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築山殿&松平信康母子殺害事件については、前回書いたように、「誰が」「何のために」起こしたのか、諸説あります。どの説が正しいのかは不明です。
松平忠明が寛永年間(1624-1644)に完成させたとされる『当代記』には、次のようにあります。
「八月五日、岡崎三郎信康主(家康公一男)令牢人給ふ。 是、信長之雖為聟、父家康公の命を常違背し、信長公をも 被奉軽、被官以下に無情被行、非道間如此。 此旨を、去月、酒井 左衛門尉を以、信長へ被得内證所、 「左様に父、臣下に被見限ぬる上は、不及是非、家康存分次第」之由 有返答。家康、岡崎へ御越、三郎主を大濱江退被下、岡崎城へは本多 作左衛門を被移、三郎主、當座の事と心へ玉ふ。家康公は、西尾の城へ被移、三郎主遠州堀江へ移、又、二股江移給ふ。九月十五日、於彼地生害し給。三郎主母公も於濱松被生害。」
【大意】 松平信康は、徳川家康の長男にして、織田信長の娘婿であったが、徳川家康の命令に背くは、織田信長を軽んじるは、家臣には情けをかけないはで、その事を酒井忠次を通して織田信長に伝えると、「そのように父や家臣に見限られた上は、是非に及ばず、徳川家康の好きにするが良い」と言われた。
※『当代記』(とうだいき):信憑性に欠く二次史料であるが、他の史料に見られない記述があるので興味深い。たとえば、「桶狭間の戦い」後、通説では、「築山殿、信康、亀姫の3人は駿府に置き去りにされた」であるが、『当代記』では、「義元、於尾三境討死之後、家康公、岡崎江令移給時、妻女、息女は、三川岡崎江被移。一男(是を竹千代主と云。後號三郎信康)は、駿府に為人質居住也。」(築山殿と亀姫は岡崎へ送られたが、信康は人質として駿府に残された。)とする。
『当代記』と後述の『松のさかへ』は、「松平信康は我儘で、人の言うことに耳を貸さない人物」という点で共通しています。ドラマの松平信康は、真っ直ぐな人物なのですが…。
8月3日 徳川家康、浜松城から岡崎城へ(松平信康と話し合い)
8月4日 松平信康、大浜城へ護送し幽閉
8月9日 松平信康、堀江城へ護送し幽閉
8月10日 徳川家康、岡崎衆に「松平信康に味方しない」という起請文を書かせる。
8月?日 松平信康、二俣城へ護送し幽閉
8月29日 築山殿殺害(小籔) 享年38?
9月5日 徳川・北条同盟締結
9月11日 織田信長上洛(後、各地連戦)
9月15日 松平信康自害(二俣城) 享年21(満20歳)
10月8日 織田信長、帰城(安土城)
「どこで」「どのように」については、松平信康の場合は、「二俣城の二の丸に幽閉され、本丸で切腹(自害、自刃)」と分かっていますが、それにしても、岡崎城で切腹させればいいし、浜松城でもいいのに、なぜ大浜城→堀江城→二俣城と幽閉先を移していったのかは、謎です。(ドラマでは、北条氏との同盟締結までの「時稼ぎ」だとしています。)
一方、築山殿の場合は、諸説あってはっきりしません。
説①岡崎城にいて、浜松城へ行く時、佐鳴湖畔(小籔)で殺害
説②死んだのは身代わり(侍女)で、尼になって生き延びた。
説③浜松城にいて、三ツ山(佐鳴湖畔)に物見遊山の際に殺害(『遠江名所図会』)
説④浜松城にいて、西来院で自害
説⑤浜松城にいて、浜松城で自害、西来院に埋葬(後掲の『清水家由緒書』)
通説は、「岡崎城にいて、子・松平信康の助命嘆願に浜松城へ行く時、佐鳴湖の湖畔(浜松市中区富塚町小籔)で殺害された」(説①)です。この時、侍女(伊奈忠基の娘とも、河井某とも)が佐鳴湖で入水自殺していますが、実はこの侍女の首を刎ねて、築山殿が死んだように見せかけたのであって、築山殿は尼になって生き続けた(説②)とも。
また、築山殿は、岡崎城ではなく、浜松城に住んでいて、三ツ山(佐鳴湖畔)に物見遊山に行った際に、野中重政が殺害した(説③)とも、「女であるから殺さずとも良い」(そもそも殺害対象は松平信康だけ)と、西来院に連れて行き、尼になるよう申し渡したが、築山殿が拒否して自害した(説④)とも。
史料:江戸幕府の公式文書『徳川実紀』(卷三)
築山殿と申けるはいまだ駿河におはしける時より年頃定まらせたまふ北方なりしが、かの勝賴が詐謀にやかゝりたまひけん、よからぬことありて、八月二十九日、小藪村といふ所にてうしなはれ給ひぬ。
(野中三五郞重政といへる士に「築山殿、討て進るべし」と命ぜられしかば、やむ事を得ず討進らせて、濵松へ立かへりかくと聞え上しに、「女の事なれば、はからひ方も有べきを。心をさなくも討取しか」と仰せければ。重政、大におそれ、是より蟄居したりとその家傳に見ゆ。これによれば、ふかき思召ありての事なりけん。是れを村越茂助直吉とも、又は、岡本平右衛門、石川太郞右衛門の兩人なりとしるせし書もあれど、そはあやまりなるべし。)
信康君もこれに連座せられて、九月十五日、二俣の城にて御腹めさる。
是皆織田右府の仰によるところとぞ聞えし。
(平岩七之助親吉は、この若君の御傅なりしかば、若君罪蒙りたまふと聞て大におどろき、濵松へはせ參り。「これみな讒者のいたす所なりといへども、よしや若殿、よらかぬ御行狀あるにもせよ、そは某が年頃輔導の道を失へる罪なれば、某が首を刎て織田殿へ見せ給はゞ、信長公もなどかうけひき給はざるべき。とくとくそれがしが首をめさるべく候」と申けるに、君聞しめして、「三郞が武田にかたらはれ謀反すといふを實とは思はぬなり。去ながら、我、今、亂世にあたり、勍敵の中にはさまれ、たのむ所はたゞ織田殿の助を待つのみなり。今日、彼援をうしなひたらんには、我家亡んこと、明日を出べからず。されば我父子の恩愛のすてがたさに累代の家國亡さんは、子を愛する事を知て、祖先の事をおもひ進らせぬに似り。我、かく思ひとらざらんに は、などか罪なき子を失て吾つれなき命ながらへんとはすべき。又、汝が首を刎 て、三郞がたすからんには、汝が詞にしたがふべしといへども、三郞、終にのがるべき事なきゆへに、汝が首まで切て、我恥をかさねんも念なし。汝が忠のほどはいつのほどにか忘るべき」とて御淚にむせび給へば、親吉もかさねて申出さん詞も覺え ず、なくなく御前を退り出たりといふ。
是等の事をおもひあはするに、當時の情躰ははかりしるべきなり。また、三郞君、御勘當ありしはじめ、大久保忠世に預けられしも、深き思召有ての事なりしを、忠世心得ずやありけん、其後、幸若が滿仲の子・美女丸を討と命ぜし時、其家人・仲光、我子を伐てこれに替らしめしさまの舞を御覽じ、忠世によくこの舞を見よと仰ありし時、忠世大に恐懼せしといふ說あり。いかゞ。誠なりやしらず。)
【大意】 築山殿が、武田勝頼に調略されたので、野中重政が8月29日に小藪で討った。(野中重政が徳川家康に報告すると、「相手は女。尼にして逃がすなど、方法はあるのに、気が利かんのう」と言ったので、野中重政は、地元(浜松市西区舘山寺町堀江)に戻って蟄居した。)
※介錯人・野中三五郎重政/介添人・岡本平右衛門時仲/検死役・石川太郎左衛門義房
織田信長の命令で、松平信康も連座で9月15日に二俣城で切腹させられた。(この時、岡崎から、松平信康の傅役・平岩親吉が急ぎ駆けつけ、「松平信康は武田と通じていないし、通じていたとしても傅役である私せいですから、私の首を織田信長に差し出すことで、松平信康の命を助けてください」と願い出たが、「織田信長には逆らえない」と、徳川家康は、泣きながら断った。また、松平信康を二俣城主・大久保忠世に預けたのには、深い意味があったようで、徳川家康が幸若舞『満仲』(主君に主君の子を殺すように命じられたが、代わりに自分の子の首を差し出したという忠臣の話)を見た時、大久保忠世に、「よくこの舞を見よ」と言ったという。)
※介錯人・服部半蔵正成/検死役・天方山城守道綱
※『三方原合戦記』では、徳川家康は、野中重政に「女の事なれば…」ではなく、「『満仲』の舞を知らないのか?」と言ったとする。
諸説あって史実が分からないので、今回も、ドラマストーリーに沿って考察を進めることにします。
また、「キーワード」も現地掲示の案内文を中心として、解説は最小限にしたいと思います。
第46話「悪女について」あらすじ
──武田と内通したるかどにて、信康様を大浜城へ幽閉した上、死罪とすることとなった。(榊原康政)
こういう言い方はしないと思う。私なら、こう明確に言いたくても、「信康様が御乱心召されたので、大浜城へ幽閉することとなった」とあやふやに言うな。助ける策を持っているから、はっきりと大声で言えたんだろうな。
ドラマでは、徳川家康がやってきてすぐに、甲冑を着た武士が松平信康を取り押さえてるシーンが有ったが、実際は、8月4日に徳川家康がやってきて話し合い、翌・8月5日に大浜城に幽閉している。(大浜城は、現役の城で、ドラマのような廃城ではない。)
この時、松平信康は、「このまま松平信忠のように、一生、大浜暮らしか(切腹よりはましか)」と絶望していた思うが、ドラマのように、「父・徳川家康が無実を証明してくれるその日までの辛抱だ」と希望を持っていたかもしれない。
徳川家康が、8月8日に織田信長の近習・堀秀政にした報告では、「信康不覚悟に付きて、去る四日、岡崎を追い出し申し候。」と「『切腹しろ』と言ったのに『出来ない』というので、追い出しました。(織田信長が思ってるように、将来、織田の脅威となる立派な息子ではなく、切腹を怖がる)ダメ息子ですみませ~ん」と、強制的に切腹させる意志はなさそうだ。
ところが、岡崎衆が内乱を起こしそうだったので、松平信康の身柄を三河国大浜から、浜松近くの遠江国堀江に移した。この変化を敏感に感じ取ったのは母・築山殿で、堀江城に向かうが、「既に松平信康の身柄は二俣城へ移した」と言われ、二俣城に向かう途中(あるいは、その前に浜松城の徳川家康に会いに行く途中)、堀江村の野中重政に討たれた。(ドラマのように多くの捜索隊に取り囲まれたわけではない!)
──参りましょう。(by 築山殿)
どこかを見ていた築山殿が捜索隊にこう言った。
──どこを見ていたのか? 遠くか? 水面か?
浜松城の方を見て、「では、浜松城へ、徳川家康のもとへ共に参りましょう」(勧誘の意を丁寧に表す「ましょう」)と言ったのか? それとも、西方浄土を見て、「さぁ、お斬りなさい。あの世へ参りましょう」(意志を丁寧に表す「ましょう」)と言ったのか?
私は、富士山を見ていたと思う。駿府では、天気が良ければ目に入ってきた富士山であるが、岡崎では見えない。しかし、佐鳴湖からは見える。
※佐鳴湖八景:番組最後の「直虎紀行」で、独創的な「佐鳴湖八景」碑が映し出された。西来院の築山殿の肖像画の背景である「佐鳴湖八景・三ツ山」の松林越しの富士山は小さいが、そこに確かにある。ちなみに、ドラマのロケ地は佐鳴湖ではなく、本栖湖であるので、さすがに富士山は大きすぎて映さなかった。
徳川家康が無策であるはずがない。
松平信康が、岡崎城→大浜城→堀江城→二俣城と次々に移されていくことに疑問を感じ、「これは、何か策があるな」と、築山殿が徳川家康を信用して待っていれば、全てが上手くいき、築山殿も、松平信康も死なずにすんだ(はず)ということで、ドラマでは、築山殿の死因を「築山殿の焦り」とした。(前回、「奥は乱心した! 下がらせよ!」と言ったんだから、事が終わるまで「乱心」として座敷牢に入れておけばよかったと思う。あるいは徳川家康は、築山殿に「策がある。安心して待っておれ」と一言かけておけばよかったのだ。)
築山殿も無策ではなかった。
武田へ内通したのは、松平信康ではなく、自分だとする以下の偽文書を文箱に残してから浜松へ向かったのである。(実際は、以下の文書を侍女が発見したので、徳姫が父・織田信長に「徳姫12ヶ条の弾劾文」を出したのであって、このドラマは、時系列が狂っている。ただし、築山殿の遺品整理をしていたら、この文書が見つかったとしている古文書もあることはある。)
※ドラマの「武田勝頼起請文」は、「四月十九日 かつ頼(花押)」「築や萬殿ま為留」(築山殿まゐる)とあったから、下記とは別の起請文か?(そもそも最後に神仏名をあげての誓ではなく、紙も熊野牛王符ではないし、血判もないし、発給年もない(書状には発給年は書かないが、起請文には書く)ので、起請文には見えない。これでは、単なる手紙である。)
誰に偽造させたのか知らないが、私が見てもおかしいと思うくらいであるから、徳川家康や織田信長は一目で偽文書だと分かったに違いない。それを織田信長に平然と差し出した徳川家康は、勇気の域を越え、切羽詰まった出たとこ勝負だったといえよう。これでは負ける。
史料:「築山殿謀反の誓書」
三郎信康は我が子なれば、如何にしても説き付け、武田方の昧方とせん。徳川・織田の二将は妾に計あり。必らず倒すべし。此のこと成就せば、家康の旧領はそのまま信康に賜わりたし。又、妾をば、君か被官の然るべき者の妻とし給え。此の事業に肯諾を得ば、速やかに誓書を賜わるべし。妾も速に計る所あるべし。
史料:「武田勝頼起請文」
今度減敬に被仰越神妙に覚へ候。何共して息三郎殿を勝頼が味方に申勤玉ひ、謀を相搆る信長と家康を討亡し玉ふに於ては、家康の所領は不及申、信長の所領の内、何成共望みに任せて一ヶ國、新恩として可進(まいらすべし)。次に築山殿をば幸に郡内の小山田左兵衛と申大身の侍、去年妻女を亡し、獨居にて候へば、渠が妻女となし可進や。信康同心の御一左右(ごいっそう)の候はば、築山殿をば先達て甲州へ迎取まいらせ申べし。
右の趣、少も相違するに於ては、梵大帝釈四大王惣而日本六十餘州大小の神祇別て伊豆箱根両所権現三島大明神八幡大神宮天満大自在天神の神罰各可相蒙者也。仍て起請文如件。
天正六年十一月十六日 勝領(血判)
築山殿
徳川家康は、武田と仲が悪くなった北条との同盟と、築山殿の文箱から見つかった文書と築山殿の首を持って安土城へ行き、「武田との内通は冤罪だ」として松平信康を助けようとすると、織田信長は、徳川家康に「(こんな偽文書まで用意して(下手な小細工までして))そこまで申すのなら、徳川殿のお好きになさるが良い」と言った。「好きになさるが良い」ということは、「松平信康を殺さなくても良い」という選択も有りだと徳川家康は喜ぶが、
──その代わり、余も好きにするがな。
と付け加えられたら、選択の余地はない。
※上掲の『当代記』には、馬を献上してきた酒井忠次に対して、織田信長が、「家康存分次第」(徳川殿の好きになさるが良い)と言ったとある。
※通説では、築山殿の首は、岡本時仲と石川義房が浜松から岡崎へ運び、岡崎からは平岩親吉が運んで、安土城の織田信長に見せたというが、ドラマでは、浜松城主・徳川家康が安土城主・織田信長に首を見せている。平岩親吉や酒井忠次では、ダメだと思ったのであろう。
カーナビで、浜松城から安土城は「199.0km」と表示された。織田信長は、9月11日には上洛し、その後、摂津国など各地連戦し、10月8日に帰城した。8月29日に亡くなった妻の首を、約200km先にいる人物に、上洛前の9月10日には見せないといけない。10日間で200kmということは、1日約20km(徒歩(時速4km)で1日5時間)歩けばいいので、余裕だと思われるが、徳川家康は、9月15日の松平信康の命日には浜松城にいるので、2週間で400km移動したことになる。平岩親吉が単独で馬を走らせたのならともかく、徳川家康が護衛兵を連れて…では、きついのでは?
※織田信長は、10月8日に帰城した。9月15日に切腹した松平信康の首を安土城で織田信長に見せたのは、10月8日以降となるから、こちらは日数的には余裕があるが、2人の首は岡崎に運ばれ、徳姫が首実検をして父・織田信長に報告をした(織田信長は、日程的にも、2人の首を安土城で見ていない)と思われる。
※9月16日、織田信雄は、織田信長に相談せず、独断で8000の兵を率いて伊賀国に侵攻し、破れて伊勢国に退いた。これを「第一次 天正伊賀の乱」という。天正9年(1581)4月、5万の兵で伊賀国に侵攻した。これを「第二次 天正伊賀の乱」という。「第二次 天正伊賀の乱」では、武士、忍者、住民が片っ端から殺害され、伊賀国(人口9万人)の人口の1/3の3万余人が殺害された。織田信長は「殲滅」を指示したが、生き残った者は、他国へ逃げた。実は徳川家康も、伊賀者を保護しており、「本能寺の変」直後の「神君伊賀越え」では、服部半蔵の御斎峠での狼煙を見て、200人の伊賀者が「『第二次 天正伊 賀の乱』の時に助けてくれたお礼」だと言って徳永寺に集まり、徳川家康一行を護衛した。
※徳姫は、夫・松平信康の喪に服すと、半年後の天正8年2月20日、徳川家康に見送られて、織田信長のもとへ戻された。「小牧・長久手の戦い」の和議で、織田信雄(三介)は、徳姫を羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)に人質として差し出した。(『宇野主水記』に「三介殿よりは、妹(岡崎殿と云)を御出しあるなり。」とある。)徳姫は、京都に住んだ。京都が気に入ったようで、豊臣秀吉の死後も京都に住み、寛永13年(1636)1月10日、京都で亡くなった。(『三河東泉記』に「三郎殿御前、信長の御娘にて、京、本多下屋敷にて八十に及、死去也。」とある。)戒名は「見星院香岩寿桂大姉」。
甚兵衛の死、祐椿尼の死と、穏やかな死が続いたが、ここにきて、築山殿の死、松平信康の死と、穏やかではない死が続いた。井伊直虎は、「平和な世がくればいい」と望むが、農民に過ぎない自分では力不足である。
──母でも妻でも無いそなたは、何に、その命をかけるのじゃ?(by 南渓和尚)
と言い、井伊直虎に小野政次の碁石を渡した。
──虎松…虎松を使い、徳川に、左様な世を目指して頂くよう、持っていく。(by 井伊直虎)
井伊直虎が、浜松城へ井伊万千代に会いに行くと、井伊万千代も「平和な世がくればいい」と望んでいることを知り、「今が好機!」とばかりに、「そなたが信康様の代わり身となればよいではないか」と告げた。
──死んだ者は、どうやったところで、戻ってはこぬ。生き残った者に出来るのは、せめて、その志を宿すことだけじゃ。(by 井伊直虎)
自暴自棄となった徳川家康に、井伊万千代が、築山殿がしたように碁石を払い、「負けた意味は、次に、勝つためにある」と(小野政次の言葉を)言い、「考えましょう。この先の、徳川のために」と言うと、徳川家康は、過ぎし日の「徳川のこの先のためにも(岡崎衆と浜松衆が仲悪く見えるのは良くない)」という松平信康の言葉が思い出されて、我に返った。
──勝つ事ばかり知りて、負くる事知らざれば、害、その身に至る。
──今回の負けは、次に勝つための布石。
泣くな家康! 次の手を打て!
(つづく)
今回の言葉「勝つ事ばかり知りて、負くる事知らざれば、害、その身に至る。」
【出典】 「東照公遺訓」(徳川家康の遺訓)
人の一生は重荷を負(おい)て遠き道をゆくがごとし。いそぐべからず。
不自由を常とおもえば、不足なし。
こころに望(のぞみ)おこらば、困窮(こんきゅう)したる時を思いだすべし。
堪忍(かんにん)は無事長久(ぶじちょうきゅう)の基(もとい)、いかりは敵とおもえ。
勝事(かつこと)ばかり知りてまくる事をしらざれば害(がい)其身(そのみ)にいたる。
おのれを責て人をせむるな。
及ばざるは過(すぎ)たるよりまされり。
【意味】 勝ってばかりいて、負けた事のない人は、自信過剰となって油断を生み、いずれ大負けする。負けた事のある人は、負けの怖さも、回避できる術も知っている(同じ過ちを繰り返さない)ので、小さな負けはしても、大負けする事は無い。
ただ、負けるだけではダメで、小野政次が教えてくれたように、負けた理由を分析し、次には勝てるように努力することが必要だ。
「東照公遺訓」は、徳川光圀の「人のいましめ」を、池田松之助が語調を整え、『東照宮御遺訓』と改題して広めたものだという。
徳川光圀「人のいまし免」
人の一生ハ重荷を負ひて遠き道を越行可古としいそく弊゛可ら須゛、怠るべ可ら須゛。
不自由を常と於もヘハ、足らざる事那し。
心尓に望こと浮まバ、困窮し多る時を於もひ出須べし。
勤事苦労ま於もハヾ、人を於もひ計るべし。
堪忍ハ無事長久のもと。怒りハ敵を求る種。
勝ツ古と志りて負る事を志ら祢ハ、禍其身尓至る。
交りを結ふるハ、己を責て、人を責須。
人を懐る多仁尓あり。
信を失ハさるハ、物を内傷尓須る尓あり。
義尓違ハさるハ、我を捨る尓にあり。
※ちなみに、徳川家康の辞世は・・・。
人はただ身のほどを知れ 草の葉の露も重きは落つるものかな
「重くなるほど落ちやすくなる」というのは、「安国寺恵瓊自筆書状」の「信長之代五年三年者可被持候。明年邊者、公家奈とに可被成候可と見及申候。左候て後、高ころひ尓あ越のけ尓ころ者れ候春ると見え申候。」(織田信長の最盛期は、この先3~5年続き、叙位もされるだろうが、その後は「高転びに仰仰けに転ばれる」であろう。)に通じそう。
「身のほどを知れ」(身分相応以上に高きに登ると落ちる)からは、「東照公遺訓」の「及ばざるは過たるよりまされり」や、『論語』の「過ぎたるは猶及ばざるが如し」を思い起こさせられますが、この徳川家康の辞世は、豊臣秀吉の辞世の
露と落ち露と消えにし我が身かな 浪速のことも夢のまた夢
の本歌取りっぽいなぁ。
キーワード:築山殿の墓
築山殿や松平信康の首は、平岩親吉が織田信長に見せた後、岡崎に戻されて、岡崎に埋められたそうです。
築山殿の首が埋められたのは「能見原」(岡崎市能見通一丁目~福寿町一帯)で、首塚の横には榎が植えられ、首塚の上には石地蔵が置かれ、本多広信が菩提寺・梅築山西光院を建てたそうです。
築山殿の法名は、
──西光院殿政岸秀貞大禅定尼
とされ、大樹寺(徳川家の菩提寺)では、「西光院殿」と呼んでいるそうです。
※築山殿の首が埋められた首塚は、現在は均され、榎も伐られて道路となった。石地蔵は首がちぎれ落ちて「首切り地蔵菩薩」となったが、西光院(現・地蔵院)に安置されていた築山殿の位牌と共に、地蔵院(上の写真)に安置されている。
岡崎に疫病が流行したり、岡崎城内に不審火が出たりして、「これは、築山殿の祟りだ」と噂されたので、徳川家康は、秘かに、石川数正に命じて、天正8年(1580)5月、「根石原」(念石原、念志原。現在の若宮(旧・投(なぐり、竝(並)栗、名栗)町一帯)の根石山祐傳寺(旧・根石村)境内の「神明の森」に「築山神明宮」を建てさせて、築山殿の首を移葬したそうです。(「秘かに」とは、織田信長の手前、「こっそりと」の意であり、石川数正は、築山殿を天照大神、松平信康を仁徳天皇に仮託して祀ったようです。)
※『松平記』に「天正八庚辰年 春夏大疫人多死」とある。
※「築山殿御霊、有御恨故建社。崇号神明。三郎殿号若宮八幡。即、為供僧。」(『祐傳寺記』)
※『清水家由緒書』では、清水万三郎が「根石原観音の森」に首塚を築いたとしている。
「天正年中、三郎信康様、遠州二股の城にて被遊御生害。則、同所清龍寺へ奉葬候。御母公・築山様御儀、遠州浜松の城にて被遊御自害。則、同所西来院奉葬候。右、信康様、築山様、御首、信長公へ御実験の上、岡崎表へ御差戻之節、大神君様より潜に清水万三郎へ被仰付、根石原観音之森に奉埋。印に松を植る。「三郎松」と云是なり。其後、岡崎御城内に種々怪異変化等多く御座候故、正敷、両方之御祟也と、此時、御霊に幣帛を捧奉る。信康様御儀を若宮八幡宮と奉仰、築山様を神明宮と奉仰候。」(『清水家由緒書』)
築山御前首塚
築山御前は関口刑部少輔義廣殿の御息女瀬名姫で今川義元の養女になり家康公の御正室になられました。長男の岡崎三郎信康公は織田信長公の御息女徳姫を御正室に迎へられましたので母と嫁は全くの仇敵となってしまいました。徳姫の父信長公は今や隆々の勢力を有し天下を治めんとして居り、徳姫も父の権威を背景に我侭の振舞もあり、家康公も信長公を恐れ浜松城に移っても築山御前を迎へようとはせず、築山御前の怒りは火の如く燃へ信康公と徳姫を離間させようと狂乱に近き挙動もあったと思われる。されど生害に値するほどの罪悪であっただろうか。十二条の罪条により天正七年八月二十九日築山御前は浜松西来寺にて御主害なされました。其後岡崎御城代石川伯耆守菅生郷投村祐傳寺境内に築山御前の御首を埋葬し山神明宮を勧請する。其後正保三年水野大監物殿欠村石ヶ崎に御移しして現在に至る。
戦国の世とはいへ、信長公の権威を恐れ我が妻我が子を亡した家康公の心中いかならん あまりにもむごく悲しい出来事である。
当神社の氏子一同築山御前の御霊が安かれと御首塚を改築する。
昭和五十二年十月十八日
八柱神社
宮司 伊奈麻古登
氏子民一同
上記現地碑文にあるように、水野忠善が岡崎城主となると、正保3年(1646)、「神明の森」を足軽屋敷にするために、「築山神明宮」は八柱神社に合祀されたそうです。(その時、築山殿の首を「能見原」の首塚から八柱神社の境内に移葬したとする説もあります。)
太刀洗の池
太刀洗の池は、この南10㍍位のところにあった。昔はこのあたり一帯は藪におおわれ、約50平方㍍ほどの池であった。徳川家康の正室は、今川義元の家臣関口刑部少輔義慶の娘で、岡崎の築山にちなんで築山御前と呼ばれたが、政略の犠牲となって、岡崎城から浜松城に向かう途中、佐鳴湖畔小藪で家康の家臣に殺害された。時に天正七年(一五七九)八月二十九日、築山御前三十八才であった。このとき血刀をこの池で洗ったので、その水が涸れたが、延宝六年(一六七八)百年忌の法要が行われてから清水にもどったという。築山御前は西来院に葬られた。この谷一帯を御前谷という。
浜松市
築山殿(浜松では「築山御前」と呼ぶ)の胴塚は、御前谷(ごぜんだに)にありましたが、百年忌法要の時に西来院に移されたそうです。また、この法要の時に、太刀洗の池に清水が湧いたとか、赤い池の水が透明になったと言われ、築山殿の法名も「清池院殿」に変えられました。
築山御前
静岡市が出身地であったから「お瀬名の方」と呼ばれた。父は今川一族で重臣の関口刑部少輔親永。母は今川義元の妹である。岡崎の松平元信(後の徳川家康)が今川人質時代に結婚。長男信康、長女亀姫を産んだ。家康が名実共に岡崎城主となるや、城内の築山御殿に居住したので「築山御前」と呼ばれた。同盟関係にあった織田信長と徳川家康両者間における政治的駆引と、岡崎城内における派閥抗争など、複雑に交錯する政治的、人間的関係のひずみのなかで、遂に夫である家康により殺害されていった。力において優れていた信長の命令とはいえ、三河の為、徳川家康安泰のために屈服せざるを得なかった家康の苦悩もさることながら、あまつさえ身に覚えなき「謀反人」の汚名を着せられて、一人淋しく浜松の野に散華し御前の姿を想うとき、いかに戦国乱世とはいえ、余りの痛ましき、果かなきに涙を禁じえないものがある。時に天正七年八月二十九日(西暦一五七九年九月二九日)御前三八歳。家康これを哀れみ潙翁(いおう)禅師に命じて懇ろにこの地に葬らしめた。
法名は 清池院殿潭月秋天大禅定法尼
西来院(静岡県浜松市中区広沢2丁目)の築山廟を「月窟廟」と言います。横に松平康俊の墓がありますが、実は、この墓に埋められているのは、松平康俊ではなく、松平信康だという噂です。
キーワード:松平信康の墓
御 由 緒
御祭神 仁徳天皇 岡崎三郎信康公
当神社の創立年月日不詳であるが 往古より竝栗明神 名栗天神と言い仁徳天皇を奉斎する神社であった
その後天正七年(一五七九年)九月十五日 徳川家康公の御長男岡崎三郎信康公は織田信長の御口難により 遠州二股城にて御時二十一才を此の世の果と御自害なされ 御首は信長方へ實験の上岡崎へ御差戻しとなつた いかに戦国の世とは言へ 子を失つた親の気持は計り知れない 家康公は涙をこらへ 清水万三郎に仰せ付け 当地に奉埋する その後岡崎城内には種々の怪異変化が度び重なり 諸人等は恐れ入り 信康公の御霊を当神社に合祀する 当時は信長の権力により 公には出来ず社名を菅生八幡宮と改める その後若宮八幡宮と改め明治5年村社となる
若宮八幡宮
※『三河国内神明名帳』に「従五位上 並栗天神 坐 八名郡」とあるが、岡崎は「八名郡」ではなく、「額田郡」であるから別の神社だと思われるが、八名郡に並栗神社はない。浜松市にも戦国時代には「名栗(なぐり)町」があったが、後に「名残(なごり)町」(現在の鹿谷町と文丘町の一部)となった。
岡崎三郎信康
信康は徳川家康の嫡男として、戦国時代の永禄二年(一五五九年)三月六日、家康人質の今川家支配の駿河で誕生。母瀬名(築山御前)は関口義広の娘で、今川義元の姪に当たる。信康は永禄十年(一五六七年)五月、信長の娘徳姫(五徳)と結婚。共に九歳。今川家の血を引く築山御前と、今川を滅ぼした織田の娘の嫁舅の確執と、若夫婦不仲から、徳姫は天正七年(一五七九年)父信長への十二個条の手紙の中で、築山御前が武田と内通と書かれ、それが原因で信長は信康の切腹、築山御前の殺害を要求、同年九月十五日、信康は幽閉先の二俣城で切腹。介錯役の服部半蔵正成は何としても、刀を向けられず、検視の天方山城守通綱が介錯したと伝えられる。享年二十一歳。
信康の類い稀な能力の、将来を恐れた信長厳命と云う通説のほか諸説はあるが、安泰・太平の世を築いた家康草創の頃の、信康夭折は徳川三百年の礎となった運命の若武者であったと言うことができるのではないか。
※ドラマでは、松平信康は、頸動脈を切っていたが、史実は、村正での切腹である。二俣城(静岡県浜松市天竜区二俣町二俣)の二の丸に幽閉されていたが、本丸に連れて行かれて、切腹し、服部正成が介錯する予定であったが、涙で何も見えなかったので、天方通綱が代わって介錯したという。本丸跡に生えていた松は「生害松」「岡崎三郎生害の松」と呼ばれ、その松の根元で切腹したと伝えられてきた。
「天正七年(一五七九)九月十五日岡崎次郎三郎信康が信長の口難に逢い二俣城において自刃した。この時浜松へ二俣村役人共が呼び出され、二俣には浄土宗の寺院何ヶ寺あり寺の名は何というか書き出せと仰渡しがあった。
ところが浄土宗の寺は一ヶ寺もないという。それでは庵室でもよいからという次第で、庵室のあったこの地に信康の廟所、位牌堂、其外諸堂を建立した。ここには殉死した吉良於初(初之丞)、当時二俣城主だった大久保七郎右衛門忠世、三方原で戦死した中根平左衛門正照、青木又四朗吉継の墓もある。」(現地案内板)
キーワード:『松のさかえ』
江戸城内「紅葉山文庫」の蔵書。全5巻。
一巻:「東照宮様御文」「本多忠勝公聞書並御遺書」「黒田長政公御遺言」
二巻:「井伊家蔵書写」
三巻:「井伊直孝公御夜話並御遺訓」「建康様御武勇咄」「久留米侯条令」
四巻:「西山公示家臣條令」「上杉公政事」
五巻:「福井侯行実」「白川候御意書」
「東照宮様御文」に、松平信康と井伊直政について、次のように書かれている。
■松平信康について
三郎。生れ候節は、年若には子供珍敷、其上、初めひかゐすの生れ故に、「育さへすれはよき」と心得、気のつまりたる事は致させす、気儘に育、成人の後、急に申聞候得共、兎角幼少の時、行義作法ゆるやかに捨置ては、親を敬ふ事を不存、心安そんし、後は親子の争ひの様に成候間、毎度申ても不聞入、却て親をうらみ候様に成ゆき候。夫に困り、外の子供は幼少より我等前にて行儀作法よく仕付、若し少しにても不行義我儘の事は、我等へ隠し不申、一々申聞候様申付置候。
■井伊直政について
井伊兵部事。平日言葉少く、何事も人に言を承り居、気重く見へ候得共、何そ了簡決し候得は、直に申ものにて、取分我等何ぞ了簡違か、評義違か、爲にならぬことは、皆人の居ぬ所にて、善悪を申ものにて、夫ゆへ後には何事も先内談いたし候様に成り申候。
松平信康は、厳しくしつけられなかったので我儘になり、井伊直政は、皆に信頼されて、相談を持ちかけられたという。
キーワード:徳川・北条同盟
『家忠日記』に
・9月5日、伊豆御扱い済み候て、朝比奈弥太郎、昨日、越され候よし、浜松より申し越し候。
・9月13日、伊豆御噯(あつかい)、弥(いよいよ)相済み候て、来る17日に、御手合の働き候はんよし、浜松より申し来り候。
とあります。旧今川家臣で、今は徳川家臣となっている朝比奈弥太郎泰勝(「長篠の戦い」で「武田四天王」の内藤昌秀を討った人物)が、徳川と北条の縁組をしています。(ドラマでは、この仲介役は、朝比奈泰勝ではなく、今川氏真だとしています。)
上杉景虎(北条氏康の七男で、上杉謙信の養子)の死(天正7年3月24日)を受けて、北条氏(北条氏政)は、上杉氏との同盟を破棄し、9月5日、徳川家康と同盟を結びました。これにより、武田勝頼は、北条氏と手を切り、上杉氏(上杉景勝)と結びました。
※徳川・北条同盟は、短期間で締結に至った感があるが、実は、北条氏政の弟・北条氏照は、天正7年(1579)1月、徳川家康に武田との共闘依頼の手紙を出している。その返事を半年以上保留していた徳川家康であったが、「築山事件」が起きると、同盟締結に動いた。徳川・北条同盟の締結は、「徳川と北条は、共に武田と戦う」ということを意味し、織田信長に「武田は徳川の敵であり、内通はありえない」とアピールすることになると徳川家康は考えたのである。
※武田氏は、北関東の反北条国衆との連携を進めていた。一方、「長篠の戦い」以後、織田&徳川氏も北関東の国衆との連携を進めていたので、北条氏としては、北関東の安定化のため、まずは徳川氏、続けて織田氏と同盟を結びたかったのである。
※ドラマの徳川家康は、囲碁ばかりやっているが、徳川家康の趣味は、鷹狩・読書・漢方薬の調合である。織田信長の趣味は、鷹狩・馬・相撲観戦であり、織田信長に徳川家康は馬、北条氏照は鷹を贈っている。
北条氏政は、徳川家康と清洲同盟(清州城での同盟締結は創作とされ、現在は「織徳同盟」(しょくとくどうめい)とか、「尾三同盟」(びさんどうめい)という)を結んでいる織田信長とも友好関係を深めて織田・徳川・北条氏による武田・上杉包囲網が完成し、早速、9月17日(『信長公記』では10月25日)に北条氏政が出陣して、武田勝頼と対陣すると、北条氏政は、徳川家康に「御手合の働き」(援軍出陣)を要請しました。徳川家康は、駿河国に侵攻して、武田水軍の本拠地である持船城(静岡市駿河区)を攻略したり、由比などを焼き払ったりしました。以上、徳川家康には、嫡男・信康の死を傷んで喪に服す時間は与えられませんでした。(この「黄瀬川の戦い」は、決着をみないまま、武田勝頼が12月9日に甲府に帰還して終わりました。)
■史料:『信長公記』(巻12)「氏政、甲州表へ働きの事」
十月廿五日、相模国・北条氏政、御身方の色を立てられ、六万ばかりにて打ち立ち、甲斐国へ差し向かひ、木瀬川を隔て、三島に氏政居陣の由、注進なり。
武田四郎も甲州の人数打ち出だし、富士の根かた、三枚橋に足懸りを拵へ、対陣なり。
家康公も相州へ御手合せとして、駿州へ相働き、所々に煙を揚げらる。
ドラマでは、まだ、松下常慶が活躍しているけど、松下常慶は出世しているので、服部半蔵の方がいいと思う。服部半蔵なら、松平信康の介錯や、「神君伊賀越え」に繋げられるし。
──結局、「築山事件」「信康事件」とは何だったのか?
従来の通説は、「築山殿&松平信康母子が武田氏と内通しているとの情報を得た織田信長が、2人の処分を徳川家康に指示した」であり、「内通の事実は無かった」として、徳川家康「人生最大の悲劇」としました。
ところが、この説明は、江戸時代に書かれた古文書に書かれている内容であり、「江戸時代には真実が語れなかった」(徳川中心史観)として、「当時の日記(『家忠日記』)や手紙(堀秀政宛書状)から史実を探ろう」(徳川中心史観からの脱却)という流れが史学会に生まれ、
①岡崎騒動(岡崎城内の内紛)
②徳川家臣団の分裂(岡崎(信康、武田) vs 浜松(家康、織田))
という姿が見えてきたとのことです。
理由はどうであれ、事件は起きてしまったわけで、問題は、主君を失った岡崎衆の大混乱です。離反はまだしも、反乱を起こしかねない。
──まずは、岡崎じゃ。忠勝を呼べ。(by 徳川家康)
著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。
主要キャラの史実解説&キャスト!
①井伊直虎(柴咲コウさん)
②井伊直盛(杉本哲太さん)
③新野千賀(財前直見さん)
④井伊直平(前田吟さん)
⑤南渓和尚(小林薫さん)
⑥井伊直親(三浦春馬さん)
⑦小野政次(高橋一生さん)
⑧しの(貫地谷しほりさん)
⑨瀬戸方久(ムロツヨシさん)
⑩井伊直満(宇梶剛士さん)
⑪小野政直(吹越満さん)
⑫新野左馬助(苅谷俊介さん)
⑬奥山朝利(でんでんさん)
⑭中野直由(筧利夫さん)
⑮龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
⑯今川義元(春風亭昇太さん)
⑰今川氏真(尾上松也さん)
◆織田信長(市川海老蔵さん)
⑱寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
⑲竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
⑳築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
㉑井伊直政(菅田将暉さん)
㉒傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
㉓昊天宗建(小松和重さん)
㉔佐名と関口親永(花總まりさん)
㉕高瀬姫(高橋ひかるさん)
㉖松下常慶(和田正人さん)
㉗松下清景
㉘今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源