井伊直虎が領主になるまでに、井伊直盛が桶狭間の戦い、井伊直平が杜山城攻め、中野直由が引馬城攻めで亡くなっています。
戦いで亡くなったのは、1人の武将だけではなく、多くの家臣や兵士(農民)も亡くなっているので働き盛りの男性が減り、井伊領内の田畑が荒れてしまいました。
井伊直虎が領主となって、瀬戸方久を家臣としました。彼は、荒野(荒れた田畑)で綿花を栽培しようとしますが、人手不足で出来ません。そこで、「三年荒野」(荒野を耕せば、三年間年貢免除)という政策を打ち出し、広め(茶屋での踊りは、尾張や三河の「万歳」(太夫と小鼓を持つ才蔵の2人1組の祝福芸)がヒントか?)、人手の確保に成功しました。
井伊直虎が領主となるまでは減り続けていた人口が、井伊直虎が領主となって、その人柄や善政(「民を潤すこと」を重視する領民ファーストの政治)を始めた事により、上昇に転じ始めたのです。
しかし、時は疾風怒濤の戦国時代です。突然、戦争が始まって、また多くの領民を失うことになりかねません。
戦争で死なないためには、長い槍や弓のような飛び道具を使って、遠くから攻撃すればいいです。
ただし、長い槍も、弓も、使うには腕力が必要で、使っているうちに腕が疲れてきます。その点、鉄砲は非力な者にも扱える武器なのですが、買うとなると、高い (☆。☆)
第17話 「消えた種子島」 あらすじ
中野直之が、瀬戸方久の「種子島」(火縄銃)を井伊氏居館(井伊谷城)に持ち込み、井伊直虎に見せた。
《火縄銃の使い方》
「巣口(すぐち)から玉薬(たまぐすり)と弾(たま)を込め、火皿に口薬(くちぐすり)を詰め、一旦、火蓋を閉じます。火縄を火挟(ひばさみ)に挟み、火蓋を切り、的に向こうて狙いを定め、(引き金を引く)」(by 中野直之)
井伊直虎は、「欲しい」とは、思ったものの、1挺10貫(現在の500万円?)と聞いて、
──井平で作ることは出来ぬのか?
さらに、口癖(?)の
──やってみねば分からぬではないか。
(現代遠州弁訳「やらまいか」「作らまい」)
と言った。この言葉が出たら、審議終了である。この言葉は、「是非に及ばず、実行せよ」という命令(領主のお下知)と同じ意味を持っている。
頼まれた伊平鍛冶の五平も、
「まぁ、やってみなければ分かりませぬな」
と井伊直虎と同じ事を言った。
──これが浜松人気質である。
医療器具の修理工・山葉寅楠が、浜松尋常小学校(2017年3月に閉校した浜松市立元城小学校)のアメリカ製オルガンの修理を頼まれ、修理を通してその構造を知り、日本初の国産オルガンを製造して、山葉風琴製造所(現在の世界的楽器メーカーYAMAHA)を設立したことを思い出させる。また、当時のアメリカ製オルガンは1台45円もしたが、山葉寅楠は、その価格を聞くと、「自分なら3円で作れる自信がある」と言ったという。ここは五平に、山葉寅楠よろしく、
「これが10貫もするのですか。某には1貫いただければ十分」
と豪語してもらいたかった。
※「いだいら」は、現在は「伊平」と書くが、戦国時代の表記は「井平」である。
それにしても、井伊直虎は瀬戸方久の扱いが上手い。「そなたはまっこと素晴らしいのぉ」と褒め、「やれば儲かる」とお金をちらつかせてやらせてしまう。瀬戸方久にしてもぶつくさ言っても反抗はしない。
ただ、綿花は売れば儲かるだろうが、鉄砲は売れるだろうか。隣国の松平に売れば、今川に「敵に売るとは!」と怒られるし、今川に売ろうとすれば、「上納せよ」と無料で取られそうだ。とはいえ、売らずに井伊で使おうとすれば、小野政次の言うように「今川への反乱の準備」と捉えられる危険性がある。井伊直虎って新米領主は、自領を潤すことしか考えていない。自領の外が見えていたとしても今川くらい。そんなことでは松平や武田に井伊領を取られるぞ。(国衆・井伊は、内政重視でOKで、他国のことは主家・今川が考えればいいのかもだが。)
続・綿花栽培
「肥料の三要素」は、窒素、リン酸、カリウムである。
・窒素:葉や茎の元となる葉緑素となる。
・リン酸:花や果実の生長を促す。
・カリウム:根や茎を丈夫にする。
綿花栽培にはリン酸が必要で、戦国時代からは「干鰯(ほしか)」が使われるようになった。(現在のガーデニング(有機栽培)では「魚粉」が使われる。)ドラマでは干した鰯をすりつぶして20cm程度に育った綿花に撒いていたが、この時期は根を育てる時期であり、普通はもっと綿花の苗が育ってから綿花一本に対して干鰯一匹を土中に差し込んで使う。そもそも綿花栽培が始まると、干鰯が不足し、入手困難であった。泉州(大阪府南西部)、三河(愛知県東部)、遠州(静岡県西部)を「日本三大綿織物産地」というが、なぜ近畿で綿花栽培が盛んだったかといえば、消費量が多かったためであるが、綿花の追肥である干鰯が、紀伊国や和泉国の近海で捕れたことも1つの要因であった。手元の資料には、近畿地方の綿花栽培には干鰯が22万5000石必要だったとある。
虎松
虎松は、後の徳川四天王・井伊直政である。
・酒井忠次(1527年生まれ)
・本多忠勝(1548年生まれ)
・榊原康政(1548年生まれ)
・井伊直政(1561年生まれ)
井伊直政は若い。若いのに他の3人と対等に渡り合えたのは、私は、新野親矩の死後、大人の間で育った(親戚や寺を盥回しにされた)ことによる考えているが、祖山和尚は、『井伊家伝記』において、虎松が井伊谷を離れたのは、小野政次が井伊領を横領した時だと強調しており、ドラマでもこの説を採用している。
亀之丞(藤本哉汰くん)が信州落ちし、10年後に大人(三浦春馬さん)になって帰ってきたように、虎松(鈴木楽くん)が鳳来寺へ逃げ、10年後に大人(菅田将暉さん)になって帰ってくるのかと思ったら、このドラマではそうではなく、井伊谷の虎松(寺田心くん)パートがある。
優しかった亀之丞も虎松も成長して強くなったが、「井伊の赤鬼」こと井伊直政の子はというと、長男・井伊直継(後の直勝)は優しく、次男・井伊直孝は強かった。それで家督は「大坂の陣」で活躍した次男の「井伊の赤牛」こと井伊直孝が継いだ。井伊直孝の跡を継いだのは、強い長男・直滋ではなく、優しい五男・直澄であった。天下太平の世の宗主には、腕力より協調性が求められたのである。(個人的には、優しさと強さを兼ね備えた男性が好きです♥)
個人的には、井伊直政と徳川家康の碁対決が見たい。
井伊直政「碁をしませんか?」
徳川家康「望むところじゃ」
井伊直政「では某から」(と中央に黒石(珠)を置く。)
徳川家康「囲碁じゃないの? 連珠かよぉ~」
史実とドラマ
「井伊直満・直義の誅殺」を、「同じような名前が多くて、視聴者が混乱するから井伊直義は不要」とし、「井伊直満の誅殺」として扱ったことに対し、地元では、「直義様が、かわいそうだ」と反発の声が上がっている。その半面、必要な人は増やされるわけで、今回登場した中野直久(中野直之の弟)は脚本家が考え出した架空の人物である。虎松の相手が小野亥之助だけでは足りないのであろう。
また、架空の人物とされている龍雲丸であるが、「オリジナルキャラ」だと視聴者に思わせておいて、実は実在の人物(多分、あの人)であるとするあっと驚くストーリーが用意されていると私は考えているが、その話はいずれまた。
※井伊直親が井伊谷に帰る時に、「青葉の笛」を氏神社・八幡宮に奉納し、「この手で、これからは笛ではなく、弓を持つ。笛は不要」と言ったそうだが、その「青葉の笛」が虎松の部屋にあったというのはドラマならではだ。井伊直親は、ドラマでは笛の演奏では誰にも負けない名手だった。(史実は、信州落ちしてから本格的に笛を学んだという。)虎松も連珠王になりそうだ。(それにしても、連珠の必勝法について、小野亥之介の父親代わりの小野政次が「先手必勝」と策を教え、井伊虎松の父親代わりの井伊直虎が「蹴鞠も連珠も勝つまで粘る」と根性を教えての代理戦争が面白かった。結果は井伊虎松の負け。根性論の敗北は、戦国時代は「1度の負け=死」であって、こっちが勝つまで何度も相手をしてくれる敵はいないってことの表現なのか)。
(つづく)
今回の言葉 「戦いの火蓋が切られた。」
火縄銃は、あらかじめ火縄に火をつけて火挟に挟んでおき、その火を火皿の火薬(導火薬)に当てて、火薬に火をつけます。美しく言えば、蚊取り線香の火で線香花火に火をつけるイメージです。
火皿に乗せた火薬が風や振動で飛ばないよう、または、誤って火縄と接触して燃えないよう、蓋をしておきます。これが「火蓋」(安全カバー)です。火蓋を開け、引き金を引くと、「カラクリ」によって火縄が火皿に落ちて爆発し、鉄砲玉(弾、鉛玉)が飛びます。
中野直之は、「火蓋」を「切る」と言っていましたが、火蓋は「切る」ものではなく、「開ける」「ずらす」ものです。「切る」は、「戦いの幕が切って落とされた」が頭にあって、「戦いの火蓋が切って落とされた」と言い間違ってしまったのが発端で、広まった言い回しでしょう。間違った言い回しであっても、全員が間違って使うと、それが正しい言い回しになります。
キーワード:鉄砲伝来
(1)火薬の発明
関白太政大臣・九条兼実(1149-1207)の日記 『玉葉』の承安2年(1172)の記事に、伊豆の島に、見慣れぬ者が数人、一隻の船でやって来て、「自其腋出火、所耕作之畠等悉焼失之。則、乗船逐電」(腋(薬。火薬)を燃やして畑を焼くと船に乗って逃げた)とあります。
(2)元寇の「てつはう」
文永11年(1274)、九州の博多湾に来襲した元軍は「震天雷」(しんてんらい)という火薬を使った武器を使いました。殺傷能力は無いものの、すさまじい爆音で馬が驚いて暴れ、武将たちが落馬して怪我したとされてきました。
鷹島海底遺跡(長崎県松浦市)で、「震天雷」の実物が発見され、陶器製の破裂弾(現在の「手榴弾」)であり、殺傷能力があることが分かりました。
(3)火縄銃(種子島銃、種子島、薩摩筒)の伝来
『鉄炮記』(慶長11年(1606)、種子島久時が、薩摩国大竜寺の禅僧・南浦文之に編纂させた鉄砲伝来に関わる歴史書)によれば、天文12年8月25日(1543年9月23日)に、ポルトガル人など約100人を乗せた中国船(船主:五峯)が種子島の門倉岬に到着すると、8月27日に種子島島主・種子島時堯(ときたか)のいる西之表に回航させ、種子島時堯がポルトガル人から2挺のマラッカ銃を買ったそうです。これを以って「鉄砲伝来」といいますが、ポルトガル側の記録『諸国新旧発見記』(アントニオ・ガルワノ)では、これを1542年のことだとしています。また、研究者によれば、これ以前に九州や中国に鉄砲が伝来していたようですが、種子島の『鉄炮記』のような伝来に関するしっかりとした記録が残されていないので、はっきりしません。
『鉄炮記』には、
・種子島島主・種子島時堯が「佗孟太(アントニオ・ダ・モッタ)」と「牟良叔舎(フランシスコ・ゼイモト)」というポルトガル人から鉄炮2挺を買い求めた。1挺千両(現在の1150万円?)だった。
・翌年、別のヨーロッパ人から鉄炮の製造方法を美濃国関出身の刀鍛冶・八板金兵衛に学ばせた。
・火薬の調合法を家臣・篠川小四郎に学ばせた。
・2挺のうちの1挺を紀州根来寺の津田監物(杉ノ坊算長)に売った。(残り1挺は種子島家で保管していたが、西南戦争で焼失した。)
・津田監物は、元は種子島の人で、鍛冶職・芝辻清右衛門に鉄砲を複製させた。
・津田監物が鉄炮を畿内に持ち込んだ事により、関西、さらには、関東にも鉄炮が広まった。
などと記されています。
《火縄銃の生産拠点(根来・堺・国友)》
紀伊国根来(和歌山県岩出市):上述のように、津田監物が鉄砲をもたらし、芝辻清右衛門による鉄砲の製造が始められた。(1545年、「紀州一号」を完成させた。)徳川方についたことから、天正13年(1585)、豊臣秀吉によって焼き討ちされたが、それまでは、鍛冶と僧兵による火縄銃の生産拠点であった。
和泉国堺(大阪府堺市):津田監物に少し遅れて堺の商人・橘屋又三郎が種子島を訪れ、1年以上滞在して鉄砲の製法を学び、「鉄砲又」と呼ばれる鉄砲製造の名人になった。この鉄砲又と、根来から堺に移った芝辻清右衛門により、堺は、火縄銃の生産拠点となった。堺には、平安時代から鋳造・鍛造の高度な技術が伝えられていたことと、港町で、火薬の原料となる硝石を輸入できたことが、鉄砲製造が盛んに行われるようになった理由だという。
近江国国友(滋賀県長浜市国友町):琵琶湖の北に位置し、良質な鉄を得られることから、古くから鍛冶が発達していた。『国友鉄砲記』によれば、天文13年(1544)2月に将軍・足利義晴が、鍛冶・善兵衛に鉄砲製作を命じ、半年後に2挺完成させたのが国友鉄砲鍛冶の始まりだという。一方、『国友鉄砲鍛冶由緒書』では、中国人・長子孔(ちょうしこう)という人が弘冶2年(1556)に京都に入り、その後、国友に住まいして鍛冶たちに鉄砲の製法を伝えたことが始まりとしている。最盛期には、鉄砲鍛冶が73軒、鉄匠が500人がいたという。
井伊谷周辺では、古代の銅鐸が発見されている。「銅鐸文化圏」の東端で、東西日本の文化の交流の場に当たり、「三遠式銅鐸」という独自の様式が生まれた。気賀は、古くは「引佐郡伊福郷」といい、伊福部氏の居住地だったという。伊福部氏は古代の製鉄氏族で、名の由来は「鋳吹く」(他説あり)と言われる。このことから、井伊谷の人々は、鋳造技術を古代から持っていたと考えられる。
──良い物の普及は早い。
戦国時代末期、日本には50万挺以上の鉄砲があり、世界最大の鉄砲保有国だったそうです。
高額な火縄銃を買ったところで、問題は「火薬」です。火薬の原料である硝石は、100%輸入(戦国末期には、少量ながら自給できたらしい)なので、鉄砲を集め、使うには、津島や熱田という港を抑え、南蛮貿易を重視していた織田信長が優位だったようです。武田信玄も鉄砲を持ってはいましたが、海の無い国の武将でしたから、何としてでも北上(相手は上杉)、あるいは、南下(相手は今川)して、海(貿易港、水軍、塩)を得たかったようです。
キーワード:伊平鍛冶
遠州(遠江国、静岡県西部地方)の古刀期の刀鍛冶は、
(1)菊川鍛冶群
(2)高天神鍛冶群
(3)浜松鍛冶群
(4)古遠州鍛冶群(天方・伊平・友安)
に分かれ、中でも、高天神城下(掛川市)の高天神鍛冶、天方城下(周智郡森町)の天方鍛冶、井平城下(浜松市北区引佐町伊平)の伊平鍛冶が有名です。
※「古刀」とは、戦国時代までに作られた刀で、江戸時代以降の刀を「新刀」(さらに「新刀」「新々刀」「現代刀」に細分することもある)という。
刀鍛冶や鉄砲鍛冶は、普段は鍬や鎌などを作る鍛冶屋で、需要がある時(戦争の時)のみ刀や鉄砲を作っていましたが、伊平鍛冶は、一貫して刀を作っていたようです。
創始は鎌倉時代で、「日本八介」の1人である「井伊介」(井伊家の宗主。鎌倉幕府の御家人)のために刀を作り始めたようです。
《古刀期(鎌倉時代)の「伊平鍛冶」》
初代 伊平 建保(1213-1219)頃
2代 南中 仁治(1240-1243)頃
助真 建長(1249-1256)頃
開修 同上
関東 同上
菅次 同上
菅次院 同上
神次 同上
源次太夫 同上
空次 同上
高弘 弘安(1278-1288)頃
恒本 正安(1299-1302)頃
南北朝時代に、宗良親王(南朝の後醍醐天皇の皇子)が井伊谷へやって来られると、刀の数が不足したので、井伊氏は、天方鍛冶の友安ら刀工を伊平に呼び集め、刀を作らせたそうです。静岡県指定文化財「遠州住友安」銘の脇差(森町在住のH氏蔵)は、友安が宗良親王のために作った脇差だともいわれています。
江戸時代には、彦根に移った井伊氏に替わって近藤氏が領主となりましたが、伊平の鈴木家が御用鍛冶として近藤氏(通称「登助」)のために刀を作り、「登鍛冶屋」と呼ばれていたそうです。
※「五平」・・・刀鍛冶らしい名ではないな。奥三河、南信など、中部地方南部の山間部の郷土料理である「五平餅」を売ってる茶店のおじさんみたいな名だ。「五」は「五男」に通じる。一子相伝の技を伝授される長男らしく、「一平」(市平)の方がいいな。私が脚本家なら、山葉寅楠と志津兼吉で「寅吉」にするよ。
志津三郎兼吉
志津城(浜松市西区村櫛町)に藤原共資(井伊初代共保の父)が住んでいたのは平安時代のことですから、まだ城は無く、居館のみがあったと思われます。志津城址の石碑に、「志津城は其の昔志津三郎の築ノ処」とありますが、刀工・志津三郎兼吉が住んでいたのはここではなく、浜松市中区新津町です。
※兼吉地蔵(浜松市中区新津町)は、志津三郎兼吉の墓であり、ご利益は、「業物の刃物が手に入る」と「刃物の怪我から身を守る」です。
※新津町の法被には、町名の由来である志津兼吉にちなみ、刀の鍔の中に「志津兼吉」の文字がデザインされています。浜松まつり(毎年5月3・4・5日)で御確認下さい。
龍潭寺に「長刀昊天」こと昊天和尚愛用の長刀が展示されています。銘は「兼宗」です。浜松鍛冶でしょう。(浜松鍛冶、見付鍛冶、高天神鍛冶ともに刀匠の通字は「兼」です。)
著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。