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今回は神回でしたね。
今川家(寿桂尼、今川氏真)、武田家(武田信玄)、北条家(北条幻庵)のスターが揃って出演!「井伊直虎の出番が少なかったので神回になった」という酷評も耳に入ってきますが、内容は濃いものでした。
ドラマには、解説を読んで初めて意味が分かる難解なものや、ドラマより解説の方が何倍も面白いものがありますが、今回は脚本も演出も完璧すぎて、どんな解説をしても霞んでしまします。
ということで、今回はお休み……ってな訳にはいきませぬ。
特に考えさせられたのは、
──妻のあり方
です。
「政略結婚させられた」と毎日泣いていたのでは、戦国時代を乗り切れない。
たとえその実態が「体のいい人質」であったとしても、両家の戦いを防ぐ「平和の使者」とプラス思考で考えたい。
さらにもっと積極的に「夫の家を守る」「夫の家を育てる」、さらには、「夫を操縦する」「夫の家を乗っ取る」くらいの気概がないと、時代の波に飲まれてしまう。
──なぜ戦国時代を学ぶのか?
それは、現在にも活かせる「今を生き抜く知恵」が転がっているからではないでしょうか。
戦国時代の人は、人間の綺麗な面も、汚い面もさらけ出してくれているので、他の時代よりも生き方の参考となる事例が多いのです。
第28話 「死の帳面」 あらすじ
甲斐国・武田(武田信玄)、相模国・北条(北条氏康)、駿河国・今川(今川氏真)は、互いに「政略結婚」をして、「甲相駿三国同盟」を結んでいました。
そして、海を持たない武田信玄は、北の上杉謙信と何度も戦いますが、軍神・上杉謙信を破って日本海に進出することは出来ませんでした。
一方、南の駿河国は、今川義元が桶狭間で討たれて勢力が弱まっていましたので、
そこで
──南(太平洋)に進出しよう。
と考えたようです。
この政策転換に、「甲相駿三国同盟違反である」と反対したのが嫡男の武田義信でした。
『甲陽軍鑑』によれば、武田義信は、永禄8年(1565)10月、武田信玄の暗殺を企てたとして東光寺に幽閉され、今川氏と北条氏は、武田信玄を非難して「塩留」を行いますが甲斐無く、永禄10年(1567)10月19日に自害しました。享年30。
夫・武田義信が亡くなったので、今川氏は、未亡人となった嶺松院(今川氏真の妹。ドラマでは「鈴」)を取り返そうとします。
ところが武田信玄は、
──人質であるから返したくない。
そこで、武田信玄のことをよく知る寿桂尼が使者として、今川氏真の書状を持って甲斐国へ赴きます。
武田信玄は、天文5年(1536)に元服し、従五位下の叙位、大膳大夫の任官を受け、さらに室町幕府第12代将軍・足利義晴から「晴」の偏諱を賜って「晴信」と名乗っています。
この叙位・任官は、寿桂尼を通して公家との太いパイプを持つ今川義元、偏諱も将軍と同族の今川義元の助力のおかげだといいます。
今川義元の妻は武田信虎の娘(武田信玄の姉)です。
天文10年(1541年)、武田信玄の父・武田信虎が、娘や娘婿・今川義元と会うために駿河国へ行くと、武田信玄(当時は晴信)は、甲駿国境を封鎖し、父・武田信虎を強制的に隠居させたので、以後、武田信虎は、駿府や京都で暮らすことになりました。
こういった事情を知る生き証人の寿桂尼が使者となったのです。
──そうそう、京都にいる御父上、便りはございますか?(by 寿桂尼)
──今は、親とも、子とも思うておりませぬ故…。(by 武田信玄)
「父・武田信虎からは連絡がある? 私にはあるよ(だって、今川が囲っているから。はっきりと『人質』とは言わないけど)」と最後に思い出したように言う寿桂尼。
「もう親子の縁を切ったので、便りはない(だから『人質』には値しない)」と返す武田信玄。
でも、寿桂尼が本当に言いたいのは、
──お父上は、織田方とも宜しくお付き合いをしておられるようですよ。(by 寿桂尼)
でした。
もちろん、嘘。今川に生かされている状態の武田信虎が、今川の宿敵の織田信長と組むはずがない。
この言葉は、「あなたは、織田方とも宜しくお付き合いをしておられるようですね。知っていますよ」という意味ですね。
「久しいのう、晴信殿」から始まったこの会話、武田信玄の応酬虚しく、寿桂尼の圧勝でした。
これで、「シテ」(能の主役)が登場しやすくなりました。寿桂尼が「ワキ」(脇役)と知って、政治に疎い今川氏真は戸惑いました。その「シテ」とは、今川氏真の妻・春(後の早川殿)の父・北条氏康のことです。
早速、父親に書状を書く春。
そして、北条氏康が選んだ使者は、北条初代早雲(伊勢宗瑞)の子・北条幻庵でした。彼は、北条家における寿桂尼のような存在で、その凄さは、番組終了後の「直虎紀行」で明かされました。
この使者・北条幻庵の働きにより、ある条件を満たせば、鈴とその娘を返すという交渉に成功しました。
その条件とは、「誓詞を出す」ということでした。
北条幻庵「改めて武田と組むという誓詞を差し出せと」
今川氏真「織田と結び、横紙破りをしたのは武田ではないか」
北条幻庵「武田なりの手打ちのつもりなのでございましょう」
今川氏真「ならば、武田から当家に誓詞を出すのが筋であろう」
北条幻庵「武田は戦がしたいのです」
「武田から当家に誓詞を出すのが筋」という今川氏真の言い分は正しいです。
しかし、断れば、鈴とその娘は殺され、戦いが始まります。
ここが「落とし所」です。
北条幻庵は「こんな事すら理解できないのか?」と言いたげで、理解できている寿桂尼とは仲良く話をします。
──自分だけ取り残された。余は「うつけ」だ。
そう感じた今川氏真は、「風流踊り」に没頭します。※実際の風流踊りは、盆踊りの原型で、駿府で流行したのは永禄10年と11年の7月(お盆)です。
とにもかくにも、永禄10年(1567)11月、鈴と娘が駿府に来て、形の上では決着。
武田信玄は、
──寿桂尼が生きているうちは、駿河国に侵攻できない。
と思ったことでしょう。
そんな中、今川家の大黒柱、ゴッドマザーこと寿桂尼が倒れました。
2度目ですので、今回は助からないかもしれません。そんな中で、今川氏真に妻の春がかけた言葉は、
──このうつけ!
春「春は、殿を一度もさように思うたことなどござりませぬ。むしろ、向かい風ばかりの中でよう耐え忍んでおられると。なれど…今は初めてそう思うたかもしれませぬ。今川に嫁いでまいりました時、春は夢を見ておるのかと思いました。殿方も女子も皆、見目麗しく、和歌にお能、お神楽に蹴鞠、さんざめく笑い声…」
──繋いでいかれるのは、殿しかおられぬのですよ。
この妻の言葉が、今川氏真を覚醒させました。
そして、寿桂尼も黄泉帰りました。
寿桂尼「婆は、ただ取り戻したいだけなのです…光に満ちた今川を…そなたと共に…今川のために…」
今川氏真「お婆様、龍王にお教え下さい。そのために何を為せば良いか」
寿桂尼が「龍王!」と幼名でしかりつける時は、「この未熟者めが!」という意味ですね。
そして、「龍王にお教え下さい」という台詞は、当主・今川氏真が自分の未熟さを認めた台詞であり、生まれ変わったことを示しています。
さて、寿桂尼が授けた策は、名付けて
──「死の帳面」(デスノート)作戦
これは、名前とその人物の出自・事績等を書いた覚書にある人物を、寿桂尼が一人ひとり呼び出して面接し、「謀反の志あり」と思った者の名前の上に大きく「✕」と朱書し、その人物を今川氏真が粛清するという作戦です。
尾張国 知多
✕水野弥平大夫
家康母の兄ニテ候
与信玄可為懇候
信玄文数多有之
文ニ可有挙兵有之候
水野弥平大夫忠勝は、武田信玄と内通しており、水野忠勝にしたら、「今川氏真と武田信玄は同盟を組んでいるからOK」なのでしょうけど、見つかった密書に「武田信玄が出陣したら、武田軍に加わる」というものがあったので、成敗(『寛政重修諸家譜』では自害)されました。
その様子は、北条氏に内通し、証拠の密書を示され、弁明できずに成敗された井伊直満の成敗シーンにそっくりでした。
そして、井伊直虎の面接。
遠江国 井伊谷
井伊次郎直虎
遠江国井伊谷之城主ニテ候
父直盛 次郎法師諱直虎
目付ニ付小野但馬申候
徳政之事不申聞入候
寿桂尼が、「元許婚者の井伊直親を殺させた事を今でも恨んでいるよね?」と聞くと、
井伊直虎は、「家を守るということは…綺麗事では、達せられません。狂うてでもおらねば、己の手を汚す事が愉快な者など、おりますまい。汚さざるを得なかった者の闇は、どれほどのものかと…そう、思います」
と答えた。
寿桂尼は、「死の帳面」(デスノート)の「井伊次郎直虎」の上に、大きく「✕」と書いた。
解せない今川氏真が、問うと、
──あれは、『家を守るということは、綺麗事だけでは達せられぬ』と言うたのじゃ。いつも我が己を許すために己に吐いておる言葉じゃ。恐らく同じような事を常日頃思うておるのであろう。我に似た女子は、衰えた主家に義理立などせぬ。(by 寿桂尼)
百戦錬磨のお婆様の洞察力は凄い!!!
今川氏真「では、井伊については、筋書き通りに」
寿桂尼「例の話をお進め下さい」
どんな話(筋書き)か知らないが、井伊に、直虎に危機が迫っていることだけは事実です。覚醒した今川氏真は手強いぞ!
(つづく)
今回の言葉 「妻を娶らば、才長けて、見目美わしく、情け有る」
【出典】 与謝野鉄幹「人を恋ふる歌」(詩歌集『鉄幹子』)
「結婚するなら、頭が良くて、美人で、優しい人がいい」
まぁ、その通りですけど、世の中、そんな早川殿のような人ばかりじゃないよ。だかといって、「結婚は妥協だ」とも言いたくないけどね。
人を戀ふる歌
妻(つま)をめとらば才たけて
顔うるはしくなさけある
友をえらばば書を讀んで
六分の俠氣四分の熱
(以下略。全16連)
キーワード:今川氏
「今川
承久の乱後、足利義氏が三河国の守護に任ぜられた。
義氏の嫡子長氏は、義氏が足利へ帰った跡式を継ぎ、吉良荘にちなんで吉良氏を名乗った。吉良家は二代満氏へと伝えられた。
今川荘は長氏が少年時代に義氏から装束料として贈られた地で、長氏は次子国氏に伝えた。国氏は荘名の今川を名字とし、今川氏の祖となった。
今川の地名は荘名の名残りと伝えられる。
昭和五十九年一月
西尾市教育委員会」(現地案内碑)
《駿河今川氏10代》
足利義氏─吉良長氏─今川国氏─基氏─1範国─2範氏─3泰範─4範政─5範忠─6義忠─7氏親─8氏輝─9義元─10氏真
《今川氏親の息子》
・氏輝 母:寿桂尼
・彦五郎 生年不明 母:寿桂尼
・良真(花蔵殿、玄広恵探) 母:福嶋(くしま)氏の娘
・象耳泉奘(律宗の僧) 母:不詳
・義元(栴岳承芳) 母:寿桂尼
・氏豊 今川那古野氏の養子 母:不詳
※今川氏親の跡は、嫡男・氏輝が継ぎ、次男・彦五郎はスペア。三・四・五男は跡目争いにならないように出家させた。氏豊は、斯波義達の娘と政略結婚させたが、斯波義達と今川氏親は争っている。この時、井伊氏(井伊直平)は、斯波方についたが、今川氏に破れて従属した。(その後、氏豊は、那古野城(後の名古屋城)の初代城主となった。)
氏輝と彦五郎が同日に死ぬと、三男・玄広恵探と五男・栴岳承芳の間で跡目争い「花蔵の乱」が起こった。四男・象耳泉奘は、跡目争いに加わらず、鑑真が日本に伝来させた律宗の僧として、唐招提寺の長老などに就任した。跡目争いは、三男に優先権があるが、三男・良真は、母親が正室・寿桂尼でなかったこともあり、自害し、五男・義元が跡を継いだ。
キーワード:今川氏に嫁いだ女性たち
第6代今川義忠室:北川殿(伊勢宗瑞(北条早雲)の姉?妹?)
第7代今川氏親室:寿桂尼(中御門宣胤の娘)
第8代今川氏輝室:未婚
第9代今川義元室:定恵院(武田信虎の娘、信玄の姉)
第10代今川氏真室:早川殿(ドラマでは春。北条氏康の娘)
寿桂尼は、今川氏を長い期間に渡って見てきたゴッドマザー。「仮名目録」の制作にも関与したという。その根拠の1つが「仮名が使われている」ことですが、今回の「死の帳面」は、寿桂尼が書いたにしては漢字が多いです。
嶺松院(鈴)の母・定恵院は、武田信虎の娘(武田信玄の姉)です。甲駿同盟のキーパーソンだった定恵院は、天文19年(1550)6月2日に32歳という若さで亡くなりました。そこで、甲駿同盟の継続維持のため、嶺松院(鈴)と武田信玄の嫡男・義信の政略結婚が決められました。
早川殿は、ここぞという場面で夫の背中を押すタイプの妻。夫婦仲も良く、今川氏真が長生きできたのは、早川殿のおかげでしょう。
キーワード:寿桂尼
大名の娘にとって「政略結婚」の何が嫌かといえば、近所の人との結婚ではなく、他国の人との結婚になることでしょうね。知らない土地に行くと、聞きなれない言葉(方言)は飛び交うし、知り合いもいません。「住めば都」という心境になるまで、どのくらいの時間がかかることやら。
寿桂尼は、公家(中御門宣胤の娘)ですから、駿府に来た時には、寂しかったことでしょう。寿桂尼は、今川氏が貴族文化に興味あることにつけこんで、京都風の街作りをさせたり、公家との婚姻を積極的に進めて「閨閥」(寿桂尼ネットワーク)を形成しました。この結果、春が驚いた「第二の京都」「綺羅の駿府」が出来上がり、京都から多くの文化人(公家)が訪れたので、寂しさを感じることは無くなったことでしょう。
キーワード:肖像画
マツケンが高野山成慶院蔵の長谷川等伯筆「伝武田信玄像」とそっくりなので、驚いた!
この肖像画は、昔の教科書には載っていたが、今は載っていない。
①若年より労咳に冒されてるのに太っている。
②武田氏の家紋「菱」が描かれていない。
③像主の事績を記した画讃部分が切り取られている。
以上のことから、「武田信玄の肖像画ではない」とする説が定着しつつある。
高野山持明院に伝えられた「武田信玄肖像画」こそが真の武田信玄の肖像画だという。
一方、寿桂尼の肖像画は、正林寺(静岡県菊川市高橋)に保管されている1枚だけであるが、寿桂尼の肖像画で間違いないという。右向きで、生前に描かれたものとされ、菩提寺の龍雲寺に保管されていた。
鷹狩の時に住職と徳川家康が喧嘩したらしく、住職は、寿桂尼の肖像画を持って峯叟院に隠居(逃亡?)したが、峯叟院が廃寺になって個人蔵となり、昭和13年(1938)に正林寺に寄贈されたという。表情が分からなかったが、平成6年(1994)、NHK静岡放送局が画像復元に成功し、公表された。
徳川家康の正室・築山御前(瀬名姫)の肖像画は1枚も残されていない。築山殿の肖像画としては、『日本女性肖像大事典』(日本図書センター)に掲載されている「築山御前像」(西来院蔵)が有名であるが、この絵は、大正から昭和にかけて活躍した浜松市の画家・鈴木白華が描いた肖像画である。なお、背景に描かれている「三ッ山」は、築山御前が自害された場所とされている。
キーワード:水野弥平大夫忠勝
史料1:『寛政重修諸家譜』「水野」
忠勝(ただかつ)
弥平大夫。母は某氏。
今川義元・氏真に属し、永禄十年、武田信玄に密書を通ぜし事により、罪を得て十二月二十二日、自裁す。
※水野忠勝を演じたのは、「大澤基胤役の嶋田久作さんにそっくり」と評判の長江英和さん。なぜそっくりさんを使ったのかは謎。水野忠勝と大澤基胤は血縁関係にないと思うけど、水野忠勝の母親は「某氏」であり、この人物が大澤氏であれば、顔が似ていることでしょう。
※水野忠勝よりも、忠勝の子の康忠の方が有名ですね。父・忠勝の自害後、徳川家康に付き、「康」の偏諱(実母の甥=家康の従兄弟ですから優遇)、「三方ヶ原の戦い」で12の首をとったので、3X4=12だからと、「三四郎」という名を頂戴し、武田勝頼との戦いで「桔梗(ききょう)」の花を献じると、「これは吉兆(きっちょう)」と言われて家紋は桔梗とか。
※『甲陽軍鑑』品第三十四「氏真、信玄、仲悪しく成る事」は有名な段なので、ご存じの方が多いと思いますが、一応、載せておきます。
史料2:「氏真、信玄、仲悪しく成る事」(『甲陽軍鑑』品第三十四)
永禄十一戊辰年五月、駿河の今川氏真公へ御使を越給ひ、信玄公仰せらるは、
「今川殿御持の内、東三河を信玄に給はり侯へ。信州伊奈より続きたる所にて候間取続き候はば、以来義元の御訪ひ合戦、氏真公、成られ候て、松平蔵人元康と云興がる生物出来りて、今川殿恩を忘れ、元康の「元」と云宇をも擲ち、悉く引かへ、「徳川三河守家康」になり、大かた三河国を治めたると承及候。家康にとられ候はんより信玄に給はり候へかし」
と仰せ越され候。氏真公、御返事に、
「信玄仰せられ分、辱く候。去乍、父・義元のとぷらひ合戦とある義は、武田信玄を頼申に及ばず能時刻を見て氏真一身にて本意をとげ申べく候。殊更、氏真敵の織田信長と信玄縁者に成給ふと聞候へば、信玄も今は敵半分と存候。又、東三河の事、家康にとられ侯哉、信玄へ進ずる事、成がたく候。子細は、家族小身の者なれば、今明年にもたやし申し候事、いと易く候。信玄へ東三河渡し侯て後は、遠州迄もとられ申べく、其証拠は、今川家の秘蔵に仕る定家の『伊勢物語』を酒に酔たるふりをなされ、信玄御とり候とて父・義元も信玄をば、「殊の外、調儀の恐ろしき人」と申され侯ひつる間信玄と氏真とおぢ甥の取沙汰指おかれ以来は、書札の取かはしも必らず無益也。此頃も家康母方の伯父・水野弥平太夫に信玄、念頃しふと聞く。又、梶水彦介と云者をも甲府迄よぴ、鉄砲十丁に甲州名物とありて、木綿の布を貳百端くれ、「信玄、三河へ出ぱ、手をひけ」と御申侯事、委しく氏真きき申候間、水野弥平太夫をば、去年の冬、成敗仕り侯」
とて、信玄の水野弥平太夫所へ下されたる廻状を甲府へ駿河より御返事にそへられ越給ふ。故、今川氏真と武田信玄と御仲悪くなる也。
信玄公は、六年以前より、駿府へ、町入、百姓、出家、本より侍、何も物の善悪よく辨る人を撰び、御越成られ候て聞給へば、氏真公御前にて惣一番の出頭人・三浦右衛門助、分別悪くして、今川家の大身、小身、老若、御一家衆共に右衛門助にあきはて候。今川家の人々心持あしくなり、そでなき事に物をいれ、堺の紹鴎が流の茶の湯がかりなりとて、茶碗一ツを三千貫にて買取、栄花にふけり申候は、三浦右衛門がしわざなり。仍って件の如し。
【大意】 永禄11年(1568)5月、甲斐国の武田信玄は、駿河国の今川氏真に使者を出して次のように伝えた。
「今川領の東三河を頂戴したい。東三河は、武田領の南信州とは地続きであり、私に下されば、今川義元の弔い合戦(織田信長との合戦)の加勢に出陣するのに便利です。恩知らずの徳川家康にとられるよりいいでしょ?」
今川氏真は、使者に次のように伝えた。
「まず、父・今川義元の弔い合戦は私一人でやるので、ご助勢には及ばない。そもそも、あなたは織田信長と組んだそうで、今のあなたは、私にとっては半分は味方だが、半分は敵である。次に東三河が徳川家康にとられても、すぐに徳川家康を倒してとり返せるし、あなたにあげる気もない。あなたにあげたら、その後、遠江国までとられるからだ。父・今川義元は、あなたを「諜略の達人」と評していた。実際、私の家臣の水野弥平大夫忠勝や梶水彦介を調略したことを知ってますよ。実は、去年(永禄10年)の冬、水野忠勝を成敗しました」
そして、武田信玄が水野忠勝に出した密書を使者に持たせて武田信玄のもとへ帰した。このため、今川と武田の関係が悪化した。
武田信玄が今川氏の堕落の原因を調査したところ、側近の三浦義鎮が奸臣であることが判明。
今川氏真は、武田信玄と堂々と渡り合っていますね。
覚醒した今川氏真の今後の活躍が楽しみです!
著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。
主要キャラの史実解説&キャスト!
①井伊直虎(柴咲コウさん)
②井伊直盛(杉本哲太さん)
③新野千賀(財前直見さん)
④井伊直平(前田吟さん)
⑤南渓和尚(小林薫さん)
⑥井伊直親(三浦春馬さん)
⑦小野政次(高橋一生さん)
⑧しの(貫地谷しほりさん)
⑨瀬戸方久(ムロツヨシさん)
⑩井伊直満(宇梶剛士さん)
⑪小野政直(吹越満さん)
⑫新野左馬助(苅谷俊介さん)
⑬奥山朝利(でんでんさん)
⑭中野直由(筧利夫さん)
⑮龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
⑯今川義元(春風亭昇太さん)
⑰今川氏真(尾上松也さん)
◆織田信長(市川海老蔵さん)
⑱寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
⑲竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
⑳築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
㉑井伊直政(菅田将暉さん)
㉒傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
㉓昊天宗建(小松和重さん)
㉔佐名と関口親永(花總まりさん)
㉕高瀬姫(高橋ひかるさん)
㉖松下常慶(和田正人さん)
㉗松下清景
㉘今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源