大河ドラマの世界を史実で深堀り!

大河マニアックス

桶狭間古戦場公園の織田信長像(左)と今川義元像(右)

井伊家を訪ねて

桶狭間の戦いと因果応報 おんな城主直虎ロケ地巡り&レビュー

井伊直盛「おとわ、いつか・・・いつか、もし・・・いや、いい天気じゃのう」
次郎法師「はい」

前回(第8話)の井伊直盛と次郎法師の会話である。
──この時、井伊直盛は何を言おうとしたのか?

「今回の働きは見事であった。そなたこそ宗主にふさわしい。儂の身に何か起きたら、そなたが宗主になってくれ」
であるならば、幼少期(第1話)の会話が思い出される。

井伊直盛「いっそ、おとわが継ぐか、儂の跡を」
おとわ「我はずっとそのつもりなのですが、違うのですか?」

父の話の続きが気になっていた次郎法師であるが、今となっては、確かめる術が無い。
しかし、それが判明したのである。母の手紙から。その続きとは、

「いつかもし・・・世が治まり、穏やかになったら・・・辻が花でも着せてやりたいのぉ。緋か、海老色、あっ濃紅もよかろうのう。美しいぞ~きっと。・・・あの月と、どっちが美しいかのう」
この時の井伊直盛は、「宗主」ではなく「父親」であった。そして、親馬鹿が加わって、どこまでも優しかった。

──「宗主にしたい」ではなく、「普通の娘に戻したい」であった。
この父の言葉が脳裏に焼き付いて、還俗して「井伊直虎」と名乗る就任式で海老茶の着物に辻が花の打ち掛けを羽織ったり、出家して尼になる時に「月船祐円」(「満月」の意か?)と名乗ったりするのであろうか?
未来の想像はさておき、その優しい父はもういない。井伊家を苦しめた今川義元ももういない。歴史の歯車が、ギアチェンジした如く、猛スピードで回り始めた。

さて、さて、今回のドラマも、この記事も内容が盛り沢山ですよ!

《今回のコンテンツ》
(1)第9話「桶狭間に死す」あらすじ
(2)今回の法話「因果応報」
(3)桶狭間の戦い

キーワード① 桶狭間の戦い
キーワード② 織田の赤備え
キーワード③ 家康の黄金甲冑

(4)井伊直盛死後の権力闘争
キーワード① 井伊直親
キーワード② 中野直由
キーワード③ 奥山朝利

(5)史料
祖山和尚『井伊家伝記』(1730)

 

第9話 「桶狭間に死す」 あらすじ

今川義元は、正式に「三河守」に任命されると、西へ向かった。

この西進の目的は、新知・三河国の視察であったか、上洛して就任の挨拶をするためであったかは、今となっては分からない。ただ、「三河守」に就任したと言っても、尾張国に隣接する西三河の状況は不安定であったので、25000人を率いての遠征であり、「進軍」と言ってもよい。

尾張国の織田信長を裏切った山口親子の活躍で、尾張国東端の鳴海城と大高城を得ていた今川義元ではあったが、織田信長は、この尾張国への侵食を放置していたわけではない。鳴海・大高両城の周囲に複数の砦を築き、両城を孤立化したのである。今回の今川義元の進軍の目的には、これらの砦の破壊、もしくは、奪取しての大高城への食料搬入が含まれていたと思われる。

織田信長の兵数は、清州城に3000人、諸砦に2000人、合計5000人という。一方、今川義元軍は25000人の大軍である。こういう時の常識は、「籠城」、あるいは、「降伏」である。しかし、織田信長は、どちらも選ばず、「出陣」したのである。

──飛んで火に入る夏の虫
今川義元はそう思ったであろう。しかし、なんと、なんと、負けてしまったのである! 愛用の扇は次々と兵士に踏まれた。
それが「奇襲」であったか「正面攻撃」であったか、「雨上がりに、急に攻めかかられ、敵、味方が解らぬような有様」(by 奥山朝利)であったかは、ここでは別問題であり、「義元討死」の第一報は、井伊谷を震撼させたことであろう。そして、遂に最も恐れていた報告が届いた。

──井伊直盛切腹
奥山孫市郎(ドラマでは「孫一郎」。読み方はどちらも「まごいちろう」)が井伊直盛の首を持ってきた。

井伊直盛が亡くなり、養子の井伊直親が新・宗主(地頭)になって、井伊谷を治めれば、「首の挿げ替え」で済んだかもしれないが、奥山孫市郎が発表した次の井伊直盛の遺言が、井伊谷を権力闘争の渦に巻き込んだ。

──井伊谷を中野直由に預け置く。
中野直由「なぜ俺?」
井伊直親「なぜ俺じゃないの?」
行動に移すかどうかは別として、奥山朝利にすれば、領主を井伊家から奥山家に代える好機であり、小野政次にしたら、下克上(領主を井伊家から奪う)の好機であった。

新体制では、領主・中野直由は、実務が出来ず、小野政次任せであった。このままでは、井伊谷は小野政次に取られると感じた奥山朝利は、小野家にいる娘・なつと亥之助を取り戻そうとした。2人が小野家にいると(人質状態であると)、奥山家は小野家に強気な態度をとれないと考えたのである。逆に亥之助という人質を取れば・・・大怪我をした時は、痛みと発熱で頭の回転が鈍るものである。こういう時は、何も考えず、安静にしているのが良い。

──そして悲劇が生まれた。
「奥山殿を・・・奥山殿を・・・斬ってしまった」
アジール(龍潭寺)に逃げ込んだ小野政次はそう言った。
(つづく)

 

今回の法話 「因果応報」(いんがおうほう)

「因果応報」は、「行為の善悪に応じて、その報いがある」という仏教用語で、日常生活では「悪業を行った者には悪い報いがある(天罰が下る)」という意味で使われている。
しかし本来は「善い行いをしてきた者には善い報いが、悪い行いをしてきた者には悪い報いがある(から善業を積みなさい)」という意味である。

井伊領は、遠江国と三河国の国境にある。そこは、かつて、今川領の西端であった。国境の住民は、憂き目を見ることが多い。井伊直満・直義兄弟が駿府で誅殺される時、

「無実だ! 呪い殺してやる!」
と叫び、彼らの呪いにより、今川義元は織田信長に破れたのだという。井伊直満・直義兄弟の罪状は不明であるが、祖山系図には「直満直義三州山吉田城主鈴木一黨合心人數相催可攻甲州信玄幕下三州長篠之城主松本奥平二人之武士之㫖小野和泉守以此事構説侫告訴今川義元天文十三年甲辰召直満直義於駿府同十二月廿三日同時令傷害畢」(柿本城主・鈴木氏と共に今川氏と同盟を組む武田氏傘下の長篠城を攻めたのを小野政直が今川義元に報告したから)とあり、本当に無罪だったのか疑問である。

井伊直満・直義兄弟こそ長篠城を攻めた因果応報で処刑されたのではないか?

三河国が今川領となると、今川領の西端は、三河国と尾張国の国境となった。ここにいたのが鳴海城主・山口氏である。山口教継・教吉親子は、織田信秀の家臣であったが、彼の死後、信秀を継いだ織田信長から離反して今川方に移り、織田方の大高城、沓掛城を奪取した功労者であったが、駿府へ呼び寄せられ、親子揃って切腹させられた。今川義元の敗因を、太田牛一著『信長公記』(1610年)では、この山口親子殺害という今川義元の悪業の「因果応報」とする。

「此の如く重々忠節申すのところに、駿河へ左馬助、九郎二郎両人召し寄せられ、御褒美は聊かもこれなく、情けなく無下むげと生害させられ候。世は澆季に及ぶと雖も、日月未だ地に堕ちず。今川義元、山口左馬助が在所へきたり、鳴海にて四万五千の大軍を靡かし、それも御用にたたず、千が一の信長纔か二千に及ぶ人数に扣き立てられ、逃がれ死に相果てられ、浅間敷き仕合せ、因果歴然、善悪二つの道理、天道おそろしく候ひしなり。」
(このように大きな功績をあげた山口親子に褒美を与えるならともかく、今川義元は、この親子を殺してしまった。「世は澆季に及ぶ」(世は軽薄で末になった)と言うが、「日月、地に堕ちず」(天道はあり)、今川義元が率いる大軍が、山口親子の領地付近で、少数の織田軍に討たれたのは、「因果応報」である。)

さらに『信長公記』では、今川義元を毛利良勝が討てた理由を、毛利良勝の善業の「因果応報」だとする。
「先年清洲の城に於いて武衛様を攻め殺し候の時、御舎弟を一人生捕り助け申され候、其の冥加忽ち来たりて、義元の頸をとり給ふと、人々風聞候なり。」
(尾張守護・斯波義統が織田信友の織田信長暗殺計画を織田信長に密告したことを知った織田信友は、守護邸を攻め、斯波義統を自害に追い込んだが、この時、斯波義統の子を毛利良勝が助けたので、その「因果応報」で、今川義元を討つという大金星を得られたのだと人々は噂した。)
※毛利良勝は、毛利長秀との連携プレイで今川義元を討ったという。この毛利長秀は、毛利良勝の弟とも、毛利良勝が助けた斯波義統の子ともいう。

服部小平太最期の地

「服部小平太(中保次)は、永禄三年(一五六〇)五月十九日の桶狭間の戦いで、織田信長の家臣として、毛利新助らと共に、今川義元を討ち取った功労者であった。この地方が家康の勢力下に入ると、小平太は信長亡き後、家康の家臣として、勲功によりこの地を治めた。もともと今川領だったこの地方には、桶狭間に出陣して戦死した者もあり、小平太に恨みを持つ者もあった。天正十五年(一五八七)六月十八日、小平太は単身このあたりを巡視の折、ここで何物かに討たれた。小平太の墓はこの下数十メートルにあり、祥栄院殿湖雲浄鑑大居士と刻まれている。またここより二百メートルほど北に、小平太を祀ったといわれる宗安寺の跡がある。」(案内板)

刑部郷(浜松市北区細江町)で暗殺された領主・服部小平太は、桶狭間で今川義元を槍で刺した服部小平太とは別人だとする説がある一方で、別人だとしても、どちらが今川義元を刺したのか分からないという。もし、ここで暗殺された服部小平太が今川義元を刺した人物でないとするのであれば、彼の死は「因果応報」ではなく、「事実誤認」「とばっちり」である。

多くの寺社を建立し、多くの寺社に寄進をするという善業を重ねてきた井伊直盛の5月19日の自害は、運命(宿命)であったろう。翌年2月19日、井伊直盛の月命日に井伊直政が生まれたのは、井伊直盛の善業による、井伊家への神仏からのプレゼント(だと井伊家の人々は信じた)であろう。

 

キーワード:桶狭間の戦い

桶狭間古戦場公園(愛知県名古屋市緑区桶狭間)の案内板

「この附近一帯が歴史に名高い「桶狭間の戦い」が行われたところです。この地は田楽坪と呼ばれ、今川義元公 最期の地でもあります。桶狭間の戦いは、永禄三年五月十九日(一 五六〇)尾張の領主=織田信長が、駿河・遠江・三河の領主=今川義元の、十倍に余る大軍を打ち破り、近世という時代の幕を開けた歴史上特筆すべき戦いです。今川義元は、二万五千余の兵を率いて五月十八日に沓掛城へ入り、翌十九日八時頃大高城へ向け出発。前日 瀬名氏俊が設営した「おけはざま山」の陣地に入り、今朝方撃ち落とした 鷲津砦・丸根砦の戦果を聞きながら休息をしていましたが、昼頃 天気が急変し雷雨となり、高地に着陣していた今川軍本隊は落雷により大混乱状態になりました。一方、織田信長は午前四時頃清洲城で鷲津砦・丸根砦が今川軍の攻撃を受けたとの報告を聞き、「敦盛」を舞い直ちに出陣、八時頃熱田神宮に到着、戦勝を祈願。十時頃には善照寺砦に着き、本陣ここにありと見せかけておいて、雷雨のなかを今川義元本陣近くの釜ケ谷に進み、雨が止むや間髪をいれず今川軍に突撃、遂に今川義元を討ち取りました。(「信長公記」による) この戦いでの戦死者 を、織田信長は村人に丁重に葬るように命じて引き上げました。村人は七つの塚を建て弔い、後年これを一つにして「七ツ塚」を称して残してきました。この他にも桶狭間には、瀬名氏俊陣地跡・戦評の松・長福寺・神明社・高根山・幕山・巻山・生山・武路 等の戦いに関連する史跡や地名があります。」(案内板)

「桶狭間の戦い」(おけはざまのたたかい)は、永禄3年5月19日(1560年6月12日)に尾張国(現在の愛知県西部地方)の「桶狭間」で行われた織田信長軍3000人と今川義元軍25000人の合戦です。とても有名な合戦ですが、今なお謎多い合戦でもあります。

謎①:なぜ今川義元は出陣したのか?
謎②:なぜ少人数で大人数に勝てたのか?

《謎①:今川義元の出陣理由》
今川義元の出陣理由については、
説1:上洛説
説2:織田信長討伐説(尾張攻略説)
があります。以前は上洛説が通説でしたが、現在は織田信長討伐説が通説となっています。
他に「西三河の確保説」(東三河は完全に今川領となったが、西三河の情勢は不安定だった)とする説もありますし、私の説は、「大高城への兵糧入れを主目的とする尾三国境の鎮静化説」です。

どの説でも指摘されるのが、
──人数が多すぎる。
ということです。

上洛説の場合、武田信玄の上洛(西上作戦)を考えると、人数が多いようには思われませんが。
この指摘に答えるように登場したのが、「おんな城主 直虎」の時代考証をしている歴史研究 家・大石泰史氏の「軍事パレード説」です。同氏は、「駿河国の今川軍は今川家臣であったが、遠江国や三河国の今川軍は、独立した『国衆』であったので、『今川に歯向かっても無駄』『今川の傘下にいれば安心』ということを遠江国や三河国の国衆に知らしめるための軍事パレードである」としておられます。
さらに、「今川義元が塗輿に乗っていたのは、馬に乗れないからでも、足を怪我していたからでもなく、『私は輿に乗ることを室町幕府から許可された特別な人間である』と、家格の高さをアピールするため」としておられます。

同氏の説を補足すれば・・・当時の兵士は、半農半兵ですから、5月とか6月に合戦をすることは珍しいです。合戦をするのであれば、農閑期(12/8~2/8)です。では、なぜ今川義元は、5月12日に駿府から出兵し、5月19日に桶狭間で合戦になったのでしょうか?
前回(第8回)で、今川氏真が、
「今では朝廷より『三河守』の名をいただこうと躍起になっておられる」
と言っています。
三河国は「足利氏の第二の本拠地」と言われ、足利一族の今川氏の本貫地である今川荘(現在の愛知県西尾市今川町)もあります。三河国は、どうしても手に入れたい国なのです。
そして、目出度く、永禄3年5月8日に「三河守」に就任し、意気揚々と12日に出陣しました。「織田信長との戦いのための出陣」ではなく、「新・三河守としての就任挨拶と領内視察、軍事パレード、大高城の救援を兼ねての出陣」だと考えれば、5月であることに納得できます。

桶狭間古戦場公園の案内板の地図のアップ

 

《謎②:少人数が大人数に勝てた理由》

『信長公記』に、今川義元軍は45000人だったとあります。この数字を信じる研究者もおられます(その方も「半分以上は非戦闘員」としておられます)が、江戸時代には「1万石で235人」という目安があったので、「当時の今川氏は100万石で25000人」と考える学者が多いようです。ドラマ「おんな城主 直虎」でも、「今川軍25000、織田軍3000」としています。

さて、3000人が25000人に勝つ方法は「奇襲」しか無いのですが、古文書を読むと、「正面突破」のようです。

──なぜ3000人が25000人に勝てたのか?

25000人といっても、散在していて、今川義元の周囲にいたのは5000人程度のようです。そこに織田の精鋭部隊3000人が襲いかかった、つまり、「25000人対3000人の戦い」ではなく、「5000人対3000人の戦い」であったので勝てたというのです。桶狭間古戦場公園の案内板の地図(写真4)もそう示しているようですね。

織田軍は、西から東へと吹く暴風雨の中、背に風を受けて猛スピードで東へ進軍し、西向きに陣を設営して雹を前から受け、目を開けられない状態の今川本陣の兵士が、暴風雨がやんで目を開けると、すぐ前に織田軍がいて驚いた。その慌てふためく隙を突いて勝ったのだそうです。特に「小荷駄隊」(兵糧や武具を運ぶ非戦闘員)が慌てた(『信長公記』に「弓、鎗、鉄砲、のぼり、さし物、算を乱すに異ならず。今川義元の塗輿も捨て、くづれ逃れけり」とある)ので、今川本陣が混乱したといいます。

今川本陣への集中攻撃であれば、先鋒の井伊直盛は襲われなかったはずですが・・・『松平記』や『井伊家伝記』には、今川本陣への一点突破ではなく、「軍隊を2団に分け、1団を先鋒、1団を今川本陣に向かわせた」とあります。

※上の地図(写真4)には描かれていませんが、先鋒(松井宗信の幕山、井伊直親の巻山)と義元本陣(桶狭間山)の間の谷に、当時は手越川が流れていました。

「永禄三年五月十九日昼時分大雨しきりに降。今朝の御合戦御勝にて目出度と鳴海桶はざまにて、昼弁当参候処に、其辺の寺社方より酒肴進上仕り、御馬廻の面々御盃被下候時分、信長急に攻来り、笠寺の東の道を押出て、善勝寺の城より二手になり、一手は御先衆へ押来、一手は本陣のしかも油断したる所へ押来り、鉄炮を打掛しかば、味方思ひもよらざる事なれば、悉敗軍しさはぐ処へ、山の上よりも百余人程突て下り、服部小平太と云者長身の鑓にて義元を突申候処、義元刀をぬき青貝柄の鑓を切折り、小平太がひざの口をわり付給ふ。毛利信助と云もの義元の首をとりしが、左の指を口へさし入、義元にくひきられしと聞えし。」(『松平記』)

【意訳】 昼頃、暴風が吹き荒れ、雹も降ってきて、戦える状態になかったので、戦闘を中断し、昼食にした。この時、周囲の寺社から、「新しい領主様、よろしく」と挨拶がてら酒や肴の差し入れがあった。(「田楽窪」という地名から思いついたのか、豊臣秀吉が地元の農民に田楽を踊らせて今川軍を油断させたとする小説もある。)この時、馬廻たちは、今川義元から酒を振る舞われて断りきれずに飲んだという。空が晴れた瞬間、織田軍が襲ってきた。山麓は深田で、足を取られるために猛スピードでは進軍できないはずであるが、織田軍は、手越川の堤防上を走ってきた。左岸を進んだ隊は松井宗信がいる幕山や、井伊直盛のいる巻山に駆け上がって戦った。この先鋒(遠江衆)は、深夜から鷲津・丸根砦を攻めていたので疲れており、全滅に近い状態となった。(同じ先鋒でも、三河衆は、大高城に兵糧を入れると、そのまま大高城で休んでいたので助かった。)右岸を進んだ隊は、桶狭間山に駆け上り、鉄砲を撃つと、「本陣に雷が落ちたのでは?」と今川本隊が動揺したので、その隙を突いて今川義元を襲った。織田信長は馬から降りで戦ったので、どこにいるか分からなかったが、今川義元は塗輿の近くにいたので、すぐに見つけられた。最初に服部小平太が長槍で今川義元を刺したが、今川義元に刀で槍の柄を切られ、さらに膝口を斬られた。今川義元の首を取ったのは毛利新助良勝であるが、彼は今川義元に指を食いちぎられた。

※井伊直盛は、「織田軍に取り巻かれて(囲まれて)討死」したので、その場が「巻山」と名付けられたと言いますが、「南渓系図」(過去帳に書かれた南渓和尚の覚書)に「信濃守天運道鑑 是ハ天澤寺殿御供申於飯カケニテ打死ス」とありますから、信濃守天運道鑑(井伊直盛)は、遺言を残し、天澤寺殿(今川義元)にお供しての「於飯カケ(おいかけ。追い掛け、追い腹)」(殉死)でしょう。井伊直盛を井伊谷に残して、井伊直平が井伊衆を率いていれば、隙を見つけて今川義元を刺すことはあっても、殉死はしなかったでしょうね。

※ドラマの演出は、気に入りません。主君の首を掲げて逃げるですと? 私でしたら、井伊直盛がなんと言おうと、「御免」と言って、縄で縛って捕えたふりをして逃げます。(そもそも歩いて逃げるって変です。馬に乗って逃げるはずです。馬は目立つから避けたのでしょうか?)史実は分かりませんが、「瀕死の重傷」という設定で、「もうこれ以上は体が動かない。もうすぐ死ぬが、雑兵に討たれて首を奪われるのは避けたいから、切腹するので、介錯をして首を井伊谷に運んでくれ」と頼むという演出がよかったです。

キーワード:織田の赤備え

「信長公下り立って若武者共に先を争ひ、つき伏せ、つき倒し、いらつたる若者ども、乱れかゝって、しのぎをけづり、鍔をわり、火花をちらし、火焔をふらす。然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず。」(『信長公記』)

隊列を乱さなければ、同士討ちはまずありませんが、乱戦では同士討ちがあったようです。敵・味方の識別は、「旗印」(背中に挿してる幟)で見分けます。近づくほど旗印が視界に入りませんので、「合印」(兜や袖に付けたマーク)や「合言葉」で識別します。「桶狭間の戦い」では、織田信長は馬から降り、敵・味方相乱れての接近戦に参加したようで、敵・味方入り混じっていましたが、見分けがついたようです。『信長公記』に「然りと雖も、敵身方の武者、色は相まぎれず」(乱戦ではあったが、同士討ちはなかった。なぜなら、敵(今川軍)と味方(織田軍)では甲冑や武具の色が違っていたからである)とあります。

浜松在城時代の朱武者・徳川家康(浜松城)

──織田軍の精鋭部隊って何色?

残念ながら、『信長公記』の「第24段 桶狭間 今川義元討死の事」には書かれていませんが、「第7段 上総介殿形儀の事」に次のようにあります。

「其の比の御形儀(ぎょうぎ)、明衣(ゆかたびら)の袖をはずし、半袴、ひうち袋、色いろ余多(あまた)付けさせられ、御髪はちゃせんに、くれない(紅)糸、もえぎ(萌黄)糸にて巻き立て、ゆわせられ、大刀、朱ざやをささせられ、悉く朱武者に仰せ付けられ、市川大介めしよせられ、御弓御稽古。橋本一邑を師匠として鉄砲御稽古。平田三位、不断召し寄せられ、兵法御稽古。御鷹野等なり。」(『信長公記』)

──悉く朱武者に仰せ付けられ

赤備えだったようです。(「第10段 山城道三と信長御参会の事」では、甲冑の色は分かりませんが、「御供衆七八百甍を並べ、健者先に走らかし、三間々中柄の朱やり五百本ばかり、弓、鉄砲五百挺もたせられ、寄宿の寺へ御着き」(精鋭部隊は7、800人くらいで、足軽を先頭に、三間半(約6.3m)の朱塗りの槍約500本、弓、鉄砲500丁を持たせて、会見場所の正徳寺に到着された)と、約500本の槍の色は「朱」(赤)だとあります。)

 

キーワード:家康の黄金甲冑

国指定重要文化財「金溜塗具足」(きんためぬりぐそく。久能山東照宮蔵)は、「桶狭間の戦い」の前哨戦である「大高城兵糧入れ」の時に松平元康が着用していた「当世具足」だとされ、「大高城兵糧入れ具足」とも呼ばれています。

ドラマで使用された家康の「金溜塗具足」

今川家から渡された甲冑が、あまりにもみすぼらしかったので、家臣がお金を出し合って作った当世具足だそうですが、「戦闘服」というよりも、「軍事パレード用の衣装」としか思えません。この姿で三河国内を通った時には、大きな歓声が上がったのではないでしょうか。

「桶狭間の戦い」での徳川家康の「戦闘服」とは、一体どういうものだったのでしょうか? 『信長公記』には恐ろしいことが書いてあります。

──今度、家康は朱武者にて、先懸をさせられ、大高へ兵糧入れ、鷲津、丸根にて手を砕き、御辛労なされたるに依つて、人馬の休息、大高に居陣なり。

徳川家康は、金ではなく、織田軍と同じ朱(赤)!! 3000人が25000人に勝つ方法には、「奇襲」以外に「造反」も考えられます。

大高城での休憩中に一人碁をやっていたのが史実かどうかは知りませんが、石川数正が碁石を散らしました。「黒と白(今川と織田)が戦えば、逃げる者もいて、空白地帯(岡崎)が出来るのでは?」と思って、岡崎城へ行ったら、そこは「捨てられた城」であり、

──戻れてしまった。

この徳川家康の行動の裏には、「出る時に前に出ねば、好機を掴み損ねまする」という瀬名(妻)の言葉の影響がありました。もし、今川氏真が瀬名と結婚し、このような言葉を聞いていたら、「こちらも痛いが、向こうも無傷ではないはず。すぐに弔い合戦の準備をせよ」となっていたかもしれませんね。

桶狭間戦死者の墓(龍潭寺)

 

キーワード:井伊直親

井伊直親についても多くの謎があります。第一、第二の謎は、

──謀反人の子で、殺害命令が出ていたのに、なぜ許されたのか?

──井伊谷へ帰国後に、なぜ次郎法師と結婚しなかったのか?

であり、第三の謎は、

──「桶狭間の戦い」の直後、なぜ領主になれなかったのか?

です。

井伊直盛は、自分の跡は井伊直親に継がせようと、井伊直親を養子にしたのですから、遺言で中野直由に継がせる理由が分かりません。遺言状はありませんので、奥山孫市郎の聞き間違えとも、嘘とも考えられますが。

ドラマでは、小野政次が、

「思いますに、この後、遠江、三河一帯が大いに乱れるのは明らか。殿としては、唯一の御嫡流である直親様を矢面に立たせたくはなかったのではございませんでしょうか? 戦にお詳しい中野殿にお任せするのが 最も理に叶うかと」

と解釈していました。前回、井伊直盛が、井伊直親を出陣させない理由を語っていましたが、そういう井伊直盛の言動を頭脳明晰な小野政次が分析しての解釈ですから、間違いなく正解でしょう。

※親子は似るものです。小野亥之助の子は小野亥之助の幼い頃にそっくりですし、家老(小野政次)を殺そうとした男の娘は、前回、宗主の娘(次郎法師)を刺し殺そうとしました。井伊直親も次郎法師も井伊家思いで、次郎法師は、スペア(「かびた饅頭」)になろうとし、その父・井伊直盛は、井伊家の緊急事態のために、井伊直親という饅頭をとっておこうと考えていたようです。

 

キーワード:中野直由

井伊領には、新野、小野、上野、中野があります。
「新野」は新野屋敷、「小野」は小野屋敷に因む地名でしょう。
「上野」は、「上野・中野・下野」の「上野」ではなく、見附の「上野」同様、東の台地の意味でしょう。上野氏の本貫地です。

左から城山城・井伊氏居館・中野屋敷(浜松市地域遺産センター展示品)

「中野村」は「中ノ村」「中村」であって、「井伊谷の中心地」の意味であり、井伊氏居館がある場所です。上の模型では、井伊氏居館(井伊谷城)と中野屋敷がかなり離れていますが、実際は、信州街道を挟んで、関所のように建っていたと思われます。

・中野初代直房(?-?):井伊直平の祖父・忠直の次男
・中野二代直村(?-?)
・中野三代直由(?-1564。越後守→信濃守。正室は奥山親朝の娘)
・中野四代直之(?-1605。正室は奥山朝利の娘)

中野家は、井伊直平の叔父・直房から始まった家で、最も新しい庶子家で、中野直由は、まだ3代目です。
中野家は、血の濃さからしたら井伊宗家に最も近い庶子家なのですが、中野直由は、権力闘争には興味が無い、中立な立場の人間のようですので、領主に指名されたのでしょう。

「数日後、直盛、玄蕃ほか、亡くなった16名の家臣たちの葬儀が行われた。井伊の重臣達は誰一人として、血縁をなくしておらぬ者はいなかった。井伊にとって桶狭間は、それ程の大打撃でござった」(by 龍宮小僧)
ということですが、亡くなった16人(下記『井伊家伝記』参照)には「中野」の文字はありません。
※江戸時代に入ると、井伊氏は彦根藩主となり、井伊谷には「井伊谷藩」(藩主:近藤秀用。17000石)が出来た。「桶狭間の戦い」への井伊領からの動員数は、井伊谷藩が17000石であることから、250人程度(200~300人)と考えられている。全滅に近かったという。
龍潭寺に葬られた16人は、討死や井伊直盛の死を知って殉死した武将であり、雑兵は含まれていないという。

 

キーワード:奥山朝利

奥山氏は、井伊家庶子家の赤佐氏のことで、麁玉郡赤狭(赤佐)郷が本貫地だといいます。

奥山氏居館(奥山城)

奥山に移住して、「奥山氏」と名乗りました。

・初代:赤佐三郎俊直(?-1209)
・二代:赤佐左衛門尉共俊(?-1246)
・三代:赤佐左衛門尉共明(?-1279)
・四代:井伊奥山左衛門太郎朝清(?-1313)
・五代:奥山六郎盛朝(?-1341)
・六代:奥山六郎次郎(八郎入道)朝良(?-1354)
・七代:奥山遠江介直朝(?-1379)
・八代:奥山六郎次郎朝藤(?-1387)
・九代:奥山六郎次郎朝実(?-1439)
・10代:奥山六郎次郎親朝(?-1497)
・11代:奥山六郎次郎(因幡守)朝利(親秀。?-1544/1561/1563)
・12代:奥山六郎次郎朝宗(?- 1560。「桶狭間の戦い」で討死)
・13代:奥山六郎左衛門朝忠(?-1629。虎松を鳳来寺へ届ける)
※中野直由の正室を奥山朝利の娘とする説があります。新野親矩の妻を奥山朝利の娘とする説もあります。これは、奥山親朝・奥山朝利(親秀)父子の業績等が混乱して、同一人物のように思われていることによります。

奥山朝利の子は12人で、8人の娘の嫁ぎ先がそうそうたるメンバーです。
長男・奥山六郎次郎朝宗(嫡男。桶狭間で討死)
次男・奥山六郎五郎朝重
三男・奥山源太郎朝家
四男・勘三郎
娘・於ひよ(ドラマでは「しの」。井伊肥後守直親室)
娘・?(中野越後守直之(中野直由の子)室)
娘・?(ドラマでは「なつ」。小野玄蕃朝直(小野政次の弟)室)
娘・?(西郷伊予守正友室)
娘・?(鈴木三郎太夫重時(柿本城主)室)
娘・?(菅沼淡路守元景(都田城主)室)
娘・?(橋本四方助室)
娘・於徳(平田三郎左衛門森重室)
※奥山氏は、この閨閥(けいばつ。政略結婚による家族関係)により、井伊宗家に継ぐNo.2でした。
もし、奥山朝宗が討死していなかったら、中野直由ではなく、奥山朝宗が領主になっていたかもしれません。

また、奥山朝利(親秀)は、小野政次が殺害したとされ、その年については1544年説、1561年説、1563年説の3説があります。

①天文13年10月22日(1544年11月7日)
②永禄3年12月22日(1561年1月7日):小野政次が殺害
③永禄5年12月24日(1563年1月18日):小野政次が殺害
※ドラマでは、殺害日が、②説の「桶狭間の戦い」(5月19日)の年(永禄3年)の年末(12月22日)ではなく、「桶狭間の戦い」の数日後に変更されているようです。
※奥山朝利は、今川氏真が殺害したとする説もあります。これは、「相続争いが起き、中野直由を討とうと今川氏真が出陣すると、中野直由が妻(奥山親朝の娘)の実家の奥山城(奥山氏居館)に逃げ込んだので、今川軍が奥山城を攻め、その時、奥山朝利が討たれ、中野直由は三河国に逃げたとする説」です。

奥山三代(10親朝─11朝利─12朝宗)の墓

 

史料1:祖山和尚『井伊家伝記』「井伊信濃守直盛公討死之事付家頼同枕討死人数之事」

一 永禄三年庚申之五月、今川義元、織田信長争戦之為ニ出陣。此節、引馬之城主井伊兵部少輔直平公ハ老人故ニ、直盛公江井伊谷并引馬之人数を相催シ、出陣可致旨、義元ゟ申来候故、直盛公、直平公之家老飯尾豊前守を初、其外、家頼不残召連出陣。尾州桶挟間ニて五月十九日ニ今川義元と同時同枕ニ討死也。小野玄蕃(右玄蕃妻、奥山因幡守女なり。直政公為に伯母也。玄蕃嫡子小野亥之助、直政公、権現様江出勤之節、御伴致罷出申候故、「万福」と申名を被下置候。兵部少輔様家老小野七郎左衛門先祖なり)、田中善三郎、奥山彦市郎、奥山六郎次郎(奥山因幡守嫡子。直政公為ニ叔父也。奥山六左衛門先祖なり)、小野源五、上野惣右衛門、同源右衛門、同彦市郎、多久郷右衛門、気賀庄右衛門、御厨又兵衛、市村信慶、小野市右衛門、上野孫四郎、奥山彦五郎、袴田甚八、以上拾六人討死。右之通、南渓和尚自筆ニて過去帳ニ付置、法名も逐一有之候。直盛公御法名ハ、龍潭寺殿當山開基前信州太守天運道鑑大居士。
【現代語訳】「井伊信濃守直盛公、討死の事、付、家来同枕討死人数の事」

一 永禄3年(1560)年5月、今川義元は、織田信長と戦うために出陣した。この時、「引馬城主である井伊兵部少輔直平は高齢なので出陣しなくてよいが、代わりに嫡男の井伊直盛が、井伊谷や引馬の軍勢を率いて出陣しなさい」と今川義元に命令されたので、直盛は、直平の家老である岡崎城代・飯尾豊前守をはじめとし、家来を一人残らず出陣させた。そして、尾張国の桶狭間で、5月19日に、今川義元と同じ時に、同じ場所で討ち死にした。
①小野玄蕃(この玄蕃の妻は、奥山因幡守朝利の娘である。井伊直政の伯母にあたる。小野玄蕃の嫡子の小野亥之助は、井伊直政が徳川家康公とご対面する時にお伴して、「万福」という名を頂戴している。与板藩主・井伊兵部少輔家の家老・小野七郎左衛門の先祖である。)
②田中善三郎
③奥山彦市郎
④奥山六郎次郎(奥山因幡守朝利の嫡子。井伊直政の叔父にあたる。奥山六左衛門の先祖である。)
⑤小野源五
⑥上野惣左衛門
⑦上野源右衛門
⑧上野彦市郎
⑨多久郷右衛門
⑩気賀庄右衛門
⑪御厨又兵衛
⑫市村信慶
⑬牧野市右衛門
⑭上野孫四郎
⑮奥山彦五郎
⑯袴田甚八
以上、十六人が討死した。
右の通り、南渓和尚は自筆で、過去帳に記録した。戒名も逐一付けた。直盛の戒名は、「龍潭寺殿當山開基前信州太守天運道鑑大居士」である。

史料2:祖山和尚『井伊家伝記』「井伊信濃守直盛公奥山孫市郎ニ遺言之事并ニ中野越後守井伊保を預事」
一 今川義元、駿遠三之大軍勢を催出張。五月十九日、所々之軍に打勝て、少々間、休息、油断之所江、信長、謀計を以急ニ攻掛、軍兵を二手に分、一手ハ先手ニ掛、一手ハ義元之本陣江急攻掛、織田造酒丞、林佐渡守、攻入、毛利新助、終ニ義元を討取申候。依之、近習六拾餘人、不残、或戦死、或切腹、皆々傷害也。直盛公、右之人数之中也。軍勢之中、立退、無恙歸國申候者も有之候得共、義元近習之分、不残傷害也。直盛公、切腹に臨て、奥山孫市郎ニ御遺言、被仰渡候ハ、「今度、不慮之切腹、不及是非候。其方、介錯仕候て、死骸を國江持参仕、南渓和尚、焼香被成候様ニ可申候。扨又、井伊谷ハ、小野但馬ヵ心入、無心元候故、中野越後守を留守ニ頼置候。此以後ハ、猶以小墅但馬と肥後守主従之間、無心元候間、中野越後守に井伊谷を預ヶ候て、時節を以、肥後守、引馬江移替申候様ニ、直平公ニ委細可申」旨被仰渡、無是非、奥山孫市郎、直盛公之御死骸を御介抱仕、井伊谷江歸國申候。

【現代語訳】「井伊信濃守直盛公、奥山孫市郎に遺言の事、並びに、中野越後守に井伊保を預ける事」
一 今川義元は、駿河国・遠江国・三河国の武士による大軍勢を率いて出陣した。5月19日、(織田軍の丸根砦、鷲津砦を落とすなど)あちこちで勝利をおさめ、少しの間、休息して油断していたところに、織田信長は謀計を巡らして、突然、襲い掛かった。その謀計とは、軍を2団に分け、1団は先陣に襲い掛かり、もう1団は、今川義元の本陣を急襲するというものであった。織田造酒丞信房、林佐渡守秀貞が攻め入り、毛利新介良勝がついに今川義元を討ち取った。義元の死により、近習60人余りが、討死、あるいは、切腹して、皆、果てた。井伊直盛もこの近習の中に含まれる。今川軍の中には、逃げて無事に国に帰った兵士もいるが、近習は全員亡くなった。井伊直盛は、切腹する時、奥山孫市郎に遺言として、「今、思いもかけず切腹する事になったが、これは致し方ない事である。お前は、介錯して(私が腹を切ったら、私の首を刎ねて)、遺体を井伊谷へ運び、南渓和尚に埋葬などを頼むように。あと、井伊谷城は、小野但馬守政次の「心入り」(心の奥底)が気がかりであるので、中野越後守直由を井伊谷城の留守居役(井伊直親の後見人)として置くように。以後、なおも、小野但馬守道好と井伊肥後守直親との主従関係が心配であるので、中野越後守直由に井伊谷城を預けている内に、頃合いを見計らって、井伊肥後守直親を引馬城へ移すよう、 井伊直平公に詳しく伝えるように」と申し渡した。是も非も(いいも悪いも)無く、奥山孫市郎は(介錯し、遺言を伝えるべく)、井伊直盛の遺体を丁重に扱いながら井伊谷へ生きて帰った。

【解説】『井伊家伝記』は、
・井伊領12万石(井伊谷(井伊保)6万石、引馬6万石)
・井伊谷城主・井伊直盛、家老・小野但馬守
・引馬城主・井伊直平、家老・飯尾豊前守
としていて、井伊直盛の死によって、井伊谷城主が井伊直親に代わるだけなはずですが、
井伊直盛は遺言で、
・井伊直親と小野但馬守は仲が悪いので、井伊谷は中野直由に預ける。
・井伊直平は飯尾豊前守と仲が悪いので、頃合いを見て、井伊谷城と引馬城の城主を入れ替えよ。
と指示しました。

後に井伊直親は、この遺言に基づき、井伊谷城主(井伊直親)と引馬城主(井伊直平)の入れ替えを今川氏真に申し出ますが、断られたので、井伊直親は、今川氏真が大嫌いになり、それが井伊直親の誅殺に繋がっていき、井伊直平は家老に毒殺されるというのが『井伊家伝記』が描くストーリーです。

-井伊家を訪ねて

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