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地籍図(「堀川」が堀川城があった場所。刑部城があった場所には、「城下」「根古屋」「みのわ」「市場」といった城跡らしい地名が残されている。)

井伊家を訪ねて

刑部城とは? 今川氏親が築き、徳川家康が陥落させた城に迫る

よく、皆さん、誤解されます。

①刑部城と堀川城は、井伊直虎の時代、徳川氏の遠江国侵攻を妨害するために建てられた城である。
②「三方ヶ原の戦い」後に武田信玄が逗留、越年した「刑部砦」とは、「刑部城」のことである。

どちらも違います。

《今回の記事の内容》

PART1.戦国前期の刑部城(永正7年(1510)~永正9年(1512) )
PART2.井伊直虎時代の刑部城(瀬戸方久への安堵状)
PART3.その後の刑部城(徳川、武田、再び徳川)
PART4.刑部城の現状(姫街道(一里山~刑部城)を往く)

 

PART1.戦国前期の刑部城

『細江町史』の江戸時代の絵図に加筆

「三方ヶ原」と呼ばれる台地の先端に、「一里山」(絵図には「里山」とあるが、姫街道の「老ヶ谷の一里塚」のこと)があり、そこから姫街道は、「長坂」と呼ばれる長くて緩やかな下り坂となり、刑部城がある城山にぶつかります。

山裾に沿って山と田の間の道(姫街道)を歩くと、「落合の渡し」(落合川渡船場)です。
「落合川」とは、都田川と井伊谷川が合流して出来た川で、深い淵があり、舟を使わないと渡れません。
刑部城は連郭式で、高い方から順に駐屯地・本丸・二之丸となります。本丸の大手が「清水口」、搦手が「原口」(「三方ヶ原口」の略)で、本丸と二之丸の間に「刑部口」がありました。

※最も高所にあり、最も広大な「駐屯地」が「本丸」に思われますが、「駐屯地」があるのは「刑部村」ではなく、「油田村」ですので、「駐屯地」が「本丸」であれば、「刑部城」ではなく、「油田城」になってしまいます。

刑部城は、戦国前期の、斯波義達と今川氏親の遠江守護職を巡る争いの時に今川氏親(今川義元の実父)によって築かれた城です。三岳城の井伊氏と、引間城の大河内氏が斯波氏についたので、三岳城と引間城を分断するために、両城の間に刑部城と、その出城の堀川城を築いたのです。

刑部城&堀川城の今川軍と、斯波(武衛衆)・井伊(井伊衆)・大河内(引間衆)連合軍の戦いは、三期に分けられます。

Ⅰ期:三岳山麓の斯波氏の本陣などに放火する。
Ⅱ期:井伊衆が刑部口、引間衆が原口から刑部城を挟みうち。
Ⅲ期:反撃に転じ、刑部城から打って出る

この戦いの様子は、『伊達忠宗軍忠状』によって明らかになっています。

※伊達氏:静岡県掛川市伊達方に興った武士
※軍忠状:戦における自分の戦績の記録。主君に報告し、褒美をもらうための基礎資料。

※『伊達忠宗軍忠状』:今回取り上げるのは、約1年半(永正7年(1510)12月28日夜~永正9年(1512) 閏4月3日)に渡る今川軍(刑部城の伊達忠宗など)と斯波軍(武衛衆(三 岳山麓の斯波義達軍)、井伊衆(三岳城の井伊直平軍)、引間衆(引間城の大河内貞綱軍))の戦いの報告書。「武衛様御陣所度々火事之事」と「形部城へ敵度々討詰候事」から成る。

 

Ⅰ期:三岳山麓の斯波氏の本陣などに何度も放火し、やる気を削ごうと仕掛けたので、褒美を期待する。

【原文】『伊達忠宗軍忠状』「武衛様御陣所度々火事之事」

永正七年十二月廿八日夜
一まきの寺御陣所火事にて花平へ御移候、
永正八年 午剋時分
一正月五日 花平御陣所・御番所・同御たい所火事、
子剋時分
一 二月廿日夜 すゑ野殿御陣所并御被官衆陣所卅間火事
一 同夜亥剋時分 ミたけ井伊次郎陣所・番所火事
是ハしのひヲ付申候、
寅剋時分
一 三月九日 太田左馬助陣所初而其外卅余火事

【現代語訳】

「武衛様(斯波義達)のご陣所に何度も放火したこと」

永正7年(1510)12月28日夜。牧村にある寺「宝光庵」の斯波義達の陣所(本陣)に放火して焼くと、斯波義達は、花平へ移られた。
永正8年(1511)1月5日午の刻(正午頃)。斯波義達の移動先の花平の陣所(本陣)・番所・台所に放火した。
同年2月20日子の刻(午前零時頃)。末野殿(斯波義延)の陣所(本陣)とその被官衆の陣所を30間(54m)に渡って放火した。

同夜亥の刻(22時頃)。三岳城の井伊直平の陣所(本陣)・番所に放火した。これは私ではなく、忍者にやらせた。
同年3月9日寅の刻(4時頃)。太田左馬助の陣所(本陣)を始めとして、その他30余に放火した。

 

Ⅱ期:敵陣を焼き払ったので、敵はやる気が無くなったと思ったが、逆効果で、私がいる刑部城は何度も攻められた。井伊衆は、三岳道から信州街道へ出て金指から瀬戸へ行って都田川を渡り、あるいは、金指で船に乗り、刑部村から刑部城の刑部口へ、引間衆は、引間城から姫街道を通って刑部城の原口から刑部城を攻めてきた。東と南からの挟みうちで、北は川であるから絶体絶命のピンチではあったが、頑張って毎回、追い払ったので、褒美を期待する。

【原文】同、「形部城へ敵度々討詰候事」(前半)

永正八年
二月十二日 引間衆物見ニ出候跡ニ三百計、
七月九日 引間衆原口へ五百計、
十月十七日 武衛御自身四手ニ分、千余ニて討詰候き、
同十九日 形部口原口へ千五百計、是ハ五手ニ分、詰候き、
同廿三日 形部口原口へ人数千余ニて、二手ニ分、詰候き、
同廿四日 形部口へ井伊次良四百計にて、原口へ引間衆千余にて、討詰候、武衛御自身、気賀へ打詰させられ候、御人数千計にて候き、
十一月五日 形部口へ三百計、
同六日 片山半六大将にて、武衛衆五百計打まハり、

【現代語訳】

同じく、「私が篭もる刑部城へ何度も敵が攻めてきたこと」

永正8(1511)年、
2月12日。引間衆が、偵察に出た後に約200~300人で攻めてきた。
7月9日。引間衆が、原口へ約500人で攻めてきた。
10月17日。武衛(斯波義達)自ら4手に分かれて約1000人で攻めてきた。
同月19日。刑部口・原口へ約1500人が5手に分かれて攻めてきた。
同月23日。刑部口・原口へ約1000人が2手に分かれて攻めてきた。
同月24日。刑部口に井伊直平が約400人、原口へ引間衆が約1000人で攻めてきた。また、武衛(斯波義達)自ら気賀へ攻めた。この武衛衆の軍勢は、約1000人であった。
11月5日。刑部口へ約300人が攻めてきた。
同月6日。片山半六を大将とする武衛衆約500人が攻めてきた。

 

Ⅲ期:刑部城は攻められ続けたが、防戦一方ではなく、反撃に転じて打って出たので、褒美を期待する。

【原文】同、「形部城へ敵度々討詰候事」(後半)

同廿七日 形部口より気賀へ働候衆七八百、
十二月一日 村櫛・新津へ詰候而、退候処を出合。しやうし淵にて、のふしはしかへさせ候き、
永正九年
正月十日 夜中ニ五百計、打詰候ツ、
同廿一日 人数五百計にて、形部口へてちかく打詰候き、
同三月九日 川むかいまて、七八百打出候ツる、
同十七日 気賀へ打詰、むきをなけ、一日野ふしはしかへ候き、引間ハ原口へ打詰、巳剋より未剋まてやいくさてちかく仕候、
四月六日 武衛衆・引間衆・井伊衆千五百計にて、三手ニ分、ほり河へ一手打詰、せめ入候を、形部より出合、おいこミ、ていたく仕候き、
同廿三日ニ武衛衆・井伊衆、下気賀まて打詰、むきをなけ、苗代をふミ返しのき候を、清水口へよこあひにのふしをかけ、さつゝゝにおいちらし候、
壬四月二日 武衛衆・井伊衆・引間衆太勢にて、村櫛・新津城へ取詰候而、新津のね小屋焼払候を、形部より村櫛へ七十計、舟にて合力仕候、
同三日 井伊谷へ朝かけニ形部より働候而、三人いけ取退候を、敵したい候間、城より出合候而、神明ふちにて、はたえを合をいこミ退候き、
其後も度々罷出候へ共、指儀不仕候処、則引間為御退治、御進発、原河ニ御座之後者、一向不相働候、
伊達蔵人丞忠宗、

※紙継目裏に「前上総介(花押)」。

【現代語訳】

同月27日。刑部口より気賀へ出撃した刑部城の城兵は、700~800人。
12月1日。村櫛の志津城(城主は今川方の大沢氏)へ詰め、帰る時に戦いとなった。「しょうじ淵」で野伏に橋替えをさせた。
永正9年(1512)、
1月10日。夜中に約500人が攻めてきた。
同月21日。約500人で、刑部口の近くに攻めてきた。
3月9日。都田川の対岸に、約700~800人が(刑部城から)出撃した。
同月17日。気賀へ攻めてきた。麦を薙ぎ、1日中、野伏は、橋替えをし、引間衆は、原口へ攻めてきた。
4月6日。武衛衆・引間衆・井伊衆が約1500人を3手に分け、(刑部城の出城である)堀川城へ一手を攻めさせ、堀川城へ攻め入ったので、刑部城から出撃して追い込み、手痛い打撃を与えた。
同月23日に武衛衆・井伊衆が、下気賀にまで攻め、麦を薙ぎ、稲の苗代を踏み返し退却したところを、清水口へ横合いから野伏を仕掛け、颯々に(さっと)追い散らした。
閏4月2日。武衛衆・井伊衆・引間衆が大軍で、村櫛の志津城を取り囲み、志津の根小屋(武家屋敷、城下町)を焼き払ったので、刑部城から村櫛へ援軍約70人を舟に乗せて送った。
同月3日。刑部城から井伊谷城に朝駆けして戦い、3名を生け捕りしたところ、敵が追撃してきたので、刑部城から出撃して、「神明淵」で、二十重(はたえ)に敵を追い返して、刑部城に退いた。
その後、何度も攻めてきたが、さしたることもなかったが、引間衆を退治するためにご出陣、原川村に着陣された後は、一向に戦いは行われなかった。

※「神明淵」「しょうじ淵」:所在地不明。地籍図には、刑部城の北に「菖渕」「榎渕」とある。「神明淵」は刑部村の神明宮(文化9年(1812)6月5日、都田川の氾濫で倒壊。再建せず式内・乎豆神社へ合祀)付近の淵、「しょうじ淵」は「障子堀」か? 「菖(しょう)渕」は「菖蒲の自生地付近の淵」、「榎渕」は「(「榎畑」もあり、)榎の巨木付近の淵」か?

※刈り働き・青田刈り・焼き働き:敵の領地に兵を送り込み、収穫間近の稲や麦を刈り取り、自陣に持ち帰ることを「刈り働き」という。こうして兵糧を得、敵は兵糧を失うという作戦である。稲や麦などが実っていない時期に刈り取ってしまうことを「青田刈り」、刈り取っている時間がない時に焼き払うことを「焼き働き」という。

 

刑部城付近の地籍図(写真1のアップ)>

 

PART2.井伊直虎時代の刑部城

2017年NHK大河ドラマ「おんな城主 直虎」第30回「潰されざる者」で、今川氏真が瀬戸方久宛に出した徳政免除の安堵状が登場した。

【原文】今川氏真判物(瀬戸文書)

於井伊谷所々買徳地之事
一、上都田只尾半名       一、下都田十郎兵衛半分(永地也、)
一、赤佐次郎左衛門名五分二 一、九郎右衛門名
一、祝田十郎名          一、同又三郎名三ヶ一分
一、右近左近名          一、左近七半分
一、禰宜敷銭地          一、瀬戸平右衛門名
已上
右、去丙寅年、惣谷徳政之義雖有訴訟、方久買得分者、次郎法師年寄誓句并主水佑一筆明鏡之上者、年来買得之名職・同永地、任証文永不可有相違。然者今度新城取立之条、於根小屋、蔵取立、商買諸役可令免許者也。仍如件。
永禄十一戊辰年九月十四日
上総介(花押)
瀬戸

方久

【現代語訳】

井伊谷(井伊領内)各所で瀬戸方久が買得した土地の件

一、上都田村の只尾の名の半分
一、下都田村の十郎兵衛の半分(永地である。)
一、赤佐次郎左衛門の名の五分の二
一、九郎右衛門の名
一、祝田村の十郎の名
一、同祝田村の又三郎の名の三分の一分
一、右近左近の名
一、左近七の(永地の)半分
一、(祝田村の蜂前神社の)禰宜が敷銭で買得した土地
一、瀬戸村の平右衛門の名
以上

上記の10ヶ所は、去る丙寅年(一昨年、永禄9年)、「井伊谷徳政令」(惣谷徳政)について訴訟があったが、瀬戸方久の「買得分」(買い取った土地)については、井伊次郎法師の「年寄」(家老)の「誓句」(起請文。公文書)、並びに、井伊主水佑(川手景隆)の「一筆」(証文)から明らかであるので、年来(以来ずっと)買得した名職(名。軍事奉公する在村被官の年貢負担地)・同じく永地(永代買取地)は、証文の通りで、違ってはならない。しかるに、今度、「新城」を建設するので、根小屋(新城の城下町)に蔵(食料庫、武器庫)を建設すれば、同地での商売の税金を免除する。よって以上の如し。
永禄11年9月14日
今川上総介氏真(花押)
瀬戸村の方久

この安堵状からは多くのことが分かる。

今川氏真は、「新城」の建設を計画しており、その根小屋(城下町)に建てる蔵(食料庫、武器庫)の建設費を負担すれば、同地に城兵相手の市(食料や日用品を販売する店)を立てても良い。そこでの商品販売については無税(楽市・楽座)とするという。

問題は「新城」とは、何城かということであり、学者の論文をあたると、

①不明
②新城(愛知県新城市)か?

とある。状況的に瀬戸方久が住む瀬戸村の近くの城であり、刑部城か堀川城である。学者に言わせれば、「今川氏真が、祖父の築いた刑部城・堀川城の存在を知らないわけがなく、刑部城や堀川城は「改築」であって「新築」「新城」ではない」という。

「古城」「新城」は、静岡県湖西市(浜名湖の西)の宇津山城の場合でも分かるように、近くにあるものである。(「宇津山」のピーク「高山」に築かれたのが「古城」で、その後、小ピーク「城山」に築かれたのが「新城」である。)

改めて地籍図の刑部城付近を見ると、「根古屋」「市場」という字名があり、「新城」とは刑部城であると考えるのが最も自然であると思われる。今川氏親が「城山」に築いた刑部城が「古城」で、今川氏真が「立やぶ」に築いた刑部城が「新城」だと。

しかし、私は、今川氏親が「堀川」に築いた堀川城が「古城」で、今川氏真(新田友作)が「大鳥居」に築いた堀川城が「新城」であって、上の安堵状の意味を「詰の城として堀川城を大鳥居に新しく築くので、本城の刑部城下に蔵を建てれば、無税の市(楽市)を開催しても良い」と解釈している。

また、安堵状に「名職」(軍事奉公する在村被官の年貢負担地)が多く出てくる。ということは、気賀(堀川城・刑部城周辺)から都田にかけて、多くの被官衆がいたことが想像される。位置的に考えて井伊家の被官衆であるが、城兵(今川家の被官衆)ではないだろうか。堀川城も刑部城も今川氏の城であって、城主はどちらも井伊氏ではない。

 

PART3.その後の刑部城

永禄11年(1568)12月、徳川家康軍は、菅沼定盈と「井伊谷三人衆」(近藤康用、菅沼忠久、鈴木重時)を道案内として、遠江国へ侵攻した(第32話「復活の火)。朝早く、井伊谷城(井伊氏居館)及び城山城(城山の掻揚城)を襲って落とした。井伊谷から信州街道を通って金指へ。さらに瀬戸へ進んで瀬戸方久に会い、渡河点(岩瀬)で都田川(瀬戸谷川)を渡ると、祝田城(井伊直親屋敷か?)で休憩中、菅沼隊に刑部城を攻めさせた。刑部城にいたのは、50人程度で、城は簡単に落ち、徳川家康は、菅沼又左衛門(菅沼定盈の叔父)を城主として置いた。

「井伊谷の三人衆、近藤石見、菅沼次郎右衛門、鈴木三郎太夫を案内者とし、菅沼新八郎、魁として、払暁俄に井伊谷の掻揚砦を攻撃せしめ玉ふ。武田方小野、松下、中野等狼狽し、忽没落せしかば、追撃して首級を得たり。菅沼新八郎定盈等、勝に乗て是より気賀刑部の砦を急に囲み攻る。敵兵、暫く防戦して、遂に逃送。定盈郎党にて叔父なりし同苗又右衛門を以て、此の砦を成らしめ、両砦陥る事を入山瀬へ注進す。」(『武徳編年集成』。「井伊谷の掻揚砦」は城山城、「気賀刑部の砦」は刑部城のこと。井伊衆も新田友作も今川方ではなく、武田方とある。井伊直政の配下に徳川家康によって武田遺臣がつけられたのは、徳川家は、井伊家がかつて武田方であったと考えていたためか?)

「兵を入山瀬に動し、軍士をして井の谷の地を攻撃。遂に井の谷の城を抜しめ給ふ。菅沼、忠節を尽す。菅沼・近藤を郷導との本坂に発して、刑部の城を陥し玉ひ、菅沼新八郎定盈が従士・菅沼又左衛門尉をして刑部の城を守らしめ玉ふ。」(『家忠日記 増補追加』)

「井伊ノ谷へ御出也。瀬戸之法林御目見申上、金指海道、浜松迄之御道筋、御案内仕(此時、法林岩松に御證文被下之)。爰に刑部之城主、勢を催し支へたり。菅沼新八郎一手之人数を以て、一時之内に責落し、家臣・菅沼又左衛門を入置、後、酒井左衛門尉入替る。」(『野田実録』。「瀬戸之法林」は瀬戸方久のことだと思われる。)

刑部城は今川氏親(今川義元の実父)の城で、刑部城の城兵の数は、斯波氏との戦いでは700~800人が出撃していることから、約1000人と推測されているが、彼の実子・今川義元が三河国を領し、刑部が遠江・三河領国の境目では無くなると、刑部城の存在意義が薄れ、城兵の数も減らされたようである。

今川義元時代の城主は、庵原忠良であったが、永禄3年(1560)の「桶狭間の戦い」での討死後は、長谷川秀匡が務めたようだ。永禄7年(1564)には、付近の武士の逆心もあり、城兵が減ったので、今川氏真は、城兵を応募すると、竹田高正ら牢人が各地から集まってきたという。なお、この年に逆心の匂坂一族・牧野伝兵衛・高林源六郎・気賀伯父甥は、翌年、匂坂長能の懇望により赦免された。

徳川家康の遠江侵攻時の城兵は、寄せ集めの牢人が50名ほどいただけで、菅沼隊が簡単に落とし、城主には菅沼又左衛門(菅沼定盈の叔父)が任命された。継いで酒井忠次、天方越中守が城主を務めたという。

 

「三方ヶ原合戦絵図(部分)」(江戸時代)に加筆

その後、徳川家康は武田信玄との、元亀3年12月22日(西暦1573年1月25日)の「三方ヶ原の戦い」に敗れ、刑部は武田領となった。

「三方ヶ原の戦い」後、武田信玄は「刑部砦」(前山、宿名)で年を越した。「刑部城」(新屋)とは別の場所であるが、同じ場所だと思っておられる方が多い。上の絵図の「小陣場・大陣場」が「刑部砦」である。(ただし、古文書によっては、「油田」で越年とある。武田信玄が「大陣場」にいたとしても、2万人以上の大軍であるから、刑部村にはもちろん、油田村にも武田軍が宿陣していたことであろう。)

※「三方ヶ原合戦絵図」の白い四角が城、または陣である。「城山」には今川氏親が築いた「刑部城」があり、「立やぶ」の白い四角は、今川氏真が築いた「新城」か。

後に徳川家康は刑部村を取り返し、服部中保次を刑部城の城主としたが、領内巡視中に「長坂」(姫街道)で暗殺されてしまったので、江戸幕府直属地となり、松下常慶が代官(6000石)になった。この松下常慶が「最後の刑部城主」とされ、刑部城は廃城となるのであるが、松下常慶が刑部村にいたことはほとんど無く、『中井家日記』によれば、3人の小代官に各2000石与えて統治させていたという。刑部は角岡氏、瀬戸方久領(方久は既に死亡?)に中井氏(史実は『井伊家伝記』にあるように山内新左衛門)、他は松下氏(松下常慶の一族?)の管轄である。

・松下助左衛門:井伊谷、神宮寺、小野、広岡、花平、横尾、奥山村
・角岡仁左衛門:上刑部、下刑部村
・中井与三左衛門:祝田、瀬戸、石岡、下都田村

 

PART4.刑部城の現状

老ヶ谷の一里塚

まずは三方ヶ原の台地の先端、「老ヶ谷」(「おいがや」であるが、土地の人の発音は「お~いがや」で、初めて聞いた時は「大井ヶ谷」かと思った。「古い谷」の意という)の「一里塚」(このあたりでは「一里山」という)へ。

 

「老ヶ谷の一里塚」付近

この「老ヶ谷の一里塚」の先で道は、左から、

①油田に下る道(未舗装)
②刑部に下る長坂(姫街道。未舗装の細道)
③刑部に下る長坂(舗装済の車道)

に分かれます。

刑部に下る「長坂」(姫街道)

道の右側に「服部中保次供養石碑」があります。服部中保次は、この一帯の領主となり、領内視察中、この場所で暗殺されました。犯人は見つかっていませんので、殺害動機は不明です。

一説に、今川義元と「桶狭間の戦い」で戦った服部小平太と名前が似ているので、地元の今川遺臣に討たれたそうです。

お墓は、この先の宗安寺にありましたが、その宗安寺が廃寺になり、右の崖の下に移されました。

崖の下の服部中保次の墓

9区地区コミュニティー防災センター掲示板

 

服部中保次の墓の前にある9区地区コミュニティー防災センターに掲示されている防災地図を見ると、松下家が数軒あります。松下常慶の分家(子孫)がここ(新屋)に移り住み、代々油屋を営んでいたそうで、そのご子孫の方々だそうです。

宗安寺(廃寺)

宗安寺に到着。

宗安寺は、「刑部城の戦い」の戦死者を弔うために建てられた寺だとされていますが、服部中保次の菩提寺とされています。現在は廃寺で、石段と石仏などが残るのみです。

「刑部城址」現地案内板(背景は油田の山)

刑部城址に到着!

上の写真は、東から西を撮っています。背景は、段郭らしきものがあり、「駐屯地」とされる山です。

「阿王山紫城とも呼ばれるこの城は、三方を都田川で囲まれた要害の地に築かれました。戦国時代の永禄11年(1568)12月、この地の人々がここに城柵を築いて立てこもり、徳川家康の軍と戦い敗れました。
現在、県道の北側に位置する城址には、今までも当時の犬走りや井戸が残っています。
姫街道の位置は現在とは異なり、この城の東側を通って落合川の渡し場へ通じていました。
細江町教育委員会」(現地案内板)

 

刑部城の北側に行ってみました。

清水口(大手)は途中で切れていました。山崩れで破壊されたようです。刑部口は、本丸と二之丸を南北に区切る堀切の北端付近にあります。

さて、登城!!!

刑部城址(北側)

堀切は、埋まってしまったのか、「V字」というより「U字」で、「道」ですね。南の居館へ行く道、あるいは、姫街道のショートカット。

本丸(広さは東西50m、南北30m)

本丸(比高10m)は、廃城後は畑として使われ、雨水を溜める直径1m前後の水溜が5ヶ所あり、井戸と間違えやすいのですが、井戸はもっと大きいです。

こちらが井戸です。

井戸

写真では大きさが分かりにくいのですが、直径約2m、深さ約4mあります。

八劔(やつるぎ)から見た刑部城

徳川家康の遠江侵攻時の刑部城は、約50名の小城で、菅沼隊だけで1日で落とされました。戦国前期の刑部城には約1000人がいて、斯波軍(武衛衆・井伊衆・引間衆)の攻撃を何度も跳ね返しています。

──この1000人はどこにいたのだろう?

城山の南麓の館に城兵(今川家臣団)、本丸の上の山の駐屯地に野伏かな。本丸の上の山は削られて姫街道になっているので、はっきりいません。

最後に「金襴の池」(現在は消失)の伝説を載せておきます。

落城直前の女たちの選択は、①搦手から逃げる、②自害するで、「井戸に飛び込んだ」という話はよく聞きます。刑部城の姫は池に飛び込んで金襴の蛇となり、佐久城(浜松市北区三ヶ日町都筑)の姫は浜名湖に飛び込んで城の堀に住む大蛇になったと伝えられています。

「金襴の池」切り絵看板

「金襴の池
昔、この辺には美しい金襴の蛇が住む大きな池がありました。
今から四百年余の昔、この近くに刑部城という小城があり、城主が数十の城兵を擁して守っていました。
その頃、浜松城に移って来た徳川家康は、その勢力を伸ばそうと戦いを繰り広げ、ついに家康の配下が多くの兵を率いてこの城に攻め込んできました。その勢いはものすごく、ひとたまりもなく敗れてしまいました。
その時、刑部城主には一人の美しい姫がおりましたが、姫は敵兵にかかって恥をさらすのを嫌いこの池に入って金襴の蛇に姿をかえ、池に住んでいるいうお話です。
また、この池には一つ目の小僧がいて時々日向ぼっこをしに姿を現したとか。これが世に言う河童だったのでしょうか。あるいは、姫の家来が姿を変え、姫に仕えていたのでしょうか。
しかし、今この金襴の池も埋め立てられ現在は残っていません。
*金襴=錦のきれいに金糸で模様を織り出したもの(現地切り絵看板)」

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

-井伊家を訪ねて

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