸神を合したものと考えられております。」(久佐奈岐神社由緒書)
庵原氏は、庵原国造の末裔だそうです。庵原国造については、『先代旧事本紀』「国造本紀」に「盧原國造、志賀高穴穗朝代、以池田坂井君祖吉備武彥命兒、意加部彥命、定賜國造」(庵原国造は、成務天皇の御代に、池田・坂井君の祖である吉備武彦命の子の意加部彦命(おかべひこのみこと)を以って、国造に定め賜う)とあります。
※成務天皇は、「山河を隔にして国県を分かち」(山脈や大河を国境と定め)、有力豪族を「国造」に任命した。この時の国の数は約130で、静岡県中部・東部・伊豆地方には庵原・珠流河・伊豆国があったが、大化の改新により、国(令制国、律令国)の数は半減して68ヶ国(66国2島)となり、庵原・珠流河・伊豆の3ヶ国は、「駿河国」(国府は沼津市)としてまとめられた。(その後、天武天皇の御代、伊豆国が分離し、駿河国の国府が沼津市では東に寄り過ぎだとして駿府(静岡市)に移された。)
このように、庵原氏は、吉備武彦(日本武尊の東征時の副将軍)の子の後裔で、古代から戦国時代に至るまで、長きに渡って庵原国(後に庵原郡)を支配したということですが、一般的には、庵原氏は、近藤氏同様、藤原秀郷流で、藤原秀郷の後裔・蒲生惟俊(近江蒲生氏の祖)の子・俊忠が駿河国庵原に住み、庵原氏を称したのが始りとされています。ドラマでも、井伊直虎が、
「今川の重臣も重臣。しかも、藤原の流れをくむ名門じゃ」
と言っています。
戦国時代の庵原氏は、庵原城(久佐奈岐神社の南。静岡県静岡市清水区庵原町草ヶ谷城山)を居城、庵原館(久佐奈岐神社の南西。静岡県静岡市清水区庵原町字御屋敷)を居館とし、今川氏に仕えました。庵原氏の中では、今川義元の軍師・太原雪斎(父は庵原城主・庵原政盛、母は興津横山城主・興津正信の娘)が有名です。
庵原氏は、武田信玄の駿河進攻に際し、抵抗したものの敗退し、一族は離散しました。新野桜の夫・庵原朝昌(いはら ともまさ。弘治2年(1556)- 寛永17年(1640))は、武田信玄に 仕え、武田氏が滅亡すると、羽柴秀吉家臣の戸田勝隆に仕え、さらに津田信成の仲介で井伊直政に仕えますが出奔して水野勝成に仕えましたが、水野勝成(松平忠吉とも)の仲介で再び井伊直政の家臣として帰参すると、「大坂夏の陣」の「若江の戦い」において、敵将・木村重成を討取る功績をあげて4000石となり、子孫は5000石で、彦根藩次席家老となりました。
──忠義を貫く事こそが、生き延びる道であるからにございます。(by 庵原朝昌)
今川家を「泥舟」にたとえて、「どうか、井伊様には泥舟から逃げ出す事ばかりではなく、泥舟を今一度堅い舟にする事もお考えいただけませぬでしょうか?」とか、徳川家康に忠誠を尽くした井伊直政の言葉ならともかく、主君をコロコロと変えた人に言われたくはありませんが、「どの主君に対しても忠義を示した」(その時、その時で真剣だった)ということにしておきましょう。(話は変わりますが、井伊直親は、複数の女性と関係する「すけこまし」でした。相手の女性が井伊直虎のイミテーション・ゴールドであったにせよ、どの女性とも遊び半分のプレイボーイではなく、一人ひとりを真剣に愛したドンファンだったようです。)
庵原朝昌の生き方を援護すれば、今川義元の場合、桶狭間で討たれたので、井伊直盛のような忠臣は殉死できたのですが、今川氏真の場合、駿府で討死しなかったので、忠臣は殉死のチャンスを失い、主君を変えながら生きながらえる事になってしまったようです。
また、『史記』の「忠臣不事二君」(忠臣は二君に事(つか)えず。一度仕えた主君には一生忠節を尽くすのが武士)は、平和な江戸時代「Pax Tokugawana」(パックス・トクガワーナ)の美学であ り、戦国時代には「武士たるもの、七度主君を変えねば武士とは言えぬ」(by 藤堂高虎)であって、主君を変えてでも、「生き残る事」「家を絶やさぬ事」が最優先されたようです。結婚前には「今川に忠誠を尽くす。井伊様もそのように」と青臭いことを言い放った庵原朝昌も、結婚して妻子という守る者が出来て、「ここで死ぬわけにはいかぬ。主君を変えてでも」と考え方が変わったのでしょう。
キーワード:狩野氏
狩野氏は、藤原南家(工藤氏流)の氏族で、本貫地は、工藤氏が拠点としていた伊豆国の狩野荘(現在の静岡県伊豆市本柿木)であり、工藤氏や伊東氏と同族です。
鎌倉時代は御家人で、「狩野介」として、井伊氏(井伊介)と共に「日本八介」のメンバーでした。居城(狩野城)は伊勢新九郎(後の北条早雲)に奪われ、小田原へ移封となり、「狩野殿小路」(神奈川県小田原市南町2丁目)に住したようです。
北条氏照の奉行人・祐筆である狩野飛騨守(一庵、泰光、宗円、大膳亮)は、北条氏康の代から仕え、「康」の一字をいただいて、「狩野康光(康満)」と名乗りました。天正18年(1590)の小田原征伐の際、八王子城で討死し、正室は殉死(八王子城での戦死者の名簿に「一庵主月山宗円法眼 同 内 妙性大姉」とある)しましたが、子の狩野主膳(源七郎)照宗(新野桔梗の夫。「照」は北条氏照の「照」)は、徳川家康に仕え、「関ヶ原の戦い」で討死したようです。(新野桔梗は、狩野照宗の死後、木俣守勝と再婚しました。)
さて、狩野新右衛門重光(浄天)開基の西光山源心寺(千葉県市川市香取)の「狩野家歴代墓所」に建てられた石碑には、狩野新右衛門重光(浄天)について、次のように彫られています。
狩野新右衛門重光
源心寺建立主なり、故に法号を源正院心譽安楽浄天禪定門と称す
天正十八年庚寅年 三月二十五日下総国行徳欠真間に来住す、徳川の治世下諸州に於いて道路や水路を闢きたり、当地に於いても元和六庚申年田中内匠と倶に鎌ヶ谷道野辺囃水池より浦安当代島に到る灌漑用水を開鑿し耕地を拡大す、後世の人この用水を浄天堀と呼びたり、また「塩浜定免永の事」「塩浜普請の事」「村々耕地圦樋開設の事」などを公儀に願い出て粉骨砕身し便利にせしものなりという寛永六己巳年三月十五日没せり、祖先は藤原南家爲憲を始祖とし駿河守維永より代々伊豆狩野庄を領して狩野介を称す、重光が父は狩野主善茂春北条氏照公の侍大将にして主善茂豊が嫡男なり、天正十八庚寅年氏照公に従い相模国小田原城に籠りて豊臣秀吉の軍勢と戦いしが城開城後蟄居す、しかれど慶長五庚子年関ヶ原の役において東軍加賀前田公の陣を借り二番槍の誉を得たり、茂春が弟六郎茂爲は上総国一松に来住す、重光が祖父は狩野主善茂豊なり、入道して一庵主月宗圓法眼を号す、北条氏の侍大将にして天正十八年庚寅年六月二十三日中山勘解由家範、近藤出羽介助実、金子三郎右衛門家重らと武蔵国八王子城を守り豊臣方加賀前田利家公、越後上杉景勝公五万余騎の軍勢と奮戦し討死す、行年五十八才なり、祖母妙性正譽浄心大姉も殉じたり、この地は狩野家歴代の墓地なり、このたび地盤沈下のため墓石のみを嵩上す、また大正十二年関東大震災により墓石が倒壊したため、狩野廣吉により行徳狩野重光より十三代目左善直方以降の墓石をこの歴代墓地より源心寺墓地中央部に遺骨ごと移設す、昭和六十一年四月四日
千葉県市川市欠真間一丁目八百八番地狩野茂七十一才
まとめると、
狩野主善茂豊(一庵宗圓)─茂春─重光
であり、狩野重光(茂春の弟)は、豊臣秀吉の小田原征伐があった天正18年(1590)に行徳の欠真間(かけまま)に来住し、用水路を掘って耕地を拡大すると共に、江戸幕府(徳川家康)に塩田の拡張工事を申し出たという。そして、増上寺(徳川家の菩提寺)を芝に移して中興した慈昌(観智国師)を開山として、源心寺を開基した、となります。
狩野一庵宗円─狩野主膳照宗─木俣守安
とはいえ、重光(浄天)は、狩野一庵宗円の孫ではなく、子(狩野主膳照宗の弟)だと思われます。狩野主膳照宗の死後、桔梗は、狩野主膳照宗の子(後の木俣守安)を伴って井伊家筆頭家老・木俣守勝と再婚しました。つまり、木俣家が狩野家の嫡流の家であり、狩野家とは狩野家の傍流の家(狩野主膳照宗の弟の子孫)だと思われます。
※井伊直虎男性説:井伊直虎男性説論者が、その根拠としている本は、『守安公書記』(全12冊)のうちの『雑秘説写記』です。この本は、木俣守安が母(桔梗)などから聞いた話を、後裔の木俣守貞が享保20年(1735)に書き留めた門外不出の覚書だそうです。
「井伊直虎男性説」とは、「井伊直虎=関口氏経の息子(男性)」であって、「井伊直盛の娘(次郎法師)」とは別人とする「井伊直虎(男)・次郎法師(女)別人説」のことでしたが、黒田基樹氏は、「次郎法師は関口氏経の息子であり、元服して井伊直盛の娘と結婚し、井伊直虎と名乗った」という「井伊直虎・次郎法師同一人物男性説」を提唱されました。
井伊氏家系図の「直盛」につられた「次郎法師」は、「井伊直盛の婿養子(今川庶子家の関口氏の息子)で、後の井伊直虎」の事なのだそうですが、これでは「井伊家は今川家(関口家)に乗っ取られた」という黒歴史が判明してしまうので、江戸時代になって「次郎法師は井伊直盛の娘」と変えたのだそうです。その井伊直虎(関口氏)は、花沢合戦で討たれ、井伊家(宗家)は絶家になりましたが、松下家の養子になっていた松下虎松が井伊直政と名乗っで井伊家を再興したのだそうです。(松下虎松の正体については、通説では「井伊直親の子」となっていますが、鈴木家に伝わる秘伝書には「徳川家康の御落胤」とあります。御落胤であれば、スピード出世も当然ですね。)
「新野左馬之助家系図」(彦根龍潭寺蔵)の「甚五郎」(新野親矩の一人息子)の項に「北条家ニ属シテ小田原篭城節戦死ス」とあります。
小田原城を攻めたのは井伊直政くらいですから、新野甚五郎を討ち取ったのは、井伊隊でしょうか? いずれにせよ、新野家は嫡子が討死して、絶家となっていたので、井伊直弼(井伊直中の十四男)は、井伊直中の十男を新野親矩の血を引く木俣守易の養子とした後、「新野親良」と名乗らせて、「新野」の名跡を再興しました。
東京都八王子市の新野与五右衛門家の家系図では、新野親矩の息子の名を「甚五郎」(じんごろう)ではなく、「五郎道氏」(ごろうみちうじ)とし、今川家家臣であったが、武田軍に攻められ、今川氏真に従って掛川城、さらには、小田原に逃げて北条家家臣となったとしています。
※駿河今川家の始祖・今川範国は、今川基氏の五男であったので、今川宗家は「五郎」「彦五郎」を通称とした。今川庶子家の新野家が「五郎」を名乗るのは恐れ多いので、新野道氏の通称は「五郎」ではなく、「甚五郎」、あるいは、「新五郎」であると思われるが、八王子城での戦死者の名簿には、「新野五郎 盛誉道源信士」とある。
新野道氏(新野親矩の嫡男)が北条家家臣となっていたので、桔梗(新野親矩の娘)と北条家家臣の縁談がスムースに進んだと思ったのですが、この第24話の時点では、新野道氏は、まだ北条家家臣ではないようです。また、新野道氏は、小田原城ではなく、八王子城で討死しましたが、この時、一子・荒五郎が逃げ延びて、八王子市の新野与五右衛門家になったそうです。
※絶家したと思って再興した新野家のご子孫は大阪府高槻市に、絶家したと思われていた新野家のご子孫は東京都八王子市に住んでおられるとのことです。
さて、婚姻と言えば、徳川家康の長男・信康と織田信長の娘・徳姫(五徳、岡崎殿)との婚姻も取り上げられました。
築山殿(瀬名姫。徳川家康の正室で、信康の母)の実母は、今川義元にレイプされ、妊娠したので、家臣の関口親永に下賜されたとする説があります。このため、築山殿は、実父・今川義元を殺した織田信長を憎んでいたようで、今回、惣持尼寺にいて、岡崎城で織田信長に会わなくてよかったなとほっとしています。会っていたら、短刀を抜いて襲ってそうです。
その宿敵・織田信長と夫・徳川家康が「清洲同盟」を結んだことで生じた夫・徳川家康と築山殿の間の亀裂は、築山殿が愛する息子・信康と織田信長の娘・徳姫との婚姻により、さらに大きく広がったようです。
ただし、ドラマでは、築山殿の執念を「打倒!織田信長」ではなく、母・佐名との誓い「今川家を乗っ取ること」だとしています。
著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。
主要キャラの史実解説&キャスト!
①井伊直虎(柴咲コウさん)
②井伊直盛(杉本哲太さん)
③新野千賀(財前直見さん)
④井伊直平(前田吟さん)
⑤南渓和尚(小林薫さん)
⑥井伊直親(三浦春馬さん)
⑦小野政次(高橋一生さん)
⑧しの(貫地谷しほりさん)
⑨瀬戸方久(ムロツヨシさん)
⑩井伊直満(宇梶剛士さん)
⑪小野政直(吹越満さん)
⑫新野左馬助(苅谷俊介さん)
⑬奥山朝利(でんでんさん)
⑭中野直由(筧利夫さん)
⑮龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
⑯今川義元(春風亭昇太さん)
⑰今川氏真(尾上松也さん)
◆織田信長(市川海老蔵さん)
⑱寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
⑲竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
⑳築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
㉑井伊直政(菅田将暉さん)
㉒傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
㉓昊天宗建(小松和重さん)
㉔佐名と関口親永(花總まりさん)
㉕高瀬姫(高橋ひかるさん)
㉖松下常慶(和田正人さん)
㉗松下清景
㉘今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源