大河ドラマの世界を史実で深堀り!

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堀川城址碑(細江町気賀堀川)

井伊家を訪ねて

「おとわが気賀をとったど~!」されど史実は井伊領にあらず……

女城主・井伊直虎の功績は、主に以下の4項目だという。

①井伊家を井伊直政にバトンタッチ
②井伊谷徳政令の凍結
③殖産興業
④領地拡大

ただしこれらには以下のような反論もあり、一つずつ見ていくと……。

①については、バトンタッチに失敗し、井伊家は一時断絶。虎松は「松下虎松」(松下家の嫡子)となり、その後、徳川家康が廃嫡させて井伊家を再興し、「井伊万千代」(一説には元服もさせて「井伊万千代直政」)としている。つまり家康の功績であって、井伊直虎の功績とはならない。

②については、井伊主水佑(川手景隆)と共に、徳政令推進派(関口氏経、小野但馬守)と争ったというが、中心となったのは井伊主水佑であって井伊直虎ではなく、最終的には井伊直虎が調印している。そもそも「井伊谷徳政令」に反発したのは瀬戸方久領の瀬戸・祝田村だけであって、井伊直虎領には徳政令がすんなりと出されたとも伝わる。

③については、伊平の伊平鍛冶や瀬戸での初山焼には関わったかもしれないが、他(綿織物「金指本綿布」、林業、製紙業「井伊谷半紙」など)については、江戸時代に領主となった近藤氏が始めたものと思われる。

④については、気賀の領主になったのは、井伊直虎ではなく、新田友作だと思われる。また、商人頭・中村氏が気賀に入ったのは、気賀が徳川領になってからである。

以上、「史実と違う」という反論もあろうが、あくまでも「ドラマ」であるので。
ただ、ドラマの後に「直虎紀行」を流して史実を伝えるなどして、ドラマを見た人が「史実のドラマ化」「ドラマの内容が史実だ」と勘違いすることだけは避けたいものである。

 

第27話 「気賀を我が手に」 あらすじ

今回は、井伊直虎が気賀を手に入れるために、周囲の人達の協力を得て、あるいは策を巡らせ、ついに気賀を手に入れたという話である。

その気賀を手に入れるまでの経緯が面白い。瀬戸方久の提案と気賀の商人の要望の「天命」としか解釈のしようがない「偶然の一致」(シンクロニシティ、同時発生)に始まり、関口氏経、大澤基胤と攻めて、最後の仕上げは、小野政次の今川氏真への上訴のタイミングの見極め。

そして最後の小野政次の言葉、
──おとわが・・・気賀をとったぞ。
この言葉に何人泣かされたことか。

今回は気賀を得た感動の内に終わったが、史実は、
──気賀は井伊領ではなかった。

というのも、徳川家康は、遠江侵攻後、徳川方に寝返って道案内をした「井伊谷三人衆」に土地を与えているが、その判物に、与える土地として、

一、井伊谷跡職一円之事
一、高園曾子方之事
一、高梨
一、気賀之郷
(以下略)
とある。

井伊領(「井伊谷跡職」)と気賀(「気賀之郷」)は区別されているのである。

今回は、ドラマとしては良かったが、史実と違うだけに素直に感動できなかった。
また、今川氏真の「風流踊り」が見られたが、これは、家臣と共に永禄10年(1567)7月(お盆)に踊った踊りであって、10月に屋敷内で踊ったら、単なる「バカ殿」に過ぎない。
ということで、私的には残念な回であった。

(つづく)

 

今回の言葉 「将を射んと欲すれば先ず馬を射よ」

騎馬の将を射ようと思うなら、まずその乗っている馬を射よ。転じて、大きな目的を達するには、まずは、その周囲から。

今川氏真に「Yes」と言わせるには、三浦義鎮に「Yes」と言わせればいいのであるが、ドラマでは、一見、堅物に見える関口氏経を香水と儲け話(銭の力)で攻めている。
関口氏経は、井伊家の目付だというが、井伊直虎の寄親(直接の主家)であり、奏者(裁判の時、井伊家と今川家の間に立つ人)なのでは?

相棒の『日本史広辞典』(山川出版社)で「寄親」「寄子」「奏者」をひいてみた。

・よりおや【寄親】 擬似的な血縁関係によって従者・被保護者を指揮・統制する者。ある者に身を寄せ、庇護されるという場合には、奈良時代の寄口(きこう)、平安時代の寄人(よりうど)などのように、「寄」が使用された。鎌倉時代には、武士・在地領主層が惣領制にもとづく武士団において、血縁関係のない武士を惣領が武士団内部の指揮系統下にとりこむようになる。庶子と同様な所当公事(しょとうくじ)を割り当てる際、擬似的な血縁関係すなわち惣領が親、被庇護者が子という関係をとるのを、寄親・寄子といった。南北朝動乱後の室町時代、各地の諸領主が従者や被官人を指揮・支配する場合にも、寄親としての関係が用いられ、戦国期には戦国大名の家臣団組織において、寄親は指南(しなん)・奏者とよばれた

・よりこ【寄子】 中世の武士団において、惣領が血縁関係のない武士を一族内にとりこめため擬似的な親子関係をとり、(寄)親として従者・被保護者を(寄)子に組織するもの。室町時代以降、家臣団編成の手段として広く用いられ、戦国大名の軍事組織編成にも多くとりいれられた。村落レベルでも労働奉仕・被保護の関係としてみられた。

・そうしゃ【奏者】 種々の訴訟などを受理し、主人に伝える役目の人。中世の武家や大名家などで、重臣にあたる者がしばしば勤めた。たんなる取次役ではなく、どの申請を上奏するかを決定する権限をもった重要な地位であった。

いずれにせよ、井伊氏が駿府へ行くと、今川氏真の横には三浦義鎮ではなく、関口氏経がいる。

ドラマでの設定は、

《井伊直盛時代》井伊家の目付:新野親矩、目付家老:小野政直
《井伊直虎時代》井伊家の目付:関口氏経、目付家老:小野政次、目付:近藤・鈴木・菅沼

だそうである。

新野親矩は本拠地・新野を息子に譲って井伊谷へ移ったが、関口氏経は駿府に居て、匂坂氏が、関口氏の意見を伝えに、駿府と井伊谷を往復していた。
目付が井伊谷にいない分、監視が弱まったといえる?

また、井伊谷三人衆(近藤・鈴木・菅沼)は、「目付」ではなく、「与力」(寄騎)であろう。
「まずは関口氏から」という発想は、瀬戸方久レベルであれば出来る。
井伊直虎の発想の凄い点は、「大澤氏を」であり、この発想は、「搦手から攻める」とでも表現したら良いであろうか。

 

キーワード:屯倉神社と堀川城

気賀には、屯倉水神社がある。

屯倉水神社(細江町気賀油田東岩崎)

その案内板を見てみると……。

屯倉水神社現地案内板「屯倉水神社の由来」

「屯倉水神社(みやけすいじんじゃ)の由来
(中略)
屯倉神社は、往古伊福の郷氣賀の庄間の脇にあった所である。

屯倉とは古く大化の改新前皇室の御料地であって収穫された米穀を収める倉を意味するものであった。
垂仁天皇二十七年の條に「興屯倉子来目邑」とあるを始めとしそれ以後代々の天皇は各國毎に屯倉を定め天皇にあらざれば領し得なかったのである。

このような歴史をもった屯倉は大化の改新によって廃止せられ、その跡に屯倉神社のみ遺る。
建久元年(一一九〇年)源頼朝上洛の際屯倉神社の再興を願う。頼朝は遠江守義定に命じて水田八町歩(八ヘクタール)を寄進して再興をはかった後、建武二年(一三三五年)足利尊氏都へ攻め登る。このとき弟直義は引佐山越を攻め登る。引佐郷は官軍方にて所々に喰い止めたが敵軍に放火され神社民屋ことごとく焼きつくされ屯倉神社も亦廃亡に期す。
延文五年(一三六〇年)より永正七年(一五一〇年)まで地震洪水十度余分けて永正七年の大地震には当地の湖水南岸崩れ湖海となる。

永禄十年(一五六七年)社地を俄かに城郭となし堀川城を築く。このとき屯倉神社を油田東岩崎水神社に移す。これにより屯倉神社と改む。屯倉神社には東大鳥居と西大鳥居の二つの大鳥居があったが東大鳥居は現在大通りという地名があるがこれは東大鳥居がなまって大通りと呼んでいる。
永禄十二年(一五六九年)奉行本田作左衛門重次の命により油田の氏神として崇敬すべく、竹田、尾藤、斎藤に神職を命じ屯倉神社を守護せしめ毎年の例祭には三家交代で年番を勤め祭主となって例祭を斎行してきたが明治二年(一八六九年)まで続き後、神社総代制となり、総代によって神社の祭ごとを行うようになった。(後略)」(現地案内板)

式内・屯倉神社を堀川城にしたので、「間の脇」(堀川~大鳥居)の屯倉神社は、水神社(東岩崎)に合祀されて「屯倉水神社」となったとのことです。

──潮が引けば、この下は中洲になるんでさぁ。つまり、この城に近づけるのは、潮が満ちている時、しかも船を持つ者だけ。(by 龍雲丸)

とありますが、『竹田家系譜』では、このアイディアは新田友作(龍雲丸のモデル?)のものではなく、竹田高正のものだとしています(ただし、『竹田家系譜』は、竹田高正が今川氏真に蹴鞠を教えたなど、かなり盛られた内容になっています)。

龍雲丸のモデルは新田友作か? 史実なら処刑される!? おんな城主直虎、最大の疑問に答える

【史料】『竹田家系譜』

「高正案地利考屯倉神社々地土地高而西北控大河東南面江要害枢要司防守築一城号堀川城主将新田友作過房竹田左兵衛督高正助将山村修理介尾藤主膳等居之」(高正、地の利を案じ、屯倉神社の社地は土地が高くして西・北に大河を控へ、東・南は江に面し、要害枢要、防守を司ると考へ、一城を築き、「堀川城」と号す。主将・新田友作、過房(家老?)・竹田左兵衛督高正、助将・山村修理介と尾藤主膳等、之に居る。)

 

キーワード:宇津山城

「大河ドラマゆかりの城宇津山城跡」の案内板を見るたびに、
『なぜ宇津山城がゆかりの城なのだろう?』
と思っていたのですが、今回、
「確かに大沢殿は忙しいかもしれませぬ。徳川に寝返った城を取り戻すための戦もあったようにございますし」(by 小野政次)
「堀江城に志津城の改築、宇津山城への支援、…」(by 瀬戸方久)
と登場しました。

「大河ドラマゆかりの城宇津山城跡」案内板

※今回、武田義信が自決して、永禄10年(1567)10月19日前後のドラマだと分かった。永禄6年(1563)9月21日、弟(泰長の次男)の朝比奈真次は、兄(泰長の長男)であり、城主の朝比奈泰充を殺して城主となり、徳川家康に寝返ったので、永禄10年(1567)1月2日、小原鎮実が討ち、そのまま城主となりました。(小野政次は「徳川に寝返った城を取り戻すための戦もあったようにございますし」とあやふやなことを言っているが、井伊直虎にしても、当然、知っていたはずである。)そして、今川氏真は、宇布見の中村源左衛門(今川氏が大和国から連れてきた土豪で、浜名湖の水運の管理者)に宇津山入城を命じ、兵糧米を引間奉行から受け取らせ、見返りに船の交通税を免除している。ようするに、宇津山城の面倒を見ていたのは大澤氏ではなく、引間奉行(引間城代)であり、中村氏である。

なお、竹田高正は宇津山城主・小原鎮実の寄子なのか、小原鎮実に「今川氏真に従う」と伝え、今川氏真から「小原鎮実から聞いた」と感状をもらっている。蹴鞠の師匠であるならば、直接弟子に伝えればいいのにと思うが。

「宇津山城跡」案内板(宇津山古城)

徳川家康が遠江に侵攻する時、徳川家康率いる本隊は、湖北(浜名湖北部)から侵攻しましたが、永禄7年(1564)、城主・小原鎮実(三浦義鎮の父だというが、違うであろう)を追い出して吉田城(愛知県豊橋市)の城主となっていた酒井忠次率いる酒井隊(別働隊)は、湖南(浜名湖南部)から侵攻しました。

まず、永禄11年(1568)12月13日、境目城(妙立寺)を落として本陣とし、白須賀城(引間城の出城)攻略のために笠子原に笠子砦、宇津山城攻略のために入出や太田に砦を築きました。

宇津山城主になっていた小原鎮実は、宇津山城に時限爆弾を残して、船で駿府へ逃げると、今度は花沢城主に任命されました。(その花沢城は元亀元年(1570)、武田信玄が攻め、一説に、この「花沢合戦」で、井伊直虎が討死したそうです。)

「宇津山城址」碑(宇津山新城)

さて、「宇津山」(渦山)には、「高山」(高い方(標高53.6m)の山)と「城山」(低い方(標高27.0m)の山)があります。「高山」の山頂にある「古城(宇津山古城)」が酒井隊が落とした城で、「城山」の山頂にある「新城(宇津山新城)」は徳川家康が築かせた城です。

宇津山古城の城主・朝比奈三代の墓(正太寺)

宇津山古城は、大永4年(1524)、今川氏親の命で、長池六郎左衛門親能が築きました。初代城主は、この長池親能、ついで小原親高が務めた後、掛川城主家である朝比奈家の分家の朝比奈家が入り、朝比奈泰長・泰充・真次と続きました。

永禄10年(1567)、弟(泰長の次男)の朝比奈真次は、兄(泰長の長男)であり、城主の朝比奈泰充を殺して城主となり、徳川家康に寝返ったので、小原鎮実が討ち、そのまま城主となりました。

【次回へ続く】

龍雲丸のモデルは新田友作か? 史実なら処刑される!? おんな城主直虎、最大の疑問に答える

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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