追平陶吉作「直政」と「直虎」

井伊家を訪ねて

井伊直政と徳川家康の出会い そして仕官と相成った

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今回からいよいよ最終章。主人公は虎松あらため井伊万千代です。
松下虎松が井伊万千代となり、元服して「井伊直政」と名乗って「徳川四天王」のメンバーになることは、今回のナレーションにもあり、もう皆さん、御存知でしょう。

「徳川四天王」とは、
・酒井忠次 (1527-1596) 天正3年(1575)では49歳
・本多忠勝 (1548-1610) 天正3年(1575)では28歳
・榊原康政 (1548-1606) 天正3年(1575)では28歳
・井伊直政 (1561-1602) 天正3年(1575)では15歳
の4人の武将をいいます。

※酒井忠次を除いて「徳川三傑」(1586年9月以降の名称)とも。
※年齢は数え年。それにつけても井伊直政は若い!(ドラマの本多忠勝と榊原康政は、失礼ながら20代には見えない。)

東照宮信仰の一つとして、東照神君家康公直属の優秀な武将を「神将」と呼び、16人で「徳川十六神将」とも、28人で「徳川二十八神将」ともいいます。

「徳川十六神将図」(浜松市博物館)

《名数から考えられる元ネタ》
※徳川四天王:仏教の「四天王」(持国天・増長天・広目天・多聞天(毘沙門天))
※徳川十六神将:「徳川四天王」に12人(仏教の「十二神将」)を加えた。
※徳川二十八神将:「徳川十六神将」、さらに12人(元ネタ不明)を加えた。

なお、松平氏(徳川家(将軍家)の親戚)は18家あり、「十八公」と言いますが、これは、「松」を「枩」とも書くからだとされています。

《徳川二十八神将》

安藤直次:三河(安城)
井伊直政:遠江(井伊谷)「徳川三傑」「徳川四天王」「徳川十六神将」
伊奈忠政:三河(西尾)
岡部長盛:駿河(藤枝)
大久保忠佐:三河(岡崎)「徳川十六神将」
大久保忠教:三河(岡崎)
大久保忠世:三河(岡崎)「徳川十六神将」
大須賀康高:三河(岡崎)
奥平信昌:三河(作手)
酒井忠次:三河(坂井→岡崎)「徳川四天王」「徳川十六神将」
酒井正親:三河(坂井)
榊原康政:三河(上野)「徳川三傑」「徳川四天王」「徳川十六神将」
菅沼定盈:三河(野田)
高木清秀:三河(安祥(高木)→尾張(緒川))「徳川十六神将」
鳥居元忠:三河(岡崎)「徳川十六神将」
内藤家長:三河(豊田)
内藤正成:三河(豊田)「徳川十六神将」
蜂屋貞次:三河(岡崎(六名))「徳川十六神将」
服部正成:三河(岡崎(伊賀))「徳川十六神将」
平岩親吉:三河(幸田)「徳川十六神将」
本多忠勝:三河(伊奈)「徳川三傑」「徳川四天王」「徳川十六神将」
本多忠俊:三河(伊奈)
本多康高:三河(伊奈)
松平伊忠:三河(深溝松平)
松平康忠:三河(長沢松平)「徳川十六神将」
水野勝成:三河(刈谷)
米津常春:三河(西尾(米津))「徳川十六神将」
渡辺守綱:三河(岡崎)「徳川十六神将」

※異説あり
※鳥居忠広:三河(岡崎)は、「徳川二十八神将」ではないので名が無いが、「徳川十六神将」ではある。

徳川家臣団は、「三河譜代」(徳川家康の祖父・松平清康時代までに服属した三河武士)が中心で、大久保忠教『三河物語』では家臣になった時期によって「安祥譜代」「山中譜代」「岡崎譜代」に分類しています。

※松平宗家は、「松平郷松平氏」ですが、安祥松平氏から徳川家康が出たことにより、安祥松平氏が(系図上は)松平宗家になりました。
※安祥松平氏の主な家臣は、「安祥七譜代」(酒井、本多、大久保、石川、阿部、青山、植村)でした。(「安祥七譜代」筆頭の酒井や本多は「岩津譜代」とも言われる。)

「徳川二十八神将」のメンバーを見ると、「浜松譜代」と呼べるのは、井伊直政、岡部長盛(今川家臣・岡部正綱の子)の2人で、井伊谷三人衆、松下などの名は見当たりません。「神将」と言うからには、徳川家康を生まれた時から知っている家臣(徳川家康の祖父・松平清康の家臣)が選ばれるのが当然(AKB48の誕生期、第1回公演の観客7人が「神7」と呼ばれているのと同じ)で、そこに入っている井伊直政と岡部長盛は超絶凄い!

※「徳川家康の正室・築山殿の母は、井伊直平の娘」という事は、井伊家の系譜にのみ見られる(今川氏の系譜には見られない)事であるので、史実かどうかは分からないが、井伊直政の正室・花が徳川家康の養女であったことは史実であり、徳川家康にしたら、井伊直政は「松平直政」と呼びたいくらいの存在(意識の上では「外様衆」ではなく「親戚衆」)だったのであろう。

 

第39話 「虎松の野望」 あらすじ

天正12(1584)年12月24日。
井伊直親の十三回忌の法要が龍潭寺で行われ、井伊直虎は6年ぶりに虎松(菅田将暉さん)と再会する。

学校教育では「徳知体」が揃った人間、スポーツ界では「心技体」が揃った人間が理想の人間とされる。
井伊直政は、
・井伊直虎の徳(心)
小野政次の知
・井伊直親の体
が備わったスーパースター!
「井伊の総力が結集した存在」であり、「井伊の希望の星」である。

──虎松の中には、いろいろなお方が生きておるのじゃのぉ。(by おとわ)

欠点は、癇癪持ちで、般若顔になるところ(将来の「人斬り兵部」の片鱗)。

ドラマでは、技は松下、絵は奥山で、笛も続けているという(技は今村藤七郎が伝授したとされるが、ドラマの今村藤七郎は井伊直親と共に掛川で討死している)。井伊家は鎌倉時代より「弓の家」(鎌倉幕府の御家人として鶴岡八幡宮で流鏑馬)、歌人でもある宗良親王を受け入れた南北朝時代からの「歌の家」として知られていた。歌は浜松城に居る今川氏真に教えてもらえばいいが、父親の仇だけに会ったらどうなることか・・・。今川氏真には、別の玄関からの出入りを勧める。

井伊直政の優れた点は、外交力、交渉力、人間観察力にある。今回も築山殿に手紙を出して根回しするとか、徳川家康の笑いが気になるとか、その片鱗を見せている。これは、幼少期に親戚の家々や寺々を盥回しにされたことで身につけた「人に好かれる方法」「顔色を伺う法」「処世術」だと思われる。もちろん、帰国後に「王子様オーラ」を発揮し、井伊谷の里人たちとすぐに仲良くなることが出来た実父・井伊直親の「スケコマシ」DNAの力もあろうし、虎の目一族の茶色の目の効果もあろう。

人の名前をすぐに覚えるという記憶力も素晴らしい。記憶力は、鍛えれば伸びるとされている。『実語教』や経典の暗記で鍛えられたのであろう。同じ言葉を繰り返し唱えると、記憶を司る海馬が鍛えられて、記憶力が向上するという。鳳来寺は真言宗であるから、記憶力の向上には「虚空蔵求聞持法」が用いられる。

虎松は、南渓和尚に頼み、岡崎城の築山殿に手紙を送り、その手紙が徳川家康の元に届く。徳川家康は、側室の膝枕で、花占いをするかの如く、「井伊、松下、井伊、…」と悩む。

この側室の女優さん(佐藤玲さん)は、於大の方が連れてきた侍女の「お房」役の女優さんですから、お房が岡崎城ではなく、浜松城にいるってことは、小督局って設定かな?

・天正3年2月15日 松下虎松、徳川家康と対面
・天正6年3月8日 田中城攻め

・築山殿:長男・岡崎信康(永禄2年3月6日誕生)生母
・小督局:次男・結城秀康(天正2年2月8日誕生)生母
・西郷局:三男・徳川秀忠(天正7年4月7日誕生)生母

小督局(名は不明。「お万」か? 呼称は「おこちゃ」)は、築山殿の侍女で、徳川家康が岡崎城へ行った時にお風呂の世話をして、出来ちゃった婚(異説あり)。松下虎松が徳川家康と対面する1年前に次男・秀康(結城秀康)を生んでいる。
西郷局(名「お愛」。呼称は「昧見姫(くらみひめ)」)は、超絶美人で、田中城攻めの帰路、服部宅で出会って一目惚れ。徳川家康の寵愛を受けたので、築山殿の元侍女に毒殺されたという(異説あり)。

そんな徳川家康は、知恵者として知られる本多正信(六角精児さん)に策を授けられた。

さて、井伊万千代は、鷹匠から江戸幕府の老中になった本多正信の如く、草履取りから天下人になった豊臣秀吉の如く、「日本一の草履番」となって、出世できるのか? と煽ったところで、「徳川四天王」になることは分かっているわけで、どうやって日本一の草履番になったかというHowが見どころですね。

驚いたのは歴女として有名な朝倉あきさん。髙橋ひかるさんに似てる! 武田の間者はやめたようで、一皮むけた感じ。
※朝倉あきさんの出身地は水害を受けた福岡県朝倉市。
※朝倉あきさんのイメージは『とめはねっ! 鈴里高校書道部』の望月結希だな。ちなみに同作品の原作者・河合克敏さんは井伊谷出身で、「「大河」が町にやってきた。」を『週刊ビッグコミックスピリッツ』(2017年34号)に掲載。

もう一つ驚いたのは、「徳川」信康(平埜生成さん)の登場です。同時代史料では「松平信康」であって、「徳川信康」とする史料はないと思います。今は天正3年だと思いますが、この年の織田信長黒印状には「松平三郎」とあったかと。諏訪勝頼が武田勝頼になったのとは事情が異なりますが、親と嫡男で名字が異なる例は、戦国時代には実在したようです(たとえば、北条氏綱の子であり、後の北条氏康の名は伊勢伊豆千代丸です)。信康が2代将軍になれば、「徳川信康」と名乗ったはずですが…。名前について言えば、「瀬名姫」も、すでに「築山殿」に変わっているはずですが…。

可哀想なのは、コンコルゲン。←静岡県民にしか通じない (*>ω<*)
古舘寛治さんも、六角精児さんも、メガネしてないと、誰だか分からないよぉ。

(つづく)

 

【今回の言葉 「朝令暮改」】

【出典】 「勤苦如此 尚復被水旱之災 急政暴賦 賦斂不時 朝令而暮改」(『漢書』(24巻)「食貨志」)

【意味】 朝出した命令が夕方には改められる。命令や方針が一貫せず、短期間で変更されること。「朝令夕改」「朝改暮変」とも。

徳川家康が、正室・築山殿の意向もあり、「井伊家を再興する。井伊万千代と名乗れ」と言ってしまった以上、すぐに発言を取り消し、「やっぱり『松下』のままで」と変更はできない。
そこで、徳川家康は、本多正信の案で、「松下なら小姓、井伊なら草履番。どちらを選ぶ?」と万千代に選ばせ、松下家には、最終的に「井伊」を選んだのは自分(徳川家康)ではなく、万千代であるとアピールし、責任逃れに成功した。

 

キーワード:虎松の仕官

まずは、徳川家康との対面の場所ですが、
説①浜松城郊外(鷹狩の場である三方原で待っていた。)
説②浜松城の門前(鷹狩からの帰りを待っていた。)
説③松下屋敷(浜松城の下垂口(当時の大手口?)の前)
があります。ドラマでは「鷹狩に行く前の浜松城」としています。

次に対面の時、その場にいた人ですが、
説①虎松のみ
説②虎松と小野亥之助の2人
説③虎松と松下家の人々
時代小説では「虎松と井伊直虎の2人」のことが多いですね。ドラマでは松下常慶でした(ここは養父である松下清景に登場して欲しかった。松下清景って頼りない。倒れちゃうし…。『寛政重修諸家譜』では、松下家宗主は清景ではなく、弟の常慶になってるし…)。

■史料:『井伊家伝記』「直政公 権現様江御出勤之事」
【原文】 直政公、権現様江御出勤之為ニ、濱松松下源太郎宅江御越被成候。御小袖弐ツ、祐椿・次郎法師より御仕立被遣也。天正三年二月、初鷹野にて御目見被為遊候。早速、「可被召抱」之御上意ニて、御伴御城江御入被遊候。則、於御前御尋之上、父祖之由来具ニ令言上之所ニ被驚台聴、被仰出候ハ、「實父・直親ハ、家康カ遠州発向之隠謀露顕故、氏真傷害為致、家康カ為に命を失ひ、直親カ実子、取立不叶」之旨、則、「松下を相改、直親之家名・井伊氏に可成」旨、又、権現様御童名「竹千代」様之「千代」を被下、「千代、万代」と御祝、「虎松」を改て「万千代」と御名被下、直政公御供仕候小野亥之肋ニ「万福」と申名被下、「万千代、万福」と御祝被為遊被下、「千秋万歳」目出度御祝ひ、御上下御拝領、即座ニ三百石被下候事ハ、天正三年直政公拾五歳之節也。
【大意】 井伊直政は、徳川家康に仕えるために、(実母の再婚相手である)浜松の松下清景の家へ引っ越した。(お目見えの時に着る)小袖を2着、祐椿尼(井伊直虎の実母)と次郎法師(井伊直虎)が仕立てた。天正3年2月15日(1575年4月6日)の「初鷹野」(その年の最初の鷹狩)の時に会った。(徳川家康は一目で気に入り)「召し抱える」と言い、(井伊直政は)徳川家康と共に浜松城に入った。身元を聞かれたので、父親のことなどを詳しく言うと、徳川家康は聞いて驚き、「そなたの実父・井伊直親は、儂が遠江侵攻の準備をしている時に、連絡を取り合っていた事が今川氏真に知られて誅殺されたのじゃ。儂のために命を失った井伊直親の実子と聞いたからには、取り立てないわけにはいかない」と言い、「『松下』を井伊直親の家名『井伊』に戻すがよい」と井伊家を再興し、さらに、「『千代(ちよ)』に『万代(よろずよ)』は語呂もよく、目出度いから、『虎松』から『万千代』に改名するように」と、自身の幼名「竹千代」の「千代」を下さった。徳川家康は、井伊直政の御供の小野亥之肋には「万福」という名を与え、石を下さったというのは、天正3年、井伊直政が15歳の時の事である。

※井伊直政の幼名「虎松」:すでに幼名「虎松」があるのに、幼名「万千代」と名を授けられるとは奇妙な話である。(とはいえ、亥之助も万福という幼名を授けられている。「幼名を授けられた」というより、「幼名を変えさせられた」と考えるべきであろう。)
他書では井伊直政の幼名を「万千代」「万千代丸」とし、「虎松」という名は出てこないので、『井伊家伝記』の著者の創作とも。井伊直政の幼名を「虎松」に設定した理由は、①井伊21代直宗、井伊22代直盛の幼名が共に「虎松」であるので、井伊24代直政の幼名も「虎松」として、「生まれた時に次の宗主と決められた」としたいから、②「万千代」という名は、徳川家康の幼名「竹千代」に偶然(?)似ていたので、徳川家康に与えられた名としたいからだと想像される。(幼名が「万千代」なのは偶然ではなく、井伊直政が徳川家康の隠し子だからとも。)
また、幼名は「虎松」で、徳川家康が授けた「万千代」は通称であり、「井伊家では15歳で元服」という慣例により、この時に元服して「井伊万千代直政」と名乗ったとする説もある。

■史料:『徳川実記』「東照宮御実記」
【原文】 三年二月頃御鷹がりの道にて、姿貌いやしからず只者ならざる面ざしの小童を御覧せらる。これは遠州井伊谷の城主・肥後守直親とて今川が旗本なりしが、氏真、奸臣の讒を信じ、直親非命に死しければ、この兒、三州に漂泊し、松下源太郎といふものゝ子となりてあるよし聞召、直にめしてあつくはごくませられける。後次第に寵任ありしが、井伊兵部少輔直政とて、國初佐命の功臣第一とよばれしはこの人なりき。
【大意】 天正3年2月頃、鷹狩の時、路傍に気品あふれる顔立ちの少年がいた。(「誰か、この者を知っておるか?」と聞くと、松下常慶(?)が)「この少年は、今川の旗本であった井伊谷城主・井伊直親の子だが、今川氏真が奸臣・小野政次の讒言を信じて井伊直親を誅殺したため、この少年は、三河の鳳来寺へ逃げ、その後、松下清景の養子となった」と言ったので、それを聞いて、直ぐに召し抱え、厚く育んだ。万千代は、次第に徳川家康に気に入られて任務を任され、井伊直政と名乗る「日本一の佐命立功(天子に仕え、建国の手助けをして功績を上げること)の家臣」となった。

祖山和尚(龍潭寺九世住職・祖山法忍)が書いた『井伊家伝記』と江戸幕府の公式文書『徳川実紀』では、少しニュアンスが異なるが、鷹狩の日に初めて会ったのは史実とみてよいようです。
虎松は、三河武士の子ではなく、しかも15歳と若かったのですが、「井伊直親の子」ということで特別な待遇を受け、①「井伊万千代」という名、②300石の領地、③16人の同心衆(家臣)と目付坊主(金阿弥、後の花居清心斎)を付けられたそうです。この16人の同心衆の名については、どんなに調べても、
・小野亥之助→万福→朝之
・大久保與兵衛
・八股甚左衛門
の3人しか出てきません。もしかしたら、後世、「十六神将」にあやかって16人としたのであって、実際はこの3人だけだったのかも?

初お目見え(対面)の日に、徳川家康が1年で最も気分がいい「初鷹野」の日を選び、その日がいつであるか知っているとは、この対面の背後には松下氏の存在があると考えられます。(養父ですから、養子のためにベストを尽くすのは、当然といえば当然です。)
松下家の慣習は知りませんが、井伊家では、初代共保から23代直親までで、直親以外は15歳で元服をしているので、「15歳でのお目見え」に関しては、養父・松下清景は元服を意識して、徳川家康に「良い烏帽子親を紹介して欲しい」「いい名を付けて欲しい」という気持ちがあったと思われますが、元服の話は出ず、「万千代」という幼名を付けられて「あれ?」でしょうね。

「作品名:出会い(であい)
天正3(1575)年2月15日、松下虎松(のちの井伊直政)15才が徳川家康公に初めて出会った場面です。
次郎法師(井伊直虎)は井伊家再興のため、虎松を浜松城下におくり、継父・松下源太郎の屋敷に住ませ、家康公に仕える機会をさぐりました。美しい小袖を虎松に着せ、鷹狩りに出た家康に引きあわせることにしたのです。
当時、頭陀寺城主松下一族の浜松屋敷は浜松城の霜垂口の南側一帯(現、尾張町)にありました。ジオラマは、次郎法師が物陰から見守るなか、虎松が霜垂口で家康公に声をかけられている情景にしました。家康公が虎松をみつけた時のさまは「路傍において一童子を見たまふ。その容貌、端麗にして英雄の相あり」(『大三川志』)と記されています。
家康公は虎松を浜松城に連れ帰り、井伊直親の実子であると聞いて、「松下でなく苗字を井伊とせよ。わしの幼名・竹千代にちなんで、井伊万千代と名乗れ、小姓にする」と、即座に領地三百石と武士の礼服である裃(かみしも)を与えました(『井伊家伝記』)。万千代の領地は、まもなく井伊谷3千石に加増され、井伊家は再興されたのでした。
◆制作 山田卓司(情景作家、浜松ゆかりの芸術家・浜松やらまいか大使)
◆監修 磯田道史(浜松市文化顧問)」(「出会い」案内板)

「出会い」(制作:山田卓司/監修:磯田道史)

《松下氏》 ※『寛政重修諸家譜』による。

松下連長─(安秀)─連昌─安綱─重綱…

■連昌の子
・清景(きよかげ) 源太郎、豊前。徳川家康→井伊直政家臣。
・清綱(きよつな) 右衛門。井伊直政家臣。
・信行(のぶゆき) 飛騨
・安綱(やすつな) 蔵王、入道号常慶。徳川家康家臣。
・女子 松下直綱室
・女子 松下範久室
・女子 松下景綱室
・女子 松下之綱室
・昌信(まさのぶ) 新三郎
・元綱(もとつな) 河内。本多忠勝家臣。

昨年発見された『守安公書記』には、
・井伊直政の実母は松下源左衛門(不染、不善)の元にいた。
※松下源左衛門:他書では「不全」。徳川家康の遠江侵攻時には、引馬城開城の交渉人に選ばれた。
・お目見えに同席したのは、松下右衛門・河内・常慶三兄弟で、取次は本多忠勝、下準備と手配は松下家の人々。
と松下家主導であったと記されているようです。(筆者不見)

『井伊家家譜』「直政」の15歳の項には「元服し、結婚もしたであろう」と思ったのか、花との結婚の話が載っていますが、結婚はもっと先でしょう。

■史料:『井伊家系譜』「直政」
【原文】
天正三乙亥年
一、直政公十五歳之時、権現様、御鷹野之節、於路辺、初而致御目見。直に御城江披召連、依上意、奉仕候。
直政、父祖之由来、具達上聞く、「自今、可復井伊氏」旨、被仰付、且名を万千代与御改被下候。井伊谷ハ、先祖歴代之旧地に付、被下之(領知高不詳)。其後、井伊谷三人衆、菅沼次郎右衛門元景・近藤石見守秀用・鈴木平兵衛重好を与力ニ被仰付候。
一、権現様御養女(実松平周防守源康親女)御縁約被成下、従浜松井伊谷江入輿有之候、年月不詳。
【大意】 天正三年の出来事。
①直政が15才の時、徳川家康が鷹狩の時、路傍にて初お目見え。直ちに浜松城へ召し連れ、上意(徳川家康の意見)により出仕した。
直政が父親や先祖の事を話すと、徳川家康はそれを聞いて、「今から『井伊氏』に戻れ」と仰せ付けた。また、名を「万千代」と改めさせた。そして、井伊谷は、先祖代々の土地であるとして与え(石高不明)、その後、「井伊谷三人衆」(近藤・鈴木・菅沼)を与力(寄騎)に付けた。
②徳川家康の養女(実父は松平康親)・花と婚約された。花がいつ井伊谷へお輿入れしたかは不明である。

『直政公御一代記』の記述は、『井伊家系譜』よりも詳しく、他書と異なる記述もあります。万千代は、「井伊(今川家臣)」と名乗るのはまずいと思ったのか、名に関係なく実力で出世しようと考えたのか、「井伊」の名を伏せていたというのです。

■史料:『直政公御一代記』
【原文】 天正三乙亥、万千代様、十五歳、浜松之近辺江御野遊ニ御出被遊候処、権現様、御鷹野ニ被為出、万千代様ヲ被遊御覧、「何者之倅子ニ而候哉」ト御尋被遊候処、「浪人者之倅子ニ而御座候」由被仰上候。「可被召抱候」由上意被遊依、御御鷹野場直ニ浜松之御城江披召連、御台所前ニ当分御部屋ヲ被進、御召仕之衆、上下、拾六人御附。
金阿弥ト申坊主ヲ昼夜御附置被遊。此金阿弥、後ニ「花居清心」ト名ヲ改、直政公江御奉公。御知行三百石被下置候。直政公御逝去之後、直継公御代、御暇申上、在所ニ引籠申候。直孝公御代ニ、度々御月見ニ参上仕候。
権現様、両度迄、万千代様江御先祖御尋被遊候得共、「名字モ無御座浪人之倅子ニ御座候」ト被仰上候。去時、又、逢而御尋ニ被遊候ニ付、「井伊肥後守倅子ニテ御座候」由、被仰上候。上意ニ「兼テ左様ニ被聞召候得共、其方、直親ヲ御聞不被遊候故、御尋被遊候。直親倅子ニテ有之間、井伊ヲ名字可申候」。其上、井伊谷者、先祖歴代之為旧地間、当分二千石被下由、又、井伊谷三人衆、近藤勘助・鈴木平兵衛・菅沼次郎左衛門、与力ニ被仰付候。
【大意】 天正三年。万千代が15才の時、浜松付近に野遊びに行くと、徳川家康が鷹狩にやってきて、万千代を見て、(徳川家康が)「誰の子か?」と聞くと、(万千代は)「浪人の子である」というので、(徳川家康は)「(主君がいない浪人の子であるなら)召し抱えよう」と言い、(徳川家康は、万千代を)鷹狩の狩場から直接浜松城へ召し連れ、(小姓に取立て)台所の前にさしあたって部屋を与えて、召使、裃、同心衆を16人付けた。
「金阿弥」という目付坊主(小姓の下で衣食の世話をする御城坊主。井伊直政の家庭教師とされる)を付けた。この金阿弥は、後に「花居清心」(「花井氏」であるが、「井伊氏」に憚って「井」を「居」に変えた)と改名し、井伊直政に仕えた。領地として300石が与えられた。井伊直政が死んだ井伊直継の代に隠居して本拠地に引き籠った。井伊直孝の代には、月見の宴に度々参上したという。
徳川家康は、再度、万千代へ先祖(出自)を聞いたが、「名も無き浪人の子です」と答えた。ある時、万千代と偶然会ったので、尋ねると、「井伊直親の子です」と言った。すると徳川家康は、「以前、井伊直親の子だとは聞いていたが、そう答えなかったので聞いてみた。井伊直親の子であるならば、『井伊』と名乗れ」と言い、その上、井伊谷2000石を与えられ、「井伊谷三人衆」(近藤・鈴木・菅沼)を与力(寄騎)に付けた。

15歳と若く、まだ戦功の無い旧・今川家臣の子に最初から「300石」「16人の家臣」とは破格の扱いですが、徳川家康にしたら、井伊は「松平」と呼びたいくらいの存在(「外様衆」ではなく「親戚衆」)だったということでしょうか? それとも、裏で、井伊直虎、松下家、今川氏真などの後援があったのでしょうか? 徳川家康の御落胤説(鈴木家文書)もありますが…。徳川家康は、源頼朝を尊敬していて、『吾妻鑑』を熟読していたといいますから、そこに出てくる御家人・井伊氏(「日本八介」の1人「井伊介」)には、一目置いていたのでしょう。

※NHKの番組で、アナウンサーが、小和田哲男氏に、「井伊直政が草履番だったというのは史実ですか?」と質問したところ、「そういう記録は残っていない。ただ、すぐに小姓ということはあり得ないので、小姓になる前に草履番だった可能性はある」と答えられていました。

 

キーワード:松下屋敷

「頭陀寺の松下屋敷」(静岡県浜松市南区頭陀寺町)は、豊臣秀吉が奉公していたことで有名ですが、同時期に真田八郎(後の石川五右衛門)も奉公していたそうです。

「頭陀寺城跡」案内板(地図の右下の水堀で囲まれているのが松下屋敷)

※松下兄弟(清景・常慶)が住んでいた「引馬の松下屋敷」(静岡県浜松市中区尾張町)は下垂にありました。引馬城の下垂口(霜垂口)を徳川家康浜松在城時の浜松城の大手口とする説もあります。一等地ですね!

「この地は井伊直政公(虎松)ゆかりの地である。直政公は幼くして戦乱で父をうしなった。母は直政公を守るため、ここ頭陀寺(松下屋敷)から出た松下源太郎清景と再婚。直政公は松下姓を名乗った。松下一族は修験(山伏)とつながりが深く、徳川家の隠密も出した。直政公は鳳来寺(愛知県)やこの地で武士のたしなみを学び、一五七五(天正三)年、十五才で大河ドラマ「おんな城主直虎」の主人公・(井伊)次郎法師の計らいで、徳川家康にお目見えし、側につかえる小姓となった。翌年、直政公は武田軍の忍びに襲われた家康公の危急を救い、井伊谷に三千石を与えられ、井伊家再興を果たした。その後も、家康公最愛の家臣として天下取りを手伝い、譜代大名では日本最大の十八万石の城主となった。」(「松下家の養子となった頃の井伊直政公」現地案内板)

「松下家の養子となった頃の井伊直政公」(頭陀寺)

※父を失ったのは、戦乱ではなく、小野氏の讒言による誅殺とされています。
※引馬の松下源太郎は松下村出身で、ここ頭陀寺出身ではないとされています。

 

キーワード:徳川家康の幼名「竹千代」

天文12(1543)、称名寺(時宗)で連歌の会が行われ、松平広忠(徳川家康の父)は、神から夢の中で告げられた発句「神々のながきうき世を守るかな」に、「めぐりはひろき園のちよ竹」と脇句を付けました。この句から、第十五世・其阿和尚が、徳川家康の幼名を「竹千代」としたと伝えられています。

「夢想之連歌」碑(東照山稱名寺)

この「夢想之連歌」の会で使用された文具が収蔵庫に保管されています。

「松平広忠の連歌の切並びに筆具
附 御連歌の図
称名寺は西三河の文化中心の一つで、連歌がしばしば興行された。徳川家康の父松平広忠は、たまたま、天満宮より連歌発句の感夢があり、天文十二年(一五四三)称名寺において、夢想の連歌を興行し、脇句をつけた。この時の連歌一巡を書き上げたのが、広忠夢想の連歌の切である。この脇句り住侍其阿が家康の幼名を「竹千代」と差上げた。なお、文台、硯箱は御名披きの連歌興行の折に拝領したものである。」(収蔵庫の案内板)

東照山稱名寺の境内にある「大浜東照宮」の由緒書

御由緒
(前略)
東照山称名寺は、もと天台宗で、暦應二年(一三三九)に時宗に転じた。開山声阿弥陀仏は、遊行二祖他阿真教上人の弟子である。三代眼阿の延文四年(一三五九)、大檀那和田氏の庇護により二十一間四面と伝える壮大な本堂と諸堂舎が完成し、東海時宗の一大拠点として繁栄した。
徳川家との関係は、十五世紀前半に始まる。松平初代親氏公法名徳阿弥が、父有親公法名長阿弥とともに来住し、有親公は当寺で逝去したという。家康公の曽祖父信忠公は、寺領六町五反歩を寄進し、息女東姫法名東一房は、当寺に葬られた。父広忠公は、天文十二年(一五四三)二月二十六日の当寺での連歌会で発句「神々のながきうき世を守かな」に「めくりはひろき園の千代竹」と脇句をつけ、これが家康公の幼名竹千代の由来と伝える。
(後略) ※句読点がなかったので、付けました。

 

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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