実生活では立春が過ぎました。暦の上では春でございます。
龍潭寺にいた人が、
「静岡って、思ったより寒いね」
と言っておられました。
県外からの観光客でしょう。浜松人が「静岡」と言ったら、基本的に「静岡市」(時として「静岡県」)を指します。言うのであれば、
「浜松って、思ったより寒いね」
と言っていただきたいところですが、浜松の気温はそれほど低くありません。「遠州の空っ風」と呼ばれる強い北風が吹くので、体感温度が低いだけです。
その強風を利用しようと、風力発電所が建設されました。10基ある風車の最も左(西)の風車は「立須峯(たちすみね)」(ドラマのオープニングのドローン撮影で登場する岩山)にあり、その立須峯の左(西)の山が三岳山(みたけやま)です。
第5話 「亀之丞帰る」 あらすじ
さてドラマでは、少女編が終わり、今回からは大人編である。
「夫婦喧嘩を始め、お定まりのすりこ木で打きおふ」(山東京伝『御存商売物』)
江戸期の黄表紙で、夫婦喧嘩シーンの「お定まり」は、「男が擂粉木(すりこぎ)を振り上げ、女が擂鉢で防戦する」であるが、『おんな城主 直虎』では女性が強いようで、「女すりこぎ・男すりばち」の逆パターン。
女城主が登場しても不思議ではない風土であることが、それとなく示されている。
亀之丞の信州落ちから10年。
今川氏の勢力は拡大する一方で、亀之丞を井伊谷へ戻す好機を見つけられない中、「鶴丸(元服して小野政次)と奥山朝利の娘を結婚させ、その子に井伊家を継がせたらいかが」と小野政直が提案した。それにしても「政直」やら「政次」やら、あらためて凄い名だなぁ。井伊家の通字「直」や通称「次郎」の「次」を自らの通字「政」の下に置いている。
その後、小野政直は亡くなり、亀之丞が井伊谷へ帰ってくることになり、小野政次と奥山朝利の娘との結婚はご破算に。我らが次郎法師はといえば、煩悩が膨らむ、膨らむ。その煩悩とは、「成長した亀の顔が、父・直満そっくりだったらどうしよう (゚_゚i)」というものであった(笑)。
「めでたやな~、松の下~、千代もひくちよ、千世千世と~」(『閑吟集』)
亀之丞が井伊谷に帰ってきた。
井戸の大きさは変わらなくても、井伊谷に戻った亀之丞は、童子の頃のひ弱な風体とは異なり、日に焼けた好青年になっており、笛を持つ手は逞しく、弓を引く手に変わっていた。白馬には跨っていなかったけど、出まくってるプリンスオーラが眩し過ぎる (≧∇≦)
次郎法師は亀之丞に向かって、
「妻を娶り、子を大いに儲け……」
と言うが、亀之丞は、
「一体何の話をして居るのだ。おとわは俺の妻になるのだろう?」
と切り替えした。
法話 『無門関』第二十九則 「非風非幡」(ひふうひばん)
※『無門関』:中国宋代に無門慧開によって編集された公案集。第46則「竿頭進歩」(百尺竿頭進一歩)など全48則。臨済禅の特徴は、「公案」(悟りを開くために師が弟子に与える問題)にある。公案集には『無門関』『碧巌録』『臨済録』がある。
本則:六祖、因みに風刹幡をあぐ。二僧、有り、対論す。一は云く、「幡動く」。一は云く、「風動く」。往復して曽て未だ理に契わず。祖云く、「是れ風の動くにあらず。是れ幡の動くにあらず。仁者が心動くのみ」。二僧、悚然たり。
【現代語訳】
本則(公案本文):大鑑慧能が法性寺で説法しようとして旗を掲げると、はためいた。それを見ていた2人の僧の1人が「旗が動いた」と言い、もう1人の僧は「風が吹いた」と言った。言い合うだけで、真理には達しなかった。この2人の会話を聞いていた大鑑慧能は、「風が動いたのでも、旗が動いたのでもなく、あなた様の心が動いたのだ」と言ったので、2人の僧は、恐れ入った。
ある生徒が横から見て「長方形」だと言い、他の生徒が上から見て「円」だと言い争っていたのを見た教師が、「正解は円柱」だと言ったら「お~!」となるけど、「心の持ち方で長方形になったり、円になったりする」と言われても・・・。
「問答」を聞いていると、馬鹿馬鹿しく思えることがあります。この「風と旗のどっちが動いたか?」は、単なる言葉の応酬であって禅問答ではありません。大鑑慧能は、「喝!」(そんなくだらんことで貴重な時間を浪費するな)と怒ってやめさせればよかったのですが・・・。
この話は、「大鑑慧能は、2人の僧が外界(風や旗)に目を向けて問答している姿を見て、本質や真理の究明には、己の心に注意を向けること(これを「己事究明」という)が重要だと教えたのだ」と解釈されていますが、次郎法師は、
「物事というのは、見る者の心によって変わるもの」
と理解しているようですね。「公案」の答えが師が用意した答えと一致しないと次の公案を出題してもらえませんが、公案の答えは1つとは限らないので、師を説破できる解答であればOKです。
今川・武田・北条
今川氏の本拠地は駿河国駿府で、駿河国の北は武田氏の甲斐国、東は北条氏の相模国、南は太平洋です。今川氏は、まずは勢力を西へ伸ばして遠江国を手に入れました。
「北条氏」と聞くと、尼将軍・北条政子など、鎌倉時代の執権(執権北条氏、鎌倉北条氏)を思い浮かべる方がおられるかもしれませんが、戦国時代の北条氏は、北条早雲(伊勢盛時)を祖とする「後北条氏」(「小田原北条氏」とも)です。 北条早雲の姉(妹とも)の北川殿が今川義忠に嫁ぎ、嫡男・龍王丸(後の今川氏親(今川義元の実父))を儲けたことから、北条早雲は、今川家の家督争いに加わり、見事、龍王丸を宗主にしました。
このような経緯で、今川氏と北条氏は仲が良かったのですが、今川氏親が亡くなり、その跡を継いだ嫡男・氏輝が小田原から帰国後に早逝すると、家督争い(「花蔵の乱」という)が起こり、勝利した今川氏親の五男・義元が宗主になると、なんと、なんと、北条寄りの外交方針を武田寄りに変え、今川義元は、武田信虎の娘・定恵院を正室に迎え、「甲駿同盟」を強化しました。甲相国境で武田氏と抗争していた北条氏綱は怒って駿府国に攻め込みます。これを「第一次河東の乱」(「河」とは富士川のこと)といいます。この時、北条氏綱が今川領西端の井伊氏に「挟み撃ち」とまではいかなくても、後方撹乱を頼んだのが功を奏したのか、武田信虎が援軍を向かわせたにもかかわらず、今川義元は、河東から北条軍を押し返せませんでした。
北条氏綱が亡くなり、北条氏康に代替わりすると、井伊直満が誅殺された年の翌年、今川義元は、北条氏に占拠されたままの河東を奪還すべく行動を開始しました。これを「第ニ次河東の乱」と言います。今川義元は、北関東で北条氏と抗争していた山内上杉氏の上杉憲政に声をかけて、北条氏を挟み撃ちにし、今川軍に武田軍が合流したこともあって、一気に駿河国の北条氏を相模国へ押し戻しました。
【井伊直満の反逆】
「井伊直満の反逆」について、『井伊家伝記』には、「武田軍が井伊領に入ってきたので、井伊直平は、武田軍を追い払おうとして井伊直満に戦いの準備をさせていたら、家老・小野政直が『今川軍に戦いを挑もうとしている』と今川義元に讒言した(嘘を言った)ので、誅殺された」とあります。
しかし、現在では、「これは、徳川中心史観(小野政次を処刑した徳川家康をかばうために小野政直・政次親子を悪者にする必要があったから)による記述であり、史実は、井伊直満は武田信玄と内通していて、小野政直は、『武田軍と合流して今川軍に戦いを挑もうとしている』と密告した」と考えられており、「おんな城主 直虎」の脚本も「武田氏と内通」となっていたのですが、時代考証担当の2人の学者が、「北条氏と内通」と脚本を書き換えさせたのだそうです。
書き換えさせた根拠は、次の2点だそうです。
①武田軍は、井伊直満が誅殺された翌・天文14年に高遠城(長野県伊那市高遠町)を落としている。つまり、武田領は井伊直満の誅殺の翌年ですら高遠までであり、井伊領は、武田領と接していない。 『井伊家伝記』が言うよ うに、武田軍が井伊領に入ってくることは無い。
②北条氏は、「第一次河東の乱」において、東三河(新城市)の奥平氏と西遠(浜松市)の井伊氏に後方撹乱を要請しており、「第ニ次河東の乱」の時も、後方撹乱の要請が来たと想像できる。
史料1:天文7年(1538年)戊戌3月29日の奥平氏への手紙(松平家奥平家古文書)
※「第一次河東の乱」の時、北条氏綱が、奥平定勝(貞勝)と井伊
遠州本意之上、於彼国五百貫文之地可進置候。然者、井伊与有御談合、早々御行簡要候。巨細使者可被申候。恐々謹言
三月廿九日 氏綱(判)
奥平九七郎殿
御宿所
【意訳】 今川氏を倒し、現在は今川領である遠江国を手にしたら、遠江国内の500貫文の土地を与えます。しからば、奥平氏におかれましては、井伊氏と談合し、早急に軍事行動をとることが肝要です。子細は使者が申し伝えます。恐々謹言(恐れながら、謹んで言う。文末の常套句)。
ちなみに、第1話で示された「井伊直満書状」(NHK制作)には、次のように書かれていました。
奉御状拝見候。忝存候。
去戊午年、遠州本意之上、於当國五百貫文之地被下置候事、誠候哉、来春中致出馬候哉、承度候。深嶽城落行候打払欝憤、我等、今度者、致手切駿河、与小田原二同心仕候。可遂本望候。巨細者、使者可申述候間、不能詳。 恐惶謹言
十二月七日 井伊彦次郎直満(花押)
謹上 北条新九郎様
御状を拝見し奉(たてまつ)り候。忝(かたじけ)なく存じ候。
去る戊午の年に、遠州本意の上は、当国に於いて五百貫文の地を下し置かれ候事、誠に候か、来春中に出馬致し候か、承りたく候。深嶽城落ち行き候欝憤(うっぷん)を打ち払い、我等、今度は駿河と手切れ致し、 小田原に与して同 心仕(つかまつ)り候。本望を遂ぐべく候。
巨細は使者が申し述ぶべく候間、詳(つまび)らかに能(あた)わず。恐惶謹言(きょうこうきんげん)
【意訳】 書状を拝見しました。ありがたく存じます。以前、天文7年(1538年)戊戌年(「戊午」は直満の記憶違い。わざと間違えて本物らしく見せる技。NHKは芸が細かい。ただ、「当國」は「當國」、「北条」は「北條」かと)に、(井伊が後方撹乱して)北条氏が今川氏を倒して遠江国を領したら、井伊家に五百貫文の土地を下さるとした北条氏綱殿の作戦及びお約束は、代替わりをした氏康殿も同じか、来年の春には出陣と聞いているが、それは本当か(史実は「翌年の7月に出陣」。ここも「春」とわざと間違えるのがNHKの本物らしく見せる技)、教えていただきたい。(もし本当であれば、宗主・直盛に進言し、暴れまわり、)「深嶽城」(「三岳城」の当時の表記)の戦いで今川軍に負けた鬱憤を晴らしたい。今度こそ、今川氏と手を切って、相模・駿河・遠江を領する大戦国大名になられるであろう北条氏と同盟を組みたい。(協力するので、)「本意」(今川氏を倒すこと)を遂げてください。子細は使者が申し伝えますので、今しばらくのお待ちを。恐惶謹言
①奥平氏宛の手紙は残っていますが、井伊氏宛の手紙は残っていないので、井伊氏の報奨が奥平氏同様500貫文かは不明です。
②私が北条氏康なら、「重要な事なので、あなたではなく、宗主・直盛殿と直接話をしたい」って返信するけどね。
ドラマでは、息子が、将来、井伊家宗主になる事に決まって浮かれている直満が勝手に話をすすめた事になっています。ですから、直満が誅殺され、その子・亀之丞に殺害命令が出ただけですんだのです。宗主・直盛は、何も知らなかったので、お咎め無し。ただし、亀之丞を逃したり、おとわを鶴丸と結婚させなかったりと今川氏の下知に反したので、「信用できない。信用して欲しいなら、おとわを人質に出して誠意を見せろ」と言ってきたのです。今川氏の軍師・太原雪斎は、「切腹とは言っていない。人質を出すだけで許されるのであるから、お安い御用であろう」と考えていたのですが、井伊直平(子供は多いが、男ばかりで、唯一の娘・佐名を人質に取られた上に今川庶子家の関口氏と結婚させられて戻ってこられなくなってしまったという怒りがまだ残っている人物)が、井伊直盛の一人娘・おとわの人質の話に敏感に反応し、今川寄りの家老・小野政直の息子を監禁したので、太原雪斎は驚いて、「今回は、人質ではなく、南渓和尚の言うように、おとわを出家させるということで許してあげましょう」と今川義元に進言したのです。
今川義元も太原雪斎同様、「第一次河東の乱」においての反逆は、佐名を人質に出すことで許してあげたのであるから、今回の「第ニ次河東の乱」直前の井伊直満の反逆も、おとわを人質に出すことで許してあげようと考えていたことでしょう。
亀之丞の帰国
なぜ指名手配中の亀之丞が帰国できたのか?
『井伊家伝記』(下記「史料2」)には、「小野和泉守政直が病死したので、亀之丞は帰国し、井伊直盛の養子となると、井伊肥後守直親と名乗って、奥山因幡守朝利の娘と結婚して、祝田村に住んだ」と他の段よりも短く、簡潔に書かれています。
小野政直が死んだからと言って、殺害命令が取り消される訳ではありません。
ドラマでは、
小野政次「武田の戦火を逃れるため、隠れていた信州から、戻ってきた…」
井伊直盛「そういう筋書きにしようかと思うておる。幸い、北条との盟約が相成り、今川も、直満叔父の謀反を厳しく咎め立てする気は薄らいでおろうし」
小野政次「目の上のたんこぶもなくなりましたしな」
としています。
これは、
①亀之丞を保護していた松岡氏に武田信玄が襲い掛かろうとしていて、亀之丞の事を守れなくなった。(基本的に井伊氏は今川方である。その今川氏と手を組んだ武田氏が襲ってくるというのに、今川方=武田方の亀之丞をこれ以上保護することはできない。状況が変わった。)
②亀之丞の殺害命令の根源は、父・井伊直満の反逆にあり、その反逆とは「今川氏と敵対関係にある北条氏と手を結ぼうとしたこと」であるが、今は、今川氏は北条氏と手を結んでいるので、今ならさほど咎められないであろう。
ということです。
実際、「目の上のたんこぶ」の小野政直が病死したのは天文23年(1554)8月27日で、亀之丞の帰国が、翌・弘治元年(1555)2月ですから、亀之丞の帰国は、小野政直の死の直後ではなく、半年後ですから、小野政直の病死と亀之丞の帰国の関連性は、さほど深くなかったのかもしれません。
滝行
ドラマでは、滝がアクセントを与えていますね。
・鶴丸に追われて飛び込む滝壺:高樽の滝(岐阜県中津川市加子母)
・「青葉の笛」を渡す滝:小黒滝(岩手県一関市大東町)
・滝行の滝:岩根の滝(浜松市北区細江町気賀岩根)
滝行は、密教、修験道、神道が行う修行で、臨済宗は座禅なのですが・・・。
臨済宗の場合、座禅は、「夜坐(やざ)」と言って、「解定(かいちん・就寝)」後に布団を抜け出し、庭の岩の上などで行います。次郎法師もそうして煩悩を打ち払おうとしたようですが、座禅中に井伊直満顔の亀之丞に迫られる夢を見たので、
「座禅が効かない。もっと荒行をせねばなるまい」
と山籠りし、滝行を行ったようですね。
滝行で唱えるのは「般若心経」です。今回は「歌うように」ではなく、「早口で」ですね。
無苦集滅道(むーくーしゅうめつどう)
無智亦無得(むーちーやくむーとく)
以無所得故(いーむーしょーとくこー)
菩提薩垂(ぼーだいさったー)
依般若波羅蜜多故(えーはんにゃーはーらーみーたーこー)
心無罫礙(しんむーけーげー)
無罫礙故(むーけーげーこー)
無有恐怖(むーうーくーふー)
遠離一切顛倒夢想(おんりーいっさいてんどうーむーそう)
究竟涅槃(くーきょうねーはん)
三世諸仏(さんぜーしょーぶつ)
依般若波羅蜜多故(えーはんにゃーはーらーみーたーこー)
※「岩根の滝」の詳細については→『戦国未来の戦国紀行』「岩根の滝」
史料2:『井伊家伝記』「井伊肥後守直親信州ゟ歸國付直盛公養子ニ相究事」
天文廿三年、小野和泉守病死。因之、直盛公より信州江被仰遣候て、龜之丞を藤七郎御伴にて、弘治元年乙卯歳ニ井伊谷江歸國、則、直盛公御養子ニ相究、井伊肥後守直親と名乗。奥山因幡守息女を縁組被成候て、祝田村千石御部屋住ニ被進候。祝田村ニ住宅被成候。今以屋敷之跡、有之。
【現代語訳】
天文23年(1554)、(今川氏真に讒言した)小野和泉守政直が病死した。これにより、井伊直盛公は、使者を信濃国に送り、亀之丞は、今村藤七郎をお供に弘治元年(1555)、井伊谷へ帰国すると、井伊直盛公のご養子となり、「井伊肥後守直親」と名乗った。井伊直親は、奥山因幡守朝利の娘と結婚して、祝田村に1000石与えられて、「部屋住み」(嫡男ではあるが、まだ家督を相続していない者のこと)になられ、祝田村に住んだ。この屋敷の跡は、今もある。
「仏説・摩訶般若波羅蜜多心経」
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時、照見五蘊皆空、度一切苦厄。
舎利子、「色不異空、空不異色。色即是空、空即是色。受・想・行・識、亦復如是」。
舎利子、「是諸法空相、不生不滅、不垢不浄、不増不減」。
是故空中、無色、無受・想・行・識、無眼・耳・鼻・舌・身・意、無色・声・香・味・触・法。
無眼界、乃至、無意識界。
無無明・亦無無明尽、乃至、無老死、亦無老死尽。
無苦・集・滅・道。無智・亦無得。以無所得故。
菩提薩埵、依般若波羅蜜多故、心無罣礙。
無罣礙故。無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究竟涅槃。
三世諸仏、依般若波羅蜜多故、得阿耨多羅三藐三菩提。
故知、般若波羅蜜多、是大神呪、是大明呪、是無上呪、是無等等呪、能除一切苦、真実不虚。
故説、般若波羅蜜多呪。
即説呪曰、「羯諦羯諦、波羅羯諦、波羅僧羯諦、菩提薩婆訶」。
般若心経。