大河ドラマの世界を史実で深堀り!

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龍雲寺(静岡市葵区沓谷3丁目)

井伊家を訪ねて

しのが嫁いだ松下氏 あの豊臣秀吉が最初に奉公した松下親子と同族だった

永禄11年(1568)3月14日、今川家のゴッドマザー・寿桂尼が亡くなった。

享年は不明であるが、アラエイティ(80歳前後)と考えられている。

今川の将来を心配していた彼女は、

──わがむくろ、艮にはうむるへし。死してなほ、今川の家を護らむ。

と書き残して息を引き取った。

※男だったら、遺言ではなく、辞世を残したかな。私だったら、最後の力を書くことにではなく、「誰かおらぬか!?」と叫ぶことに使うだろうな。

※ノートが顔の左側にあったのは、左利きだからではなく、演出。あと、私が演出家だったら、目は閉じず、大きく見開いて、鬼の形相で死んでいただくけどね。でないと、遺言の内容と表情がマッチしないので。「死の帳面」の字は、漢字が多いことから、配下に調べさせて、本人は「✕」を書いただけだと思われますが、今回は仮名が多く、間違いなく自筆でしょう。

※ドラマでは今川駿府館に住んでいて、そこで亡くなったという設定のようですが、番組最後の「直虎紀行」で紹介されたように、晩年は龍雲寺で過ごしていて、龍雲寺で亡くなりました。

※お墓は、夫・今川氏親が眠る菩提寺・増善寺(静岡市葵区慈悲尾)ではなく、遺言通り、駿府今川館の鬼門(艮・うしとら)にある龍雲寺(写真1。静岡市葵区沓谷3丁目)にあります。

──「尼御台」とも、「女戦国大名」とも異名を取った寿桂尼は、今川家混乱の最中、遂に帰らぬ人となった。長年に渡り、男達には、時に敵となり、味方となった女子じゃった。女達にとり、敬愛と畏怖を同時に覚えさせる女子じゃった。そして、直虎にとっては、恐らく、その全てじゃった。(by 龍宮小僧)

※「淵の中の龍宮小僧」は、「井の中の蛙」と違って、事情通ですね。

「カリスマ」と呼ばれた女性の特徴は、「超絶美しい」か、「超絶怖いか」だそうですが、超絶美しくて超絶怖い「浅丘寿桂尼」でした。合掌。

 

第29話 「女たちの挽歌」 あらすじ

──寿桂尼が生きてるうちは駿河国を攻められない。

と言っていた武田信玄は、寿桂尼が亡くなると、駿河侵攻の口実を探し始めた。

これに対し、井伊直虎は、徳川が上杉と結んで、徳川・上杉同盟と、今川・北条同盟で武田を取り囲めば、武田は身動きできない、戦いは起こらないと地図を見ながら考え、築山殿を通して、徳川家康に上杉と組むよう進言した。

徳川家康は、上杉謙信と組もうとするが、「武田に歯向かうことは、武田と同盟を結んでいる織田に歯向かうことに等しい」と家臣に忠告され、廃案となる。

※徳川家康が上杉謙信と組もうとしたことは、上杉家臣・河田長親から徳川家臣・酒井忠次&石川家成への永禄11年3月13日付けの書状から分かる。つまり、徳川家康が上杉謙信に同盟を申込んだのは、寿桂尼の死の直前だったと考えられる。寿桂尼が死ねば武田が動くと考え、寿桂尼の容態が悪くなると、先手を打ったのであろう。

徳川家家臣は、井伊直虎の進言を、「戦いが起きない策」ではなく、「今川を救う策」ととらえ、「今川忠臣と名高い井伊が、今川から離反し、徳川に付くと言うのであれば、証拠を見せろ。人質に虎松の母親を出せ」と言ってきた。徳川としては「虎松を」と言いたいところであろうが、それでは今川に井伊の離反がバレるので、配慮して下さったのであろう。

虎松の母親・奥山しの(ドラマでは「ひよ」。以下同じ)は、龍潭寺に「梛(なぎ)」を植え、井伊谷から引間へ。その井伊谷に虎松の笛の音が鳴り響いた。それは、悲しい調べではなく、力強いものだった。「笑って送り出して下さい」と言う母の門出を祝う虎松からのエール、ファンファーレであった。

寿桂尼が亡くなった3月14日は、新暦の4月11日である。

遠州では、GW(4月末~5月初)に合わせるかのように藤が咲く。(藤の名所は、築山殿の供養碑がある西来院の長藤など。)

  今川の世が乱れけむこの後は
        松に巻き付く藤になるらむ

(今川の統治が乱れ、再び戦いが行われる。そうなれば、松(松平=徳川)という支木に巻き付く藤(藤原=井伊)になろう。)

※井伊氏初代共保は、藤原共資の子で、井伊氏は藤原氏である。

 

 

武田信玄の二枚舌

武田信玄は、ドラマでは山県昌景(史実では穴山信君)を窓口である徳川家臣・酒井忠次のところへ向かわせ、「今川氏真を同時に攻め、大井川より西(つまり遠江国)を徳川家康、東(つまり駿河国)を武田信玄がとる」という「今川領国分割領有の密約」を交わした。

『濱松御在城記』の永禄11年の記事には、この密約の中人を織田信長が務めたとあるが、最近の研究では、将軍・足利義昭ではないかという。

「信玄と大井川を境として、駿州は武田、遠州は権現様、御切り取り成され候様にと、国きりの御約信御座候。此取り持ちは信玄公。」(『濱松御在城記』)

また、武田信玄は、ドラマでは山県昌景を今川氏真のところへ向かわせ、「遠江国を渡せば、上杉と組んだことを忘れても良い」と言うと、「そちらこそ和睦を破っておる」と、今川忠臣・朝比奈泰勝(井伊直親を成敗した掛川城主・朝比奈泰朝の一族)が、武田が調略した今川家臣・水野忠勝と梶水彦介の干し首2つをつきつけると、山県昌景は、「これで戦になる」と笑みを浮かべながら干し首を持ち帰った。

※前回掲載の『甲陽軍鑑』品第三十四「氏真、信玄、仲悪しく成る事」には、永禄11年5月、武田信玄は、使者を送って「東三河を渡せば、徳川家康を成敗する時に合力する」と今川氏真に伝えると、今川氏真は断り、「武田信玄に寝返った水野忠勝を永禄10年12月22日に成敗した」と言い、「これが逆心の証拠である」と、武田信玄が水野忠勝に送った密書を使者に持たせて武田信玄のもとへ帰したので、今川と武田の関係が悪化したとある。

──血の気が多い。

武田と同盟を組んじゃった酒井忠次にしろ、首を転がしちゃった朝比奈泰勝にしろ、主君を差し置いて、やり過ぎじゃない?

今川、徳川といった大名家には多くの家臣がいて派閥を作り、大名による全家臣の統率は難しいと思われるが、井伊家の規模であれば、「一枚岩」の団結・・・のはずであるが、瀬戸方久の動きが・・・塩留なのに塩を密売するなど、怪しく、危うい。

井伊直虎「新たに蔵を建てる?」
瀬戸方久「ええ。近く、今川様に願い出ようかと。戦備えで思うたより多くの引き合いがあり…」
井伊直虎「戦備え・・・」
瀬戸方久「いやぁ、これは、稼ぎ時でございますよ」

「戦近し」とピリピリしている時に、なんとまぁ、脳天気なこと。戦となれば、井伊家家臣、堀川城代として、堀川城の城兵を率いて戦うことになることが分かってない? 売るんじゃなくて、井伊のため、自分のために確保しろって。

 

(つづく)

 

今回の言葉 「先可案此書(先づ此書を案ずべし)

必莫廃学文  必ず学文を廃することなかれ。
故末代學者  かるが故に末代の学者、
先可案此書  先づ此書を案ずべし。
是學問之始  是学問の始め、
身終勿忘失  身終はるまで忘失することなかれ。

【出典】 『実語教』

じつごきょう【実語教】 往来物の一つ。平安後期に起源をもち、近世まで使われた道徳教科書。作者不詳。五字一句、九六句で構成。内容は児童に向けた学問のすすめ。智と財を対比させ、智を財をこえる無限の価値として強調し、その智を得るため学問に励むべきことをさとす。平安後期以後の貴族・寺社での道徳教育の実態を知る好史料であり、中世から近世に及ぶ同書の膨大な注釈書は、その道徳観の社会的拡大と歴史的発展をたどる好素材である。(山川出版社『日本史広辞典』)

「智を財をこえる無限の価値として強調」・・・瀬戸方久に読ませたい『実語教』は、江戸時代の寺子屋で用いられたテキストで、内容は、「山高きがゆえに貴からず、木有るをもって貴しとす」等、修身のテキストであり、文字は習字のお手本を兼ねていた。また、「先づ此書を案ずべし」と暗記する本でもあり、今回、虎松が暗唱した上掲の部分は、最終5句である。つまり、虎松は、1冊まるごと暗記したということである。

また、井伊谷では『遠州往来』という往来物も用いられたようである。

 

キーワード:松下氏

祖山和尚が書いたとされる『今村家伝記』には、遠江国城東郡新野郷(静岡県御前崎市)の新野親矩が井伊氏の本拠地・井伊谷に移ると、同郷の松下与右衛門、松下源太郎、勝間田藤七郎(後の今村藤七郎)も井伊谷に移り、松下与右衛門は井伊直平に仕え、松下源太郎は若輩者であったので井伊直盛の近習となり、勝間田藤七郎は井伊直満の家老になったとあります。

「松下源太郎清景(松下清景)は、徳川家康が遠江国へ侵攻すると、弟・松下常の推薦で徳川家臣となり、古城(引間城)の大手門「霜垂口(下垂口)」付近に屋敷を建てて住み、井伊直親の後家・奥山ひよと再婚した」が通説ですが、徳川家康の遠江国侵攻時に松下常慶は10歳でしたから、「弟・松下常慶の推薦で」とは思えません。また、松下清景と奥山ひよの結婚の時期は不明ですが、ドラマのように永禄11年の藤の頃ではなく、徳川家康の遠江国侵攻後のことだと思われます。

松下兄弟の本拠地を『今村家伝記』では、城東郡新野郷の新野親矩と「同郷」としていますが、松下氏の本拠地は山名郡松下村(現在の袋井市浅名)で、勝間田氏の本拠地は榛原郡勝間田村(現在の牧之原市勝田)でしょう。

松下氏の氏祖・松下高長の本貫地は、三河国碧海郡松下郷(現在の愛知県豊田市上郷町松下)で、山名郡松下村(位置は写真3参照)は、「松下屋敷が建てられたので、地名を『松下』とした」とのことです。また、正福寺には松下兄弟の墓があったそうです。(古文書に、松下屋敷は袋井市西ヶ崎にあったとありますが、西ヶ崎は高天神城の落ち武者が開いた集落で、それ以前に家は無かったようです。)

正福寺跡(静岡県袋井市浅名)

宗良親王が浅羽にやって来られて、南北朝の戦乱の戦死者の霊を弔うために「馬伏塚」を築いたとされていますが、その思い虚しく、戦国時代には再び戦場となり、「馬伏塚城」が築かれました。「馬伏塚城」の現地案内板の縄張り図(原版は浅野文庫)に「松下村」とあります。(ちなみに、井伊直政の初陣は、天正4年(1576)2月7日に武田勝頼と戦った「芝原の戦い」とされていますが、 その「芝 原」の位置は不明です。一説に下の縄張り図の「芝村」の原だとされています。)

「馬伏塚城」現地案内板(静岡県袋井市浅名)

■浅野文庫古城之図「馬伏塚城」(広島市立中央図書館蔵)

※正福寺:享禄2年(1529)創建。曹洞宗龍巣院末寺。ご本尊は地蔵菩薩。廃寺(龍巣院が吸収)

・松下清景(?-1597):源太郎、源左衛門、不全、不染、不善
・松下安綱(1558-1624):常慶入道、浄慶、若名蔵主

※永禄11年(1568)現在、松下常慶(白山修験・二諦坊)は10歳である。ドラマに登場する修験者は、秋葉修験・叶坊浄全(加納坊。後の秋葉山別当・茂林光幡)であろう。浄全は、浄慶と不全を合わせたような名なので、間違えられたのではないか。清景(きよかげ)も筆記体で書くと情景(じょうけい)に見えるから、間違われそうだ。

松下安綱(常慶)の兄・清景は、井伊直盛の近習でしたが、成長して「井伊谷七人衆」のメンバーとなりました。市田郷から亀之丞(後の井伊直親)が井伊直満の家老・今村(勝間田)藤七郎と共に帰ってくると、今村藤七郎は、井伊直親の家老になりますが、井伊直盛は、「井伊直親も今村藤七郎も井伊領の現状が分かっていない」として、松下清景も井伊直親の家老として付けました。したがって、奥山ひよにとって、松下清景はよく知っている人物なのですが、亡夫の家臣ですから、政略結婚とはいえ、「落ちぶれたものだ」とプライドが傷つきそうです。

松下屋敷跡(静岡県浜松市南区頭陀寺町)

豊巨秀吉が生まれて初めて奉公したという松下氏(松下長則・之綱親子)は、松下兄弟(松下清景・安綱)の一族(松下国長の子から三家に分離)で、頭陀寺の寺侍として、あるいは、引間城主・飯尾連龍の家臣として、頭陀寺の「松下氏屋敷」に住んでいました。

《松下氏系図》

松下高長─長信─国長─国綱─定綱─長則─之綱

└連長─安秀─連昌─清景・安綱

└長範─為雲─高信

 

キーワード:奥山ひよ(しの)

武将である夫が死ねば、妻は、嶺松院(ドラマでは鈴)のように実家に帰るか、祐椿尼(井伊直盛室)のように出家して夫の菩提を弔うものです。

が、奥山ひよは、そのどちらもしていません。(実家の奥山に帰らず、龍潭寺の塔頭「松岳院」(ドラマでは「新野屋敷」)にいて、出家はしていません。)

奥山ひよ座像(方広寺)

「虎松の後見人」を名乗って、領主にもなっていません。(寿桂尼は、夫・今川氏親の死後、幼い宗主・氏輝(寿桂尼の子)の代わりに政治を行ったので、今川氏研究者・久保田昌希氏は、「女戦国大名」と名付けました。)

──井伊直虎は、虎松の養母だった。

という伝承があり、「実母・ひよがいるから、養母はいらないだろ。おかしな伝承だ」と思っていたのですが、今回、奥山ひよが結婚して、虎松から離れたので、井伊直虎が虎松の養母になったと、ドラマでは、伝承を、絶妙に取り入れています。

──梛の木だ。災いを避ける木とも、良縁を結ぶ木とも言われておる。愛しい者の無事を祈る木とも…。(by 井伊直虎)

梛(ナギ)の葉は「災厄避けのお守り」として、武士は、戦場に向かう時、兜や鎧に付けました。

また、雌雄異株な上、葉を引っ張っても容易に切れない「弁慶泣かせ」であることが「縁が切れない」に通じるとして、葉は夫婦円満や縁結びのお守りとしても使われています。有名なのが、源頼朝と北条政子の密会場所であった伊豆山神社の「梛の葉守り」でしたが、ご神木保護のため、2014年、授与が中止されました。

参考サイト「梛」

奥山ひよは、松岳院の横に梛を植え、子育て地蔵を祀ったと伝えられています。

 

「龍潭寺「梛(なぎ)の木」

井伊家二十四代井伊直政(幼名虎松)幼少の頃井伊家の安泰を念じて植えられた神木です。
一五六〇年(永禄年間)当時の井伊家は、二十二代直盛の戦死、二十三代直親が誅殺され、家老小野但馬の謀反など受難の時期でした。

直政母子は龍潭寺松岳院に身を寄せ、お地蔵様を祀りその傍らに「なぎの木」を植えて我が子の安泰を日々念じたといわれます。
「なぎ」は風や波が穏やかになる例えで、昔から厄除け災難が収まるとも云われています。

平成二十三年五月 奥浜名湖観光連絡協議会」(「梛の木」現地案内板)

奥山ひよが植えたという梛の木(左)と「子育て地蔵」(右)(龍潭寺)

「子育て地蔵 -虎松の無事成長祈願仏-
戦国末期徳川軍団筆頭となり、彦根十八万石城主に出世した井伊直政は、幼名を虎松といいました。虎松は幼少の頃、井伊谷で実に苦難の道をたどります。
永禄五年(一五六二)虎松二歳の時、父直親は今川氏真の手により、掛川城下で殺されます。虎松も殺す命令が出ますが、家老新野左馬助の助命嘆願で救われました。この事件以後、井伊氏は存亡の危機を迎えます。
永禄六年二十代直平公出陣の途中急死、翌年井伊城代家老中野信濃守が引馬城攻めで戦死します。そしてついに永禄十一年(一五六八)秋、虎松八歳の時、井伊領を家老小野但馬が横領します。
この時期虎松母子は、祖母・叔母に保護され龍潭寺内松岳院に身を寄せていました。直政の母はお地蔵さまを造り、密かに境内に祀り、その傍らに神木「なぎ」を植え、我が子の安泰を日々念じていました。
永禄十一年十二月徳川家康が侵攻、井伊領を占拠します。危機を察知、南渓和尚は虎松を鳳来寺に預けます。無事にたくましく成長した虎松は天正三年(一五七五)十五歳で家康に出仕、見事に井伊家を再興したのです。」(「子育て地蔵」現地案内板)

 

キーワード:龍雲寺

「竜雲寺(洞谷山竜雲寺)

竜雲寺は、守護大名今川七代の当主氏親の夫人龍雲寺殿峰林寿桂大禅定尼(寿桂尼)の菩提寺である。

寿桂尼は京都の中御門権大納言宣胤の女で、永正五年(一五〇八)今川氏親に嫁して、三男四女を生んだ。氏親は晩年、中風気味で自ら国政をとることが困難であったため、夫人の内助によるところが多かったと言われている。大永六年(一五二六)氏親が五十六歳で亡くなると夫人は髪を切り、翠光院寿桂(後に長膳院)と号し、氏輝、義元、氏真三代約四十年の永きにわたり政務を補佐し、守護大名今川氏の繁栄をもたらした。ことに永禄三年(一五六〇)五月、尾張国桶狭間における義元公の戦死は今川方にとって決定的打撃となったが、その間に処して沈着よく事をはこび兵をおさめて論功を行い、今川家の回復をはかり、外敵の進入を受けることなく国内の平静を保ったのは、尼の力に負うところが大きかった。永禄十一年(一五六八)駿府の館で没したが、遺命により、駿府の鬼門にあたる当寺に骨を埋め、永く今川館を護ろうと念願したと伝えられている。

墓所は、寺の背後にあって、五輪二基のほか石塔があるが、そのいずれが尼公の墓であるのかさだかでない。

昭和五十八年十月

静 岡 市」(現地案内板)

寿桂尼の墓(中央)。左は妹・黒木の方の墓だという。(龍雲寺)

さて、次回は、寿桂尼のしくんだ「死の帳面」作戦が発動!

 

井伊家の運命、そして、瀬戸方久の処分はいかに!?

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

-井伊家を訪ねて

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