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大河マニアックス

「綿毛の案」とは「綿花栽培の試み」のこと

井伊家を訪ねて

遠州名産、綿の栽培やらまいか 直虎は「乱取り(&人身売買)」の意味をわかっとらん?

井伊直虎が、豪商の瀬戸方久を重臣に加えて「井伊谷七人衆」としたのは、今で言えば、総理大臣が民間の一流企業の社長を経済産業大臣とするようなものであろうか?

「確かに我は、瀬戸村と祝田村は方久の所領とした。じゃがそれは、井伊家の借金を無くすためではなく、お主らの返済のためでもあるのじゃ。方久の所領となれば、方久には年貢が入るようになる。それをもって返済を猶予してもらう事にしたのじゃ。方久は欲深じゃ。借金を棒引きにはしてくれなんだ。なれど、村を任せば、そなたらが今より潤い、自ずと借りが返せるような仕組みを作ると言うてくれた。ならば、その方がよくはないか? 方久は、真のところ、何を考えておるか、計り知れぬところはある。 じゃが方久は、己を『銭の犬じゃ』と言った。銭のためなら何でもする。己の所領となれば、己の意地にかけて村を潤すと思う。そして、そのために欠かせぬそなたらを無下に扱うような事はせぬ。我はそのように信じておる」(第14話「徳政令の行方」より)

従来の方法に行き詰まりを感じた時は、とんでもない方法をとると解決することがある。
たとえば、「大うつけ」と呼ばれた織田信長は、天候に左右される農業中心から商工業中心に切り替えて成功している。

閉鎖感の打破は、奇人・変人に任せるのが良い!?

A new broom sweeps clean.
(新しい箒はよく掃ける。)
という。
新任者は意欲的に仕事をする。

瀬戸・祝田両村の領主となってやる気満々の瀬戸方久が打ち出したのは、
──三年荒野
であった。

この「三年荒野」という用語は、私の相棒『日本史広辞典』(山川出版社・最近は『角川日本史辞典』の方が人気があるが、『角川日本史辞典』が16000項目収録なのに対し、『日本史広辞典』は48000項目収録)には載ってなかった (ノ_-。)
関連用語(?)の「荒野」「地子免許」「鍬下年季」は載っていたので、載せておく。

こうや【荒野】 一〇世紀後半以降、荒廃し野に返った既耕地のこと。令制下では開墾可能な未開地をさした。荘園公領制下では、開発対象地と位置づけられ、在地領主・下級貴族・寺僧・神官・百姓など諸階層が積極的に開発した。一二世紀には、荒野開発は所当公事の免除や三~四カ年の地子免除をうけた。開発者の本主権は強固で、そのため鎌倉時代の東国では荒野開発で成立した新田について荘園領主の検注権を否定した事例がある。農民が牛馬の放牧地として荒野を利用することもあった。畿内では、荒野が私的に細分化され、相伝・売買・譲渡された例がある。

※瀬戸の西隣の金指(かなさし)の荒野は、馬の放牧地であり、井伊家の馬場(駒場。馬に乗る練習をする場所)であったという。

じしめんきょ【地子免許】 中世末~近世に、屋敷地年貢である地子を、特権の表象あるいは他の役負担などの代償として、国家や領主がとくに免じること。本来は屋敷地所持者である百姓・町人に対し個別的に行われるが、城下町建設時などに際して町人優遇策、あるいは宿駅設定時に伝馬役負担者への代償として、広い範囲でいっせいに実施されることもあった、

※今川氏真が瀬戸方久に出した判物には、「今度新城取立之条、於根小屋蔵取立商売諸役可令免許者也」(今度、新しく城(刑部城?)を築くので、根小屋(地名)に蔵(武器庫、食料庫)を建てて商売することや諸役を免除する)とある。

くわしたねんき【鍬下年季】 新田開発をしてから一定期間は年貢・諸役を賦課せずに、開発者の作取とすること。戦国期からみえ、天正一五年(一五八七)二月二〇日付の徳川家康の定書第二条にも「新開作の田畠等開発次第弐ヶ年の間年貢赦免せしめ」とある。年限は開発の難易度などにより決定された。三~五年が多いが、なかには一〇年、二〇年というのもあった。

※「鍬下年季」は、荒野開発関連用語というよりも、新田開発関連用語である。

ワタの木と実(豊田佐吉記念館/静岡県湖西市)

《用語確認》
ワタ:アオイ科ワタ属の植物。熱帯または亜熱帯地域が原産の多年草。約40種。
綿花(棉花、めんか):商品作物としてのワタ。

綿(わた):塊状の繊維全般を指す語。
棉(めん):摘み取った状態の物。実綿。
綿(めん):種子を取り除いた後の状態の物。繰綿。
木綿(もめん):ワタの実の繊維。紡いで「木綿糸」とし、織って「綿布」とする。
※インドで栽培されているのは「茶」「綿花」で、特産物は「紅茶」「木綿」である。

綿花栽培には、降霜のない長い期間(200日以上)と600mm~1200mm程度の降水量が必要とされ、この気候条件を満たさない地域での栽培は難しい。
日本では、東日本や北日本、高地での栽培は困難である。

個人的には、井伊谷での殖産興業は、井伊領はほとんど山間部であるから「紙」の生産(前回、大量の紙が使われたが、龍潭寺だから用意できたのであって、紙は超高価なのだ)、龍潭寺が臨済宗だけに「チャ」の栽培、家紋が橘だから「ミカン」の栽培がいいかと思う。

井伊領の特産物には、久留女木の鮎や、祝田の松茸がある。
他には鹿や猪の肉。江戸時代は綿織物と製材業が盛んだったようである。

 

第15話 「おんな城主 対 おんな大名」 あらすじ

駿府から無事帰国した井伊直虎に、瀬戸方久が見せたのは、綿花の種であった。
早速、瀬戸村の荒野を開墾して種を蒔く。

再び『日本史広辞典』(山川出版社)より。

めんさく【綿作】 綿花を栽培すること。起源はインドとみられ、日本では室町中期頃から行われた。当初は三河木綿・三浦木綿・熊谷木綿などが知られるように、東海地方が中心であった。(以下、近世以降の記述であるので略)

しかし、
「売るほど育てるにゃ、人が足らんかと」(by 甚兵衛)
と言われた。

そこで、井伊直虎が考えたのは、
──人を借りる。

閉鎖感の打破は、突飛な考え方をする奇人・変人に任せるのがいい。ところが、「常道」と違い、「突飛な考え」は成功するとは限らない。

「やってみねば、分からぬではないか」(by 井伊直虎)

これは、現代の浜松市民の「やらまいか」の戦国時代語訳である。
浜松市民の「やらまいか」精神は戦国時代からあったのである。

ちなみに、中野直由役の筧利夫さんは、平成19年度の「浜松市やらまいか大使」(浜松市の魅力を国内外に広く発信することを使命とした親善大使)に選ばれている。そうそう、言葉といえば、「きばる」は関西弁で、遠州では使わないかと。
とはいえ、さすがにこの中野直之の戦争時の「合力」の話からヒントを得た案は無謀であり、人は借りられなかった。

次に考えたのは、龍雲丸の「人を買う」という案であったが、瀬戸方久は、「人買い」(業者)から買うと高いので、戦場に行って奪う「濫妨取り」(略称:乱取り)をすればいいという案を述べた。

『日本史広辞典』(山川出版社)にはこう書かれている。

らんぼう【濫妨】 乱妨とも。実力行使をともなった不当な掠奪・権利侵害のこと。とくに中世に、訴状・陳状などの訴訟文書で広く用いられた。中世社会で「不当な」というのは、対立する一方当事者側が相手側の行為を非難する主観的な言い分であることが多く、「濫妨」行為主体の側からは「正当な」権利にもとづく行為であると主張されることが少なくない。

以上のように法律用語のようであるが、合戦後の「乱取り」とは、合戦後に勝者が、負者の領地から物や人を略奪する行為である。
物は市で売られ、人の多くは女性で、まずは強姦(レイプ)し、奴隷にするのであり、拒否した者は殺したという。
そしてこれらの略奪や強姦は悪事ではないとされていた!

勝てば良し、負ければ死。戦国時代は、合戦に勝つためにも、勝ってからも、何をやっても許される狂気の時代である。

さて、「乱取り」で得た女性奴隷は、国内では逃げられるので、国外に性奴隷として売られることもあったという。
人身売買の相場は、「人買い」を通すと1人2貫文(約30万円)であるが、「乱取り」後の「人の市」では1人25文(約4千円)。
自分で奪えば無料であるので、そうして人を得ようと瀬戸方久は提案したのであるが、井伊直虎は、こういう状況を知らなかったのか、お金で買えるなら苦労しなくて済むと思ったのか、この案に賛同した。
普通の女性ならば、怒り、「我は勝っても乱取りは禁止とする」と言うと思う。

では、どこで「乱取り」が行われるか?
言い換えれば、どこで合戦が行われるか?
それを知る必要があり、瀬戸方久は、自ら運営する茶屋で情報を得ようとした。「噂を拾えばいい」と考えたのである。

が、そこに、小野政次が現れ、
──噂を流されてはいかがか。
と『孫氏』「用間篇」の兵法の極意を伝えた。
情報を、情報が欲しがっている人に直接伝えれば良い効果が得られる──讒言で邪魔な井伊直満・直親を今川氏に殺させたとされる小野氏ならではのアドバイスである。

この案には「銭の犬」こと瀬戸方久も「噂は拾うだけでなく、作り、流すことも出来るのか」と感動し、「皆々様、今日はお代は頂きませぬ。その代わり、この事を行く先々で話の種になさって下さると、これ、幸いに御座います」と『淮南子』「氾論訓」の「寸を詘げて尺を信ぶ」(小利を捨てて大利をとる)で返した。
現在の商法の「口コミ」「ステマ」である。

「松平は渋いのか」
「あそこは貯め込むのが好きじゃからな」
「やり難い話じゃ」
「鷹だけが売れるらしいぞ」
「鷹?」
「お鷹狩の鷹か?」

……では、鷹を得た時は、売りに行こう。

瀬戸方久にしても、松平家康(ときは永禄8年5月。「元康」から「家康」に改名したのは永禄7年で、「徳川」への改姓は永禄9年である)にしても、大金持ちはお金を使わずケチというか、よく言えば倹約家であるから金が貯まる。しかし、ここぞという時、あるいは自分が好きな物には、ど~んとお金を使うのもお金持ちである。

綿花の芽も出た。
綿花は、基本的に熱帯~亜熱帯の植物であるから、ミニ氷河期が訪れていた戦国時代の日本では栽培しにくい。しかも、永禄8年は天候不順で作物が育たず、それが永禄9年の徳政令要請のきっかけとなった。

種は1穴に3粒ずつ蒔いていたが、発芽したのはどの穴も1本。発芽率33%は低すぎる。
ちなみに、イネの場合、浸種水温が10度以上か未満かで発芽率は大いに異なる。コシヒカリの場合、適水温は12度で発芽率90%、5度だと発芽率80%で、苗立ちも不良だという。

《現在のワタの栽培方法》
①水はけがよく、日当たりの良い場所に植える。
②肥沃な土地だと、枝は成長するが、実が落ちやすくなる。
③種は2~3時間、水に浸してから蒔く。
④品種によっては草丈1m以上で、横にも広がるため、収穫のことも考え、畝幅は70~90cmで、50~60cm間隔とする。
⑤1つ穴に2~3粒ずつ蒔く。(発芽後、間引きして、元気のいいものを1本残す。)蒔く次期は最高気温が20℃位の頃(5月頃)。
⑥覆土は、種が隠れる程度に薄目にかける。
⑦発芽後、10cmくらいの草丈で、1ヶ月~1ヶ月半、ほとんど成長しない。この次期は、根が張る時期であり、水をやり過ぎたり、長梅雨だと、根ぐされする。7月に入って気温が上がり、日照時間が長くなると、急激に成長する。8月には花が咲き、9~10月にコットン・ボールをつける。

次回の殖産興業は、「種子島」(火縄銃のこと)の生産。
(つづく)

 

今回の言葉 「人の口に戸は立てられぬ」

ここでいう「立てる」は、「戸や障子を閉める」という意味。
「人の口に戸は立てられぬ」とは、「口の戸(シャッター)は閉められない」ということであり、世間の噂話や評判は、防ぎようがないという例えです。

普通は「悪事千里を走る」「好事門を出でず、悪事千里を行く」と同義とされ、「悪い噂は広がりやすい」と解しますが、「良い噂」も広がるものです。

──A new broom sweeps clean.
新任者はとにかく張り切ります。
率先垂範、師弟同行と何でも自分でやってのける。
それは、1つのリーダー像ではありますが、肉体的には疲れます。熟睡してしまい、始業時刻に遅刻することもありそうです。

今回の話で言えば、村々を回って「人を貸して」と頼むより、茶屋に群がる人々に、行く先々で「好条件の働き口がある」と広めてもらう方が効果があったわけです。

──良いリーダーは人を使うのが上手い。
豊臣秀吉は、人を褒めたり、持ち上げたりして動かすのが得意で、「人たらし」と呼ばれています。
井伊直虎には、豊臣秀吉の爪の垢を煎じて飲んでいただいて、「小野政次は嫌いだから使わない」ではなく、「使える部分は使う」「小野政次の頭脳を利用してやる」と頭を切り替えたら、「ここは家老殿の御知恵を拝借」と頼める余裕が生まれたら、さらに一歩、名君(偉大なリーダー)に近づくのでは?

──人の口に戸は立てられぬ。
今川家の超極秘事項「寿桂尼が倒れた」は、なぜか菅沼忠久に伝わり、小野政次に伝えられました。寿桂尼のいない今川氏・・・どうなるのでしょう?

 

キーワード:綿花伝来

「鉄炮伝来は?」
と問えば、中学生以上の日本人であれば、
「1542年か1543年で、種子島」
と答えられます。

ところが、
「今川氏の本貫地は?」
「綿花伝来は?」
と尋ねても、
「今川氏の本貫地は、愛知県西尾市今川町」
「綿花伝来は、799年で、愛知県西尾市天竹(てんじく)町」
と答えられる人はまずいませんでした。今日までは。

綿花の種をもたらしたのは天竺人で、それは黄色い花が咲く「黄種」の一種の「紀波陀」(三河では棉を「着波陀(きわた)」という)という品種の種でした。
種が入っていた「宝壷」は、矢作古川の堤防改修工事の時に発見されたそうです。

天竹神社(愛知県西尾市)

境内の由緒書(天竹神社)

「御由緒
棉祖神
今からおよそ千二百年むかし桓武帝延暦十八年七月この地に天竺国の一崑崙人が漂着し壺に入れた綿の種のまき方や栽培方法を教えわが国に初めて綿を広めた。その崑崙人の古画像がこの地の地蔵堂に伝わり近隣の人々はこれを棉祖神とあがめ延命長寿の神として祭ってきた。
明治十六年当村下登地籍よりこの地に神明社を移転建造して産土神とした時この棉祖神を国家の有功な神霊として祭るため有志により近隣等の賛同を得てこれを新波陀神とし天照大御神と併せ祭った。今も綿の種を入れた壺は宝壺と称して残っている
昭和五十八年九月 天竹社」

延暦18年(799)7月
「是月。有一人乘小船。漂着參河国。以布覆背。有犢鼻。不着袴。左肩著紺布。形似袈裟。年可廿。身長五尺五分。耳長三寸餘。言語不通。不知何国人。大唐人等見之。僉曰。崑崙人。後頗習中国語。自謂天竺人。常彈一弦琴。歌聲哀楚。閲其資物。有如草實者。謂之綿種。依其願令住川原寺。即賣隨身物。立屋西郭外路邊。令有窮人休息焉。後遷住近江国国分寺。」(『日本後紀』巻八)
【現代語訳】 延暦18年(799)7月、一人乗った小舟が三河国(愛知県東部地方)に漂着した。布で背中を覆い、犢鼻褌(たふさぎ)をし、袴は履いていなかった。左肩に紺の布をかけており、その形は袈裟に似ていた。年は20歳くらい、身長は5尺5分(153cm)、耳が3寸(9cm)ほどあった。言葉が通じず、どこの国の人か分からなかった。唐人の見立てでは「崑崙人」(インド人)とのことだったが、後に中国語を習い、自分は「天竺人」(ベトナム人?)であると言った。常に一弦の琴を弾き、その歌声は哀しげであった。彼の持ち物を調べると、草の実のような物を持っており、「それは綿の種だ」と言った。願いにより川原寺(奈良県明日香村川原)に住んだ。身に付けていた物を売って、川原寺の西郭外の路傍に小屋を建てた。通行人は皆、足を休めて見物したという。後に近江国分寺(滋賀県)に移り住んだ。

延暦19年(800)4月12日
「庚辰。以流来崑崙人賚綿種、賜紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊豫・土佐及大宰府等諸国、殖之。其法先簡陽地沃壌、掘之作穴。深一寸、衆穴相去四尺。乃洗種漬之、令経る一宿、明旦殖之。一穴四枚、以土掩之、以手按之。毎旦水潅、常令潤沢。待生、芸之。」(『日本後紀』巻九逸文。『類聚国史』巻一九九「崑崙」)
【現代語訳】 12日。崑崙人が持って来た綿の種を紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・土佐国や太宰府に蒔いた。その栽培方法は、まず日当たりがよく、肥沃な土地に穴を掘る。深さは3cm。穴と穴の間隔は4尺(120cm)とする。そこで種を水で洗って水に漬ける。一晩漬けて、翌朝に蒔く。1つの穴に4粒入れて覆土を掛け、手で上から押さえる。毎朝水を掛け、土が常に湿っている状態を保つ。あとは発芽を待ち、これを植える。

「木綿、桓武帝ノ朝、延暦一八、蛮人種ヲ積ミ来ル舶、三河ニ漂着ス。着船ノ所ヲ天竺村ト云。今天竹ト書改ム」(『三河刪補松』安永4(1775)年)
「木綿 初参河国に得たり。異国船の泊る処、今、天竹と云。上古、天竺と記す。幡豆郡に属す。伝曰、天竺人泊る処名天竺云」(『参河志』天保7(1836)年)

各種棉と社伝(天竹神社)

 

キーワード:三河木綿

天竺人が伝えた綿花は、インドのような熱帯でしか育たない品種だったようで、全て枯れてしまったそうです。

敷島のやまとにあらぬから人の
うゑにし綿の種は絶にき (藤原家良)

その後、本州でも育つ品種の綿花の種がいつ伝来したかについては諸説ありますが、明応・永正年間(1492年~1520年)に中国で栽培されていた品種の種が、朝鮮半島経由で輸入され、西日本で栽培されたとする説が有力です。
しかし、綿花栽培の初見は、筑前国粥田荘から領家である金剛三昧院(高野山)に、文明11年(1479)に「木綿一端」を進上したという記録とされていますので、九州北部では明応以前に綿花が栽培されていたかもしれません。

『永正年中記』(興福寺大乗院旧蔵)に「永正七年庚午 年貢四月中 二百五十文兩度沙汰百八十文三川木綿トル」(1510年、年貢180文の分として「三川木綿」をとった)とあり、永正年間(1504年~1520年)には、三河国で綿花の栽培から製糸、織りまで一貫して行える状態が確立していたようです。「犬頭糸」という超高級絹糸の産地であった西三河の矢作川流域の桑畑は全て刈られ、綿花畑に変わったそうです。温暖な気候と、砂地で水はけが良いこと(「川砂」といえば、矢作川の「矢作砂」、天神川(兵庫県)の「天神川砂」、白川(京都府)の「白川砂」が有名)が、綿花の栽培に適していたのです。また、江戸幕府が、寛永5年(1628)以降、

「定 百姓之着物の事、百姓之者は布木綿たるべし。但、名主其外百姓之女房は紬之着物迄は不苦、其上之衣裳を着候之者可為曲者事者也 寛永五年二月 老中」

といった衣服の規定を次々と出したことも綿花栽培を進める結果となりました。

「三河木綿」は、最初は行商人が売り歩いたそうですが、寛文年間(1661年~1672年)には、江戸と矢作に木綿問屋が出来ました。そして、「三河木綿」は、白木綿が主であったため「三河白木綿」、さらには「三白木綿」(さんぱくもめん)という略称で江戸で人気となりました。

 

キーワード:遠州木綿

遠江国でいつから栽培が始められたのか分かりませんが、全国的に見て、早い時期に商人が綿花を伝えたようです。

大永元年(1521)、相模国(神奈川県)三浦郡の農民が、武蔵国熊谷郷(埼玉県熊谷市)の市で、西国の商人が売っていた綿花の種を買って植えると、みんなが真似したので、「三浦木綿」として有名になったとのことです。

西国の商人が関東地方まで綿花の種を売りに行ったのですから、関東へ行く途中の遠江国や駿河国でも売ったはずで、この頃に遠江国でも綿花栽培が始まったと考えられています。もしかしたら遠江国や駿河国では綿花栽培がすでに始まっていて、種が売れないので、関東まで売りに行ったのかもしれませんね。

※「三浦に六十計の翁あり。語りしは、大永元年、武藏國熊谷の市に西國の者、木綿種を賣買す。買取て植ければ生たり。皆人是を見て次の年熊谷の市に買取植ぬれば、四、五年の中に三浦に木綿多し、三浦木綿と號し國に賞翫す。夫より關東にて諸人木綿を着ると語る云々。」( 『慶長見聞集』 『新編相模国風土記稿』)

龍潭寺に伝わる2冊の過去帳(開山・黙宗和尚と二世・南渓和尚の過去帳)には、法名以外にも住所や職業が書いてあります。
それを表(以下の写真)にまとめると、「紺屋」が多いことに気づきます。

過去帳に見る職人(浜松市地域遺産センター)

江戸時代、遠江国では、綿花と藍の耕作が盛んでした。
ブルージーンズは虫除けに効果があるそうですが、藍染も防虫効果が高く、大切な着物は、藍の風呂敷で包んで保管したそうです。また、俗説でしょうけど、「蝮除けになる」と人気だったそうです。

さて、この戦国時代の井伊谷周辺の紺屋さんたちは、木綿を他国から買って染めたのでしょうか?
それとも、地元で栽培した綿花から作られた糸や布を染めたのでしょうか?

※糸を染めて織ることを「先染」、布に織り上げてから染めることを「後染」という。

 

キーワード:遠州織物の起源

大河ドラマ「おんな城主 直虎」に先駆けて、朝ドラ「とと姉ちゃん」が放送され、「繊維工業の町・浜松市」のイメージが定着しました。

2016年(上半期)NHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」の大道具(浜松市役所)

確かに半世紀前の浜松の三大工業は、「楽器(ピアノ)・オートバイ・繊維工業」でした。浜松市は、世界的に有名なYAMAHA、KAWAI、HONDA、SUZUKI発祥の地です。

しかし、少子化などでピアノが売れなくなり、オートバイの製造工場は他県に移転。製糸工場、織物工場も、染色工場も激減しました。現在残っている遠州織物の会社は、「(江戸時代からの)伝統工芸品」として布製品を販売しています。

「とと姉ちゃん」のロケ地が浜松市に選ばれたことから、浜松市が「繊維工業の町」として着目されましたが、繊維工業で有名なのは、「浜松市」ではなく、浜松市を含む「遠州」(遠江国)であり、「日本三大綿織物産地」というのは、泉州(大阪府南西部)、三河(愛知県東部)、遠州(静岡県西部)を指します。

遠州織物発祥の地「初生衣神社」

この「遠州織物の発祥地」が、元伊勢・初生衣(うぶぎぬ)神社(ご祭神は、機織祖神の天棚機姫命。静岡県浜松市北区三ヶ日町岡本)です。
神宮の建設地を求めてやって来られた倭姫(第11代垂仁天皇の第4皇女)が滞在して、絹織物の指導をされたそうです。服部連が蜂前神社に来て絹織物の指導をしたのは第19代允恭天皇の時ですから、それよりも古いのです。

現在でも同社の例祭「御衣(おんぞ)祭」には、遠州織物関連の社長さんたちが集まります。
※案内板の案内文を掲示しておきます。

初生衣神社
三ヶ日町文化財指定
当社は往古より浜名神戸(かんべ)の地に鎮座、伊勢神明初生衣神社または浜名斉宮(さいぐう)とも称され、機織(はたおり)の祖神天棚機姫命(あめのたなばたひめのみこと)を祭る。神服部家(かんはとりけ)の旧記によれば、久寿(きゅうじゅ)二年(一一五五年)以来、境内の「織殿(おりどの)」において、三河の赤引の糸をもって御衣(おんぞ)を織り、八百年の長い間毎年皇大神宮(こうたいじんぐう)に奉献した古例を有する他社に比類の無い古社であって、当社が遠州織物の発祥の地として遠近の崇敬を集めているも偶然ではない。先年奉献の古例が復興された。
国学の泰斗(たいと)本居宣長(もとおりのりなが)の「玉勝間(たまかつま)」平田篤胤(ひらたあつたね)の「古史伝(こしでん)」等にも当社の由緒が記されている。昭和二年静岡県「織殿」を史跡として顕彰した。同四十四年三ヶ日町指定史跡となる。
例祭(おんぞ祭)は四月十三日
浜松市教育委員会
昭和四十五年三月

 

キーワード:藺草

ドラマの話とは無関係ですが、湖北(浜名湖北部)の商品作物として、江戸時代から昭和初期まで有名だったのは「藺草」です。

江戸時代、井伊家が彦根に移ると、井伊谷一帯は近藤氏の領地となりました。そして、宝永の大地震による津波で、田畑は塩害(浜名湖は太平洋と繋がっており、湖水は塩辛い)で使えなくなりました。

そこで、塩に強い藺草を植えたとのことです。

藺草神社

※案内板の案内文を掲示しておきます。

藺草神社
宝永四年(一七〇七年)の十月、遠州地方で大地震があり、押し寄せた高潮のため、浜名湖沿岸の田には塩が入り、稲は全滅の状態でした。
困り果てた村の庄屋達は、当時の気賀の領主近藤縫殿助用隨(ぬいのすけもちゆき)公に、その苦境を訴えました。
領民のためを思う名君であった用隨公は、今後の稲作の事を、領民と共に思い悩みました。
それからしばらくして、用隨公は、大阪での会議で隣り合わせた豊後の国(現在の大分県)の領主松平市正(いちのかみ)に、領内の窮状を相談したところ、市正は、「ほう、それはお困りじゃな。では、余の領内の豊後の藺草を植えたらどうじゃ。これは、塩に強いということでな」と言い、国元から琉球藺の苗を取り寄せてくれました。
大いに喜んだ用隨公はこれを持ち帰り、領内の田に植えさせました。 これが、浜名湖岸一帯の名産物、琉球藺(りゅうきゅうい)の始まりです。その後、琉球藺は周辺の各村に広まり藺草を使った畳表の製織は、冬の農家の副業として、この地方を潤しました。
この藺草神社は、藺草をこの地方に初めて広めてくれた用隨公の徳をたたえて造られたものです。

藺草は、藺草神社のある気賀(静岡県浜松市北区細江町)だけでこっそりと育てようとしたらしいのですが、噂が広まって、あっという間に浜名湖沿岸の各地で栽培が始まったそうです。

三浦木綿にしても、1人の農民が種を買ったことに始まり、4~5年で有名な生産地になったわけです。
私も名文を書けば、「凄いライターがいる」と口コミで広まるのでしょうけど、力不足 (ノ_・。) このサイトが瀬戸方久の茶店だとして、訪問客が「無料で読める名文」と感じてくれたら、あちらこちらで広めて下さることでしょう。
頑張ります。応援よろしくお願いします m(_ _)m

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

-井伊家を訪ねて

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