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井伊家の人々

佐名と関口親永夫妻 築山殿(家康の妻)の両親でもあった2人の波乱な生涯

 

関口親永と佐名は、築山殿の両親である。
築山殿とは、徳川家康の正妻でありながら長男・信康の騒動に巻き込まれるようにして亡くなり(信康も後に自刃)、その非業な最期が戦国ファンには知られているが、実は彼女の母・佐名にしても、かなり複雑な関係から関口親永の妻となり、そして最期を迎えている。

そもそもこの夫妻の話が、井伊一族と何の関係があろう? 主人公・井伊直虎とは何の接点もないではないか。と思われるかもしれないが、さにあらず。
実は佐名は、井伊直平(直虎の曽祖父)の娘であり、紆余曲折を経て今川一族の関口氏に嫁いだと目されている。

戦国時代の姫ならではの悲劇と言うべきか。『おんな城主 直虎』人物事典の第24回は、関口親永と佐名にスポットを当てる。まずは親永と関口家から見てみよう。

娘婿・松平信康の反逆罪に連座して切腹したのだろうか?

永正15年(1518年)、今川家の有力家臣・瀬名氏貞(※1諸説あり)の次男として生まれた親永にとって、最大の不幸は「桶狭間の戦い」に尽きる。

主君の今川義元と、関口家宗主の氏緑が同時に没し、自身が、跡継ぎ不在となった関口家へ養子入り。このとき、彼の娘婿であった松平元康(後の徳川家康)が駿河へ戻らず、岡崎城へ入ってしまったのだからタマラナイ。元康が主家に対し、堂々と独立宣言をしたようなものであり、実際に徳川家は、この機を境に今川を見限り、織田との同盟を結ぶようになる。
このとき今川家は、側に寿桂尼がついているものの、義元に比べて遥かに心もとない、今川氏真が新当主。そんな混乱の折に堂々と反抗されたのであるからして、義父の親永が娘婿の家康に連座して切腹を命じられたとしても不思議ではない。

実際、桶狭間から約2年後の永禄5年(1562年)、親永は屋形町の関口屋敷で果てた(享年44)。
しかしこれは「娘婿・松平元康の反逆罪による連座の切腹」ではないと思われる。理由は、親永の子供達が今川家の勢力下で生き長らえているから。彼の死はむしろ、織田信長を諌めるために諫死した傅役・平手政秀の如く、親永が今川氏真を諌めるため自主的に切腹したと考える方が自然かもしれない。

いずれにせよこの一件により、築山殿にとって、夫・徳川家康は親の仇となってしまった。

今川を見限って徳川に付く者が多く、次の宗主は記録が途絶え

関口親永の没後、関口家は、今川氏真の命で氏教(親永の叔父)が相続した。
「関口氏経」という名前が「井伊谷徳政令」に登場するが、「教」と「経」の音読みが「きょう」であり、この氏教と同一人物であると考えられる。

しかしこのころ関口家は、相当苦しい状況にあった。
今川一族という有力家臣でありながら旧領は氏真に没収されており、三河国・関口庄も松平元康が強奪。関口家一族の中には、「桶狭間の戦い」後、今川家を見限って、松平(徳川)に付く者が多かったといい、関口家の宗主となった関口氏教の消息はその後不明となっている(ただし、関口氏経の息子は、「井之次郎」と名乗って井伊領の領主になったともいう)。

また、紀州徳川家に仕えた関口氏心(うじむね 号:柔心)が、関口氏広(親永)の子だという説もある。
が、関口氏心には慶長3年(1598)生誕説があり、それが正しければ、親永が切腹した永禄5年(1562)より30年以上も後になってしまう。つまり彼の子ではない。実際のところは、関口氏広(親永)の父である氏緑、その弟である兼興の孫のようだ。
なお、関口氏心は柔術を主体とする総合武術「関口新心流」を開き、諸国へ武者修行の旅に出たとの話がある。その旅の途中、猫が屋根から落ちるのを見て受け身の極意を掴み、試しに天王寺(大坂)の五重塔から飛び降りたが、かすり疵一つ負わなかった――なんて伝承も。一族からは他にも武術に長けた者が出ており、かなりの武闘派にも思われるが、後世においては初代静岡県知事の関口隆吉が関口親永の末裔を名乗っている。その長男・関口壮吉は浜松高等工業学校初代校長となり、次男は新村家の養子となって『広辞苑』を編んだ。江戸期を通じて文系へ転じたかのようだ。

話が大幅にそれてしまった。次は佐名を見てみよう。

築山殿の母・佐名は井伊直平の娘?

はじめに断っておくと、徳川家康の正室・築山殿の母の名は不明である。大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、「佐名(さな)」と名付けられており、ここでも便宜的に佐名で進めよう。

彼女は、今川義元の妹であり、よって築山殿は今川義元の姪にあたる。しかし、それは正しくはないようだ。
系図の「井伊直平の女」には、次のような記載がある。

「初為今川義元側室、後義元為妹、嫁関口刑部大輔源親永、生一女、乃、義元為媒嫁神祖者、筑山御前是也」(『井伊年譜』)
「今川義元朝臣妻 後関口刑部大輔親永妻」(『系図纂要』)
「今川上総介義元内室 再嫁関口刑部小輔親永 東照神君簾中築山御前之母公是也」(『井家粗覧』)

簡単に説明してみると……。

【今川家に対する服従の証として人質を差し出すように言われた井伊直平は、同家から指名された「おとわ(後の井伊直虎)」は幼いからと断り、代わりに娘(佐名)を人質として駿府に送った。
超絶美人であった佐名は、そこで義元のお手付きとなり、妾にされる。
しかる後に今川義元は、養妹として体裁を整えた上で、同族の関口親永と結婚させた。その結果、生まれたのが、徳川家康の正室・築山御前であり、その血縁により井伊直政はスピード出世した】

これが正しいとすると、築山御前は井伊直平の孫となる。井伊直虎は井伊直平のひ孫であるから、直虎から見て築山御前は母と同じ世代であり、かなり年上になるハズだが……。
井伊家から江戸幕府に提出された資料にも「築山御前は井伊直平の孫」と書かれていたようで、江戸幕府の公式資料『寛政重修諸家譜』の佐名の項には、次のように記されている。

「女子 今川義元が養妹となり、関口刑部大輔親永に嫁す。按ずるに、今川主馬義彰が呈譜、義元か妹、関口刑部少輔氏廣か妻としるして養妹たることをいはず。はたして同人たるべし。今しばらく各家のつたふるところにしたがふ」(原文)
「築山御前の母親について、井伊家から提出された家譜には『井伊直平の娘で、今川義元の養妹』とあり、今川家から提出された家譜には『今川義元の妹』とある。この2人の女性は同一人物なのかどうか分からないので、今回は、両家から提出された家譜通りに掲載しておく」(意訳)

井伊家の人間でありながら同時に井伊家を恨む

井伊家は江戸幕府の大老を務めるほどの名家である。
ゆえに江戸幕府の編集者としても、確たる証拠の無いまま上記の家譜に対して「嘘を書くんじゃない!」とはツッコミできない。

普通、A家がB家の子と政略結婚させる理由は、
①B家と戦いたくない、同盟を結びたいから
②B家の状況を知りたいから(ある意味、スパイ)
であるが、佐名の場合は「婚姻」ではなく「人質」である。
よって家から追い出された状況の心理はかなり複雑となるのは想像に難くなく、実際、大河ドラマ「おんな城主 直虎」では、井伊家の人間でありながら同時に井伊家を恨んでいる――そんな風に描かれるようだ。

なお佐名の運命もまた娘と同様に悲劇というほかなく、最期は夫と共に自害。その理由は
①切腹を命じられた夫・関口親永の死を見届け、自主的に自害した
②夫・関口親永と共に自主的に自害して今川義元の非を諌めた
③夫・関口親永と共に自害を命じられた
と諸説ある。個人的に、女性心理として①は無いように思う。他の多くの妻たちがそうであったように、自害せずに尼となり夫の菩提を弔う道が残されている。

しかし彼女はそうならなかった。
一体何があったのか。現時点では知る術はない。

そもそも「関口家」とは、どんな一族だったのか?

関口家は、もとは今川家の一族である。「天下一苗字」(「今川」と名乗れるのは宗家の駿河今川氏だけ)というルールに従って、地名を取っただけであって、その名は本貫地(三河国宝飯郡長沢村関口)の「関口」に由来する。他に同地域で見られる「入野、木田、堀越、瀬名氏」も実際は今川家で、関口は今川国氏の子・関口常氏を祖としていた。

歴史的に「関口」という言葉からして、「関所」に何らかの関係があるのだろうか?
と考えた方はおそらく正しい。
というのも関口家の所領は鎌倉街道(江戸時代の東海道以前に京都と鎌倉を繋いだ道)にあった。宮路山の西山麓に関所が設置されていて、関屋という地名が残っており、「宮路山の関所からの登り口」という意味があったと伝わるのである。関口家は、初代の常氏から6代教兼までここに住んでおり、後に今川宗家と共に駿河国へ移住、持舟城と花沢城を築いて城主となり、今川氏親(義元の父)に仕えたという。

関口一族が城主を務めていた登屋ヶ根城跡

※永禄4年(1561年)7月、鳥屋根城(登屋ヶ根城)攻めで本多忠真の部隊に属した本多忠勝は、この戦いで初首をあげた。岡谷繁実『名将言行録』によれば、本多忠真が槍で敵兵を刺して本多忠勝を招き、「この首を取って戦功にしろ」と言ったが、本多忠勝は、
「我、何ぞ人の力を借りて、以て武功を立てんや」
と言って自ら敵陣に駆け入り、初首をあげたという。

岩略寺城もまた関口一族の城であった

なお、7代政興は天文17年(1550年)、「小豆坂の戦い」(今川 vs 織田)での傷がもとで、同年9月に死亡し、8代氏緑は、前述の通り、永禄3年(1560年)の「桶狭間の戦い」で討死している。

9代親永の名は、他にも「親氏、義広、氏広、氏興、氏純」と多い(家系図では「親永」であり、同時期の史料では「氏純」とのこと)。その正体は「8代氏縁の子ではなく、7代政興の子で、8代氏縁の弟」とか、「8代氏縁の養子で、実は瀬名氏広(瀬名氏貞の次男)」ともいわれる。
娘の築山殿(徳川家康の正室)が、幼少期に「瀬名姫」(「瀬名氏の娘」の意)と呼ばれていたというから、親永の正体は、瀬名氏貞の次男・氏広であろう。永正15年(1518)生まれで、本名は「氏広」であったが、今川義元から「義」の一字を頂いて、「義広」と名乗ったというが、定かではない。

関口氏歴代の墓(長寛寺跡)

 

持舟城は、JR用宗駅の裏山にあった

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

 

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