井伊家の人々

『井伊直親の長野逃避行ルート』 おんな城主直虎ゆかりの地を歩く

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井伊20代直平は安心していた。
自分には嫡男以外に直満・直義など男児が複数おり、嫡男の直宗(21代宗主)にも息子・直盛(22代宗主)がいる。
───井伊家は当分、安泰である。
そう思っていたに違いない。

唯一の不安は直盛に息子がまだ生まれていないことであったが、今後、息子が生まれなかった場合は、直満の息子の亀之丞(井伊23代直親)を直盛の娘(井伊直虎)の婿養子にして井伊家を継がせる確約(亀之丞と直虎の婚約)もあった。
その直平の安心が不安に変わる事件が起きた。家老の讒言により、息子の直満・直義が駿府に呼ばれ、今川氏に誅殺されてしまったのである。

『井伊家伝記』には次のようにある。
(原文)「天文十年辛丑之頃ゟ、甲州武田信玄差圖志、甲州家人漸々東北遠江境井伊家之領地段々押領申候。依之、彦次郎直満、平次郎直義両人、則、信濃守直平公之下辞ニ而、信玄之家頼と相挑候内支度被致候を、直盛公之家老小野和泉守、龜之丞(井伊彦次郎直満之實子、井伊肥後守直親公童名、井伊侍従直政公實父也)養子之儀ニ付遺恨故、密ニ駿府江罷下候而、今川義元江、両人私之軍謀相企之旨、讒言春。因之、早々召状到來、則、直満、直義両人共ニ駿府江下向、終ニハ天文十三甲辰十二月廿三日ニ傷害。〃〃之後、彦次郎屋敷、并、山林不残龍潭寺末寺圓通寺ニ寄附。」

(意訳)「天文10年(1541)の頃より武田信玄の指図で、武田兵が井伊家の領地を少しずつ横領し始めたので、井伊直満・直義兄弟は、井伊直平の指示で、武田兵を追い払おうと、戦いの準備をしていた。直満と仲が悪かった家老の小野和泉守は、 直満の子の亀之丞(直親)が井伊家を継ぐことを不満に思い、密かに駿府へ行き、今川義元に『直満・直義兄弟が、謀叛を企て、戦いの準備をしている』と讒言したので、すぐに両名に対して『駿府(今川館)に来るように』との召喚状が今川義元から来た。それで、直満・直義の二人が駿府へ行くと、天文13年(1544)12月23日に切腹させられ、直満の屋敷や山林は、残らず直満の菩提寺である圓通寺(龍潭寺末寺)に寄進された。」

【TOP画像/井伊直満・直義兄弟の墓】

この話には続きがある。
「直満の子の亀之丞(直親)も殺せ」と、今川義元が命令したというのである。

この時、直満の家老・勝間田藤七郎正実が「今村」と苗字を変え、叺(かます・藁製の袋)に9歳の直親を入れ、背負って運んだという。そして、黒田村(現在の静岡県浜松市北区引佐町東黒田・西黒田)まで逃げると、
「亀之丞は病死。今村は切腹(追い腹)した」
と噂を流し、夜の闇に紛れて密かに能仲和尚(のうちゅうおしょう)が住職をしている東光院へ逃げたという。能仲は、龍潭寺・南渓和尚の弟子だった。

また勝間田氏は横地氏の庶子家であり、両家は共に今川義忠に攻め滅ぼされていて、今川氏には宿怨を持っていた。井伊家と勝間田家は理解し合える立場にあったのである。

「其上、直満が實子龜之丞も失ひ可申旨、義元ゟ下知に候故、直満が家老今村藤七郎、密ニ龜之丞を負ひ、井伊山中黒田村迄忍落、俄ニ龜之丞病死、今村も自害と申立、夜中に當寺江落玉ふ。」(『井伊家遠州渋川村古跡叓』) ※當寺=東光院

この逃避行で通ったのが井伊谷と鳳来寺を結ぶ信州街道(旧鳳来寺街道)だと思われる。

標識に従って山をしばらく登ると、峠に達した。この峠を下ると黒田である。

そして斜め右前方に細い猟師道があるのだが、その先には

古井戸があり、さらに進むと「直親の隠れ岩」があった。このとき直親は一晩ここで過ごしたという。

「直親の隠れ岩」は磐座(いわくら・古代の祭祀場)と認定されているが、学術調査はまだ行われていない。

ここの地名は「矢倉」であり、古井戸は小屋山城(井平城)のもので、城の櫓があったとする説もあるが、「矢倉」には「猟師の宿泊所」という意味もある。街道から猟師道に逸れ、猟師小屋で一泊したのであろう。

明治40年(1907)、大石勝太郎が檀徒信仰の一本化を図って、三寺(東光院・西光院・多宝院)を合併して、東光院とした。

現在は西光院(静岡県浜松市引佐町渋川西平)があった場所に建ち、東光院の旧地は、渋川城の南東にあり、渋川小学校(廃校)となっている。上の写真の山門は東光院から移築したものであるが、本殿は西光院の本殿が使われている。

東光院墓所の井伊直親の墓(右)と幽泉和尚の墓(左)

東光院の墓所には渋川小学校の児童が運んだという墓が並べられている。上の写真の右側が井伊直親の墓で、左側が開山の幽泉和尚の墓である。この寺には井伊直親の位牌もある。

さらに東光院には新野親矩の五輪塔があったが、現在、この墓石群のどれだかそうなのか分からない。時と共に朽ちてゆき五つの石が揃っている五輪塔は井伊直親の墓以外にはなくなっている。

東光院の住職の能仲和尚は、龍潭寺の南渓和尚の弟子であると同時に新野出身で、新野左馬助の弟とする伝承もある。

かくして必死の思いで亀之丞(直親)の逃亡をはかり、「黒田村で死んだ」と報告したにもかかわらずその探索は続けられた。

そこで能仲和尚は、南渓和尚と相談して、信州市田郷の松源寺(長野県下伊那郡高森町牛牧寺山)へ直親を移すことにする。

松源寺は、自浄院の院主であった文叔和尚(ぶんしゅく)の兄であり、また松岡城主である松岡貞正が永正年間(1504-1520)に建てた寺である。

天正10年(1582)、武田狩りを行う織田信長による放火で全焼したが、南東2kmの位置(松岡古城と松岡城の間・長野県下伊那郡高森町下市田)に再建された。 松源寺には、井伊直親の位牌や原本から写した『井伊家伝記』の写本がある。

松源寺へ向かう一行は、能仲和尚が先導し、亀之丞は馬に乗り、その手綱を今村が持った。

旧鳳来寺街道(大平では「秋葉街道」という)の坂田峠(大平城址)へ登る「大平坂」の登り口で、弓の名人「大平右近次郎」(おいだいらうこんじろう・通称「オコノ次郎」)に狙われが、彼が射た矢は、八幡神のご加護で草鞋の紐を切るにとどまったという。

右下の岩が「座頭塚」。左下が旧鳳来寺街道。右上は新道

ちなみにこの場所は「座頭転(ざとうころがし)」と呼ばれ、目の不自由な方が足を滑らせて谷に落ちて亡くなられたようで、 「座頭塚」という岩の上に数基の墓がある。

直親は無事に信州へと逃れた。

これによって一転失意の底に沈まされたのが井伊直虎である。彼女は婚約者の直親が黒田で病死したと聞かされ、直親の菩提を弔うため龍潭寺の南渓和尚に頼んでその後、出家。ただし、直虎の両親は、直親の生存を知っていたと思われ、

「尼之名をば付申間敷(尼の名を付けるな)」(『井伊家伝記』)

と南渓和尚に言ったと伝わる。

親と子の板挟みにあった井伊家の軍師的存在・南渓和尚は「次郎法師」という僧俗合成の僧名を付けた。これには、「出家は認めるが、還俗できない尼と違って、僧であるからいつでも還俗できる」という意味が含められていたと考えられる。

一方、松源寺に逃れた直親の元には南渓和尚が定期的に生活費を持たせた遣いの僧を送っていた。直親はその遣いから井伊谷の状況を聞いており、直虎が出家したと聞いて尼になったと思い込み、

「尼は還俗できないから、これでもう結婚出来なくなった」

として直虎との結婚を諦めてしまう。

そして島田村(現在の長野県飯田市松尾)の代官・塩沢氏の娘との間に一男一女を儲けた。

亀之丞は、イケメンで笛の名手。しかも名門井伊家の若者とあって信州ではかなりもてたらしい。関係した女性の数や子供の数は今も不明であるが、塩沢氏の娘との間にもうけた息子は井伊吉直といって「飯田井伊氏」の祖となり、娘は高瀬姫といって彦根藩家老の川手主水良則の妻となった。

オコノ次郎が弓を射た場所。崖の先端から、登ってくる直親を射たという

亀之丞(直親)は松源寺で10年間暮らした。その間、松岡貞利の庇護のもと、松岡氏の息子たちと共に学問に励み、武芸を身につけたという。

そして亡命から10年。宿敵・小野和泉守が病死したことや、庇護してくれた松岡氏が武田方となったこともあり、直親は井伊谷に帰ることになった。むろん、何の策もなく帰郷を果たせば即座に殺される可能性もあるので、落ち延びる際にも滞在した渋川の東光院で一ヶ月ほど過ごして様子を窺ったという。

これまでの動向をざっと年表でまとめておこう。

東光院滞在の一ヶ月間に、亀之丞は、2つのことをしている。
①10年前、自分を暗殺しようとした大平右近次郎の成敗(後述)
②氏社への「青葉の笛」の奉納
である。

「青葉の笛」は、渋川の八幡宮に亀之丞が奉納した笛で、現在は、寺野の六所神社の宮司が自宅金庫に保管し、4年に1度、閏年の六所神社の例祭日に公開している。

前回の公開は、平成28年(2016)4月3日の午前10:00~11:30の1時間半であった。

その時の展示物は、
・古文書:「井ノ八幡宮様由緒書之事」
・「青葉の笛」:1555年井伊直親寄進
・懸け仏:寄進者不明
・御神鏡:3面(1702年伊藤弥兵衛定俊寄進2面、伊藤八蔵寄進1面)
・日本刀7振り:高田住行長1振り、備前長船祐定1振り、無名5振り
であった。

寺野の人たちは「六所神社は、以前は八幡宮と称し、井伊直親が『青葉の笛』を寄進した」という。

私は、「井伊直親は、氏社である『井ノ八幡宮』に笛を奉納し、その井ノ八幡宮から『ひよんどり』で有名な寺野の六所神社へ寄進された」と考えているので、真実を求めて六所神社について、静岡県神社庁の公式サイトで調べてみたところ、次のように書かれていた。

「建立の時代は詳かではないが、文献棟札等より天慶年間と伝う。後承久年間に至りこの土地は三河国及信濃国に通ずる要衝あった。其の後建武中興の時代に至り領主井伊遠江守道政、井伊谷城に宗良親王を迎奉り官軍に従いて王事につくす。宗良親王におかれては、王政復古を願い掛けられこれの満願の時、当神社へ宝物として横笛一本を寄進された。此れを青葉の笛と称する」

あれ?青葉の笛を寄進したのは井伊直親ではなく、宗良親王?

気になったので、『引佐郡神社誌』※記事末に原文を紐解いてみると、神社誌でも「青葉の笛は宗良親王が奉納した笛」とある。この点について寺野の人々にお尋ねしたところ、

「『青葉の笛』は井伊直親が奉納した笛」

「宗良親王が笛を奉納したという話は聞いたことが無い」

というお返事をいただいた。

直笛山宝蔵寺の観音堂

直笛山宝蔵寺の観音堂で行われる寺野の「ひよんどり」は、「火踊り」の転訛で、正月の法会(修正会)の余興である。

ちなみに、山号の「直笛山」は「井伊親寄進の青葉の」という意味だそうだ。

寺野の全盛時代は1728年頃で、当時は戸数74戸、人口300人で、全員が自作農。大農も小作農もいなかったという。

神社誌には「茶の湯を嗜好したり又刀剣類の保存しあるは、其開拓の先哲が想當の由緒ある一族と思われる」とあるが、寺野の人々は「私たちの祖先は、1575年の長篠の戦いでの武田軍の落ち武者である」と自称しておられる。これでは、井伊直親が来た1555年には、寺野には家が無かったことになる。

史実は、戦国時代に徳川家康に仕えていた伊藤刑部祐雄が、戦いが嫌いで武士をやめ、三河国から寺野に移住して開拓したのだという。

いずれにせよ、人が住んでいない山奥にも平安時代の山岳仏教の寺は建てられている。宝蔵寺がそのような寺であり、その鎮守社として八幡宮が建てられていた、つまり、宗良親王の時代や井伊直親の時代には八幡宮があった可能性はある。

アオキ(切り口に注目!中は中空)

神社誌によると、「青葉の笛」とは、アオキバ(植物事典では「アオキ」、渋川では「ミツバ」)製の笛で、日本に3管あるらしいが、六所神社の「青葉の笛」は竹製である。

赤間神宮の「青葉の笛」の添え書きに、薩摩の台明寺の竹で作った笛とあり、「青葉竹」という竹林や青葉山があることから、「『青葉の笛』とは、アオキバで作った笛ではなく、鹿児島県台明寺(現在の日枝だ神社)の青葉の竹で作った笛」というのが通説になっている。

 

《青葉の笛の分布》

美濃晋平『源義平』(和泉村教育委員会)によると全国に残る青葉の笛は以下の通り。

( ※市町村名等は出版当時のもの)

・北海道江差町 姥神大神宮
・福井県大野郡 和泉村八幡神社
・岐阜県根尾村 史料館
・静岡県引佐町渋川
・兵庫県神戸市 須磨寺
・山口県下関市 赤間神社
・鹿児島県伊佐郡菱刈町 天台宗常楽院法流布教所
・鹿児島県姶良郡 姶良町歴史民俗資料館
・鹿児島県国分市 清水(台明寺跡)

寺野の「青葉の笛」は、4年に1度の例祭日にしか見られないが、複製であれば次の3ヶ所で常に見ることができる。

・静岡県浜松市引佐町井伊谷 引佐健康文化センター(上の写真)
・福井県大野市朝日(旧・大野郡和泉村) 笛史料館
・長野県下伊那郡高森町下市田 高森町歴史民俗資料館時の駅

さて、上記「青葉の笛の分布」を見て、井伊氏について詳しい方であれば、

───あの「青葉の笛」が載っていない。

とお気づきであろう。

そう、井伊家ゆかりの「義経丸」が載っていない。実は彦根城博物館が所蔵しておりHPでも写真を見ることができる。

「彦根藩領だった湖北の竹生島弁財天に伝来したもので、源義経所持との伝えがありました。織田信長が見たとの記録も残っています。12代井伊直亮の所望により寺から献上されました。蝉に小枝が残されているので、寺では”青葉の笛”と呼んでいましたが、義経所持との伝えから、直亮が銘を改めました。」(彦根城博物館公式サイトより)

いったい日本には何管の「青葉の笛」があるのだろうか?

 

さてさて、井伊谷に無事帰還した亀之丞は、井伊直盛の養子となり、元服して「井伊直親」と名乗り、奥山朝利の娘のひよと結婚、井伊谷から離れた祝田の屋敷に住んだ。

大河ドラマ「おんな城主 直虎」では「しの」としているが、奥山氏文書から実名が「ひよ」であることが分かっている。

また、井伊直盛は、直親と共に信州にいた今村では井伊谷の事情が分からないとして、「井伊谷七人衆」の松下源太郎清景を直親に付けた。

「直虎と結婚したんじゃないの?」
「次の宗主として、井伊氏居館に住んだんじゃないの?」
しかし直虎が直親と結婚しなかった理由は、実を言うと不明である。よく言われる理由を挙げてみよう。

①出家していたから
「尼」の名ではないので、還俗して結婚することは可能である。
②還俗すると殺されるから

直虎を殺したいと思っても、出家しているので手出しできないが、結婚のために還俗したら、難癖付けて殺すことが出来る。
政変に巻き込まれないために出家を貫いたという説もあるが、私としては、次の説を推したい。

③結婚願望が失せたから

「自分は亀之丞以外の人との結婚は考えていなかったが、亀之丞は信州で子を儲けた。それが許せない。宗家が軽んじられた。プライドが傷つけられた」

直虎が上記のように考え、自ら結婚願望を消失させたと私は考えている。

というのも彼女は「自分は嫡流で、相手は傍流」という宗家のプライドが強かった。また、亀之丞が井伊谷へ帰還した時は20歳であり、その頃直虎も20歳前後と考えられ、当時の結婚適齢期を過ぎていたことも影響しているだろう。

 

井伊谷の井伊氏居館に井伊直親が入らなかった理由も、直親が傍流の人物だからであろう。以前書いたように、井伊氏居館には井伊家嫡流の人間しか入れなかった。井伊直親の父の直満も井伊氏居館の北にある、後に自身の菩提寺である円通寺となった屋敷に住んでいた。

江戸中期の『井伊家伝記』には次のように記されている。

「直盛公御養子ニ相究、井伊肥後守直親と名乗。奥山因幡守息女を縁組被成候て、祝田村千石御部屋住ニ被進候。祝田村ニ住宅被成候。今以屋敷之跡、有之。」

(意訳)井伊直盛の養子となり、「井伊肥後守直親」と名乗った。奥山朝利の娘と結婚して、祝田村に千石の「部屋住み」(嫡男ではあるが、まだ家督を相続していない者)となり、祝田村に屋敷を建てて住んだ。この屋敷跡は今もある。

平成現在、屋敷跡はなく、どこに屋敷があったか分からない。

井伊直政は、井伊直親の菩提寺である大藤寺で生まれた」

そんな伝承があることから、直親屋敷は大藤寺の境内にあったのかもしれない。

が、その大藤寺跡も、昭和49年(1974)7月7日の台風第8号(通称「七夕豪雨」)の時に都田川の堤防が決壊し、祝田一帯は平らに均され、現在は大きな工場が建っている。

祝田の蜂前神社の東には「神宮寺」という地名がある。

ここには蜂前神社の神宮寺である「大林寺」があった。それを井伊直盛が場所を移し、井伊直親の菩提寺とすると、彼の戒名により、大藤寺と名を変えたというので、直親屋敷は、大林寺跡(浜松市北区細江町中川神宮寺)にあったとも想像できる。

ちなみに、井伊谷に帰還してから宗主になるまでの井伊肥後守直親の動向については、分かっていない。今川氏分限帳に小山城主(一万五千石)井伊肥後守とあり、史料がないのは小山城(榛原郡吉田町片岡)にいたからとも考えられるが、領地については、『井伊家伝記』に祝田に千石とある。

井伊信濃守直盛が井伊谷城主(二万五千石)井伊信濃守と今川氏分限帳に記されているから、井伊領の1/25を与えられたことになる。

※分限帳はこの時期の直親を知る手がかりになるが、江戸時代に書かれた偽書が多い。そもそも、当時の禄高の単位は「石」ではなく「貫文」である。

 

さて、井伊直盛が桶狭間の戦いで死ぬと、

───いよいよ宗主だ。

と決意を新たにした井伊直親であったが、井伊直盛の遺言で、井伊の庶子家である中野越後守直由が井伊信濃守直盛と同じ「信濃守」を名乗って、井伊領主・井伊谷城主となった。

『井伊家伝記』には、直盛の遺言として次のように記されている。

(原文)「井伊谷ハ、小野但馬カ心入、無心元候故、中野越後守を留守ニ頼置候。此以後、猶以小野但馬と肥後守主従之間、無心元候間、中野越後守に井伊谷を預ヶ候て、時節を以、肥後守、引馬江移替申候様ニ」

(意訳)井伊谷では、小野但馬守と井伊肥後守の関係が悪いので、ひとまず中野越後守を井伊谷城主とし、頃合いを見て、井伊直親を井伊谷城主とせよ。その後すぐに、引馬城主の井伊直平を井伊谷城主、井伊直親を引馬城主と入れ替えて、井伊直親と小野但馬守を引き離すように

 

さて、井伊直盛に代わって井伊家宗主となった井伊直親は、今川氏に父を誅殺されて、自分も命を狙われたことや、直盛(桶狭間の戦いで切腹)や直宗(直盛の父・田原城攻めで討死)が今川氏の命令で従軍した戦いで死んだこと、また、今川義元を継いだ氏真が遊興三昧だという噂を聞くと、

───このまま、井伊家は今川氏に従っていてよいのだろうか?

と考えるようになった。そして遠江侵攻を考えていた徳川家康の考えも聞いてみたくなる。

これは、選挙で1人に投票するのに、全候補者の演説を聞いてから誰に投票するかを決めるようなもので、井伊家宗主として、井伊家が今川氏と徳川氏とドチラについたらよいか、判断材料を得ようとしただけのことであった。

そこで、「鹿狩りに行く」と言っては、山中で徳川家臣と度々会い、徳川家康の考えを聞いていた。岡崎に行って、家康に会ったこともあると言う。これを耳にした家老の小野但馬守は、今川氏真に、

「井伊直親が徳川家康と内通している」

と内部告発した。

そして、氏真は、直親を殺すように命じた。

十九首塚(掛川市十九首)

掛川に十九首(じゅうくしゅ)という町がある。町名の由来は以下の4つ。
①「十九所祠」(神社名)説
②「平将門以下19人の首塚」説
③「19首の辞世」説
④「井伊直親以下19人の首塚」説

直親の抹殺命令は、今川氏庶子家の新野親矩(井伊直虎の伯父とも、祖父とも)の尽力で取り消された。

しかし、直親は、駿府に弁明に行く途中、掛川城下の十九首で、掛川城主の朝比奈泰朝に討たれてしまった。

今川忠臣の朝比奈泰朝は、今川氏真を討ちに行く一行と勘違いして殺害したとも、直親殺害命令が取り消されたことを知らずに殺害したとも言われるが、そうではあるまい。

新野親矩には殺害命令を取り消したと伝えたので、駿府の親矩の前で殺すことが出来なくなり、泰朝に掛川での殺害を命令し、

───家臣が知らずにやったこと。

としたのであろう。

江戸時代の書物は、この「十九首」という町名と19基の首塚(現在は宅地造成などにより1基のみが残る)にこだわり、「井伊直親一行19名は、全員、掛川で討死」としてるが、果たしてそうであろうか?

私のイメージは数人で駿府に向かうと、朝比奈軍が取り囲み、

───無用な殺生はしたくない。お腹を召されよ。

と言われた気がする。直親が、

「この件は終わったと新野殿から聞いているはず」

と返答すると、

「問答無用。お命頂戴申す」

と戦いになったのではないか。

そして、直親が討たれた時点で戦いは終わり、直親一行の残党は、追い腹(殉死)する者もいれば、生き残って遺体を井伊谷へ運んだ者もいたであろう。というのも、この一行にいたはずの今村藤七郎が、この時(通説では1562年12月14日)ではなく、それからだいぶ後の1573年2月23日に死んでいるからである。

また、19基の首塚は、昭和31年(1956)の発掘調査により、井伊直親の時代よりももっと古い時代の墓であることが判明したことから、現在、同所の案内板には平将門のことだけが書かれ、井伊直親のことは全く書かれていない。

それなのに井伊直虎ゆかりの地に立てられる赤い幟が立っていたので、問い合わせたところ、立てた理由は、

「井伊直親がこの辺りで殺されたという伝承があるので」

ということであった。

井伊直親の灰塚

祝田に運ばれた井伊直親の遺体は、大藤寺の前で焼かれ、灰は「灰塚」、焼け残った骨は渋川の東光院に埋められたという。

井伊直親の灰塚(「首塚」とも)は、都田川の護岸工事で2度移転している。最初の移転の時の発掘調査で、直親愛用のある物が出土した。

それは何だったか? ご想像つくであろうか?

話の流れからすると「笛」であるように思われるが、答えは「弓」である。信州の亀之丞は笛吹き童子(プレイボーイ)のイメージであるが、帰還後のイメージは弓を持つ武将である。弓が大好きで、それを使う鹿狩りも大好きだったという。

灰塚の前の燈籠は、井伊直弼が寄進したものである。1度盗まれたが、いつの間にか返されていた。地元では、

───祟られたので返したのであろう。

と噂されている。

案内板の横のキンモクセイは、平成18年(2006)4月22日に、高森町松岡城址愛護会の方々が訪れて植樹した「高森町の町木」である。皮肉なことに、「掛川市の市木」もキンモクセイである。

渋川城址の井伊直親の墓

墓石右側面:永祿五壬戌十二月十四日
墓石正面:大藤寺殿前肥刕大守智峯宗慧大居士
墓石左側面:井伊十六代藤原直親公

渋川には、東光院以外に、渋川城址の北西端にも井伊直親の墓がある。元は城址中央の井伊共保の墓と共にあったが、ここへ移動したという。

以上の状況については『井伊家伝記』に次のようにある。

(原文)「直親陳附之為に新野左馬助を駿府江被遣て、跡ゟ直親公御越被成候所、掛川御通之節、朝比奈備中守取圍、一戦ニ及。直親主従共雖畫粉骨、無勢故、終ニ傷害被成候。直親公死骸、一国之中故、南渓和尚僧衆被遣、引取、於龍潭寺、燒香被成候。永禄五年壬戌十二月十四日也。」

(意訳)井伊直親は、今川氏真に陳謝するために、まずは新野親矩を駿府(静岡市の今川館)へ遣り、その後から直親自身も駿府に向かったが、掛川城下を通過中に、掛川城主の朝比奈備中守泰朝が直親一行を取り囲んで戦いとなり、直親主従は、粉骨砕身、力の限り戦ったが、多勢に無勢、討ち取られた。直親の遺体は、(掛川も井伊谷も)遠江国内にあるので、南渓和尚は寺僧を派遣して、遺体を引き取り、龍潭寺で葬儀を行った。これは 永禄5年(1562)12月14日のことである。

 

江戸時代、龍潭寺の井伊家墓所には井伊直虎と直親の供養塔が並べて建てられた。

龍潭寺の供養塔(左から直親、直虎、直虎の母)

天国で仲良くしているだろうか? 夫婦になっているであろうか?
どっちにしても、この供養塔、直親の右が直虎なのはいいけど、左が「ひよ」なのがいささか引っ掛かる私であった。
※現在、井伊家墓所は立ち入り禁止であり、上の写真はその前に撮影したもの

 

◆「直虎紀行」(番外編) ~オコノ次郎の墓巡り(渋川)~

座頭塚から旧鳳来寺街道(地元では「秋葉街道」という)の大平坂を登って行くと、山腹に黒い壁の建物が見えてくる。その民家のある場所が大平右近次郎の屋敷跡だ。

この少し先に分岐点(ヘアピンカーブ)があって、右に折り返すように曲がり、屋敷横の細道を登れば山頂(坂田峠)である。

左は「今坂」(「新しい坂道」の意)であり、山頂(坂田峠)ではなく、山腹を通る道。

いずれの道も大野宿へ、そして、鳳来寺へと続く。

屋敷前の大平右近次郎の墓

鳳来寺には、右近次郎の祠がある。祠の中には墓石(一石五輪塔)があるといわれているが、

───開けると祟られる。

といわれ、誰も開けたことが無い。

背後の石垣は大平右近次郎の屋敷の石垣だそうだ。

大平右近次郎は武士(今川氏家臣)であり、今川氏に命じられて、坂田峠の監視をしていた。彼の家は、関所の役割を果たしていたのであろう。

岡保の大平右近次郎の墓

渋川に戻った井伊直親は、大平右近次郎を鹿狩りに誘い、岡保(おかぼ)の岡保沢に連れて行き、そこで自分に向けて矢を射たことを白状させ、刀で斬り殺したという。

また、谷の上から矢の雨を降らせて射殺したとする伝承もある。

この時、右近次郎は、赤い頭巾を被っていたので目立ち、標的にしやすかったそうだ。この墓の周りでは、右近次郎が転生した姿なのか、赤い頭巾を被った蛇を見かけるという。

細木撓の大平右近次郎の墓

右近次郎が討たれた時、彼の妻は機織りの最中だった。

身の危険を感じたのか、討たれたと聞くやいなや機織りをやめて、細木撓の実家に帰り、尼になったという。細木撓には、彼女が祀ったと思われる大平右近次郎の墓石が、役行者の石窟に置かれている。

この右近次郎は、弓の名人で、網に枯葉を付けて揺らし、その枯葉を射るという練習をしていたらしい。もちろん、舞い落ちる枯葉も射落とせたという。

井伊直親は、弓の腕を確かめるために、
「誰かあの木の枝の雀を射よ」
と命じたという。

その時、右近次郎が名乗り出て、
「雀のどこを射ますか?」
と聞き返したという。

「雀は小鳥で、当たるだけでも難しい。当たるなら、どこでもよい」
と言うので、大平右近次郎は、胴の中心を射たと伝わる。

右近次郎は善人で、弓で射た獲物を村人に分け与えていたとされ、今でも大平では「様」付けで呼ばれ、史実は美化されている。

「射た矢が直親の草鞋の紐を切った」

「人(直親)も馬も傷つけない鞍を射た」

「雀の真ん中を射た」

「羽根を射て生かしたまま捕えた」

こんな風に伝承が変えられて今も残っている。これも歴史の一つなのだろう。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派。今後、全31回予定で「おんな城主 直虎 人物事典」を連載する。

自らも電子書籍を発行しており、代表作は『遠江井伊氏』『井伊直虎入門』『井伊直虎の十大秘密』の“直虎三部作”など。
公式サイトは「Sengoku Mirai’s 直虎の城」
https://naotora.amebaownd.com/
Sengoku Mirai s 直虎の城

※1引佐郡神社誌原文

「往古建立の時代詳かでないが文献棟札等により天慶年間と云う。(千五十年前)後承久年間に至りこの土地は三河国及信濃国に通ずる要衝にして、寺野村と称し氏神を中心とし七十四戸となり農耕を業す。生活民度相当に高く其証據には住宅建坪大きく又抹茶を挽く茶臼昔は各戸に在り之を使い茶の湯を嗜好したり又刀剣類の保存しあるは、其開拓の先哲が想當の由緒ある一族と思われる。
其後建武中興の時代に至り、領主たりし伊井遠江守道政、井伊谷城に宗良親王を迎へ奉り官軍に従テ王事に盡す。宗良親王に於かれては常に信濃の国の同志義運に連絡を計り賜り、信濃へ御越し遊被る為屢々當地を御通過の砌り当六所神社に参籠遊せ三七、二十一日の御祈願遊され武運長久、王政復古を願掛けられたり、其の満願の当日に神社へ寶物として横笛一本を寄進せられたり。此を青葉の笛と称し當神社の寶物として氏子畏敬し毎年一回旧九月十九日(中節句)祭典を行う。

古説に曰く青葉の笛とは昔宮廷に於て青葉の木(当地にてはミツバの木と云う)一本にて三個の笛を作り往古より全国に三本より無しと伝う

現に歴史上有名なる中国、須摩寺にある平敦盛が一の谷で吹奏したる笛と同と云う。氏子一同信迎の中心にして村民多く舞楽の技を好み、男子は六七才に至り横笛の吹奏が出来名手出すことあり。遠近各地より諸芸人古来参詣する者多かりけり。
明治七年勅令に依り當神社も渋川郷社に合併廃止となる。其當時の寺野六所神社は實に廣大なる神域にして鬱蒼たる森に社殿も整ひ廃止時き神社の御坂石の切石の如きは他の各神社に持運び神社の巻石となしたりと云う。
大正十一年六月には部落全域に腸チフスに罹り患者続出六十余名中十三名死亡者ありたり、誰云うとなく氏神の祟りならむと云う者出て、御嶽行者の祈祷を依頼したり、然る所氏神様が元の鎮座地に戻り度き為め、氏神の祟りと云う、人皆半信半疑なりしも、衆議一決し氏神遷宮を実行しするため社格を付度き要望を二千六百年記念事業として時の内務大臣閣下、知事小浜八弥閣下の副申を得て出願した処、当神社の承認賜り現在に至る。

毎年正月三日寺野観音堂で火踊りの芸能が行はれている。 」

 

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