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井伊家を訪ねて

ムロツヨシさん演じるあばら家の男・瀬戸方久と青葉の笛 おんな城主直虎ロケ地巡り&レビュー

 

2017年1月15日午前9時半、ドラマの放送に先立ち、井伊谷に「浜松市地域遺産センター」が、午後1時には気賀に「おんな城主 直虎 大河ドラマ館」がオープンしまし た。

「おんな城主 直虎 大河ドラマ館」の展示物は、撮影で使用された衣装などドラマに即したもので、「浜松市地域遺産センター」の展示物は、出土品や古文書など史実に即したものです。

目立ったのは、「浜松市地域遺産センター」のエントランスの顔出し看板(TOP画像)で、「青葉の笛」の指穴(音孔)から顔を出すようになっています。

「おんな城主 直虎 大河ドラマ館」のオープニングセレモニーには、おとわ(井伊直虎)役の新井美羽ちゃんと井伊直親(元服後の亀之丞)役の三浦春馬さんが来られて、テープカットを行いました。もちろん、ゆるキャラの「出世大名 家康くん」 と「出世法師 直虎ちゃん」もいましたよ v(^-^)v

また同日、御前崎市の「新野左馬助公展示館」(新野左馬助研究者の故・鈴木東洋氏の鈴木医院を改修した建物)もオープンしました。「新史料から新野左馬助が関口氏であることが判明」というニュースを聞かれた時の鈴木先生のコメントをお聞きしたかったです。

第2話「崖っぷちの姫」 あらすじ

謀反人である井伊直満の子・亀之丞に殺害命令が出された時の井伊家の判断は、「亀之丞を逃がす」であった。亀之丞捜索隊(今川家臣)に対して井伊家では「父・直満の菩提を弔いに寺へ」と言い、寺では床に油をまいておくという連携プレーをみせたが、「暇(いとま)稼ぎ」に最も功を奏したのは、おとわの囮作戦であった。

亀之丞の逃亡後、今川義元は、井伊家宗主・井伊直盛を咎めはしなかったが、「こたびは、井伊家臣・直満が謀反を見抜けず、剰えその子を取り逃したる不始末、目付・新野左馬助が働き、甚だ心許無し」として新野左馬助親矩を解任し、新たな目付に井伊直満の謀反を報告した小野和泉守政直を選んだ。さらに、政直の子・鶴丸(小野政次)とおとわを結婚させるように下知(げち。命令)した。

亀之丞と結婚する約束をしていたおとわは、鶴丸との結婚を避ける方法を考える。最初に考えたのは、家出であるが、これは失敗した。そして、次に考えたのは出家であった。

青葉の笛のレプリカ(浜松市地域遺産センター)

「女(おなご)に二言は御座いませぬ」

おとわが亀之丞との婚約の話を聞き、こう言い切った時から、おとわは、亀之丞と結婚した気分でした。そして、鶴丸との縁談を「重婚に値する」と思ったのか、断ります。

「婚約は結婚と同じ」という考え方が当時の常識なのか、おとわの一途さ故の異例なのか分かりませんが、おとわと同じ考えの女性に松姫がいました。

それは、武田信玄の五女・松姫(7歳)です。彼女は織田信長の嫡男・織田信忠(11歳)の許婚者となりますが、「三方ヶ原の戦い」で、武田信玄と徳川・織田連合軍が戦ったのを機に婚約は解消。結婚しているわけではないので、松姫は、他の男性と結婚すればよいのですが、

「自分の夫は信忠様只一人」

と言って、生涯独身を貫き、「本能寺の変」で織田信忠が二条御所で自刃すると、出家して「信松尼」(「信」は織田信忠、「松」は松姫)と称して織田信忠の冥福を祈ったそうです。※織田信忠の長男・三法師(織田秀信)の生母を松姫とする古文書や、井伊直政は井伊直親と次郎法師の子とする伝承もありますけどね。

戦国時代は、「婚約=結婚」「婚約は現代以上に重みがあった」とする学者が多いです(「婚約解消や離婚を軽く考えてはいけない」と言うと「古風ですね」と言われるけど、そうなの?)。

おとわが亀之丞に「青葉の笛」を手渡したのは、小黒滝(岩手県一関市大東町)です。
「必ずおとわの元に帰る」
「待って居る」
これは、婚約を解消しないことの確認であり、二人の心は強く結ばれたのです。
お子ちゃまですので、抱き合ったり、口吸いしたりせず、手を強く握り合っただけですが、本人たちにとっては指輪交換に相当するセレモニーであったことでしょう。もし私だったら、物を欲しいです。指輪でなくても、井伊谷八幡宮のお守りとか、その場にあった綺麗な石とか。おとわがしている琥珀の首飾りが気になります。

なお、重要なアイテムである「青葉の笛」の忠実なレプリカ(上記写真)は、浜松市地域遺産センターにあり、実際に手にしたり、音色を聞いたりできます。
この「青葉の笛」は、亀之丞が井伊谷に帰る時、「もう笛吹童子の時代は終わった」とばかりに渋川八幡宮に奉納されました。現在は、寺野六所神社の宮司さんの家の金庫に保管されています。
そして、井伊谷に戻ると元服して「井伊直親(なおちか)」と改名しました。笛を持っていた細腕は、弓を引くたくましい腕になっていました。ちなみに、井伊直親愛用の弓は、遺灰と共に墓に埋められたそうです。

龍潭寺の井伊直満の墓(一番右)

直満の謀反

井伊直満の謀反については、『井伊家伝記』(下記資料1)によれば、武田軍が井伊領に侵攻してきたので、追い払うために、井伊直平の指示で直満・直義兄弟に戦闘準備をさせていたのを、家老・小野政直が「謀反を企てている」と讒言(嘘の密告)したので、誅殺されたとしています。

これはおかしな話です。
今川義元は、対外政策を見直し、北条氏と縁を切って、武田氏と「甲駿同盟」を結んでいるので、武田氏が今川領でもある井伊領に侵攻してくるはずがありません。それに武田軍が侵攻してきても、井伊氏だけでは追い払えません。
史実は、
──井伊領に侵入してきた信濃国の国衆と武田軍の争いの落ち武者の狼藉を防ぐため
といったところでしょうか。ちなみに、井伊領の寺野は、長篠・設楽原の戦いでの武田方の落ち武者が開拓した集落だそうです。

ドラマの脚本も初稿は『井伊家伝記』に即した話だったそうですが、最終稿は、時代考証担当者の意見により、「井伊直満が北条氏と組んで今川氏を倒そうとしていることを知った小野政直が今川氏に報告した」と変えられたそうです。

今川氏は北条氏との縁を切っていたので、有り得る話ですが、
──なぜ北条氏は宗主・直盛ではなく、直満と手を結んだのか
とは思います。直満が力を得るのは、おとわと亀之丞が結婚し、亀之丞が宗主になった時ですから、まだまだ先の話のように思われるのですが。

さて、直満は、謀反人ですので、葬式の執行も、墓の設置も許されませんでした。
そんなことをしたら、「今川氏の判決は誤り。本当は無実」と主張するようなものです。墓については、住民の要望で、井伊直元が井伊氏居館の北西端に「井殿の塚」を築き、松の木を植えたと伝えられています。
ドラマでは、簡素であっても葬式が行われて「安溪壽岱禪定門」という戒名まで付けられ、ドラマ終了後の直虎紀行では、墓「井殿の塚」は住民が築いたとしていますが、井伊氏居館内に住民が入ったり、費用を負担して宝篋印塔を建てたりすることは出来ないと思います。
今川氏の滅亡後は問題ないので、井伊直満の墓(上記掲載・正確には供養塔)は、龍潭寺の「井伊家歴代墓所」にたてられましたし、「円心院殿安溪壽岱大居士」という立派な戒名が追号されました。

亀之丞を暗殺しようとした大平右近次郎の墓

おとわの行動

おとわには、行動力があります。私でしたら、亀之丞がいなくなってからは、毎日泣いて暮らしていることでしょう。主家・今川義元の命令とあれば、嫌々鶴丸と結婚していたことでしょう。見習いたいものです。

おとわの欠点は、「後先考え無い猪突猛進型人間」ということでしょうか。自分のことしか考えず、そのことにより、周囲の人間がどうなるかまでは気が回りません。

第1話では、鶴丸が、病弱な亀之丞を連れ回すおとわに向かい、
「お前は姫じゃから、周りの者は逆らえぬ。皆気を使っておるのじゃ。そういうことを少しは考えろと言うておるのじゃ」
と自分本位なおとわの言動を諌めています。既に家老の風格が (`Δ´)

おとわが自分本位の行動をとる原因を「宗主(領主)の子は何をやっても許されるので、甘やかされ、わがままに育ったから」とする話はよく聞きます。
ただ、「甘やかされて育った人」は、自己主張が強く、わがままですが、依存心が強く、迷った時の決断力がありませんので、おとわとは違うように思われます。また、「男として育てられたから、このような行動をとった」とも聞きますが、男だから大胆で、行動力があるとは限りません。

私は、「一人っ子だから」という観点から見直せば、おとわの行動のルーツが見えてくることもあるのではと思っています。
「一人っ子」は、人に頼むのが苦手で、人に相談せずに、自分で解決しようとします。特におとわは、一休さん並みに頭が切れますので、問題が起きても自分の知恵で解決できてしまったので、なおさら人に相談するのが苦手になったのしょう。また、「人に頼る事は、弱い自分をさらけ出すことであるから良く無い」と考えていたのでしょう。周囲には「頼って欲しい」「頼られたい」と思ってる人が多いというのに。ただ、最も身近な大人である乳母のたけは頼りなさそう (-""-;)

「われが鶴と夫婦(めおと)になっていては・・・亀が可哀想ではないか(泣)」
井伊直盛は、おとわの家出の理由が「鶴丸との夫婦(めおと)約束を無くすため」と知って驚きました。「自分のための行動」ではなく、「亀之丞のための行動」と知って、おとわの「他者を思う心」の芽生え、成長を嬉しく思いつつも、「おとわが亀の事を思うておるのはよう分かった。じゃが、同じ様に井伊の皆の事も思うてくれぬかの」と優しく諭しました。

瀬戸方休夫妻の供養塔

道々の輩(みちみちのともがら)

「三英傑」という言葉をご存知でしょうか? 織田信長、豊臣秀吉、徳川家康のことで「戦国の三傑」とも言われます。

日本史の教科書にも大々的に登場する彼らを描いたドラマは多いのですが、今回の主人公は、「井伊谷の国衆・井伊氏」という知名度の低い一族です。「おんな城主 直 虎」は、「地方(地方史)から日本(日本史)を考えるドラマ」と言ってもいいでしょう。
昨年の「真田丸」では「国衆(くにしゅう)」がキーワードでしたが、今年の「おんな城主 直虎」は、「国衆」に加え、「道々の輩」もキーワードになる「民衆から日本 (日本史)を考えるドラマ」でもあるとのことです。

「定住して稲作を行う」というのは、江戸時代になって制定された「寺請・檀家制度」「五人組」後の話であり、実際には農民以外の漁民・山民・商人・職人らも多数いましたし、戦国時代では定住していない流れ者も多々いたようです。

「おんな城主 直虎」では、「水田中心史観」(水田稲作中心の歴史や文化の解釈)から離れて、農民(綿花栽培)・山民(林業、山賊)・商人(高利貸し)・職人(井平鍛冶、鉄砲製造)にもスポットを当てるようで、その代表者としてまず登場したのが、ムロツヨシさんが演じた「あばら屋の男」だそうです。
ドラマでは、「あばら屋の男」が自分の置かれた「解死人」という立場を、「あっちの村ん衆らと、わしらの村ん衆らが喧嘩して・・・」と子供にも分かるように説明しています。
(げしにん・「解死人」とは、加害者集団から被害者集団に対して、人を差し出して謝罪するという紛争解決手段である「解死人制」において、差し出される人のことで、本来は加害者=犯人が差し出されることから、江戸時代に犯人を表す「下手人(げしゅにん)」の語源となったが、身代わりを出すこともあった)

説明を聞いたおとわは、
「そのような商いがあるのか」
と能天気な感想を述べていますが、昨年の「真田丸」に、村と村の裁判において、村の代表者が焼けた鉄の棒を持って運べるかどうかで神意を問うという「鉄火起請」と呼ばれる裁判が登場しました。この時、焼けた鉄を持つ村の代表者が、「あばら屋の男」のように、「この日のために」と養っておかれた人です。

さて、「あばら屋の男」には商才と「このままで終わりたくない」という夢や希望があり、将来は、瀬戸方休と名乗る豪商になるようです。銭主(新興の高利貸し)・瀬戸方休は、二俣城主・松井氏の一族というのが史実でしょうが、「無一文から豪商になった人」だとする伝承もあります。
高利貸しになるには元手(最初に貸し出すお金)が必要です。100万円を1000万円に増やすことは、商才があれば可能でしょうが、0円を1000万円にすることは商才があっても不可能でしょう。
ドラマでは「無一文であったが、おとわを一晩泊めた上に館まで連れてきたので、多額の礼金を手にし、それを元手に豪商になった」というストーリーのようです。私は、瀬戸方休は、武士(100万円持っていた人)の出だと思っていますが。

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

資料1:『井伊家伝記』「井伊彦次郎直満、同平次郎直義傷害之事」
一 天文十年辛丑之頃ゟ甲州武田信玄差圖を以、甲州家人漸々東北遠江境井伊家之領地段々押領申候。依之、彦次郎直満、平次郎直義両人、則、信濃守直平公之下辞ニて、信玄之家頼と相挑候内支度被致候を、直盛公之家老・小野和泉守、亀之丞(井伊彦次郎直満之實子、井伊肥後守直親公童名。井伊侍従直政公實父也)養子之儀ニ付遺恨故、密ニ駿府江罷下り候て、今川義元江、両人私之軍謀相企之旨、讒言春。因之、早々召状到来、則、直満、直義両人共ニ駿府江下向。終ニハ天文十三甲辰十二月廿三日ニ傷害。々々之後、彦次郎屋敷、并、山林不残、龍潭寺末寺・圓通寺ニ寄附。
【現代語訳】
一 天文10年(1541)の頃より甲斐国の武田信玄の指図で、武田軍がしばしば東北(甲斐国)から遠江国の国境に位置する井伊家の領地を少しずつ横領し始めた。これにより、井伊彦次郎直満と井伊平次郎直義の二人は、井伊信濃守直平公の命令で、武田信玄の家来と戦う準備をしていたのを、井伊直盛公の家老である小野和泉守は、亀之丞(井伊直満の実子。井伊直親の幼名。井伊直政公の実父)の養子の儀(亀之丞を直盛の娘・おとわの婿養子にして井伊家を継がせる事)について不満があったので、密かに駿府へ行き、今川義元に直満・直義の二人が、「私的に軍謀密策を企てている」と讒言をしたので、すぐに「駿府に来るように」との召喚状が直満・直義兄弟に来た。それで、直満・直義の二人して駿府へ行った。そして、天13年(1544)12月23日に殺害された。殺害の後、井伊彦次郎直満の屋敷や山林は、残らず龍潭寺の末寺の円通寺(昭和31年(1956年)、円通寺と明円寺は合併して晋光寺になった)に寄進された。

 

資料2:「大平右近次郎の事」(『引佐郡誌』澁川寺野伊藤彌平氏所蔵記録)

一 井伊信濃守様(井伊十五代直盛公)信州へ御越被遊候時當村八幡宮へ御祈誓被遊信濃路へ趣給ふ時に大平坂を御登り被成所を右近次郎と申者後より弓を挽きけるに信州様召給ふ草鞋の緒を射切りける去其ハ幡宮の御加護にてや有けん御身に無恙信州へ御着被成候叉無程御帰國被遊候其後當村へ御越被遊鹿狩可被成由被仰出則當村之百姓共十五以上六十まで男之分不殘得道具を持可出様にと御觸有けれぱ皆々仕度して東光院御庭へ相詰けるとぞ時に信濃守様被思召様何様此内に我に弓ひきし者こそ有らんと被思召あたりを見回し給ふに御前の木枝に雀の遊び居たりしを御覧じて誰か弓に得手たらん者あの雀を射よと仰有ければ右近次郎進出て其雀を射申べし矢所を御望候へ首をや射きらん羽がひをや射落べしやと申ければいや是は鳥なれば何所になり共中りたらば手柄なりと仰有ければ、然ば胴中を射るべしと弓矢取って立あがりねらひすましてひやうと放つに真只中を射切つて落しけり殿様御機嫌能而儕(おのれ)は弓の上手哉名は何といふぞ所は何國ぞと御尋有ければ拙者大平村右近之次郎と申者にて候と答へける然らば今日之狩には其方の山へ行べしと仰有つて則大平山へ御出被成屋處といふ所にて右近次郎を御前へ被召己れ覺や有先年此村之坂にて我に弓ひきし者は汝ならんと御詮議有つて御手討に被成ける百姓共是を見て大に恐れ騒ぎければ必ず騒ぐことなかれ百姓共へ對して恨なし是は過し頃我に敵せし者故に斯くしたりと仰有つて直に井ノ谷へ御歸り被成とかや時代久しければ萬事慥かならず然れども古老言傳處此の如く右近次郎塚は屋處とい屋處に于今有之現今大平屋處と云へる所大なる櫻の下に塚ありて右近次郎の塚なりと云傳ふ。

(注)右近次郎が狙ったのは、古文書には井伊直盛とあるが、井伊直親の間違いだという。

 

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