長春(ロサ・キネンシス)

井伊家を訪ねて

井伊万千代の初陣! 徳川家康を襲った間者、史実では誰だ?

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いよいよ井伊万千代の「甲冑着初め式」、そして、「初陣」です!
「甲冑着初め式」(鎧着初(よろいきぞめ)、具足始(ぐそくはじめ))は、古くは11歳の時、吉日を選んで行いましたが、戦国時代には、「初陣」(ういじん)の前日に行うのが慣例となっていました。
そして、「初手柄」をあげ、1万石に加増!!

出来事をまとめておきます。

天正3年(1575)2月15日 井伊万千代、徳川家康に出仕。300石。
天正3年4月 大賀弥四郎、誅殺
天正3年(1575)5月21日 長篠の戦い。井伊万千代、不参加?
天正4年(1576) 武田勝頼、遠江国に向けて出陣
天正4年(1576)2月6日 井伊万千代、甲冑着初め式?
天正4年(1576)2月7日 芝原合戦。井伊万千代、忍者倒して3000石。
天正4年(1576)7月 亀姫(徳川家康の長女)、奥平信昌へ嫁ぐ。
天正6年(1578)3月8日 井伊万千代、甲冑着初め式
天正6年(1578)3月9日 田中城攻め。井伊万千代、武功により1万石。
天正6年(1578)3月 側室・於愛(西郷局)、徳川家康へ嫁ぐ。
天正6年(1578)7月15日 祐椿尼(新野親矩の妹)没
天正7年(1579)4月7日 徳川2代将軍秀忠誕生(母は西郷局)

井伊万千代の初陣は、「芝原合戦」(徳川家康と武田勝頼の戦い)であり、2月7日の夜、井伊万千代は、徳川家康の寝所に忍び込んだ忍者を倒して300石から10倍の3000石になったようですが、「芝原合戦」については詳細不明です。

「田中城攻め」については、『家忠日記 増補追加』に、天正6年(1578)3月
七日 太神君、懸川に陣し給ふ。
八日 太神君、懸川より大井川辺に御陣を移さる。
九日 太神君、兵を田中の城に発し給ひ、城を圍て攻撃たしめ給ふ。
十日 太神君、牧野の城に御陣座。
とありますから、太神君(徳川家康)が立ち会ったという井伊万千代の甲冑着初め式は、大井川近くの徳川本陣で行われたのかな? この3月9日の「田中城攻め」は、(田植え前ですから「刈田」ではなく)外郭を破っての激しい白兵戦となりましたが、7000石(先の3000石と合わせて1万石!)も下賜された井伊万千代の武功は伝えられていません。

※江戸幕府の公式文書である『寛政重修諸家譜』では、「芝原合戦」を初陣とし、「田中城攻め」については触れられていません。その一方で、『三河後風土記』などでは、この「田中城攻め」を初陣としています。

最近、注目されているのが、大賀弥四郎で、江戸幕府の公式文書『徳川実紀』によれば、「長篠の城は奥平九八郞に賜はりて是を守りけるに、勝賴は當家の御家人・大賀彌四郞といへる者等を密にかたらひ、岡崎を乘とらんと謀りしも、その事あらはれて大賀等皆誅せられしかば、ますますいかりやむときなく、長篠城をとりかへさんと、二万餘騎にて取かこむ事急なりとへども、九八郞よくふせぎておとされず。君これをすくわせたまはんと軍を出したまへば、信長もこれをたすけて」(大賀弥四郎は、徳川家康・岡崎信康の側近である。武田勝頼は、彼の調略に成功し、彼を通じて長篠城や岡崎城を乗っ取ろうとしたが、事前に露見して失敗したので、怒りを抑えきれずに出陣し)「長篠の戦い」となったとのことです。
岡崎信康(松平信康)の側近が武田方に寝返っていたということは、「築山殿・岡崎信康母子も武田方に寝返っていたのでは?」という疑念が徳川家康に生じ、その上、織田信長が決めた縁談(「長篠の戦い」後の長篠城主へ亀姫を嫁がせること)に対して築山殿・岡崎信康母子が異を唱えたこともあり、徳川家康と築山殿・岡崎信康母子の関係は悪化しました。
しかも、徳川家康は、「田中城攻め」の帰りに立ち寄った服部宅で「お愛の方」(岡崎城を築いた三河守護代・西郷氏の子孫)を見初めて側室とし、溺愛し、翌年には長丸(「長松」とも。後の徳川2代将軍秀忠)が生まれ、今川の血が流れている築山殿・松平信康母子は、不要になったとまでは言いませんが、スペアは揃っちゃいました。

 

第44話「井伊谷のばら」あらすじ

天正6年(1578)、井伊万千代(18歳)と小野万福(20歳)の初陣が決まった。
このドラマでは、「初陣」は、「芝原合戦」ではなく、「田中城攻め」だという。

「城攻め」といっても、難攻不落の田中城であるから、「刈田」(敵が稲を刈る前に青田刈りをする。一種の「兵粮責め」)くらいしか出来ない。(当時の「初陣」は、敵陣に遠くから火矢を放ち、「敵陣を燃やした~! 勝った~!」と言って帰ってくることが多かったらしいから、「初陣」は、「刈田成功!」でもいいのではと思うが、ドラマでは、それさえもさせてもらえず、「甲冑着初め式」の翌日の「初陣」は無く、ただ単に「田中城攻めに同行」したとする。)

戦いたい井伊万千代であるが、松平信康に、
「戦に長けた者は他にもおる故、お主には、それ以外を求めておるのではないか?」
と言われた。武家に生まれ育った家臣と違い、武家に生まれたとはいえ、故あって寺で高僧に育てられた者が、戦い(殺生)を、武功を望む(無欲ではない)のは、周囲の人の目には、奇妙に映っているのかもしれない。

徳川家康には、
「日本一の小姓振り、見せてくれ」
と言われた。もう18歳なので、さすがに「殺す!」と暴れずに、愚痴る井伊万千代であったが、「日本一の小姓振り」を見せる場面はすぐにやってきた。徳川家康を毒殺しようとした近藤武助を捕らえたのである!(しかし、徳川家康をかばい、肩のあたりを斬られてしまった。「初陣」ならぬ「初傷」である。)

近藤武助については、『井伊家伝記』に次のようにある。

史料:祖山和尚『井伊家伝記』「直政公初陣高名御加増之事」
一 天正四年之春、甲州勝頼、遠州高天神近所柴原にをいて御合戦之時、権現様、陣小屋之中ニ御休息被遊候所ニ、夜中、忍ひの敵・近藤武肋と申者を、直政公、御次之間にて御討取被成候故、権現様、殊の外御悦にて御感不斜。則、十倍の御加増にて三千石に被仰付なり。

※ドラマの近藤武助=「芝原合戦」の時の忍者・近藤武肋+岡崎信康の側近・大賀弥四郎(同様に、龍雲丸=新田友作+石川五右衛門)のようだ。

こうして、天正6年3月、井伊万千代は、1万石(江戸時代で言えば、大名)に加増された。

──井伊万千代、此度、かような寝所の手柄にて、末席を汚す事とになり申した。以後、お見知りおきを。(by 井伊万千代)

片肌脱ぐのは、テレビ時代劇『遠山の金さん』で、江戸町奉行・遠山金四郎景元が、「この桜吹雪に見覚えがねぇとは言わせねえぜ!」と桜の入れ墨を見せる感じ、傷を見せるのはテレビ時代劇『旗本退屈男』で、直参旗本・早乙女主水之介(モデルは近藤康用の子・秀用の曾孫・貞用)が、「この眉間に冴ゆる三日月形は、天下御免の向こう傷、直参旗本早乙女主水之介、人呼んで旗本退屈男」と啖呵を切る感じで、カッコイイ!γ(▽´ )ツ

井伊領は15000石と推定されるので、1万石であれば、井伊領の主要部(山間部以外)は、井伊万千代が取り戻せる(江戸時代であれば、井伊谷藩1万石の藩主)と思うが、義母・おとわ(井伊直虎)は、「せっかく近藤康用を操縦して、良い村になったのに」「どういう井伊谷にしたいか、ビジョンが無ければ、『今以上に幸福な村になる』という確信が持てなければ、家督を譲らない」と頑固拒否した。

そういう井伊直虎って、就任時にビジョン持ってましたっけ? オン・ザ・ジョブ・トレーニングで領主らしくなっていった気がしますが…。

おとわは、前回、甚兵衛が、「将来、井伊谷は近藤様ではなく、虎松様が治めることになるだろうか?」と言った時も、「甚兵衛の孫かもよ?」とはぐらかした。おとわは、「義母」と言うより、「父親(井伊直親)代わり」のようで、井伊万千代には厳しい。これに対し、祐椿尼は、圧倒的な愛情で井伊直虎を包み込んだ「母」であった。
厳しい井伊直虎に、優しい祐圓尼──「義母のあり方」「母のあり方」を考えさせられた。時代が違うので、現代に100%通じるとは思えないが、「愛」は今も昔も変わらない(はず)。

さて、タイトルの「井伊谷のばら」であるが、「ベルばら」(池田理代子『ベルサイユのばら』)を想起させられる。「ベルばら」では、父・ジャルジェ将軍が娘・オスカルを跡継ぎ(男)として育てた。そのオスカルが、自分を男として育てた父に、「感謝いたします…このような人生をあたえてくださったことを…女でありながらこれほどにも広い世界を…人間として生きる道を…ぬめぬめとした人間のおろかしさの中でもがき生きることを…」と言った。おとわも、「むしろ、今となっては、この身の上でなければ、知らずに終わったことが、山のようにあったかと」とオスカルと同じ事を母・祐椿尼に言った。

母・祐椿尼は、おとわと井伊万千代の仲が悪いのが心残りであった。会おうとしないし、会えば口論である。おとわは、龍雲丸に「武士は大泥棒だ」と言われ、「天下は一人の天下に非ず。天下は天下の天下なり」と悟り、無欲の境地に達しているが、井伊万千代は、まだその境地には至っていない。

──まとここのまま、何の手助けもしてやらぬつもりか? あやつはまだ若い。まだまだ、知らぬ事だらけじゃ。(by 南渓和尚)

(つづく)

 

今回の言葉 「四知(神・聖・功・巧)の法

「医療」といえば、修験道由来の「祈祷医療」であったが、曲直瀬道三(まなせどうさん。1507-1594)は、「臨床医療」を導入し、「日本医学中興の祖」として、田代三喜、永田徳本などと並んで「医聖」と称されている。
曲直瀬道三は、著書『啓迪集』(けいてきしゅう。『察証弁治啓迪集』。天正2年(1574))において、類似の病状ごとに名証(病気の名称)・由来(病気の定義)・弁因(病気の原因)・証(病気の症状)・脈法(病気の診断方法)・類証(病気の類症鑑別)・予知(病気の予後)・治方(病気の治療方法)の8項目に分けて解説している。特に有名なのが、「四知(神・聖・功・巧)の法」という診断方法である。
・神(しん):視診。顔色を見る。
・聖(せい):聴診。声を聞く。
・功(こう):問診。証(症状)を聞く。
・巧(こう):脈診。脈をとる。
※「四知(神・聖・功・巧)の法」は、彼が編み出した方法とされるが、「神医」こと華佗(曹操の典医)が編纂したとされる『難経』に「望・聞・問・切」(ぼうぶんもんせつ。望=視診、聞=聴診、問=問診、切=触診(中国語の「切」は「接」の意))として掲載されている。

──脈は持ち直されましたが…。(by 昊天)

ヒトが生きている証のことを「バイタルサイン(生命兆候)」といい、5つの兆候(「脈拍」「呼吸」「体温」「血圧」「意識」)がある。「脈拍数」とは、「心臓の拍動によって、末梢の動脈が拍動した回数」であり、一分間測る。戦国時代には時計がないので、「一呼吸の間の脈拍数(遅/数)」や「脈の点の深浅(浮/沈)」で健康状態を判断した。正常な場合の脈拍数は、一呼吸の間に4~5で、5回以上なら「数」、3回以下なら「遅」とされた。また、脈を観察するために「脈机」が使われた。

──少し「麦門冬」を分けてもらってよいかの?(by 松平信康)

奇妙である。風邪の初期症状(寒気)に使用される漢方薬は「葛根湯」(かっこんとう)である。風邪が悪化し、特に咳がひどい場合に「麦門冬湯」(ばくもんどうとう)を飲用する。奇妙なのは、松平信康が風邪をこじらせて咳をしていないことであるが、それ以上に奇妙なのは、「麦門冬湯」ではなく、「麦門冬」を所望したことである。(ということは、今、ここで、自分が飲むのではなく、持って帰って、風邪をひいて咳をしている家臣に煎じて飲ませるということであろう。)

──誰が煎じるのか?

それは、元・小姓の近藤武助であった。薬の知識があり、松平信康は彼を信頼しているようだ。

※「漢方薬」には、「~湯」(煎じ薬)、「~丸」(丸薬)、「~散」(粉薬)、「~膏」(塗薬)があるが、圧倒的に煎じ薬をよく使うので、漢方薬による治療のことを「湯液治療」とも言う。

 

キーワード:大賀弥四郎

大賀弥四郎は、徳川家康の中間でしたが、算術に長じていたため、「会計租税の職」に試用してみると、見事な働きを見せたので、奥三河20余村の代官に抜擢されました。その後も出世を続け、徳川家康、松平信康両者の側近として、「弥四郞がいなければ事が進まない」という身分・立場にまで上り詰めると、その言動は横暴になりました。
近藤康用が、領地を加増された時、大賀弥四郎が「領地加増は儂のおかげ」と言うと、近藤康用は怒って返上を申し出でました。この事がきっかけで、大賀弥四郎の日頃の悪行が露見し、大賀弥四郎は、家財を没収されました。この時、武田勝頼からの書状が発見され、クーデター(下克上)が発覚し、徳川家は救われました。(徳川家を救ったのは、近藤康用の武士道!)
大賀弥四郎は、馬に乗せられて浜松城下を引き回され、根石原(築山殿の首塚がある根石山祐傳寺や岡崎信康が初陣の際に戦勝祈願した根石原観音堂の周辺)で妻子5人が磔にされたのを見せられた後、首だけ出して生き埋めにされ、「鋸挽きの刑」(通行人が竹鋸で挽く刑)に処せられて、7日後に死んだそうです。
大賀一族は、「大賀」の名を捨て、「大岡氏」と名乗って生き延びました。後裔にテレビ時代劇『大岡越前』で有名な大岡忠相がいます。

史料:『徳川実紀』
大賀彌四郞といへるは、はじめ中間なりしが、天性地方の事に達し、算數にもよく鍛鍊し、物ごとに心きゝたる者なれば、會計租稅の職に試みられしに、よく御用に立 しかば、次第に登庸せられて、三河奥郡廿 餘村の代官を命ぜられ、其身、濵松に居ながら、折々は岡崎にも参り、信康君の御用をも勤めければ、今は、いづ方にも「彌四郞なくては叶はぬ」といふ程になり、專らの出頭人とぞなりにける。
此者、元より醇良にもあらぬ人の思ひの外時に逢しより、次第に驕奢につのり、奸曲の擧動ども少からず。御家人の內舊功ある者も、己が意にかなはざれば、あしざまにいひなし、又、おのが心にしたがへばよくとりなしければ、御家人いづれも內には憎み怨 ぬ者もなかりしかど、兩殿の御用にたち威勢ならびなければ、たれ有てそが惡事 を訐發する者もなし。
かゝる所に、近藤何がし、戰功有て、采地賜はるべきにより、彌四郞が許に行て議しけるに、彌四郞いふ。「御邊がことは、われよきにとりなせしゆへ、この恩典にも逢しなり。この後は、いよいよ精仕して我にな疎略せそ」といへば、近藤、いかつて、何ともいはず、直に老臣の許に行て、「新恩の地返し奉らむ」といふ。「いかなる故」と問ふに、しかじかのよし述て、某、「いかに窮困すればとて、あの彌四郞に追從して地を賜はらん樣なるきたなき心はもたず。もし彼がいふ所のことくならんには、一粒なりとも受奉りては、武夫の汚名これにすぎず。かゝること申出で、御咎蒙り腹切むも是非なし。恩地は返し奉らん」と云てきかざれば、老臣等も詮方なく、そのよし御聽に達しければ、御みづから近藤を召て、「汝に恩とらするは、彌四郞が取なしに非るはいふまでもなし。汝、嚮に岡崎にありて早苗取しとき、わがいひし事を今にわすれはせじ」と宣へば、近藤感淚袖をうるほして御前をしりぞき ぬ。
其後、又、ひそかに近藤をめして。彌四郞が事つばらに問せ給ば、近藤、承り、「彼、元より腹あしき者にて種々の惡行あれども、當時兩殿の寵遇を蒙るゆへいづれも顧望して、いひ出ることあたはず。この儘に捨置せ給はゞ、御家の大事引出さむも計りがたし。御たづねあるこそ幸なれ」とて、種々の惡事どもかぞへ立て言上し、「なほ詳なることは目付もて尋給へ」といふ。君、聞しめし驚かせたまひ、追々に拷鞫し給へば、ひが事ども出きぬ。よて老臣をめして、「かほどの大事を何とてわれにはいはざりし」と仰ければ、「さむ候。この事かねて相議しけれども、彼かねて兩君の御かへりみ深き者ゆへ、臣等申上たりともかならず聞せ給ふまじければ、大に御けしきを損じ、かへりて臣等御疎みを蒙らんも詮なしとおもひ今まで遲々せしは臣等が怠り謝し奉るに詞なし」といふ。
よて彌四郞をばめし囚て獄につなぎ、その家財を籍收せしむるにをよび、彌四郞が甲斐國と交通する所の書翰を得たり。その書の趣は、「此度、彌四郞が親友・小谷甚左衞門、倉地平左衛門、山田八藏等、彌四郞と一味し、勝賴の出馬をすゝめ、勝賴、設樂郡築手まで打ていで、先鋒を岡崎にすゝめば、彌四郞、德川殿といつはり岡崎の城門を開かしめ、その勢を引き入れ、三郞殿を害し奉り。その上にて城中に籠りし三遠兩國の人質をとり置なば、三遠の者どもみな味方とならん。しからば德川殿も濵松におはし、かねて尾張か伊勢へ立のき給はん。是勝賴刄に血ぬらずして三遠を手に入らるべし」となり。勝賴この書を得て大に喜び、「もし、事、成就せんには、恩賞、その望にまかせん」と誓詞を取かはして築手まで兵を進けり。かゝる所に惡徒の內山田八藏返忠して信康君にこの事告奉りしより、遂に露顯に及びしなり。よて彌四郞が妻子五人を念志原にて磔にかけ、彌四郞は馬の三頭の方へ顏をむけ鞍に縳り、濵松城下を引廻し、念志が原にて妻子の磔にかゝりし樣を見せ、其後、岡崎町口に生ながら土に埋め、竹鋸にて往來の者に首を引切らしめしに、七日にして死したりとぞ。
小谷甚左衞門は、渡邊半藏守綱めし捕むとて行向ひしが、遁出て天龍川を游ぎこし、二股の城に入り、遂に甲州に逃さりたり。
倉地平左衛門は、今村彥兵衞勝長、大岡孫右衛門助次、その子・傳藏淸勝、兩人してうち取りぬ。
山田八藏は、御加恩ありて、祿千石を賜はり、返忠の功を賞せられしとぞ。
後日に至るまで、度々彌四郞が事、悔思召よし仰出され、「我、そのはじめ鷹野に出むとせしに、老臣はとゞめけるを、彌四郞ひと り勸めつれば、我出立しなり。これ等の事、度々に及 び、老臣等、終に口を杜る事となりゆきしならん。近藤が直言にあらずんば、我、家殆むど危し。恐れても愼しむべきは奸侫の徒なり。おほよそ人の上としては、人の賢否邪正を識りわけ、言路の塞らざらんをもて、第一の先務とすべし」と仰られしとなり。(東武談叢、東遷基業、御遺訓、今村・大岡・山田家譜)

※近藤康用:「岡崎にありて早苗取しとき、わがいひし事を今にわすれはせじ」とは、『徳川実紀』に、
「岡崎に還らせ給ひし比にや。一日放鷹にならせ給ひけるに、折しも早苗とる頃なるが、御家人近藤何がし、農民の內に交り早苗を挿て在しが、君の出ませしを見て、わざと田土もて面を汚し知られ奉らぬ樣したれど、とくに御見とめありて、「かれは近藤にてはなきか。こゝへよべ」と仰あれば、近藤もやむことを得ず、面を洗ひ、田畔に掛置し腰刀をさし、身には澁帷子の破れしに繩を手繈にかけ、おぢおぢはひ出し樣目も當られぬ樣なり。そのとき、「われ、所領ともしければ、汝等をもおもふまゝはごくむ事を得ず」。「汝等いさゝかの給分にては武備の嗜もならざれば、かく耕作せしむるに至る。さりとは不便の事なれ。何事も時に從ふ習なれば、今の內は上も下もいかにもわびしく、いやしの業なりともつとめて世を渡こそ肝要なれ。『憂患に生れて安樂に死す』といふ古語もあれば、末長くこの心持うしなふな。いさゝか耻るに及ばず」と仰有て、御泪ぐませ給へば、近藤はいふもさらなり。供奉の者ども、いづれも袖をうるほし、盛意のかしこきを感じ奉りけるとぞ。(岩淵夜話别集)」
とある。(【大意】 松平元康(後の徳川家康)が鷹狩をしていると、近藤康用が農民に混じって田植えをしていた。近藤康用は「武士が何をしておる!」と怒られると思い、見つからないように、土を顔に塗ったが、見つかってしまった。近藤康用が「領地が乏しく、貧乏なので、この様なありさまです」と言うと、松平元康は、「今は武士も農民も辛抱の時。そのうちきっと…」と言って泣いたので、近藤康用も、その場にいた人たちも皆泣いた。)

※徳川家康:松平9代元康の後の名。
松平7清康─8広忠─9元康(徳川家康)
松平7代清康は、家臣・阿部正豊(弥七郎)に村正で斬り殺された。(これを「森山(守山)崩れ」という。)
松平8代広忠は、家臣・岩松八弥(片目弥八)によって殺された。(異説(病死説)あり。)
この2人が家臣に殺されたのは、「短気」だったからであり、徳川家康は、「辛抱の人」であったので、家臣に殺されなかったという。
松平元康(「元」は今川義元の偏諱、「康」は尊敬する祖父・清康の「康」)も「短気」のDNAを受け継いでいたが、「三方ヶ原の戦い」で負けて、「辛抱の人」に変わったという。(「三方ヶ原の戦い」で勝っていれば、家臣に殺されていた?)
私は、徳川家康が家臣に殺されなかった理由は、徳川家康が織田信長の家臣的存在であったことにあると思っている。重要なことをさっと決めずに、まずは織田信長にお伺いして、「織田信長の命令だ」として実行する。このワンクッション置くことがよかった。そして、織田信長は家臣に殺された (ノ_-。)。

 

キーワード:芝原合戦(初手柄)

天正3年(1575)5月、「長篠の戦い」で大敗した武田勝頼は、体制を整え、翌・天正4年(1576)2月、高天神城(掛川市)へ兵粮を入れるために出陣しました。

この時、高天神城を監視する横須賀砦(後の撰要寺とも、横須賀城とも)が攻められました。横須賀砦からの報告を受け、徳川家康が浜松城から、岡崎信康が岡崎城から出陣し、武田勝頼との戦いが再び・・・と思われたのですが、武田勝頼は、相良古城を築き、兵粮を置いて引き揚げました。

東西に長い横須賀城(右上(北東端)の山が「松尾山」)

この時、武田勝頼と徳川家康は接触していないようにも思われるのですが、「芝原合戦」があり、その前日に井伊万千代の「甲冑着初め式」が行われたそうです。井伊万千代の具足親は、歴戦の勇者「菅沼藤蔵」です。以前述べたように菅沼氏の養子であり、実は明智氏であって、後に土岐氏の宗主となった人物です。
そして、天正4年2月7日の夜、井伊万千代は、徳川家康の寝所に忍び込んだ忍者を討ち取った武功より、300石の知行が3000石になりました。

「芝原合戦」については、3説あります。
説①:家康本陣=芝原(野陣)/合戦場=遠州高天神近所芝原
説②:家康本陣=馬伏塚城/合戦場=芝村(現在の柴)の原
説③:家康本陣=岡崎城(岡崎の城山)/合戦場=笠原

・「四年二月七日、東照宮、遠江國芝原にをいて武田勝頼と御對陣のとき、はじめて戦場にのぞみ、軍功あり。」(『寛政重修諸家譜』)
・「武田勝頼遠州江発向ニ付、同国高天神近所柴原ニ於て御対陣之節、直政十六歳、初而致功名蒙御感候」(『井伊家系譜』)
・「天正四丙子、武田勝頼守天神近所於柴原掛合御会戦之時、直政公十六歳、御自身御高名」(『直政公御一代記』)

 

城は単独で存在するものではなく、ラインで存在します。

馬伏塚城─岡崎城(岡崎の城山)─横須賀城

徳川家康は、天正2年(1574)6月17日に武田軍に奪われた高天神城に対する「対の城」(「向城」「付城」とも)として、同年8月1日、「馬伏塚城」を改修(増築)し、大須賀康高を入れたそうです。
さらに徳川家康は、「横須賀砦」を築きました。「横須賀城」は、通説では、「天正6年(1578)3月21日に普請を開始し、天正8年(1580)に完成した」ですが、実際は、天正4年(1576)に横須賀砦と、岡崎城(岡崎の城山)が一応築かれ、その後も普請(改築と増築)が続けられ、天正8年に横須賀城が完成したと思われます。

※横須賀城の築城時期については、『王子権現由来記』には「天正2年6月上旬」とありますが、高天神城の落城前というのはありえないかと。『浜松御在城記』には、天正4年「横須賀に城を御築成され、出来」とあります。横須賀城跡へ行けば、1年では完成しない城であることが分かります。『浜松御在城記』の話は、横須賀城の前身・横須賀砦の話でしょう。

戦国時代の浅羽(袋井市郷土資料館)

当時の浅羽には潟湖(ラグーン、湾が砂(日本三大砂丘「南遠大砂丘」)によって外海(遠州灘、太平洋)から隔てられ湖沼化した地形)があり、浅いけど、小舟ならば行き来できました。馬伏塚城には蔵(食料庫、武器庫)があり、岡崎城を中継して横須賀砦(横須賀城)や小笠山砦に水路や陸路で補給されました。

※天岳寺:徳川家康が寺地に本丸を築いたことにより廃寺。
※浅羽館:柴遺跡。土塁で囲まれた50m四方の浅羽荘司(地頭)・浅羽氏の居館。(浅羽の中心は柴であった。)南北朝時代、柴氏が東西100m、南北130mに拡張した。

柴遺跡(浅羽館跡)

※馬伏塚:宗良親王が、南北朝の戦乱の死者の霊を鎮めた塚。マムシが多いので「蝮(まむし)塚」とも、馬が伏せた時の形に似ているので、「馬伏(まぶせ)塚」とも。「蝮」の方が古い表記で、袋井市教育委員会発行の見学案内パンフレットには「馬伏塚城(まむしづかじょう)」とある。
※松下館:土豪・松下氏の館。浅羽三社八幡(梅山(梅田)・浅岡(八幡)・馬場(浅羽、柴)八幡神社)で、長禄年間(1457-1460)に流鏑馬を始めた。西ヶ崎(松下屋敷の西方一帯)は、松下清景の領地であった。(松下清景は、『今村家伝記』では、新野親矩と同じく城東郡出身とするが、新野の松下家に伝わっていた家譜が紛失したこともあり、詳細不明。ちなみに、浅羽は山名郡である。)

「馬伏塚城」は、南から腰郭、南郭群、北郭群、居館域と詰城(呑吉山)から成ります。

馬伏塚城と岡崎城のジオラマ(袋井市郷土資料館)

・腰郭:古地図には「羽城」、地籍図には「端城」とある。「端城」は、「見付城と見付端城」「上野城と上野端城」「吉田城と吉田端城」等、古文書に登場するが、「端城」の定義は学者によって異なる。ちなみに私は、見付城では「新設部分」、馬伏塚城では「増設部分」と考えている。
・南郭群:徳川家康が築いた(改修・増設した)馬伏塚城の本丸。天岳寺があった場所で、同所から出土した骨壷は、小笠原氏の骨を入れた壺と推測されている。
・北郭群:小笠原氏が築いた馬伏塚城の本丸。御殿(徳川家康の宿泊所)が設けられた。
・居館域:伝居屋敷曲輪(でんいやしきくるわ)。小笠原氏の時代は集落、徳川家康の時代は駐屯地(武者溜まり)で、蔵(食料庫、武器庫)があった。

徳川家康の鷹狩後の宿泊所として、田中城内には清水御殿、相良城内には相良御殿がありましたが、馬伏塚城にも、徳川家康が出張って来た時の宿泊所「御殿」が北曲輪群にありました。この御殿に忍び込んだ忍者を井伊万千代が討ったのかな?
ジオラマ(袋井市郷土資料館に常設)を見ると、南北からの侵入は困難ですが、東西からなら水蜘蛛使って忍び込めそうですね。

馬伏塚城(北曲輪群)の御殿(徳川家康の宿泊所)

新説は、「天正2年8月1日、徳川家康が築き、大須賀康高を入れた「馬伏塚城」とは「岡崎城」のこと」で、
①馬伏塚城から岡崎城にかけての一帯を「馬伏塚」と呼んだ。
②馬伏塚城は自然の地形を生かしているが、岡崎城は人工的。
③「芝原合戦」は「笠原」(旧・笠原荘)で行われた。
というものですが、
①広範囲の地名は「浅羽」(旧・浅羽荘)、「笠原」(旧・笠原荘)で、「馬伏塚」は塚の名前かと。
②天正2年8月の徳川家康は、とにかく「早く」前線基地を築きたかったので、とりあえず、小笠原氏の居城・馬伏塚城と天岳寺を改修して使ったと思います。岡崎城は人工的で、築城には時間がかかったと思われ、「急いで」というより、天正2年8月以降に(天正4年築城の横須賀城と同時進行で?)「じっくりと腰を据えて」作った陣城(中継基地)に見えます。
写真5の馬伏塚城と岡崎城のジオラマは、どちらも縮尺1/500です。比べてみると、岡崎城の広さは馬伏塚城の南郭群程度であり、総勢8000人とも言われる徳川軍が入るには狭過ぎない?

岡崎城(袋井市岡崎字城山)のジオラマ(袋井市郷土資料館)

新説では、「芝原合戦」(天正4年2月)は、岡崎城の南の「笠原」で行われたとしていますが、私は、「芝原」とは、「芝村」(通説)でも「笠原」(新説)でもなく、「横須賀砦と高天神城の間の原」だと思っています。『甲陽軍鑑』には次のようにあります。

袋井市山崎の笠原地区(旧・笠原荘)

「一 天正四年丙子の春、遠州高天神の城へ米入らるゝとて、勝頼公、きとうぐんへ御馬を出され候。殊に高天神の押に家康より横須賀と云所に城をとり、大須賀五郎左衛門と申家老を指置。信玄公の御時十双倍劣たる勝頼公の御備なり。子細は、滝坂より横須賀へ備御押の時、家康におぢ、しほかひを叶はずして、浜はたををし給ふ。真田喜兵衛斗、兄・源太左衛門跡目になり、千余の人数引きつれ候て、信玄公御時のごとく、きのみおそれず、山の中を押とをる也。
一 右の通り、遠州高天神御仕置、勝頼公なされ候に、家康、八千余の人数にて、横須賀より少しこなたの山に備をたて、合戦をもちて相見えたり。」(【大意】 天正4年2月、武田勝頼「高天神城兵粮入れ」の時、滝境城から横須賀城を攻めたが、その移動には、山間部(塩買坂)を通らずに、「浜はた」(海岸部)を通り、徳川家康は「横須賀より少しこなたの山」(横須賀城より少し「こなた」(こちら(滝境城)寄り、東側)の山に本陣を置いて、合戦となった。)

これが「芝原合戦」だと私は考えています。後の横須賀城の西端にあった横須賀砦(現在の撰要寺?)から、後の横須賀城の東端の松尾山に出陣して戦ったのだと考えています。

※通説では「横須賀より少しこなたの山」を「小笠山砦」だとしていますが、これでは海岸の武田勝頼とぶつかっての合戦にはならないでしょう。ぶつかるとしたら、山中を往った真田隊です。井伊万千代は、真田十勇士所属の忍者を倒したとでも?

※第一級史料『家忠日記』は、残念ながら、天正5年10月から始まっているので、この「芝原合戦」については、書かれていないが、天正6年10月27日~11月3日の記事に次のようにある。

廿七日乙巳 辰時より未時迄雨降。信康、濱松迄立奈され候。
廿八日丙午 信康へ出仕候。酒井左衛門尉所へも越候。申刻ニ大奈へゆり候。五十年巳来の大奈へ之由候、半時程又同時少ゆり候。戌刻ニ又地震候。
晦日丁未 牧野原よ里、敵、山を越候。注進候。夜なへゆる二度、知時春。敵、大井川を越候由、牧野より注進候て、各國衆見付迄出陣候。
霜月大
一日戊申 見付■(虫食い)申時、地震春留
二日己酉 申時奈へゆる。敵、小山・相良筋移候由尓て、家康、信康馬伏塚へ御陣被取候。諸人数ハ柴原有候。
三日庚戌 酉時、奈へゆる。敵・勝頼、よこす可の城む可い迄働候。家康同惣人數よ古す可城き王ニ備候。敵、髙天神迄引取候。未方も本陣へ引候。可け馬善六へワ多し候。

【大意】 50年振りの大地震があり、余震が連日続いた。武田勝頼軍が大井川を越えたと牧野城(島田市)から報告があったので、国衆は見付(磐田市)まで出陣した。さらに武田勝頼軍が、小山城→相良城と海岸部を西進したので、徳川家康・信康父子は、馬伏塚城に入り、軍兵(8000人)は、(全員、馬伏塚城に入り切らなかったので)柴原で野陣(野宿)した。さらに武田勝頼軍が横須賀城へ向かったので、徳川家康は、全軍を率いて、横須賀城際へ行くと、武田勝頼軍は高天神城へ退いたので、徳川家康軍も本陣(馬伏塚城?)へ退いた。

『家忠日記 増補追加』では、天正6年11月2日の記事に「二日 武田勝頼、小山・相良辺に陣を移すの由、註進あるに依て、太神君及ひ信康、馬伏塚に御進発あり。諸卒は皆、柴原に屯す。」とあります。

【結論】 「芝原」は、通説通り、馬伏塚城の西側一帯(現在の柴)でしょうね。また、「しばはら」の表記は、「芝原」でも、「柴原」でもいいと思います。

 

キーワード:田中城攻め(初陣)

「芝原合戦」は、(小姓として?)徳川家康の側にいた井伊万千代が手柄をあげてしまったので、後に「初陣」「前日に甲冑着初め式をした」と書き換えたのであって、実際の初陣は、「田中城攻め」であり、「甲冑着初め式」は、「田中城攻め」の前の日だったかと思われます。

(復元された本丸櫓内に設置されている)田中城のジオラマ>

田中城は、その同心円形の縄張りから、「亀城」「亀甲城」とも呼ばれる城で、築城時は「徳一色(とくいっしき)城」と言ったようです。祐圓尼の夫・井伊直虎が討ち死にしたという(今川方の花澤城を武田信玄が攻めた)「花澤合戦」の直後、武田方の城となりました。(当時の城主は、長谷川正長(テレビ時代劇『鬼平犯科帳』の主人公・鬼平こと火付盗賊改・長谷川平蔵の祖先)でした。)

武田信玄は、馬場美濃守信房に城の修築を命じ、馬場信房は方形の館城を本丸とし、その周囲に三日月堀と馬出しを新設して円形の城とすると、名を「田中城」と変えました。

「藤枝とくのいっしきあけてのく、是は堅固の地なりとて馬場美濃守に抑え付けられ、馬出しをとらせ、『田中城』と名付く、暫く番手持ち也。」(『甲陽軍鑑』)

田中城は、難攻不落の城であり、城主は二俣城を開城した依田信蕃で、「今回こそは開城しないぞ」と意気込んでいたようです。徳川家康が攻め始めたのが天正3年(1575)で、穴山信君(梅雪)の寝返りで、開城させたのが天正10年(1582)ですから、足かけ8年もかかったことになります。

現地資料(「刈田」が目立つ。)

 

キーワード:長春

「長春」(長春花、月季花)は、中国原産の四季咲きの薔薇で、平安時代に日本に輸入されたようです。
・「長い春」とは「(四季咲きで)開花期間が長い」という意味です。
・四季咲きの薔薇の開花周期は60日で、庚申(こうしん)の日も60日周期でやってくるので、「庚申薔薇」とも言います。

庚申薔薇の蕾(ロサ・キネンシス・アン・ブゥトン)と実

椿が好きな「祐椿尼」ですから、真っ赤な椿の花が落ちて、命も…となれば劇的ですが、命日は7月15日ですから、椿は咲いていません。7月15日に咲いている椿に似た赤い花と言えば・・・?

「ロサ・キネンシス」と聞くと、「マリみて」(今野緒雪『マリア様がみてる』)のロサ・キネンシス(紅薔薇さま)・水野蓉子様を思い出しますが、「長春(ロサ・キネンシス)」は紅薔薇ではなく、ピンクの薔薇です。(「紅梅」の花の色も、赤というより、濃いピンクですね。)

日本には、「ハマナス」などバラの原生種が数種あり、「いばら(茨)」「うばら(棘原)」「うまら(宇萬良)」と呼ばれていました。全種、花の色が白なので、華美好みの平安人がピンクの長春を中国から輸入したようです。(ウメについても、奈良時代には白梅が中国から輸入されましたが、平安時代に入って華美が好まれるようになると、紅梅が輸入されました。)
中国から輸入されたバラは、「薔薇」(しゃうび、そうび)と呼ばれました。

日本では、正月に「長春」や「ノイバラ」の実を松と共に活けて、不老長寿を祝いました。(ドラマで使われた椿に似た花が咲く薔薇は、「長春」ではないです。)
中国画のモチーフに「松鶴長春(しょうかくちょうしゅん)」があります。松と鶴は長寿の象徴で、長春は年に何度も咲くことから「人生の最盛期は何度も来る」の意で描かれます。ちなみに、この「松鶴長春」は、花札の「松に鶴」のモチーフだそうです。(長春が省略されたのは、身近に無く、知名度が低いからか?)

おとわの母・祐椿尼が亡くなって4年後におとわ(祐圓尼)が病死します。おとわが祐椿尼の14歳の時の子だとすると、年齢差は14で、4年後に亡くなったということは、享年の差は10となります。それぞれの享年は不明ですが、祐椿尼は60歳前後、祐圓尼は50歳前後と推定されます。

祐圓尼の菩提寺・妙雲寺の案内板

おとわ(井伊直虎)は出家して「次郎法師」となるも、還俗して「井伊直虎」と名乗り、再び出家して、尼「祐圓尼」になったというのですが、いつ尼になったかは、分かっていません。(一般的には、夫が亡くなると出家して尼となり、菩提を弔います。)
4説あります。
説①:「桶狭間の戦い」で夫・井伊直盛を亡くした妻が、出家して「祐椿尼」と名乗った時、娘も出家して「祐圓尼」と名乗った。(写真12の妙雲寺案内板)
説②:小野政次に井伊谷城を乗っ取られた時、龍潭寺に逃げ込んで出家して「祐圓尼」と名乗り、「尼(祐圓尼)は僧(次郎法師)と違って還俗できないから、俗世とは無縁」と命乞いをした。
説③:母・祐椿尼が死んだ時、出家し、「祐」を継いで「祐圓尼」と名乗った。
説④:夫・井伊直虎(関口氏経の子)が「花澤合戦」で討死すると、妻(井伊直盛の娘)は出家して「祐圓尼」と名乗った。

このドラマ、おとわは、いつになったら、尼「祐圓尼」になるのでしょうか?

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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