馬坊柵(設楽原)

井伊家を訪ねて

長篠の戦い「馬防柵」の準備は如何にして進められた?

更新日:

徳川家康は、丸太が必要な理由が分からないようですが、視聴者のほとんどが、設楽原(したらがはら、したらばら、したらのはら)に馬坊柵を築くためだと知っていることでしょう。

太田牛一『信長公記』には、次のようにあります。

【原文】 三州長篠御合戦の事
五月十三日、三州長篠後詰として、信長、同嫡男菅九郎、御馬を出だされ、其の日、熱田に御陣を懸けられ、当社八剣宮癈壌し、正体なきを御覧じ、御造営の儀、御大工岡部叉右衛門に仰せ付けられ侯ひキ。
五月十四日、岡崎に至りて御着陣。
次日、御逗留。
十六日、牛窪の城に御泊り。当城御警固として、丸毛兵庫頭、福里三河守を置かれ、十七日、野田原に野陣を懸けさせられ、十八日推し詰め、志多羅の郷、極楽寺山に御陣を置かれ、菅九郎、新御堂山に御陣取。
志多羅の郷は、一段地形くぼき所に侯。敵がたへ見えざる様に、段貼に御人数三万ばかり立て置かる。先陣は、国衆の事に侯の間、家康、たつみつ坂の上、高松山に陣を懸げ、滝川左近、羽柴藤吉郎・丹羽五郎左衛門両三人、あるみ原へ打ち上げ、武田四郎に打ち向ひ、東向きに備へらる。家康、滝川陣取りの前に馬防ぎの為め、柵を付けさせられ、彼のあるみ原は、左りは鳳来寺山より西へ太山つゞき、又、右は鳶の巣山より西へ打ち続きたる深山なり。

【大意】 天正3年(1575)5月13日、織田信長は、嫡男・織田菅九郎信忠と共に、援軍を率いて岐阜を出た。その日は熱田に陣を敷いた。(「桶狭間の戦い」の朝のように、熱田神宮へ戦勝祈願に行ったところ)別宮・八剣宮が荒廃している様を見て、大工頭・岡部又右衛門に再建を命じた。
5月14日 岡崎に陣を敷いた。
5月16日 牛久保城に入り、城番として丸毛長照と福田三河守を置いた。
5月17日 野田原に野陣を張った。
5月18日 さらに進んで設楽郷の極楽寺山に陣を敷いた。嫡男・織田信忠は、天神山に陣を張った。
設楽原は、一段低い窪地で、敵(武田軍)に見えないように、段々に3万人の兵士を配置した。先陣は領主である徳川家康が務め、ころみつ坂上の弾正山に陣を取った。続けて織田勢からは滝川一益、羽柴秀吉、丹羽長秀の三将が、有海原(台地)に上って東向きに陣して武田勝頼に対峙した。徳川家康は、滝川(寒狭川、豊川。ここは「連吾川」の誤り)の陣前に馬防柵を設けた。

《織田信長の進軍経路》

5月13日 岐阜城発、熱田神宮着(熱田神宮で戦勝祈願)
5月14日 夕方に岡崎城着
5月15日 岡崎城
5月16日 牛久保城
5月17日 野田原(野田城とも)
5月18日 設楽原の西の極楽寺山の極楽寺跡に着陣
5月19日 陣城建設(武田軍、軍議)
5月20日 陣城建設(武田軍、滝川(豊川)を渡り、設楽原に布陣)
5月21日 設楽原の戦い

織田信長は、岐阜から足軽に、柵木1本、縄1把、鉄砲1丁を持たせたそうです。

柵木と縄は現地調達でもよさそうですが、柵木の陰に鉄砲を持つことにより、物見(武田軍の偵察隊)に鉄砲の数を正確に数えさせないようにした(鉄砲の数が多いことを隠したかった)のだそうです。(鉄砲は箱に入れて運べば、中に何がいくつ入っているかも隠せると思いますが…。)

岡崎城で1泊したのは、①浜松城から出迎えに岡崎城まで来ていた徳川家康との軍議が長引いたため、あるいは、②14日には徳川家康は岡崎城おらず、15日に岡崎城に到着したためで、この時、徳川家康は、柵木と縄と鉄砲を用意するように言われたそうです。

5月15日の早朝に岡崎城を出れば、夕方には設楽原に着くと思われます。織田軍の歩みは異常に遅く、この理由としては、
説①徳川家康に柵木と縄と鉄砲を用意する時間を与えたから
説②決戦の日を先延ばしして、武田軍を苛立たせると共に、食料の消費を狙ったから
説③梅雨で雨続きであり、鉄砲が使えなかったので、晴れる日(梅雨明けする日)を待ったから(「長篠の戦い」は新暦6月29日で、東海地方の梅雨明けは、例年、7月20日頃)
説④去年の「高天神城の戦い」の時も遅れた。(浜名湖南端の今切を渡ろうとした時に、高天神城が開城(天正2年6月17日)した。)強い武田軍と戦えば、甚大な被害が出るので、実は戦う気がなかった。「高天神城の戦い」の時のように、ゆっくりと移動して、移動中に戦いが終わればよいと思っていたから。(この遅い進軍により、武田側は「織田は臆病者だ」と思い込み、設楽原では、徳川&織田の陣へ突撃する勇気が与えられた。)
の4説があります。

徳川家康は、織田信長よりも1日遅く岡崎城を出て、1日早く着いていますので、岡崎で縄と鉄砲を調達後、木を伐りながら、岡崎と野田を結ぶ「戦国街道」を往ったのでしょう。「戦国街道」沿いにある足利尊氏縁の天恩寺(臨済宗妙心寺派。ご本尊は、延命地蔵菩薩)に「家康公見返りの大杉」があります。

「戦国街道」の天恩寺の「家康公見返りの大杉」(愛知県岡崎市片寄町)

「家康公見返りの大杉 家康は長篠城出陣の折、天恩寺に寄って戦勝祈願をした。帰途このあたりまで来た時、本尊延命地蔵菩薩が「家康、家康」と呼び止め、家康がハッと驚いてふり返ると、大杉の蔭から敵方の刺客が矢を射かける処だった。危うく難をのがれたことを大いに喜び家康は、地蔵菩薩の前に三拝九拝して幾度も馬上から見返り、大杉の彼方を遥拝しつつ戦場へ向つたといわれる。それよりこの大杉を「家康公見返りの大杉」と呼ぶ。」(現地案内板)

※徳川家康の進軍経路については、「浜松城から岡崎城を経由しないで、直接、設楽原に向かった」(家康浜松在城説)、「5月16日、織田信長は牛久保城、徳川家康は吉祥山の陣にいた」(家康吉祥山在陣説)がある。吉祥山というと、武田信玄が焼いた今水寺か? それとも、吉祥山の横の笠頭山(現在の旗頭山)か? はたまた、吉田城か?

※旗頭山:武田信玄が野田城を取り囲んだ時(信玄本陣は吉水の丸山、諏訪勝頼(後の武田勝頼)の陣は座頭崖)、徳川家康の本陣が置かれた山。

徳川家康がいたのは、岡崎城なのか、浜松城なのか、吉田城なのかはっきりしないが、このドラマでは、浜松城にいて木材の調達に苦慮しており、それを知った井伊万千代は、
「某にもぜひ、一部材木の手配をお申し付けいただけませんでしょうか?」
と懇願した。これを機に初陣を飾れるか? 出世できるのか?

 

第41話 「この玄関の片隅で」 あらすじ

徳川家康は、松下虎松を「井伊万千代」とした。
「今日から松下万千代と名乗れ」
と強制出来る立場にあったのに、虎松に選ばせたということは、「井伊で」という虎松の気持ちを重視しただけではなく、徳川家康も「井伊」を名乗らせたかったと思う。

そう考えられる理由は、当時の周辺情勢である。

松下虎松が徳川家康に仕官した時期の遠江国の国衆は、「三方ヶ原の戦い」の敗戦により、数の上では徳川氏に従属している者より、武田氏に従属している者の方が多かったのではないかと思われる。(このままでは、駿河国に続いて、遠江国も武田領となってしまう!)そこで、武田氏に井伊谷を蹂躙され、滅ぼされたと考えられていた井伊家の嫡子を側近の「小姓」として仕官させ、「国衆・井伊氏が復活して、徳川家康に力を貸した。他の国衆もぜひ、徳川家康に力を貸していただきたい」とアピールしたかったので、徳川家康も「松下ではなく井伊で」と思っていたのではあるまいか?

さて、「日本一の草履番」になった井伊万千代を小姓にしたいと考える徳川家康であったが、彼と同等以上の事ができる代役がいない。

それで徳川家康は、「草履番を設置して、その役につかせたら?」と提案した張本人である知恵者・本多正信に下駄を預けた。

井伊万千代は、「投げ草履」という「技」で「日本一の草履番」になったが、「知」の本多正信は、「来た人を見て草履を投げるのではなく、次に来る人を予想して草履を並べておく」という方法をとった。

──まぁ、まぁ、まぁ。恐らくこの順で出ていらっしゃいますよ。(by 本多正信)

「この順で」出てこなかったら、何か異変が起きたということである。さすが知将・本多正信だ。

さて、遅れて出てきたのは、大久保忠世であった。本多正信は、大久保忠世のとりなしによって徳川家康に帰参できた人物である。つまり、本多正信と大久保忠世は以前から仲が良かったので、本多正信は、徳川家康が、木材の調達に苦慮していることを大久保忠世から聞き出せたのである。

さて、武田信玄は、死ぬ時に、
──我が死を3年間秘匿せよ。
と言ったという。そして、天正3年(1575)4月12日に武田信玄の三回忌法要を済ませた武田勝頼は、その数日後、15000人の兵を率いて甲府から出陣したとみられる。この時の三河侵攻ルートは、伊那谷→青崩峠→平山(浜松市天竜区龍山町)→渋川→山吉田→長篠とされているが、青崩峠→犬居→二俣→平山(浜松市北区三ケ日町)→宇利峠(愛知県新城市)→長篠という説もある。複数の部隊に分かれての進軍であったこともあり、その侵攻ルートは、まさに神出鬼没の「風林火山」であって、はっきりしない。

※武田勝頼は、作手から出陣し、野田に侵攻し、大野田城を攻めると、城主・菅沼定盈は逃げた。4月29日には吉田へ進み、二連木城を攻めると、城主・戸田康長は、吉田城へ逃げた。
以上の東三河侵攻は、伝承では、「元亀2年(1571)に武田信玄がやったこと」とされてきたが、学者は、元亀2年の武田信玄の東三河への侵攻を否定している。

二連木城跡(愛知県豊橋市二連木町)

さて、徳川側の動きであるが、岡崎城から出陣した松平信康は、西三河と東三河の境である二村山の山麓にある法蔵寺(愛知県岡崎市本宿町)に布陣し、徳川家康は、浜松城から出陣して4月29日、吉田城入りに成功した。(武田軍は、徳川家康が吉田城に入る前に討ち取ろうと、二連木城と共に攻めたが、果たせなかった。)

吉田城の本丸跡(芝生の部分)と鉄櫓(愛知県豊橋市今橋町)

城は単独で存在するのではなく、ラインを意識して築城される。

長篠城─野田城─牛久保(牛窪)城─吉田城
が東三河のキャッスルラインであり、吉田城を攻め落とすということは、岡崎城と浜松城を繋ぐ東海道に関所を設けるようなものである。吉田城の重要性を知っていたからこそ、徳川家康は、浜松城から出陣して、吉田城を死守したのである。

吉田城の攻略に失敗した武田軍は、長篠城攻略に転じ、北へ向かい、5月8日、長篠城を包囲した。徳川家康は5月10日、織田信長に後詰(救援)を依頼し、5月13日、織田信長は、岐阜を発った。「設楽原の戦い」の日(天正3年5月21日)は近い!

4月21日 織田信長、京都へ
4月27日 織田信長、京都発
4月28日 織田信長、岐阜城着
※5月1日 井伊万千代、南渓和尚に書状で木材調達を依頼
※5月5日 おとわ(井伊直虎)、徳川家康に木材調達は近藤にと書状
※5月7日 徳川家康、近藤康用に書状(5月17日迄に丸太500本)
5月10日 徳川家康、織田信長に援軍依頼
5月13日 織田信長、岐阜城発、熱田神宮着(熱田神宮で戦勝祈願)
5月14日夕刻 織田信長、岡崎城着
5月18日 織田信長、極楽寺山に着陣
5月19日 馬防柵建設
5月20日 馬防柵建設
5月21日 設楽原の戦い

(「※」はドラマに登場した書状。織田信長に援軍を依頼する前に、織田信長から丸太の3000本の調達指示が来たことになる。)

馬防柵の設置については、軍議において、本多信俊が織田信長に提案し、丸太は全て徳川家康が準備したとされている。(岐阜から重い丸太を1人1本持ってきたとは考えにくい。ちなみに、「鉄砲の三段撃ち」は松平信康(このドラマでは徳川信康)が提案したと言うが、「鉄砲の三段撃ち」については、その存在自体が疑問視されている。)

西洋では、人は死ぬと星になるそうだが、日本では、裏山の木になるとか。

木には御霊(木霊)が宿り、裏山の木には自分のご先祖様の御霊が宿っているわけで、木を切る場合は、まずは「樹木伐採清祓」(木の御霊にこれまでの感謝を奉告して御霊(木霊)を鎮め、伐採の安全を願う儀式)を行い、伐採後は、切り株にお清めの塩とお礼の酒をまく。

伐採直前の木(赤いテープは「この木を伐る」という目印で、御札は、ご神職による樹木伐採清祓が行われた証拠である。)

雑に500本も木を伐ったら、木霊、山の神が怒って、山崩れや(「緑のダム」破壊による)洪水を起こしそうだ。

──太いのは切らんで良いぞ! 運びやすいものからどんどん伐るのじゃ。(奥山朝忠)

現場で大声を出す監督はダメな現場監督である。手際が悪い。500本の木を伐る場合は、500本の縄を用意し、伐る木に巻きつけておく。その木の前で「樹木伐採清祓」をしてから伐っていく。どの木を伐るのか、現場で大声で指示するような現場監督は不合格であるが、奥山朝忠らしくて好感が持てる。

──目通り1尺の丸太を用意せよ。(by 織田信長)

「目通り」とは、「立っている人間の目の高さの位置」のことで、地方によって地上5尺(1.5m)だったり、6尺(1.8m)だったりする。「目通り直径」とは、「立っている人間の目の高さの位置で立ち木の周囲長をはかり直径を割出す方法」で、織田信長が指示した「目通り1尺」とは、「立っている人間の目の高さの位置で立ち木の直径1尺(30cm)ではなく、周囲長1尺(30cm)」ということであろう。30cmといえば、細身の女性用ブーツのふくらはぎ回りくらいであるから、女性のふくらはぎの太さの間伐材(間引きした木)ということであろう。「500本用意せよ」とのことであるが、長さは当時の規格の12尺(3.6m)であろうから、1本の木から2本の丸太がとれれば、250本伐るだけでよいかと。

さて、何を為すにも、「人」が必要である。井伊万千代が「丸太を用意する」と口で言っても、草履番という仕事があるわけで、自分以外の人が動かなければ、成し遂げられない。(井伊万千代の人脈と言ったら、小野万福と南渓和尚くらいだ。あとは、頼みづらいが、「松下と井伊は一蓮托生」と言ってくれた松下の義父。というか、井伊万千代は、史実では300石の小姓であるが、このドラマでは、草履番であって、木を伐りたくても領地を持っていないのでは?)
井伊側では、瀬戸方久は、裏切られ、堀川城を奪われた恩讐を越えて徳川家康に会い、おとわ(井伊直虎)は伐る木に印をつけ、奥山六左衛門朝忠は樵に作業の指示をした。皆、井伊万千代のために働いた。(とはいえ、井伊万千代のために動いたのはおとわ(井伊直虎)だけで、瀬戸方久は「刺繍を売りたい」、奥山朝忠は「武功をあげたい」という思いをおとわ(井伊直虎)に利用された感がある。)
人がいても、人を適所に配置できるリーダー「伯楽」が必要で、徳川家康と近藤康用の違いは、「人を見る目」であろう。リーダーは、「こいつはダメだ」「給料泥棒だ」と切って捨てるのではなく、「人は宝」と信じ、どこかいい所はないか、どこか適所はないかと常に考えるべきである。でないと、「宝の持ち腐れ」となってしまう。

さて、井伊万千代はといえば、初陣の夢叶わず、
──日本一の留守居。励むが良いぞ。(by 徳川家康)
と言われた。おとわ(井伊直虎)の依頼、榊原康政の進言もあり、出世はまだ先になりそうだ。

(つづく)

 

今回の言葉 「無私」

【意味】 私的な感情にとらわれたり、利害計算をしたりしないこと。私心が無いこと。

ドラマの登場人物には、銭の犬にしても、「無欲」に見える奥山朝忠にすら、「~になりたい」「~したい」という「私的な感情」がある。若い井伊万千代に至っては、「出世欲の塊」と言って良い。

──井伊谷が今の形に収まるまでには、様々な事がございました。家臣を失い、家を失い、私怨を乗り越え、ようやく今の近藤殿との絆が出来上がったので御座います。先代にとり、大事なのは、もはや、井伊のお家ではなく、井伊谷が民にとって安穏の地であること、それだけなので御座います。(by 瀬戸方久)

無欲って・・・姿形は違えど、尼さんみたいだ。
あと、前回、おとわ(井伊直虎)が、自分の周囲の人が、自分の意見を聞いてくれる理由は、
「潰れておるからこそ、私が何を言い出そうと、お家のためではなく、民や、井伊谷というその土地にとって良い事なのだと、信じてもらえるのです」
と言っていたが、簡単に言えば、おとわの意見を聞いた人が動くのは、おとわが「無私だから」ということであろう。

 

キーワード:松下一定

松下虎松が井伊万千代となり、新たに松下家を継ぐことになったのは、中野直之の次男・松下志摩守一定である。
松下一定は、中野直之の子であるが、このドラマでは、中野直之は「若い」という設定であるので、「中野直久」という「中野直之の弟」という設定の架空の人物を作り上げて、松下清景の養子とした。

《中野家系図》

中野1直房─2直村─3直由─4直之─5三孝─6三宜…
└松下一定…

※5代三孝以降は彦根藩士
※松下一定の子孫は、代々与板藩家老
※松下家の家督は、徳川家康家臣・松下安綱(入道常慶。松下清景の弟)が継いでいる。

龍潭寺東門(松下一定が寛永8年(1631)に寄進した建物(鐘楼堂)で、龍潭寺の建物の中で最も古い建物である。鐘は太平洋戦争時に供出。昭和46年(1971)に現在地(昭和34年(1959)に倒壊した東門の跡地)に移され「東門」となった。横にたつのは「静岡県指定文化財 龍潭寺伽藍」の標柱。龍潭寺の古い6棟の構造物が文化財指定されている。)

 

キーワード:本多氏

本多氏(藤原北家顕光流)の鼻祖は藤原鎌足、遠祖は藤原兼通、始祖は藤原兼通から12代の本田助秀だそうです。賀茂神社の神職として、代々山城国加茂郷に住し、賀茂神社の神紋「葵」にちなんで、「立葵」を家紋としていました。
光秀(藤原兼通から11代)が豊後国日高郡本田郷(日田郡本田荘(臼杵市市浜))に配流されて「本田」(「本田」は、「新田」に対して「もともとあった田」の意の地名)と名乗り、後に「本多」と改めたそうです。

「三つ葉葵」の由来(伊奈城)

※『柳営秘鑑』「御普代之列」の安祥七譜代の項に、「三河安祥之七御普代。酒井左衛門尉(元来御普代上座)、大久保、本多(元来田ニ作、中興ニ至テ美濃守故有之多ニ改)、阿部、石川、青山、植村、右七家を云。(又ハ、或ハ、酒井、大久保、本多、大須賀、家筋無、榊原、平岩、植村 共イエリ。)」とある。本田美濃守(平八郎忠政?)が、故 (理由)あって、「本田」から「本多」に改めたという。

《本多家系図・宗家(八郎家)》

藤原鎌足…藤原兼通…本田光秀─助秀─助定…定忠…正忠…

本田助定は、都落ちしてきた足利尊氏を助けて戦功をあげ、尾張国横根郷(愛知県大府市横根町寺田に横根城)・粟飯原(名古屋市)を賜与され、室町幕府の奉行衆に加えられたようです。応永の乱の時、本田定忠は、伊奈郡を攻め取り、以後、宗家(八郎家)は伊奈郡を本拠としました。

「本多作左ヱ門重次誕生地之碑」(糟目犬頭神社境内)

※以上の記述は、『三河伊奈本多家系譜史略』を参考に執筆。一方、本田助時(平八郎家の祖)は、岩津城主・松平2代泰親に従属し、以来、代々松平宗家に仕えたという。そうであれば、「安祥譜代」よりも「岩津譜代」の方が松平家との関係が古いことになるので、平八郎家を本多宗家とする説もある。

本多正忠が伊奈城主であった時、松平清康(徳川家康の祖父)が伊奈城に立ち寄り、「葵」が気に入ったことから、「三つ葉葵」が徳川家の家紋になったそうです。(前掲伊奈城跡の「三つ葉葵」の由来参照)

本多家は、大名13家、旗本45家を出した家で、その家系図は複雑ですが、有名な人物は、
・本多重次:作左衛門家。「三河三奉行」「鬼作左」
・本多忠勝:平八郎家。「蜻蛉切」の使い手。「徳川四天王」
・本多正信:弥八郎家。徳川家康の参謀。徳川秀忠付の年寄(老中)。
ですね。

本多忠勝像(岡崎城)

──仁の重次、勇の忠勝、知の正信

ここで、久しぶりに相棒(『日本史広辞典』山川出版社)を召喚!

ほんだし【本多氏】 江戸時代の譜代大名家。三河国よりおこり、藤原氏北家兼道流を称する。松平以来の徳川氏最古の譜代で、重臣として仕え勲功をあげた。定通系と定正系にわかれ、前者に助時流・正時流、後者に正明流・正経流があり、江戸時代には大名一三家、旗本四五家に拡大。宗家は助時流とされ、徳川四天王の一人平八郎忠勝はこの出自。(後略)

ほんだしげつぐ【本多重次】 1529~96.7.26 戦国期~織豊期の徳川家康の武将。通称作左衛門。父は重正。清康・広忠・家康の松平徳川家三代に仕え、家康には一五五八年(永禄元)の三河国寺部城攻め以来、一隊の将として従い、多くの戦陣で戦功をあげた。六八年岡崎三奉行の一人となり、八二年(天正一〇)には駿河奉行、八五年には石川数正出奔の後をうけ岡崎城代となった。八六年豊臣秀吉の母大政所が岡崎に下った際の処遇をとがめられ、九〇年秀吉の命で上総国古井戸に閉居。家康は三〇〇〇石を与えた。

ほんだただかつ【本多忠勝】 1548~1610.10.18 戦国期~江戸初期の徳川家康の武将。中務大輔。父は忠高。三河国生れ。幼少から徳川家康に仕え、一五六〇年(永禄三)尾張国大高城攻めの初陣以来、戦陣のたびに大きな戦功をあげた。九〇年(天正一八)家康関東入国の際、上総国大多喜城主に封じられ一〇万石を領し、一六〇一年(慶長六)伊勢国桑名に移される。猛将のほまれ高く、酒井忠次・榊原康政・井伊直政とともに徳川四天王と称され、家康の幕府創業を軍事面で支えた。

ほんだまさのぶ【本多正信】 1538~1616.6.7 織豊期~江戸初期の武将・大名。徳川家康に仕えたが、一五六三(永禄六)三河一向一揆で一揆勢に加わり家康と交戦。その後家康に再び仕え、政務能力を高く評価される。九〇年(天正一八)家康の関東入国に従い相模国玉縄(たまなわ)(上野八幡とも)に一万石を与えられ、関東総奉行となる。以後、家康の側近として活躍。一六〇三年(慶長八)家康が将軍になると秀忠付となり、大久保忠隣(ただちか)とともに秀忠政権を支え、二万二〇〇〇石に加増。

本多正信は数奇な人生を送った人物です。ドラマでは、井伊直政と並ぶ知将として扱われるようです。

「我、若年より大君の御近習に侍り、幸ひに御心に合て、隙なく相勤るを以て、学問などする暇なし。」(『本多平八郎聞書』)

本多忠勝に限らず、「学問などする暇(いとま)は無かった」「やりたいと思っても教えてくれる人が身近にいなかった」という武士が大半でしょう。徳川家康や井伊直政が頭がいいのは、幼少期に高僧と出会ったからで、豊臣秀吉や本多正信が機転が利くのは諸国放浪の経験があるからかな。
本多正信については、「桶狭間の戦い」の「丸根砦攻め」で、膝に傷を負い、足を引きずるようになったので、「こうなった以上は、戦いで武功をあげるのではなく、知恵で」と勉学に励んだそうですが、ドラマの本多正信って、普通に歩いているような・・・。

さて、風雲急を告げるこの物語(全50話)も残り10話となった。

私の役目もあと70日で終わる。光陰矢の如しである。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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