「桶狭間の戦い」の頃の織田信長(清州城)

井伊家を訪ねて

神君伊賀越えの諸説を吟味 なぜ家康は船で逃げなかった!?

更新日:

《 天正10年(1582)「本能寺の変」前後の 略年表 》
5月11日 徳川家康、浜松発。
5月15日 徳川家康、安土着。
5月19日 織田信長、徳川家康と共に幸若舞と能を見物。
5月20日 織田信長、徳川家康に配膳。
5月21日 徳川家康、京都・奈良・大坂・堺見物に出発。
5月29日 織田信長、京都入り。徳川家康、堺入り。
※この年、5月30日、5月31日は存在しない。

6月1日 織田信長、本能寺で公家などに応対。
6月2日 早朝、織田信長、没。徳川家康、堺発。長尾村八幡山泊。
6月3日 徳川家康、宇治田原発。信楽・小川城(多羅尾代官屋敷?)泊。
6月4日 徳川家康、信楽発。白子(那古?)から航路。船中泊。
6月5日 徳川家康、早朝に大浜着。岡崎城へ入城。

※「神君伊賀越え」の経路や日程には諸説あるが、上の略年表には代表的な3泊4日説を載せた。他に、2泊3日説(6月2日小川城泊、6月3日船中泊、6月4日岡崎城着)の2泊3日説、『東照宮御實紀』の5泊6日説がある。

徳川家康は、織田信長に安土に呼ばれて明智光秀らに接待され、その後、堺を見学して、京都へ向かう途中の枚方(大阪府枚方市)で、織田信長が明智光秀に討たれた事(「本能寺の変」)を知った。
この時の徳川家康には、
①浄土宗総本山・知恩院(『永日記』では本能寺の焼け跡)で自害(殉死)
②明智光秀と京都で合流(陸路で、枚方~京都)
③陸路(枚方~堺)→海路(堺~浜松)
④陸路(枚方~甲賀~伊賀~伊勢)→海路(伊勢~大浜)→陸路(大浜~岡崎)
⑤軍隊に合流して明智光秀を討つ(1):「二条の新御所」に移った織田信忠に合流
⑥軍隊に合流して明智光秀を討つ(2):四国遠征軍に合流
という選択肢があった。

徳川家康は、①を選択したが、本多忠勝に「若輩ながら、明智光秀を討つことこそ、織田信長への最大の供養」と諭され(①と②を同時に否定され)、徳川家康は、最速の③ではなく最短距離(約250km)で逃げる④を選択した。

最短コースの大型船は、250海里(500km弱)を黒潮に乗れば、10km/hで移動する50時間(2~3日間)の旅となると試算されている。※天候にもよる

⑤や⑥のような弔い合戦も選ばなかった。

 

第49話 「本能寺が変」 あらすじ

小説やドラマの「本能寺の変」とその前後の見せ場は、
◆シーン1:明智光秀が「敵は本能寺にあり」と叫ぶ場面
◆シーン2:織田信長が「是非に及ばず」と言い、「敦盛」を舞いながら炎に包まれる場面
◆シーン3:徳川家康一行が「伊賀越え」の途中、空腹の余り、神社に供えられた赤飯を皆で分け合ってむさぼり食う場面
である。

このドラマでは、
◆シーン1:「敵は本能寺にあり。へっ」と自分に言い聞かせるようにツイート
◆シーン2:カット
◆シーン3:長尾村八幡山の廃屋で小野万福と本多正信が用意した食事
とし、主人公・井伊直虎の登場シーンを生み出していた。

 

◆シーン1:明智光秀が「敵は本能寺にあり」と叫ぶ場面

明智軍の兵士たちは、織田信長の命令で、羽柴秀吉軍に加勢するために、備中国(岡山県西部地方)へ向かうと思っていたが、明智光秀は、「敵は本能寺にあり」と叫んで、本能寺へ向かった。

むろん大声で叫んだところで15000人ともいわれる兵士全員に聞こえるわけがない。

この言葉は、『明智軍記』の「敵ハ四条本能寺、二条城ニアリ」を、頼山陽が「吾敵正在本能寺」(『日本楽府』)と紹介して広まったという。

史料:『明智軍記』

六月朔日、中国へ発向スル勢揃ト号シテ、申ノ刻ニ及テ、日向守ハ、能条畑ニ打出テ、水色ノ幡ヲ立、軍勢ノ手組有テ、三手ニ分ツ。一手ハ、明智左馬助、四王天但馬守、村上和泉守、妻木主計、三宅式部。一手ハ、明智治右衛門、藤田伝五、並河掃部助、伊勢与三郎、松田太郎左衛門。自身ハ、明智十郎左衛門、荒木山城守、諏訪飛騨守、奥田宮内、御牧三左衛門ヲ先トシテ、酉ノ下刻バカリ、保津ノ宿ヨリ山中ニ懸リ、水尾ノ陵ヲ徐ニナシ、内々作ラセ置タル尾伝ノ道ヲ凌ギ、嵯峨野ノ辺ニ打出テ、衣笠山ノ麓ナル地蔵院迄著陣ス。左馬助ハ、本道ヲ歴ヘテ大江坂ヲ過、桂ノ里ニ打越ル。治右衛門ハ、王子村ヨリ唐櫃越ノ嶮難ヲヘテ、松尾ノ山田村ヲ通リ、本陣近クゾ寄合ケル。

諸軍勢此形勢ヲ見テ、「中国ヘノ出陣ハ、播磨路ニ可趣処ニ、只今ノ上洛ハ不審多キ事也」トテ、武頭等ニ向ヒ、其様ヲ尋シカバ、士大将是ヲ聞、「謀叛ノ儀ヲ隠密シテ偽云ケルハ、織田殿ノ仰ニハ、路次ノ程廻リナレトモ、当手武者押ノ次第、京都ニ於テ御見物可有ニ付、如此ト聞及処ナリ」ト答ケレバ、諸人実モト思ツヽ、何心モナク、終夜駒ヲ早メテ、都近クゾ上リケル。爰ニテ光秀諸勢ニ触ラレケルハ、「各兵粮ヲ仕ヒ、武具ヲ固メヨ。敵ハ四条本能寺、二条城ニアリ。可攻討」ト下知シケレバ、偖ハ野心ゾト心得テ、何レモ小荷駄ヲ招キ、支度ノ体不穏便ト云トモ、曽テ外ヘハ知ザリケル。

史料:頼山陽『日本楽府』
本能寺 溝幾尺 (本能寺、溝(の深さ)は幾尺ぞ。)
吾就大事在今夕 (吾が大事を就は、今夕に在り。)
茭粽在手併茭食 (茭粽手に在り。茭を併せて食ふ。)
四簷楳雨天如墨 (四簷の楳雨。天、墨の如し。)
老阪西去備中道 (老阪を西に去れば、備中の道。)
揚鞭東指天猶早 (鞭を揚げて東を指せば、天、猶早し。)
吾敵正在本能寺 (吾が敵は、正に本能寺に在り。)
敵在備中汝能備 (敵は備中に在り。汝、能く備えよ。)

【大意】明智光秀は、戦勝祈願に愛宕神社へ詣でたという。くじを引いたら「凶」と出たので、もう一度引くと、また「凶」であったので、また引くと「吉」(ドラマでは「大吉日」)と出たという。
西坊で連歌の会も開いた。空には墨のように黒い雲がたちこめ、梅雨が四方の簷(のき)から流れ落ちていたので、発句を、時者(は)今 天下知五月哉(頼山陽『日本外史』)とした。

大事(信長暗殺)を就(な)すのは、今夕(今夜)ということであろう。

明智光秀は、菱形の粽(ちまき)を食べたが、笹の包を剥かずに食べてしまった。

また、突然、「傍人」(横に座っていた人)に
「本能寺の周囲の堀の深さは何尺だろうか?」
と聞いてきたので、その場にいた人たちは、不思議に思った。(頼山陽『日本外史』に「會于西坊爲連歌。或供粽焉。光秀、不脱包而食。卒然問傍人曰「本能寺隍深幾尺」。衆異之。」とある。)

「老の坂」(亀山市と京都市の境「大江の坂」)という峠を下った山麓の「沓掛」の追分で、進路を右(南)にとれば、摂津を経て備中国(岡山県西部地方)へ向かうのであるが、明智光秀は、鞭を振りかざすと、左(東)へ、京へと向かった。この時、まだ夜は明けていなかった。(頼山陽『日本外史』に「宣言奉命西援秀吉。夜度大江山。至老坂。右折則備中道也。光秀乃左馬首而馳。士卒驚異。既渉桂川。光秀乃擧鞭東指。颺言曰。吾敵在本能寺矣。衆始知其反也。」とある。)

桂川を渡ると、鞭で東を指し、
「我が敵は、正(まさ)に本能寺にあり!」
と叫んだというが、敵(羽柴秀吉)は備中国にもいるぞ。明智光秀よ、備えを怠るな。

愛宕山参詣は5月27日、連歌の会は5月28日で、明智光秀は、その日のうちに亀山城へ戻り、6月1日の夜に重い甲冑(20kg)を身につけて亀山城を出て、前日の雨で増水した桂川を渡り、(カーナビによると、20.8km先の)本能寺に着いた時は、翌朝3時とも、6時とも。

粽の話は、確かに、『林鐘談』にも、愛宕山西之坊威徳院で連歌「愛宕百韻」(「明智光秀張行百韻」とも)を詠み、朝になって、寺僧が名物「笹綜」を出した時の話としており、明智光秀は、笹ごと粽を食べると、突然、傍人に、本能寺の堀の深さを聞いたので、里村紹巴は、「恐れ多い事だ」と思ったという。

※愛宕名物は「笹粽」ではなく、「愛宕志んこ」(団子)である。「粽」は、今では、「端午の節句」に食べる「行事食」であるが、戦国時代は、「名物」でも、「行事食」でもなく、戦に持っていく「携帯食」だった。

藤井懶斎『閑際筆記』(1715年)では、粽の話は、織田信長を討った数日後の話だとしている。
京の人々が明智光秀に粽を献上すると、明智光秀は、苛立っており、包んでいる笹を取らずに食べたので、その姿を見て、「この人、大君の器無し」と見抜かれたという。

史料:藤井懶斎『閑際筆記』
「日州光秀、既ニ織田公ヲ弑メ、桃花坊ニ在ス。洛人粽ヲ献ズ。光秀、菰葉ヲ脱セ不(ス)シテ之ヲ啖(クラ)ウ。一人、之ヲ望ミ見ニ曰ク、「斯人、大君ノ器ナシ。何ヲ以テ天ノ下を有也(タモタンヤ)」ト。不(フ)日ニシテ寇(アタ)至ル。」
【大意】 明智日向守光秀は、既に織田信長を殺し、桃花坊(左京一条)にいた。京の人が明智光秀に粽を献上した。明智光秀は、包みの葉を取らずに食べた。それを見たある人が、「この人は大君の器ではない。何を以って天下を保つことが出来よう(いや、出来ない)」と言った。日を経たずして仇討ちされた。

 

■シーン2:織田信長が「是非に及ばず」と言い、「敦盛」を舞いながら炎に包まれる場面

「是非に及ばず」は、織田信長の口癖であり、「敦盛」もよく舞っていた。(桶狭間へ向かう前に「敦盛」を舞ったことは、広く知られている。)

史料:『信長公記』「信長公本能寺にて御腹めされ侯事」

六月朔日。夜に入り、老の山へ上り、右へ行く道は山崎天神馬場、摂津国の皆道なり。左へ下れば、京へ出づる道なり。爰を左へ下り、桂川打ち越え、漸く夜も明け方に罷りなり侯。

既に、信長公御座所、本能寺取り巻き、勢衆、四方より乱れ入るなり。信長も、御小姓衆も、当座の喧警下々の者ども仕出し侯と、おぼしめされ侯のところ、一向さはなく、ときの声を上げ、御殿へ鉄炮を打ち入れ侯。「是れは謀叛か。如何たる者の企てぞ」と、御諚のところに、森乱申す様に、「明智が者と見え申し侯」と、言上侯へば、「是非に及ばず」と、上意候。(中略)信長、初めには、御弓を取り合ひ、二、三つ遊ばし侯へば、何れも時刻到来侯て、御弓の絃切れ、其の後、御鎗にて御戦ひなされ、御肘に鎗疵を被り、引き退き、是れまで御そばに女どもつきそひて居り申し侯を、「女はくるしからず。急ぎ罷り出でよ」と、仰せられ、追ひ出させられ、既に御殿に火を懸け、焼け来なり侯。御姿を御見せあるまじき、おぼしめされ侯か、殿中奥深入り給ひ、内よりも御南戸の口を引き立て、無情に御腹めされ。

【大意】 天正10年(1582)6月1日の夜、亀山城を出た明智光秀は、本能寺を取り巻くと、四方から突入した。織田信長も、御小姓衆も、最初は、下人が「当座の喧警」(その場限りの諍い)を始めたのかと思ったが、鬨の声がして、鉄砲を撃ち込んできたので、
織田信長「これは謀反か? 誰の仕業か?」
森乱(乱丸、蘭丸)「明智光秀のようです」
織田信長「是非に及ばず」
と、会話を交わすと、織田信長は、初めは、弓で応戦したが、弓弦(ゆづる)が切れたので、槍で応戦すると、肘を槍で突かれたので、御殿に入り、女房衆(濃姫)を逃がした。既に御殿は燃えており、織田信長は、奥に入って切腹した。

小説やドラマでは、「是非に及ばず」(仕方がない)と言って「敦盛」を舞い始めた(抵抗しないのが潔い!)、あるいは、「是非に及ばず」(覚悟を決めた)と言って援軍(織田信忠)の到着まで抵抗しようとした(逆境にあっても最後まであきらめない姿がカッコイイ!)とする。

『信長公記』の「是非に及ばず」(正か誤か確認する必要はない)の意味は、「謀反人が明智光秀なのか、明智光秀の旗印を掲げた偽者なのか、確認しなくても良い。それは後でも出来ることであり、今は、『喧警』ではなく、『襲撃』であることが分かっただけで十分である。(『襲撃』であると分かった以上は、戦おう。)」である。そもそも、「是非に及ばず」は織田信長の口癖であり、深い意味は無く、他の人なら「相分かった」「なるほど」「そうであるか」等の言い回しになるとも思う。(SNSなら「り」だ。)

織田信長は、焼身自殺ではなく、切腹である。
秘かに首は本門寺、遺骨は阿弥陀寺に運ばれたという。

浜松市中区元魚町出身の戦国史研究の権威・高柳光壽先生(日本歴史学会初代会長)は、明智光秀の天下が「三日天下」に終わった理由を「明智光秀には運がなかった」とされたが、私は、羽柴秀吉が「織田信長は生きている。明智光秀の味方をしたら殺されるぞ」と嘘を触れ回ったからだと思っている。

明智光秀は、織田信長生存説を否定するために、本能寺の焼け跡を徹底的に調査したが、織田信長の首や焼死体を見付けられなかったのが命取りになった。嘘の達人・明智光秀のお株を羽柴秀吉が一世一代の大嘘で奪ったのである。

「運がない」と言えば、穴山梅雪である。『東照宮御實紀』に次のようにある。

「穴山梅雪もこれまで從ひ來りしかば、「御かへさにも伴ひ給はん」と仰ありしを、梅雪疑ひ思ふ所やありけん、しゐて辭退し、引分れ、宇治田原邊にいたり、一揆のために、主從みな討たれぬ。(これ、光秀は、君を途中に於て討奉らんとの謀にて土人に命じ置しを、土人あやまりて梅雪をうちしなり。よて後に、光秀も、『討ずしてかなはざる德川殿をば討もらし、捨置ても害なき梅雪をば伐とる事も、吾命の拙さよ』とて後悔せしといへり。)」

【大意】 徳川家康は穴山梅雪に同行するよう促したが、穴山梅雪は、徳川家康を怪しみ、別行動をとったので、一揆(野伏)に討たれた。明智光秀は「徳川家康を討ち取った」と聞いて喜んだが、首を見ると「捨て置いても害のない(放っておいても大差ない)梅雪」の首だったので、「命の拙さよ(運がないことよ)」とがっかりした。

とある。徳川家康の物語を読んでいると、高柳先生でなくても、「徳川家康は強運の持ち主で、周囲の人はここぞという時の運に欠けていた」と思えてくる。

※穴山梅雪は、豪華な服を着ていたので、徳川家康に間違えられて土一揆(野伏)に討たれた。(明智光秀は、「身分に限らず、徳川家康を討った者には1万石を与える」とお触れを出していた。)ドラマでは、本多正信が、野伏に「あれが徳川家康だ」と教えたのではないかと思われる描写があったが、一説に徳川家康が本多忠勝に討たせたという。

「本能寺の変」については、諸説あるが、このドラマでは、「明智光秀は、『織田信長が徳川家康を殺そうとしている』と今川氏真に嘘をつき、徳川家康の安土行きを後押しさせて、織田信長を討った」としている。明智光秀は、ルイス・フロイスによれば、「計略と策謀の達人」であり、江村専斎によれば、「武士の嘘を武略という」と言ったという。明智光秀は、嘘の達人であったのだろう。

史料:ルイス・フロイスの明智光秀の評価(『日本史』)

裏切りや密会を好み、刑を料するに残酷で、独裁的でもあったが、己を偽装するのに抜け目がなく、戦争においては謀略を得意とし、忍耐力に富み、計略と策謀の達人であった。

史料:江村専斎『老人雑話』

明智日向守が云、「佛のうそをば方便と云、武士のうそをば武略と云ふ。土民、百姓は、かは由きものなり」と。名言也。

明智光秀の黒幕、共犯者については、様々な説があるが、当時、最も有名だったのが「近衛前久共犯説」で、それは、織田信忠襲撃に屋敷を使わせたからだという。

史料:『信長公記』「中将信忠卿、二条にて歴々御生害の事」
御敵、近衛殿御殿へあがり、御構へを見下し、弓鉄炮を以て打ち入り、手負死人余多出来。

【大意】 織田信忠は妙覚寺にいて、本能寺に向おうとしたが、「織田信長が討たれた」と聞き、堅固な「二条の新御所」(「二条城」と区別するために「二条御新造」「旧二条城」「二条古城」ともいう)へ逃げ込んだ。明智軍は、近衛前久邸の屋根に登り、御所を見下ろす位置から弓や鉄砲で攻めた。

共犯を疑われた近衛前久は、体調不良を理由に、現役を引退し、出家して「龍山」と名乗り、「草津へ湯治に行く」と京を出て、浜松の徳川家康を頼った。近衛前久は、松平元康(後の徳川家康)が、姓を「徳川」に変えたいと朝廷に申し出た時や、「三河守」に叙任される時に、朝廷の窓口として尽力した人物であったので、徳川家康は、それらの恩に報いるために近衛前久を匿った。

近衛前久は、約1年間、龍禅寺(静岡県浜松市中区龍禅寺町)境内の「龍山公の亭」(後の「龍山公残亭」)に住み、天正11年(1583)6月2日には、織田信長の追善供養を行った。また、同年7月には、浜松城で今川氏真と共に能を観て親交を深めたというが、徳川家康の尽力で許されて京へ戻った。(現在、亭は無く、跡地に松永蝸堂の句碑(下の写真・案内参照)がたてられた。)

「龍山公の亭」跡(龍禅寺境内)

 

シーン3:徳川家康一行が「伊賀を越え」の途中で、空腹の余り、神社に供えられた赤飯を分け合ってむさぼり食う場面

2016年NHK大河『真田丸』では、この場面が話題となったが、井伊万千代が赤飯を断るシーンはなかった。

小説家も、脚本家も、時として史実と違うことを書く。読者はその迫力ある筆致に押され、視聴者は視覚にも訴えられて、実際にそのような事があったと思い込んでしまう。この赤飯の話は、江戸幕府の公式文書『東照宮御實紀』にはなく、諸本からの引用集『東照宮御實紀(附錄)』に、次のように記載されている。

史料:『東照宮御實紀(附錄)』(卷四)

呉服大明神の神職服部美濃守貞信、社人をかり催し、御先に立て鄕導し奉れば、鄕人ばら敢て御道を妨る者なし。江州・信樂に至らせ給へば、土人木戸を閉て往來を止めたり。此地の代官・多羅尾四郞光俊は、これも秀一が舊知なれば、秀一その旨いひやりしに、光俊、すみやかに木戸をひらかせ、御駕を己が家にむかへ入奉り、種々もてなし奉る。このとき赤飯を供せしに、君臣とも誠に飢にせまりし折なれば、箸をも待ず、御手づからめし上られしとぞ。(『武道雜談』『永日記』『貞享書上』『酒井家舊藏聞書』『續武家閑談』)

【大意】 呉服社の神職・服部貞信が社人を駆り集めて先導したので、(数で勝てないと思ったのか、神職に手出ししたら神罰が下る、祟られると思ったのか)野伏や山賊には襲われなかった。信楽では木戸を閉められて通行できなかったが、代官の多羅尾光俊を長谷川秀一が知っていたので、交渉すると、木戸が開き、多羅尾光俊は、屋敷に徳川家康が乗る駕籠を迎え入れて、赤飯を出すと、徳川家康も家臣も、皆、お腹がすいていたので、箸を使わず、素手でガツガツ食べた。(出典『武道雜談』など。)

小説やドラマの「伊賀越えの時、神社のお供えの赤飯を食べたが、井伊万千代は食べなかった」場面は、岡谷繁実『名将言行録』に、次のようにある。

史料:岡谷繁実『名将言行録』「井伊直政」

家康、何れの戦にや、軍敗れて主従五、六人にて引く時、皆、飢に疲れだり。或社頭に、赤飯の備あるを見て、皆、之を食ふ。萬千代一人、手に取らず。家康、叱し、「悴なればとて時にこそよれ、飢を凌がぬ馬鹿者」と言はれし時、萬千代、「私こと全く嗜にては之なく、敵、御跡を慕ひ申すに付て、頓て爰元に収掛け申すべく。其時、某一人は踏止まり討死仕るべくに付、共間に御退き遊ばさるべく候。死後、飢に疲れ、上下赤飯を食したること顕はれ候ては、無念に有候」と申しゝとぞ。

【大意】 某戦で負けて5、6人で逃げている時、お腹がすいたので、某神社のお供えの赤飯を食べた。井伊万千代が食べないので「こういう時は食べておくものだ」と徳川家康が叱ると、「すぐに追手が参りましょう。私が食い止めますので、お逃げ下さい。斬られた時に赤飯が飛び出して、『こいつ、お供え物を盗んだな』と思われるのが恥なので、食べません」と答えた。

小説家や脚本家は、この某戦を「神君伊賀越え」、某神社を呉服社に変えたが、「軍敗れて主従五、六人にて」退いた某戦とは、2月7日の夜、徳川家康の寝所に忍び込んだ忍者を井伊万千代が倒した「井伊万千代の初陣」として有名な「芝原の戦い」のことである。翌2月8日に敗戦したようだが、この2月8日は、「事八日」(節供始め、お薬師様、恵比寿講)の日であり、神社や各家庭では赤飯を供えた。仕事始めの日に、井伊万千代は初陣。その初陣が敗戦では体裁が悪いので、「某戦」「某神社」とし、特定できないようにぼかしたのであろう。いずれにせよ、井伊万千代は、この戦により、徳川家康の信を得たとされる。

──実際の「神君伊賀越え」はどのようなものだったのか?

「第二次 天正伊賀の乱」で、織田信長は、殲滅を指示していた。そこを同盟者の徳川家康が通ることは超危険であり、江戸幕府の公式文書『東照宮御實紀』では、「御生涯御艱難の第一」だとしている。ところが、その『東照宮御實紀』を読むと、「第二次 天正伊賀の乱」で、徳川家康は、伊賀者を助けたので、その恩返しに、数百人 の伊賀者が護衛したので、大事に至らなかったとしている。

史料:『東照宮御實紀』(卷三)

去年、信長伊賀國を攻られし時、「地士どもは皆殺たるべし」と令せられしにより、伊賀人多く三遠の御領に迯來りしを、君、あつくめぐませ給ひしかば、こたび、其親族ども、「此御恩にむくひ奉らん」とて、柘植村の者二、三百人、江州甲賀の地士等、百餘人御道のあないに參り、上柘植より三里半、鹿伏所とて、山戝の群居せる山中を難なくこえ給ひ、六日に伊勢の白子浦につかせ給ひ、其地の商人・角屋といへるが舟をもて、主從この日頃の辛苦をかたりなぐさめらる。折ふし思ふ方の風さへ吹て、三河の大濵につかせ給ひ、七日に岡崎へかへらせ給ひ、主從はじめて安堵の思をなす。(これを「伊賀越」とて御生涯御艱難の第一とす。)

【大意】 昨年(天正9年)の「天正伊賀の乱」の時、織田信長は根絶やしを指示したので、多くの伊賀人が三河、遠江両国へ逃げ込んだ。織田信長と同盟を結んでいる領主・徳川家康は、この伊賀人たちを殺さず、保護したので、「その御礼である」として、柘植の柘植清広が200~300人、甲賀の武島大炊助が100人以上呼び集め、伊勢の白子浦まで警固した。その後、船で三河国の大浜へ渡り、岡崎城に入った。これを「神君伊賀越え」といい、「御生涯御艱難の第一」とする。

「神君伊賀越え」とは、「三河国への帰国(当時の徳川家康の居城は浜松城であったが、まずは近くの岡崎城を目指した)に際し、長谷川秀一が十市遠光に道案内ができる家臣の派遣を要請すると、6月3日に吉川善兵衛らが到着した。6月4日には木津川を越えると、呉服社の神主・服部貞信が社人(しゃにん)をひき連れて合流し、昼食をとった山口城からは山口光広が加わった。甲賀山中の高見峠で吉川善兵衛らは帰ったが、和田貞政、山岡兄弟が加わった。信楽に達し、小川城(多羅尾代官屋敷?)泊。多羅尾光俊ら50名、伊賀者200名、甲賀衆150名が加わり伊賀を越えて、白子に着いた。白子(那古?)からは角屋秀持の船で三河の大浜(愛知県碧南市)へ渡り、陸路で岡崎城に入った」というものらしい。

※吉川善兵衛は、息子たち(吉川主馬助、吉川孫次太夫)など、数十人をひき連れてきたという。(一説に十市遠光も来たという。)6月4日朝の石原村の一揆(『東照宮御實紀』に「四日、石原村にかゝり給へは、一揆おこりて道を遮る。忠勝等、力をつくしてこれを追拂ひ、白江村、老中村、江野村をへて呉服明神の祠職・服部がもとにやどり給ふ。」とある)鎮圧において、吉川善兵衛は、大将・石原源太の首を取り、徳川家康に差し出したという。

信楽に至るまでの「宇治田原越え」は危険であり、穴山梅雪が落命したが、「伊賀越え」は多くの忍者(地元民)に守られて安全だったようである。

※上の引用文に「御駕を己が家にむかへ入奉り」(徳川家康が乗った駕籠を自宅(多羅尾代官屋敷)に入れられ)とある。また、宇治川(瀬田川)を渡る場面では、徳川家康は舟、家臣は馬で渡ったとあるから、史実は「徳川家康は駕籠、家臣は馬で、多くのボディーガードを連れて移動した」ようで、これがなぜ「御生涯御艱難の第一」なのか分からない。

──我らが主人公・井伊直虎は元気である。尼でも無い。

実際の尼・祐圓(井伊直虎)は、病死する前の1年間、自耕庵で過ごしたという。多分、当時、「伝染する」と考えられていた病気にかかり、隔離されていたのであろう。

彼女は、武田勝頼の死も、織田信長の死も、病床で聞いたが、ドラマの農民・とわ(井伊直虎)は、井伊万千代の遠隔操作で、「ここぞ!」という時には徳川家康への直訴で、「徳川家康に平和な世をつくらせるのだ~!」と、元気であり、数ヶ月後に病死するような雰囲気ではない。

「ピンコロ」(←長野県民にしか通じない?)なのか? 白髪も、衰弱した様子も無く、アラフィフだというのに若々しい「美魔女」で、本多忠勝なんてデレデレだ (*^o^*) 茶屋四郎次郎清延(1545-1596)は37歳だけど、白髪多 いゾ (*゚ー゚*)

今回も、堺まで出向き、徳川家康を助ける作戦を実行した。さらに、預かっている明智光秀の子・自然の扱いを考えるため、明智光秀の動向を堺で見守るという。

(つづく)

 

【今回の言葉 「人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。」】

【出典】 幸若舞「敦盛」

思へばこの世は常の住み家にあらず、
草葉に置く白露、水に宿る月よりなほあやし。
金谷に花を詠じ、

榮花は先立つて無常の風に誘はるる。
南楼の月を弄ぶ輩も、

月に先立つて有為の雲にかくれり。
人間五十年、化天のうちを比ぶれば、夢幻の如くなり。
一度生を享(う)け、滅せぬもののあるべきか。
これを菩提の種と思ひ定めざらんは、口惜しかりき次第ぞ。

幸若舞「敦盛」を舞う織田信長(清州城)

【解説】 織田信長自身が好んで演じた幸若舞「敦盛」の一節である。

「此時、信長敦盛の舞を遊ばし候。「人間五十年、下天の内をくらぶれば、夢幻のごとくなり。一度生を得て滅せぬ者のあるべきか。」と候て、螺ふけ、具足よこせと仰せられ、御物具召され、たちながら御食をまいり、御甲めし候ひて御出陣なさる。」(『信長公記』)

上は、清州城から桶狭間へ出陣する時の描写である。

「人間(じんかん、にんげん)五十年」とは、「人の世の50年の歳月」の意であり、「ヒトの寿命は50年」の意ではない。 「化天」は、「六欲天(六天)」の第五位「楽変化天(化楽 天)」の略で、一昼夜は人間界の800年にあたり、『信長公記』の「下天(げてん)」は、「六欲天」の最下位(第一位)の「四大王衆天」のことで、一昼夜は人間界の50年に当たる。ちなみに、「第六天魔王」が住むのは、最上位(第六位)の「他化自在天」で、一昼夜は人間界の1600年にあたる。

「人間五十年、下天の内(うち)をくらぶれば、夢、幻(まぼろし)の如くなり」の意味は、「人の世の50年の歳月は、下天の一日にしかあたらない。一瞬のようなものだ」である。

 

キーワード:「神君伊賀越え」での井伊万千代

「神君伊賀越え」の功績で、井伊万千代は、「孔雀尾具足陣羽織」(長岡市与板民俗資料館蔵)を拝領しています。

「長谷川秀一と共に、地元の国衆や土豪を味方につける」という外交官、交渉人として活躍したようですが、地元の郷土史家さん達は、「その役は服部半蔵だ」と主張されています。

二代目服部半蔵正成(「徳川十六神将図」)

※長谷川秀一:「申次」(地方の戦国大名や国衆が持ち込んできた用件を織田信長に取り次ぐ窓口係)であったので、「伊賀越え」の道案内は出来ず、吉川善兵衛を派遣してもらったが、通り道の国衆の中には、長谷川秀一の旧知(長谷川秀一が取り次いだ者)がいたので、井伊万千代と共に交渉に当たった。

地元では、服部半蔵が道案内を務め、野伏(一揆)や山賊に出会ったら、豪商・茶屋四郎次郎が、「源義経奥州下り」の時の金売吉次の如く交渉し、お金で解決をしたそうです。実際の道案内は、吉川善兵衛→服部貞信→柘植清広であろうし、お金については、徳川家康が3千両持参して織田信長に渡したところ、千両返されたので、そのお金を使ったとも。そもそも、服部半蔵(上の写真)は岡崎生まれの武士であり、道案内は出来ないと思います。

 

服部半蔵について

服部氏は、機織りを得意とする秦氏の子孫とも、伊賀国阿拝郡服部郷を本貫地とする土豪(小宮神社の神主を兼任)とも。子孫に石原慎太郎(祖父は服部信義の二男)など。

・初代・服部半蔵保長:伊賀出身で、三河国に移住し、松平清康(徳川家康の祖父)に仕えた。

・2代目・服部半蔵正成:「神君伊賀越え」に同行。岡崎生まれの武士で、伊賀国に親戚はいたであろうが、本人は伊賀国の地理には詳しくないと思われる。後に「神君伊賀越え」で徳川家康をガードした「伊賀同心」の支配役となって活躍した。
・3代目・服部半蔵正就:改易され、松平定勝の元で蟄居した。

史料:『寛政重修諸家譜』「直政」

十年五月、東照宮、京都御遊覧のとき扈従し、六月二日、織田右府ことあるよし、告來るにより、和泉國を歸御のとき、其路次にして、一揆蜂起すといへども、長谷川竹秀一等と計策をめぐらし、長途つゝがなく還御ありしかば、その勞を賞せられ、孔雀の尾にて織たる御陣羽織を賜ふ。

史料:『井伊家系譜』「直政」

一、五月、権現様、御上洛。泉州堺、御見物之節、致供奉候。六月、明智日向守、逆乱に付、従泉州、経間道、御帰国之途中、所々、郷人、一揆致蜂起候処、直政、長谷川竹丸与計策を運し、依之、於宇治田原、山口甚介、於信楽、多羅尾四郎兵衛、尽無二之忠節。其外、国人、奉守護、無御恙、御帰国に付、御大事之長途、尽勤労之旨、上意に而、孔雀之尾を以織たる御陣羽織、致拝領候。

小説やドラマでは、服部半蔵が、御斎峠で狼煙をあげて伊賀者を集めたとするが、これは、「御斎峠に徳川家康がいる」と教える狼煙だとも。野伏や山賊は、徳川家康を討とうとして御斎峠に集まったが、実は囮で、駕籠の中には、徳川家康ではなく、石地蔵が乗せられており、徳川家康は駕籠に乗って桜峠を越えたという。(伊賀者を集めるための狼煙は、高見峠であげたという。)こういう「計策」(囮を使う策)を巡らしたのが井伊万千代だったのか? おとわは、亀之丞を逃がすために、亀之丞の服を着て、得意の「鬼ごっこ」の時のように逃げ回った。

私が脚本家なら、井伊万千代に、

──井伊の先代も、幼き時、許婚者を逃がすために、自ら囮となられたと聞いております。

と言わせる。

このドラマは、明らかに史実と異なる場面が多々あるので、ここも思い切って、「井伊万千代の計策で、御斎峠の駕籠も、桜峠の駕籠も囮であり、徳川家康は、堺から、井伊万千代、井伊直虎、龍雲丸、中村与太夫と船で帰った」とする方が、物語の流れ的には面白かったと思う。

「平塚山付近遺跡案内図(部分)」(「平塚砦」は、服部平大夫正尚が石谷氏の要請で忍術を教えていた場所、「図書屋敷」は、服部平大夫正尚の弟・服部七右衛門(青山図書助)成重の屋敷、「西郷氏殿屋敷」は西郷局(於愛の方)の生家。)

──道案内は、服部半蔵ではなく、服部正尚?

「本能寺の変」について、通説では茶屋四郎次郎が本多忠勝に教え、本多忠勝が徳川家康に教えたとしているが、異説では服部正尚が教え、服部正尚が「伊賀越え」の道案内をしたという。この時、従兄弟・服部出羽守保章(名張城主。「保光」とも。娘は明智光秀の後妻・伏屋姫)の徳川家康暗殺計画を察知し、徳川家康に蓑と笠を与えて変装させて防いだことから、徳川家康から「蓑笠之助」という名を拝領した。

この服部正尚は、徳川2代将軍秀忠の実母・西郷局(於愛の方、寳臺(宝台)院殿)の養父(母親の再婚相手)であり、忍者である。石谷氏の要請で、西郷(静岡県掛川市西郷地区)に呼ばれて平塚山で忍術を教えていた。鋸鍛冶に変装して掛塚に住んでいた時、「田中城攻め」帰りの徳川家康が屋敷に立ち寄り、於愛の方に一目惚れし、浜松城に呼び、徳川秀忠が生まれた。

史料:『寛政重修諸家譜』「蓑」

もと「服部」たり。のち「蓑」と稱し、また「巳野」にあらたむ。正高、寳生座猿樂のものより御家人にめし加へらるゝにをよびて「蓑」に復す。

家傳に、その先・服部千大夫正尚、東照宮につかへたてまつり、天正十年六月、伊賀路を渡御のとき、嚮導したてまつり、喜多村出羽守某が領地を過らせたまふ。彼は、明智光禿が外舅(はゝかたをぢ)なれば、御不審におぽしめされ、正尚が出羽守と親族たるにより、御使をうけたまはりて其許に至り、「御味方すべきや」のむね達するのところ、出羽守、「速に人數を具して、むかへ奉る」といへども、其心底はかりがたければ、「まづ、ひそかに渡御あるべし」とて正尚、蓑、笠をとりて、たてまつりしかば、濱松に歸御のゝち、その忠節を賞せられ、上意もて「蓑笠之助」とめさる。

これより四代連綿して笠之助正長にいたり、慶長十八年、大久保石見長安、罪かうぶるのとき、正長、所縁あるにより、これに坐して御勘氣をうけ、采地をもおさめられ、のち赦免ありて、猿樂の列となり、三代にして正高にいたるといふ。

史料:『柳營婦女傳系』「寳臺院殿之傳系」

一、当時宝生大夫座付のみにて、御切米等自分判にて請取、御蔵米百五拾俵。父は笠庄之助、当庄次郎。

○蓑之助。始ハ服部平大夫と云て、伊賀の者也。其比、伊賀の名張の城主を服部出羽守保章と云、明智日向守舅の、明智反逆の時、家康公、泉州堺に御座に付、平大夫早速馳参、此日、堺の町人・今井宗薫方へ茶湯にて御入故、罷越、委細の告申、驚かせられ、評議の上、堺を御立、伊貸越被成、参州に御帰有んと、彼の名張の城下御通有之度故、城主・出羽守ハ平大夫一族故、被仰入しか共、猶御用心にて、山路の間道を御通被成、此路次御忍なれば、平大夫、蓑、笠の奉れば、是を召さる。夫より平大夫を「蓑笠之助と改号すべし」と被仰付、常に近仕す。

○御治世に及で、江戸将軍家へ参り可奉仕由仰有しか共、老年の事故、御免を乞てソノ弟・服部七右衛門に家督を被仰付、其後、七右衛門は、「青山図書介」と改号し、加判の列に加り、壱万石を賜り、後年、将軍家へ附ラレ、奉仕の後、家督の儀に付、没収にて、当時、其子孫・青山平八(父・七右衛門と云)にて両番組也。(将軍家より青山伯耆守へ被仰付、名字を送るとも云なり。)
一、笠之助実子、嫡男ハ薩摩守忠告君へ御附け、「服部惣右衛門」と号す。其子孫、今に尾州に奉仕、次男、三男ハ早世にて、四男・平四郎には、七右衛門に家譲の後、隠居料として賜る所の百五拾俵を譲る。是を二代目の蓑笠之助と号し、当庄次郎は其孫也。

○笠之助が娘、御傍に奉仕し、「西部局」と号す。是笠之助妻は、西郷家の親類政なりと云々。此女、台徳公、忠告君の御母堂也、号「宝台院殿」、此御因に付、笠之助が嫡男・惣右衛門をば忠告君に御附也。

一、彼、服部出羽守は、明智滅亡に付、沈淪し、江州・北村に蟄し、「北村」と改称す。其子孫、常憲公御代に松平美濃守吉保に便り、被召出度旨願ふと云へ共、彼、出羽守が子として伝来の者ハ、光秀が幼息にて嫡孫の由なれば、実父・明智障りと成て、事不調。依之、無是非、松平右近将監家老某が養子と成る。
一、笠之助、本姓「服部」にて、猿楽の列なる由を考れば、観世大夫も本姓「服部」なれば、始、其親類ならん。観世も元祖・服部観阿弥は、足利将軍義政公の同朋也。其先、服部某と云て、楠正成が家臣の由なれば、笠之助も先祖は武士といへ共、其比は観世抔と同敷、猿楽なるべし。世説に、笠之助は丹波猿楽にて、領地は丹波に在といへり。庄次郎が家伝に丹波の領地の事を不知由。

 

キーワード:海路

『信長公記』の「神君伊賀越え」に関する記述は、次の数行です。

「伊賀越え」を「宇治田原越え」とし、途中の海路は「白子~大浜」ではなく、「桑名~熱田」としています。この「桑名~熱田」は、江戸時代は、東海道「七里の渡し」として知られていました。

熱田湊(東海道「七里の渡し」)

史料:『信長公記』「家康公、和泉堺より引取り退かれし事」

然るに、徳川家康公、穴山梅雪、長谷川竹、和泉の堺にて、信長公御父子御生害の由承り、取る物も取り敢へず、宇治田原越えにて、退かれ侯ところ、一揆どもさし合ひ、穴山梅雪生害なり。徳川公、長谷川竹、桑名より舟にめされ、熱田湊へ船着なり。

──五万石でも岡崎さまは、お城下まで舟が着く。(民謡「岡崎五万石」)

なぜ、堺から岡崎城まで船で一気に行かなかったのか不思議です・・・。

岡崎城がある竜頭山(霧降山)山麓の船着き場

徳川家康の父・松平広忠は、天文8年(1539)、叔父・吉良持広(東條吉良氏)の庇護を得て、吉良から伊勢国・神戸(白子の少し北の三重県鈴鹿市神戸)に渡っていますが、今回、吉良ではなく、大浜を選択したのは、一行の中に大浜に城を持つ永井直勝がいたからでしょう。

また、大浜は、酒井氏の本貫地の酒井村にも近く、大浜から岡崎へ向かう途中、酒井村でお茶を飲まれたので、酒井与次兵衛は、煎豆を差し入れたとのことです。

吉良でも、大浜でもなく、居城・浜松城近くの今切湊や掛塚湊でないのは、

①浜松は岡崎よりも遠い。(早くほっとしたい。早く次の指示を出したい。)

②危険。(伊良湖水道や遠州灘は水難事故が多い。)

ということでしょう。貿易商・林五官との出会いは、林五官の船が遠州灘で難破した事でした。

海路ではなく、陸路(伊賀越え)にした理由は、

①海賊に襲われたり、船員が明智方に寝返った時に逃げ場がない。

②味方の数が増えていかない。(最初から最後まで同じメンバー)

③紀州沖を通るが、紀州は織田領ではない。(攻撃される?)

④船の調達が出来ない。(堺は四国遠征軍の船で埋まっていた?)
など。

※四国遠征軍:大将・神戸信孝(織田信長の三男・織田信孝。北勢の国衆・神戸具盛(友盛)の養子)、副将・丹羽長秀らは、織田信長の命で、6月2日に出港(四国へ出陣)予定であったが、「本能寺の変」が起きたので中止になった。堺には九鬼嘉隆率いる鉄甲船9艘を含む志摩・鳥羽水軍、紀伊海賊衆の100艘がすでに待機しており、神戸信孝は、堺で、さらに200艘を調達して出航するつもりだったという。堺の商人は、港が軍船で埋まり、商船が入港できないとして、嘆いていたという。

今でも、飛行機の方が早いのに「恐いから新幹線で」という方がおられますが、もしかしたら徳川家康は、船が嫌いだったのかもしれませんね。子供の頃、船に乗せられ、駿府に着いたと思ったら、熱田だったという苦い経験(トラウマ)がありますから。

ちなみに、ドラマでは、「海路だと、織田領ではない紀州(日高、比井、富田)で寄港するする必要があり、危険だから、寄港しなくても済む大型船=南蛮船を調達する」ということでしたが、徳川家康一行が堺へ戻ろうとすると、茶屋四郎次郎清延が、伊賀越えを指示し、井伊直虎の努力(南蛮船の調達)は無駄になったとしています。

 

藤枝宿(白子)の小川家

伊勢国から三河国大浜までの船を手配して、徳川家康一行を助けた伊勢商人・角屋七郎次郎秀持は、徳川家康から、「分国中諸役免許」の朱印状を授かりました。角屋秀持は、朱印船「八幡丸」を造り、「小牧・長久手の戦い」では、徳川軍の陣船に加わりました。慶長5年(1600)9月10日、伏見城に招かれた角屋秀持に対し、徳川家康は、「汝の持ち船は子々孫々に至るまで日本国中、いずれの浦々へ出入りするもすべて諸役免許たるべし」という「廻船自由の特権」を与えたそうです。

「白子由来記」碑(静岡県藤枝市旧白子町)

何れにせよ、航路が確立されている「伊勢~常滑(知多)」ならともかく、「伊勢~大浜(三河)」となると、距離は長いし、30人以上が乗り、船内で寝られる程の、大型船でないと無理でしょうね。

1983年NHK大河ドラマ『徳川家康』(原作:山岡荘八『徳川家康』)第25回「伊賀越え」では、船を出した小川孫三に対し、徳川家康は、「このまま駿府に住むがよい」と船上で言っていました。小川孫三は、山西(藤枝宿)に土地を与えられたので、移住し、そこを故郷「白子」にちなんで「新白子」と名付けたそうです。

※佃煮の「佃」など、移住前の地名を、移住後の地名とすることはよくある。

【参考】愛知戦国史跡ナビゲーター・みかわのひで『授業で教えてくれない戦国武将と歴史の話』

第9話 「徳川家康がキッカケで佃煮は誕生した!」

※日本各地に「白子」地名があるが、三重県鈴鹿市白子一~四丁目と、静岡県藤枝市本町(旧・白子町)のみが「しろこ」と読み、他は「しらこ」と読むという。

史料:「小川先祖古来由緒の事」

抑先祖・小川孫三儀は、勢州・白子の者に御座候処、家康公様、天正年中に及び候節、泉州・堺より、伊賀越勢州白子之御移り遊ばせられ候節、左右の敵軍多く、既に御大切の砌、小川孫三作仕り、四月頃なれば、麦刈込居り候処、家康公様、御欠込遊ばせられ、仰せられ候は、「只今、後より、大勢敵軍、追かけ来る間、囲って呉れ」と仰せられ候。「畏り奉り候」と申し、麦の内え御入れ申し、麦、積掛け居り候処、大勢人込み、「只今、是れえ、家康公、欠込み候。何国に隠し置き候哉。有様に白状致す可し」と厳敷く御尋ね有り。孫三答えて、「左様なる御方は、是れえは一向見え申さず」と申候得は、大勢、家内え入込み、「慥(たしか)に是れえ欠込み候に相違無し」と、家内、明細に詮儀致し候得共、「一向、尋ねらず、扨々(さてさて)不思議なる事」と申し居り候処、孫三申候は、「左様仰せられ候得は、先刻、私の所、御一人裏道え御通りなされ候。左様なれば、其御方にて候哉」と申し候得は、「さあらは、一刻も早く追欠て参る可し」と大勢、一同に罷出で候。夫より暫く四方を考え居り候内、空、早や日も暮に及び御大切の砌、小川孫三御頼み遊ばせられ、白子「若松の浦」より夜船にて尾州・床鍋と申す所え御着船なし奉り、夫より三州・大崎まで御送り奉り候様、重ねて御上意遊ばせられ候に付、知田部上半田村より、陸地、御供仕り、御恙無く、三州・大崎より駿河まで御送り奉り。是迄御越し遊ばせられ候に付、一先づ私儀は、勢州へ罷帰り申し度御願上げ奉り、罷帰り候処、其後、勢州・神戸の御城主・織田三七殿、家康公様御送りの議に付、色々御吟味強く、曲事も仰付られ候程の御詮議厳しく候得は、難儀に及び候故、田畑、財宝打ち捨て、夜逃げ仕り。夫より段々家康公様御尋ね申し、右の趣き、御上聞に達し奉り候得は、有難き御憐愍を蒙り奉り、御分国の内、駿州・藤枝東芝間の節、「此地、勢州・白子と心得、住居仕り候」様仰付けさせられ、有難く家作仕り、「新白子町」と御名附、御取立遊ばせられ、有難く、親類共、追々尋ね参り、此地に住居仕り罷在候然処、家康公様、其後、孫三儀、御尋ね下され、右、褒美の為、「何なり共、望み次第、望むべし」と仰せられ、難有く候得共、「何にても望み候儀、御座なく候」と申上げ奉り、其時代、軍役等厳しく候に付、諸役の儀、御除き下され候はば、諸役御免の御朱印、天正十四年八月十四日、孫三え下し置かれ、難有。其節より頂戴仕り、罷在り候。之に依って先年、御公方様、御上洛遊ばせられ候節、御登り、小川、内田御目見得仕らず候に付、還御の御節、御目見え仕り度き旨、江戸表え罷下り、酒井雅楽忠世様え御願上げ奉り候処、則ち、御添状、井上主計頭様まで遣はせられ、主計頭様、御披露なし下され、恐れながら御肴献上奉り、御目見え仕り候。之に依って、御代々御名代様、御上京、御上下共に、小川、内田御目見え仕り候。尤も後々の御印の為、雅楽頭様よりの御添状、主計頭様より私先祖へ下し置かせられ、今に頂戴仕り罷在り候。   以上。

この由来書の疑問点は、次の2点です。

①「四月頃なれば、麦刈込居り候処」

②「駿河まで御送り奉り」

①麦畑に隠れるというのは、交野(大阪府交野市)の「家康ひそみの藪」のイメージですが、徳川家康1人ならともかく、30人以上が隠れられるのか? そもそも4月ではなく、麦刈り終了後の6月の話です。

②航路は「白子(若松の浦)~床鍋(常滑)~大崎(大野)~上半田村~大崎(大浜)~駿河」とのことですが、大崎(大浜)まででしょう。

いずれにせよ、上の由緒書きは、徳川家康との関係をアピールして、特権(歴代徳川将軍へのお目通り)を得たという一例です。

──なぜ「伊賀越え」なのか?

逃走ルート最大の難所である「伊賀越え」は、数百人の護衛がいて、不安がなかったはずであるのに、「御生涯御艱難の第一」とするのは解せません。

「神君伊賀越え」で活躍した伊賀者(伊賀同心)は、「神君伊賀越え」のメンバーである服部正成に付けられましたが、服部正成没後、嫡男・服部正就が改易になると、伊賀者の地位が低下し、貧困になったので、「宇治田原越え」を「伊賀越え」に変え、「伊賀は危険地帯であったが、ご先祖様のお陰で、徳川家康は、無事に通過できた」と訴状に忍術書『万川集海』(寛政元年(1789)4月に寺社奉行・松平輝延を通じて江戸幕府に献上)を添えてアピールし、救済を求めました。また、『寛政重修諸家譜』制作資料提出に伴う寛政年間の系図作成ブームや出版ブームの時、「伊賀者は、「忍びの術(忍術)」という特殊技術で徳川家康を助けた」とアピールすると、「伊賀」という言葉が注目され、「神君伊賀越え」として広まったのだそうです。

──本当に「御生涯御艱難の第一」なのか?

実際は安全な旅であったが、「本能寺の変」の黒幕が徳川家康であり、「黒幕であれば、明智光秀に合流したはずだが、そうしていないばかりか、死ぬつもりであり、命も狙われた」と、黒幕であることを否定する(隠す)ために、

①知恩院(ドラマでは路上)で切腹しようとした。(本多忠勝が止めなければ死んでいた。)

②危険な旅だった。(命が狙われた。(現に穴山梅雪が徳川家康と間違えられて殺害された。)、飢えと戦う旅だった。(神社のお供え物の赤飯を盗み食いするほど飢えていた。))

という逸話を加え、「危険な旅だった」と演出し、「御生涯御艱難の第一」としたとする説があります。

次回はついに最終回 (ノ◇≦。)

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

-井伊家を訪ねて

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