春華堂の「田舎みそまん」と「うなぎパイ」

井伊家を訪ねて

井伊直虎(次郎法師)の手にした饅頭は井伊谷名物? おんな城主直虎ロケ地巡り&レビュー

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The course of true love never did run smooth.
by W.Shakespeare 『真夏の夜の夢』より

真の愛のコースは、楽には走れない。
走れずに歩くことしか出来ない時もあろう。立ち止まることさえも。
先の道が霧で見えない、あるいは、その先に道が無いこともあるかもしれない。
断崖絶壁をすり抜ける小道も、森の中の暗くて恐ろしい小径もあろう。
走りやすく舗装された道であっても、二手に、もしくは、それ以上に分かれていることもあろう。

「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」とは老人の言葉である。
それに、立ち止まっていても、自分の周囲では「変化」が起こる。
そして、若者は得てして先へ先へと急ぎたがるものである。
目の前にある饅頭は今すぐ食べたい。とっておくことなど出来ない。

──初恋の別れ道
それは、次郎法師にとって、
還俗して、井伊直親と結婚して子を儲けるか、
還俗しないで、「次郎法師」として生きるか、
の別れ道であった。

上野の追分の江戸中期の道標(左:井伊谷村、右:三嶽村)

 

第6話 「初恋の別れ道」 あらすじ

新野左馬助親矩が烏帽子親となって亀之丞は元服し、井伊肥後守直親と名を改めた。涙ぐむ今村藤七郎。

さて、元服が終われば、次は結婚である。
「次郎法師(井伊直虎)様の還俗はいつになりますか?」
好事の先延ばしは良くないとばかりに井伊直親が問うと、賑やかだった宴会場が一瞬にして静まり返り、凍りつく一族を見て、家老の小野政次は、ここは自分の役目だとばかりに、
「今川にとって謀反人の子である直親様がお許しをいただいくのが先だと思います。次郎様のことはその後だと」
と冷静に、的確な意見を述べた。

史実は「小野政直の死後、半年かけて井伊直盛と新野親矩が今川義元を説得した結果、ようやく亀之丞の帰国が許された」とされているが、ドラマでは、「今がチャンス!」と亀之丞を帰国させてしまい、まだ、今川義元の許可を得ていないという設定らしい。
許可を得ていないのに、元服させちゃって、「若殿様」と呼んじゃって、大丈夫なの?

次郎法師と亀之丞の密会を目撃していた南渓和尚は、「道威」と書かれた徳利の前に、懐から「伯」「中」(伯・仲(長男と次男)の意か?)と書かれた2枚の皿を取り出すと、「2つの饅頭」の説話を始めた。(このニャン渓さん、他人のお酒や点心まで飲み食いしているようだ。)

「この「道威」が王、「伯」「中」が大臣。ある時、王が2人の大臣に饅頭を2つ与えた。中は、1つは自分で食べ、1つを飢えた子に与えた。伯は、1つは自分で食べ、1つはとっておいたので、かびて食べられなくなったという。
南渓和尚「さて、その後、道威は、どちらに大臣を続けさせたかの?」
次郎法師は、「中」だと答えた。
曰く「食べられぬようにしてしまっては、意味がないでしょう」
しかし、王が選んだのは、「伯」の方だという。
南渓和尚「さて、それは、何故じゃと思う?」
──次郎法師は、この公案を説破できなかった。

新野親矩の報告によれば、今川義元に頼み事をすると、見返りに出兵要請を出される可能性が高いという。
そこで、井伊家宗主&重臣は、「井伊直親の帰参願い」はするが、「次郎法師の還俗願い」はしないと決め、それを井伊直親に告げると、「帰参させていただくだけでも、有り難きお話にございます。無理を申し、申し訳ありませんでした。おとわ様の事は二度と申しませぬゆえ」と100点満点の回答をした。
さすが、「聖人君子」である。
と見せかけて、井伊直親は、井伊家宗主&重臣を出し抜く方法を考えていた。それは、次郎法師が死んだことにして、名を変えさせ、別人として、結婚するという方法だった。次郎法師はこの案に同意し、病死ではなく、自殺という設定にした。そして、遺書を書いているうちに、
──公案が解けた。

凡人(ただひと)は、2つの饅頭を1人で食べて満足する。
宗教家(聖人)は、飢えた子に1つ分け与える。
政治家(為政者)は、用心に用心を重ね、1つ蓄えておく。

──「次郎」という名には、私(惣領娘)への期待が込められている。
──「次郎と申す名は、井伊家惣領の名。次郎法師は女にこそあれ、井伊家惣領に生まれ候」(『井伊家伝記』)

次郎法師は、井伊直親に向かって力強く言葉を紡ぐ。
「直親、おとわは、死ねぬは。直親とわれは、それぞれ1つの饅頭なのじゃ。2つの饅頭を一時に食べたり、与えてしまっては、のうなってしまう。なれど、1つを取り置おけば、真に困った時に、もう1度食べたり与えたりできる。井伊のためには死んでしまったことにするにはいかぬ。次郎の名を捨てるわけにはいかぬ」
「しかし、そんな懸念はもう不要ではないか。俺はこうして戻ってきたのであるし、弱かった体も丈夫になり」
「では、井伊を預かる者として答えて欲しい。今ここで備えを無くしてしまうのは、井伊にとって上策なのか。情に流され、おとわと添うことは得策なのか」
「では、おとわは、それでよいのか。娘であることの喜びも悲しみも全て捨て、あるかなきか分からぬお家の危機の駒となり、真、おとわは、それでよいのか。一生、日の目を見ることなど無いのかも知れぬのだぞ」

南渓和尚との禅問答よりも激しい口調での応酬。本音の言い合い。
そして、次郎法師は井伊直親の言葉を聞き、「私の言いたい事を全部言ってくれた。私の事を十分に理解してくれている。もう十分だ」と思い、落ち着いて次のように語った。
「それこそ、上々であろう。我が"かびた饅頭”になることこそ、井伊が安泰である証であろう。違うか」

中田島のロケ地へ行った時に防砂林が伐られていてショックだった。
聖地巡礼のためにあと1年だけ待って欲しかった。
「いつ来るか分からぬ津波を防ぐのための堤防の建築のために、この時期に木を伐るなんて…1年待てないのか」と思ったが、政治家にとって最も重要なのは「備え」なのであろう。堤防が使われず、「かびた饅頭」(税金の無駄使い)になることこそ、津波が来なかった証であり、上々なのであろう。

個人レベルで言えば、病気になって入院するかどうか分からないのに、生命保険に入ることは「かびた饅頭」(お金の無駄使い)に思われる。
しかし、結婚して、配偶者や子が出来ると、「備え」(万一の場合の入院費やお葬式の費用)が必要では?と思う。守るものが出来ると、人の気は変わる。その「守るべきもの」は、現代では「家族」であり、戦国時代は「家」であった。
そして、人は、自分のためには頑張れなくても、人のためには頑張れるもの、力がでるものであって、守るものがある人は強い。
──勝人者有力、自勝者強。(『老子』第33章)
──人に勝つ者は力あり、自らに勝つ者は強し。

次郎法師が情(次郎法師の遺書には「愛欲」と書かれていた)に流されない「自らに勝つ者」(実母に言わせれば「気丈な人」)であると知った井伊直親は、
「置き去りにしてすまぬ、すまぬ」
とこれまでの謝罪とも、今後の決意表明ともとれる言葉を発し、次郎法師を背後から抱き締めた。

いつの間にか昇っていた朝日が、二人の背中を照らした。新しい朝が来た。

しかし、抱かれた瞬間、次郎法師は、
──男性名を捨て、女に戻りたい。直親と一緒に暮らしたい。
と思って泣いたのたかもしれない。
普通、「ひとりぼっちにさせてすまなかった」と言う時は、後に「しかし、今日からはひとりにさせない。結婚しよう」と続くのであるが、井伊直親は、抱きしめていた腕を離した。井伊直親が、あと1秒長く抱いていたら、次郎法師は落ち、2人は結婚できていたかもしれない。

「葬らねばならぬのは、俺の心じゃ」(俺も次期宗主として、情に流されるようではいけない。)
──井伊直親の顔が為政者の顔に変わった。
強烈なプリンスオーラを発し、領民に好かれ、「生まれながらの領主」と言われた井伊直親の誕生である。

振り出しに戻った井伊直親の結婚であるが、奥山朝利の「ぜひ、我が娘(しの)を」という申し込みを小野政次は、「俺との結婚が破談になってけちが付いた女と結婚するのか」と言わんばかりに、
「あのような無礼な申し出、お腹立ちにはなりませぬのか」
と評価したが、井伊直親は、
「井伊のために良きお方ならば、喜んで」
と承諾した。それは、井伊領の為政者としての言葉であった。

 

「2つの饅頭」

彼は答えて言った、「下着を二枚もっている者は、持たない者に分けてやりなさい。食物を持っている者も同様にしなさい」。(『口語訳 聖書』 ルカによる福音書 3:11)

饅頭が2つある。
凡人は自分の幸福しか考えていないから、2つとも食べる。
宗教家(法師)は、ヨハネのように、持たない者に分け与える。
政治家(惣領娘「次郎」)は、万が一(ここでは、井伊直親が出陣して討死するとか、病気で急死するなどしていなくなる事)に備えて、1つ(次郎法師)をストックしておく。

軍師・南渓和尚が用意した公案の答えは、政治家(為政者)としての答えでした。
そして、軍師として見事に次郎法師を導いております。何がすごいかって、答えを言わずに、答えを自力で導かせている点でしょう。
私だったら、「井伊直親と結婚して、嫡男を産めばいい。長男は次期宗主で、次男以降はストック(2つめの饅頭)」って考えちゃいますね。
だって自分が幸せでなければ、人に幸せなんて分けてあげられない、と思うからで。

日本に茶を伝えたのは、臨済宗の開祖である「茶祖・栄西禅師」です。粟ヶ岳の山頂から、牧之原(旧・諏訪原)の広大な茶畑を見下ろしておられます。ちなみに、牧之原を開拓し、広大な茶畑に変えたのは、関口親永(瀬名の実父)の後裔・関口隆吉(初代静岡県知事)です。

粟ヶ岳の栄西禅師像(背面に「茶之十徳」が彫られている)

日本に饅頭を伝えたのも臨済宗の僧・聖一国師だそうです。円爾弁円とも言い、奥藁科(静岡市葵区栃沢)で、米沢家生まれ。花園天皇から日本の僧侶として最高の栄誉である「国師」号が贈られました。「静岡県」と言えば「お茶とミカンの県」ですが、聖一国師がチャの種を静岡市の足久保に蒔いたのが「静岡茶」の始まりとされているんだそうです。お茶と一緒に食べる菓子にしようとして、あるいは、「点心」(間食)としようとして持ち込んだようですね。
この「饅頭」は、現在の「肉饅」に近い物だったそうですが、日本仏教では肉食が禁じられていたので、中身を小豆にして「菓子」(和菓子)としたそうです。そして、戦国時代には、砂糖を使った「砂糖饅頭」と、煮た野菜を包んだ塩味の「菜饅頭」の2種類があったそうです。

庶民が食べられるのは「菜饅頭」です。おとわが托鉢(「龍宮小僧」の初仕事として、水を汲んだ)で気賀の市場の店主に貰った饅頭です。
ニャン渓和尚(いつも虎猫を抱いているので、ネット界ではこう呼ばれている)が食べているのは、高価な「砂糖饅頭」で、色からして、井伊谷名物の「味噌まん」ですね。

「味噌まん」の起源は、大谷街道の風越峠の峠の茶屋で売られていた「茶まんじゅう」です。
評判がよかったので、お店(浜松市北区三ヶ日町大谷)を構え、地名にちなみ「大谷(おおや)まんじゅう」と名付けられて販売されました。お味噌が入った「味噌饅頭」ではなく、黒砂糖が入ったもっちりとした皮が特徴の色がお味噌に似た「味噌まん」です。
その後、「味噌まん」は、引佐町や細江町に広まりました。浜松土産といえば、春華堂の「うなぎパイ」ですが、このたび同社から「田舎みそまん」が発売されました。

春華堂の「田舎みそまん」と「うなぎパイ」

引佐町井伊谷土産といえば、紅屋の「味噌まん」です。紅屋のご主人は、元・小学校の先生。教え子の家庭訪問に行き、その場に居合わせた教え子のお姉さんに一目惚れして結婚し、教職の道を離れ、和菓子職人の道を歩まれています。

結婚された方のお話をお伺いすると、「結婚って、そんなに簡単にできるものなの?」と思うことがよくあります。きっと、お二人は赤い糸で結ばれていて、その糸をお互いに手繰り寄せただけなのでしょう。
シェイクスピアは「真の愛のコースは、楽には走れない」と言っておられますけど、恋愛も、結婚も、「真の愛」ではない故か、若さ故か、皆さん猛スピードで走ってる気がします。そして、一気にゴールテープを切られればいいのですが、猛スピードだけに、一度躓くと大きく傷ついて起き上がれず、そこで終わることがあります。もしくは、分岐点で、お互い、別の道に進んでしまい、猛スピードだけに、気づいて後ろを振り返ると、分岐点は遥か後方。

話変わって、周囲の女性は次々と結婚しているのですが、「まだ見ぬ」未来の旦那様はどなた様でしょうか。海神(わたつみ。縁結びの神・大国主命の義父)に聞こうと、海に向かって問いかけてみたのですが、私の声など、千鳥の鳴く声と同じで、波の音に消されてしまい、海神までは届かないようです。もしかして、「まだ見ぬ」お方ではなく、既にもうお会いしているお方でしょうか。もしかして、それは、近くにおられる、お名前に「松」がつくお方では?

松原のまだ見ぬ花の名を問わば
千鳥の声が波に消え行く by 瀬名
※「松…千…」・・・松平竹千代なのか?

 

次男の出家

戦国時代の武士は、次男を出家させたそうです。
これには、「子供の1人に一族の菩提を弔わせるため」という理由以外に、
「一人出家すれば、九族天に生まる」
「一子出家すれば、七世の父母皆得脱す」
という信仰があったからのようです。

「九族」とは、過去の四族(高祖・曽祖・祖父・父)・自分・未来の四族(子・孫・曾孫・玄孫)の事だそうです。たとえ戦国時代であっても、人を殺せば地獄に落ちます。しかし、子供を出家させれば、天国へ行けるのです。

今川氏親の息子は、
長男:五郎氏輝
次男:彦五郎
三男:僧・玄広恵探→還俗して良真
四男:僧・象耳泉奘
五男:僧・栴岳承芳→還俗して義元
六男:氏豊
の6人でした。

長男と次男、それに幼い六男以外の3人を出家させたのは、上述の理由以外に、「相続争いをしないように」という配慮のようです。
今川氏親の死後、長男の氏輝が家督を継ぎました。氏輝が死んだ場合は、氏輝の息子が継ぐ(息子が生まれる前に死んだら次男の彦五郎が継ぐ)という万全の備えだったのですが、なんと、なんと、氏輝の息子が生まれる前に、氏輝と彦五郎が同じ日に二人揃って死んでしまったのです。それで、三男と五男が還俗して、「花蔵の乱」と呼ばれる家督争いをし、負けた三男は「もはやこれまで」と自害し、勝った五男・義元が今川家を継いだのでした。

井伊家の場合、もし、井伊直盛が討死や病死ということになれば、嫡男(養子)・井伊直親が井伊家を継ぎ、その井伊直親が討死や病死ということになれば、妹の次郎法師が還俗して継ぐことになります。江戸時代であれば、井伊直親に嫡子(男子)が生まれる前に亡くなれば、お家断絶になりましたが、戦国時代では、女子が継ぐこともありました。ちなみに、江戸時代、「末期養子(死の直前に養子を取ってお家断絶を防ぐこと)」は禁止されていましたが、大名については、井伊直孝が廃止したことにより絶家は減りました。

戦国時代の武士の次男の出家には、実は上述の理由以外に「ストック」「スペア」「確保」の意味がありました。出家すれば出陣して討たれることはありません。ですから、長男が討ち死にした場合、出家していた次男が還俗して、家を継ぐのです。
──2つめの饅頭は、次郎法師ではなく、南渓和尚なのでは?
南渓和尚は、(現時点では)井伊直平の子(佐名の兄)という設定ですので、還俗して井伊家を継げるはずですが、どうも出来ないようです。南渓和尚の秘密は、第20話で明かされます。

南渓和尚頂相(『井家粗覧』では南渓和尚を井伊直平の次男としている)

 

次郎法師が亀之丞と結婚しなかった理由

ドラマでは、
①主家の今川義元が許可しそうな雰囲気ではなかった。強行すれば出兵要請が…。
②許可が下りないのであれば、死んだことにして、こっそりと結婚しようとしたが、次郎法師が「次郎」と名付けられた理由に気づき、井伊家のために「2つめの饅頭」(かびた饅頭)になろうと決意した。
ことから結婚できなかったとしています。

史実は、亀之丞が娘・高瀬姫(笛の師匠の千代との間に儲けた子)を連れて信濃国から帰国したので、結婚する気が無くなったってことらしいです。
「この浮気者!」
と怒りたいところです。

前回(第5話)で、亀之丞が「出家したのは知っていた」と言っていました。信濃国での生活費は、南渓和尚が使いの僧に持たせて亀之丞に渡しており、その僧に井伊谷の状況を聞いていたとのことです。もし、「尼になった」と聞いていたら、「尼は還俗できない。裏切られた」と感じ、やけになって女遊びをして子ができた、あるいは、井伊谷へ帰りたくなくなって、地元の娘と結婚して、信濃国に定住しようと思ったのかもしれません。

奥山ひよ(ドラマでは「しの」)像(奥山方広寺)

『系図纂要』には、次郎法師は18歳で出家したとあります。次郎法師が亀之丞の1つ年下だとすると、亀之丞が19歳で井伊谷に帰った時に出家したことになります。亀之丞が娘を連れてきたので、ショックを受けての出家だったのかもしれません。

あるいは、ドラマでは後々のこともあってか、伏せられていますが、井伊直親は傍流の子ですので、次の宗主になるために、井伊直盛の養子となりました。これにより、井伊直親と次郎法師は、兄・妹となり、結婚できなくなったので、出家したのかもしれません(兄・妹となり、「次男は出家する」という慣例に倣い、「2つめの饅頭になろう」と出家したのかもしれません)。

 

人質屋敷

竹千代(後の徳川家康)が、駿府に人質として住んでいた時の屋敷を「人質屋敷」(「松平屋敷」「竹千代屋敷」とも)と呼び、孕石屋敷(孕石元泰)と北条屋敷(北条氏規)に挟まれていたそうです。

この「人質屋敷」は、「宮の前」にありました。この「宮」は「静岡浅間神社であって、人質屋敷は宮ヶ崎町にあった」とも、「少将井神社であって、人質屋敷は少将宮町にあった」とも言われ、はっきりしていません。

「一つには宮崎といひ、一つには少将宮町といふ。何れが是なる事を知らず。参考して案ずるに初め少将宮町に御座し、後に宮ヶ崎に移り給へるにはあらざるか。」(『駿河国新風土記』)

鷹狩が大好きだった徳川家康(駿府城)

竹千代がスズメを飼い慣らしたという話は初耳ですが、
「人の一生は重荷を負うて遠き道を行くがごとし。急ぐべからず」
と言うくらいですから、粘り強い少年だったのでしょう。(注:「人の一生は…」は、徳川家康の言葉ではなく、水戸黄門の言葉であることが分かっている。)

竹千代が、鳥居彦右衛門にモズを飼い慣らさせたという話は有名です。
参考:竹千代の百舌鳥 (司馬遼太郎『覇王の家』(新潮社)より)

「威」
のほうの挿話も、岡崎衆はよく知っていた。
家康が不在中の岡崎衆の長老は鳥居伊賀(忠告)であることはすでにのべた。かれは岡崎城の二ノ丸に起居し、留守家老としてわずかに残された松平領の財政と民政の管理に任じていたが、当然ながらこの鳥居老人の威望は不在君主の家康以上のものであり、もし悪心があれば岡崎の城一つぐらいは横領できる立場にいた。が、この老人の質朴さはそれどころではなく、駿府にいる家康の身辺に遊び相手がすくなくそれが憐れだというので、数年前、息子の鳥居彦右衛門が十三になったとぎに駿府にやったのである。法的には彦右衛門も今川家の入質ということになる。それを進んでそのようにしたということは、この時代、特性の気風で独立心の強くなっている諸大名傘下(さんか)の老臣(というより単位としては豪族)の例としてはきわめてめずらしく、これも三河ぶりというべぎであろう。
駿府城下の少将宮町の人質屋敷に彦右衛門は往んだが、ところで家康ぱ異常なほどに鷹狩りを好み、彦右衛門にその相手をさせた。家康はあるとき一羽の百舌鳥(もず)を手に入れてこれを鷹がわりにしようとおもい、歳上の彦右衛門にその稽古をさせた。本来ならこのようなしごとは賤士(せんし)である鷹匠のやることであり、名門の鳥居家の惣領のすべぎことではない。しかし家康は容赦なく彦右衛門を鷹匠として訓練し、しかもこのとき、彦右衛門がやった百舌鳥の据えかたが、家臣の教えたようではなかったので、
──それしきの事もできないのか。
と、彦右衛門を高殿(たかどの)の縁から突きおとした、というのが、その挿話なのである。このことはすぐ風が運ぶようにして三河岡崎へつたわった。父の鳥居伊賀の耳にも入った。老人は驚嘆し、
「大将におわす」
と、叫んだという。本来なら家康は、家老である鳥居家に遠慮をし、彦右衛門に対しても特別
なあしらいをすべきであったが、平然とそれを縁から突きおとしたという剛気さが、鳥居老人にすれば末の頼もしさを想像させるのに十分だったのである。ついてながらこの駿府での遊び相手の彦右衛門は、後年、家康とともどもに老いた。かれは関ヶ原合戦の直前、すすんで伏見城の守将になった。もし大坂で石田三成が家康の不在中に兵をあげれば、伏見城をまっさぎに攻める。その城将の討死は必至であるという状況下において鳥居彦右衛門はその任につき、奮戦して死んだ。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

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