井伊谷炎上

井伊家を訪ねて

急死した武田信玄の「宝篋印塔」と「信玄塚」

更新日:

──何一つ渡さぬか…よかろう。では何一つ取るまい。全ての家屋敷を焼き払うてしまえ!(by 武田信玄)

井伊谷の住民が貴重品を持って「川名の隠し里」へ避難してしまったため、「乱取り」が出来なくなった武田信玄が怒って井伊谷を焼き払い、井伊谷は焦土と化しました!

──何もかもが失われた。

いや、貴重品は持ち出しているし、何よりも命が残っている! 誰一人として死んでいない!
焼き討ちを「リセット」「新しい井伊谷の始まり」と考えて頑張るしかない!

──みんなして前よりいい村にしまい。のぉ!

そういえば、『風と共に去りぬ(Gone with the Wind)』(「風」(南北戦争)と共にアメリカ南部白人達の貴族文化社会が「消え去った」)にも火事のシーンがありましたね。

──After all, tomorrow is another day.(by Scarlett O'Hara)

ヒロインの最後の言葉「結局、明日は別の日なのだから」は、「明日は明日の風が吹く」と訳され、映画公開当時、大流行! スカーレット・オハラの台詞ではありますが、「今日あった事で悔やむな。起きてしまったことは仕方がない。切り替えて、明日から頑張ろう。根拠は無いけど、明日はきっと上手くいくさ。Take it easy. Let it be.」という意味の諺です。(現 在発売中のDVDでは、「明日に望みを託して」と訳されてるそうです。)

ご年配の浜松市民は、太平洋戦争の「浜松大空襲」(昭和20年(1945)6月18日)で、市街地の大半が焦土と化したことを思い出されたことでしょうね。あの時は、奇跡的に3本のプラタナスが焼け残りました(現在は「市民の木」と命名されて、緑化推進センター、浜松駅北口広場、浜松城公園に移植されている)が、井伊谷でも龍潭寺の松岳院が焼け残りました。

市民の木(浜松城公園)

浜松市民が3本のプラタナスに支えられ、「やらまいか精神」を発揮して、浜松創業のYAMAHA、HONDA、SUZUKIといった企業を世界的企業に成長させたように、井伊谷でも松岳院横のナギの木(ちらっと写ったけど、樹高50cmくらいでしたね)を見て、「どちらが早く、大きく育つか競争だ」と、復興作業が進められたことでしょう。

 

第38話 「井伊を共に去りぬ」 あらすじ

天正元年1月3日、井伊谷炎上。武田信玄は、1月7日まで(異説あり)刑部砦にいましたので、南渓和尚は、直談判に向かいました。

ここで、略年表で史実(通説)を確認しておきます。

元亀3年(1572年)

10月3日 武田信玄、甲府から出陣(西上作戦)
10月13日 一言坂(磐田市)の戦い
10月15日 匂坂城(磐田市)の戦い
10月16日~12月19日(11月30日?) 二俣城(天竜区)の戦い
10月22日 柿本城開城→仏坂の戦い→井平城落城
12月22日 三方ヶ原(北区)の戦い
12月23日 武田信玄、三方ヶ原で首検分
12月24日 信玄本隊、刑部砦(北区)に着陣

元亀4年/7月28日から天正元年(1573年)

1月3日 山県隊、井伊谷蹂躙(龍潭寺焼失、高瀬誘拐)
1月7日 信玄本隊、刑部砦を出立
1月11日 野田城(新城市)を包囲(信玄本陣は吉水)
2月9日 武田信玄、鳥井半四郎に「信玄砲」で撃たれる?
2月16日 野田城、開城。武田信玄、長篠城(新城市)へ。
3月9日 武田信玄、鳳来寺(新城市)で延命祈願後、出立。
3月10日 人質交換(高瀬帰還)
3月14日 寿桂尼二回忌
4月12日 武田信玄、阿智村駒場で没
7月6日 井伊谷、松尾城主・小笠原信嶺領となる。
8月 徳川家康、井伊谷を取り返す。

天正2年(1574年)

12月14日 井伊直親13回忌法要。虎松、鳳来寺より帰還。

「龍潭寺の井伊家墓所」(中央と左半分)

【武田軍山県隊による井伊谷蹂躙】 「龍潭寺の井伊家墓所」にしても「歴代住職の墓所」にしても、他の寺と違うのは、墓石が横一列ではなく、コの字型に並んでいることである。「歴代住職の墓所」の中央には石組みがあるが、「龍潭寺の井伊家墓所」の中央には塚があり、「貴重品が埋められているので踏むと罰が下される」と言う。
この塚の正体について、私は、臨済宗に改宗した時に不要となった経典を埋めた「経塚」だと考えているが、伝承では「武田軍が攻めてきた時に、焼失しないように貴重品を埋めた塚」だという。(貴重品であれば、武田軍が去ってから掘り返して取り出すはずで、塚はなくなるはずだが。)また、「開山過去帳」に焦げ跡があるが、武田軍による放火の際、持ち出す時に焼けたのだという。そういう貴重品は土に埋めればよかったと思うのであるが…。

──元気だった武田信玄が突然死んだ。

武田信玄の死因に関しては、次のように諸説あります。

①【病死】持病の労咳(肺結核)(「御宿監物書状(写)」)、肺炎
②【病死】胃癌、あるいは、食道癌(『甲陽軍鑑』)
③【病死】日本住血吸虫病
④【毒殺】織田信長に寝返った側近による毒殺
⑤【銃撃】野田城攻めの際に撃たれる。(『徳川実記』)
⑥【仏罰】鳳来寺の秘仏・峯之薬師像を出させて抱きついたから。

通説は「胃癌」ですが、武田信玄は薬好きで、朝鮮人参などの漢方薬を好んで飲んでいたので、毒を盛るのは、(高瀬が近藤康用にやろうとしたように、)その気になれば、簡単だったようです。ドラマでは、薬を飲んでいたのは近藤康用で、元気な武田信玄は、お酒を飲んでいました。元気な武田信玄の突然死(血を吐いて死亡)の理由としては、
①「天」になりたいと願ったことによる天罰
②南渓和尚による毒殺
③ひさに憑依した寿桂尼の霊による呪殺
が考えられます。

──冥府より、お迎えに参りました。(by 寿桂尼の霊)

「ひさ」だけに、寿桂尼、お久しぶりの登場です。今川氏真の笙の音に誘われて現れたのでしょうか?(ちなみに、菩提寺の龍雲寺は、武田信玄に焼かれ、墓も破壊されましたので、成仏出来ていないのでしょう。)

武田信玄が死んで、井伊谷では、武田勝頼のポテンシャルが未知数の武田に付くか、武田信玄に負けた徳川家康に付くか、悩んでいました。究極の決断の時が迫っていました。(武田信玄は影武者をたて、死を3年間隠すように言ったけど、龍潭寺の情報網は凄い! すぐばれた! というか、武田信玄が死んだ場所って、刑部砦なの?)
あの、宗良親王ですら、井伊氏に匿ってもらうか、足助氏に匿ってもらうかで悩んだようです。武田か、徳川か…難しい。

一筋に 思ひ定めぬ八橋の
蜘蛛手に身をもなげく頃かな

宗良親王の歌(井伊谷宮)

【ゲリラ戦】 武田信玄が刑部砦にいた12/24~1/7の間、近藤秀用(康用の子)は、武田軍にちょこちょこ戦を挑んだようです。

■『雨夜のすさみ草』
【原文】 信玄は刑部村に陣せしが、其将・山県三郎兵衛は、引佐郡伊平村に至り、徳川の属城・小屋山城を攻めて陥れ、守将・井伊飛騨守を討取り、遂に此に営し以て年を迎ふ。此に於て、其兵の所在にある者、大野村より、浦川村より、日日に帰来する者、腫を接しける。井伊谷衆・近藤登之助秀用、これを窺知り、長瀬與兵衛を伴ひて、伊平村の山奥に潜匿し、甲州兵の過ぐるを待ち、隙を窺ては躍り出で、殺戮すること数日止まず。渋川・別所二村の境にて一人、田沢村サク岩にて一人、的場村練垣にて一人、黒田村黒松にて一人、狩宿村陳左道にて一人、四方浄村田代川にて一人、其他所所にて惨殺しければ、山県は登之肋の所為とは知らず、皆な以て農民の暴行となし、悉く山中村農民の名字を記し、厳に検断を加へ、魁を捕へて誅罰せんとせしが、たまたま石野竹助といふ者あり。伊平小屋山より脱走し、吉田村に隠匿する事あり。人の告ぐる者ありて、山県之を知り、伊平に召致して誅戮し、其の所為として農民をば免しけり。其後、登之助も之を聞きて曰く、「我二人の故を以て、冤を無辜(むこ)の農民に披らしむるは本意にあらず」と、即ち榜を立てて武田の兵を殺す者は、近藤登・長瀬與兵衛なりといふ。或は矢文を送るともいふ。山県これを見て、始めて浜松勢の所為なるを知り、全く百姓捜索を止めたりとぞ。
【大意】 近藤秀用と長瀬与兵衛は、ゲリラ戦で武田軍の兵を1人ずつ殺したが、山県昌景に農民がやったと思われ、無実の農民が1人殺されたので、「やったのは我々だ」と看板を立てた。(ドラマでは、近藤秀用と野伏(駆り出された農民)がゲリラ戦を行い、近藤康用もこれに助勢したとしている。)

【信玄来襲、その後】 井伊谷は武田領になり、松尾城主・小笠原信嶺に与えられた。松尾といえば…井伊直親がまだ「亀之丞」と呼ばれていた時代、嶋田村(松尾)の代官の娘との間に井伊吉直を儲けている。井伊吉直が松尾の代官の孫であれば、当然、小笠原信嶺の家臣だったろうから、井伊吉直は、主君・小笠原信嶺について、父の故郷・井伊谷へ来た?
なお、井伊谷が武田領であったのは約半年間であり、8月には、徳川家康は井伊谷を取り返し、井伊谷は再び徳川領となった。

龍雲丸が、
「城も家も無くとも、あんたはここの城主なんだよ」
と言ったので、だからタイトルは「おんな城主 直虎」のままでいいのかと思ったけど、虎松が登場して、
「おや、どうかなされましたか、おとわ様」
って…「おとわ様」・・・虎松にとって、直虎は「殿」でも、「城主」でもないみたい。もしかしたら、井伊家を潰した「ただの農婦のおとわ」であって、尊敬すべき人物でも、言いつけを守るべき人物でもないと考えていたら・・・波乱の予感。

(つづく)

 

【今回の言葉 「天下布武」と天道思想】

前回、
・武田信玄の旗印「風林火山」
・徳川家康の旗印「厭離穢土 欣求浄土」
・井伊直政の旗印「八幡大菩薩」
について触れた。

織田信長の旗印は「永楽銭」で、招きに「南無妙法蓮華経」の髭題目が付けられた物であり、「天下布武」ではない。ちなみに、「天下布武」とは、「武(の七徳)をもって天下を治める」ということである。「武」は、「戈」(「戦い」を象徴する武器である「ほこ」)と「止」から成る。戦いを止めるのが、「武」である。平和な世にするのが、「武」の持つ7つの徳である。

織田信長像(レプリカ)

■『春秋左氏伝』「宣公(十二年)」
【原文】 武、禁暴、戢兵、保大、定功、安民、和衆、豐財者也。此武七德。
【書き下し文】 武は、暴を禁じ、兵を戢め、大を保ち、功を定め、民を安んじ、衆を和らげ、財を豐かにする者なり。此れ武の七德。

■『政秀寺古記』
【原文】 御迎来るや否、澤彦岐阜へ進発し給ふ。小侍従が宿所へつき給ひて登城候へば、信長卿事の外御感にて曰ふは、「我、天下をも治めん時は、朱印、入るべく候。兼て御朱印の字、頼ませらるに候」との鈞命なり。角て澤彦再三拒辞せられ候へども、堅く請ふ。依て、やめえずして、「布武天下」の字書付進上されけり。信長卿曰は、「寒天の時分、滞在候て、朱印の字調ひ候事、思召の儘の字なり。しかれども、文字の数四つ字はいかが候」とぞ御意なり。澤彦曰は、「大明国は、皆、四の字なり。日本にて四つ字を嫌ひ申す事、自己の惑説に候」とぞ。信長卿、事の外御氣色喜び給て、花井伝右衛門を召され曰ふは、「朱印の字、澤彦へ対談いたし、黄金を以て判屋に彫せ候へ」と仰せ付けられ候。花井油断なく判屋を呼び寄せ、ほらせ候て、早速出来して御目に掛け候へば、即ち朱にて押し、墨にて押し給へども、うすくつき候により、又、銅金交へてほり候へて、をし候へば分明に候とぞ。
【大意】 迎えが来たので、沢彦和尚は、織田信長が待つ岐阜へ向かった。登城すると、織田信長はワクワクした。天下を治めた時に必要となる朱印に刻む文字を頼んでおいたからである。沢彦和尚は、「布武天下」と書いて差し出した。織田信長は、「四文字はよくないのでは?」と言うと、沢彦和尚は、「中国では四文字です。日本では四が嫌われていますが、四=死とは、俗説に過ぎません」と言うので、早速、花井伝右衛門を呼び、「布武天下」(天下に武の七徳を広める)を「天下布武」(七徳ある武で天下を治める)と変えて純金の印を作らせた。すぐに出来たので、朱をつけて捺したが薄かった。試しに墨をつけて捺したが、やはり薄かった。そこで、銅と金を混ぜて作り直させると、くっきりと捺せた。

南渓和尚「御舘様は、来世、生まれ変わるとしたら、何に生まれ変りとう御座いますか? 朝な夕なに祈願して差し上げましょう」
武田信玄「生臭のくせに(笑)。儂は…そうじゃのう…お天道様がよいかのう。あちこちに睨みを利かせ、天地(あめつち)を調略し、どこもここも恵まれた土地とする」
南渓和尚「真の『天下布武』にございますなぁ」

徳川家康や織田信長の天道思想(全ては天が決める)を超え、武田信玄は、天そのものになろうとしたという。そうなれば、武田信玄の声は天の声となり、まさに「天による支配」(天下布武)であると南渓和尚はお世辞を言った。もしかしたら、お世辞と見せかけて、「それは、それは、『武の七徳をもって天下を治める』ではなく、文字通り『武力をもって天下を治める』で御座いますなぁ」と諌めたのかもしれないし、心の中では「天になると? この罰当たりが!」と言ったと想像される。

「神道(しんとう)」でも「天道(てんとう)」でも「恥ずかしくない生き方をしろ! 神(天)が見ているぞ! 道から外れると罰を与えられるぞ!」と言うけれど、「恥ずかしくない生き方(道)」というのが、どういう生き方(道)なのか分からない。キリスト教には『聖書(バイブル)』があるが、神道にも天道にも明文化されたものがない。一説に、明治天皇の勅語(天の声)である「教育勅語」がバイブルだという。

■天道思想 (『日本思想史辞典』山川出版社)
「戦国・織豊期の流行思想。「天道」の語は主として合戦の勝敗、政治権力の変動などを決定する絶対者の意味で用いられた。ただし、天道のつかさどる因果律には人間の善悪に対する厳正な応報と、超越的に人間の禍福を左右する不可測の応報があり、両者が一体となってダイナミックに戦国大名の生き方を支えていた。こうした倫理的側面と運命的側面が表裏の関係で結びついていた天道思想は、必ずしも政治的・社会的秩序の確立と維持に貢献しうるものではなく、むしろ実際には現状打破のエネルギーを提供し、いかなる事態もそのまま是認するイデオロギーとして、下剋上の正当化に利用されることが多かった。しかし天下統一事業が進展するとともに、天下人となった織田信長・豊臣秀吉らは特に天道の応報の倫理的権性を強調し、天道思想によって支配権の伸張・擁護を図っている。なお「天道」は、元来儒教・仏教・道教・陰陽道・兵家思想の用語であったばかりでなく、当時の吉田神道やキリシタン思想でも独特の意味で使われており、天道思想の流行の背景には前代来の三教一致論の流布が考えられる。」

【参考文献】
・神田千里『宗教で読む戦国時代』(講談社選書メチエ)
・小林慧子「太田牛一『信長公記』における信長像」
http://www.ritsumei.ac.jp/acd/cg/lt/jl/ronkyuoa/AN0025722X-038_019.pdf

 

キーワード:南渓和尚の直談判

──徳川・織田連合軍が武田軍に負けた。

この事実は、多くの人々に衝撃を与えました。徳川から武田に寝返る国衆や武将が続出しました。
武田に変えるか、このまま徳川か──おとわ(井伊直虎)は、作戦を立てました。井伊谷は、
・武田信玄が優勢な時は、井伊が治める。
・徳川家康が優勢な時は、近藤が治める。

※井伊谷を井伊が治めることになったら、誰が領主(宗主)になるのでしょう? 井伊直虎は、井伊家の再興を断念し、虎松が松下虎松となった今では、井伊家を再興出来るのは、井伊直平の子である南渓和尚だけですよ?

「南渓瑞聞頂相」(龍潭寺2世住職・南渓瑞聞の肖像画)

南渓和尚が交渉に、刑部砦の武田信玄のもとに向かいました。

──「井伊」の家名を復すると共に、我等に、この地を、ご安堵願えませぬでしょうか?(by 南渓和尚)

南渓和尚と武田信玄は気が合ったようで、仲良くお酒を酌み交わしました。

──来世、生まれ変わるとしたら、何に生まれ変りとう御座いますか? 朝な夕なに祈願して差し上げましょう。(by 南渓和尚)

「お近づきの印に、毎日、あなたのためにお祈りしますよ」とサービス、サービス! でも、私には、「あなたはもうすぐ死ぬので・・・」と聞こえました。鈴木重時の時のように、死相が見えたのでしょうか? それとも、武田信玄の背後に悪霊・寿桂尼が見えたのでしょうか? 私には、お酒に毒を入れることに成功したので、こう言ったように思えてなりません。(武田信玄の死には、毒殺説があります!)

【南渓和尚の直談判の元ネタ】 ドラマでは省略されましたが、柿本城の玄賀和尚の直談判による無血開城が元ネタでしょう。柿本城が武田軍(山県隊)に攻められる直前、満光寺住職・玄賀和尚が大将・山県昌景に直談判したので、無血開城となりました。ただし、史実は、玄賀和尚が考え、自ら進んでの直談判ではなく、井代領主・菅沼定成が、山県昌景に、「兵は1人も死なせず、1人でも多い方がいいから、戦わずして城を取れれば、それに越したことはない」と提案し、ネゴシエイター(交渉人)として玄賀和尚が選ばれただけのようです。

※菅沼定成:田峯菅沼定広の五男。八右衛門、常陸介。別名:定仙(さだのり)。本人より、養子の徳川家康家臣・菅沼定政(さだまさ)の方が有名である。菅沼定政の本名は、明智定政(明智定明の子。菅沼定政は母の弟)である。別名「菅沼藤蔵」。神君伊賀越えのメンバーである。文禄2年(1593)に土岐姓への復姓が認められ、土岐山城守と名乗った。これにより、明智家が土岐宗家となった。豊臣秀吉は、明智光秀の一族を根絶やしにしようとしたが、徳川家康は登用している。これは「徳川家康は寛大だから」「徳川家康は出自に拘らず能力の高い人を登用するから」という解釈に留まらず、「本能寺の変は、明智光秀と徳川家康の共謀だから」「徳川家康の側近の天海の正体が明智光秀、あるいは、明智氏の誰かだから」とも。

風林火山騎馬隊の大壁画とメッセージボード(国道153号線)

メッセージ
一般国道153号線(三州街道)は、中馬街道、塩の道として多くの歴史を作ってきました。
特に戦国時代においては多くの武将が全国制覇を夢みて、その軍勢を動かしました。
元亀三年甲斐の国主武田信玄は、3万5000の軍勢を率い、三方ケ原にて徳川家康を打ち破りましたが、夢なかばにして病に倒れ、この地において没したといわれております。
薄れゆく意識の中で、信玄は京に押し上がる風林火山の旗を見たと言われております。
私達は、一般国道153号線の整備にあたり、この信玄の夢を再現しました。
楽しいドライブのひととき、信玄のロマンにタイムスリップしてみてはいかがですか。
(国土交通省「風林火山騎馬隊の大壁画」現地案内板)

信玄塚 宝篋印塔の由来
◆信玄塚
武田信玄は、三河国野田城(愛知県新城市)攻略中に肺肝を患い、田口・津具を経て甲斐国へ引き返す途中、天正元年(元亀四年・一五七三)四月十二日、五十三歳にて、ここねばねの上村において他界された。(甲陽軍鑑より)その折、風林火山の旗を横にしたのでこの地を横旗という。
信玄公が葬られているとされる信玄塚は村史跡に指定されており(昭和五十六年指定)、現在の国道一五三号線沿いの風林火山騎馬隊の大壁画の東方国道敷に埋没されている。
◆宝篋印塔
寛文年間(一六六一~一六七三)の頃、信玄公百年目の遠忌に際し、供養のため、武田家ゆかりの人々によって建立されたと伝えられているが、塔の形式等から室町末期と推測されている。
花崗岩製で高さ一・八四m、塔身に四仏を表す梵字が刻まれており、塔の規模、様式から見て城主、大名級のものであるとされている。
平成六年三月 根羽村教育委員会

「信玄塚 宝篋印塔の由来」

 

キーワード:根羽の信玄塚と宝篋印塔

「横畑に至り信玄塚を問へば、道左数百歩にあり。少く山腰を登れば、石塔、並に宝篋印塔あり。前に華表を建、注連を延たり。土人に問へば、此塔を正八幡宮に祭りなし、此里の産神として毎歳八月十五日祭礼をなすと云。又、此塔、曾て今の十王堂の前、六十六部塔ある所にありしが、農夫等、其地を過れば、毎々落馬となして怪我ありし故、今の地に遷したる由、語り伝ると云へり。其地、殊に僻里にして其余伝来の説等、絶てなし。『軍艦』末書(下巻の中)に「禰は年(ねはね)の上村」と云しは「根羽の上の村」と云意にて、此横畑の地を指したるならん。濃州の上村を云にはあらず。」(美濃中津藩士・島津良介定桓が『甲陽軍艦』の故地巡りをした時の紀行文『甲鑑戦跡紀行』(弘化3年(1846)発行)より)

ドラマは、「武田信玄は、刑部砦で亡くなった」という設定のようですが、史実では、刑部砦と駒場の間のどこかです。
その1つの候補地が根羽(長野県下伊那郡根羽村)で、根羽の「信玄塚」(武田信玄の墓は、山麓の中馬街道(現・国道153号線)脇にあり、宝篋印塔がありましたが、弘化3年(1846)の時点で、この寛文年間(1661~1673)に「信玄公百年忌」(1672)記念として室町末期の形式で建立された宝篋印塔は、既に山腹の八幡社(例大祭は9/15ではなく、8/15)に移されていました。中馬街道脇にありましたが、馬に乗ったまま通り過ぎようとすると落馬して怪我するが、かといってわざわざ下馬するのは面倒なので、街道脇から現在地に移したとのことです。

弘化3年(1846)の「信玄塚」(『甲鑑戦跡紀行』挿絵)

※宝篋印塔の現在の高さは184cmであるが、明治30年(1897)に駒場の高坂氏が作らせたレプリカの高さは198cmであるので、明治期には198cmあったと考えられる。

「風林火山騎馬隊の大壁画」前にあった「信玄塚」は、道路拡張によって道路となり、現在は「六十六部塔」と一緒に「信玄塚」として道路下に再建されました。

※六十六部塔:「六十六部」とは、全国66ヶ所の霊場に「大乗妙典」(法華経)を奉納するという名目で行われた巡礼(日本廻国)、もしくは、巡礼者(六部)のことで、「六十六部塔」(廻国供養塔)には、廻国成就記念の供養塔や、廻国半ばでこの地で行き倒れた巡礼者の供養塔などがある。

山麓の根羽村指定史跡「信玄塚」

山腹の八幡社の武田信玄「宝篋印塔」

しかし、龍雲寺(長野県佐久市岩村田にある曹洞宗寺院)の境内で、昭和6年(1931)5月29日に武田信玄の遺骨が発見された時、一緒に出土した袈裟の環に「大檀越信玄公、干時天正元年4月12日於駒場卒、戦時為舎利納○北高和尚頂礼百拝」と書かれていたことなどから、
──4月12日に駒場で没
が史実のようです。(4月12日は駒場で火葬された日であり、亡くなったのは、それ以前とも。)

※本当はドラマ終了後の「直虎紀行」で紹介された恵林寺へ行きたかったのですが、遠いし、今日は24日で、次の12日まで日数があるので断念しました。(恵林寺の「武田信玄公墓所」では、4月12日が命日だとして、毎年、供養が行われています。また、「武田信玄公墓所」は、通常非公開で、毎月12日の月命日のみ特別公開されています。)

恵林寺公式サイト

 

まとめ

「信玄はいよいよ軍伍を整へ、正月、三河の野田の城に押し寄せ、激しく攻めて、終に菅沼新八郞定盈、城兵に代わりて城を開け渡すに及びて、謀りてこれを生け取しが、山家三方の人質に換へて、定盈、再び歸ることを得たり。この城攻めの時、入道、鉄炮の疵を蒙り、四月十二日、信濃國波合にて儚くなりぬ。君は、信玄が死を聞きしめし、「今の世に信玄が如く弓矢を取進す者、また有るべからず。我、若年の頃より信玄が如く弓矢を取たしと思ひたり。敵ながらも信玄が死は悅ばず惜しむべき事なり」と仰られしかば、これを聞く者、益々その寬仁大度を感じ、御家人、下が下まで、「信玄が死は惜しむべきなり」と御口眞似をせしとぞ。
此彌生頃、信康君、御甲胄はじめ有て、松平次郞右衛門重吉、これを着せ奉る。さて、御初陣の御出馬あるべしとて、田嶺の内、武節の城を責給ふに、城兵、旗色を見るよりも落うせ、足助の城兵も迯うせしかば、御初陣に二つの城を落し入れ給ひ、目出度しとて御歸城あり。やがて酒井忠次、平岩七之助親吉を大將にて遠江國天方、三河の國可久輪、 鳳來寺、六笠、一宮等の城々責 め落とす。「信玄が失せしより、はや武田が兵、勢弱りて、六か所の城々、一時に攻め抜かれたり」と世にも謳歌したりける。」(『徳川実紀』)

【大意】 武田信玄は、軍隊を整え、天正3年1月7日、刑部砦(浜松市北区細江町)から出兵して、三河国(愛知県東部地方)の野田城(新城市)を激しく攻め、2月16日、城主・菅沼定盈は、城兵の助命を条件に開城・降伏した。菅沼定盈は、捕虜として武田軍に連行されたが、3月10日、人質交換で釈放された。この野田城攻めの時、武田信玄は、伊勢山田の笛の名人・村松方久の美しい笛の音に誘われて本陣を出た時、城兵・鳥井半四郎に「信玄砲」で狙撃され、その鉄砲傷が致命傷となり、4月12日、長野県下伊那郡阿智村浪合で死んだ。武田信玄が死んだという知らせが浜松城に届くと、城兵は皆喜んだが、ただ独り、徳川家康は「戦い方のお手本となる人物を失ってしまった。嬉しいというより、惜しい」と泣いたという。その言い方が面白かったのか、身分の上下に関わらず、皆、嘘泣きしながら「嬉しいというより、惜しい」と徳川家康のモノマネをした。
その年の3月、徳川家康の長男・信康が「鎧着初め式」(普通は初陣の前日に行う)を行った。鎧を着せたのは、能見松平家当主・松平重吉であった。初陣は武節城攻めであったが、信康隊の姿を見るや、武節城はもちろん、足助城の城兵も逃げ出したので、めでたくも、一度の出陣で2城を得ることが出来た。続けて酒井忠次と平岩親吉が大将として出陣し、次々と武田軍に取られた城を取り返していったので、人々は、「武田信玄のいない武田軍は弱く、一度の出陣で6城が落城した」と噂した。

さてさて、満を持して松下虎松推参!
来週からも楽しみです!

著者:戦国未来
戦国史と古代史に興味を持ち、お城や神社巡りを趣味とする浜松在住の歴史研究家。
モットーは「本を読むだけじゃ物足りない。現地へ行きたい」行動派で、武将ジャパンで井伊直虎特集を担当している。

 

主要キャラの史実解説&キャスト!

井伊直虎(柴咲コウさん)
井伊直盛(杉本哲太さん)
新野千賀(財前直見さん)
井伊直平(前田吟さん)
南渓和尚(小林薫さん)
井伊直親(三浦春馬さん)
小野政次(高橋一生さん)
しの(貫地谷しほりさん)
瀬戸方久(ムロツヨシさん)
井伊直満(宇梶剛士さん)
小野政直(吹越満さん)
新野左馬助(苅谷俊介さん)
奥山朝利(でんでんさん)
中野直由(筧利夫さん)
龍宮小僧(ナレ・中村梅雀さん)
今川義元(春風亭昇太さん)
今川氏真(尾上松也さん)
織田信長(市川海老蔵さん)
寿桂尼(浅丘ルリ子さん)
竹千代(徳川家康・阿部サダヲさん)
築山殿(瀬名姫)(菜々緒さん)
井伊直政(菅田将暉さん)
傑山宗俊(市原隼人さん)
番外編 井伊直虎男性説
昊天宗建(小松和重さん)
佐名と関口親永(花總まりさん)
高瀬姫(高橋ひかるさん)
松下常慶(和田正人さん)
松下清景
今村藤七郎(芹澤興人さん)
㉙僧・守源

 

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